第7章 紅い花に囚われる

 はじめは、妙な目をすると思った。

 泥の中に埋もれて身動きが取れず、必死にもがいている。もがけばもがくほど、まるで蟻地獄のように足を取られて、地上の空を拝むことができない。ずっと暗くて冷たい土の中にいる。突然僕の前に現れた鬼は、そんな目をしていた。

 考えすぎかもしれない。妖怪は妖怪だ。僕とは相容れない存在。

 敵なのだから。

 それから少し経って、僕の周りにまた妖怪が増えた。今度は烏天狗と狐。荒んだ暗さを剥き出しにしていた鬼の目は、彼らと言葉を交えてから、変わった。だけど、やっぱり奥底にあるどんよりとした黒が消えない。

 何かしてあげたい、なんて馬鹿げた考えは浮かばない。むしろ、ずっとそのまま苦しんでいればいいとさえ思った。

 僕や弟を襲ったあの妖怪は、僕ら家族に影として付き纏った。この鬼がと違うことは分かっている。理解と感情は程遠いのだ。僕は『妖怪』という全てが許せない、大嫌いだ。だから、違うと知ってはいても、僕がこの鬼と仲良くなることはないだろうと思っていた。それこそ一生、あり得ないことだと。

 鬼の家族だと名乗る烏天狗や狐が語った鬼の事情とやらも、僕には関係ない。過去何があったかを知ったところで、僕のこの気持ちは、妖怪が存在する以上消えることはない。僕とこの鬼は、一時の協力関係みたいなもの。お互いが深く詮索しないことで成り立っているのだ。

 そんな中、ためらいが生まれたのは、七夕の日。

 あの日鬼は涙を流していた。妙な寝言を呟きながら、閉ざされた瞼の向こうで夢でも見ていたのだろう。きっと鬼にとって忘れられない記憶。そうでなければ泣いたりなんてしない。

 僕は鬼の事情を知っていた。

 

 そして、生涯添い遂げることはなく、鬼の愛する人はで命を落としたと。

 語ってくれたのは烏天狗と狐。鬼本人からは何も聞いてない。だけど恐らく彼は僕が知ってることに気付いている。

 話を聞いて芽生えたのは同情ではなかった。だけど、そんな気持ちが全くなかったと言えばきっと嘘になる。

 僕はその日を境に少しだけ妖怪を見る目を変えた。意識的にやった。見方を変えようとした。彼らに心を許しかけたこともあった。鬼の名を呼ぶことだって躊躇がなくなったのだ、効果はあった。

 だけど。

 『目』を変えたところで、僕は変われなかった。

 異形を映す呪いの目。忌々しい体質。

 何度も。何度も。数えきれないくらい。

 この目を抉り出して、きれいさっぱり洗い流したいと思った。叶うならば、どうか普通の目にしてくれ。他の人とは違う世界をまざまざと見せつけてくるこの目があるから僕は。

 ——呪いは僕の目そのものだ。そう思ったとき、耐えきれなくて僕は自分の目を呪い続け、もう何が呪いなのかわからなくなってしまった。

 



 1

   # # #


 数日の間に色々なことが起こった。

 戒里さんと鎌鼬の攻防、紅花神社での一悶着、ベニバナサマの異空間に閉じ込められたこと、コウカとの出会い。他にも、月森君の目が見えないことや、戒里さんの傷、私の右腕の傷、そして攫われた大勢の妖怪と、人間の子供たち。

 私たちは異空間という現実世界から切り離されたこの場所に、どれほどの時間、身を置いているのだろう。人でない者とそうである者の違いが曖昧に思える。この出来事は、いや事件は、誰もが被害者になり得るのではないかとさえ考えてしまう。

 疲れてるのかな。線引きがうまくいかない。

 私は瞬きをして、なんとか頭を切り替えようとした。

 数々の鳥籠のような檻。その中に生き物が眠っている。誰か一人でも寝言を言っていれば、それだけで少し緊張が和らぐだろうに。残念ながら、恐ろしい寝言も可愛らしい寝言もない。ただただ寂しいくらいに静かだ。異様な静寂の中、戒里さんたちはまだ話をしている。聞かせないようにしているのか、その声は小さい。

 静寂の中、囁きかけるように妙な音がする。からん、からん。しゃらん、しゃらん。眠気を誘う霞がかった音。ここまで来ると流石にわかる。ベニバナサマが関わっているのだ。前は意識を失って、気付いたときにはすでに格子牢に入れられた後だった。二回目は異空間から脱出しようとしたとき。しかしあれは、コウカが口遊んでいただけだった。何にしても、あまり良いとは言えない兆しの音色だ。

 「なあ」

 目の見えない月森君はなるべく私のそばから離れないようにしている。それが最善であると思っているような気がする。自分が迷惑をかけず、かつ私が変に動き回らないように注意するため。想像に過ぎないが、私にはそう思えてならなかった。出会ったときの月森君と今の月森君は違う。何かが根本的にズレているような。

 「雨水はこれからどうなると思う?」

 「ここから出られるんじゃないかな」

 そうでなければ終わりだ。

 「本当にそう思うか? ベニバナサマはどこまでも追ってくるのに。ここから逃げて、それでも無事でいられる保証はないんだ」

 月森君が戒里さんたちに目をやる。

 「……確かにそうかもしれないね」

 『外』も決して安全とは言えない。夜雨さんやルカさんから聞いた話によると、百鬼夜行なるものが行われるという。魑魅魍魎が列を連ねてやって来る。よりにもよってベニバナサマがいる街に。何てタイミングが良いことだ。ベニバナサマが最初からそれを図っていたのだと言われても不思議ではないし、囚われている妖怪の姿がその裏付けになっている。

 「でも、大丈夫だよ。私たちには強い味方がいるんだよ」

 スラスラと言葉が出てくる。まるで小説に出てくる善人のキャラクターの台詞だ。

 こんな言葉が、一体何になると言うのか。

 「味方……」

 月森君はそれきり黙ってしまった。

 彼の事情は少しだけ戒里さんから聞いている。ベニバナサマが彼を狙っていること。ただでさえ視覚を失っているのだ、月森君はここから出た方が安全。

 躊躇うことはない。私もこのまま外に出ればいい。

 話がまとまったのだろう、戒里さんたちがやって来た。

 「嬢ちゃん、一翔、今からここを出るぜ」

 「どうやって?」

 月森君が無表情のまま尋ねた。

 「良い道具があンだよ。雅が扉を作ってくれる。二人はそこから『外』に行くんだ。分かったかァ?」

 「捕まってる子はどうするんですか?」

 「問題ねェよ。全員連れていく。心配すんな、お前たちは早く元の世界へ戻れよォ」

 宮原先生こと雅さんが私と月森君を手招く。

 「外で死神が待機してる。佐々木も君たちを心配してる。本当に、巻き込んでしまってすまないね」

 雅さんが私と月森君の頭を撫でた。思えば、雅さんはずっと申し訳なさそうな顔をしていた。

 「気にしないでください」

 「……ありがとう。さ、行くよ」

 雅さんが空っぽの、天井に届くほど大きな鳥籠に近付いて、どこからともなく取り出した白い紙を、鳥籠の入り口に貼り付けた。

 よく見ると、白い紙には文字が書かれている。

 私が文字を読み取る前に、紙が淡く光りながら塵となっていき、瞬く間になくなった。

 雅さんが鳥籠の取っ手を掴む。開かれた入り口。

 「……?」

 その先にあったのは、鳥籠の中ではなかった。生暖かい風が吹き込んでくる。

 『外』だ。公園だろうか、手入れされた芝生が広がっている。

 雅さんが『外』を指さして、あっちに行くんだよ、と私たちを促す。

 私は異空間と『外』との境を踏み越える前に、後ろを振り返った。

 戒里さん。夜雨さん。そして雅さんは、異空間に残ってベニバナサマと対峙するつもりなんだろう。

 私に縋ってきた少女の声が蘇る。彼女はどうなるんだろう。

 寝息を立てる、囚われた妖怪。攫われた子供たち。

 顔色の悪い月森君。

 ぎゅっと目を瞑る。覚悟を決めた。

 私は再び前を向いて、境界線を超えた。

 夏の暑さが体温を一気に上げていく。蝉の声が耳をつんざくようだ。眠気を誘う妙な音も消えて、私はようやく元の世界に戻ったのだと実感した。


   * * *


 「おーい!」

 近所の親父さんがこちらに走ってくる。

 月森の父親と弟の浩太は、声の方向に顔を向けた。俺も一拍遅れて親父さんを見る。

 「子供たちが……!」

 言いかけて咳き込む。全力で走ってきたようだ。額から汗が流れる。

 「どうしたんですか!」

 月森の父親が尋ねた。子供の安否を心配しているのがひしひしと伝わってくる。浩太が父親の服の裾を不安げに掴んだ。

 息を落ち着かせた親父さんは、自分が走ってきた方向を指さして言った。

 「行方不明だった子供たちが見つかったんだよ!」

 「本当ですか! 一体どこで……⁉︎」

 「公園だよ! 公園のベンチでみんな眠っていたんだ!」

 「じゃ、じゃあ、全員見つかったんですか? 一翔は⁉︎ うちの子は無事ですか⁉︎」

 月森の父親が親父さんの肩をがしっと掴んだ。

 「す、すまん。まだ誰がいるのか確認が取れてなくてな。ともかくあんたも行ってみるといい。昨日の公園だ」

 俺は他の人にも伝えてくる! と親父さんはまた走って行った。

 月森の父親が浩太の手を握った後、俺に尋ねてきた。

 「君も行かないか?」

 心配と不安と、あと何だろう。色んな感情をないまぜにした表情が、早く息子のところへ駆けつけたいと物語っている。

 チクりと胸に針を刺されている気分だ。

 「俺はここにいます」

 背後で死神さんがため息をついたのが分かった。俺は無視して、月森の家族と向かい合う。

 「俺、ここで親と待ち合わせてるんです。だから大丈夫です。居なくなった子たちも見つかったんだし」

 苦し紛れに嘘を吐いた。押し問答のようになったが、最終的には月森の父親が折れてくれた。

 「波瑠ちゃんも気をつけてね」

 浩太に手を振り返し、遠ざかる二人の背を見送った俺は、どっと脱力感に包まれてしゃがみ込んだ。

 死神さんが隣に来て言った。

 「キミは本当に難儀な子だね」

 嫌味なほど綺麗に笑う死神さんを睨む。ルカがいたら。ついそんなことを考えてしまう自分にまた落ち込んだ。

 「……見つかったって」

 考えるよりも先に言っていた。

 死神さんはそれだけで俺の気持ちを察したのか、波風立たない調子で応える。

 「良かったね。おじさんのあの様子からして、危害を加えられた子はいなさそうだったし」

 じゃあみんなは?

 咄嗟に呑み込んだ。

 俺と同じ、ただの人間である雨水さん、月森。作戦通りなら、しばらくここには戻ってこない悪魔のルカと妖怪の三人。鬼である戒里さんの行方は分かったのだろうか。烏天狗の夜雨さんと狐の宮原先生は雨水さんたちと合流できたのか。死神さんは心配じゃねえの?

 死神さんが呼びかけるまで、俺はいつまでも座り込んでいた。

 「波瑠チャン」名前で呼ばれたのは初めてな気がする。「音がするよ」

 立ち上がり、耳を澄ました。

 待ちわびた『扉』の合図かと思ったが、違った。

 何の音だ? 足音。話し声。うるさい蝉の鳴き声に掻き消されている。上手く聞き取れなかった。

 「どこから聞こえてくるんだ?」

 死神さんを仰ぎ見ると、「黙って」と言うように口元で人差し指を立てる。その指がそのまま、石段とは真逆の方向を指し示した。紅花神社の鳥居と対角線上にある道。ついさっき月森の父親と浩太が走っていった方だ。

 死神さんが俺に何か言いたげな目を向けてきた。彼の口元を見ても、何かを言い出す気配はない。

 何だよ。

 何が言いたいんだ。

 ふいっと逸らされた目が僅かに見開かれたのが分かった。

 音が大きくなっていく。

 騒然とした悲鳴。

 「助けてくれ!」「何が起きてるんだ!」「化け物だあ!!」

 何人もの人が駆けてくる。

 それらを追うように、声にならない呻き声のようなものが聞こえてきた。まるで幼い子供が怪我をして苦しんでいるような。

 目を凝らしてみて、俺はゾッとした。

 小さい頃にテレビで見たゾンビの群れを思い出す。項垂れて、無気力さながらに歩いてくる。人を襲う意思だけが原動力であり、相手がどんなに屈強であろうとも、その身体に牙を剥く。

 逃げろ! 大声を上げる大人たち。その中には月森の父親と浩太もいた。彼らの後ろから迫ってくるのは、小さい子どもたち。ぶつぶつ呟き、時には呻き声をあげて、ゆっくりと近づいて来る。

 ゾンビ。亡霊。俺は堪らず後退った。

 「し、死神さん! 何が起こってんだ⁉︎」

 「分からない。分からないけど、ベニバナサマの仕業だろうね」

 死神さんも焦っているように見えた。

 「攫われた子たちだよ。変な術にでもかけられていたみたいだ」

 「こっちに来るぞ!」

 「あの子は」死神さんが呟く。「さっきまで気配がなかったのに。まさかあの子も」

 迫ってくる。逃げてきただろう大人たちが。不穏な足音までも急かすように響いてくる。

 子どもの一人が前を走る男に追いついた。逃げ惑うその背に、少年のちまっとした手が伸びていた。触れる。男が立ち止まる。男は口を半開きにし、何かを呟き始めた。緩慢に口が動く。ぶつぶつ。目に光はない。

 少女の手が、赤ん坊を抱く女の腕を掴んだ。叫ぶよりも早く、彼女の口から言葉が出てくる。聞き取れない、蝉の音と混ざって耳が痛い。彼女の瞳は虚ろで、その腕に抱かれた赤ん坊は泣きもせずじっと虚空を見つめている。

 少年がおばさんに触れる。

 少女の手が青年に近づく。

 小さな手が背に触れる度に犠牲者が増える。

 「地獄だ」

 俺はまた一歩後ろに下がった。

 助けを求めてこちらに走ってくる人々。その半数以上がゾンビのように変えられてしまった。

 俺は石段の上に駆け上がろうとした。そうしなければ逃げ場がない。だが石段の上も紅花神社の社があるだけで、四方八方木に囲まれている。逃げ込める場所なんて最初からなかった。

 死神さんが俺を後方へ追いやった。

 気がつけば、左右の道からもゆっくりと住人が近づいて来ていた。彼らは一様に何事かを口にして、こちらに向かってくる。見知った顔もある。この街全体がゾンビの街にでもなったみたいだ。

 「何なんだ……っ。みんな操られてんのか?」

 現実だとは思えない。

 それでも俺たちは今、彼らに追い詰められている。

 両足で立っているのが不思議なくらいだ。情けないほど足が震え、真夏の中で寒気を感じて腕をさする。

 庇ってくれてるのか、死神さんの背を見て俺は安心しようとした。でも出来なかった。

 「ベニバナサマのため……あのお方が待っている……捕まえねば」

 するりと耳に入ってくる。ぶつぶつ呟く複数の声が折り重なる。彼らは同じ言葉をただただ吐き続ける。

 ふと気付く。死神さんがぼんやりしている。

 「な、なあ」

 死神さんがゾンビになるわけない。だってまだ触れられてない。

 「死神さん。どうしたんだよ、なあ」

 反応がない。顔が真っ青だ。

 俺が死神さんに気を取られていると、すぐそこに大きな手が迫ってきた。

 息を呑む。脳裏に過った景色が目の前を塗り替えていく。

 電気もつけていない暗い部屋で、父さんの冷たい目が俺を見下ろしている。怒鳴りつけられる。父さんの足が俺の腹にめり込む。咳き込む俺に、ゴツゴツとした大きな手が容赦なく振り下ろされる。痛み。痛み。痛み。ごめんなさい。自分の謝る声まで聞こえてくるようだ。

 一瞬、現実がどっちなのか分からなくなった。俺は今どこにいる。何が。どうなって。ルカは?

 瞬きをした。大きな手が眼前にあった。変わり果てた住人。

 避けられない。

 俺は頭が真っ白になった。

 その時だ。

 いきなり、聞いたことのある音が全ての音を打ち消した。もはや鐘と言っていいほど周囲に響いた、鈴の音。

 合図。

 俺は素早く死神さんに教えられた通りに動いた。仕掛けていた装置に手をかける。

 茹だるような夏の暑さが一気に吹っ飛んだ。

 澄んだ空気が肌を撫で付ける。背後で数多くの足音がやむ。何が起こったのか確認しようとした。それを妨げるように、死神さんが声を張った。

 「沙夜!」

 見上げた死神さんの視線の向こう。鳥居の前に雨水さんだけが立っていた。


   # # #


 駆けつけてくる死神さんと佐々木さんを見て、私はほっとしたような気持ちになった。まだざわつく心臓を宥められない。伝えなければいけないことがあるのに、言葉がぐるぐると漂う。うまくまとまらない。少し待ってほしい、と呟く。二人に届いたかはわからない。混乱した脳内が、順序立てて話せるようにと、思考を促し始めるのに時間がかかった。

 「沙夜、無事で良かったよ」

 死神さんの冷たい手が肩に触れる。温度は冷たいはずなのに、温もりが伝わってくる。

 「ほんとに心配した」

 佐々木さんが眉を下げている。微かに震えている手足。石段の下では、住人たちが結界に阻まれて歩みを止めている。けれども彼らの合唱が聞こえてくるようだ。「あの方の元へ」「捕まえなければ」、じっと黒い目がいくつもこちらを見上げている。

 鳥肌が立った。

 場所を変えよう、と言い出したのは死神さんだった。

 どこへ。問うたのは佐々木さん。

 結界の外へ出たら彼らは問答無用で捕まえにくる。言葉は通じない。ベニバナサマに操られているのだから。紅花神社の内側、社があるこの場所だけが、身を守る唯一の場所だった。

 「社の中に行こう。きっと狭いだろうけど、そこならボクが守ってあげられる」

 「ベニバナサマと戦うのか?」

 「まさか。ボクは戦闘に向いてないんだ。違う方法をとるよ」

 それ以上は語らず、死神さんは私の両肩を優しく押した。

 私たちが社に入ったとき、目にしたのはがらんとした木目の小部屋だった。装飾品はない。雨風を凌げるほどではあるけれど、ところどころ修繕が追いついていないらしく、天井と床に雨漏りの跡があった。蝉の死骸が隅っこに落ちている。掃除や管理は行き届いていないように見受けられた。座布団もないため、私たちはその場に立ったままだった。

 「腕、怪我したんだな。その、痛くねえか?」

 心配そうに尋ねる佐々木さんに、大丈夫と返す。すると死神さんがいつになく悲痛な顔で私の頭を撫でた。無言のままなのが調子狂う。こんなときこそ軽快な態度をとってほしいものだが、それはそれで調子が狂いそうだったから、大人しくされるがままになった。

 やがて蝉の声が耳に馴染んできた。

 「何があったの」

 事情を話そうと、私は重たい口を開いた。

 「計画は失敗です」



 元の世界へ戻れたと確信したあと、私は振り返った。

 雅さんが作った『扉』の前に月森君が立っている。

 こちらから見ると、『扉』は小さかった。ボロボロの木の扉が右横にある。壁面に正方形の突起があった。マーク。トイレか、とようやく気付いた。『扉』の大きさが違っても繋がるなんて不思議だ。しかしトイレから出てくるのは少し、いやだいぶ不本意だ。

 人気のない公園の芝生が風にゆらゆら揺られている。草の匂い。蝉。蒸し暑さ。じわじわと足元から熱が伝わってくる。日差しはそれほど強くない。まだ昼ではないのだろうか。外へ出ても時間の感覚は曖昧だった。

 「月森、君も行くんだ」

 雅さんの声がした。月森君の後ろにいる。

 二人の背後では、戒里さんと夜雨さんが囚われた子どもたちの鳥籠に近づいていた。鍵の近くをガチャガチャと触って、開かないと分かるとそのまま実力行使に出た。ドンっと体当たりする音が大きく響く。

 「二人とも! あまり大きな音を出さないで。奴らに気付かれる」

 雅さんが注意すると、少しだけ音が小さくなった。

 「……」

 月森君が立っている。その足が動く気配はない。

 戒里さんと夜雨さんが体当たりをやめた。今度は力任せに鳥籠の棒部分を掴んで、それぞれ左右に引っ張る。ギィと鳴った鳥籠。そのまま二人で棒を引っ張り続けて、とうとう人が一人入れるくらいの隙間が出来た。

 「月森君?」

 ぴくりと彼の指が震えた。

 戒里さんが鳥籠の中に入った。眠る子どもを一人ずつ隙間から運ぶ。夜雨さんが子どもを抱いて、丁寧に地面に下ろした。

 雅さんが呼ばれた。私と月森君が向かい合った状態で取り残される。

 「……どうしたの?」

 胸騒ぎ。彼の目には何も映っていない。

 もふもふとした黄金色の美しい毛並み。雅さんが大きな狐に変貌していた。彼女の背に子どもたちを乗せていく。万が一にでも落下しないように、優しく、注意深く。テレポートと言われるような現象や魔法みたいに、全員を一瞬で運ぶことは出来ないんだなとぼんやり思った。

 そういえば、眠っている子どもたちはどうやって異空間へ連れ去られたのだろう。

 「ここを出ても変わらない」

 月森君が言った。

 「僕は戻らない」

 耳を疑った。信じられなくて月森君を見る。どうしたって目は合わないし、こっちの表情がその目に映ることもない。それがどうしようもなくもどかしく感じた。

 「……どうして?」

 戒里さんたちはまだ気付いていない。私は月森君に一歩近づいた。境界線が目に見えるようだ。

 「雨水は信じてるのか。妖怪がどんなやつか、知らないだろ。戒里は味方でベニバナサマは敵だって? そんなのおかしいだろ」

 「でも戒里さんたちは」

 月森君が私の言葉を遮る。

 「。妖怪は人間と違う。

 思わず黙り込んだ私に、月森君は続ける。

 「僕は人間だ。人間で、まだ小学生で、大人になんかなれやしない。僕にはどうしたって割り切れない。なんで戒里たちが別だって思えるんだよ、そんなわけないだろ! あいつの過去なんて知るかよ! 同情してたまるか。妖怪のせいで僕がどんな思いをしてきたか……っ」

 三年前の話が脳裏に過ぎる。月森君とその弟二人がベニバナサマに襲われた事件。あれからずっと月森君だけが狙われている。

 「僕は、もう、だめなんだ。何も出来る気がしない。口だけが達者で、家族を守ることすら叶わない」

 一転して平坦な声。それが恐ろしくて、咄嗟に月森君の手首を掴んだ。

 騒ぎに気付いたらしい、六つの目がこっちを見ている。

 ばしっと手を振り払われた。ぐちゃぐちゃに歪んだ顔。

 「……妖怪には、勝てっこないんだよ」

 月森君は背を向けて走り出した。見えていないはずなのに足取りはしっかりしていて、彼には私が感じ取れない何かを辿って足を動かしているようだった。

 「待って、待って月森君!」

 私は再び境界線を超えた。異空間に入った瞬間、体に纏わりついていた熱気が消え失せる。ジクジクと腕の傷が疼いて、あまりの痛さに意識が引っ張られ、立っていられなくなる。戒里さんが妖気がどうとかって言ってた。だからこんなに痛いの? 分からない、だけど月森君を追わないと。

 「お、おい!!」

 「一翔、どこ行く気だァ!」

 「戒里、あの子を追って!」

 「わァってるよ!」

 戒里さんが月森君の後を追いかける。しかしすぐに立ち止まった。立ち止まらざるを得なかった。

 猫又が現れたからだ。

 「——言ったろう。逃れられぬと」

 月森君の姿が見えなくなる。

 戒里さんが猫又を睨みつけた。

 「てっめェ! 一翔をどうする気だァ!」

 「全くうるさい奴よ。答えなどとうに知っているだろう。あのお方に献上するのだ。それ以外に理由などない」

 二つの尾が揺れた。

 また、あの音が聞こえる。カラン、カラン、シャラン、シャラン。

 「その娘も捨て置け。我が主は小娘もご所望だ。——ふむ。狐に乗せ奪還か? 私が連れて来た子らであるぞ。置いて行ってもらわねばならぬ」

 こちらが何をしようとしているのか筒抜けらしい。

 夜雨さんが叫んだ。

 「雅! 子供たちを外へ!」

 狐の尾が大きく揺れて、彼女は『扉』に突進していった。いつの間にか夜雨さんに抱えられていた私は、大きくなっていく不吉な音に耳を塞いだ。カラン、カラン。シャラン、シャラン。顔を歪めたことに夜雨さんが気付いたらしい。

 「すまない、まさか君もベニバナサマに狙われているとは思わなかった。雅が『扉』から戻ったら、一緒に君も外へ出るんだ。いいな?」

 怖がっていると思われたようだ。早口で言い聞かせる。何とか聞き取った私はコクコクと頷いた。

 雅さんが戻ってきた。夜雨さんの腕から下ろされて、私は彼女の元へ走った。

 「させぬ」

 戒里さんの牽制を掻い潜って猫又が私の前に立ちはだかった。普通の猫より少し大きい体躯。ギラリと光る目が私の足をその場に縫い付ける。全身の血が凍っていくような感覚。

 夜雨さんが錫杖を勢いよく振り下ろした。狐姿の雅さんも九つの尾をしならせ、猫又を弾き飛ばそうとしていた。猫又は二人の攻撃を器用に避ける。そのまま軽やかなステップを踏むみたいに、『扉』に向かって爪を立てた。

 金属が破壊されるような音がして、思わず目を瞑った。色々な音が耳の奥で反響して頭が痛くなる。

 目を開けると鳥籠が壊れていた。『扉』が消えている。

 グルルと獣が呻く。雅さんだ。猫又に飛びかかっていくが、攻撃は当たらない。

 「この子は関係ないだろう!」

 夜雨さんが錫杖を構えて言った。私を庇った態勢。守られていると思うより先に、足手纏いになっていることを自覚する。

 上から不気味な笑い声が降ってきた。猫又の姿が見えない。隠れている。

 どこ行きやがったァ、と戒里さんが舌打ちをする。

 「まだつまらぬことを言うか。あのお方が望むゆえ連れていく。ただそれだけぞ」

 「一翔を返せクソ猫野郎!」

 「返すも何もあやつは自分から逃げたのだ」

 「てめェがまたなんかしたんじゃねェのかよ⁉︎」

 「知らぬ。それより良いのか? 小娘が苦しんでおるぞ」

 痛い。頭が割れるように痛い。音のせいだ。カラン、シャラン、カラン、シャラン、カラン、シャラン。絶え間なく響く。睡魔が思考を妨げる。私は何をしているのだろう。ぼんやりとしてきた。

 「この子に何をした」

 夜雨さんのこえ。

 「答えろ!」

 さけんでいる?

