第6章 鬼の慟哭

 妙に静かだ。

 祭りの喧騒も聞こえなければ、提灯すらも見当たらない。

 毎年行われる祭りは、妖怪の中でも楽しみにしている者が大勢いる。明日が本番なのだから、我らが浮かれるのも必然。だと言うのに、いつも共に騒ぐ仲間の姿もまた見えぬ。

 ぴょんぴょんと地面を跳ねる。その度に、ふさふさと白い毛が揺れる。

 見覚えのある家を通り過ぎ、おや? と引き返した。月森と彫られた表札に間違いはない。だが、その家の中から、彼の気配はしなかった。

 思い出すは、そう遠くない過去のお話。歩道を散歩する最中、二輪の乗り物に押しつぶされそうになった時、彼は水を掬うように我らを守ってくれた。あの時、咄嗟に礼を言えず、我らは隠れてしまった。彼は気にしていなかったようだが、我らは恩を仇で返すような真似はせぬ。後に彼と遭遇した際、今度こそはと我らは姿を現した。しかし、彼は以前の彼ではなかった。こちらを一瞥し、その瞳を翳らせた彼の表情は、我らには筆舌し難い感情を乗せているようだった。

 あの時も、結局、我らは礼を言えなかった。

 「……」

 思い出を振り払う。不思議に思った。彼が家に居ないのだ。だが、この近くに彼の気配はない。ならば、何処に行ったのだろう。夜は人の子にとって危険であろう。仕方がない。仲間を探すついでだ。

 ぴょんぴょんと地面を跳ねる。雲間から月光が降り注ぎ、我が身を白く輝かせる。

 我らは小さき種族。小さき者の味方。

 あの日あの時、去っていった彼の背は小さかった。

 故に、我らは彼の味方であるのだ。

 ふと、立ち止まる。

 月光が届かない昏い影の中で、一匹の猫が鳴いた。

 ニャアン。「まだ生き残りがいたのか」

 その猫は二つの尾を暗闇で揺らしている。

 「供物としては、やはり小さすぎるな……。あの方もお気に召さぬようだった。妖力が微弱な者に価値はない……が、このまま放置する訳にもいかぬ」

 月が隠れる。伸びた影は濃くなる一方で、ぶるりと白い毛を逆立てた。

 「私の糧にするくらい、あの方も許してくださる」



 ぴょんぴょんと地面を跳ねる。風が強く、気を抜いたら押し返されそうだ。

 「……! ……っ!」

 仲間は。仲間は何処にいったのだ。彼は。彼は、無事か?

 知らせねば。危険が迫っていると。

 地面を跳ねる。ぴょんぴょんと、ひたすらに。——しかし、気付けば地面に横たわっていた。

 「捕まえたぞ」

 肉球を押し付けられる。身動きが取れない。藻搔もがいてみせるが、手も足もない我が身は、奴に敵わない。

 夜空が見える。月、雲、星、そして空気の流れ。それらだけが目に映った。

 おかしい。おかしい。

 仲間がいない。彼の気配もしない。……

 「……!!」

 「気付いたか。しかし遅い」

 天にも地にも、妖怪の姿がない。

 「冥土の土産に教えてやろう。この街のあやかしはみな、我が主の元へ。そして他の街の妖も直にあの方の元に集う。そうすれば、人間も妖怪も関係ない、全てあの方のものになるのだ」

 猫又がニィと笑う。

 「そして、貴様の仲間はすでにあの方の胃の中だ」

 怒りが全身を駆け巡った。針のように毛を逆立てる。それでもなお、この身を縛る肉球は離れない。頭上から馬鹿にした笑い声が降り注ぐ。

 「安心しろ。仲間にはすぐ会える」

 猫又の大きな口から、一滴、よだれが垂れた。



 1

   * * *


 「波瑠さん、ご無事で何よりです」

 神社に戻り、俺達の姿を認めたルカは開口一番そう言った。二言目は状況報告を促す言葉だった。俺と夜野先生は、『からくり技師の煙々羅えんえんら』ことかすみさんから受け取った品や彼女から聞いた噂をルカに伝えた。

 「つまり、これさえあれば異空間に入れると?」

 「ああ。だが、枚数も見ての通りだ」

 たった四枚の白い紙。使い方はしっかり覚えている。紙に行きたい場所を表す言葉を書いて、それを扉に貼り付ける。開くものなら、扉は何でもいい。

 「これを使うのは賛成ですが、何と書くつもりですか? ベニバナサマとやらが異空間を幾つも持っている可能性がありますし、ベニバナサマの異空間、と書くことはあまりお勧めしませんよ」

 「そうなんだ。そこが問だ……」

 「問題」と言い切ることが出来なかったのは、背後で大きな物音がしたからだ。背後——すなわち、賽銭箱の前。

 すぐさま振り返り、俺達は揃って警戒心を露わにする。

 月も雲でかげり、砂埃が立ったその場所には、人の姿二つと動物らしき影が一つ。

 よくある戦闘アニメのようにかっこいい登場ではない。彼らは地面に尻餅をついているように見えた。お世辞にもかっこいいとは言えないが、その登場の仕方に、既視感を覚えた。

 「「…………」」

 無言の彼らは、見知った人物だ。

 「死神さん……宮原先生」

 俺が呟くと同時に、動物らしき影がギャイギャイと騒ぐ。「この、離さぬかっ!」

 よくよく見ると、死神さんの手に鎌鼬かまいたちの姿があった。

 状況が分からず困惑する俺とルカと夜野先生。最も早く我に返ったのは、ルカだった。

 「何をしているんですか」

 その冷え切った声は、特定の人にだけ向けられている。

 「……」

 「聞こえていますか?」

 初めて、ルカが死神さんに戸惑った声を出した。常ならば返ってくる嫌味がいつまでも飛んでこない。

 「何かあったのか?」

 夜野先生が尋ねる。死神さんも宮原先生も立ち上がったものの、その口は閉じられている。

 やがて、宮原先生が言った。

 「月森と雨水を見つけたんだ。だけど、転移する前に、妙なことが起こって」

 転移する直前、宮原先生は何者かに背を押されたという。また月森も雨水さんも、誰かに押されたみたいに、後ろに倒れ込んだそうだ。宮原先生は元々異空間に残るつもりだったが、それが出来なくなったこと、そして二人の安全が保証できないこと、更に戒里さんが見つかっていないことを語った。

 「それに、雨水は腕を怪我している。月森も目が見えない状態なんだ」

 思わず死神さんに目を向けた。死神さんはこちらに背を向け、未だに口を噤んでいる。

 「ふん。俺をコケにするからだ! 相応の報い……だ……ろう」

 鎌鼬が不自然に言葉を繋げた。大方、死神さんに睨まれたか何かしたんだろう。首根っこを掴まれ、更に縄で縛られている鎌鼬は、あまり脅威に感じない。

 「……とりあえず、互いに話を共有するか。ここまで来たんだ。オレ達の目的も話すさ。佐々木にも遠慮はしない」

 夜野先生は鳥居の向こうを眺める。深夜の山は黒々としていて、不気味だ。あの山を闊歩している集団が此処に辿り着くのは、もはや時間の問題だろう。

 「そうだね……。攫われた子供は、二人だけじゃない。その事についても話さないとね」

 宮原先生が社を仰ぐ。思えば、俺が神社に連れて行ってと頼んだ時も、宮原先生は拒んでいた。巻き込みたくないと。夜野先生みたいに真名まなは知らねえが、対等になることよりも先に、俺達人間の身の安全を想ってくれていた。

 「……ルカ」

 「はい。……分かっていますよ。貴女が何を言おうとしているのか」

 少しだけ呆れを含ませて、ルカが微笑む。

 「私は貴女が決めた事に従います。ですから、これだけはどうか守って下さい。一人で行動しないと」

 返事の代わりに頷く。

 夜明けまで、あと何時間残されているのか。確認したかったが、それをしてしまえば、時間がないという焦りに囚われてしまいそうだった。

 「死神」

 夜野先生と宮原先生が死神さんの元へ歩み寄る。鎌鼬はすっかりしおらしい。

 「…………分かってるよ。ボクだって、分かってる」

 死神さんの声音は平坦としていた。夜野先生に鎌鼬を突き出す。

 鎌鼬は死神さんが余程苦手なのか、意外に暴れなかった。不平不満を絵に描いたような顔だったが。今は夜野先生の腕の中で大人しくしている。

 「思ったより、ベニバナサマは手強いみたいだね」

 空いた手を一瞥した後、振り返った死神さんの表情は、元通りだ。

 「話し合い、するんでしょ」

 笑顔。

 それを見た途端、何故か、兄の笑顔が脳裏に過った。

 『話、しようぜ。波瑠』

 兄の口から何度も聞いたことがある言葉。俺が膝を抱えて部屋に篭っていると、兄は必ず外へ連れ出してくれた。公園や駄菓子屋、学校の裏山、何処へだって手を引いてくれた。

 「——それで? キミ達の目的は?」

 死神さんの声が鼓膜を震わせて、だけど、俺の意識はどこか遠い場所にあった。妙に頭が重かった。目の前が霞み、どうにかその霞みを取ろうと、目を擦る。

 「波瑠さん? どうしました?」

 「いや……なに、も……」

 力が抜けていく。倒れかけた俺を、ルカが支えた。

 「波瑠さん!」

 ルカの血相を変えた様を目の当たりにして、また兄の顔が過った。こんな時なのに。自嘲気味に笑う。

 ルカ……流風。

 「しんぱ……す……なよ……」

 大丈夫だから。

 どうにか紡いだ言葉は届かなかったかもしれない。だが二の句を告げる余裕はなかった。


 2

   鬼


 時は遡り、月森一翔が異空間に連れて来られる前の話。

 「まだ痺れが取れておらぬようじゃな」

 錆びついた格子の向こうから、ベニバナサマの声が降ってきた。甘ったるい香りが鼻を襲う。顔を顰めた鬼は、ゆっくりと顔を上げた。

 「……もう痺れちゃいねェよ。さっさとこれ取ってくんねェかァ?」

 手足の動きを封じる枷から、僅かでも音が出るように、控えめに揺らす。金属の擦り合う音が鳴った。

 「取るわけがなかろう。それは妖力を奪う枷じゃ。妾も極力触らぬ」

 無理に取ろうと奮闘したせいで、鬼の手首は青紫に変色していた。

 「……あの娘の名は何じゃ。答えよ」

 娘。誰を指し示しているのかは直ぐに分かった。雨水沙夜、死神と行動を共にする少女の事だ。

 妖怪にとっても、人間にとっても、名は自分を表す象徴のようなもの。唯一無二であると言い換えてもいい。妖怪がそれを知りたがる理由は、主に三つある。

 一つは、人間を妖怪の世界に攫うため。所謂神隠しだ。

 もう一つは、互いに対等であろうとするため。科学が発展した今の現世は、妖怪には生きづらい世だ。だから、人間に化けて生活をする者も決して少なくはない。

 そして、それ以外の理由は。

 「……傀儡かいらいでも作ろうってか?」

 妖怪は、とある手順を踏む事で人間を操り人形の如く支配する事が出来るのだ。これを知っている妖怪も今や鬼とベニバナサマくらいのものだろう。事実、鬼の家族である烏天狗や狐はそれを認知していない。権威ある大妖怪どもが居た昔とは違うのだ。

