〇・一秒のライン

亜峰ヒロ

〇・一秒のライン

 憧れた人は陸上部のエースだった。

 彼女が走ると、背中まで伸びた髪が綺麗に後ろへと流れる。緩やかな曲線を描きながら、上下に踊る髪の中に風が吸い込まれていく。真っ白なスポーツウェアは眩く輝き、夕方には、茜色のグラデーションを映す。

 美しさとは少し違う。彼女は凛々しかった。抗えないほどの引力を秘めていた。

 目を奪われ、時間を奪われ、心を奪われた。彼女のようになりたいと憧れ、彼女の背中に追いつきたいと魅せられた。運動が苦手なのに陸上部に入った私を、友人達はからかった。

「続けられるの?」

 心配の声があり、

「一ヶ月で辞めるのにハーゲンダッツ!」

 賭け事の対象にもなった。

 でも、大丈夫。彼女が前にいる限り、そこで輝いている限り、私は続けられる。辞めるなんて、自分から遠ざかるなんてしない。そこに疑いはなかった。

 一方で、陸上部での私の立ち位置は空気そのものだった。孤立していた、嘘偽りなく言えば疎まれていた。運動部とは、運動が得意な人のための場所であって、私みたいな人は望まれていなかった。

「ランニング! 十周行くよ!」

 彼女の凛とした声が、校庭グラウンドに響く。私の返事は、周りに掻き消されて聞こえなかった。

 初めこそ中盤の塊の中を走っていたけれど、一周目が終わり、二周目に差しかかる頃には最後尾に追いやられていた。いつもと同じ、変わらないパターン。

 はっ、はっ、ぜっ、ぜっ、はっ、はっ

 息はすでに荒く、鉛を巻いたかのように足は重い。地面から引き剥がす、一歩一歩が億劫で、向かい風が私の体を後ろに押す。全身が止まりたいと叫ぶのに、それでも私は着いていこうともがく。髪を振り乱して、倒れ込みそうな前傾姿勢で、視線を無理やり持ち上げ、前だけは向いて追いつこうと走る。速く、速く、もっと速く。もっと大きく、動け、走れ。

 つと、汗が目に入ったことで瞼を下ろした。一瞬、視界が途切れた。

 目を開くと、私の隣には彼女がいた。刹那、世界が静止して、その中で彼女だけが動いていた。震える眼に、彼女の姿が刻まれていく。白皙の素肌はほんのりと紅潮し、汗がキラキラと輝く。右足が地面を蹴ると土が巻き上げられ、一秒も経たずに、左足が地面から離れている。その背中に見えない翼でも生えているかのように彼女は軽やかで、誰も寄せ付けないほどに速い。影までもが彼女を追いかけているような錯覚を抱く。