 「ふむ。思ったより時間がかかったな。イイコトを教えてやろう」

 これはだれがしゃべってるんだろう。

 「外で起きていることを知っているか? その様子じゃあ知らぬだろうな。先刻九尾の狐が人間の子を逃しただろう。ちょうどあちらで目を覚ましている頃だ」

 「それがどうした」

 「妙だと思わぬか。私が人の子をただ連れて来て眠らせ、閉じ込めているだけだと? お前たちの思うままに逃したと? 笑止千万。

 「てめェ、まさか!」

 「邪鬼よ。お前ならば判るだろうと思っていたぞ。“傀儡術“! とうに潰えたとされる秘術。あのお方が私に授けてくださった、まさに禁忌の歴史! これほどまでに素晴らしい術を私はついぞ知らなかった。全てあの方のお力添えがあってこそ!」

 破壊音。大きな鳥籠が壊れた。

 「此奴らは特に捕まえるのに苦労した。凶暴で手がつけられぬ。お前たちの相手にはちょうど良かろう」

 霞む視界に映る。黒い影が天井にまで伸びている。巨体。妖怪。

 また破壊音。壊れた鳥籠。

 破壊音。バラバラになった鳥籠の破片が転がってきた。

 「すみれ堂だったか? 烏天狗よ。急がねばお前の大切な人間が餌食になるぞ」

 「やめろ!! 彼女は、すみれ堂の者は関係ない! 手を出すな!」

 頭が痛い。もふもふとした柔らかいものが背に当たる。目をやると、黄金色が傍にいた。

 「雨水、雨水。聞こえるかい。聞こえたら頷いて」

 ドォオンと地面が揺れる。何が起きているのかよくわからない。音が。痛い。痛い。うるさい。

 「さあ娘を渡せ!」

 「どういう仕掛けだァ? あの術は儀式をしねェと使えねェはず! これだけの数相手にあり得ねェ! ベニバナサマはてめェに何を施した⁉︎」

 「邪鬼の分際で軽々しくあの方の名を口にするなッ! いいから娘を渡せと言っている!」

 地響き。

 「雨水。聞こえてないのかい」

 なに。よばれている。だれ。痛い。あたまが。うで、みみが。だんだんどこが痛いのかもわからなくなってくる。耳鳴りが止まらない。

 「雅! その子と一緒に行ってくれ! まだ合図が送れていない、あっちで鈴を鳴らすんだ!」

 「『扉』は⁉︎」

 「もう作ったァ! 壊される前に急げ!」

 体が浮いた。

 黄金色が消えている。人肌のぬくもり。また、抱えられているのか。

 「夜雨。俺ァ、どうすればいい? 一翔を守らなきゃならねェ。でも、そうすると、夜雨の恩人が……」

 「言うな。……頼む。オレたちの目的は一つだ。全てを終わらせるためにここにいる。これは天狗様の意向でもあるのだから」

 「……わァったよ」

 だれが話してるの。聞こえない、うるさい、もう嫌だ。

 「オレは一翔を追いかける」

 「足止めは任せろ。今度こそ邪魔はさせない」

 半分閉じかけた目がついに耐えきれず塞がった。

 「雅ィ、急げ!」

 「わかってる! すぐに戻るから、くれぐれも死なないようにするんだよ!」

 「はっ。オレ様を誰だと思ってンだァ。そう簡単にやられねェよ」

 「邪魔ばかりしおって……ッ。おい、やれ!!」

 「くっ……それはこっちの台詞だ!」

 会話。破壊音。衝突音。重い足音。何かを切り裂くような音。カラン、カラン、シャラン、シャラン。いつまでも鳴り響く音。

 眩しい。光。閉じた瞼の向こうで何かが起きている。



 ——。



 音が消えた。ふっと体温が上がる。頭痛が和らいでいく。

 耳鳴りが止んだ。ベニバナサマを象徴とするような、あの音が聞こえなくなっている。叫ぶような声も、破壊の音も、何もかもが消えている。代わりに聞こえるのは蝉の合唱。

 それでも静かだと思った。

 がしっと両肩を掴まれる。

 「雨水、しっかりしてくれ! 聞こえるか? 目を開けるんだ」

 言われた通り瞼を持ち上げた。傷だらけの雅さんがこちらを覗き込んでいる。

 「ああ良かった! 大丈夫だね? 今から言うことを死神に伝えるんだ。すまない、もう少しだけ巻き込んでしまうが」

 口を挟む余地もなく、雅さんが言った。

 「計画は失敗だ。このままだと人も妖もみんな奴らの餌食になる。逃れられない。百鬼夜行が行われるのは今夜だ! それまでに奴らと決着をつける。異空間でベニバナサマと戦う。もうそれしか方法はない。時間がないんだ。どうなるか分からない。もしかしたら二度と戻って来れなくなるかもしれない。異空間が壊れたら、中にいるあたしらも囚われたあやかしも助からないだろう。だけど、だけどせめて月森だけは必ず連れて帰る! 子どもたちにかけられた妙な術の解き方も必ず見つけ出す! それでももし。もしもあたしらが何も果たせなかったそのときは」

 どうかこの街を救ってくれ。

 切羽詰まった状況であることはすぐにわかった。何があった? あの場にいたのに私は何も見ていない。

 「天狗様の意向……きっと烏天狗が大勢、応援にやってくる。彼らへの伝言を死神に伝えてほしいんだ。君しか出来ない」

 雅さんが懐から鈴を取り出す。思い切り振る。小さな鈴なのに、澄んだ音は空気を揺るがすほど響いた。ついで暑さが拭われたような清々しさが広がる。

 「なに、分かりません。私はどうしたら」

 混乱した頭で考える。術をかけられた子たち。囚われた妖怪。操られた妖怪。自ら脱出を選ばなかった月森君。猫又。鎌鼬。百鬼夜行。ベニバナサマと戦い、命を落としたら。全ての希望がなくなったときこの街はどうなる? 想像するだけでもゾッとした。

 「伝えるだけでいい。結界が張られた。ここらは安全だ。何があっても結界の外へ出てはいけない」

 雅さんが私の背を押した。賽銭箱。鳥居。目に入った景色にやっと理解が追いつく。紅花神社にいるのだ。

 「すまない。あたしは戻らないと。死神が近くにいるはずだ。頼んだよ」

 ばっと後ろを見た。もうそこに雅さんはいなかった。閉ざされた社の入り口。

 私は絡れそうになる足を動かして、鳥居の前で立ち止まった。

 石段の下に見覚えのある銀色。

 「沙夜!」

 死神さんだ。

 けれど声よりも先に眼下の光景に視線を引きつけられる。

 「捕まえなければ」「あの方のために」「全てを捧げるのだ」

 虚ろな目と目が合った。

 ——どうかこの街を救ってくれ。

 変わり果てた住人の目に希望はない。


 2

   # # #


 「巻き込んですまないねって、本当にどの口が言うんだ。今更すぎる! 沙夜をこんな目に遭わせるなんて!」

 死神さんが憤った。

 「私は大丈夫です」

 今は怪我の痛みが落ち着いている。

 異空間でのことを語り終えて、私は考えていた。ベニバナサマと戦うと言った雅さん。ベニバナサマを殺すと言った戒里さん。守ってくれた夜雨さん。こちらに背を向けた月森君。操られている住民のみんな。日没まで十分に時間は残されていない。事態は深刻だ。悪い方向にばかり転がっていく。

 何より私は、私に助けを求めてきた少女のことが忘れられない。

 「それでどうするんだ」

 佐々木さんが切り出す。

 「結界の中は安全ってことは、ゾンビみたいになってない人もここに避難させるべきなんじゃ……」

 「いや」

 死神さんは鳥居がある方向に顔を向けた。

 「きっと手遅れだよ。あの早さで術にかけられてるんだ。この街だけで被害が留まるとは思えない。こう言っちゃあアレだけど、キミたちの家族も無事ではすまないね」

 「家族……」

 佐々木さんがぼんやり言う。私は唇を噛んだ。手遅れなんて。

 「狐チャンが言うように、ボクたちはここで待機するしかないだろうね」

 暗に余計なことをするなと言われた気がした。私たちに出来ることは何もないのだと。

 佐々木さんも同じように感じ取ったらしい。

 「俺たちに出来ることってねえのか」

 誰に問うわけでもない問いだった。

 「死神さん」

 「そんなに不安そうな顔しないでよ、沙夜。大丈夫。ボクの側にいる限りは安全だよ。それに、何だっけ。烏天狗? 応援がやってくるんでしょ。だったらボクたちは大人しくしておいた方がいい」

 「分かってます」

 死神さんの言っていることは正しい。

 「私たちは妖怪のことをよく知らないし、何か特別な力を持っているわけでもない。異空間の中で私はずっと足手纏いでした。戦っている人がいるのに、庇われてばかりで……何も出来ないことは、分かってるんです」

 佐々木さんと目が合った。頷く。

 「でも、何も出来ないことと何もしないのは違う」

 佐々木さんが言葉を引き取ってくれた。

 「俺もずっと思ってた。月森は目が見えないんだろ。雨水さんは腕を怪我してる。攫われた子どもたちもあんな風になっちまった。ここで待つだけとか、無理だ」

 必ず誰かが助けてくれるとは思えない。

 救いだけを信じてなんていられない。

 無力感に居ても立っても居られなくなる。

 私と佐々木さんの想いはきっと一緒だ。

 私たちを見比べて、死神さんは大きなため息を吐いた。

 「“子どもたち“、ね。本当に難儀だね、キミたちは」

 ミーンミーンと蝉が騒ぎ立てる。

 「勘違いしないで」

 死神さんの目がいつになく冷たく光る。

 「はっきり言うよ。沙夜も波瑠チャンもまだ子どもだ。どれだけ力を尽くそうとしても、その小さな手じゃ出来ないことの方が多い。ましてやただの人間だ。ボクと契約してる、悪魔と契約してる、そんな話を含めてもキミたちはやっぱり無力な人間の子供だよ。波瑠チャンは悪魔にも言われてたでしょ」

 いいかい、と語気を強める。

 「助けたいと思うのはいいよ。何かしたいと思うのもいいさ。だけど履き違えないでほしい。自分が何かをしなければいけないと思う必要はないんだよ。今回の件だって、元はと言えば妖怪の因縁。キミたちには何の関係もないものだった。それで、今は関係がある人が異空間に残っている。なら、彼らの結末を見届けるのがキミたちの役目だ。彼らには彼らなりの矜持がある。決着をつけるつもりなんでしょ、だったらボクたちが今しないといけないことは彼らを信じて待つことだよ。違う?」

 死神さんはさらに続けた。

 「言ってしまうとね、キミたちが異空間に行くことは出来るんだよ。だってボクは転移の道具を預かったままだからね。だけど行ってどうするの? 沙夜は怪我までしてるのに。それに月森クンだけじゃなくて、沙夜も狙われてるそうじゃないか」

 話は終わりだと言わんばかりの沈黙。

 私はグサリと胸に突き刺さった言葉を何とか咀嚼しようと試みる。呑み込み切れない言葉の数々。でも、だって。そんな風に反発したくなる心をどうにか抑える。ベニバナサマが私を狙う理由もよく分からないし。

 横を見ると、佐々木さんも顔を顰めて黙っていた。

 何とかしないと。そう思っていたのは事実。

 何も出来ないから悔しい。そう考えていたのも真実。

 だけど、と考えた。死神さんは心配してくれている。これもまた事実だろう。

 そこまで思い至って、冷水を浴びたように一気に熱が冷めた。

 全てを自分の力で何とかしなくても良い。なんだ。そうか。じゃあ私がしたいことは、いや、しなければいけないことは、たった一つ。

 「願いを叶えてくれませんか」

 気付けば私はそう口走っていた。

 死神さんが虚を突かれた顔をしている。


   ☆ ☆ ☆


 暗闇の世界。

 瞼の裏を見ているのか、世界が真っ黒に染まったように見えるのか、自分の状態が分からない。

 音と匂いと気配を頼りに走る。壁に片手を添えて行けば、目が見えなくても前に進むことは出来た。

 喧騒から遠のいていく。見えないのに、鮮やかな景色を見ているような錯覚すら覚える。僕はこれを望んでいたのかもしれない。何も見えないことが心を安心させる。幾許か不安はあるが、それでもここにいる限り僕の価値があるんだ。

 そうじゃないだろ、ともう一人の僕が言う。

 ここに残ったって喰われるだけだ。逃げた方がいい。妖怪にも良い奴はいる。

 綺麗事だ、と僕は鼻で笑った。逃げたところで同じことの繰り返し。何も変わらないし変えられない。

 僕は何かに導かれるように足を動かしている。

 見えないままだと、本当に何処にいるのか判然としない。それでも戒里たちと距離を取れているのは確信した。

 僕は犠牲者にはならない。

 生贄と呼べるかどうかも最早曖昧な役割だ。僕は自らの意思でここに残った。何の力もない僕が誰かを救えるなんて妄想だ。

 だけどこれで。

 ざらりとした感触が手のひらに引っ掛かる。ここだけ材質が違う。襖だろうか。立ち止まって表面をペタペタ探る。

 招かれるように、引手に手をかけた。

 柔らかい風が頬に触れる。

 甘い花の香りが鼻をくすぐった。僅かに鉄の匂いが混ざっている。

 カラン、カラン。シャラン、シャラン。甘美な響き。

 一歩踏み出す。また一歩。もう一歩。

 ぴちゃん、と足元で水音がした。水溜りでもあったのだろうか。

 ふいに、顔を上げる。気配がする。呻き声。

 「これだけ喰ろうても……まだ足りんのじゃ」

 どさりと何か重い物が地面とぶつかる。

 僕は身構えた。

 だ。やつがいる。

 「おぬしはずっと美味そうな匂いがするのぅ。三年前と全く変わらぬ。あやつも気にかけておるようだし……」

 「あんたが“ベニバナサマ“か?」

 毅然と言い放った。僕としては喧嘩を売ったような気持ちだった。

 しかしベニバナサマは花が綻ぶみたく笑った。

 「ふふ。様をつけてくれようとは。お主は変わった童じゃな。

 頭に血が昇る。

 「そんなわけ……!」

 「近う寄れ」

 ぐわんとベニバナサマの声が耳元で反響する。動くものかと思っていた僕の身体は、自分の意思とは裏腹に、奴の側へ吸い寄せられていく。勝手に動く自分の足が憎い。視界は真っ黒のままだ。それなのに、ベニバナサマのニヤリと上がった口角が目に映るようだ。

 気持ち悪い。

 全身を得体の知れない何かが這いずり回っている感覚。ぐつぐつと煮え滾る感情は色んなものが混ざっていて、そのどれもが奴の息の根を止めたいと切望している。

 じっと僕を値踏みするかのような視線を感じ、さらに気分が悪くなった。

 「月森一翔、と言ったかの? お主の名じゃ」

 花の匂いが強くなる。甘ったるくて鼻が曲がりそうだ。

 ベニバナサマが顔を歪めた僕を笑う。

 「知っているかえ。妖にとって“真名まな“は犯してはならぬ秘宝。真の名が己を象るのじゃ。決して人に知られてはならぬ。それは人の子も同じこと」

 「……知ってる。前に、真名を知られると操られるって聞いた」 

 嘘。本で得た知識だ。本当かどうかも分からなかった。ただ、妖怪の真名を人が知る場合も、人の名前を妖怪が知ることも、そいつの自由を奪うことになるのだと、そう書いてあったのだ。

 「杜撰ずさんな説明にも程があるのう。厳密には違う。必要なのはお互いの真名と血だけじゃ。強いて言うならば、まじないかの? 言霊で縛るのが手っ取り早いのじゃ。一種の契約じゃな」

 「僕を操るつもりか?」

 ベニバナサマがまた笑った。

 「面白いことを言うの。妾がお主を操って、それで? ただの人間を操ったってむしろ損するだけじゃ。。加減も難しいしのう。人の子相手ならば妾の猫に投げる任務じゃ。妾は動かぬ」

 ベニバナサマの手が僕の肩をトンと突く。数歩よろけた僕は、ぬかるみか何かに足を取られて尻餅をついた。

 ふふふ、と笑う声。嘲笑とも取れなくはない。僕は湧き上がる感情を宥めて立ち上がった。

 「ほんにおかしいやつじゃの。野心などとうにないと思っておったが、妾の猫も存外ツメが甘いということかの」

 ついて来い。ベニバナサマの声がまた耳の近くで反響する。逆らえない。

 「座れ」

 どん、と背中を押される。ふかふかした感触が頬にぶつかった。

 何だこれ。

 手探りで体を起こし、それが座布団であることに気付いた。

 なぜ?

 僕の問いに答えるかのように、ベニバナサマが言う。

 「日が暮れるまで時間がある。少し話し相手になってもらおうかのう」

 僕は忌々しい気配に顔を向けて、思い切り睨んだ。

 「何の真似だ」

 嘲笑。

 「威勢が良いのも考えものじゃな。若者特有の反骨精神というやつか? これだから人の子は好かん」

 「僕だってお前なんか……!」

 「口を慎め、童。妾は煩わされるのが嫌いじゃ」

 ぐっと拳を握る。

 冷静になれ、冷静に。僕がここに来た理由を思い出せ。

 ………………。

 …………。

 理由。……理由?

 そんなもの、あっただろうか? 

 僕は何をしにここへ……そもそもここは、どこだっけ?

 「目が見えないようじゃの。瘴気しょうきにでも当てられたか?」

 色のない視界。真っ黒に塗りつぶされて、形がない。曖昧模糊とした世界。

 「まあどうでも良いことじゃ」

 僕はハッとした。我に返る。

 「なんで。……どうして、僕を殺さない?」

 疑問が口をついて出た。

 ベニバナサマは愉しげに言った。

 「喰うのはいつでも出来る」



 「邪悪な鬼の末裔。かつて名の知れた妖でさえ恐れをなしたというその鬼は、大天狗が治める“隠れ里“に秘匿されておった。そして、千年以上の時を経て天狗の醜い反乱が起こり、初めて表舞台に姿を現す。それから百年も経たぬうちに、陰陽師によって封印された。封印が解けたのは、ちょうど、桜が見える頃だったかのう」

 淡々と紡がれる軌跡。

 ベニバナサマは始終つまらなさそうだった。

 「ここ数日、お主と共におる鬼の過去じゃ。邪鬼、とは、なんと畏れ多い呼び方か。鬼に邪悪とは褒め言葉でしかないというのに、誤解するやつが多くて困るのう。妾にしてみればあやつは鬼の中で最も強い鬼じゃ。あの酒呑童子でさえ手が出せぬて。まあ、封印される前の話じゃが。本来の力を失った今は、腑抜けた鬼としか言いようがないの」

 ベニバナサマが僕を見ている。そんな気がした。

 「無反応かえ。つまらぬ童じゃな」

 ふうと息を吐く。ため息のようなそれは、失望が混じっていた。

 分からない。ベニバナサマは恐ろしい。だけど、何だろう。妙な違和感を覚える。恐ろしいだけじゃないような。

 「お主は霊力が高い。陰陽師に匹敵するほどじゃ。生憎と、力の使い方は知らぬようじゃが。三年前を思い出すぞ。あの時の記憶は曖昧じゃが、妾は確かに、お主を見てさぞ美味いだろうなと考えていた」

 僕は今でもはっきりと思い出せる。切っても切れない、まるで影のように付き纏う過去。

 喰ろうてやる。

 赤い血に塗れた鋭利な爪と、獣じみた息づかい、鬼の牙。忘れてなるものか。

 思い出すだけで恐怖が身体中に根を張る。叱咤する心も寒空の下で死んでしまったかのように凍てつく。

 弟を守る使命感に駆られ、逃れられない痛みを抱えて這いつくばった。だが、最後に残ったのは無力感だけだ。

 僕は誰も守れない。

 今だって。

 何も。

 「妖が人を喰わないように、という暗黙の了解はもはや守る価値もない。人間と共存など塵芥ちりあくたも同然の夢じゃ。いつの時代も弱者は強者にほふられる。それに元来妖は人を喰うもの。秩序など、後から作ったとて無意味じゃ。本能には逆らえぬ。だのに何故、あやつはこちら側に戻ってこないのか」

 あやつ。

 ベニバナサマは一貫して戒里の名を口にしない。

 僕が言葉を発さずとも、ベニバナサマは話し続けた。話し相手、とはそういう意味だったのだろうか。

 「小娘のせいかのう。人間の小娘のせいで、あやつは封印された。嗚呼、無念じゃ、ほんに無念じゃのう。あやつはであったのに。妾が先に目をかけておったのに」

 声に、色々な感情が入り乱れている。

 見えねえけど、表情が恐ろしいことになっているのは明らかだ。

 「戒里はその人を愛してた」

 火に油。僕も大概懲りないやつだ。だけど予感があった。

 ベニバナサマは猫又とはまた違うのだと。

 「……童。殺されたいか?」

 ビンゴ。

 僕は口角が上がるのを誤魔化すために下を向いた。

 見つけた。奴の弱点。

 「お主はあやつと共におったのだろう? あやつは小娘のことを語ったのか? 他に何を言っていたのじゃ?」

 「さあな。僕より本人に訊いた方が良いじゃないか」

 「はっ。それが出来たらとうの昔にしておるわ」

 ばんっと何かが壊れる音がした。

 僕は幾分か落ち着いて考える。ベニバナサマが僕を殺さない理由は、きっと戒里だ。戒里のことを異様に知りたがっている。僕は情報の引き出しとして見られているのだろう。だから、まだ殺されない。

 でもどうして戒里に執着しているんだろう。

 「傀儡術を知っておるか?」

 口を閉ざした僕の油断を誘うためか、ベニバナサマが不自然に話を変えた。

 「その様子では知らぬようじゃな。ふふふ、安心したぞ。小賢しくても所詮はひよっこ。哀れなお主に、あやつが心を許して語る内容とは思えんからのう」

 ちくちく。痛いな。チリリと右の手のひらに感じる。まるで刺されているような痛み。

 そこで僕は気付いた。自分が強い力で拳を握りしめていることに。それも、掌の皮が剥けそうなほど爪が食い込んでいる。はっとして力を抜こうとしたが、食い込んだ爪はそう簡単に柔い掌から離れてくれなかった。

 「妖が扱う術にも種類がある。その中でも傀儡術は禁忌の……いや、今や禁忌とされることもない、誰の記憶からも忘れ去られた術じゃ。肉体も精神も何もかも思い通り。たとえ屍でも意のままに操れる。嗚呼……! ……!」

 うっとりした吐息。

 僕は怖気がした。胃のなかをぐるぐる巡って迫り上がってくる嫌悪を、無理やり嚥下する。

 「あやつだけが、唯一の生き残りなのじゃ。傀儡術を根源から知る者。あやつの種族が滅んだのも、その術のせいだというではないか。どう思う、月森一翔? あやつの親も仲間も全てを蹂躙した術を、あやつもまた持っているという皮肉を。その身を八つ裂きにしたとて消えぬ空腹の呪い。人間が獣を狩るためにあらゆる道具を使うように、あやつも傀儡術を使うほか生きる術を持たぬ」