 鬼の知らぬ間に、時代は幾度も移り変わってしまった。

 「先日」

 「あァ?」

 「先日、わらわの人形たちを可愛がってくれたようじゃの」

 「礼には及ばねェよ。一翔が学校とやらに行ってる間、暇だったしなァ。すーぐ壊れたぜ」

 こそこそと一翔の周りを嗅ぎ回る傀儡を壊したのがいつだったかなんて、いちいち覚えていない。

 「妾の過失を思えば、娘一人を代わりにするくらい、良いではないか。お主に一体何の過失があろうか」

 「かみくんのこと知らねェのか? 死神は怒らせるもんじゃねェぞ」

 言いながら、彼を怒らせるのは自分かも知れない、と鬼は格子牢に閉じ込められる前を思い起こした。

 小脇に抱えた雨水沙夜が突然、眠ってしまった時、鬼もまた体が痺れて動けなくなった。痺れ薬か何かを飲まされていたのだろうか。ああ、否、そんな隙は与えていない。恐らくベニバナサマの妖気が身体に流れ込み、拒絶反応を起こしたのだろう。ベニバナサマと鬼は、似たような存在であるが故に、互いの妖気が噛み合わないのだ。

 「……あれは、紛い物じゃろ。お主こそ知らぬのか?」

 そこで言葉を切り、少しの沈黙の末、ベニバナサマは再び少女の名を問うた。しかし鬼は答える気など毛頭ない。頑なに口を開かない鬼を見て、ベニバナサマは薄く笑った。

 「お主は、変わったな。以前は人間など嫌っておったじゃろうに。妾と同じように妖も喰ったことがある。獰猛さには妾も負けるよて。……まさか、この期に及んでまだ人間の味方をするとは思うておらんかった」

 暫く此処で大人しくしておれ。真っ暗な牢に鬼を残し、ベニバナサマは姿を消した。

 ベニバナサマの気配が完全に消失したのを確認してから、鬼はまた手枷を外そうと試みた。じゃらじゃらと鎖の音が響く。それでも手枷は取れない。

 「……チッ」

 全身から、ゆっくりと妖力が抜けていくのが分かる。三日もすれば、鬼もまた奴の傀儡として扱われることだろう。妖力を奪う枷。ベニバナサマも触れないという事は、たとえ鬼でなくても、この枷を外すのは到底不可能だ。妖力がなければ、妖怪は生きていられない。悲しいことに、現状、枷を外せる者は存在しないのだ。

 「妖力を奪われるなんざ、打つ手なしじゃねェか。他に頼れる奴は…………いや。そうかァ」

 一つの可能性に気付き、鬼はようやく繰り返していた動作をやめた。

 妖怪では駄目だ。枷は外れない。

 ——だが、人間であれば。

 「……」

 おもむろに掌を上に向け、妖力を集中させる。すると、三つの鬼火が闇の中で生まれた。

 「行け」

 一言告げると、鬼火は各方向に素早く散る。これで雨水沙夜を捜せるはずだ。鬼が頼れるのは、この異空間に共に閉じ込められた彼女だけ。それに死神が追い返されてしまった今、彼女を一人にするのは危険だ。早く見つけるに越したことはない。

 眼前には、出口のない暗闇が広がっている。格子で逃げ場を囲われたこの状況は、図らずとも、鬼が“二度目”に封印された時と酷似していた。

 三方向に散った鬼火の行方を辿るため、鬼は静かに瞼を下ろした。





 この世界に生まれ落ちた瞬間を、戒里は、はっきりと覚えていない。親はいた。鬼の父母。顔は思い出せないし、その上「戒里」と呼ぶ二人の声もぼんやりとしている。両親との思い出は、記憶をどれだけ探っても見当たらない。親の存在は絵空事のようなものだった。

 最も古い記憶は、赤い血で彩られている。始まりは、同胞である鬼たちの死だった。そして、同胞であったはずの鬼たちの異変。原因はわからない、でも確かにそれは”異変”と表現する他なかった。鬼たちは、空腹を凌ぐために、敵味方、仲間や家族、何もかもを喰らい始めた。それは戒里にとって世界の誕生であり、崩壊だった。

 鬼同士が戦争を始め、百年も経たないうちに、彼らは死んだ。骸すら残らない戦争だった。大地は荒れ果て、天は曇り、時には人間すらも”傀儡”として巻き込んだ。戒里の親も、この戦争で喰われてしまったのだろう。生き残ったのは、まだ幼い戒里だけだった。

 幸か不幸か、戒里には、まだ異変は起きていなかった。だがいつ異変が現れるかわからない。戒里の存在を危惧した妖達は、戒里から自由を剥奪した。戒里はその地の奥深くに封印されたのだ。

 そして戒里の一族は妖の世界で、空腹の鬼、醜悪な鬼、残虐非道な鬼などと謳われ、総称して、邪悪な鬼——邪鬼じゃきとされた。



 何もない虚な世界に、どれほど身を置いていたのだろうか。温もりを忘れ、感情を忘れ、外の世界を忘れ、自分の名前でさえ忘れそうになった。目を開いているのか、閉じているのか。耳は音を拾っているのか、鼻は機能しているのか。触覚は、声帯は。死んでるのか、生きているのか、それすら分からなかった。意識だけが朦朧と存在している。


 

 ある時、戒里は封印の綻びを感じた。空虚な世界に、色が現れたのだ。

 目を動かす。地中の音が聞こえる。土の匂いだってする。冷たい空気が肌を刺激する。試しに声を出そうとした。だが声は出なかった。長い間話さなかったからだろう。生きているだけマシだと思うべきなのだろうか。封印されていた間も、成長はしていたらしい。背が伸びている。手足はまだ動かしにくかったが、徐々に動くことだろう。

 そうして、意識だけの存在ではなくなった戒里の元へ、大天狗の使いである烏天狗が訪れた。

 「君が邪鬼か?」

 変化の術がまだ未成熟なのだろう。烏天狗は顔や体表を布で隠している。

 「大天狗様の御意志で馳せ参じた。君を地上に出すのは危険とのことだ。残念な知らせになってしまって申し訳ないが、君はまだ地上へは出られないんだ。よってオレが君の見張りをすることになった」

 よろしく頼む。烏天狗は、邪鬼の危険性を分かっているだろうに、それを微塵も感じさせないような態度だった。

 「見張りってのは、いつまでだ?」

 戒里は声を出したつもりだったが、声帯はまだ回復していないことを忘れていた。案の定戒里の声が聞こえることはなく、烏天狗は首を捻っている。

 ともかく、と烏天狗が手を打った。

 「暫くオレはここに居るつもりだが、何か気になることや不思議に思うことがあれば、気兼ねなく言ってくれ。この空間は物すらないから、君は退屈だろう? 話し相手くらいならなれるやもしれん。あ、先に言っておくが君に拒否権はない。命令事項というよりは、契約に近いものなんだが……まあ、大差ないな」

 戒里は顔を顰めた。しかし、長い間封印されていた身としては、烏天狗と話す機会は滅多にないことだった。自分ではない者と言葉を交わすことに、柄にもなく浮き足立ってしまった。

 気まぐれだと言われれば、それもそうなのだろう。戒里はまだ音にならぬ声で了解した。


 3

   鬼2


 戒里は一人、土の上に寝そべっていた。五感は良好だ。声も出るようになった。手足だって動く。目覚めた当初は感じられなかった妖力は、今では半分ほど回復していた。

 烏天狗は今この空間にはいなかった。月に一度の大天狗への報告に赴いているのだ。烏天狗も流石に報告の内容は教えてくれなかったが、十中八九戒里のことに違いない。

 目覚めてから、一体どれほどの時が流れたのだろう。外界の変化までは分からない戒里にとって、それを知る術はない。しかし、永い時が経過しているだろうことは、烏天狗の言動から端々窺えた。

 封印はもう解かれている。やろうと思えば、いつでも外へ行ける。それが出来ないのは、二つ、気にかかることがあるからだ。

 一つは、解けた封印とはまた異なる結界が張られていること。大方、戒里が地上に出て行かないように閉じ込めておくためだろう。大天狗がそうしたに相違ない。烏天狗が言っていた。

 だが、戒里の妖力が回復してきている今、この結界は破るに容易い。見誤った大天狗には嘲笑でも送ってやりたいものだ。悪意に満ちた贈り物でも何でも送ってやろうか。烏天狗にも話していないが、彼ならば、戒里の態度でその内気付くだろう。ただ、結界を破った後がとてつもなく面倒だ。

 気にかかることはもう一つ。それを頭の中で反芻し、戒里はため息をついた。

 地上に行けないのは、これが主たる原因だ。分かっている。それさえ振り切れたら、自分は自由の身である。それが分からない馬鹿ではない。だが、その振り切る機会を、いつも逃している。