 流麗な黒髪が私の頬をくすぐったのと同時に時間は流れ始め、彼女は私の前にいた。

 一周遅れ。

 彼女は速くて、私は遅い。それだけが突き付けられる。

 みんなを引っ張って走るのが彼女で、みんなから引き離されて追いかけるのが私。私はいつだって彼女の背中を見ていた。彼女の背中を、追いかけていた。

 追いつきたいと願う。彼女に追いつきたい。隣に、並びたい。追いついて、並んで、追い越したい。彼女に私の背中を見て欲しい。彼女に私の背中を追いかけて欲しい。

 ばかげた願いだと、みんなは笑うだろう。一生かけても叶わないと、みんなは言うだろう。

 それでも、彼女が前を走っている限り、私は諦めたくない。諦めたり、しない。



比奈ひな!」

 背後からかけられた声に振り向くと、息を切らせながらかえでがこちらに向かって駆けていた。

「ごめんね、遅くなって。片付けに手間取っちゃった」

 楓の頬っぺたには、絵の具が付いていた。夢中で描いていたからなのか、慌てて片付けたからなのかは分からない。

「ううん、私もシャワー浴びてて、少し遅れてたから」

 楓は「そうなの?」と首を傾げ、私は「そうだよ」と返した。

「けど、比奈も頑張るね。私達の賭けなんて全部外れちゃったもん」

 グラウンドの白線を見つめ、楓は嘆息するように漏らした。

「そんなに好きなの? あの人のこと」

「一方的な憧れだけどね。多分、先輩は私の気持ちなんてこれっぽっちも気付いてないと思うよ? ほら、眼中にないとかじゃなくて、住む世界が違うみたいな」

「虚しくならない?」

「それ、聞いちゃうの?」

 おどけたように、道化を被って、

「時々ね、寂しくはなる」

 私は平静を装って答えた。それは半分だけ本気で、半分は嘘だった。振り向いて欲しいと、私を見て欲しいと願う一方で、今の関係を心地よく感じているのも確かだった。

 見てくれなければ見てくれないほど、意識されなければ意識されないほど、たった一度でも彼女の心の中に入れたなら、私はいつまでも彼女の裡で輝いていられそうだったから。

 いつまでも、残っていられそうだから。

「それにしても、比奈ってレズだったっけ? 意外といえばそうなんだけど、比奈を見てるとさ、まるっきり恋する乙女なんだもん。変な噂たったら困るんじゃない?」

「そんなんじゃないよ。私の『好き』は憧れって意味の好きで、ラブじゃないもん」

「でも、男に興味があるわけでもないんでしょう?」

 ニヤニヤと楓は意地悪そうに目を細めた。妄想力が逞しくて、頼もしいほどだった。

「そんなんじゃないから」

 強調するとそれっぽく聞こえてしまう。まるで蒟蒻問答だった。

「まあ、私は比奈のこと応援してるよ。友達だからとかじゃなくて、一人の人間として比奈のことは尊敬してるっていうか、好きだから。それに、底辺の女の子がトップを目指すなんて夢があるじゃない?」

「無謀すぎる夢だけどね」

 苦々しい微笑を浮かべ、それでも、私達は拳を合わせた。


 次の日も私は変わらずびりっけつで、彼女は変わらずトップにいた。遠いなと心の片隅では失望しているのに、まだ追い付けると根拠のない自信を噛み締めている自分もいる。

 大丈夫。私はみんなより劣っているけれど、誰よりも優れてなんていないけれど、可能性だけは誰よりも大きい。それはきっと彼女よりも、憧れたあの人よりも。

 ランニングを走り終えただけで笑ってしまう足を奮い立たせ、百メートルレーンに急ぐ。私のような遅い選手にとって、百メートルなんて大会では勝ち目がない。百メートルは一瞬の競技。ペース配分を考える必要なんてない。がむしゃらに、息をすることも忘れて走るだけ。それは彼女が何よりも得意とする競技であり、私が何よりも苦手とする競技でもあった。

 笛の音とともに六人が一斉に走り出す。目に見える勢いで、私と五人の間が開いていく。その距離は決して縮められることはなく、縮めることはできず、私の十四秒は終わった。

 また、彼女の背中が遠ざかった。

 荒れる息を整えるのもそぞろに、もう一本走るために顔を上げ、ふと、鼻頭で一粒の雫が弾けた。

「雨?」

 訝しんで空を見上げたのも束の間、鉛を溶かし込んだような空から大粒の涙が零れ始めた。アマゾンの熱帯林にはスコールと呼ばれる暴力的な雨がある。この日の雨はまさにそんな感じだった。肌を打つ一粒一粒が重く、水の壁に遮られて僅か先の人の姿も霞んでしまう。

「外練中止! 急いで片付けて!」

 遠くから響いた彼女の声に突き動かされるように、部員は揃って校舎に向かう。その流れに一歩遅れた位置で歩きながら、私は空を見上げた。疲弊した体にとって、冷たい雨は嬉しかった。それと同時に、彼女を追いかける時間を奪われたことが憎らしかった。