 何も言わない僕に飽きたのか、ベニバナサマは声色を整えて言った。

 「妾はあやつが欲しい。呪われた世界でしか生きられぬ哀れな種族。妾と共にいれば、あやつも幸せになると思わんかえ」

 それはきっと身勝手な思惑だ。

 ベニバナサマはどうしようもないほど“悪“の存在だと、この時僕は本能的に感じ取った。

 戒里のことを、僕は知らない。知ろうとしなかった。だって僕らはいつも一歩線を引いて、お互いそれを踏み越えないようにしていたから。

 “近すぎず、遠すぎず“

 距離を誤ってはいけない。

 妖怪は僕の敵だ。情なんて湧くものか。そう思っていた。

 だけど揺らぐ。

 戒里たちとベニバナサマと僕。勝手に、三つ巴のように感じていた立場の違い。

 ガラスが砕けるみたいに、崩れていく。僕の思い描いていた暗闇の先。

 戒里とベニバナサマは違う。

 烏天狗の夜雨さんも、九尾の狐の彼女も、戒里も。

 妖怪が敵じゃない。

 僕の敵は一人。猫又でも鎌鼬でもない。

 こいつだ。

 ベニバナサマ。

 「鬼のような形相じゃな」

 揶揄からかうような声音。

 「残念じゃ。お主を喰う前に、妾も傀儡術を使ってみたかったのう。結局こんな計画を立てても、使

 僕がこいつをとめてやる。


 3

   * * *


 「願いを叶えてくれませんか」

 「願い?」

 雨水さんの一言に、一拍置いて死神さんが怪訝な顔をする。

 俺はそっと雨水さんに目を向けた。凛とした姿勢と真っ直ぐな眼差し。俺は両手を握る。瞼の裏には、まだゾンビのようになってしまった住人たちの姿がくっきりと残っていた。

 「四つのうち、私はまだ二つしか願いを口にしてません。あと二回、チャンスがあるはずです」

 死神さんが目を細めた。

 「ボクの言ったこと、ちゃんと聞いてたよね?」

 「その上で言ってます」

 「ボクは、何もするなって言ったんだ」

 雨水さんの肩が揺れる。

 死神さんは語った。

 結界の外にいる住人。彼らの意識は紅花神社の方に向いている。理由は不可解だが、なぜか彼らは雨水さんを狙っているみたいだ。雨水さんがここにいる限り、きっと隣町には被害が出ないだろうとのこと。今のところ、どうやらこの住宅街だけが危険区域らしい。共働きの雨水さんの両親は、この住宅街に帰ってこなければ、まだ無事である。だから安心して、と死神さんが言った。

 それでも限界はある、とも。俺たちはベニバナサマの計画内容を詳細に把握していないから、今後の対応は難しい。次にヤツらが何をするか予想がつかない。当たり前だ。俺たちは妖怪の事情をよく知らない。百鬼夜行が行われる今夜、この街だけでなく周辺地域がどうなるか分からないのだそう。

 俺はそこで思い出した。

 月森の弟、浩太とその父親がこちらに向かって必死の形相で走ってきていた。あの後、彼らはどうなったんだろう。やはり変わり果てた住人の中に加わってしまったのだろうか。もみくちゃになりながら行進してくる大群の中で、あの二人が生気のない目で近付いてくる姿を想像し、またゾッとした。

 「私を異空間に行かせてください」

 俺は耳を疑った。

 「雨水さん⁉︎ 何言ってるんだ?」

 やっと出られたんじゃねえのか。いきなりヤツらに連れて行かれて、腕まで怪我して。血が滲んだその場所を、痛そうに手で覆っているくせに。

 それなのにどうして。

 死神さんが怒ったように言う。

 「ボクがそんな願いを叶えるとでも? 危険なことはやめて」

 すると雨水さんは眉を下げて、困ったように笑った。拒否されることを初めから分かっていたみたいに。

 「死神さんはいつも私を危険から遠ざけようとしますね」

 落ち着いた声音。死神さんが言葉に詰まる。

 「私が死ぬのはまだ先の話じゃないんですか?」

 「それは……まあ……そう、だね」

 途端に勢いをなくした死神さん。俺は何とも言えない気持ちで聞いていた。

 「だったら異空間に行ったって大丈夫ですよね」

 「いや。いや、いや。だめだよ! だめ。ボクは絶対にその願いを叶えないよ。……危ない、から。ほら、怪我したり、ね?」

 雨水さんが、言葉尻をすぼめる死神さんの目を、真っ直ぐに見据える。

 「じゃあ、せめて。してください。一時的でいいんです。あの異空間にいる間だけでもいいから」

 雨水さんの、苦虫を潰したかのような表情に、俺は瞬きを二、三繰り返した。

 「月森クンの目が見えなくなったのは精神性のものだと思うけど?」

 すぐに調子を取り戻した死神さんは取り付く島もない。

 見えない理由なんて本人ですら分からねえかもしれねえが、月森の目に妙な術はかけられていないという話を、雨水さん経由で聞いている。精神性のものという見解は十分にあり得ると思った。

 そこまで考えて、ふと疑問が湧く。

 「なんでそんな願い事にするんだ?」

 手っ取り早く「みんなを救って」とか言えば。……いや、流石にそれが出来たらこんなことになってねえな。死神さんもルカも、異空間で戦う選択をした三人も、魔法みたいなことが出来るからと言って全知全能じゃないんだ。

 「私が月森君に余計なことを言ってしまったから」

 そう言った雨水さんの顔には、後悔の色が浮き出ていた。

 「月森君が異空間に残ると決めた理由は、多分一つじゃないんです。少なくとも私はそう思います。あの時月森君は、逃げたって同じだって泣きそうな顔で言ってた。だから戻らないんだと。これも理由の一つだと思います。戒里さんから三年前のことを聞いていなかったら、私はただただ月森君を責めてたと思う。やっと戻れるのに、って」

 雨水さんは苦しそうに胸を抑えた。

 「妖怪のことで嫌な思いをしてきた月森君に、私は無神経なことを言ってしまった。強い味方がいるから大丈夫なんて、自分でも適当だなって思うもの。異空間での月森君はずっと様子がおかしかった。今思えば、最初から、異空間に残ることを望んでたんだと思う。戒里さんや夜雨さん、それに雅さんも言っていたけど、多分、月森君も同じようにベニバナサマを憎んでいる」

 三年前、月森はベニバナサマに襲われた。霊力が高い人間は、妖怪の餌にされることがあるという。月森が襲われたとき、一緒にいた二人の弟も怪我を負った。浩太曰く、傷跡が残るほどの大怪我。それ以来、月森は弟に対して過保護になったと聞いた。

 “視える“せいで巻き込んだと月森が考えていても、不思議じゃない。

 「私は妖怪のことも、月森君のこともよく知らない。だけど何も出来ない自分が腹立たしいと思う気持ちはわかる。だからこそ思ったんです。月森君は異空間に残って、ベニバナサマを倒そうとしているんじゃないかって」

 「……それで“目“?」

 「そうです。憶測だけど、もし本当に月森君がベニバナサマを倒そうとしているなら、目が見えないと戦えないでしょう」

 それに、たとえそうでなくても、見えないことが足枷になってしまうかも。雨水さんが付け加えた。

 沈黙。

 誰かが考え込む間の沈黙が、今の俺には心底耐えられないものだった。

 「目を見えるようにって、死神さん出来るのか?」

 無理やり繋いだ言葉は、死神さんの神経を逆撫でしてしまったらしい。死神さんが引き攣ったような笑みを見せた。

 「命に関わること以外だったら、ボクは何だって出来るよ。月森クンの目を見えるようにするのも、まあ、一時的なら出来なくはないよ。ボクは一応神様だからね」

 しかし死神さんは言い淀む。

 「沙夜。月森クンが見えないことを望んでいたらどうするの?」

 俺は目が見えないことを望む状態を想像してみたが、うまく思い描けなかった。

 目が見えないと、何が出来るだろう。何が、出来なくなるだろう。

 そばで助けてくれる人がいなかったら、俺はきっと。

 嫌なことを思い出して、俺は顔をしかめた。ゾンビのようになった住人の中に、親の顔があったらいいと望むことは容易いのに。

 すみれ堂のおばあさんを思い出し、次いでルカの顔が頭に浮かぶ。

 おばあさんのことは考えないようにした。

 ルカは異空間にいる。もう随分と長い時間離れているように感じる。

 ふと、唐突に思い至り、そして実感する。

 俺の隣にルカがいない。

 ルカが。

 不安が押し寄せてきた。

 ぎゅっと握った両手に、また力がこもる。

 雨水さんはすぐに答えなかった。考えるような素振りをして見せる。

 「……見るべきだと思います」

 そう言った雨水さんの目は、どこか遠い、ここじゃない場所を見ているようだった。

 はああと大きなため息が前から聞こえた。

 死神さんは両手を組んで、

 「いいよ」

 思ったよりも柔らかい声だ。死神さんが雨水さんと俺に顔を向ける。

 願いを叶えてあげる。そう聞こえた。

 俺は雨水さんと顔を見合わせた。

 無力な自分が嫌だということは、お互い考えている。

 手を貸せるなら、幾らでも貸す。自分が行動すれば、助けられる人がいるかも。

 そんな思いで突き動かされる。いや、動かなければいけない。

 俺と雨水さんは頷き合った。

 死神さんは、俺たちに出来ることはないと言った。何もしないことが俺たちの役目だと。何とかしなきゃと思う必要はないと諭してくれた。無茶はするなと心配してくれている気がした。

 だけど、と思う。俺たちは誰かを見捨てるなんて出来ない。

 多分それは、俺たちが、誰かに見捨てられたくないからだ。

 「じゃあ——」

 死神さんが口を開いた、その時だった。

 どこからか強い風が吹き、まるで旋風のように室内の中心に渦を作った。隅っこに落ちていた蝉の抜け殻でさえ巻き込んでいく。

 死神さんが雨水さんと俺を庇うようにその腕に引き寄せた。死神さんの銀色の髪が風に煽られてキラキラ反射して見える。障子の隙間からわずかに差し込む光はまだ昼の色をしている中、強い風が渦を作るせいで社がガタガタ嫌な音を立てている。

 社が壊れてしまうんじゃないかと思えたそれは、次の瞬間ぴたりと止まった。

 風が止む。

 俺たちは驚いて言葉を失った。

 そこに、豚の丸焼きのように木棒に縛られた鎌鼬と、場違いなほどにこやかな笑顔のルカが立っていた。


   # # #


 さっきまでの緊張感がふっと和らぎ、肩の力が抜ける。

 満面の笑みのルカさん。その横で、鎌鼬がげっそりとした顔で縛られている。心なしか鎌鼬の目が助けを求めるようにこちらを向いた。悪魔の所業だ。文字通り。

 死神さんの表情が曇る。

 「派手な登場どうもー」

 死神さんとルカさんは仲が悪い。顔を合わせるとお互いを罵り合うほどだ。私はハラハラした。こんな時に喧嘩なんかされたらたまったものじゃない。しかし二人はそれ以上口を利かずに、鎌鼬に目を光らせた。

 異空間では、目と口を布で覆われていた鎌鼬だったけれど、今はその布も外されている。

 鎌鼬が吠えるように言った。

 「こんなことをしてタダで済むと思うなよ悪魔ども!」

 ずっと拘束されたままだったのだろうか。私は腕を切られたこともどうでも良くなるくらい、鎌鼬が不憫に思えた。

 「どうしてこの子を狙うの?」

 死神さんは私を庇うように立っている。さっきも今も、死神さんは必ず私を守ろうとする。佐々木さんも守ってくれているから、私が突っぱねることでもない。ただ少し、ほんの少しだけ、死神さんに違和感を抱いてしまう。

 私は、来年の春に死ぬ。これは決まっていることだ。変えられない未来。だったら、死神さんが私を心配する理由はないはずだ。私が死ぬのは先の話だと、他でもない死神さんが言ったのだから。怪我してほしくない? 死神さんがそんな風に考えるだろうか。

 死神さんのあたたかいような、冷たいような、曖昧な体温が残っている。旋風から庇おうとしてくれているその腕の中で、私は、ああ、生きてないんだなと思ってしまった。

 ふるりと頭を振った。鎌鼬に目を向ける。

 「ふん、答えてなどやるものか」

 ルカさんの笑みが深くなった。

 「おや、良いんですか。そんなこと言って」

 さあっと鎌鼬が顔を青くする。

 「あ、あの方が、望まれたからだっ! 何故かは知らぬ! 本当だ!」

 私と佐々木さんが同時にルカさんを見やった。

 あの鎌鼬がこんなに怯えるなんて、一体何をしたんだ。言葉はなくとも、佐々木さんも同じようなことを思っている気がした。

 死神さんはまた顔を曇らせたが、それでも口をつぐんでいた。

 「まあ、時間を浪費するように質問攻めをしたって仕方ありません。見ての通り、この者は逃げられないようにしています。私が異空間、そしてベニバナサマについて得た情報でも話しましょうか」

 ルカさんが胡散臭い笑みを浮かべて、伺いを立てる。佐々木さんに向けられた言葉だった。

 ルカさんも佐々木さんの気持ちや考えを最優先にしているように思える。

 「異空間の構造は、極々単純なものでした。ええと、貴女には話しましたかね?」

 私は頷いた。

 「異空間の形状は屋敷のようでしたね。日本家屋をベースとして作られたものです」

 ルカさんが懐から取り出したのは、折り畳まれた白い紙。丁寧な手つきで紙の折り目を広げていく。構造図。異空間でルカさんが見せてくれたものだ。全てを部屋や空間を囲うように線を引くと、ちょうど、長方形のような形になる。

 「大広間は中央の部屋です。ここで宴が行われます。ベニバナサマは通常ここにいるようですね」

 鎌鼬がそっぽを向く。

 「他にも鉄格子の牢がある部屋、『餌』とされる妖怪が囚われている部屋、死神さんが異空間に行ったとき、最初に降り立った部屋と色々ありますが、今はさほど重要ではありませんね」

 死神さんが嫌そうにしながらも口を開いた。

 「異空間の調査を任されていたよね。何が分かったのかさっさと言えば?」

 「せっかちですねえ。波瑠さんや貴方の大事な人にも分かるように説明しているんですよ。順を追ってね」

 ルカさんはニンマリと笑いながら続けた。

 「幸いにもベニバナサマの創設した異空間はこの一つだけ。複数あるわけではないようです。紅花神社が一つしか存在しないのと同じですね」

 佐々木さんが首を捻った。

 「紅花神社を囲むみたいに結界を張ったことは、異空間が一つだってことと何か関係があるのか?」

 ルカさんが嬉しそうに頷いた。

 「ええ。異空間はこの紅花神社を軸として作られているのですよ。二つの層が重なっているのを想像してみてください。横から見ると全く別の層ですが、上から見ると同じに見える。つまりですね、紅花神社は異空間と重なっているんです」

 「だから何?」

 死神さんが苛々した様子で口を挟む。

 「異空間と重なっていることぐらい、わざわざ言われなくても想像がつくよ。この紅花神社は元々ベニバナサマを鎮めるために作られたんでしょ。この神社の主はベニバナサマだ。だから名前もそれに因んで……」

 何かに気付いたようにはっとして、不自然に黙り込んだ。

 「ベニバナサマを鎮めるために神社が建てられた。そして、今まで紅花神社の周辺で大規模な祭りが行われてきた。おかしいと思いませんか。それではどうして紅花神社について書かれた文献が非常に少ないのでしょうか。仮にもこの街の祭りの起源でもあると言うのに」

 確かに、紅花神社の本はなかなか見つからなかった。見つけたのも図書館にある一冊だけだ。インターネットのページにも詳細は載っていなかった。

 『寂れた住宅街』、この街はそう呼ばれている。そんな住宅街にある唯一の神社が紅花神社だ。だから、情報が少ないのも閑散とした場所ゆえのことかと、勝手に決めつけていた。

 違うの? ベニバナサマを鎮めるために祠が作られたのだと、本には書いてあったじゃん。

 佐々木さんが眉間に皺を寄せた。

 「俺も変だとは思った。この街は毎年の夏、大規模な祭りをやる。元々はベニバナサマを鎮めるために始めたって話も聞いたことがある。それなのに、みんな、なんで紅花神社が作られた時期がはっきりと分かってねえんだって」

 ルカさんは言った。

 「“嘘“なんですよ」

 「嘘?」

 「ベニバナサマを鎮めるために建てられた神社という話が、嘘なんです。この

 「……は?」

 困惑を声に出したのは、私と佐々木さんだ。死神さんは難しい顔をして、小さく頷いた。

 「鎌鼬さんが教えてくれましたよ。紅花神社というのは、三年前、ベニバナサマが自ら造った社なのだと。異空間もその時に造られたものです」

 「い、いや!」

 佐々木さんが大きく首を横に振る。

 「そんなはずねえ! だって今まで祭りは毎年行われてきたし、俺も小さい頃から紅花神社のことを知ってる! 三年前に作られたなんてあり得ねえだろうが!」

 取り乱す佐々木さんに、無情にもルカさんが告げる。

 「ええ。祭りは毎年行われてきました。けれど、紅花神社の存在は全て三年前に現れた虚構です。波瑠さん、貴女の記憶も、んですよ。もちろん、この街の皆さんの記憶も」

 「そんなわけ……!」 

 混乱する佐々木さんが後退る。足が滑り、転びそうになる。私は慌てて彼女の腕をとり、体を支えた。

 背中に手を添えると、佐々木さんから微かな震えが伝わってくる。

 動揺しているんだ。当たり前だろう。この街の住人はみんな知っている紅花神社。小さい頃から語られていたらしいその存在が、実は、たった三年前に突如現れたものだったなんて、そんな話誰が信じるというのだ。

 去年の夏の終わりにこの街に引っ越してきた私は、祭り自体を知らなかったために、傷が浅い。

 私はルカさんに尋ねた。

 「どういうことですか。確かに、紅花神社の歴史は誰もがあまり知らないのかもしれません。でも図書館にあった一冊には、ベニバナサマを鎮めるために祠が作られたって書かれていました」

 これには死神さんが答えた。

 「社と祠はまた別なんだ。その本の出所も怪しいけど、多分その情報は合っているんだろうね。祠はベニバナサマの怒りを鎮めるために、人間の手によって作られたもの。だけど、ボクたちが今居るこの社自体は、ベニバナサマが三年前に造ったもの。わざわざ周辺の人間の記憶を操作するくらいだ、ベニバナサマは三年前から今回の騒動を起こそうと計画していたんだろうね」

 頭がこんがらがる。

 「異空間と紅花神社は造られたもの……そうだ、じゃあ祠はどこに?」

 「この社を囲むように木が生い茂っているでしょう。その木々の間を縫って歩けば、すぐに見つかります。一応、隠してはいるみたいですし」

 確認を求めるように、ルカさんが鎌鼬に目をやる。鎌鼬はビクッと体を震わせて、コクコクと頷いた。

 「ベニバナサマは、一種の世界征服を目論んでいます。妖怪を喰い、人を喰い、妖力を蓄えている。この世界の全てを手に入れようとするのですから、力を蓄えるのは納得です。けれど、ベニバナサマ自身が異空間から外へ出ることはない。ここ三年間はずっとだそうですよ」

 「どうして」

 「祠のせいです。ベニバナサマはこの地に縛られている。この住宅街の外へ行けるほどの余力がない。まるで封印ですね」

 佐々木さんが顔を上げる。少しだけ落ち着きを取り戻したようだ。

 「月森が襲われたのも三年前だ。もしかしてベニバナサマはそれ以降ずっと異空間にいるのか?」

 「そうです。外の用事は基本的に猫又さんと鎌鼬さんで済ませていたようです」

 「俺たちの記憶が造られたものってことは、それもベニバナサマノ仕業か?」

 「ええ。傀儡術を知っていますか」

 首を横に振る。

 「あの術は興味深い術でしてね。詳細は伏せますが、要は他者を操ることができる術なんですよ。ベニバナサマは傀儡術こそ扱えないものの、それに似た術を編み出したとか。記憶の操作はその応用だそうです」

 鎌鼬はそっぽを向いたままだ。けれど、それが何より肯定の意を表している。

 「ベニバナサマはずっと、この社と重なっている異空間で、執念的に計画を遂行してきました」

 ルカさんが人差し指を立てる。

 「けれど一つだけ、誤算があったんです」

 「勿体ぶってないで早く言ってよ」

 死神さんがついに足を鳴らし始めた。相当苛々している証拠だ。

 ルカさんは死神さんに胡乱げな目を向けたが、瞬時に気を取り直す。

 「。壊したのは、戒さん——戒里さんです」

 佐々木さんが慌てる。

 「じゃ、じゃあ、ベニバナサマはもう外に出れるってことか⁉︎」

 私も最悪の場面を想像した。封印のような呪縛から解放されたベニバナサマは、きっとこの地をめちゃくちゃにする。

 「いいえ」

 しかしルカさんは即座に否定する。

 「そうであれば、ベニバナサマも幸せだったでしょうね」

 その時、鎌鼬の首がグリンと動いた。目が合う。

 「実際は、祠が壊れたことでより一層異空間との繋がりが強くなってしまったんです」

 つまり。

 「

 鎌鼬の縋るような目が、脳裏に刻まれた少女の目と重なった。


   * * *


 ベニバナサマが消滅。

 紅花神社のことといい、情報量が多くて混乱する。

 俺にはどうしても造られた記憶には思えない。けれどそれこそが『造られた』状態の成功例になってしまうのだろう。

 雨水さんはすごいな。冷静だ。ずっと。すごい。俺は感情を揺さぶられてばかりだ。

 情けねえ。

 俺はルカを見る。

 安心感が湧いてくる。同時に、ルカならこんな俺も認めてくれるんだろうな、とさらに情けなくなった。

 「異空間を破壊したら、ベニバナサマと戦わなくてすむってことですか? それも戒里さんは分かった上で祠を壊した……?」

 雨水さんがルカを見据える。

 「祠の存在は誰も知りません。だと言うのに壊すことに成功したのですから、少なくとも戒さんは知っていたのでしょう」

 死神さんが憮然と問いかける。

 「烏クンと狐チャンは知らないってこと? 教えなかったの? キミは同じ異空間にいたんでしょ」

 責めるような言葉。ルカは片眉を上げた。

 「烏クンと狐チャン……ああ、あの二人のことですか。伝えていませんよ。合流できなかったので」

 「嘘くさい」

 「彼らはベニバナサマを殺すつもりなのでしょう? ならば、わざわざ伝えなくても良いではありませんか。今頃、『餌』の部屋で彼らが戦っているでしょうし、私は怖くて行けませんでしたよ」

 「どうだか」

 バチバチっと二人の間で火花が散ったような幻覚が見えた。疲れてんだな、俺。

 「月森君は?」

 雨水さんがぽつりと零した。

 「月森さんは大広間にいます。戒里さんの居場所は探知できませんでしたが、月森さんの近くにはいると思います」

 さらりと言ってのけたので驚いた。

 大広間にはベニバナサマがいるんじゃねえのかよ。

 「死神さん! 願いを叶えてください。早く!」

 雨水さんが急かす。

 願い。そうだ。月森の目を一時的に見えるようにするという話だった。ベニバナサマと遭遇していたら大変だ。

 俺も頷く。ルカはポカンとしていた。

 「何を願うと言うのです」

 「ちょっとルカは黙って……あ、いや。お前も目を見えるように出来るか?」

 「はあ。出来ないことはないですが……」

 俺は閃いた。

 雨水さんは死神さんに四つしか願いを叶えてもらえない。そのうちの二つはすでに叶った。対して、俺はルカに六つの願いをルカに叶えてもらえる。俺もすでに二つの願いを叶えてもらっているが、それでも残り四つ。