 「戻ったぞ」

 烏天狗が何もない空間から姿を現す。これもまた、見慣れた光景だった。

 「はァい、お疲れさん」

 気怠げに手を振ると、烏天狗は苦笑した。

 「またぐうたらとして……。とにかく、監視は引き続き行う。くれぐれも余計なことはしてくれるなよ」

 「へーへー、分かりましたァ」

 適当な返事はよそに、烏天狗が戒里の傍に風呂敷を置く。

 「昼餉だ。お前の要望通り、量は増やしてある」

 飛び起きた戒里は、それに手を伸ばした。風呂敷で包んであるのは山菜や動物の肉だ。

 食事はいつも烏天狗が運んでくれている。彼は立派な監視役、兼食事係だ。今日のように昼と夜だけ食を与えてくれる。それは山で採れたものであったり、はたまた海で採れたものだったりするわけだが、二日とも同じ食が被ることはない。量も希望すれば変更してもらえる。

 地上に行けない理由はこれもあるかもな、と衣食住が揃った生活を振り返る。

 「昼餉ってことは、今は昼なんだなァ。報告会はどうだったんだ? 楽しかったかァ」

 飯にありつき、気の良いまま尋ねた。

 「楽しいわけあるか。大天狗様が始終難しい顔をしておられた。お前のことがずっと気にかかるんだろう」

 「気にかかる?」

 「いつ暴れ出すのか分からないってことさ。お前が暴走したら、真っ先に被害を受けるのはオレだとお考えになっているようだしな。報告する者がいなくったら、邪鬼の対処はさらに難関になる。大天狗様はそれを危惧なさっているんだ」

 烏天狗がしみじみと言う。

 戒里は猪の肉を鷲掴みしながら、話を逸らした。

 「これ美味いな。どこで拾ってきたんだァ?」

 「話を聞け」彼が呆れる。「妖市場で買ったんだ。拾うわけないだろ」

 「昼餉の中身もすっかり変わっちまって、木の実だけの頃が懐かしいなァ」

 「そんな時代あったか? あの頃は山菜だけでも調達するのに苦労したって言うのに、お前ときたら、オレの分の食糧も根こそぎ食べていたような気がするが」

 「いい迷惑だった」と非難されたから、「勘違いじゃねェか」ととぼけておいた。

 「だがまァ、正直身の回りの世話してくれんのは助かってるぜ」

 「オレはお前の世話役じゃないんだぞ。監視だ、監視。履き違えてもらっては困る」

 「どっちかっつうと押しかけ女房じゃねェ?」

 「どういう意味だ」

 「言葉のままに」

 「全く嬉しくない」

 烏天狗がこちらを指差す。

 「お前は邪悪な鬼というよりは、性悪なおじさんって感じだな」

 「ひっでェ。おじさんって歳じゃねェよ」

 「性悪は否定しないんだな」

 「自覚はしてる」

 少なくとも善ではないから、今こうして封印されているのだ。大天狗からの信用を得ようともしていないのだから。

 「実際、お前はオレと対して変わらん齢だろう。オレはおじさんじゃないが。見た目も変わらないってことは、それが大人の姿なんだろ」

 「らしいなァ。オレもおじさんじゃねェけど。自分が何歳とかいちいち覚えてねェよ」

 大人になる前に封印されたという点ははっきり覚えているが。

 「とひはふ、働き者な烏には、感謝、ひへふっへ」

 「口の中のものを飲み込んでから言ってくれないか」

 自他共に認める、くだらない会話だ。何の意味もなく口を動かしているだけ。

 だが、これが、外へ行けない最大の理由だった。戒里にとってこの時間を失うことは、封印を破ることを断念させてしまうほどのもの。自分でも訳が分からない。



 ある日、いつものように昼餉を食べ終え、戒里は笑みを浮かべていた。満腹感は心さえ満たしてくれる。

 烏天狗が報告書だか何だかの作業をしているのを眺めていると、ふと、聞いてみたくなった。

 「烏天狗」

 呼びかけると、一拍置いて返事があった。

 「何だ」

 作業をやめて言葉を待つ彼に、戒里はこそばゆい感覚を覚えた。誤魔化すように声を出す。

 「オレがもし、もしも外へ行きたいって言ったら、お前はどうする?」

 言ってから気付いた。駄目だと言われるに決まっている。邪鬼である自分はこの世界には災厄でしかない。外に出すわけがなかった。

 案の定、烏天狗は「外には出さない」と言った。

 「閉鎖的な空間にいたくない気持ちも分かるが、こればっかりは仕方がない。諦めろ」

 「どうしても外へ行きたいって言ったら? ここでオレが暴れ出しても、止めるって言うのかよ」

 「そうだ。それがオレの役目だからな」

 想定通りの言葉に、やはり聞くべきではなかったと後悔した。

 自分は何を期待していたのだろう。

 断じてふてくされて寝るわけではないが、ゴロンと横になった。

 「だが」

 烏天狗がおもむろに口を開く。

 「だが、役目もしがらみも放って考えるなら」

 そこで烏天狗は躊躇した。布で覆われた表情は確認できない。たっぷり間を空けたのち、戒里に告げる。

 「友として、お前に外の世界を見せてやりたい」


   * * *


 遠くで俺を呼ぶ声がする。

 「起きて」

 その声に引き寄せられるように、俺は重い瞼を持ち上げた。

 見知った天井があった。身じろぎすると、知ったベッドの感触がある。

 俺の家?

 体を起こして見渡すと、死神さんと目が合う。

 「うわあ!」

 びっくりして声を上げると、死神さんが「やあ」と笑った。

 「起きたんだね。実はさっきから声かけてたんだ。キミが倒れてから三時間は経ってるかな。時計は見てなかったから、正確ではないけど」

 「そ、そうですか」

 時計に目を向けると、午前三時四十分。深夜だ。

 「そんなに引かないでよ、ボクだって傷つくよ。まあ、沙夜以外にどう思われたって気にしないけどね」

 「はあ」

 頭の中に靄がかかっているみたいだ。意識ははっきりしているのに、自分が何をしていたか上手く思い出せない。大体、どうして死神さんが家にいるんだ。ルカはいないのか。

 「悪魔ならいないよ」

 俺の心中を見透かしたように死神さんが言った。

 「いない? なんで」

 「うーん。どこから説明しようかな。疲れたからかな、とにかくキミが倒れた後、悪魔がここまでキミを運んだのは、覚えてる?」

 「いや……」

 「なら、キミを置いてみんなが異空間に行った話も知らないか」

 異空間。その単語にハッとした。

 「そうだ。俺は倒れて……。みんなが異空間に行ったってどういうことだ? 俺は置いていかれたのか?」

 布団もそっちのけで縋るように尋ねた俺に、死神さんは少し戸惑っていた。

 「落ち着いて。違うよ、違う。置いて行ったんじゃなくてね」

 「でも、ルカは」

 ルカは俺を連れて行きたくないと、ずっと渋っていた。倒れた俺を運んだのも、お役御免だと言いたかったんじゃないのか。

 「悪魔がどうかは知らないけど、置いて行ったんじゃないよ」

 「……本当か?」

 「キミも異空間に行ける」

 ピシャリと言った。

 「ベニバナサマの計画が思いの外、大掛かりだってことに気付いてね。だから、彼らの野望を打ち砕く作戦を立て直したんだ」

 「野望を……それってどんな」

 「順を追って説明するよ。だけどその前に」

 死神さんが窓の外を指差す。

 「外に行く準備を」

 頭の中の靄はもうなかった。



 家を抜け出した俺は、死神さんと道を歩いていた。

 深夜の住宅街は真っ暗で、電灯も頼りない。通行人がいないのは当然のことだが、それでも少し不気味だった。

 「ベニバナサマの目的は、陳腐だけど、世界征服みたいなものでね。妖怪も人間も支配しようとしている。空腹なら問答無用で食べるんだろうね、そのために人を残しているように思えるけど」

 月が見える。月光なんてあってないようなものに感じた。星も幾つか目にしたが、数える気にはなれなかった。空はどこまでも暗い色をしている。

 「この住宅街には、もう妖怪はいない。他の地域の妖怪は百鬼夜行でここへ集まってくるみたいだよ。全ての妖怪とは言えなくても、ほとんど力ある妖怪はこの街へ集まるだろうって、夜野おさむが言ってたよ。ベニバナサマはそこを利用するつもりだ、とも言ってたね」

 キミは何となくこの辺の話は知ってるだろうけど。死神さんがポツリとこぼす。

 「彼らの野望を阻止するために、やらなくちゃいけないことは幾つかある」

 一つ、死神さんが人差し指を立てた。

 「一つ、沙夜と月森クン、他にも攫われた子供達を助けること。二つ、戒クンを見つけること。三つ、鎌鼬と猫又を捕らえること。四つ、ベニバナサマを破滅させること。これくらいかな」

 「ルカ達はどの目的で異空間に?」

 「全部」

 死神さんはその他、詳しい作戦内容を話してくれた。

 まず、攫われた子供たちを宮原先生が助けに行く。雨水さんと月森のことも宮原先生が見つけるという分担らしい。その間、ルカには鎌鼬から猫又や異空間についての細部までの情報、そしてベニバナサマについて聞き出すことを任せたのだという。とは言え、鎌鼬が口を割るかどうかは分からない。その場合、ルカが単独で異空間についての調査を行うとのことだった。

 夜野先生は猫又と接触し、捕まえることが役目だ。鎌鼬はすでに捕らえているようなものだが、猫又の居所はまだ分からないままらしい。戒里さんを探すのも先生の役目。

 作戦の中で強調されたのは、最優先は攫われた人を救うことであるという旨だった。戒里さんを見つけることも優先事項だという。全会一致で決まった意見だそうだ。

 そして次に語られたベニバナサマを破滅させるための作戦、もとい、攻撃方法は思ったよりももっとずっと綿密だった。聞いたところ、俺の出番はない。人外同士の戦い、という単語が頭に浮かぶ。