「まだ、走りたかったのに……」

 それはきっと本心だったのだろう。私は濡れた体を動かした。

「今日の練習は中止、体調を崩さないように各自注意すること!」

 凛然と告げられた言葉に部員一同は返事して、濡れた体を温めようとシャワー室に急ぐ。そんな雑踏の中で、

「比奈さんは少し残ってちょうだい」

 私は彼女に呼び止められた。どうしてあんな奴がと訝しむ視線が背中に突き刺さる。

「ここは少し騒がしいわね。移動しましょう」

 言うや否やすたすたと歩き出した背中を追いかける。階段を上り、三年生の教室を通り過ぎる。校舎の端の方へ。濡れたスポーツウェアが肌にピッタリと纏わり付いて冷たい。それなのに体は妙に火照っている。彼女といるからなのか、それとも百メートルの熱がまだ残っているからなのかは分からない。

「……あのっ」

 私が声を上げた直後に彼女は立ち止まった。ずっと彼女の上履きを見つめていた私は気付くのに遅れ、彼女の背中にぶつかってしまった。

「あ、すいません」

 鼻を撫でる。彼女のしなやかな筋肉の感触が浸み込んでいた。

 彼女は私を振り返ることはせず、応えを返すこともせずに前を向いていた。それは何かに迷っているようで、その姿は何かを躊躇っているようでもあった。

「せんぱ……」

「率直に言うわ」

 予期せぬ語気の荒さに口を噤む。喉まで出かかった言葉が胃の中に落ち込んでいく感覚が、やけにありありと身に染みた。

「あなたに退部を勧める」

 私はどれほど間抜けな顔をしていただろう。彼女の言葉が理解できず、彼女の意図を理解したくない。何もかも分からないふりをしていたかった。

 湿ったゴムがリノリウムの床を擦り、キュッとした音が、雨色の廊下に寂し気に響く。

「どう、してですか?」

「大会も近付いてきて、部活はますますハードになる。他の部員とのレギュラー争いも激しくなるし、それだけに摩擦も大きくなる。だけど、それはきちんと練習について来られる部員の話なの。あなたは、今でさえついて来られていない」

 いつか告げられると思っていた言葉。明確な拒絶。それは分かり切っていたことだからショックなんて抱かないだろうと思っていたのに、どうして私の心はこんなに凍っているのか。

「わたし……頑張ります。もっと練習して、もっと、速く……なります」

 掠れた言葉で弁明する。土砂降りの心で懇願する。

「伝わっていないようだから、はっきり言うけれど」

 続けられた声を聞いたことで、唐突に理解する。

「あなたは陸上部のお荷物なの」

 どうしてこの言葉がこんなにも強く、鋭く、心に突き刺さるのか。

「部員の誰もあなたを望んでいない」

 彼女が言うからだ。

「あなたは遅い」

 憧れた人が、好きになった彼女が告げるからだ。何かがくしゃりと潰れる音が聞こえた。それは私の心なのか、彼女への憧れか、今日までの日々か。何かが消える。

「強制はしないわ。ただ、これ以上続けるというなら、それなりの覚悟を決めた方がいい」

 その言葉が何を言わんとしているのか、痺れた頭では咀嚼することもできない。

 揺れる視界の中で彼女の足が動き出した。追いかけろと脳は叫ぶのに全身が拒絶している。泥沼の底まで沈み込んでしまったように重くて、動かせない。

「比奈?」

 友人の声によろよろと首をもたげると、彼女を挟むようにして廊下の向こう側に楓がいた。私と楓の瞳が交錯した瞬間、彼女の顔がさっと色褪せた。それほどまでに、私は悲壮な表情を浮かべていたのだろうか。