 雨水さんの負担を少しでも減らしたくて、俺は三人に提案した。

 「俺が願う。雨水さんは願わなくていい」

 言葉足らずになってしまった。けれど意図は通じたらしい。雨水さんは戸惑いながらも、俺の提案に頷いてくれた。

 「見えるようにすればいいんですね」

 ルカが念を押すように確認する。

 死神さんは顔をしかめていたが、渋々納得してくれた。

 「ふん」

 鎌鼬が馬鹿にしたように笑った。

 なんだよ。文句あんのかよ。

 そう思って鎌鼬に視線を動かすと、奴は何か言いたげな顔をしていた。口を開き、何も言うことなく閉ざされる。

 まだ何か隠しているのだろうか。

 ルカが腕を上げる。目を閉じた。何事かを呟き、瞼を持ち上げる。

 「日が沈み切るまで、目が見えるようにしましたよ」

 いまいち実感が湧かない。

 「波瑠さん、これを願いにして良かったんですか」

 「ああ。ありがとう」

 そこで気付いた。雨水さんが浮かない顔をしている。

 「悪い。その、余計なお世話だったか……?」

 不安になって、こそっと耳打ちする。

 雨水さんははっとして頭を振った。その目が鎌鼬に向く。

 「余計なお世話じゃない。代わりに願ってくれてありがとう。……佐々木さん、ちょっといい?」

 服の裾をくいと控えめに引っ張られる。

 雨水さんは死神さんとルカに「二人で外の空気を吸ってきます」と一言告げる。死神さんは止めたが、雨水さんは譲らなかった。

 結局、鎌鼬を見張る役目としてルカを残し、三人で社から出た。

 結界のおかげなのか、夏の暑さが半減している。蝉の声だけは立派だ。

 「佐々木さん」

 さっき俺がしたみたいに、雨水さんがこそっと呼んだ。

 「私、やっぱり異空間に行こうと思う」

 「何言ってるんだ⁉︎」

 「心残りがあるんだよ、あの異空間の中に。だから鎌鼬と話がしたいの」

 真剣な表情。

 「心残りって月森のことか?」

 「ううん。どっちかって言うとベニバナサマの方、だな」

 雨水さんが何を考えているのか分からない。

 「鎌鼬と話してどうするんだ。異空間に連れて行ってもらうのか? 一人で? 冗談だろ」

 「そのつもりだよ。ベニバナサマはどうしてか私を狙ってる。鎌鼬にとっては好都合でしょ」

 「好都合って……」

 どうしたらいい。

 死神さんに助けを求めようとしたが、雨水さんが腕を掴んで止める。

 「頼まれてくれない?」

 「何を」

 「死神さんとルカさんの気を引くこと」

 ひくっと口の端が引き攣る。

 俺にあの二人の相手をしろって? それこそ冗談だろ。

 「だったら俺も行く」

 雨水さんの目が見開かれていく。

 「鎌鼬の拘束を解いて、そのまま異空間に連れて行ってもらおう」

 「……本気?」

 「雨水さんも見ただろ。鎌鼬はルカがいる限り俺たちに危害を加えない。何をしたか知らないが、あんなに怯えてたんだ。それを切り札にしたらいい」

 それに、と付け加える。

 「俺だってもう蚊帳の外は嫌だ。雨水さんを一人で行かせたくねえ」

 恐ろしい敵の本拠地に乗り込む。そんなのまるで映画や漫画の世界みたいだ。事情を知っているのに、ただの傍観者でいられるわけがない。

 危険は伴う。

 百も承知だ。

 分かっている。

 死ぬことがなくても、それなりに大怪我をすることもあり得る。現に雨水さんは腕を怪我している。

 でも、そんな雨水さんが行くと言うのなら。

 俺も。

 覚悟を決めて、二人して後ろを振り返った。

 「げ」

 瞬時に固まった。

 死神さんが怖い笑顔で俺たちの行く手を阻む。

 「何をするって?」

 バレた。

 俺たちは気まずく引き攣った笑みを浮かべてみたが、徒労に終わった。

 呆れたようにため息をつく死神さん。

 雨水さんが目を逸らし、俺もまた目を泳がした。ふと視界の端に妙なものが映った気がして、視線を固定する。

 「あれ……」

 俺は呆然と呟いた。

 「なんで……さっきまでなかったのに」

 雨水さんも同じ方向を見ていた。

 死神さんが俺たちの声を代弁するように口にする。

 「提灯?」

 なくなった提灯が、石段から住宅街のさらに向こうにある山へ、一本道に並べてある。暖かい色味の灯り。

 それはまるで、百鬼夜行の道標のようだった。


 4

   ☆ ☆ ☆


 「妾はあやつを手に入れるためなら何でもする」

 ベニバナサマが言った。

 「お主はその『餌』じゃ」

 「僕を利用して戒里を誘き寄せるつもりか」

 「ふふふ。存外愚か者ではないようじゃの。その通りだとも。あやつはお主を救うために、必ず妾の元へ来る」

 僕は顔を顰めた。

 「お主を喰うのはその時が良かろ」

 あくまでも軽快に言ってのける。

 ふと、目に違和感を感じた。そっと人差し指で片目の瞼に触れる。

 瞬きをした。

 一回。ぎゅっと目を閉じ、また開いた。

 二回。乾燥した目が空気に触れて涙の膜を張る。

 ぱちぱちと瞬きを繰り返し、僕はやっとその事実を呑み込んだ。

 見える。

 目が見える。

 真っ暗な闇が消え去って、ダイレクトに色々な情報が映り込んでくる。

 真っ赤な液体があちこちに水溜りを作っている。赤い斑点のように飛び散ってもいた。その傍には、人の形をしていない化け物の頭部が転がっている。かと思えば、獣のような図体が、半身を千切られたように地面に横たわっている。

 僕は口元を押さえた。

 何だこれ。凄惨な事故現場じゃないか。ふざけるなよ。

 恐怖で声が出ない。

 気力を振り絞り、睨むように正面を見やると、そいつは笑っていた。

 「どうかしたかえ」 

 血のように真っ赤な唇。いっそ毒々しいほどに紅い長髪。十二単みたいに派手な衣装を身につけ、動くたびにシャランと髪に挿した簪が音を鳴らす。額には、大きな一つの角があった。

 美しくて恐ろしい一角の鬼女。

 ベニバナサマは僕の目を覗き込んだ。のけぞる僕に告げる。

 「妙な術じゃな。妖力を感じぬ……。見えるようになったのかえ」

 勝てる気がしない。

 僕の手で終わらせたいのに。こんなやつを相手にどう立ち向かえばいいと言うのか。

 体が固まった。

 「そろそろかの」

 ベニバナサマが呟く。

 立ち上がったベニバナサマに、僕は声を上げた。

 「戒里が欲しいからって、どうしてここまでするんだ⁉︎ 僕がお前に何かしたのかよ……っ、してねえだろ! どいつもこいつも何なんだよ……!」

 残酷な鬼女には届かない叫びだ。それでも僕は激情のままに叫んだ。

 「お前のせいで僕の家族は! 弟は! お前のせいで……!」

 ベニバナサマが僕を一瞥する。

 「何をした……ふふ。童、お主は勘違いをしておる」

 勘違いだって?

 「妾がお主に目をつけたのは、ただ霊力が高いと言うだけではない」

 「はあ? ……僕が、戒里の近くにいたから……?」

 「それもあるがの」

 どういう意味だ。

 僕は何かを見逃しているのか。

 ベニバナサマの弱点は戒里。戒里の弱味として僕は捕まった。三年前の事件は、僕に目をつけたベニバナサマが襲ってきた。こいつのせいで僕の弟は怪我を負った。それだけじゃないのか。

 ベニアナサマが僕に目をつけた理由。

 「、あやつは小娘を失った。泣き叫び、戦意喪失したあやつを捕らえたのは、一人の人間だった。あっという間に、あやつは人間に封印されたのじゃ」

 ベニバナサマが僕を冷たい目で睨んだ。

 「富と名声の欲に駆られた醜い陰陽師。あやつのことを知りもせず、未熟な力で、私欲のためにあやつの自由を奪った。半端に霊力の高い人間」

 僕は困惑した。何の話だ。

 「お主は『あの時』の陰陽師と。……

 ベニバナサマは伏し目がちに言う。

 「これは妾の悲願。じゃ」

 「しょく、ざい……」

 何の話をしている。僕は何かを見誤っている。ベニバナサマは残酷な敵。そうだ。そのはずだ。

 

 「お前が、お前のせいで、戒里の大切な人は死んだ。……村に病を広めたのは、お前だろ?」

 戒里に執着していて、戒里が人間を愛したことが無念だと言っていたじゃないか。

 だから、病気を流行らせたんじゃないのか。全てはベニバナサマが仕組んだこと。

 なのに、どうしてそんな顔をする。

 そんな、苦しくて、哀しくて、傷ついているみたいな表情。

 僕は何かを見落としている。

 「妾はお主が憎い。お主に流れる血が憎い。あやつも陰陽師の子孫と共にいるとは、何とも皮肉な話じゃ。三年前、妾はお主と出会って歓喜で震えた。やっと見つけたと」

 蘇る。



 人の子、人の子。

 美味そうな匂い。嗚呼、腹が空く。



 ……ベニバナサマの夢だ。



 駄目だ、我慢出来ない。

 『喰ろうてやる』

 喜ぶが良い。主らは妾の糧となるのだ。

 存分に、味わせておくれ————





 ————





 ベニバナサマが僕の目を見ている。体が動かない。

 「あやつが来る。話は終わりじゃ」

 まだだ。まだ話は終わってない。

 ベニバナサマは何かを隠している。戒里の過去に関する何か。今回の件もそれに関係しているのだと直感があった。

 ベニバナサマは僕がやっつけないといけない相手。そして、戒里が憎む相手でもある。なのにベニバナサマは僕を憎んでいて、戒里を幸せにしようとしていて、それで、それで。

 思考回路がうまく整わず、混乱が混乱を招いては先の見えない暗闇の中に沈む。

 「来た」

 ベニバナサマが怪しく笑う。

 違和感。

 僕は何を見ていたんだろう。

 何が、見えていないんだろう。

 ベニバナサマの簪がキラリと紫色に光った。

 「——一翔ゥ!」

 空気を裂くように、戒里の声が聞こえた。

 「ようやくお出ましかえ」

 僕を挟んで、二人は対立する。

 「無事かァ」

 「あ、ああ」

 戒里とベニバナサマが互いを警戒するように間合いを詰める。

 ベニバナサマが待ち侘びたように笑う。

 笑っている。

 「気色悪ィ笑みだなァ、おい」

 思えば、ベニバナサマは笑ってばかりだ。不気味な笑みを顔に貼り付けている。まるで仮面のように。

 「一翔ゥ、しっかりしろよ」

 体が動かない。

 「金縛りなんてすぐに解いてやっから。俺に任せとけェ」

 戒里の姿が変わっていく。

 長い爪がより鋭利なものになり、体も一回り大きくなっていく。二つの角はより頑丈に伸び、牙もまた鋭い。ベニバナサマとはまた違う赤色の目が、ギラギラと光っている。捕食する前の野生動物さながらに、獰猛さが窺えた。

 ベニバナサマは口角を上げた。チラリと見える口の端に、戒里と同じような牙がある。ベニバナサマは袂から扇子を取り出した。扇を広げる。

 「この時を待ち望んでいた。のう邪鬼、こやつの正体を知っておるかえ」

 「あァ?」

 「やめろ!」

 僕は咄嗟に怒鳴った。けれどベニバナサマが止まるわけがない。

 「お主の愛する人間を追い詰め、あまつさえお主を封印した男。こやつはあの者の血を引く、陰陽師の末裔じゃ」

 戒里が息を呑む。

 「知らぬふりはよせ。薄々気づいておったはずじゃ。これほどまでに似た顔と霊力を、お主が見間違うはずがないのじゃからな。妾は全てを知っておる。思い出せ、邪鬼よ。あの時の哀しみを」

 ベニバナサマは扇子で口元を隠している。

 「怒りを」

 戒里が拳を握った。

 「憎しみを」

 僕は唇を噛んだ。

 「お主の罪を」

 ベニバナサマは謳うように続けた。

 「奪われたのなら、奪い返すのみ。邪悪な鬼と呼ばれるお主なら、こやつを喰うことなど容易じゃろうて」

 愕然とする。

 戒里が僕を喰う? 初めから、それが狙いだったのか。邪鬼という種族の性質を僕に聞かせたのはそのため?

 僕はただの餌じゃないってことかよ。

 どこまでもふざけたやつだ。

 戒里の獰猛な目が僕に向けられる。

 恨みに満ちた瞳だ。

 「一翔を喰えばいいのかァ」

 耳を疑う。

 「戒里!」

 本気かよ。

 「そうじゃ。それでお主も妾と同じ……」

 バシッと乾いた音が鳴った。

 くるくると扇子が宙を舞い、血溜まりに落ちる。

 戒里がベニバナサマの目の前に迫り、扇子を弾いた手をぶらぶら振った。

 「オレとお前が同じィ? ちっと冗談が過ぎるんじゃねェの。お前にオレの何が分かる」

 「……分からずとも知っている。妾と同じ、人喰いの鬼。空腹の呪いを持つ者同士だろう?」

 「そんなもん知らねェな。どこで嗅ぎつけやがった。お前はオレとは違う。傀儡術を使えるからって一緒にされたくねェなァ」

 よく聞け、と戒里が言った。

 「邪悪な鬼の時代は何千年も前に潰えた。てめェがしてることは、もう時代遅れなんだよ。それにオレだって知ってるぜ? てめェは異空間から逃げられねェ。祠はオレが壊したからなァ」

 戒里の周りにぼうっと火の玉が浮かんだ。

 「異空間を壊せばてめェも消える。けどな、オレはてめェを殺すってずっと前から決めてんだよ」

 次いで、風船が割れたような破裂音。

 僕は爆風に当てられて、壁まで転がった。

 いつの間にか戒里がそばにいる。

 「一翔、逃げんじゃねェぞ。これはオレとお前の弔い合戦だァ」

 不敵に笑って見せる。

 「オレはオレのために。お前は、お前自身と家族のために決着をつけるんだァ。そのためにオレたちはここにいる。違うかァ?」

 「……違わない」

 謎は解明されていない。

 だけど僕は今度こそ覚悟を決めた。

 ベニバナサマを倒す。戒里のため。僕のため。僕の家族のため。もうそれでいいじゃないか。

 過去に何があったとしても、ベニバナサマのしたことは決して許されることじゃねえんだ。

 僕の敵はベニバナサマ。そして、僕自身もまた僕の敵だった。

 戒里の目を見て頷いた。

 「あれ、いつの間に目が見えるようになったんだァ?」

 そう言う戒里は、姿こそ違うものの、いつもと同じ顔をしていた。

 「何故じゃ……何故そやつを喰わぬ⁉︎」

 ベニバナサマが爆発の煙から姿を現す。無傷だ。

 「封印されたせいでお主は本来の力を失ったまま。妖力も何もかもが足りぬ。普通に過ごしているだけでは賄えないはずじゃ。傷の治りが遅いのもその証拠! 霊力の高い人間を喰わねば、妖怪を喰わねばこの先、! だからこうして喰うモノを揃えたのじゃ。お主のために! 妾ならお主を生かしてやれる! だのに何故!」

 そやつはお主の仇だろう、とベニバナサマが訴える。

 戒里は僕の腕を掴み、無理やり立たせた。後ろから両肩を掴まれる。

 「世界征服よりもひっでェ理由だな。そんなことのために大勢を巻き込んだのかよ。オレはよォ、永く生きることなんざ望んじゃいねェよ。こいつを喰ったところで意味なんかありゃしねェ。てめェの言い分なんざ知ったこっちゃねェぜ」

 グッと強く掴まれた肩。戒里は爪が食い込まないように、力加減をしてくれている。

 「オレは一翔があン時の陰陽師の末裔だとは思わねェな。顔も霊力の匂いもそっくりだけどよォ、こいつはただのガキだァ。何も知らねェ、あやかし嫌いの普通の人の子。オレが復讐するとすれば、それはてめェだ。ベニバナサマ」

 火の玉が出現する。

 さっきよりも数が多い。

 「オレはてめェを許さねェ」

 戒里が僕の手に何かを持たせた。握り込まされる。

 「餞別せんべつだァ。お前なら使えンだろォ」

 それはいつかの時のトランプだった。戒里が僕の家に転がり込んだ初日に、勝手に柄を変えられてしまったトランプ。妖力がどうとか言って変化したその柄が、元に戻ることはなかった。

 「妖道具だァ。騙して悪かったな。本物はお前のベッドの下に隠したぜ。帰ったら確かめろよ」

 僕はそれをケースから取り出す。

 ハートは鬼火に、クラブは雪の結晶に、ダイヤは木の葉に、スペードは白い花に。

 数字は赤く光ったり、青く光ったり浮かび上がっている。裏面は立体の幾何学模様だ。

 「手裏剣、分かるだろ。奴に向かって投げろォ。そうしたら、一翔の霊力に反応して術が発動する」

 顔を上げると、ベニバナサマも火の玉を幾つも空中に並べていた。

 こそこそ話す僕たちが心底気に入らないと言いたげだ。

 「お主がそのつもりなら、妾はもはや何も言うまい」

 すっと白い指が僕たちを示す。火の玉が襲いかかってきた。

 僕は一枚のカードを手にし、思い切り投げる。小さい頃に折り紙で作った手裏剣の投げ方をイメージした。

 火の玉が迫りくる。とその時、僕の投げたカードが空気に溶けるように消えた。

 「あれっ」

 焦った僕は声を上げた。戒里の視線が突き刺さる。

 い、いや。初めてだから。失敗はつきものだって。うん。

 僕が心の中で言い訳をする間にも、火の玉は爆発寸前の動きを見せた。

 終わった。

 僕は呆然とする。素早く戒里が腕を振り上げた。戒里の作った火の玉がわずかに動いた、刹那。

 爆発音と共に、目の前に、大きな雪の結晶が出現した。

 「やるじゃねェか!」

 戒里がはしゃぐ。

 凍るような冷気を頭上に感じながら、僕は高揚する気持ちを抑えきれなくなっていた。

 盾の役割を果たした雪の結晶はさらさらと消えていく。

 これなら、と思った。

 僕も戦える。


   # # #


 日暮れが近い。

 「で?」

 腰に両手を当てて、死神さんが責めるように訊ねる。

 提灯の出現は私たちの動揺を誘うには十分だった。異空間の外に動きがあったのだ。いよいよ時間がなくなっていることを悟る。

 社に連れ戻された私と佐々木さんは口を閉ざして、文字通り黙秘を貫いていた。

 よりにもよって死神さんに聞かれていたなんて。結構小さい声で喋っていたつもりだったのに。

 決まりが悪く、佐々木さんと揃って顔を背けた。

 死神さんの眉が吊り上がる。

 「異空間に行きたいのですか。何故?」

 ルカさんが首を傾げた。黒い髪がさらりと揺れる。優しくて丁寧なルカさん。死神さんよりはマシだろうか、と思いつつも、鎌鼬の待遇を見るとやはり口は憚られる。

 結界の外では、変わらず絶句するような光景が広がっている。

 みんなにかけられた妙な術を解くためにも、鎌鼬から話を聞き出したい。

 「沙夜」

 死神さんに名を呼ばれると、逆らえない気持ちが芽生えてくる。状況が状況だからだろうか。

 佐々木さんが不安そうに私の顔を覗き込む。言うか? どうする。そんな言葉が聞こえてくるようだ。

 ふう、と息を吐いた。心を落ち着かせるためだ。

 こんなところで躓くわけにもいかないしな。

 私は意を決して口を開いた。

 「へえ」

 語るうちに、どんどん死神さんの機嫌が悪くなる。何言ってんの? と副音声まで聞こえてきた。幻聴にも程がある。

 「何言ってんの?」

 ほらまた幻聴だ。いや、違う。これは実際に死神さんが言った言葉だ。

 死神さんがさらに言葉を繋げようとした時、嬉しいことにルカさんがそれを遮った。

 「異空間で気になることがあったんですか? ベニバナサマに会ったことは聞いています。その時に何か?」

 遠回しに心残りとは何だと尋ねられている。

 佐々木さんが話してくれと言った。死神さんの視線は相変わらず痛い。六つの目が私に向く中、鎌鼬だけが目を逸らしていた。

 「『人にも神にもなれなかった少女は鬼女となった』。本に書かれていた内容です」

 ぴくりと鎌鼬が反応する。

 私は言おうとして迷い、ついにそれを口にした。

 「ベニバナサマの狙いは、本当に世界征服なんでしょうか」

 「どういうこと?」

 どこから話せばいいのだろう。

 異空間に行く理由はシンプルだ。コウカのことが忘れられないから。ベニバナサマと話ができるとは思っていない。だけど、コウカに頼まれたのだ。ベニバナサマを救ってほしい。その言葉を思い出すたびに、私は胸が苦しくなる。

 泣きじゃくる、私よりもずっと幼い子ども。鬼になる前の、人間の頃のベニバナサマ。

 何が『コウカ』を『ベニバナサマ』に変えてしまったのだろう。

 ベニバナサマは本当に世界征服のようなことを目的に動いているのだろうか。私は疑問に思うようになった。『コウカ』がいなければ、考えもしなかった疑問だ。

 だから月森君の目を見えるようにしてほしいと頼んだ。彼なら、何か感じ取れるかと思ったから。ベニバナサマという存在をしっかり見るべきだ。コウカのために。私じゃなくても彼ならば。そう考えたから。

 だけど駄目だ。

 これは私が頼まれたこと。

 コウカの存在は私しか知らない。誰かに言ってはいけない気がするんだ。

 それを、どうやって三人に伝えよう。

 「娘」

 それまでずっと沈黙していた鎌鼬が口を開いた。

 「知りたいか」

 縋るような目。

 鎌鼬は全てを知っている。

 私だけじゃなく、死神さんや佐々木さん、ルカさんまでもが鎌鼬に視線を注いだ。

 「まだ秘密があったんですか」

 ルカさんが平坦な声で言った。鎌鼬は返事をせずにぷいと目を逸らした。

 「いい度胸ですねえ」

 苛立ったルカさんの声。死神さんの機嫌が少しだけ良くなった。

 「知りたい」

 私は鎌鼬と目を合わせるために、少し近付いた。佐々木さんが引き止めようと腕を伸ばしてきたが、私は見ないふりをした。

 「条件がある」

 鎌鼬が言う。

 「縄を解いてほしいのだ」

 豚の丸焼きを連想させる縛り方。

 「なっ。危険だ!」

 「嘘かもしれないのに、ボクが許すと思う?」

 鎌鼬が鼻で笑う。

 「俺はこの娘に言っているのだ。貴様らには言ってない」

 またそっぽを向く。

 ルカさんに目を移すと、彼はどうぞと手を向けた。

 死神さんと佐々木さんが制止をかけたが、私は構わず縄に手をかけた。

 解き終わると、鎌鼬は逃げ出すことなく、縛られていた箇所をさすっている。相当キツく縛られていた。縄を解いた私の指もちょっぴり痛い。

 鎌鼬が私に向き直った。

 「娘の言う通り、あの方の狙いは世界征服じゃない」

 苦々しさを表情に乗せる。

 「邪悪な鬼。あの方は邪鬼を生かすために今回の計画を立てたのだ」

 邪鬼とは、戒里さんのことだ。

 鎌鼬も猫又も戒里さんを心底嫌っていたような印象が残っている。戒里さんを許さないとか何とか言っていた記憶がある。

 「戒クンが死にそうなの?」

 死神さんが疑ってかかる。

 「すぐには死なぬ。だが陰陽師に封印されたとき、奴は妖力を失った。本来の力が百だとすれば、今の奴は四分の一以下の力しか持たない」

 佐々木さんが質問する。

 「それと戒里さんを生かすことは何の繋がりがあるんだ?」

 鎌鼬は素直に答える。根が素直なのかもしれない。

 「我ら妖は妖力がなければ生きていけぬ。妖力が命の源だからだ。だからこそ、妖力が不足することは滅多にない。妖力があるからこそ、普通、妖は人間と違って永久的な時を生きる。だが」

 「妖力が不足している戒さんは、そう永く生きられないんですね」

 戒里さんの傷を思い出す。妖怪は治りが早いと誰かが言っていた。だけど、それにしては戒里さんの傷はなかなか治らなかった。異空間で悪化したほどだ。

 「あの方は多くの妖や人間を捕らえるように、と我らに任務を与えた。我らはそれに従った。全てはあの方のため。からだ。だから猫又はあの方の命を受け、こう解釈したのだ。あの方が世界制服をするつもりだと。だが違った。もちろんあの方の『餌』となった妖もいたが、ほんのわずかだ。捕えた妖の大半は全て邪鬼の『餌』にするつもりだとあの方は俺に仰った」

 その辺りから捻じ曲がっていたのか。『餌』という表現に引っかかりを覚えたものの、今ばかりは無視した。

 「ベニバナサマの妖力が足りないのは、戒里さんが祠を壊したせい?」

 私の問いに、鎌鼬は首を横に振った。

 「元から妖力が不足していたのだ。あの方は、最初から妖として生まれたわけではなかったから」

 元々は人間だという話がここで繋がってくるのか。

 「だが、三年前の春、あの方の容態が悪くなった」

 「三年前……」

 紅花神社が造られたとされる時期だ。

 「妖力が足りぬどころの話ではなくなった。あの方は今にも消えそうだった。だから依代として存在した祠の近くに、社を建てたのだ。あの方は自ら『紅花神社』を造り、重ねて異空間を作った」

 そして、戒里さんが祠を壊したために、異空間から出れなくなってしまった。

 「あの方はまだ死ぬわけにはいかぬと仰った。悲願があるのだと。それもまた邪鬼のためであった。なのだ」

 「悲願? 戒里さんのためってどういう意味だ?」

 「なんで戒クンに執着してるんだい」

 鎌鼬は言い淀む。

 「教えて」

 「う、うむ。少し長くなるが」

 鎌鼬は語った。

 それは、ベニバナサマが人間として生きていた時代のこと。

 遥か昔の話だ。


 5

   鬼女1


 古傷というのは、いつまでもその身に刻まれて消えないものだ。

 鬼女は目の前の二人をこれでもかと睨んだ。嘲笑じみた笑みを浮かべる。

 殺意を振り撒き、今にも首を刎ねんとする勢いで鬼火を操作する鬼。その傍で、妖道具を懸命に投げてくる子供。

 周囲は爆発の余波で何もかもが飛散している。今日この日のために揃えた豪奢な宴の間は、今や木っ端微塵になっている。もはや血溜まりに落ちた扇子がどこにあるのかも判然としない。それでも異空間はまだ形を保っていた。