 だが、と思う。だが、この作戦では、失敗は許されないんじゃないか。

 作戦を聞いた後、俺は尋ねた。

 「上手くいくんですか。一つ間違えれば大惨事になりそうだ」

 不安を吐露すると、死神さんがこちらを一瞥し、間延びした声で言った。

 「そうだね。失敗は許されないだろうけど、上手くいくかどうかの保障も出来ないよ。一手でも誤れば、災厄を引き起こすかもしれない。英雄譚にはならないね」

 「別に、英雄になろうとしてるわけじゃないですけど」

 死神さんは優しく笑む。

 「あの子もそう言いそうだ」

 雨水さんのことだろうか。

 「実はね、沙夜は、ベニバナサマの過去を暴く鍵を握っているんだ」

 「鍵?」

 「だから、キミにも持ってもらおうと思って。その鍵を」

 こちらの話には耳を貸さない態度にムッとしたが、そこで気付いた。

 死神さんに導かれるように歩いていたこの道は、紅花神社へ続く道ではない。

 どこに向かってるんだ。

 またしても不安を覚えた俺は、死神さんに問いかける。

 「俺達はどこに行こうとしてるんですか」

 死神さんは「言ってなかったっけ」ととぼけた。

 「これも作戦の一部なんだよ。ボクはキミと行動することになってる。悪魔にも言われたしね。あいつ、いつ知ったんだ。全く鬱陶しい」

 「ルカも? じゃなくて、死神さん。俺達はどこに」

 俺の言葉を遮るように、「異空間の先にね」と前置きをして、死神さんは教えてくれた。

 「図書館に行くんだよ」

 死神さんの銀髪が月の光で煌めく。


   # # #


 私は一面灰色の世界に居た。天には、爛々と輝く太陽も、皓々と光る月もない。雲が漂う事すらない空は、形だけを取り繕った見せかけの空に見えた。有り体に言えば、彩るのを忘れた絵の中の空だ。

 素肌に触れていた草花を見下ろす。黒ずんだそれらは、見るも無惨な姿を晒している。最早原形を留めていない物も散在していた。

 「……また?」

 どこもかしこも見覚えのある光景だった。

 記憶を辿ると、数分前の出来事だ。異空間に取り残され、妙な音が聞こえると思えば、一人の少女が現れた。その少女と会い、一言二言話したのは薄ぼんやりと覚えている。

 月森君は私の足元で倒れていた。今も眠っているままだ。安全な場所で寝かせたいところだが、周囲を確認しても、そんな場所は見当たらなかった。せめて寄りかかる木は、と思ったのも束の間、少女の声がした。

 「おねえさん」

 瞬き一つすると、目の前に少女がいた。

 「あなた、誰なの?」

 「ふふ、直球ね。悪くないわ」

 そう言いつつも、少女は私の問いに答える気はないようだった。

 「そこのおにいさんは、暫く目を覚さないと思うわ。精神が壊れる前に視覚を失ったのね。見たくない、と強く望んでしまったせいかしら」

 少女はこちらの事情を把握しているらしい。

 私は警戒しながら口を開いた。

 「あなたの目的は? どうして私達をここへ連れてきたの?」

 「話すと長くなるの。少し待っていて」

 少女は黒ずんだ草花の上を歩いていく。五メートルほど離れたところまで行くと、立ち止まり、ドアを開けるような仕草をした。もちろん、そこにドアはない。

 少女が手招きする。私は迷ったが、少女の元へ足を動かした。月森君が気にかかり、一度振り返ったが、もうそこに彼はいなかった。

 「おにいさんはもうこっちに運んだわ。安心して」

 今のところ、奇妙な少女を信じるしか寄る辺がない。

 不信感を拭えないまま、私は先を急いだ。



 カツン、とカップが置かれた。柑橘系の匂いが湯気とともに鼻にふれる。蜜柑、だろうか。馴染み深い香りだ。

 少女は赤色の椅子に座り、対して私は白い椅子に座っていた。眠る月森君も私と同じ椅子に座らされている。テーブルは赤い。少女の趣味、と言ってしまうにはどこか歪な印象だった。

 少女はカップに口付た後、私を見た。

 「まずは自己紹介かしら。わたしはコウカ。この名はね、両親から貰った唯一のものなの。響きがいいでしょう」

 気に入ってるの、と少女が穏やかな顔つきで言った。

 私は目の前のカップに手をつけられず、黙って少女に耳を傾けた。

 「わたしは人じゃないわ。だけど妖怪でもない。一番近いのは、亡霊、かしら」

 「亡霊? どういう」

 「わたしはね、”彼女”に捨てられた存在なの」

 「彼女?」

 「ベニバナサマのこと。おねえさんも会ったでしょう?」

 噛み合っているようで噛み合わない。コウカと名乗った少女の言い分は、曖昧な言葉で形作られていた。

 だがその言葉を理解するよりも先に、私は口を動かしていた。

 「ここは何なの? 私と月森君がいた場所とは、随分と違ってる。それに、私がここへ来たのは二度目だよ」

 十中八九、コウカが関わっているのだろう。

 「そうね、その説明もしないといけないわね」

 コウカはモノクロの景色に目を向けた。

 「ここはベニバナサマが入れないたった一つの場所なの。どれだけ攻撃したって、彼女には入ってこれないわ。だからと言っては何だけど、荒れ果てた場所にしては結構居心地いいのよ」

 「どうしてベニバナサマは入れないの?」

 「彼女がだから。安心して、おねえさんもおにいさんも、ここにいる限り暫く安全よ。彼女に気付かれることはない、はず」

 「はず? 確定じゃないの」

 コウカがカップを傾ける。自分より幼い姿なのに、自分よりよっぽど大人みたいな動作だ。

 言葉通り受け取るのなら、コウカは一体いつから亡霊となったのか。それとも亡霊というのは何かの比喩なのか。分からない。カップの中身を淡々と喉に流し込むコウカを眺め、私は妙な胸騒ぎを覚えた。

 「ここは、精神世界のようなものなの。現実に存在している場所ではないわ」

 「精神世界……夢ってこと?」

 「ええ。端的に言えばそうかも。おねえさんが一度来た時も同じよ。ここは、目が覚めたら消えてしまう夢と一緒。誰にも縛られない夢の国。だから、二人の体はまだあの空間に囚われている。ベニバナサマが支配している空間に。おねえさんたちの体はわたしが隠しておいたけど、見つかるのは時間の問題だわ」

 少し難しいかしら、と問われ、素直に頷いた。コウカは微笑む。

 「おねえさんには、頼みたいことがあるの。そのために二度も来てもらったのよ」

 そう言われて、ある言葉を思い出した。

 「その頼み事は、あなたがベニバナサマを助けてって言ったことなの?」

 コウカが目を瞠った。

 「聞こえていたのね」

 「ばっちり。だって私に向かって言ったんでしょ」

 耳は良い方なんだ。『妾を助けて』とコウカが言ったことも覚えている。問おうとして口を開いたが、コウカに遮られる。

 「それなら長話はしなくて済みそうね。わたしも直球で言うわ。ベニバナサマを助けてあげて」

 コウカは喜色を浮かべて身を乗り出した。ガタン、とテーブルが揺れる。カップの中身が踊り、テーブルに水玉を作った。

 「それが、あなたの目的?」

 本当に言ってるのか。寝耳に水もいいところだ。

 「ええ!」

 はっきりした物言いに、私はどうするべきか、何を言うのが正しいのか、惑った。

 ベニバナサマのせいで苦しんでいる人がいる。ベニバナサマのせいで異空間から出られないままの私達。きっとどこかで戒里さんも囚われているはずだ。私が助けるべきは、そっち。ベニバナサマじゃない。

 コウカが期待した目で私を見つめている。

 結局、時間を置いて私が言えたのは、コウカへの返事ではなかった。

 「先に教えて」

 コウカがキョトンとする。

 「何を」

 どう言うべきなのか。自分が何を知りたいのか。

 過去のこと。

 現在のこと。

 何から訊けばいいのだ。

 迷い、惑い、こぼれた言葉は一つのこと。

 「洞窟で泣いていたのは、コウカ、あなたなの」

 今訊くことなのかと、自分でも、耳を疑った。


 4

   # # #


 「どうして」

 コウカは放心するように呟いた。その反応で分かった。あの少女はコウカだ。

 空気を包む蜜柑の匂いは、まだ香り強く残っている。

 どうして。どうして、わたしだけが。

 夢の中で、少女は泣いていた。血色の悪い肌を抱え、「独りにしないで」と縋ってきた。少女に告げた私の言葉は、綺麗事のようなものだ。もしくは、私が言われたかった言葉か。

 情景を思い出していると、コウカが「どうしてそれを」とか細い声で尋ねた。続く言葉は予想がつく。

 「夢を見たから知ってるの。私も、どうしてあなたの夢を見たのか、見当もつかないけど」

 「夢……?」

 私は頷く。コウカの瞳が戸惑うように揺れた。

 「ねえコウカ。私が知りたいこと、聞いてもいい?」さっきから質問ばかりだけど、私は伺いを立てた。

 「知りたいこと」

 「ベニバナサマを助けるかどうかは、それを全部聞いてから」

 「全部」

 まるでオウムだ。私が言ったことを繰り返すコウカ。少ししてから、コクっと控えめに頷いた。

 「じゃあ、まず一つ。ベニバナサマが支配してる空間、あそこから元の世界に戻る方法はあるの?」

 コウカがまた首肯した。

 「もちろんよ。一つは、宿主であるベニバナサマが望んで、おねえさんたちを元いた場所へ返す方法。これは一番良い方法だわ。だけど彼女を説得する必要がある。もう一つは、空間そのものを壊すこと。創造主が消滅すればすぐに異空間もなくなるわ。でもこの場合、ベニバナサマと戦わなくてはいけない」

 二つとも無理難題、と言うやつだ。コウカが「あと一つ」と声を上げた。

 「外部からの接触よ。おねえさんもさっき戻れそうだったでしょう? あの時みたいに、空間を歪めて移動できる術を使えば、すぐにでも戻れるの」

 瞬間移動が可能な道具を思い出す。あの時、両肩を押されて私と月森君は元の世界に戻れなかったけど、あのまま行けば戻れていたのだ、と家に帰る方法を示された気がした。

 そういえば、あの時私と月森君が突き飛ばされたのはどうしてだろう。

 顔に出ていたのか、コウカが眉を下げて謝った。

 「ごめんなさい。おねえさんにはまだ戻ってほしくなかったから……強引なやり方だったわ」

 「月森君にも、戻ってほしくなかった?」

 何気ない質問だった。だが意外にも、コウカは否定した。

 「おにいさんを呼び止めたつもりはなかったの。あくまでわたしは、おねえさんを引き止めたかっただけだから。どうしておねえさんだったのか、わたしも分からないけれど」

 コウカの夢を見た私。

 私をここへ招いたコウカ。

 どうしてお互いが理由も分からずにそうなっているのか。謎が増えた。

 白い椅子に座り、眠った状態の月森君を伺う。ここが夢のようなものなら「起きる」という表現はおかしいだろうが、月森君が起きる様子は全くなかった。

 「おにいさん、きっと何も見たくなかったのね」

 コウカに囁かれ、私は曖昧に返事をした。

 月森君が見えなくなっている理由は、本人から聞くしか知る術はないんじゃないか。彼に対して覚えた違和感、それははっきりしていた。彼は目が見えないと言った時から、元の世界に戻ろうとはしていなかったのだ。たとえ視覚が機能していても、あの時月森君は私や死神さんたちと帰ろうとは思っていなかったのではないか、と今となって思う。