「比奈に何言ったんですか?」

「退部を勧めただけだ」

 楓の貌が怒りに染まった。楓はつかつかと歩み寄り、先輩の胸元を強引に掴んだ。

「どうしてあなたがそんなことを言うの⁉」

 友人の叫びが、私の本心が鼓膜を劈く。私が言うはずだった言葉、言えなかった言葉が廊下に響き渡る。

「比奈はあなたに憧れてたのに! あんなにあなたのことが好きだったのに! どうして!」

 誰でもない私のために、楓は訴える。私を想って、怒る。

 けれど、それ以上は言わないで欲しかった。

「……私に憧れていたというなら」

 だって、何よりも、

「それは、憧れる相手を間違えただけのことよ」

 彼女からこの言葉を聞きたくなかったから。憧れまで否定されたくなかったから。

 もうこれ以上、何も聞きたくない。これ以上、彼女の前にいたくない。私は逃げるように駆け出した。狂ったように熱い瞳から、何かが零れ落ちようとしていた。


 雨に濡れる。別れの情景にぴったりな、物語の終焉にお似合いの雨に打たれる。空を見上げてもどこにも晴れ間は見えなくて、光はなくて、私の心の写し鏡みたいだった。

 雨と泥を吸い込んで重くなった靴で歩く。百メートルレーンを探して歩く。彼女の輝きが殊更に際立っていた、あの白線を探す。ふと足元を見下ろすと、ほとんど茶色になってしまった白線が、私のつま先からスッと前に伸びていた。

「ここだ」

 何を考えるでもなくクラウチングスタートの体勢を取り、パッと駆け出す。一歩、二歩、三歩。四歩目で、泥に足を取られて転んだ。

 百メートルも、走り切れない。

 私は遅い。誰よりも、遅い。

「あぁ――ッ、うあぁ……」

 小さな嗚咽を溢しながら、私は泣いた。彼女の前では堪えていた涙を、瞳から流す。ぐらぐらと揺れる心をコントロールすることはできず、誰を憎むでもなく、誰かを羨むでもなく、ただただ私が情けなかった。もう、私に彼女は見えない。彼女の背中が見えない。

「もっと走りたかった! もっと、ユメを視ていたかった!」

 叫ぶ。曖昧な言葉ではなく、心からの願いとして。

 つと、雨が止んだ。いいえ、そうじゃない。傘が差し出されたのだ。

「楓……」

「比奈、もういいよ。もう、辛いよ」

 もう終わったんだよ。楓は私に告げる。

「まだ、終わってない」

 楓の眉が顰められた。私は泥だらけの微笑を浮かべ、立ち上がる。足の震えは止んでいた。

「楓、タイム計って」

「比奈っ!」

「お願い」

 初めて自分の意思を押し通そうとした気がする。初めて誰かの瞳を見つめながら、願いを伝えた気がする。楓は悔しそうに唇を噛み締め、瞑目して天を仰いだ。

「一回だけだからね」

「ありがとう」

 息を大きく吸い込んで肺を膨らます。ゆっくりと吐き出して肺を萎ませる。深呼吸に合わせて鼓動が穏やかになり、緊張を忘れ、心がストンと落ち込む。

 目を開く。瞳に映るのは白線。どこまでも、どこまでも伸びる、果てのないライン。

 両手を肩幅に広げ、大地に着ける。両足を前後に開き、右足で大地を押して足場を固める。

 オン・ユア・マークス  セット

 持てる限りの膂力を振り絞って大地を蹴り付け、体を起こす。腕を前後に振って、背筋を伸ばして、前を向いて、前だけを見つめて、走れ。一挙一動は大きく、そして速く。息は忘れろ。胸の苦しさは忘れろ。何もかも置いていけ。影さえも置き去りにして走れ。

 ふと、目を瞠る。私の前を彼女が走っていた。何度も追いかけてきた背中が、手を伸ばせば届きそうな距離で揺れている。彼女の躍動が大地を通して伝わる。

 追いつきたいと、願う。追いつけと、我を忘れる。

 右足がぐっと沈み込んだ。親指の付け根に力が集約され、景色が切り裂けた。世界中がゆっくりと動き、時の残滓が舞い上がり、私はその中に身を躍らせた。

「タイムは⁉」

 忘れていた息を吹き返し、咆哮とともに拳を振り下ろした。

 初めて越えた、十四秒の壁。

 〇・一秒、私は彼女に近付いた。

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