 二人分の恨みを一身に受けながら、鬼女もまた鬼火を繰り出した。

 自分は絶対悪でなければならない。悪行ばかり行ってきた故に、今更善行など出来る筈もないのだから。

 全ては悲願を果たすため。

 演じるのでも、成り切るのでもなく、完全な悪として鎮座しなければいけない。

 瞼の裏に焼きついた過去こそ、存在したる所以ゆえんなのだ。





 遠い、遠い日の記憶。

 赤子が両親に抱かれている。

 「コウカ」

 ふんわりと香る母の匂い。

 「あなたの名はコウカよ」

 涙でぼやけた視界の中、母のあやす声が聞こえた。

 「どうか健やかに育っておくれ」

 父の節くれだった指が頬をつつく。

 あたたかい。

 赤子はきゃっきゃと笑った。



 「痛っ」

 少女が自分の足で立ち、辺りを走り回れるようになったある日、母が指を怪我した。先端の鋭い刃物が指の腹を裂いたのだ。血がポタポタ垂れる。少女は慌てて母に駆け寄った。

 よっぽど痛かったのだろう。母の目に薄らと涙が滲んでいる。

 少女は母の苦しみを取り除いてあげたいと願った。母の手を握る。

 すると、母の指の傷がみるみるうちに塞がれていった。

 傷が消えている。少女は嬉しくなった。母も喜んでくれるだろうと思った。

 「コウカ。この力のことは、絶対に誰にも言ってはだめ」

 怖い顔をした母が怖い声で言った。泣き出した少女の声に、今度は父が駆けつける。

 少女は抱きしめられながら耳を澄ました。母と父は怖い顔をして何か話していた。



 父が大怪我を負った。狩りの途中で野生の猪に襲われたのだ。頭から血を流している。

 少女はまた願った。父の怪我が治りますように。すると、父の傷も瞬く間に治っていった。

 父は顔を曇らせた。

 「うれしくないの?」

 少女の言葉に、母も顔を曇らせる。

 「もちろん、嬉しいさ」

 「ええ。母様も嬉しいわ。けれど、父様のお怪我を村長に見られてしまったわ。夜が明けるよりも早く傷が治ったと知られたら、あなたは」

 「わたしは?」

 言葉に詰まった母の背に、父が手を置く。

 「おまえの力は特別なんだ。きっと天から授けられた奇跡の力だ」

 「おそらから? わたし、とくべつ?」

 「ああ。だけど、特別の力を無闇に使ってはいけないよ。おまえは俺たちの大事な娘だからな」

 私たちの子よ。

 奪われてたまるか。

 母と父の言葉の意味が少女には分からなかった。



 夜が明ける。日が昇り始め、傾き、山間に沈んでいく。

 村長がやって来た。

 「これはこれは。君は死に瀕していると思っていたのだがね。まるでだ」

 どんよりとした黒い目が少女を舐めるように見る。ニタニタと笑う村長に、母と父は怖い顔をしていた。



 少女の家に知らない人が大勢訪ねてくるようになった。

 「足を捻ったんだ」

 「腕を怪我した」

 「骨が折れた」

 「治してくれるんだろう?」

 最初、母と父は断っていた。けれどあまりにも訪ねてくる人が多く、次第に止められなくなっていった。



 村長が言った。

 「神様の力なのだから人のために使うんだ。人を救うために、その力、使ってくれるね?」

 少女は喜んで力を使った。この力で人を救えるのだと。なんて素晴らしいことなのだろうかとさえ思った。



 「すごいな」

 「治ったぞ!」

 「なんと、あなたは神様なのですか」

 「神の子だ。神の子が生まれたぞ!」

 治してくれ。癒してくれ。

 小さな傷から大きな傷まで、少女は片っ端から力を使った。時折、力の使いすぎで倒れてしまうこともあったけれど、そんな時は母と父が傍にいてくれたから、苦ではなかった。

 少女は嬉しかった。傷が治り喜ぶ村人の姿を見て、自分は人を助けるために生まれてきたのだと思った。



 すくすく育った少女は、だんだん、村の神様として崇められるようになった。

 少女は彼らの期待に応えようと力を使い続けた。

 傷が癒え喜ぶ村人と相反して、母と父は浮かない顔をするようになった。いや、思えば、初めて少女がその力を使った時から、両親は良い顔をしていなかった。けれど人の役に立っているという実感に溺れ、少女は両親の不安に気付かなかった。



 事件は起こった。



 夜。ぱちぱちと火が爆ぜる音がして、少女は目を覚ました。起き上がると、いつも両隣で眠る両親の姿がない。

 少女は起き上がり、声が聞こえる方へ足を動かした。光が漏れているその隙間を、そっと覗く。

 「やめて!」

 ビクッと肩が震えた。

 「あの子は私たちの子よ! 神の子でも、悪魔の子でもない!」

 母の声だ。泣き叫んでいる。

 「私に逆らうというのかね? 今ここで火をつけても良いのだぞ」

 「どうかご慈悲を! あの子は今まで多くの人を救ったではありませんか! なぜこのような仕打ちを!」

 父が地面に頭を擦り付けている。

 村長のそばに立つ男が言った。

 「俺は見た。あいつの力で片腕を失った男の腕が生えたのを」

 数日前に少女の元に転がり込んできた男は旅人だった。旅の道中、物怪に襲われ右腕を失ったという。この村にはどんな怪我も治せる神の子がいるのだと聞いていたから、命からがらにやって来たのだと。事情を話す間も血が流れていた。男は痛いと、このままだと死んでしまうと少女に縋った。痛々しいその姿に少女は言葉を忘れ、心のままに力を使った。この人を助けたいと思っての行動だった。旅の男は涙を流し、感謝を述べたその翌日に、また旅立っていった。

 村の男が叫ぶ。

 「あんなのは悪魔の所業だ! ! 悪魔だ。悪魔の子だ。あいつは存在してはいけない!」

 そうだそうだと後ろからも声が上がる。目を爛々と輝かせ、火のついた木棒を掲げる。

 「奴はそのうち我々を破滅に導くだろう。あの神のような力で、悪魔のように我々を虐げる。そうなる前に手を打つのだ。私とて残念だよ。素晴らしい逸材かと思えば、そうではなかったのだから」

 村長が母と父に告げる。

 「庇うというなら、悪魔の子を産んだお前たちも生かしてやれぬ」

 鮮血が飛び散る。

 何かが転がってきた。その正体に気付く前に、少女は呼吸ができなくなった。本能が警鐘を鳴らす。

 首だった。大好きな両親の動かない瞳に少女が映っている。

 足の力が抜ける。少女はその場に座り込んだ。

 何が起こったのか、理解が追いつかない。目の前で起きたことが現実だと認識できなかった。

 どうして。

 なぜ。

 グラグラと視界が揺れる。

 気付けば、大勢に囲まれていた。

 「殺しても生き返りそうだ。洞窟に繋いでおけ」

 村長の声。

 幾人もの手が伸びてきた。腕を掴まれ、足を押さえられ、髪を引っ張られ、身動きが取れないように縄で縛られる。

 頭を殴られた。

 誰かに抱えられ、家の外に連れて行かれる。

 ぱちぱちと火の粉が舞い、焦げた匂いが鼻につく。ぼやけた両目に飛び込んでくる。頭のない両親の体と、その後ろで燃え盛る我が家。安堵する村人の顔。暗闇に意識が引き摺り込まれ、少女はついに気を失った。



 目を覚ますと、見知らぬ場所にいた。灯り一つなく、どこかでぽちゃんと水の音がするだけだ。人の気配もない。

 少女は襲いくる寒気に身を震わせた。

 両手両足は壁面に杭で打ち付けられている。身動きなど取れるはずもなく、痛みに呻く。

 力も使えない。いや、力なんてどうでもいい。

 少女は何も考えたくなかった。だけど何度も何度も蘇る。頭のない両親の姿が瞼の裏に焼きついている。虚な目がこちらを見ている。真っ赤な血と炎の色。下卑た笑みの村長。複数の冷たい目。母と父の必死な叫び。少女の体に伸びてくる無数の腕。

 赤が消えない。

 考えたくもないのに、考えることしか出来なかった。

 傷を癒してくれと言われた。人のために使う力だと言われてきた。数えきれないほど力を使った。見知った人の傷を、見知らぬ人の怪我を、絶えることなく治してきた。

 少女は、自分が涙を流していることにも気付かず、考え続けた。



 洞窟に閉じ込められてから一度も食事や水を与えられず、また人が来ることもなかった。昼なのか夜なのかもわからない。洞窟の入り口は完全に塞がれているのだろう。水溜りに水滴が落ちる音が聞こえるたびに、あの日の赤が蘇る。血の色。燃える家。

 大好きな二人の空虚な瞳がずっとこちらを見ている。

 涙を流しすぎた少女の目は真っ赤に腫れ、乾燥し切っていた。もう泣きたくても涙が出ない。

 杭で打ち付けられた箇所も最早何も感じない。

 喉の渇きと空腹で朦朧とする。

 時折、遠くから楽しげな声が聞こえた。村人の声だ。会話こそ聞き取れないものの、宴でもしているかのような賑やかさだった。

 少女はずっと考えている。

 頭の中の言葉はどんどん単調になっていく。複雑な思考は必要ない、ただただ考え続けていた。

 母。殺された。

 父。殺された。

 首。転がった。

 家。燃やされた。

 村長。笑っていた。

 村人。笑っていた。

 神。子。言った。

 悪魔。子。言った。

 裏切られた。殺された。奪われた。失った。喪った。殺された。喪った。奪われた。失った。燃えた。許さない。許せない。憎い。

 だって嗤っていたんだ。

 少女は息も絶え絶えだった。長く続く飢えは体も心も蝕んでいく。

 傷が消えない。どんな傷も治してきたのに、少女は消えない傷を抉ることしかできなかった。

 考える。考える。考える。

 奴らはのうのうと生きている。幸せそうに笑っている。聞こえる。

 ——

 少女は願った。

 どうか。神でも悪魔でもどっちでもいい。どうか力を。癒す力なんていらない。恐ろしい力を。どうか。

 やがて心に巣食う憤怒の感情だけが残る。



 それから、少女は死んだ。



 そしてある時、眼を覚ました。

 



   鬼女2


 洞窟から抜け出した鬼女は、様変わりした風景に目を瞬いた。

 記憶に残る村がない。そこには新たな文明があった。かつての村長も村人もすでに死んでいた。

 人間の頃の空腹と憎しみを抱えたまま、鬼女は新たな時代を彷徨った。行き先も居場所もない。

 空腹には逆らえなかった。人間を見ると憎悪で体が動く。はっと我に返ると、いつも足元に人間の骸があった。口元が赤に染まっている。それでも満たされない感覚に耐えられず、鬼女は繰り返し人を喰った。

 正常な思考になった時にはもう遅かった。何百年もの間、この手で多くの命を奪った。

 空腹は消えない。まるで呪いだ。

 非道な行いだと自責の念に駆られ、人を襲うことをやめた。けれどいつの日も飢えが鬼女を蝕む。結局飢えを凌ぐために幾度か人を襲った。小さな妖にも手をかけた。

 血に塗れたこの身が切望する『生』。どれだけやめたくても止められない殺戮。

 もう、うんざりだ。

 死にたい。死にたくない。人間が憎い。人間に戻りたい。腹が減った。食べたくない。喰いたい。

 思いとは裏腹に、鬼女はその手を血に染めた。

 「——まるで邪鬼じゃきだ」

 襲いかかる妖を返り討ちにしたとき、そいつは襲って来たにも関わらず、鬼女を見て怯えた。襲う相手を間違えたと言わんばかりだ。

 「ジャキ……?」

 知らない言葉だ。これも妖の世界では普通のことなのだろうか。

 「なにそれ」

 「し、知らぬのか。邪悪な鬼と呼ばれる種族を。空腹の呪いをその身に宿している。あんたのようだ。まあ、その邪鬼は随分昔に封印されたままだと聞いたがな。御伽噺のようなものだ」

 心底安堵している。鬼女は呆れた。妖には血の気が多い奴ばかりなのか。

 負けを悟ると及び腰になる者が多くて困る。

 それにしても。

 「空腹の呪い……」

 鬼女が呆然としている間に、そいつは逃げた。五つの目を持つ妖だ。何だか気味が悪い上に胡散臭い。

 口から出まかせでも言ったのだろう。鬼女はそう思うことにした。

 けれど程なくして鬼女は出会った。二つの角をもち、自分と同じように人や妖を喰う鬼に。

 真っ青な空だった。雲一つない快晴の下、彼はそこにいた。

 何の変哲もない山の中。早朝は少し霧が多いが、別段気に止めることはない。強いていうならばからすが多い。

 鬼女がそれを見かけたのは偶然だった。次の土地へ向かう途中に踏み入った山で、妙な気配を感じて木陰に身を隠す。

 人間だった頃の感覚はもうほとんどなかった。妖力を感じ取ることが当たり前になってきた時分、ぞわっと鳥肌が立つ妖力の匂いがした。

 まるで拒絶反応のようにピリピリと全身の毛が逆立つ。

 彼は人形のように無表情な烏天狗たちと行動していた。

 「腹減ったなァ」

 妖の骸の上で、血に染まった手を腹に当てる二角の鬼。口元は血で汚れている。捕食シーンも見てしまった。なるほどまさしく邪悪な鬼と呼ばれるだけはある。鬼女は一目で彼が邪鬼だと判った。

 封印されていたという話ではなかったのか。

 そんな風に思いながら、興味本位で木陰から眺めていると、ばちっと目が合った。

 美しい赤い瞳。きらきらと日の光に照らされて輝いている。ふわりと風に揺れる髪さえも赤みを帯びていて、それがとても艶ややかに映った。

 魅入られる。

 「任務は終わりだ」

 烏天狗に呼ばれて鬼の目が逸れる。その隙に鬼女は立ち去った。

 ばくばく脈打つ胸に手を当てる。何だか頬が熱い。

 妖に身を堕として色が変わった、自身の紅い髪。元は黒髪だったが、今は面影すらない。紅は嫌な記憶を連想させる色。血の色は全て嫌いだ。

 だけど、彼の赤い瞳は綺麗だと思った。



 空腹を感じない。

 あの鬼の姿を思い出すだけで、長年苦しんでいた飢餓感が一気に失せる。こんなのは初めてだった。何もかもが満たされた感覚。人里を見て憎しみどころか、何も感じないなんて。鬼女は目の前が明るく照らされた心地がした。

 鬼を見かけて数年が経った。

 鬼女は新たな土地に向かわず、あの鬼がいる山の近くに身を潜めていた。激しい雨風で風化した小屋の跡地に小屋を作った。鬼女が作ったのではない。仲間が作ってくれたのだ。

 「また物思いに耽っていらっしゃるのですか」

 鬼女の足元で、鎌鼬が恭しく頭を下げている。小柄な体躯。脇腹あたりに大きな切り傷がある。

 野蛮な妖に襲われたとかで行き倒れていたのはつい先日のことだ。鬼女としてはそのまま喰ってしまっても良かったのだが、何となくそうはしなかった。代わりに差し出した手を、どこか困惑したように握る鎌鼬。以降、彼は鬼女のことを命の恩人と称した。

 「やめてよ。わたしはそんなことされるような偉い妖じゃない」

 鬼女が顔を上げるように言うと、鎌鼬は渋々姿勢を崩す。

 「そうは仰いますが、俺はあなたさまが居なければ、きっと追手の手にかかり殺されていた。感謝しているのです。こうしてあなたさまの役に立つことこそ、俺の望みなのです」

 鎌鼬は追われていた。血気盛んな妖に目をつけられたから、というのが理由だ。『鎌鼬』という種族は、三人組で行動する妖のことを指す。まず最初の一匹が風を起こして相手を転倒させ、続いてもう一匹が鎌を振り下ろし傷を作り、最後の一匹が傷口に薬を塗る。そういう習性を持つ鎌鼬は、旋風を味方につけているために捕まえにくい。

 けれど、鬼女が拾った鎌鼬はたった一匹で致命傷を抱えていた。見つけたときは瀕死の状態だった。大方、悪戯を仕掛けた妖を怒らせてしまったのだろう。

 「俺の兄弟は殺されてしまった」

 鎌鼬が悲しみの目を伏せる。自業自得だと言いたい気持ちもないわけではなかったけれど、鬼女は妖の本能が如何に厄介なものかを知っている。鎌鼬もまた本能には逆らえないのだ。それが当然の生き方だから。

 兄弟を失った鎌鼬は鬼女の元を離れようとしなかった。

 「傷、治さないの。切り傷に塗る薬があるんだよね」

 鬼女は、小さな体躯に刻まれた傷にそっと触れた。

 グッと声を抑えて痛みを我慢する鎌鼬。それでも拒否しない。律儀なやつだ、と鬼女は思った。恩義を感じた者に仕えるその姿勢は、盲目的とは言わないまでも、それに近しいものを感じた。

 「俺は三番目の兄弟じゃないのです。俺は鎌を振り下ろすだけで、薬は持っていないのです」

 喪った二匹の兄弟を思い出したのか、さらに眉間に皺が寄っている。

 鬼女は少し考える素振りをして、やがて告げた。

 「治してあげようか」

 捨て置きたい記憶の中に、身に染みて忘れられない力がある。人間だった自分が鬼となった原因。恐ろしい力を手に入れた一方で、あれほど要らないと念じたにも関わらず鬼女は癒しの力を使えた。

 その存在が脳裏に過ぎるたび、湧き出す激情。憎しみと恨み。喪失感。それが、あの日出会った鬼のおかげか、静かだ。ここ数年殺戮の衝動もない。

 凪いだ心地の今、あの力を鎌鼬に使っても良いのではないか。そう思えるほどには、鬼女の心は正常に戻りつつあった。

 「あなたさまはそんなことも出来るのですか!」

 鎌鼬の純粋無垢な瞳に自分の姿が映り込んでいる。変わり果てた姿。一つの角を持ち、牙を光らせ、紅い髪が風に揺れている。少女の姿とは似ても似つかないほど成長した。飢えで苦しむ自分はもういない。

 「じっとしてて」

 鬼女は先刻と同じように、鎌鼬の傷に触れた。若干膿んでしまっているその傷が、みるみるうちに再生されていく。膿はなくなり、傷口が塞がる。

 「なんと……!」

 鎌鼬は自分の体を見下ろして、喜色に満ちた笑みを浮かべた。しかしすぐに翳る。兄弟を思い出したのだろう。

 けれど、と思う。

 喪った者を想う彼は、自分よりもよっぽど早くに前を向くのだろう。

 鬼女はそれを複雑に思いながらも、鎌鼬が仲間として傍に居てくれることを内心喜んだ。

 季節は巡る。

 「ねえ鎌鼬、彼の様子はどう?」

 鬼女が尋ねると、鎌鼬は「はい!」と大きく返事をした。

 「相変わらず山から出られないみたいですな。天狗の隠れ里にいるのは間違いないでしょうが、その存在は秘匿されているようなのです」

 「ふーん」

 「ああ、会えないからと淋しがらなくても良いですぞ。近々、天狗たちの派閥争いが起きるようです」

 「別に淋しがってなんか……派閥争い?」

 鎌鼬は小さな旋風つむじかぜを二つ作った。

 曰く、大天狗の行いに不満を持った天狗が反旗を翻そうと立ち上がった。悪逆非道なことを繰り返してきた大天狗と、その息子である天狗の対立。正義は後者にあった。

 鎌鼬は一つの旋風を、もう片方でかき消した。残った旋風が緩やかに渦を巻いている。

 「今のおさは失脚するでしょうな。鬼の様子を見るために潜り込んだ里は荒れに荒れていました。しかし天狗が大天狗を討てば、かの鬼も外へ出られるようになるという話」

 微笑ましそうに柔らかい視線を向ける鎌鼬に苛ついて、その尾に鬼火を灯した。

 「あちちっ!」

 鎌鼬が慌てて鬼火を消そうと奮闘する。しかし容易に消えるはずもなく。

 「ひ、ひどいですぞ」

 鎌鼬が少し焦げてしまった尾を大事そうに抱えている。

 「手加減はしたよ。焦げる前に消したでしょう」

 「いや焦げております」

 「治してあげようか」

 「そういう問題ではありませぬ」

 尾に触れ、癒して見せる。鎌鼬は納得のいかないような表情をしていた。

 「しかし良かったですな。あなたさまの惚れた鬼と相見あいまみえるのも、時間の問題です」

 「まだ言うか」

 決して揶揄っているわけでは! あわあわと両手を動かす鎌鼬に、鬼女はふんと鼻を鳴らした。

 鎌鼬には鬼のことを話していた。邪悪な鬼ということも、鬼女が鬼と話してみたいということも、全て知っている。

 「傀儡術というのはそんなにも便利なものなの」

 鎌鼬が鬼女の代わりに天狗の隠れ里を訪れる際、小耳に挟んだという術だ。

 「あなたさまも使えるのでは?」

 「練習してみたけれど、傀儡術自体は使えなかった」

 自分が動かなくても良いという点に惹かれて特訓し始めた。鬼女は容易に身動きができない状態だった。なぜなら「一角の鬼女」は有名になってしまったからだ。

 本能に抗えず手にかけた人や妖。その罪が露見した。いや、元々噂として広まっていたのだろう。人間や妖を喰う鬼女がいると。気付いた時には「一角の鬼女」は姿形でさえ知られていた。鬼女はやはり身を隠すしか術がなかった。鬼に会えないのは、それも一つの理由だ。一番は顔を合わせるのが恥ずかしいからだが。向こうは鬼女のことなどもう忘れているだろう。鬼女は美しい赤い瞳を思い出す。

 これもまたとがか。

 自分はあやまちだらけだ。

 「少しだけなら操れるようになったよ。ほら、お前が作った木の人形。あれくらいなら多少は操れる。大きさは小さいけれど、思ったよりも精巧に作られているから驚いたよ」

 鎌鼬が腰に手を当てて胸を張る。

 「そうでしょうとも。あなたさまのために腕を磨いたのですぞ」

 「よく出来ている」

 素っ気ない言葉でも、鎌鼬は真摯に受け止めるのだということを失念していた。

 翌日、鬼女は頭を抱えた。増えた木の人形のせいで小屋が途轍もなく狭くなったからだ。これじゃあ眠れもしない。

 「『手』を増やせば喜んでもらえる思ったのです……。この前も烏天狗に壊されてしまったゆえ……」

 「あれはわたしが悪かったわ。彼らの目につくところへ動かしてしまったから。けれどそれとこれとは話が別よ。わたしはまだこの量を操れないのに」

 「で、では、小屋を大きく致しましょう!」

 誰の目にも触れないように、いっそ異空間でも作れたら楽だろうか。

 「そういえば、お前はいつもわたしを妙な呼び方で呼ぶね」

 夕暮れ。外に出れない代わりに、鎌鼬が今日もまた食糧を持ち帰った。今日のように山菜や山の獣を狩ることもあれば、川の魚を獲ってくることもある。人里へ下りることは滅多にない。

 「あなたさまの名を呼ぶなど畏れ多いことです」

 何だか距離を感じる。鬼女は鎌鼬に名を呼ぶように言ったが、やはり鎌鼬は首を横に振った。

 「あなたさまは少々常識が欠けておりますゆえ、俺は気をつけているのです。妖にとって妖力が命の源。名も同じこと。真名とは存在そのものです。あなたさまは巷で残虐だの何だのと言われておるのだ。いつどこで誰が襲ってくるとも知れませぬ。簡単に名を呼ぶのは危険ですぞ。ただでさえ、あなたさまの妖力は不足しているのだから。俺は心配しているのです」

 なんだかむず痒い。

 鬼女は口をつぐんだ。

 「俺はあなたさまの過去を知らぬ。しかし過去のあなたさまが何をしていたとしても、あの日、俺を救ったのはあなたさまだけなのです」

 鎌鼬の顔が、久しぶりに翳った。

 「俺の噂を知っておりますか。同族殺しの鎌鼬。そう呼ばれているようです」

 驚いた。

 「なぜ?」

 「兄弟を見捨てたからです。兄弟を見捨てたくせに、のうのうと生きている。元来、鎌鼬は三つの魂で一つの存在になるのです。けれど俺は一つの魂で一つ。これは、鎌鼬という種族では“恥“なのです」

 「お前は兄弟を殺していないわ」

 「殺したも同然でしょう。見捨てるとは、そういうことなのです」

 よく分からなかった。

 「コウカ。わたしの名はコウカよ」

 御託ごたくはいい。鬼女は鎌鼬に言う。

 「わたしの名を知る者は、お前しかいないの。危険があると言うのなら常に呼ぶ必要はないのよ。でもたまには呼びなさい」

 鎌鼬はポカンとしていた。

 数分経ってようやく言葉を呑み込んだようだ。

 「コウカさまがそう仰るのならば」

 嬉しそうに笑う。なんだ、やっぱり呼びたいんじゃないか。

 「俺は」

 鎌鼬が初めて名を告げる。

 「コウカさまも俺の名を呼んでくれるというのでしょう?」

 やはり嬉しそうにするから、鬼女はむずむずとして、鬼火を灯した。

 「な、なぜ⁉︎」

 慌てる鎌鼬。鬼女はその日、声を上げて笑った。


   鬼女3


 天狗のお山は荒れていた。からすの声が辺り一面に響き、翼の羽ばたく音や爆発じみた音があちらこちらから聞こえてくる。空は曇りが続いていた。人里では不安そうに山を見上げる人間の姿があった。

 派閥争いが始まり、鬼女と鎌鼬はこれまで以上に外へ行かないように気をつけた。

 そしてその戦も、間もなく終わる。

 天狗の隠れ里は戦場の跡のようになっていた。多くの妖の血が流れ、また多くの天狗の命が散っていった。

 大天狗は失脚した。鎌鼬の言う通り、邪悪な鬼と呼ばれるかの鬼も、これでようやく自由に『外』へ出れる。

 お山は時と共に穏やかさを取り戻し、大天狗が存命だったとき以上に栄えていた。山の獣たちも力が満ち溢れている。

 山の空気が全て変わったと言っても過言ではなかった。

 川から汲んできた綺麗な水の筒を、鎌鼬が抱えている。普段であれば、とてとてと歩くその足が木の根に引っかかりはしないかと心配するが出来なかった。口から出る乾いた咳に妙な音が混じる。

