思惑話

 髪を結ぶと首周りが心許こころもとない。風が首の皮膚を撫で付けるたび、彼は周囲に目を光らせることに辟易へきえきとしていた。

 祭囃子が聞こえる。馬鹿の一つ覚えみたいに騒ぐ人間がひどく滑稽こっけいだ。老人から赤子まで楽しめるものなんてこの世界に存在しない。彼らに等しく与えられてしかるべきものは恐怖だけだ。恐怖こそ人間の根源であるのだから。

 靴の先に固い感触がある。見下ろすと、ひび割れた瓶が転がっていた。加減をして蹴っても割れるだろう。避ける理由もない。案の定瓶は割れた。破片を踏み付けて進む。路地裏で猫が鳴いていた。烏の羽音もする。不愉快な気持ちを抑えつけ、彼は歩き続けた。

 住宅の開け放たれた窓から男女の言い争う声がした。佐々木ささきと彫られた表札はお世辞にも綺麗とは言いがたい。彼は窓を一瞥し、興味を失せたかのように目を逸らした。ここに用はない。

 この辺りは祭りの喧騒から外れ、『寂れた住宅街』の名を冠していた。

 人通りもなく、妖怪もいない。みな祭りに夢中なんだろう。

 この街に限らず、彼は寂れた場所を好んでいた。否、好むという表現は正しくない。好き嫌い以前の問題、言ってしまえばに近い。

 ふと、彼は足を止めた。

 突き当たりだった。眼前には金網のフェンスが張られ、その手前には立ち入り禁止の看板が置かれていた。フェンスの向こうには荒廃した裏庭があった。手入れされていない芝生の上には、月の光に反抗するかのごとく輝くガラスの破片。蝉の死骸も転がっている。視線を少し上げると、ゴミ屋敷が目に入る。つたで覆われ、壁の色は元の色がわからないほど日焼けしている。

 放置された屋敷だ。どの街にも見捨てられた土地がある。これもその一つ。

 彼は瞬きをした。夏の暑さに溶け入るように姿を消し、再び現れたときには芝生に立っていた。ちらと背後に目をやると金網のフェンスが道を塞いでいる。彼は前に目を向け、右手の白い手袋の様子を確かめた。指先までしっかり覆われていることを確認すると、そのまま身を屈め、芝生に触れる。慣れた手つきだった。彼は手袋越しにそれを掴み、上に持ち上げる。ギィと音が鳴った。

 隠し扉が開かれ、階段が現れる。地下へと続く暗闇の階段は、彼の訪れを待ち望んでいたかのようだった。

 扉を閉めると、暗闇はいっそう深くなった。月の光も届かない巣窟だ。

 階段を下りて通路を歩く。彼の目は闇に染まりきっていた。

 通路の先に扉があった。重厚な扉は中央に鍵穴がある。彼は外套のポケットを探った。

 取り出したのは鍵ではなかった。

 扉を開ける前に、もう一度確認すべきことがあったのだ。

 手にしたそれは仄かに光っている。紫色の光は暗闇の中を明るくするには物足りず、むしろ相性が悪いとすら思えた。

 紫の石の破片をめ込んだ簪。

 必要なのは石の破片のみ。

 彼は再び簪をポケットにしまい、今度はふところから鍵を取り出した。

 鍵穴に挿し込む。

 彼は扉を開け、通路より暗い——底知れない深淵の闇に、その身を沈めていった。

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夢現な日没 凩玲依 @rei0624

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