 月森君から視線を逸らす。

 「あなたは、戒里さんが今どこにいるか知っているの?」

 「いいえ。けれど捕まっているのは確かだわ。ベニバナサマはあの人に執着しているから」

 思ってもみないことだった。

 「どうして執着しているの?」

 そこでコウカは口をつぐんだ。触れられたくない話題だったのだろうか。顔を歪めていて、泣いているのかと見紛う。

 話題を逸らそう、と涙で連想した事を口にした。

 「さっきも聞いたけど、洞窟で泣いていたのはあなたなんだよね。あの夢、あれは何? あなたの過去……だったりするの」

 こうやって人のことを矢鱈と踏み込んで聞くのは苦手だ。冷静であれと思いながら吐いた言葉は、少女を傷つけてはいまいか不安になる。

 「たぶん、そうよ。……おねえさんが見た夢の内容は知らないけど、なんとなく、どんな夢を見たのか、わかるわ。あの頃のことは、よくおぼえているもの」

 弱々しく笑う。

 「おねえさんがそんな夢を見たのは、わたしのせいだわ。ベニバナサマが思い出したくなくて捨てたものと、誤って共鳴しちゃったのね」

 「共鳴?」

 「おねえさんは知ってるのね。孤独がどれほど心をすり減らしていくものなのか。おねえさんも、親しい人に裏切られたことがあるのね」

 それを聞いた時、刃物で心臓をぐちゃぐちゃにされているような気持ちになった。

 いじめられていた頃のことが、波のように押し寄せる。

 ”最初”は何もなかった。仲良くしようよ、これからよろしく。そう言う人たちが沢山いた。だけど、私がいじめられるようになってから、みんな揃って私を指差すようになった。あいついじめられてるんだぜ、調子に乗ってるからだよ、なんで生きてんの、良い子ちゃんぶりやがって、偽善者、うちらのこと見下してんだよ。

 蘇った声に思わず目を瞑る。抑え込む。心の端まで追いやって、奥深くに押し込んで、もう大丈夫だと目を開けた。

 被害者ぶるなよ、私が弱ってはいけない。

 「おねえさんも、わたしも、同じものを持ってるのね。だから、重なるところがあったんだわ。おねえさんが夢を見たのも、わたしがおねえさんを頼ろうとここへ連れてきたのも、それが理由なんだわ」

 私もコウカも納得した面持ちになった。



 その後も問答を繰り返し、分かったことは二匹の妖怪についてだった。

 鎌鼬と猫又。彼らは思った通り、ベニバナサマの側近のような立ち位置だった。さらに、ベニバナサマの直属の部下となる妖怪は、その二匹のみで、異空間に出入り出来る妖怪もまた、その二匹だけだった。

 「彼らがどういう経緯でベニバナサマと共にいるのか」という問いを、敵情視察半分、興味本位半分で投げかけると、コウカは申し訳なさそうに「知らない」と答えた。

 コウカは万能な存在ではないのだと知る。



 不意に、コウカが神妙な顔をして口を開いた。

 「ねえ。ベニバナサマのこと、どこまで知っているの? おねえさんは、もう気付いた?」

 ドキリと心臓が鳴った。

 「何に」

 「

 蜜柑の香りに導かれるように脳裏に過ったのは、図書館で見つけた一冊の古書。異空間に囚われる前の日、私だけが読んだものだ。きっと死神さんも知らない記述。

 同時に、鎌鼬に投げつけた自分の台詞も思い出す。


   * * *


 図書館に着いた俺は、死神さんの後ろ姿を見て思わずため息を吐いた。

 まさか深夜に忍び込む羽目になるとは。

 閉館の文字が大きく主張している入り口を見て、意気揚々と裏口へ俺を手招いた死神さん。鍵は開いていた。ドアノブを捻ればすぐに入れるのだ。だが館内に立ち入る前に、一つ問題があることに気が付いた。

 「二人、見回りしてる人がいるね」

 ワクワク顔を隠せない死神さんに、雨水さんはいつもこの人と一緒にいるのか、と少し心配になった。

 「どうするんですか。見つかったら即通報だ。それか家に電話されるか……」

 俺は後者の方が余程まずいと顔を真っ青にした。

 「そうだねえ。見つかると面倒だから、隠れながら行こう」

 と言ってもボクは隠れる必要ないけどね、と口を歪める。

 「じゃあ、死神さんが取りに行ったら良いだろ。わざわざ俺が取りに行かなくても。タイトルも知らないし」

 パチリと死神さんが目を瞬かせる。

 「無理だね。沙夜が読んでたの、どれか知らないし」

 このやろう。

 「あの子が何か読んでるのは見てたんだけどね、タイトルまでは見てなかったよ」と肩を竦める死神さんに、「今は一大事だろ」だとか、「雨水さんが心配じゃないのか」だとか文句を言ってやろうとしていたが、やめた。知らないなら文句を言っても仕方がない。

 要は見張りに見つからなければいいのだ。

 やってやろうじゃねえか。

 こんな時だが、俺は真夜中、図書館に忍び込むというシチュエーションに少しだけ心が躍った。俺も人のこと言えないな、と自分に呆れる。

 この図書館は二階建てだ。一階は本棚だけでなく、読書をするための机や椅子が並んでいるスペースや、唯一飲食が出来るエリアもある。受付は入り口前だ。対して二階は、ほとんど本棚のみ設置されている。ちなみに裏口は入り口と真反対の位置だ。

 「で、その本ってのはどの辺りにあるんだ? 流石にそれは知っててほしいんだが」

 裏口のドアを薄く開けて館内を覗き込み、出来れば一階に目当ての本があればいいな、と思った。

 「二階だよ。確か、二階の一番奥のとこ」

 真逆じゃねえか。



 「今だよ」

 死神さんの合図を機に、俺は館内に侵入する。

 ドアを開ける音が見張りに聞こえるのではないかと内心ビクビクしていたが、本棚に音が吸収されたようで、気付かれることはなかった。

 入り口が見える。すぐ右手にある本棚へ身を隠した。足音がする。上からだった。見張りの一人は確実に上にいるようだ。

 もう一人はどこにいるんだ。

 死神さんに教えてもらおうと振り向くと、無言で、入り口の左手、つまり受付を指差している。そこにもう一人がいるのだろう。

 階段は右に進めば二十歩も歩かずに着く。俺は慎重に動いた。

 無事に階段前まで来たところで、死神さんに呼び止められた。

 「二階、階段の近くに一人。あと受付付近にいた男がこっちに来てる。隠れて」

 慌てて柱に身を隠した。

 懐中電灯の丸い光が床に伸びていく。光が遠ざかるのを確認するまで、俺は動かなかった。呼吸さえ止めていたことは、死神さんに「二階も大丈夫そうだよ」と声をかけられてから気付いた。

 息苦しい。だが高揚感も少しだけ、あった。

 いそいそと二階へ上がり、死神さんに誘導されながら、ついに奥の棚まで辿り着いた。

 ざっと見ただけでも、三百冊以上は収納されている。他の本棚と違って、ここだけ古びた本が連なっている。

 ここから雨水さんの読んでいた本を見つけるのは、途方もない話に思えた。本を見つけたとしても、読了するまでどれほど時間を要するか。元々、活字を読むのも苦手だ。気が遠くなる。

 「あの日、沙夜が調べていたのは紅花神社についてのことだった」

 古い本を手に取り、死神さんがページを捲る。

 「戒クンが言うには、ベニバナサマはこれまでも多くの妖怪を食べてたんだって。それをすることで、妖力が蓄えられる。——強くなる」

 声を聞きながら、俺も作業を始めた。

 タイトルを見て、古書に手を伸ばし、中身を確認する。

 「だけど、キミたちはそれを知らなかったでしょ。この街にある紅花神社の主のことも、知らないことばっかりだったんじゃない」

 紅花神社に祀られている神様のこと。紅花神社の成り立ち。いつから、あの場所に存在していたのか。誰がつくった社なのか。

 俺は、知らなかった。いや、大まかなことは知っていた。小さい頃に聞いたことがある。年に大々的に祭りが行われるのも、紅花神社の神様の怒りを鎮めるため、昔からやっているのだと、街の大人は知っている。今となっては知らない子もいるだろうが、元々はそうだった。ただ楽しく騒ぐだけの祭りじゃなかった、はずだ。

 だが、みんな、どうして神様が怒っているのか、その点だけは知らなかった。いつ、誰がつくったのか。平安時代だ、と答える人もいれば、いやいや戦国時代だ、違うもっと最近だ、と答える人もいる。俺の周りが知らないだけかもしれない。だがそれだけとも思えなかった。

 死神さんと作業をしながら、俺は足元が冷えてくる感覚に気付いた。こんな事態になるまで、全く、気にも留めなかったことだ。それを今探しているなんて、恐ろしいことをしているような気分になった。

 死神さんが言った。俺が返事をしないのは、見張りに気付かれないためだと分かっているようだった。

 「まるで隠されてるみたいだよね。紅花神社の詳細は、ほとんどの人が知らない。言い伝えだって少ない。他の神社はこうやって書物に載っているのに、おかしいよね」

 だけどね、とすでに五冊目となった本を抱える死神さん。

 「人の世界ではなかった話かもしれないけど、あるんだよ。人でない者の世界では、ベニバナサマについての昔話が」

 思わず俺は顔を上げた。昔話なんて聞いたことない。

 「この街に棲んでいる妖怪は、きっとみんな知ってるんだろうね。戒クンも知っていたくらいだよ。生憎とボクは、聞いたことがあるなってくらいの感覚だったけどね」

 そこまで聞いて、俺は死神さんが言わんとすることに気付いた。

 人の世界には伝わっていない言い伝え。人外の世界では知られていた昔話。雨水さんが読んでいた本、その内容は。

 「沙夜は、見つけたんだよ。人の世界でも残っていた、おそらく、唯一の昔話の中身。書物の割には、とても少ない情報だったかもしれない。だけどあの子は見つけた。それがボクの言った”鍵”だよ」