 鬼女は血を吐いた。

 「コウカさま!」

 鎌鼬の焦る声が耳の奥にキンと響く。

 鬼女の背に置かれた手は小さいながらもあたたかい。鬼女はそのまま気を失うように目を閉じた。

 「お目覚めですか」

 目を覚ますと、鎌鼬の顔が目の前にある。

 パチリと目を瞬く。

 ぼんやりとした頭で考えるが、答えを出す前に鎌鼬が言った。

 「コウカさまの妖力が不足しています。倒れたのはそれが理由でしょう」

 体を起こそうとする素振りを見て、鎌鼬が手を貸してくれた。鬼女が口を開くより先に、筒を手渡される。水。

 「ゆっくり飲むのですぞ」

 妖力の不足は死の暗示。鬼女は水をゆっくりと飲み込んだ。

 「近頃、コウカさまの妖力は乱れておりました。自分でも分かっているはずです。俺はあなたさまに死んでほしくない」

 鎌鼬の目には涙の膜が張ってあった。翳る、純真無垢な瞳。

 鬼女は俯いた。心当たりはある。

 天狗の派閥争いが終結し、かの鬼が山を動き回れるようになった。この山だけでなく、今や彼はどこへなりとも行ける。

 ビリビリと手足が震えている。

 美しい赤い瞳に魅入られたあの日もそうだった。

 鳥肌が立つ。痺れる。妖力の匂いが濃くなるたびに、全身がそれを拒絶する。

 「わたしは……」

 予感はあった。

 鎌鼬と出会う前。鬼を一目見たくて、天狗の隠れ里へ行こうとした。けれど行けなかった。鬼の元へ近寄るだけで体が痺れ、息が苦しくなった。力がうまく制御できない。。鬼女はそれ以降、鬼と再び相見えることを夢見るのはやめた。

 視界が揺らぐ。

 会えないのならせめてそばに。自分の存在を知ってもらえなくてもいい。彼の姿を遠目で見ながら、鎌鼬と過ごす“ここ“が気に入っていた。

 それなのに。

 ポタポタと筒を持つ両手が濡れていく。遠い遠い過去の記憶。涸れるほど涙を流した、暗闇の光景。

 泣いているのだと気付き、驚く。この両目はまだ涙を流せたんだな、なんてどうでもいいことを考える。

 「コウカさま……」

 鎌鼬が顔色を窺ってくる。

 「山を離れましょう」

 顔を顰めた鎌鼬。二つの感情がせめぎ合っているように見えた。

 「このまま、かの鬼のそばにいるとあなたさまの妖力は今よりも乱れ、消耗していくばかりです。これ以上妖力が不足するときっと血を吐くだけでは飽き足りぬ。かの鬼の妖力は異常に強力だが、あなたさまの妖力は微弱。今も苦しいはずです」

 「どこへ行くというの」

 ——「一角の鬼女」には居場所がない。それは「同族殺しの鎌鼬」もまた同じだった。

 自分たちには居場所がない。

 罪に塗れた者。全てから否定された存在。望まれない『生』。

 鎌鼬が鬼女の手を握る。

 「俺はあなたさまに死んでほしくない。死んでほしく、ないのです」

 目の前で兄弟をうしなった鎌鼬。瀕死の状態だった彼に手を差し出したのは、他の誰でもない自分だ。

 「……」

 彼の目の前で死ぬことだけは避けたかった。

 「夜明け前にここを離れるわ」

 鬼女はそう言うしかなかった。

 時間がない。

 妖力の不足は死の暗示。だけど、殺戮はうんざりだ。

 時間がない。

 この鎌鼬を一人置いていくわけには行かない。

 夜がやって来た。

 鎌鼬が作ってくれた木の人形を運ぶ余裕はなかった。しかし、かと言って放置するわけにもいかず、小屋を発つ前に全て破壊した。鎌鼬は何も言わなかった。鬼女もまた口を閉ざしていた。

 後ろ髪を引かれるような想いで、山を振り返った。目を閉じる。

 ——恋なんて。

 くるりと踵を返して、鎌鼬と発つ。

 当てもなく彷徨うことになるだろう。行く末もままならない。きっと何十年、何百年と彷徨い続ける。

 美しい赤い瞳が忘れられない。忘れてしまえと思う反面、忘れるわけにはいかないと思う自分がいる。

 夢見た日々はやはり夢でしかないというのに。

 妖力の拒絶反応は、

 恋なんて知らなければ良かった。許されない想い。決して結ばれない運命。弔うことすら叶わない。

 どうしてわたしは彼に恋をしてしまったのだろう。


   鬼女4


 崖の下でぼろぼろの猫を見つけた。人間に追い詰められ、虐められている。木の棒や槍、刀、あらゆる武器の先端での攻撃。

 血だらけのその猫は仕返しもせずに地面に伏せていた。いや、抵抗する力がもうないのだろう。虫の息だ。二つの尾がぴくりとも動かない。

 「化け猫め!」

 「妖がどうしてこんなところにいるんだ!」

 「死んでしまえ!」

 寄ってたかってなおも猫を苦しめる人間たち。目が血走っている。それほど殺したいのだろうか。

 胸糞悪い。

 「鎌鼬、助けてやって」

 鬼女が横にいる鎌鼬に指示を出す。

 鎌鼬は素早く背負っている鎌を手にして、思い切り振り下ろした。

 人間が強風に巻き込まれて目を回す。その隙に、鬼女は猫の元へ降り立った。

 「思ったより大きいのね」

 近寄ると、猫の体躯が鎌鼬よりも大きいことに気が付いた。

 目が薄らと開いている。

 体は血だらけで、どこが傷口なのかわからない。

 鬼女は猫を抱えた。人間を風に巻き込み、不安そうにこちらを見る鎌鼬に合図を送る。

 強風が消え去った。残された人間たちは荒い息を整えながら、首を捻る。さっきまでいた猫の姿がない。

 「そやつはどうするのです?」

 崖の下を一瞥した後、鎌鼬が猫の顔を覗き込む。ぎゃっと叫んだ。

 「睨んだ! 俺を睨んだぞ」

 「まだ死んでいないようね」

 傷口を探すために目を凝らす。見つけた幾数の傷にそっと触れた。すると、致命傷だった傷は徐々に塞がっていく。

 「今夜はこの辺りで休憩にしましょう」

 鬼女が言うと、鎌鼬は素直に頷いた。



 ぱちぱちと火を焚べる音がする。

 鬼女は欠伸をしたあと、夜空を見上げた。煌めく星々は久方ぶり。雲ひとつない、とまでは言わないけれど、幾つもの星が輝いて見えるのは稀だった。ふと、赤く光る星に目を惹かれる。咄嗟に視線を下へ向けた。

 鎌鼬が小枝をぽきりと折る。折れた枝の裂け目は棘のように尖っている。お世辞にも綺麗とは言い難いが、鬼女はそれを見て肩の力が抜けた。

 猫又は厚手の羽織りに包まれている。まだ眠っているようだ。寝息も立てずにいる様は死んだと見紛うほどだった。

 ぱちぱちと火の粉が弾ける。

 「あなたさまは変わらぬ」

 ぽつりと呟く。鎌鼬の目には煌々こうこうと焚き火が灯っている。

 鬼女は物言わず、鎌鼬を横目で見た。

 「時代が変わっても、あなたさまの妖力は不足したままである……。人や妖に手をかけるわけにはいかぬと仰ったが、それでも俺は」

 「黙りなさい」

 鎌鼬が悔しそうに唇を噛む。

 鬼女は怖い顔をやめて、優しく微笑んでみせた。

 「異空間を創造するには練習が必要なの。妖力が回復しないのは仕方のないことよ」

 「妖力を使えばすり減ると知りながら、どうして練習なんか」

 「お前は本当に子供ね。異空間さえ作れたら、わたしたちがこの世を彷徨う必要はなくなると言ったでしょう。傀儡術だって練習したもの。本物とはいかないまでも、似た性能の術を扱えるようになったのよ」

 「そうだが……でも……」

 鎌鼬がいじけたように枝を折る。ぽき。ぽき。小気味よく鳴る音に、猫又が身じろぎをした。

 鬼女は折れた枝に人差し指を向けた。すると、幾本もの折れた枝が一人でに動き始める。まるで棒人形。鎌鼬のまわりを囲むようにしてやると、鎌鼬はふっと表情を緩めた。

 「誰だ」

 猫又が目を覚ました。体を起こし、こちらを警戒するように睨んでいる。

 「助けてやったというのに、無礼な奴め」

 鎌鼬が鬼女の前に立つ。庇うようにするものだから、猫又はさらに警戒心を強めていった。

 これでは逆効果じゃないの。

 「お前、崖の下で人間に虐められていたのよ。傷は治してみたけれど、痛いところはないかしら」

 猫又は自分の身体を見下ろした。そこでようやく、傷が消えていることに気付いたようだった。

 しばらく呆然としていたが、疑り深いのか、再びこちらを睨んできた。

 怒りに似た眼差し。

 覚えがある感情の色。

 「助けてくれたことには感謝する。だがせぬ。何故なにゆえ我を助けた?」

 「ふん。お前が可哀想だったからに決まっておるだろう」

 身も蓋もない言い方。鎌鼬の頭を小突く。ぎゃっと叫ぶ彼は、以前よりも子供らしくなった。一緒に過ごすうちに心を許してくれたのだろうか。それにしては他者への態度が横柄すぎる。

 猫又の瞳に激怒が宿る前に、鬼女は口を開いた。

 「不思議だったからよ。人間に追われていたことが」

 猫又の尾がゆらゆら揺れる。

 「お前、猫又になって日が浅いというわけではないでしょ。それなりに手練れかと思ったのだけれど、それがどうしてあんなに傷だらけになるのかしら。追ってきた人間のせいにしては、妙な気配を感じたわ」

 そう。多勢に無勢が気に入らなかったのは一つの理由だ。だけどそれ以上に、妙な気配に意識が引っ張られた。

 妖とは違う、されど強い霊力の匂い。

 「陰陽師を知っておるか」

 「都で妖狩りをしている人間のことかしら」

 「しかり」

 猫又はおもむろに語った。

 人の子が山に迷い込んだ。日は沈み始め、真っ暗な空の下で、少年はわんわんと泣いていた。

 耳障りだと思ったが、助けてやらぬのも気が引けた。

 幸い、猫又は二つの尾を除けば一見ただの猫。少年の目の前に姿を現すこともさほど抵抗はなかった。少年は現れた猫又の姿に一つ瞬きをしたが、自分以外の存在に安心したようだ。泣き止んだ少年を導くように、猫又は前を進んで歩いていった。

 村が見え始めたとき、異変に気が付いた。

 四方八方から感じる視線。

 慣れない霊力。人間の匂い。

 嵌められたと悟ったが遅かった。

 背後から手が伸びてきた。猫又の体をいとも容易く拘束する。術だ。術を使われた。人ならざる力。

 「小僧……っ、式神か?」

 泣いていた迷子の少年などいなかった。すべて罠。自分を捕えるための卑怯な嘘。

 少年は無感情のまま言った。

 「我があるじの意のままに」

 少年が目を動かす。視線の先には、欲深く醜悪な男がわらっていた。

 「かの猫のごとき物怪もののけは非常に残忍で嘘吐きです。しかしみなさま、安心なされよ。此度こたび、私という陰陽師の手にかかれば、かような物怪どもはたちまち地に伏せるでしょう」

 歓声を上げる村の人間たち。

 式神に目を塞がれた。

 ぐさりと刃が突き刺さる。血がこぼれ落ちる合間でさえ容赦なく、ぐさり、ぐさりと抉られる。痛みで呻いた。

 嗤い声がする。痛ぶって愉しんでいる男こそ陰陽師を名乗る者だと、見なくてもわかった。

 石を投げられる。刺される。全身がカッと熱くなり、すぐさま冷めていく。意識が朦朧としてくる。呼吸も苦しくなってきた。だのに奴らは止まらない。

 我が何をしたというのだ。

 猫として一生を終え、偶然妖として生まれ変わった。ただそれだけぞ。

 人を襲ったこともない。

 だのに何故なぜ

 猫又は無理やり拘束を解いた。血も妖力も足りぬ。逃げた後を幾人かの男が追ってきた。陰陽師は追ってこなかった。「どうせ死ぬ」、去り際、奴の吐いた言葉が殺意を増幅させる。

 傷だらけで遠くへ逃げれるはずもない。猫又はついに地に伏せる。人間どもが刃を突きつけてきた。

 目を瞑る寸前、二つの影が横切る。

 「それが俺たちだったというわけだな」

 鎌鼬が腕組みをして頷いた。

 「我はあやつが許せぬ。陰陽師というのはみな、あやつのようにあやかしというあやかしを狩っているのだろう」

 「陰陽師は何人もいるのよね」

 「あ、ああ。そのようだ」

 役職の一つである、陰陽師。以前の鬼女であれば、彼らに親近感を抱いていただろう。

 人間でありながら特別な力を持っている。

 鬼女は傷を癒せた。ある種の使命感を抱きながらその力を行使していた。彼らも本質は同じだろうと思う。

 だが今は、そんな彼らに嫌悪感しか湧いてこない。

 「……これも因果、なのかしら」

 人間だったころ、多くの人を救ってきた。数え切れないほどの怪我を治した。

 そして全てを奪われた。

 鬼女になって間も無く、多くの人を殺めた。大勢の妖にも手をかけてきた。それこそ数えきれないほど。

 そして出会った。

 妖に兄弟を殺され、喪失感に打ちのめされていた『同族殺し』の鎌鼬と。

 人間に殺されかけ、陰陽師を恨む猫又と。

 自分はどうかしているのかもしれない。こんな脆弱な体で何が出来るというのか。

 復讐でもないのに。

 そう思うが、鬼女の口はすでに動いていた。考えるよりも早く、脊髄反射のように。

 「その陰陽師と戦いましょう」

 妖をあざけり、痛ぶることをたのしむような人間だ。この先もきっと多くの妖をおとしめ、命をも奪っていく。

 そうなる前に、わたしが。

 「正気ですか!」

 鎌鼬が手にしていた小枝を落とした。真っ逆さまに火の中へ。ぼおっと一瞬、炎が大きくなった。

 「我のため……とでも言うつもりか」

 どこか放心したように猫又が訊ねる。

 「お前のためでもあるし、わたしのためでもある。これから誰かが命を落とすかもしれないでしょう。だから、戦うの」

 罪滅ぼし。それだけは口に出さず、鬼女は空を見上げた。闇の中を照らすように煌めく星々。一際目を引く赤い星は、やはり変わらず綺麗だった。


   鬼女5


 決戦のときだ。猫又が意気揚々と言った。

 朝日に照らされた空はまだ少し色褪せている。遠くの山の上から、厚く黒い雨雲がじわじわと迫ってくるのが見えた。

 「状況は?」

 鬼女が尋ねると、猫又が二つの尾を揺らした。

 「全て順調ですとも。奴らの拠点は全て壊滅。式神とて僅かしか残っておらぬ。このまま上手くいけば、今夜にでも決着はつくはずですぞ」

 偵察に行った鎌鼬はまだ戻らない。

 「例の式神は倒せたのかしら」

 猫又の動きがぴたりと止まった。

 「……否」

 猫又を襲ったのは、かの醜悪な陰陽師と彼に従う少年のような容貌の式神だった。当時の村人は数に入れていない。猫又が恨むのは村人も含めた人間だけれども、ただの人は放っておいても死ぬ。そういう考えらしい。猫又はあの陰陽師と式神への恨みが強い。

 「奴らは我を襲った後も、各地で妖退治なるものをしていた。東へ行けば傷だらけの妖がいた。西へいけば屍となった妖たちがいた。奴の霊力の匂いはどこにでもこびりついている。あの時の式神は、奴の霊力を余すところなく注がれて作られたようだ。それ故に、奴の元を決して離れぬ。どこへ行っても、何が起きても、決して」

 奇襲は不可能だった。

 あの男は強い。式神も同様に。霊力がそれを物語っている。簡単に倒せる相手ではない。

 猫又は下を向いた。ギリっと歯を食い縛る。

 鬼女は口を開いた。

 「寄せ集めた妖の霊魂で作られた式神たちは、使い捨ての道具のように扱うものね。陰陽師にとって妖とはその程度の存在でしかない。だから奴は人間には愛想を振り撒き、わたしたち妖には容赦がないのよ。でも、それも今日で終わり。そうでしょう?」

 「……その通りですな。我らはそのために」

 ドクン、と心臓が音を立てる。鬼女は胸を抑えた。まるで体中の血液が沸騰したみたいだ。霊力が乱れる。

 前屈みになった鬼女の様子に、猫又が血相を変えた。

 「くそ、奴の攻撃かっ!」

 違う。

 鬼女は咳き込んだ。乾いた咳が空気を震わせる。

 猫又の動揺が伝わってくる。

 ゲホッと血を吐いた。鬼女は口元を拭った。久方ぶりの感覚に全身が冷えていく。

 近くに“彼“がいる。

 邪鬼と呼ばれた赤い瞳の鬼。

 風が巻き起こる。

 突風の中から鎌鼬が現れた。

 「大変だ! 陰陽師めが向かう先の人里で鬼を見つけました。あのときの鬼です!」

 鳥肌が立つ。

 わたしは何に恐れているというのか。

 鬼? それとも——。

 鬼女は膝をついた。視界がぐらりと回る。

 じわじわと黒い雲が広がっていく。



 言い争う声がする。

 「ここまで追い詰めたのだ! この機を逃すわけにはいかぬ!」

 全身が重い。

 「あの方に無理をさせるのか! 俺は許さぬ、今回は見送るのだ!」

 頭が痛い。全身が熱い。

 「鬼がいるから何だ。我は、我らはこの日のために準備をしてきたのだぞ! 奴らが弱っている今こそ好機!」

 「そんなことは分かっている! だがあの鬼はあの方の天敵。邪鬼がいる限り、あの方が回復することはないのだぞ! あの方が死んでしまってもいいと言うのかっ!」

 「誰がそうと言ったのだ! 我だって……!」

 鬼女は目を開けた。

 雨が降っている。

 ザーザーと岩肌を打ち付け、大気を切り裂くようだ。

 体を起こすと、そこは洞窟だった。蘇る少女の記憶。思わず頭を抑えた。

 いつも鎌鼬が持ち運んでいる毛布がかけられていた。どれだけ気を失っていたのだろう。

 ピカっと目の前が光る。雷だ。

 洞窟から出ようと立ち上がる。ふらつきながら出口に向かうと、鎌鼬を見つけた。雨をじっと見ている。

 気配に気付いたのか、鎌鼬が振り返った。

 「コウカさま……!」

 眉を下げ、目に涙をため、縋るように言った。

 「猫又あやつ、あやつが行ってしまった。俺、とめ、とめられなかった」

 鬼女は鎌鼬の肩に両手を置き、目線を合わせた。

 「陰陽師あいつはどこ?」

 鎌鼬の肩が揺れる。

 「ひ、人里……あ……あの鬼もいます」

 彼は鬼女の腕を強く掴んだ。

 「コウカさま、伝えたいことがあります」

 「あとにして。猫又あのこのところに行かないと」

 鎌鼬はぶんぶんと首を横に振る…

 「いいえ、いいえ。猫又あやつを追う前に、伝えなければならないことがあるのです」

 雨音が激しい。

 ドクンと脈打つ心臓。嫌な予感がする。皮膚の下を虫が這うように“彼“の気配を感じる。

 鎌鼬がぐっと顔を歪めた。

 「コウカさまが倒れて数刻、人里でやまいが流行り出したのです」

 「やまい……」

 「不幸にも多くの人間が息絶えました。病の原因はあなたさまです」

 「うそよ。……うそでしょう……?」

 本当に、嫌な予感がしたのだ。血を吐くほどの拒絶反応。身に覚えがある。

 「妖力の乱れは人間に毒です。コウカさま。病の進行はもはや止められませぬ。あなたさまが意識を失い、すでに四日が経ちました」

 鬼女は息を呑んだ。

 まただ。もううんざりだと思っていたのに、またもや大勢の命を奪ってしまった。

 過ちを繰り返している。

 殺戮の輪廻からは逃れられない。

 陰陽師を倒そうとしただけだ。数多くの妖たちが死に至った元凶と戦う。居場所のない自分たちが出来るのは、きっとそれぐらいしかないから。

 だけどそれさえ許されない。罪滅ぼしでさえも。

 戦おうとしたのが間違いだったのだろうか。

 それとも誰かのためだと考えたことが間違っていたのだろうか。

 鎌鼬が言った。

 「あの陰陽師は、病の原因は鬼だと吹聴しています。かの邪鬼は人里へよくおりていたようで、それを目撃して……。コウカさま、いっそのこと邪鬼のせいにして、どうか逃げましょう! ここにいては危険です! だから——」

 「ふざけたこと言わないで!」

 思わず大声を出すと、鎌鼬がまなじりをつり上げた。

 「ならば、どうすると言うのですか! 俺はあなたさまを放ってはおけぬ! 邪鬼のせいで死ぬのは許せぬ。陰陽師に退治されるのも!」

 「それは……っ、戦えばきっと」

 鎌鼬が遮った。

 「ならぬ。ご自分でも気がついているはずだ。今のあなたさまでは陰陽師に敵わぬ。俺も負ける」

 まともに戦えるわけがない。

 鎌鼬は顔を歪めたまま、吐き捨てるように言った。陰陽師への恨みや鬼女への失望というより、自分の弱さに辟易へきえきとしているようだった。

 雨が降っている。たとえ血を吐いても、傷を負っても、雨が全てを流してくれる。誰かに気付かれることもなく、ひっそりとその存在は消えていく。

 「……あのこが行ったのはいつ?」

 猫又の姿が見たい。仏頂面の猫又の笑顔をこの目に映したい。彼の笑った顔を見たことがなかった。

 陰陽師のところにいるはずだ。

 「昨夜、飛び出して行ったのです。こんな時間になっても戻らないということは、もう……」

 鎌鼬は口をつぐんだ。

 鬼女は唇を噛む。

 雷鳴。

 雨が弱まっていく。黒い雨雲の隙間から光が射し込みはじめた。西日の光。

 妖の時間がやって来る。

 「……そうね。お前の言うとおりよ」

 こんな体じゃあ、陰陽師とは戦えない。今まで準備してきた術も使えない。決戦ではなく泥試合になってしまう。

 「わたしたちは弱い。こんな状態で戦っても負け戦にしかならない」

 戦うと考えたのが悪かった。

 正々堂々とする必要はないのだ。相手だって、元々善人ではないのだから。

 「猫又あのこを探しましょう。たとえ死んでいたとしても、迎えに行くのよ。猫又あのこの亡骸まで奪われてしまったら、何もかも浮かばれないわ」

 鬼女はふと遠くを見つめた。

 血にまみれた両手で誰かの命を救うなんて幻想だった。

 人間だった頃の良心はとうの昔に踏み躙られた。鬼となった今、人のような感性で生きていては身が保たない。心を擦り減らしてばかりいる。

 自分は善人ではない。善人に憧れ、それになりたがった悪人。誰かに恋することも、誰かを愛することも許されない。逆もまた然り。

 何十、何百と人間の命を散らした。幾十、幾百と妖を喰らった。

 そんな自分が綺麗なやり方を出来るはずがなかった。

 汚れてしまった手で出来るのは、汚いやり方だけだ。

 「だったら……」

 鎌鼬から手を離した。洞窟から出る。

 雨雲はすっかり風に流されていった。沈む夕日に目を細める。

 逢魔時おうまがとき。人の世界と妖の世界が交差する時間。

 「もう、いらないわ」

 心なんて捨ててしまおう。

 本物の鬼に、いや悪魔になろう。



 。人や妖を喰らう鬼女なのだから。



 「コウカさま」

 鎌鼬が不安げに名を呼ぶ。

 鬼女はゆっくりと振り返った。鎌鼬が再び口を開こうとするのを、人差し指で押し黙らせる。



 「わらわ紅花べにばな。誇り高き一角の鬼。のう鎌鼬、おぬしは妾についてきてくれるかえ」

 ニィと口角を上げた。




   鬼女6


 邪鬼が封印された。愛する人間を胸に抱えていたところを、一人の陰陽師が捕らえたのだ。

 鬼を退治したとして、陰陽師は多くの人から賞賛された。

 有名になりはじめた陰陽師は、あるとき殺された。彼の屋敷はどこもかしこも血に染まっていた。

 目撃した人間の話によると、女がいたという。

 美しい一角の鬼だった。真っ赤な髪を靡かせ、月に照らされたその姿は異様なほど赤かった。傍には、二匹の妖がいたそうだ。



 鬼女は笑った。笑うことしか出来なかった。

 後悔がある。

 邪鬼に恋をしてしまったこと。彼の愛する人を奪ったこと。

 元凶の陰陽師は死んだ。

 彼は恨んでいる。自分を封印した男と、男に封印の理由を与えた鬼女のことを、殺したいと思っているだろう。

 全てを失ったとき、死は隣に現れる。寄り添うかのようにこちらを窺っている。

 生きていてほしいと願う。鎌鼬が何遍なんべんも訴えたその気持ちが、痛いほど伝わってくる。

 大切な人には生きていてほしい。

 それだけなのだ。

 本当にそれだけ。

 それだけのために。

 恨みは生きる糧になる。かつての自分がそうであったように。だから鬼女は決めた。絶対的な悪として、彼の恨みを一身に受けようと。そのためなら何だってする。“絶対悪“として存在し続ける。願わくは彼の手で終わらせてほしい。そうでなければ連鎖は止まらない。

