幕間 尾倉香菜の紅縁メガネ
「はあっ、今日は疲れたなぁ……」
体にバスタオルを巻いたまま、いの一番に紅縁メガネをかけた香菜が、鏡の前で深く息を吐いた。
帰宅してすぐに食べられるようにと母が夕食を用意してくれていたが、汗と土を早く洗い流したくて、先に風呂にさせてもらった。
湯船に浸かったことで疲労がより濃く感じられるものの、さっぱりした気分になったせいか思考は先ほどよりもクリアになったような気がする。
(根木君に一人で会社まで車を返しに行かせちゃって申し訳なかったかな……。今日は一番体力を使っただろうに)
彼のことは四年前の入社直後の新人研修で初めて知り、頭の回転の早い同期がいるものだと秘かに舌を巻いた。
憧れのビジネスパーソンである神崎社長の元で働けることになったのだから、自分も彼に負けてはいられない。お互いをライバルとして切磋琢磨していけば、さらなる高みへと行けるはず。
そう考えた香菜は、彼の所属する営業部門との半月に一度のミーティングで、彼と議論することを毎回楽しみにしていた。
しかしながら、神崎社長の理念を追求したい企画部門の香菜と、セミナーを商品として売り込んでいきたい根木との間に意見の食い違いが生じるのは常である。
ミーティングの度に衝突するうち、いつしか香菜の中の彼の評価は “口の立つ屁理屈男”
というネガティブなものに置き変わっていた。
けれども今日、お洒落ジャージを土で汚しつつ黙々とスコップを振るっていた根木を思い出すと、ミーティングの時だって、彼は彼の立場で全力を尽くしているのだと認めざるをえない。
(同期として尊敬できる部分はあるんだけどなあ。やっぱり子どもっぽいところもあるのよねえ……)
今日だって、野良仕事のために着替えてきた香菜を茶化したり、自分の受け持つ作業ばかり進めて何もできない(というかやろうとしない)苺子のフォローには関わってくれなかったし……。
(優秀なのは認めるし、ビジュアルも結構いい線いってるんだけどな。もう少し包容力のあるところを見せてくれれば…………って、ないない! それはない! 同年代の男の子の頼りなさには、もうこりごりなんだから)
根木に対する印象に普段とは違う色をのせそうになり、香菜は慌ててメガネの紅縁の端を押し上げ、鏡の中の自分を戒めた。
*
高校入学から大学三年生までの六年間、香菜はメガネではなくコンタクトレンズで日常生活を送っていた。
自分の容姿に自惚るつもりはないが、それでも同級生や部活の先輩、サークルの後輩など、六年間で七人の異性から告白され、そのうちの三人と交際した。
だが、いずれも一年経たないうちに自然消滅か破局に至ったのだ。
原因は、ひとえに相手が子どもっぽかったからであると香菜は分析している。
嫉妬深く、香菜が自分以外の異性と言葉を交わすことさえ許さなかった先輩。
別の大学に進んだ後、加入したサークルで深い仲の女ができたらしく、音信不通になってしまった元同級生。
盛りのついた猫のように、香菜の体ばかりを求めてくる年下の男。
もしも次の恋愛があるのなら、今度は人間としてもっと成熟した大人の男性がいい。
そして、そんな男性と出会うためには、自分も自立した大人の女性にならなければ──
見た目を変えたからといって内面まで変われるわけでないことはわかっていたけれど、自分を変えるきっかけとして、香菜はメガネを新調した。
紅縁オーバルをかけた自分を鏡で見ると、いかにも “自立した女” という雰囲気が出て、不思議と気持ちや思考までも変わってくるような気がする。
第一希望の就職先であったゼアズ・ア・ウェイ・ジャパンから見事内定をもらえたのも、この紅縁オーバルをかけて就活に臨んだおかげだと思っている。
大学四年の時からまる五年、風呂と就寝以外のときはほとんどこのメガネをかけっぱなしだけれど、今や企画部門のホープとして上司からも一目置かれ、昨年は自らの企画したセミナーが社内表彰を受けるまでに高い評価を得た。
“自立した女” という目標には、着実に近づいているという実感がある。
次はそろそろ “大人の恋愛” をしてみたい気もするが──
(神崎社長は憧れだけれど、雲の上の存在すぎて妄想することすらおこがましいよね。越川さんも聡明で、大人の男性の落ち着きがあって素敵だったなぁ……)
鏡に映る自分。
その隣に、もしも誰かが立つとしたら……。
「…………って、だからそれはないんだってばっ!」
頭に浮かんだその像を打ち消すには、ぶんぶんと首を振るだけでは足りなくて。
頭に巻いたタオルを解くと、香菜はごしごしと乱暴に髪を拭いたのだった。
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