 ベニバナサマの過去を暴く鍵は、たった一冊の本にしか隠されていない。その一冊を見つけないと、俺が鍵を持つことはこの先ないだろう。



 白み始めた空が、タイムリミットだと告げているような気がした。館内の時計はここからじゃ見えない。移動するのもタイムロスで、五時か六時ごろだろうか、と予想する。

 鍵の話をした後、死神さんも俺も無言でその本を探した。一冊、一冊、これ以上ないくらい集中して探した。それっぽいタイトルも、関係ないようなタイトルも、手当たり次第ページを捲った。

 時折、見張りの姿も確認でき、本を捜索する一方で身を潜めることも忘れなかった。

 だが、駄目だった。見つからなかった。

 外はもう朝を歓迎している。今日が来てしまった。祭りの日。提灯も子供たちも行方不明で、街のみんなは準備どころじゃないだろう。

 今夜、百鬼夜行は行われる。大勢の妖怪がこの街を訪れる。

 そうしたら、何もかも終わりだ。

 図書館の窓ガラスに反射して、朝日が煌めく。俺は目を細めた。今度は本棚を見る。死神さんが作業を続けていた。

 諦めた心地になりながらも、やはり意地でも見つけたくて、一つ深呼吸してから手を動かす。

 神社系統の本は調べ終えていた。俺一人では終わらなかった量が、死神さんの手によって減っていくのを見た時は、感動すら覚えた。

 今は、目にしたものを取り、調べている。

 ほとんど寝ていないのもあって、集中力はその力を失いつつあった。

 しばしばになった目を擦り、文面に指を滑らす。次のページも、そのまた次のページも同じように。



 「あ」



 張り詰めた空気に、気の抜けた声が漏れた。その瞬間、ぶわりと桜が舞うような、そんな喜びがお腹の中心から湧き上がった。眠気が醒めていく。異常なほど高まった高揚感が、活字を辿るスピードさえも上げてくれる。

 見つけた。

 見つけた。

 これが、”鍵”だ。

 死神さんがこちらに視線を寄越すのを、空気で感じた。死神さんにも見せようとふとずらした視線の先が、しかし、とある一文に吸い寄せられた。ほおっと息を吐く。安心でも感嘆でもない。ただ、ああ、と思った。雨水さんもこの一文を読んだに違いない、と確信めいたものがあった。

 『……そうして、人にも神にもなれなかったその少女は、おそろしい鬼女に成り果てたのだ。……』


   # # #


 コウカは真剣だった。真剣に、私の返事を待っていた。

 気付いているのかと聞かれればノーと答え、知っているのかと問われればこれもノーと言えた。だが、何もかも知らないわけではない。

 なんとなく、そうなんじゃないかという予感はあった。図書館で見つけた古書を読んだ時から、もしかしてと思っていた。

 だが、確証はなかった。

 異空間で会ったベニバナサマは、それはもう記述通り美しい姿をしていたけれど、想定していたよりもずっと敵意を感じた。人の子を生贄とする姿勢も、ぶれなかった。

 鎌鼬にきつい物言いをして彼の尊敬するベニバナサマを詰った時も、確証はないままだった。とりあえず動揺させなければ、と思い立った末路がアレだったのだ。今思えば、少し言い過ぎたかもしれないと反省する。ハッタリも交えた言葉で、あそこまで怒らせなくても良かったかもしれない。

 動揺した鎌鼬の言葉を聞いて、私の考えは合っているんじゃないかと思った。コウカと話をして、余計に、そう思うようになった。だが、確実な証拠はやはりなかった。

 「おねえさんは、分かっているの」

 コウカは赤色の椅子に腰を下ろし、俯いていた。カップの取っ手を意味もなく弄っている。

 「なんとなく」

 曖昧な返しをしたからか、コウカは少しだけ上を向いた。キッパリ言えばもっと下を向いたのだろうか、とくだらないことを考える。

 「図書館の本に、書いてあった」

 「トショカン?」

 聞き馴染みのないものだったらしい。

 「たくさん本が置いてある場所。書物って言った方がいいのかな」

 「本はわかるわ」

 馬鹿にしないで、と頬を膨らます少女に、私はしてないよと返す。

 話を戻す。

 「紅花神社が造られたのは、ベニバナサマの怒りを鎮めるためだって書いてあったよ。毎年開催される祭りも、ベニバナサマの怒りを宥めるのが当時の目的だった。儀式のようなものなんでしょ」

 これは街の人も知っているだろう。

 「そのベニバナサマは美しい姿をしていることも書かれてたよ。それと」

 次の言葉を口にするのは、躊躇われた。私は意を決して言う。

 「それと、ベニバナサマは、元は人間だったんじゃないかっていう話も」

 コウカがビクリと反応する。鎌鼬といい、分かりやすいリアクション。

 隠したがってるところに踏み込むのは、本当に苦手だ。フォローにはならないだろうが、慌てて言った。

 「本当に少しだけ、載ってたの。事細かに記せるほど、昔から正確な情報はなかったみたいだね。本に書いてあるのが本当かどうか、私は、分からない」

 本音をこぼすと、「分からないままで、予想もつかないままで良かったのに」と思ってしまった。

 しかし、すでに回ってしまった思考は、今更止めようがなかった。

 ごめんね、と心中で呟く。ごめんね。私は、コウカを傷つける。

 「真偽は分からないけど、だからこそ、思ったんだ。ベニバナサマが元々は人間だったっていう話は、本当なんじゃないのかって。神社の成り立ち、ベニバナサマが怒っていたのは、人間だった頃、親しかった人に裏切られたからなんじゃないかって思うんだ」

 続けて、本の内容を口にする。



 紅花神社に祀られているのは、鬼女というあやかしである。

 その昔、人間だった少女は、不思議な力を使えた。人とは思えないほどの、まるで神の力だった。そのせいで家族に見捨てられ、村人からは嫌われ、やがて洞窟に閉じ込められるようになった。

 少女は恨んだ。自分を捨てた家族も、閉じ込めた村人も、決して許さないと憎んだ。人でありながら、人ではなかった少女は、憎悪と怒りのままに洞窟を抜け出し、村を、そして山さえも焼き尽くした。

 そうして、人にも神にもなれなかったその少女は、おそろしい鬼女に成り果てたのだ。

 鬼女を恐れた隣村の人間は、彼女の怒りを鎮めるために、燃えた山の跡地に祠を建てた。

 鬼女は、今もその祠で眠っているという。



 大体、こんなことが書かれていた。覚えている限りを話した。

 全てを鵜呑みにしたわけではない。不思議な力というのも信じ難かった。だが、少なくともベニバナサマが怒っているのは、人間の行いのせいだ。

 ——おねえさんも、親しい人に裏切られたことがあるのね。

 そんなことを言われて、察しないはずがない。

 コウカと目が合った。泣きそうに歪み、濁った紅い瞳。放たれた台詞は、想定していたものと違っていた。

 「おねえ、さん。違うよ。裏切ったのは、村の……っ。両親は、わたしを、さいごまで」

 洞窟の中で泣いていた少女と、コウカの姿が重なって見える。堰が切れたように泣き出したコウカは、先ほどとは打って変わり、年相応の子供に思えた。

 「違う。ちがうの。わたしも、ベニバナサ、も、恨みたかったわけじゃない。ただ信じ、たくて。だけど、願ったらぜんぶなくなって」

 溢れる涙を両手で拭い、目元が瞳色のように紅くなっていく。心に作った巨大な壁が、決壊する。

 「気付いたら、わたしが、わたしだけ、″ここ″にいて。鬼になったベニバナサマは、強くなろうとしてて、わたしを」

 泣きじゃくるコウカを見て、予感は当たっていたと確信した。



 わたしは、″彼女″に捨てられた存在なの。

 ベニバナサマが思い出したくなくて捨てた。



 ——だからあなたは、少女のまま。



 みんなそうだもの。

 こんな変な子供と言葉なんて交わしたくないわよね。



 ——そんなことない、と言えば良かった。



 どうして、わたしなの。

 どうして、わたしだったの?

 わたしだけ、どうしてこんな目に遭うの。

 ずっと傍に居て。

 わたしを独りにしないで。



 ベニバナサマを……『妾』を助けて。

 助けてあげて。



 ずっと助けを呼んでいた。だから、同じような思いを持っていた私を頼った。私なら助けてくれると思ったんだ。

 私は椅子から立ち上がり、コウカの近くに膝をつく。背中を撫でた。

 我慢していた言葉が音になって出る。「ごめんね」

 コウカは泣き止まない。ずっと、そうしたかったのだろう。孤独な場所で、もっと独りになる気がして、我慢していたのだろう。

 「ごめんね」

 泣かせたこと。

 こうなることが分かっていて踏み込んだこと。

 傷口に触れたこと。

 「ごめん」

 コウカの涙が引いていく。

 「コウカは、鬼になる前の、”人間の頃のベニバナサマ″なんだね」

 ベニバナサマが強くなるために、切り捨てた精神。

 落ち着いたのか、コウカは大人びた調子で言った。もう涙は乾いている。目元も紅くない。

 「そうよ」

 その顔立ちは、確かにベニバナサマの面影があった。



   鬼3



 外に出たい。烏天狗にそう告げると、「友として外の世界を見せてやりたい」と言われた。

 トモ、というのが何なのか、戒里は解らなかった。知らない言葉だった。ただ、烏天狗の声色と、後に続く台詞からして、悪い言葉ではなのだと思った。もしかしたら本当に外へ行けるのではないかと胸が高鳴りもした。

 あれから、また月日が流れた。

 期待とは裏腹に、外の話はあの日一度きりの話題で、戒里から口に出すこともなければ、烏天狗が戒里を外へ連れ出す素振りも見受けられなかった。戒里は、やはりあり得ないことだったのだろう、と早々に期待を捨て、変わり映えのしない日々を過ごすことにした。