 これは悲願だ。

 彼が生きる恨むことを望めば、鬼女は役目を終える彼を救える

 悪いのは全て自分だから。


 6

   # # #


 鎌鼬は続けた。

 「幸いにも猫又は無事だった。だがあの日、邪鬼が封印され、あの方はひどく胸を痛めた。この世からすべて陰陽師を排除せんとする勢いだった。俺は止めた。あの方は例の陰陽師を倒したあと、俺に言った。自分が邪鬼の封印を解く。一刻も早く、と。あの方が望むならと俺たちは従った。思えば、それが間違いだったのだ」

 戒里さんの封印を解こうと奔走して十数年が経った。ベニバナサマは日に日に弱っていった。何度も戒里さんの封印された場所に行ったからだった。妖力の拒絶反応はベニバナサマを蝕み続けた。まるで呪いのように。それでもベニバナサマは戒里さんの元へ通った。封印の術を解読するためだ。

 陰陽師を殺したことに後悔はなかった。しかし、封印の解き方は何がなんでも聞いておくべきだった。ベニバナサマはいつも鎌鼬にこぼしていたという。鎌鼬と猫又は、彼女の支えになろうと心に決めていた。

 ベニバナサマが異空間の術を練習していたことも知っていた。彼女の妖力がそのせいでまた失われていくと知りながら、黙っていた。鎌鼬と猫又のためだと分かっていたからだ。ベニバナサマは決して口にはしなかったが、そう考えていることは明白だった。誰がそんな彼女を止めれるというのか。

 そうしてまた時が流れ、異変は起こった。

 「邪鬼の封印を解くためにあらゆる手を尽くしていたが、どれだけ時が経とうと手がかりは掴めなかった。それなのに妖力は不足の一途を辿り、死の兆候が見えはじめた。俺たちは焦った。だがあの方はもっと切実だっただろう。そのころだ。いつだったかは定かではない。しかしあの方の様子がおかしくなったのは火を見るよりも明らかだった。あの方は狂気に呑まれたのだ」

 恋は執着へと形を変えた。理性よりも本能が浮き出てくるようになった。そこにあるのは暴走した信念だけだ。

 「それが……ベニバナサマの……」

 その先は言えなかった。

 私の言葉を引き継いだのは、死神さんだ。

 「暴走がエスカレートしていったんだね。でもうまく呑み込めないな。キミは何が目的なの?」

 「俺は……」

 鎌鼬はふうと息を吐いた。自分を落ち着かせるためだろう。

 「俺は、ただ」

 地面が揺れた。

 「な、なに?」

 「地震か?」

 ぐらぐらと揺れ、やがて天井が崩れはじめる。

 ルカさんがはっとして叫んだ。

 「違いますよ……! 異空間が壊れはじめているんです!」

 崩れゆく社から脱出して、私たちは揃って口を閉ざした。

 異空間で何が起こっているの。


   ☆ ☆ ☆


 「た、倒した……のか?」

 自分がやったことではあるが、倒れているベニバナサマを見ると恐怖心や罪悪感が芽生えてくる。幸い、ベニバナサマも僕らも出血はひどくない。血だらけでないだけマシだと思った。

 「いや」

 戒里は警戒を緩めない。

 あたりに宴の片鱗はもはやなく、机も座布団も散り散りになっている。僕が投げたトランプも、うまく術が働かなかった数枚は散乱している。豪華絢爛の面影なんてない。空中の妙なところにヒビが入っていた。異空間の切れ目だ。戒里が言うには、この異空間はもうもたないらしい。ベニバナサマの絶命と同時に異空間は滅びる。

 「問題は外の住人だァ」

 戒里は崩れかかる異空間には一切目もくれず、倒れているベニバナサマを睨んでいた。再び起き上がることを危惧しているようだ。壮絶な戦いは終わった。ベニバナサマはもう戦う余力すら残っていないはずだ。

 決着はついた。

 「どういう意味だよ」

 汗が背筋を流れる。

 「異空間の外にいる人間に、妙な術がかけられてンだ」

 「妙な術って……。おい、どういうことだよ。外はどうなってんだ?」

 戒里は何も言わなかった。

 ただじっとベニバナサマを睨んでいる。

 「おい、戒里!」

 僕は戒里の腕を掴んだ。呻き声を上げた戒里の苦悶な表情にはっとする。慌てて手を離すと、戒里の腕から血が流れていた。よく見ると、はだけた和装は真っ赤に染まっている。腹からも出血があった。

 「その傷」

 思わず声に出た。戒里は気にすンなと僕の頭をぐしゃぐしゃ撫でる。

 「さっきヘマしたんだァ。言わせんな」

 視界がぼやけてきた。

 僕は瞬きを繰り返す。だけど目の前は曇っていくばかりだ。目を擦ろうとしてやめた。赤くなった手は使えない。

 「一翔? どうしたァ?」

 応えようとしたが、そこでやっと気づいた。

 戒里の顔が見えない。

 暗闇。真っ黒に塗りつぶされた視界。

 目が見えなくなっていた。

 そのとき、ガシャンと何かが大きな音を立てた。

 「あぶねェ!」

 戒里が僕の腕を引っ張る。

 「てめェ……! 夜雨と雅はどうした!」

 何が起こってる? まさかベニバナサマが立ち上がったのか。

 「何故なぜだ」

 僕は息を呑んだ。ベニバナサマじゃない。僕はこの声を知っている。

 「何故なぜ、あなたさまが倒れて……」

 行き場を失い、ふらふらと頼りない声だ。

 「貴様か」

 足が竦んだ。戒里が僕を庇っていることがわかった。生暖かい液体が僕の肌にべっとりとつく。きっと僕も血だらけになっているだろう。攻撃されたのかどうかも分からない。ただ戒里の傷は見た目よりも酷いような気がした。

 「貴様らが……!」

 ガシャンとまた大きな音が聞こえる。地面が揺れているように感じた。

 「ベニバナサマは滅んだ。てめェらの野望はもう叶いっこねェ。諦めろ」

 「我は……どうすれば……」

 「人間に妙な術をかけたのはてめェだろ? 解呪法を言え!」

 「鎌鼬……あやつはどこにおる……あやつがいなければ、あなたさまがいなければ我は……」

 グラグラと地面の揺れが激しくなっていく。

 「おい、聞いてんのかよ⁉︎」

 「黙れえぇ!」

 猫又が叫んだ。

 「貴様に、貴様如きに奪われるものかッ! 邪鬼に教えることなどない!」

 戒里が呻いた。攻撃されたようだ。見えない僕は何もできない。戒里がまた呻いた。どうして反撃しないんだ。

 「認めぬ……我は認めぬ……!」

 空気を切り裂く音。猫又の声が震えている。

 「我らを救ったのはあなたさまだ! 我らを置いて行かないと仰ったのもあなたさまだろうッ!」

 ぱちぱちと燃える音。泣いているみたいだ。

 「それなのに何故なぜ、邪悪な鬼が生き、あなたさまが死なねばならぬのだ……!」

 ガラスが割れるように空間が崩れていく音。

 戒里の呻き声に、僕ははっとした。

 反撃しないんじゃない、できねえんだ。僕がいるから。

 「戒里!」

 考えるより先に僕は声を張り上げた。

 「戒里、いいから、僕を庇ってくれなくていい……!」

 「見えねェやつは黙っとけ! ぐ、くそ野郎、往生際が悪ィぞ!」

 「戒里‼︎」

 僕の顔に飛沫が散った。濡れている。見えなくてもわかる。戒里の血だ。苦しそうな戒里の声が聞こえた。

 血に塗れ、傷を負った戒里の物言わぬ姿が頭に浮かぶ。やがてそれは弟の倒れている姿と重なる。

 僕は震える手足を叱咤して、猫又がいるであろう方向を睨んだ。

 「何故なぜだ……何故なにゆえ……」

 壊れた人形のように呟く猫又は、今も戒里へ攻撃し続けている。妖怪の術を使い、その鋭利な爪で切り裂かんとしているだろう。

 僕は地面に膝をついてトランプを探した。さっき戒里が腕を引っ張ったとき、僕の手から離れてしまった物。あれさえあればと急ぐ。

 「一翔!」

 突き飛ばされた。また庇われたのだ。

 咳き込む戒里が鮮明に見えるようだった。汗が頬を伝う。手足の震えは収まらない。何を怖がっているのかもよく分からないまま、僕は呆然とした。

 「、一翔、いいか」

 掠れた声で戒里が僕を呼ぶ。嫌な想像ばかりしてしまう。

 「後ろに扉がある、襖だ、横に開けろ」

 「なんの話だよ……っ」

 「妖道具だ、この紙を貼れ、貼って開けろ」

 「だから、なんの……!」

 うるせェ! と戒里が遮った。ぐ、と痛みを堪えたような声が、言葉の合間合間に聞こえた。

 「オレが合図する、見えなくても走れンだろォ」

 何かを握り込まされる。感触からして紙だ。戒里は息も絶え絶えに言った。

 「外のことは任せろ、オレ様が絶対になんとかしてやる、いいな」

 頭が真っ白になる。僕だけ逃すつもりか。

 「戒里はどうすんだよ!」

 そう言うとやつは笑った。

 「ばーか。お前がオレを心配してどうすンだよ。言ったろ。決着をつけるって。こっちは大丈夫だァ。お前ェが守るんだよ、この街を……っ」

 痛みに声を引き攣らせる戒里は、今もきっと笑ってる。顔を顰めながらいつもの能天気な表情をしてる。

 鼻がつんとした。目の奥がじんと熱くなる。

 望まない結末が待っていると知りながら、僕はやっとのことで頷いた。

 揺れる。地面も天井も何もかも崩れていく。

 紙を握っている手とは反対の手で拳を握る。全ての感情を手の中に集めて逃がさないみたいに、グッと強く握った。

 「何故なぜだ……何故なぜ

 猫又が途方に暮れたように呟いている。

 戒里が三度、痛みに声を上げた。

 僕は真っ黒な世界で待つ。

 ガシャンと大きな音がする。

 「行け‼︎」

 合図とともに僕は後ろへ走った。見えない、だけどなんとなくわかる。誰かに導かれるようにして走ると、襖に辿り着いた。紙を貼り引手に手をかける。カッと瞼の裏が明るくなった。光る。

 そのまま光の世界に足を伸ばし、僕は転んだ。

 「月森君!」

 いつかのときみたく、雨水の声がした。

 蝉が鳴いている。


   * * *


 崩れていく社から何かが飛び出してきた。転がるようにして現れたのは月森だった。真っ赤に染まった服からポタポタと血が流れ落ちる。砂利の上に血の滴がごく小さな水たまりをつくる。

 「月森君、月森君!」

 雨水さんが倒れた月森の肩を揺すろうとしていたが、死神さんがそれを止めた。

 「気を失ってるみたいだ。まあ無理もないね」

 完全に社の形を失ったそれは、見るも無惨なありさまだった。激しい損壊の音は夕暮れに溶け入って、やがて何事もなかったかのように静かになる。

 「そんな」

 鎌鼬の力ない声に俺は警戒した。社が壊れ、異空間はどうなっているのか分からない。鎌鼬が暴走しないとは限らなかった。

 雨水さんと死神さんが月森を鳥居に寄りかからせた。怪我を確認している。俺は血の気のない月森の顔を見たが、すぐに目を逸らした。鎌鼬を捕まえているルカから視線を感じる。いつもは何とも思わないのに、今だけはルカの気遣う目に苛立った。

 「何か来ましたよ」

 ふとルカが見上げる。俺も空を見た。何か黒い粒が近づいてくる。黒粒はやがて俺たちの頭上にやってきた。黒粒は黒粒ではなかった。黒い羽を背に、宙を浮いている人の姿。

 「烏天狗」

 雨水さんが言った。上を見ている目がキラリと光る。

 「貴君きくんらが協力者であるな! これより結果の中に入る!」

 烏天狗の一人がそう言った。

 俺は足の力が抜ける心地で、もう一度見上げる。

 数分が経った。

 烏天狗らと死神さんは話している。雨水さんから聞いた話を伝えているのだろう。短期間で色々なことが起きすぎている。

 「結界の外が心配ですね」

 「ああ。異空間の方も心配だ」

 ふと、雨水さんの姿が見えないことに気付く。

 慌てて周囲を見渡す。死神さんと烏天狗らはまだ話を続けている。月森は気を失ったまま鳥居の下にいる。ルカは鎌鼬を捕まえている。

 どこに行ったんだ。一人で結界の外に出るはずがねえ。

 瓦礫と化した社の向こうに目をやる。俺はほっと息をついた。

 近付くと、足音に反応したのか、雨水さんが振り返った。

 「なに見てるんだ?」

 お互い、疲れ切っているのは分かっていた。

 「祠。戒里さんが壊したっていう祠を見ていたの」

 ほら、と示された場所に注目する。

 力任せに殴ったのだろうと思われる祠は、社同様、無惨な姿だった。一瞬でもバチが当たると考えてしまったのは無理もないだろう。

 「あっちはどうなってるのかな」

 異空間のことは、俺も心配があとをたたない。

 「行こうとしてねえよな」

 こちらを見た雨水さんの目がぱちりと瞬く。

 考えすぎか、と頬が熱くなる。

 「いや、悪い。俺の考えすぎだな」

 雨水さんはしゃがみ込んで、壊れた祠の破片を指先でつついた。つまみ上げる。

 「異空間と社は繋がっている。異空間とベニバナサマもそう」

 雨水さんが振り返る。なにを見ているのか気になって、俺も後ろを振り返った。社の残骸。

 「社は壊れた。だけど、

 「……雨水さん?」

 「佐々木さんはベニバナサマが滅んだと思う?」

 言葉に詰まった。

 雨水さんは満足げに頷いた。すぐさま眉が下がる。

 「まだ、生きてるんだよ」

 そのとき、俺はどうしようもないほど怖くなった。ベニバナサマが生きているかもしれないことに対してじゃない。まだ異空間にいるだろう彼らを失うかもしれないことでもない。ただただどうしようもなく、先を見通すような雨水さんが恐ろしいと思った。

 「離せッ!」

 ルカを突風で突き飛ばした鎌鼬は、俺たちに急接近してくる。死神さんと烏天狗らが呆気にとられ、すぐさま鎌鼬を捕獲せんと動き始める。

 油断した。俺は咄嗟に雨水さんの前に出ようとしたが、それを止めたのは他でもない雨水さんだった。

 「どけ!」

 鎌鼬は雨水さんを一瞥したが、それだけだった。危害を加える余裕もないほどの焦りが伝わってくる。祠の破片には一切手をつけず、鎌鼬はそのまま木々の隙間に体を滑り込ませた。

 「私も連れてって」

 俺は雨水さんの腕を掴んだ。

 「何言ってんだよ!」

 俺の焦燥など眼中にないようだ。

 鎌鼬がぴたりと立ち止まる。雨水さんを映す目が鋭く光る。

 「何が目的だ」

 「私こそ聞きたいよ。あなたの目的は?」

 一触即発。

 「沙夜!」

 死神さんが駆けてくる。

 「ふん。小娘が生意気な。どうなっても知らんぞ」

 「あなたこそ、どうなっても知らないよ」

 「ついてくるならば名を告げよ」

 「雨水沙夜うすいさよ。雨に水で雨水、沙羅の夜と書いて沙夜」

 鎌鼬が鎌を手にする。



 「…………俺は、ふうじ。風に慈愛と書いて風慈ふうじだ」



 俺は、雨水さんと鎌鼬のその不可解さに思わず手に力を込めた。妖怪の鎌鼬が名を教えた? 妖怪にとって名は対等の証。どうして。

 はっとして力を抜く。雨水さんは痛がる様子を見せず、俺の肩をトンと軽く叩いた。まるで親友にするような気安さだ。

 「佐々木さん、こっちは頼んだ」

 行ってくる。

 そう言って雨水さんは鎌鼬と木々の隙間に消えていった。目にした異空間の入り口のことは、このときの俺の頭にはなかった。

 死神さんが茫然としている。

 夏なのに肌寒い風が頭上を駆け抜けた。


   # # #


 鉄の匂いがする。

 鎌鼬が裏口を使って異空間に来たのだと言った。社の裏、もっと言えば祠のすぐ近くの木々の隙間に、まさか異空間への通り道があるなんて誰が想像できただろう。彼らはいつもこの裏口から『外』を行き来していたらしい。

 大広間についた。鎌鼬の足取りに迷いはない。ここにベニバナサマがいるとわかっていたようだ。

 襖は開け放たれた状態だった。部屋の中は、どの部屋よりも赤い。嫌な色だ。匂いまで。

 前を歩く鎌鼬が部屋に入る。私も後に続いた。その途端、鎌鼬が毛を逆立てた。

 ベニバナサマが倒れている。それだけじゃない。猫又と戒里さんも近くで倒れていた。

 「……!」

 争った形跡はいたるところにあった。崩れかかった天井、散らかった破片、飛び散る赤色。そのどれもが激しい戦いを表している。

 鎌鼬は真っ先にベニバナサマに駆け寄った。猫又の様子も気にしている。

 私は戒里さんの元に走った。座り込むと、膝にべっとりと赤黒い色がつく。白かったはずの包帯は真反対の色に染まっている。

 冷たくなった私の指がその体に触れようとしたとき、戒里さんの目が薄く開いた。

 「……ァで……」

 よく聞こえない。血を吐いたのだろうか、異様なほど赤くなった唇がゆっくりと動く。私にはその言葉がわからなかった。

 戒里さんが私の腕を掴んだ。赤ちゃんよりも弱々しい力だ。

 「あ……い、つら、たの……だァ」

 今度はなんとなくわかった。私は戒里さんの手を握った。

 「任せてください。大丈夫です、夜雨さんも雅さんもきっと無事ですよ。……大丈夫です」

 戒里さんが目を閉じる。顔を顰めずにはいられない。私は、私の腕の傷を覆っている包帯を外した。私の血がついていない方で皮膚を覆うように、戒里さんの傷口を圧迫させる。保健の授業でやったことだ。だけど、本当にこれで戒里さんが救えるとは思えなかった。

 傷口を圧迫し続ける私の前が暗くなった。影だ。後ろに誰かいる。

 「あわれ、よのう」

 蚊が鳴くようにか細い声だ。振り向くと、まず紅が目に入った。はっとする。やはり生きていたのだ。美しく着飾っていたベニバナサマはもういない。髪も体もすでにボロボロだった。

 「娘、どけ」

 鎌鼬が私に言った。その腕はベニバナサマを支えている。ちらと彼らの背後を見やる。猫又はまだ倒れたままだ。

 眼光鋭い鎌鼬は、私を安心させるかのように、もう一度「娘」と呼びかけた。声が柔らかい。

 それでも私が警戒を崩さないでいると、意外なことにベニバナサマが私に話しかけた。

 「安心するのじゃ……妾にはもうそやつを害する力は残っておらぬ……」

 ベニバナサマが手をかざす。戒里さんが呻いた。慌てて戒里さんを見る。

 「うそ。なおっていく……?」

 戒里さんのえぐれた腹部から四肢の切り傷まで、皮膚が元に戻ろうとするかのように、塞がっていく。

 戸惑う私にベニバナサマが言う。

 「おぬしじゃな。したのは」

 苦しそうなベニバナサマの心臓近くから、どくどくと血が流れる。

 あまりの痛ましさに目を逸らしたくなったが、考え直す。ベニバナサマの、どこか虚な目を見据えた。

 「どうして、ここに来たのじゃ。お主は、『外』に行ったと思っていたのよ」

 「約束したんです。あなたと……いえ。コウカと。だから、ここに来た」

 ベニバナサマを、妾を救ってくれ。少女の涙が私の目を乗っ取ったみたい。目の奥がジクジクと痛むほど熱くなる。堪えきれず、私は涙を流した。

 鎌鼬がギョッとする。

 少しだけ救われたような気持ちになる。

 「……そう」

 ベニバナサマは緩やかに笑った。無理矢理に笑顔を作ろうとしているようで、私の口角も痛く感じる。

 私は握っていた戒里さんの手を離した。彼の温もりが掌から消える前に、ベニバナサマの手を掴む。優しく握ったのに、ベニバナサマは痛いと言わんばかりに顔を歪めた。鎌鼬が私を睨む。だけど、すぐにそらされた。鎌鼬は私とベニバナサマには一切目を向けない。

 「妾を救うと本気で言っているのか」

 「最初は救う気なんてなかった。コウカとの約束を守ることはできないって思ってたよ。あなたを救うなんてあり得ないって」

 でも知った。

 知ってしまったらもうダメだった。

 「同情かえ」

 ベニバナサマは不服そうにしていたが、もうそんな元気もないことはわかっている。

 私は鎌鼬を見やった。相変わらずこっちを見ない鎌鼬。彼の目的と私の目的は、今や同じだ。

 戒里さんの傷が完全に塞がったのだろう。ベニバナサマの手がだらりと垂れる。

 ベニバナサマと目が合った。紅く、燦々と輝く瞳は哀しいほどに美しい。

 私は口を開いた。

 ベニバナサマを救う言葉。

 コウカを救う行動。

 その言葉をに告げるのは二度目だった。

 「                 」

 言いながら、私は大きく手を広げた。

 鎌鼬ごと彼女を抱きしめる。

 「何をっ」

 鎌鼬の焦った声に思わず頬が緩む。

 異空間に来たはじめの夢を思い出す。洞窟で一人泣いている少女を見つけた。悲痛な呟きを繰り返す少女に縋られて、私は彼女を抱きしめた。あのとき告げた言葉で少女は大きな声を上げて泣いた。これで解放されるのだと、激しいまでに泣き笑った。

 ベニバナサマの目からとめどなく涙が流れる。口角の痛い笑い方はすでに忘れている。

 ぐらりと地面が揺れた。

 泣き崩れる美しいベニバナサマの姿が、醜い自分の姿と重なって見える。

 ぐらぐらと揺れが激しくなる。

 ベニバナサマが戒里さんを見つめた。涙で膜が張った瞳には、彼の輪郭を正確には捉えられないだろう。



 「さようなら」

 鈴が転がるように澄んだ声。

 「おぬしが生きてさえいれば、妾はもう何も望まぬ。ただ、妾は——妾は、もう一度、愛されたかったなぁ……」



 鎌鼬が悔しさを隠しきれないまま、笑った。

 「こちらは任されよ。俺もすぐにあなたさまの元へ行く」



 ベニバナサマは少女のようにあどけない顔で微笑む。

 その体が消えかけていることに気付いたのは、地面の揺れがますますひどくなったときだった。

 崩れかけた天井が落ちてくる。鎌鼬が風で吹き飛ばしたが、騒音で猫又が目を覚ました。

 「おのれ……ッ、おのれ邪鬼め……ッ! ああ、やめてくれッ! 我から奪わないでくれ!」

 ベニバナサマはもう何も言えない。固く目を閉じて、祈るように両手を組んだ。膝をつくその姿は、まさに一角の美しい鬼女の威厳があった。だが、彼女の体はすぐに燃え尽きた灰のように消えていく。