 烏天狗が持ってきた飯を腹に収め、くだらない会話で適当に時間を浪費し、そして寝る。それをいつものごとく繰り返す。

 唯一変化したことを挙げるとするならば、烏天狗の留守が増えたことだった。

 天狗様に報告してくる。そう言って外へ行く烏天狗を見送るのは、ここ立て続けの出来事である。以前は月一度のものであったのに、一体全体何があったのだろう。

 怪訝に思いながらも、問い詰めるのは面倒だったので、戒里は何をするでもなく烏天狗を待った。どうせ取るに足らないことを報告してるんだろう、とか思っていた。

 だから予想外だったのだ。

 その日、戻ってきた烏天狗から、「天狗様がお呼びだ」と言われ、その上「お前に外の世界を見せてやれるかもしれない」と告げられたのは、想定外の想定外、にわかに信じられない話だった。



 「久しいの。お前さんを封印してから、もう千年ぐらいか」

 真っ白な顎髭を撫で、こちらを眼光鋭く見下ろす大天狗は、烏天狗とは違い、長い鼻を持っていた。少し赤みを帯びた肌は長鼻同様、天狗の特徴だ。

 戒里の両手は後ろ手に鎖で縛られている。縄だと燃やされると危惧したのだろうか。この鎖も引っ張ったりするだけでは決して壊れない。運よく壊せたとしても、後ろに控える天狗二人に抑えつけられるのが関の山だ。それに、天狗二人が持つ錫杖は戒里の首に当てられている。周りには言葉を交わしたこともない天狗と烏天狗が大勢いた。逃亡は難しいだろうことは一目で分かった。

 「ここまで逃げ出さなかったのは意外よの。もっと抵抗するかと思うておったが、あやつの言う通りだな」

 大天狗が視線を向けた先には、烏天狗がいた。知った顔を見つけて、戒里は「説明しろ」と事の顛末を訊ねようとしたが、口を開いた途端、首元の錫杖が気道を押さえつけた。

 咳き込む戒里を、大天狗は満足げに眺めている。

 「聞きたいことがあるようだな。言ってみよ」

 呼吸を安定させてから、戒里は言った。

 「ここは何処だ? あんたらの御山じゃねェだろ。それに何のためにオレを呼びつけたァ? 封印はもう良いのかよ?」

 間髪入れず、大天狗は答える。

 「ここは今日からお前さんの屋敷だ。監視付きだがの。邪鬼の顔をおがむために呼び出した。呼びつけたという言い方はわしは好かん。今後一切使おうてくれるな。封印はもう良い」

 「はァ?」

 想定外どころじゃない。戒里は目を剥いた。

 「あやつの報告で聞いておる。望み通りにしてやろう」

 大天狗の顔を窺うと、底の見えない、薄気味悪い笑みを浮かべていた。戒里はそのいやらしい笑顔を睨みつけた。

 「何を企んでやがる」

 無礼者、と四方八方から声が飛んだ。暴れたい衝動をどうにかこうにか抑え込む。

 大天狗は優雅に葉っぱの扇子を仰ぎ始めた。

 「そう怖い顔をするな、邪鬼よ」

 「あんたも似たような顔してんだろォ。大体、望みって何なんだよ」

 「察しが悪いのう。あやつに外へ行きたいと言ったのはお前さんだろうに。外の世界を見たいのだろう? わしはそれを許すと言っておるのだ」

 「何の誓約もなしにかァ? 信用ならねェな」

 戒里がそう言った途端、大天狗は、はたと扇子を仰ぐ手を止めた。戒里を見る目は冷え切っており、そこには侮蔑の色もあった。その上、恐ろしいほど場が静まり返っている。知らぬ間に地雷を踏んだか、と戒里が危ぶんでいると、

 「ヨサメ、みなと共に下がれ」

 ヨサメと呼ばれた烏天狗は、いつも戒里の監視役をしているあの烏天狗だった。突然の命令にヨサメは戸惑っている。そこへ、大天狗の苛立った声が投下された。

 「何をしておる! 早くせんか!」

 「はっ。仰せのままに」

 ヨサメが天狗や烏天狗らを引き連れて去っていく。あっという間に人気がなくなった部屋は、こうして見ると広かった。屋敷と言われているあたり、ここは大広間のような場なのだろうか。ここへ連れ出されたとき、目隠しをされていたので知らなかった。

 最早この場には、戒里とその後ろに控える天狗達と大天狗しかいない。

 嫌な予感がした。

 「信用ならないのは、こちらも同じだということを忘れるな。誓約がない、と一度でもわしの口からそんな戯言が出てきたか? 封印はもう良いとは言ったが、自由にするとは言っておらぬ」

 つまり、誓約があるということだ。それも、封印よりもずっと重い約束事。

 何を告げるつもりだろう。今度は幽閉でも言い渡されるのか。屋敷から出るのは禁じる、とかならまだ軽いもんだ。すぐにでも屋敷を破壊して出て行ってやる。

 それとも、牢獄にでも繋がれてしまうのか。大天狗どもの憂さ晴らしに殴られるなんて事態は御免被る。痛めつけられて喜ぶ趣味はない。そうなったら逆に皆殺しをしてしまうやも。

 もしくは、とヨサメの姿を思い浮かべる。あいつをダシにオレを従わせるつもりか。戒里は、腹の底が煮えたぎる思いに駆られた。どうしてそんな思いを抱えているのか、自分でも不可解である。ヨサメはただの監視役であるはずなのに。

 様々な可能性を頭に張り巡らせて、警戒する戒里。大天狗が告げる。

 「忌々しい邪悪な鬼よ。お前さんの名と血を、わしに捧げよ。これからわしの傀儡として働いてもらうぞ」

 ガツンと頭を殴られたような、そんな衝撃が走った。

 自分が奴の傀儡になる。名と血を奪われ、操り人形にされる。それがどう言う意味を持つのか分からないほど、戒里は落ちぶれていない。例えば、ある物を盗めと言われたら、どんな手段を使ってでも盗み取り、ある者を殺せと言われたら望まれた通りの死を与え、死ねと命じられれば自ら命を絶たなければならない。それは、奴の命令に逆らうのは絶対不可能となる、禁忌の契約だった。

 「正しい手順、知ってんのかよ。真名と血を奪うだけじゃあ、成立しねェんだぜ」掠れた声が出た。

 「勿論だとも。このためだけに貴様を生かしておいたのだ。この術を知っておるのも、さらに使えるのも、わしを含めて五人のみ」

 戒里は目を見開いた。

 「五人?」

 そんな馬鹿な。

 驚きを隠せない戒里を見て良い気になったのか、大天狗は目を細めた。

 「冥土の土産ではないが、特別に教えてやろう。傀儡術を使えるのはわしと天狐、白沢と鬼の総大将、そしてぬらりひょんの五人だ。巷では一角の鬼女も使えると聞くが、所詮は噂よの。真の術使いはわしらよ」

 大天狗が連ねた妖は、どれもこれも大妖怪として名を馳せている者達だ。ヨサメが時折話してくれたので知っている。そして、傀儡となった者は記憶も操作されることがあると、戒里は知っていた。

 「——さあ、儀式をはじめようぞ」

 大きな音を立てて真っ黒に塗り潰されていく周囲の景色。

 「結界……ッ」

 儀式の邪魔をされないためか、今までにないほど強力なものだった。

 そこでやっと気付く。戒里の動きを見張っている天狗達が一切動揺しないのは、コイツらはもう大天狗の傀儡であるに違いないからだ。

 目の前で勝ち誇った表情の大天狗が、傀儡術の詠唱を始めた。心の中では、もう逃げられないとほくそ笑んでいることだろう。

 嗚呼、と戒里は小さく息を吐いた。逃げられない恐怖から出た吐息ではない——安堵だ。嗚呼、これは”利用できる”。

 戒里は可笑しくてたまらなかった。

 何故、気付かない。この術を知っているのは五人、術を使えるのも五人だと言うのなら、何故戒里が知っていたことには疑念を抱かないのか。強大な力を持つと周りが見えなくなるとは、まさにこのことだ。

 大天狗は知らない。傀儡術は、かつて戒里の一族も使える者がいたことを。

 大天狗は気付けない。戒里は”邪鬼”であるから、その手の術は一度では効かないことを。

 大天狗は勘違いしている。術を使えるのは、五人だけではない。

 着実に正しい手順を踏む大天狗を眺め、戒里は心の中でほくそ笑んだ。



 儀式を終え、去っていく大天狗を見送る。

 屋敷に棲むことになった戒里は、一眠りでもするかとあくびをした。

 監視役として選ばれた二十人の天狗と烏天狗は、初めこそ警戒していたが、共に同じ時を過ごすにつれて打ち解けていった。言うまでもなく、ヨサメも引き続き監視役を担っている。

 条件付きで外出も許された。一つ、ヨサメから許可を取ること。二つ、外へ出ることを大天狗に報告すること。三つ、必ず二人以上の監視をつけること。これらを守れば、屋敷から出られるのだ。

 こうして戒里は外の世界を見られるようになった。

 唯一の難点は、大天狗の傀儡として動かなければいけないことだ。傀儡術をかけた——大天狗はそう思っている——後、大天狗は戒里に『任務』を与えた。大天狗に逆らう者を手にかけるという内容だった。なんてくだらない。

 しかし従順な傀儡を演じるには、たとえどんなに無価値なことでもやる必要があった。

 くだらないことでも何でも遂行してみせよう。

 戒里は外を眺め、拳を握った。


 5

   鬼4


 月も雲隠れしたある夜、戒里は山奥を駆けていた。

 強風が背を押すように吹いている。草木に染み入る標的の足音、その行方。それらを辿り、決して見失わないように五感を研ぎ澄ませる。

 前方から三つ、苦無が飛んできた。間一髪で右に避けると、それは背後の木の幹に深く突き刺さる。明らかに戒里を狙ったものだ。

 大天狗によると、今回の任務は裏切り者の始末らしい。何があったかは知らないが、大天狗の不興を買ったのは明明白白である。今までの任務では天狗や烏天狗の応援、もとい監視があったのが、今度の件は戒里一人で片付けろとのお達しだ。どうやら戒里は傀儡として、大天狗のお眼鏡に適ったようだった。これからは単独任務の数が増えるだろう。四年前の外出の条件もきっと変わる。