 サラサラと流れる砂のように、軽やかに形を失う。ベニバナサマは最後に私を見て、それから鎌鼬、猫又に視線を動かした。やがて唇が言葉を紡ぐ前に、彼女は消滅した。



 しん。静まり返ったのはほんの一時だけだった。ゴゴゴゴと地響きが鳴り止まない。

 別れを惜しむ時間はない。

 「異空間が消滅する。邪鬼を連れて逃げろ、娘!」

 猫又が今にも戒里さんを襲おうとしていた。鎌鼬が応戦する。猫又は周りの状況すら見えていないのだろう。

 「待って! あと二人、ううん、囚われた妖怪たちはどうなるの⁉︎」

 「俺が外に連れ出す」

 「そんなの無茶……っ」

 耳元で空間が割れる音がする。

 「逃げろ、娘。俺はあの方を救いたい」

 救うためにここまで来た。そう言いながら、彼が鎌を構えた。猫又が迫ってくる。空間に亀裂が走った。

 「俺の目的は、あの方を救うことだった。だがそれだけではない」

 猫又が叫ぶ。

 「風慈ふうじいいいいぃぃぃぃ! 裏切り者! なぜ邪鬼を守る⁉︎ どうして小娘を庇う!」

 爛々と目を光らせた猫又が、容赦なく殺意をぶつけてくる。

 風慈は一瞬、私を見た。その決意に満ちた瞳を私は一生忘れない。

 「雨水沙夜。三度は言わぬ。さっさと行け! 俺は可哀想な猫を救わねばならぬッ!」

 突風が巻き起こる。

 台風のように周囲を巻き込み、異空間の何もかもを吹き飛ばす。

 バキンッとガラス玉の砕けた音が反響した。風は優しく私を包み込んだ。私の意識は突風の目に吸い込まれていく。

 ぐるぐると廻る風の中、血のついた簪が紫色に光った。


 7

   ☆ ☆ ☆


 「おーい、一翔! 遅かったじゃん」

 大きく手を振る稲葉を目に映した途端、僕はひどく懐かしい気持ちになった。それはどこか、新しい世界の中で変わらないものを見つけた安堵感に似ている。

 地面を蹴る感覚もなんだか感慨深い。目も足も、体全体が以前と何の変わりもなく動くことに、口角が上がる。

 駆け寄った僕の背中を、稲葉が勢いよく叩く。痛がる僕をニヤニヤと眺めて、それから後ろを見た。

 「ナイスだぜ、一翔! 波瑠ちゃ……じゃなくて、佐々木さんを連れてきてくれるなんて!」

 さすがだ親友! と調子良いことを言う。

 僕は後ろを見やった。佐々木と目が合う。表情が固い。僕もきっと同じような顔をしている。

 「でも、なんで誘えたんだよ?」

 色々あって、と誤魔化すしかない。僕は脱力したような、呆れたような気持ちだった。

 ゆらりと大きな影が横切る。

 「見ろよ! 人間がいっぱいだ!」

 「百鬼夜行の行手が遮られないのならば問題ない」

 「あっ! ガキがなんかもらってるぜ。ずりぃ!」

 「馬鹿め。人間には我らの姿が見えていないんだ。もらえるわけないだろう」

 「こっそりれ盗れ」

 異形の者達が闊歩している。

 僕は数日前のことを思い出した。



 「月森!」

 誰かが呼んでいる。

 目を開けたくない。もうこのまま楽になりたい。呼ばれる名前がなんだか自分じゃないみたいだった。

 「月森!」

 うるさいな。

 呻いたのが自分だと気付いて僕は飛び起きた。痛みで顔を顰める。鮮やかな緑が目に飛び込んできた。

 黒い空にぽっかりと月が浮かんでいる。銀色の月だ。

 蒸し暑さと冷たい空気が僕を包み込む。冷えた風が目に毒だ。ジクジク痛む目は次第に熱を忘れていく。きらきらと星屑が散った。

 「月森」

 瞬きをする。何度も。

 「もしかして、目、見えてるのか?」

 佐々木が僕の目を覗き込む。

 「ああ……佐々木の声も聞こえてるよ」

 世界の崩壊の音がした。

 佐々木の後ろに社の残骸があった。ボロボロに崩れたそれは砂のように細かい粒子になって消えていく。風が吹いた。一つ瞬きをすると、すでに紅花神社は跡形もなくなっていた。

 僕は立ち上がろうとして、右手で体を支えた。誰かが僕の腕を肩に回す。立つのを手伝ってくれるらしい。

 「ありが……」

 絶句した。

 目が合う。たった一つの目玉がギョロリと僕を見た。

 「おや、目が落ちそうですぞ」

 一つ目小僧はお茶目に笑う。目が二つあったらウインクでもしていそうだ。

 僕はそこでようやく周囲の異変に気づいた。

 「この提灯はあっちに並べとくぞー」

 傘が提灯を運んでいる。下駄がカッカっと鳴る。

 「人間は運び終えたわよぉ。みんな家で寝てるわぁ。家があってるか知らないけどねぇ」

 カラカラと笑う首の長い女。

 「合ってるはずさ。ぼくの力を舐めないでよね」

 「俺様の探索能力も舐めんなよ」

 白い能面を被った男二人。

 その他にも、異形の者たちがあちらこちらにいた。石段の下は魑魅魍魎の巣だ。僕は顔を引き攣らせた。

 頭上で飛んでいた真っ黒な何かが降ってきた。からすだ。烏一匹と見覚えのある男。

 「夜雨さん⁉︎」

 体の至る所に包帯が巻かれている。血が滲んでいた。

 「起きたか。驚かせてすまんな」

 夜雨さんが説明してくれた。

 ベニバナサマと異空間の消滅、神社の成り立ち、騒動の原因と目的。異空間に囚われていたという妖怪たちも無事だという。そう一気に説明されても頭が混乱するばかりだ。整理できない。喜ぶべきなのか? 素直に喜べない。だけど脅威は去ったのだ。すべてが終わった。僕は一旦考えるのをやめた。そのあと子供達の術も解けたと聞いて、僕はようやく胸を撫で下ろしたのだった。

 結界はすでに解かれていた。紅花神社があったその場所は荒地と化している。妖怪たちが周辺にいるのは何故だろう。

 「……痛っ」

 両目が痛い。目を閉じる。

 「瘴気に当てられたんだろう。見せてみろ」

 夜雨さんが僕の目を覗き込んだ。近くにいると余計に妖怪の気配を感じる。

 「……うん、もう大丈夫さ」

 僕は思わず、離れていく夜雨さんを引き止めた。不思議そうにする夜雨さん。聞きたいことはたくさんあった。

 「その……あいつは?」

 僕を庇っていた戒里の姿が見えない。無事であるはずがない。ベニバナサマから攻撃されて、無事でいられるわけがない。それをわかっていたからこその問いだった。

 夜雨さんは言葉に詰まったみたいに口を閉ざした。

 「みんな、無事なんですよね?」

 囚われていた妖怪たちは無事だと聞いたばかりだ。

 僕はなかなか答えない夜雨さんに痺れを切らして、佐々木に視線を投げかけた。佐々木は顔を曇らせた。

 「……っ、何が『大丈夫』だよ……!」

 「ひっ」

 僕の肩を支えている一つ目の妖怪がビクッと体を震わせた。

 声を荒げないようにしたつもりなのに、怒りがこぼれ落ちた。答えない二人にじゃない。戒里、そう、あいつだ。あいつに対して僕は怒っているんだ。妙に冷静な部分と怒りで沸騰した部分とがせめぎあう。

 「死んではいない」

 夜雨さんが崩れた神社の跡を見て言った。実際、どこも見ていなかったのかもしれなかった。

 「出血がひどくてな。妖力も足りない。今は安全なところで治療している」

 目が痛い。

 僕は目を開けていられなくなって、また瞼を下ろした。

 「月森!」

 佐々木の慌てた声。

 「月森、目を開けるな。これまでのことで目に負担がかかっているんだ。もう見なくていい」

 夜雨さんがふわふわとした何かを僕の目に押し当てた。あたたかいのか冷たいのかよくわからない温度だ。

 しばらく休むように言って、夜雨さんが離れたのがわかった。

 気付けば、一つ目の妖怪の気配もなかった。

 佐々木の気配。人間の気配だ。僕はそれにひどく安心した。佐々木以外にも誰かいるような気がした。

 「百鬼夜行があるって言ってただろ。俺、もっと恐ろしい妖怪ばっかりかと思ってたけど、みんな意外といいやつなんだな。烏天狗から事情を聞いたみたいで後始末を手伝ってくれるって。ベニバナサマの脅威から救ってくれたって感謝するやつもいた。まあ、人間嫌いの妖怪もいるみたいだけどな。夏祭りを復活させるんだって、祭りのことだけ考えてるやつもいたよ」

 佐々木は平坦な声で言った。

 「鎌鼬と猫又は見つからなかった。鎌鼬が異空間の消滅の前にみんなを外へ運んだんだってさ。俺は異空間に行かなかったから知らねえけど、夜雨さんが言ってた。街のみんなにかけられていた変な術も解けてた。全部、終わったんだよ」

 目の奥がじんと痛む。熱いなにかが溢れる。僕は押し当てられたふわふわしたなにかを、さらに強く目に押し付けた。こうすれば、流れない。ず、と鼻を啜る。

 「それ」

 ふわふわした何かのことだ。佐々木の声がどこか揶揄いの色を帯びていた。

 「雅さんの尻尾」

 ぎょっとした。



 全てが元通りというわけではない。

 「波瑠ちゃ……佐々木さん! ついでに一翔もー! 早く早く!」

 だけど、少なくとも僕の目は相変わらず異形を映している。

 「あ、おい! 人間に迷惑かけんじゃねえ!」

 「いいじゃん、いいじゃん! 百鬼夜行は一旦お休み。祭りを楽しまないで何が妖怪だよ」

 「上が楽しめって言うから仕方ねえだろ、俺は早く百鬼夜行の続きがしてえ」

 人ならざる者の声。

 「スタンプラリーって珍しいよな。つか、なんだよこのスタンプ」

 「あー、なんだっけ? なんか書いてる、べにばなじんじゃ……?」

 「変な名前。まあいいや! それよりあっちに焼きそばあるってよ!」

 「まじか!」

 駆け出す人の子。

 僕の生きる世界は人と人でない者が共に存在している。

 夏の匂い。

 オレンジ色の提灯に照らされたあたたかすぎる道を僕は歩く。

 以前のように鬱々とした思考をするでもなく、ましてや吹っ切れたわけでもない。だけど、こんな人生もあるよなと受け入れられる自分が何よりも心地よかった。


   # # #


 「良かったの?」

 窓の向こうは煌びやかな世界だった。夕空のような鮮やかなオレンジ色がぽつぽつと等間隔に並んでいる。提灯の数が多い。妖怪たちが追加で作ったと聞いたときは、頬が引き攣ったものだが。満点の星空の下、元気を持て余した少年が駆け出す。スタンプラリーの紙を手に立ち止まる少年少女。赤ちゃんを抱いた女性が屋台の列に加わる。黒髪の青年がくしゃみをした。制服姿の男女が声をあげて笑っている。狐面の少年が綿飴を空に掲げている。それを嗜める鬼の面の男。一つ目の少年が手を振っている。それに応えるように白い壁が動いた。どうやら妖怪だったみたいだ。

 「何がですか」

 頬杖を突いた手を動かすのも億劫だった。私は振り向かずに応えた。

 「さっき、友達に夏祭りに誘われてたでしょ。断って良かったの?」

 私の椅子に座り、背もたれに両腕を置いた。窓に映った姿を見ても、死神さんは死神さんだ。椅子低いな、と小声で言ったのも聞こえている。

 「良いんです。今夜はもうすぐ両親が帰ってくるので。両親と話すのは久しぶりなんです」

 腕の怪我を誤魔化さないといけない。

 「それに死神さん、夏祭りは危険だから行くなって言ってませんでした?」

 「まあね。でもキミ、ボクの言うことを聞くような子じゃないし」

 「……根にもってます?」

 「まさか」

 白々しい。

 私は窓に映った死神さんから視線を逸らした。外から祭囃子が聞こえてくる。すっかりお祭りムードだ。

 「神社のこと」

 言うつもりはなかった。だけど、私の口は動いていた。

 「紅花神社のことを街の人は誰も覚えていませんでした。雅さんが言っていました。あの件に関わった私と佐々木さんと月森君。覚えてるのはたったの三人です」

 「あの神社はベニバナサマが造ったらしいからね。ベニバナサマがいなくなったから、自然とみんなの記憶からなくなったんでしょ。変な術にもかかってたし」

 「人でない者たちは覚えているのに、どうして」

 人であるから、記憶から消されたのだろうか。だとしたらどうして私たちの記憶は残っているのだろう。

 死神さんが私の名を呼んだ。

 「異空間でベニバナサマと何を話したの。ボクにも言えない? 教えてくれてもいいんじゃないかな」

 「今、その話、関係ありますか」

 「あるかもしれないし、ないかもしれない」

 黙っている理由もなかったため、私は素直に口を割った。聞き終わった死神さんはわざとらしく頷く。

 「あれだね。ベニバナサマはキミたちに覚えていてほしかったんだよ。きっと」

 そうなのかな。

 「みんなの記憶を消したのは、贖罪しょくざいのつもりだったんじゃないかな」

 「贖罪」

 「罪滅ぼしさ」

 ベニバナサマは罪に塗れていたのだろうか。いや、罪がないわけではなかった。罪滅ぼし。言い得て妙な響きだ。

 「ここ数日の騒動がみんなの記憶から消えていたのも、罪滅ぼし……?」

 死神さんが肩をすくめたのがわかった。

 「そうだといいっていうボクの願望かも」

 私は頬杖をやめた。

 ベッドの上で身じろぎをして、死神さんに向き直る。突然の行動に死神さんは不思議そうな顔をしてみせた。

 「あんなことがあったのに、私は考えてしまうんです。ベニバナサマはただ、幸せになりたかっただけなのに……って。おかしいですよね」

 彼女は決して許されないことをした。それは明明白白だ。どうしたって覆せない事実。だけど同時に、ベニバナサマは空回っていただけだと考えてしまう自分がいる。彼女を正当化しようとする自分がいる。こんなのは偽善だ。無意味な考えだ。同情なんて失礼、ああいや、この考えもおかしい。

 「……ベニバナサマは、私に似てるの。だからかな。姿形も何もかも違うのに、助けたいって思ってしまった」

 独白じみた言葉を呑み込めなかった。吐き出せばスッキリすると思ったのに、心に落とした影は依然と晴れない。着飾った言葉だ。嘘っぽい。

 「おかしいですか」

 おかしくないと言って。そう懇願しているように聞こえて、自分でも惨めな気持ちになった。

 正しくない、これは正しくない考えなのに。彼女を盾にして自分を正当化しようとしているのが透けて見えるようだ。嫌だな。考えれば考えるとドツボにハマっていく。抜けられない蟻地獄の底にいるみたい。

 キィ、と軋む音がする。座ったまま、死神さんが椅子を回していた。回る椅子を楽しんでいるようには見えない。

 困惑した私に、死神さんは椅子の動きを止めて、笑った。ますます私は混乱する。

 「どっちでもいいよ」

 清々しいほどいい笑顔で言う。

 「キミが彼女についてどう思おうと、もう終わったことだよ。だったらなんでもいいじゃないか」

 突き放された気がした。だけど悪い気はしなかった。

 「一見、悲劇のようで、幸せな結末を迎える。キミは、そういう話が好きなんでしょ。ならもうそれでいいんじゃないかな。キミが気に病む必要も、ベニバナサマが絶対的に悪者である必要もない。ただ重なった出来事が結末を迎えただけ。ね、沙夜。外を見てみなよ」

 言われるままに外を見た。窓ごし、ガラス一枚に隔たれた外の世界は、『寂れた住宅街』とは思えないほど賑やかで眩しい。

 「守ったのはキミだよ。キミたちが彼らの笑顔を守ったんだ」

 ニィと笑う死神さんが窓に映っている。

 階下から私の名を呼ぶ両親の声がした。


   * * *


 紅花神社に行こう、と言い出したのは月森だった。

 雨水さんはその場にいなかった。あの日異空間から雨水さんは風に包まれて現れ、そのときすでに気を失っていた。囚われていた妖怪たちも皆、風によって運び出されたらしかった。俺は月森の様子を見ることに徹していたから、残念なことにその瞬間を目にすることは出来なかった。だが、ふと後ろを振り返ったときの異様な光景に思わず息が止まったのを覚えている。

 夏祭りの準備をし始めた妖怪たち。街の人はまだ眠っていた。結界が解け、妙な術にかけられた人々は一斉に倒れた。術が解かれたのだ。その影響か目を覚ますのに少しだけ時間がかかるだろうとのことだった。烏天狗の夜雨さんは住宅街の周辺を見回っていた。烏天狗を何人も引き連れて、空を駆け巡っていた。狐の雅さんは月森の介抱をしていた。それ以外にも、夏祭りの準備をする妖怪たちを見張る役目を担っていた。巨大な壁の妖怪が雅さんの一声で萎縮する様子はなんだかおかしかった。

 雨水さんを家まで運んだのは死神さんだった。雨水さんの服は血塗れだった。何があったのかを知る者はいない。風慈と名乗った鎌鼬も、猫又も、ベニバナサマもいない。戒里さんは全身傷だらけで、出血がひどい状態だったという。夜雨さんが安全な場所とやらに連れていく際にもやはり目を覚まさなかったらしい。異空間で起きたことはきっとこの先も知ることはないんだろう、と俺は思った。飴屋、すみれ堂のおばあさんも無事だと知り、俺は胸を撫で下ろした。夜雨さんのほっとした顔もはっきりくっきりしっかり覚えている。

 その日、妖怪たちが夏祭りのために提灯を作り、道なりに全て飾っていく様子を見ていた。騒動の翌日だ。街のみんなはまだ眠っている。周囲を見渡しても妖怪しかいない。

 俺は野宿、というほどでもないが、外で夜を明かした。夜雨さんや雅さんがいてくれたこともあって、問題なかった。一つ気になったのは、ルカの姿が見当たらないことだった。気がつくといなかった。ただ、ルカが姿を消すこと自体は珍しいことじゃない。こんなときにいなくならなくてもいいじゃねえか。そう思ったがあまり考えないようにした。

 月森は会って一番にこう言った。

 「夏祭り、一緒に回らないか」

 目の調子はすこぶる良いらしかった。

 月森は紅花神社に行こうと言った。奇しくもその場所は石段の下だった。

 何のために、と俺は問いかけた。

 「ケジメってやつだよ」

 月森は晴れ晴れとした顔で、だがどこか寂しげに笑うばかりだった。

 祭りの準備が終わるころ、タイミングの良いことに街のみんなが目を覚ました。何故かみんなは今回の騒動を全て忘れているらしかった。カレンダーを見て首を捻る人は大勢だった。紅花神社の存在も初めからなかったことになっていた。どうしてか俺と月森と、多分雨水さんだけが覚えている。

 そうして迎えた夏祭り当日。

 「波瑠ちゃ……佐々木さん! スタンプラリーだってさ。はいこれ」

 稲葉がカードを手渡す。受け取ったそれは、どうやらスタンプを六個押すことができるようだ。ゴール、と華々しく書かれたところには、小さく景品がもらえると記載されていた。

 「景品、なんだろうなー」

 稲葉が両手を後ろで組みながら、先陣切って歩き出す。

 「お菓子セットとか」

 月森が応える。人だけでなく、妖怪も行き交うからか、少し顔が青い。月森も普段通り行動することを意識しているように見えた。

 真っ暗の夜を照らすように、オレンジ色の提灯がずらりと並んでいる。夜空の星も霞むくらい、大量の提灯だ。どれが人の手によるものか、妖怪が手がけたものなのか、まったく見当もつかない。

 「……雨水さん、大丈夫かな」

 ぽろとこぼれた自分の言葉に、俺が一番驚いていた。

 月森が何かを言いかけてやめる。

 「会えたらいいんだけどなー」

 稲葉は無邪気に笑っている。

 雨水さんの家を俺は知らない。だから誘いたくても誘えない。月森もそうなのだろう。あの騒動のあと、俺たちは雨水さんと一度も会ってねえ。死神さんに抱えられた雨水さんの姿が最後だった。

 機を逃したことにより、余計に誘いづらくなった。だが、雅さんは一度会いにいったようで、そのときは元気そうだったと聞いて安心した。

 「ママー、あれ買って!」

 「もう、今日は特別よ」

 渦を巻くソフトクリームを手にして笑う少女。

 「人間も俺たちみたいなお面つけるんだってよ」

 「え、でも見たことないお面だよ」

 特撮番組のヒーローのお面を、興味津々に覗き込むお面の妖怪たち。

 「あれ、めっちゃ映えじゃん!」

 「撮ろ撮ろー!」

 高校生だろうか、スマホ片手に浴衣姿でポーズをとっている。

 祭囃子が聞こえる。

 鼻歌を歌う妖怪、綿菓子を食べる中学生、きゃっきゃとはしゃぐ赤ちゃん、お酒を持って騒いでいる異形の者。

 俺と月森はほぼ同時に足を止めた。稲葉が不思議そうに振り返る。

 俺たちはそれを見上げていた。石段はまだ残っている。だが、その先には何もない。朱色の鳥居も、社も、祠でさえも、何もかもがない。

 紅花神社。ベニバナサマがいた異空間ごと消えてしまった架空の神社。

 「なんだ、ここ。上に何かあるのか?」

 稲葉が石段を駆け上がる。

 「ほら、二人も来なよ!」

 俺たちを手招きする。

 始まったばかりの祭りの空気はこれまでと変わらない。去年も一昨年も、こんな風に騒いで、思い思いに満喫していた。

 今年も同じだ。

 誰もが騒いで、楽しんで、夜を練り歩く。

 「ほら!」

 稲葉の声に、俺と月森は石段に足を乗せた。そこに存在していると確認するみたいにゆっくり、一歩ずつ。次第にスピードは上がり、先を行く稲葉に追いつこうと、駆け上がる。

 一番上に辿り着いて、俺は振り返った。息を切らしながら見た景色は、いつも見る景色と一緒だった。変わらない。変わってねえ。

 緑の葉っぱが擦れて、サワサワと音を奏でている。遠くに山が見えた。見下ろすと、妖怪も人もごった返している。

 無性に胸が苦しくなった。


   ☆ ☆ ☆


 「弟と来なくて良かったのかよ」

 「良いんだよ」

 稲葉がニヤニヤしている。

 「まさか一翔がブラコンを卒業するなんてなー」

 「別に僕はブラコンじゃない」

 「えっ」

 「佐々木、そんなに驚かなくても良いだろ」

 夏の暑さをようやく身に染みて感じられるようになった気がする。

 僕は石段の一番上に腰掛け、隣に並んで座る二人の会話に耳を傾けた。

 「さ、佐々木さんは、夏休みどうすんの?」

 稲葉がそわそわと手を動かし、体を左右に少し振る。

 「どういう意味だ」

 佐々木は稲葉の真意が読めなかったようで、不思議そうに聞き返す。

 「な、夏休みの予定を聞きたいというか……良かったら俺と……なんて。はは」

 頬を赤く染め、誤魔化すように髪を掻いている。

 「そ、そう! 四人で、一翔と俺と、雨水さんも誘ってさ、どっか遊びに行かない?」

 何だか見ていられなくなって、僕は街並みを見下ろした。

 街路に弟の姿を見つけた。輝汐きせきだ。友達と回ると言って昼に出かけて行った。輝汐は友達と談笑しながら、綿菓子や焼きそば、フランクフルトなど食べ物を大量に抱えて歩いている。

 浩太こうた研人けんと空羽くうは両親と一緒にいる。僕の両親はここから少し離れた公園で屋台を開いている。確か飴屋の屋台を手伝うことになっていたはずだ。

 三年前、ベニバナサマに襲われてから僕は家族と一緒に行動するようになった。弟の行くところは把握しておきたかったし、僕の知らないところで命の危険があったらと思うと気が気でなかった。両親のことも心配だった。家族で妖怪が見えるのは僕だけだったから、何かあれば僕がどうにかするしかないと思っていた。

 提灯のあたたかい光が濃い影を落としている。

 どこか遠くで鈴の音が聞こえた気がした。風鈴でも鳴っているんだろう。

 背後に気配を感じた。

 稲葉に気付かれないようにそっと振り返る。夜雨さんが片手を上げて軽い挨拶をした。その後ろには雅さんが控えている。

 「ちょっと話せないか」

 夜雨さんが片目を瞑って見せる。

 稲葉と佐々木には断りを入れ、僕は石段を駆け下りた。賑わっている道を避け、暗い路地裏に辿り着く。

 「何かあったんですか」

 僕は二人に問いかけた。

 雅さんが着物の袖に手を入れ、二つの物を取り出した。一つは瞬間移動が出来る妙な道具。もう見慣れてしまった代物だ。もう一つはトランプのような物だった。例の物だ。束になってまとめられているが、もう五十四枚じゃない。せいぜい十五枚ぐらいだろうか。ところどころに赤黒い染みがついていた。

 「この道具について戒里は何か言っていたかい?」

 雅さんが瞬間移動の道具を示した。

 「とくには……」

 僕が首を振ると、二人は少し固い表情で目配せした。

 「じゃあ、これは?」

 今度はトランプに見える妖道具。

 「ええと。餞別だって言っていたような……そうだ。僕、異空間でそれを落としたんだ」

 あれ以降行方が分からなくなっていた。

 「戒里が餞別だと言ったのなら、この妖道具は月森の物だね」

 押し付けるように手渡されて、僕は拒否する前に頷いてしまった。

 「あの馬鹿が元気になったら、それでいじめてやれ」

 その言葉には揶揄いの響きがあった。なんだそれ、と堪え切れずに笑ってしまった。

 戒里。かつては邪悪な鬼と呼ばれた妖怪。僕を揶揄っていつも笑ってばかりいた。ブラコンと覚えたての言葉で笑われたこともあった。お子ちゃま、と馬鹿にされたこともあった。思い返すとむかつく奴だ。いきなり僕の日常に割り込んできて、いきなり消える。むかつく奴だったけど、あいつはベニバナサマとの因縁を断ち、僕のことを何度も助けてくれた。

 戒里は元気かとは流石に訊けない。夜雨さんと雅さんの目元が少しだけ赤いから。

 「しかし、そうか」

 夜雨さんが低い声で呟いた。

 その場だけ温度が下がったような、ざわりとした感覚があった。

 雅さんの目が細められていて、鋭い光を放っている。

 不穏な空気に耐え切れず、僕はどうしたのかと訊ねた。

 「実は、この道具はたまたま戒里が拾った物みたいでね」

 「誰かが落としたんだろうと思って、調べていたんだが」

 落とし主は見つからなかった。

 「それどころか」

 妙なんだ、と雅さんが言った。

 「これ、どうやら妖道具ではないみたいで。妖力を感じないんだ。そういうこともあるかと思っていたけど……そうだとしても、全く妖力を感じないのは変なんだよ」

 「妖道具ってやつじゃないなら、何なんですか?」

 路地裏に烏の鳴き声が響いた。バサバサッと一斉に飛び立つ複数の羽音。

 「——悪魔」

 夜雨さんは、瞬間移動が出来る道具を見ていた。その正体を見極めようとしているみたいに、じっと見た。

 「さ」

 頭上で月が嗤っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る