 苦無が空気を切り裂く。顔を逸らして避けたほんの一瞬、戒里の目が標的を捉えた。異形の影はまた暗闇に紛れる。

 戒里は舌打ちして、地面を強く蹴りつけた。

 「鬼ごっこはもう終わりだぜ」

 眼前に迫る標的の背に右手を翳すと、光線がその腹を貫いた。近くで見ると思ったよりも巨体だ。奴は痛みに呻き、それでもなお逃れようと地を這いずる。奴に穴を開けた光の線はゆらゆらと速度を緩め、鬼火の形へと落ち着いていった。

 「悪いねェ。ちと失敗しちまった、一発で終わらせるつもりだったってのに。まァ、安心しろ。取って喰うだけだァ」

 巨体の心臓を目がけて爪を立てる。

 断末魔。

 抉り出したばかりのそれを口に運び、妖力も根こそぎ頂く。ヨサメと食べた飯より遥かに味気なかったが、妖力の足しにはなる。

 血に塗れた牙は骨をも噛み砕き、跡形もなく喰べ終えた戒里はふらりと立ち上がった。お腹をさする。

 「流石に喰い過ぎたか……?」

 呟いた時、草むらで音がした。

 「何だァ?」

 小首を傾げながら音の出所を辿ると、さっきまで巨体の妖怪と追いかけっこをしていた路の脇に、泥に塗れた犬が横たわっていた。大きな犬だ。毛並みも無造作で痩せていて、みすぼらしいことこの上ない。

 犬と目が合う。弱々しく開かれた目は、意外にも爛々と光っていた。

 「何、オマエ。ずっとここにいたのかよ? 巻き込まれた……ってわけでもなさそうだなァ」

 反応なし。

 「もしかしなくても、さっきの見ちゃったかァ?」

 反応なし。

 「どうしようかねェ。犬っころに見られたくらい、オレは気にしねェけど」

 大天狗ならば始末しろと言いかねない。ただの犬でも芽は摘んでおく、いかにもやりそうなことだ。

 しかし犬が本当に目撃したのかどうかは定かでない。生き生きしてるのは瞳のみで、それ以外は衰弱している。放っておいても餓死するだろう。それに犬の始末は任務ではない。仮に目撃していたとしても、所詮犬だ。口が利けるとは到底思えない。

 考えあぐねた戒里は、ついに癇癪を起こした。

 「だああああァァ! 面倒くせェ!」

 叫んだ瞬間、視線だけが交わった。爛々と光る犬の瞳は、およそ薄汚れた犬とは思えないほど綺麗だった。

 「……たし…………ぬ……じゃ……い」

 「あァ?」

 ふと、何者かの声がした。戒里の声に、犬の耳がピクリと反応する。やっと反応を見せたかと思えば、転瞬、戒里は目を見開く羽目になった。

 「あ、たし……は、犬じゃ、ない」

 女の声が、犬の口から溢れでる。

 「間違えないで、くれるかい」

 微かな呼気と共に吐き出された言葉は、揺るぎない自尊心を内包していた。やっと気付く。

 「妖——」

 戒里が呟くと、綺麗な瞳はゆっくりと瞬きをした。

 「それも狐、か」

 満足げに鼻を鳴らして、狐は瞼を下ろした。



 人目につかないように屋敷に帰ると、すぐに、血で汚れてしまった着流しを片付け、顔や手を洗う。念の為に髪も洗っておいた。びしょ濡れでいるのも妙な疑いをかけられると思って、鬼火でどうにか乾かした。

 身なりは任務の前と同じくらいに整えた。そして”それ”を脇に抱える。抱えといて何だが、汚れ具合が違いすぎることに気が付いた。犬猫は水が嫌いだと聞くが、こいつは狐だし、何より眠っている今なら問題ないだろう。戒里は狐も小綺麗に洗い、鬼火で乾かした後、再び抱え込んだ。

 「外に出たのか」

 ヨサメの部屋へ行くと、開口一番、鋭い語調で問われた。布越しでも険しい顔をしていることは想像に容易かった。後ろめたさよりも、何故バレたのかと不思議な思いだった。

 返事をしない戒里に、ヨサメは苛立たしげにまた問うた。

 「付き人なしで外に出たのか? オレの許可もとっていないのに?」

 そうだ、すっかり失念していた。今日は初めて一人だけで外出したのだった。大天狗の意思であったとしても、ヨサメは戒里が傀儡(仮)になったとは知らされていない。常ならば任務後は人と会わぬようにしていたために、外出したとてヨサメに悟られることはなかった。今まで『付き人』がいたから、傀儡としての動きは上手い具合に秘匿されてきた。故にそう簡単に戒里の外出は公にならない。

 どうしてバレたのだろう。再び戒里は首を傾げた。

 ともあれどう誤魔化せば良いか、戒里は知恵を絞ろうとしたが、ない知恵を絞ったとして看破されるのがオチだ。結局、戒里は苦し紛れの一手を打った。

 「それより話があんだけど」

 「それよりだと?」

 失策だった。話をすり替えることは余計に人を怒らせるようだ。仕方なく戒里は認めた。どうせ狐の話をするのだから、偶然外で拾ったことにすればいい。

 「そう怒んなって。散歩だよ散歩。そこら辺を歩いてただけだァ」

 「本当だろうな。嘘は破滅の第一歩だぞ」

 「嘘じゃねェ。屋敷の周辺しか行ってねェよ」

 「それでもダメだ。……今日のことは報告しないでおくから、もう二度とするなよ」

 二度とするな、と再度念を押される。

 「誰にも見られてないだろうな」

 「オレを誰だと思ってんだよ」

 「邪鬼」

 まだご立腹だ。

 肩をすくめると、戒里は狐を目の前に掲げて見せた。

 「もうしねェよ。その代わり、こいつ、どうすべきだと思う?」

 泥は全て洗い落ちて、もう薄汚れた犬ではない。無造作には変わりないが、黄金色に輝かんばかりの毛並みは、まさしく狐の特徴の一つであった。

 ヨサメの纏っていた刺々しい空気は霧散した。

 「妖か? ただの狐じゃないな。それに野狐でもない……って、まさか拾ってきたのか?」

 「泥まみれで転がってた」

 「拾ったんだな」

 「拾った」

 「物みたいに言わないでくれるかい」

 びっくりして手を離すと、狐は綺麗に床に着地した。毅然とした態度だが、衰弱は隠し切れていない。

 「助けてくれたことに感謝する。ついでに食料と寝所をくれると有難いんだけどね」

 狐は弱々しい声でのたまった。

 ヨサメが戸惑っている。戒里は気が気でなかった。狐は目撃者かもしれないのだ。迂闊に喋られたら困る。

 気絶させようかと狐を見下ろすと、爛々と光る瞳がこちらを見た。警戒心はお互い様。睨み合っていると、ヨサメが口を開いた。

 「ここは大天狗様が管理している土地だ。どうやって入ってきた?」

 狐の目がそれる。

 「答える義務はない。体が回復すればここを発つさ」

 「それが真であるか判断がつかないものでな。狐は騙すことに長けている。信じられるとでも?」

 「そうだね。確かにあたしは化けの天才、狐だよ。けれど嘘は吐いてない。信用に足らぬと判断したら、そこの鬼に食わせればいいさ」

 胸が嫌な音を立てた。やはり狐は見たのだ。戒里が妖を始末するところを。そうでなければ、わざわざ「食わせればいい」なんて言わないはずだ。

 知らず、神経質になる。

 しばらくヨサメと狐は沈黙を貫いた。戒里は両手を後ろに回し、爪を光らせる。

 ヨサメが言った。

 「食料と寝所は用意しよう。その体では遠くへ行けまい。回復するまで待つ。ただし、これはオレの一存では決められない。大天狗様の意向が分かるまで監視をつけさせてもらう。それで、狐のお前は何をしてくれる?」

 狐が答えた。

 「情報を渡そう」

 「どんな?」

 「あらゆる」

 取引は成立したらしい。



 翌朝。早く起きるつもりはなかったのに目が覚めてしまった戒里は、眠気覚ましも兼ねて頭から水浴びをした。井戸の水は冷たくて気持ちがいい。屋敷の入り口付近にあるこの井戸は、戒里の少ないお気に入りの場所なのである。ここは『外』ではなく、庭という扱いだからだ。唯一許可なく出入りできる『外』と言っても差し支えない。

 昨日もここで落とした血の匂いが微かに残っていた。例えば鮮血が好きだとか、破壊衝動を抱えた戦闘狂の類だとか、そんなもののために妖を喰っているわけじゃないが、格別拒絶感も抱かないのが今の自分だ。生まれ落ちた日、戒里は血濃い戦場にいた。血の匂いはその時たくさん吸い込んだ。散っていく命は妖力と血と生を色濃く投げ出していった。それらに囲まれて生き残った自分は、どんな妖と比べても比類ないほど、殺戮に馴染んでいるのだ。それ故、拒絶感が生まれない。

 昨夜のように鬼火で髪を乾かしていると、天狗がやってきた。いつも戒里と暇を持て余している連中の一人だ。こいつはいつも朝が早い。

 「よお戒里。昨日はヨサメに怒られたみたいじゃないか。あいつを怒らせるなんて、何をしたんだ?」

 天狗が揶揄う。長鼻の下にはニンマリと笑みが浮かんでいる。

 「珍しく早起きまでして、よっぽど堪えたと見た」

 「馬鹿言えよ。オレはそんな殊勝なタマじゃねェ」

 「違いねえや」

 カッカッと笑う。この男は大天狗の傀儡ではない天狗だが、ヨサメのように大天狗の元へ赴くことが多い。きっと天狗の中でもそれなりに偉い立場にあるのだろう。戒里と周囲が馴染めたのも、ヨサメとこの男のおかげだ。戒里としても、豪快に笑う様には好感が持てた。

 笑いが収まると、天狗は声を潜めるように尋ねた。

 「ところで、ヨサメが狐を拾った話、知ってるか?」

 戒里はゆらゆら漂う鬼火を手で振り消した。返事はしなかったが、天狗は一人でに話し始めた。

 「随分弱ってるみたいだが、屋敷の中では異様な妖力の匂いが滲み出てるんでね。早起きの奴らはみんな、ヨサメに説明を求めに行ったさ。狐を見に行こうと言い出すやつまでいる始末さ。興味本位で手を出しちまうとおっかねえ相手なのに、ヨサメはどうして此処へ置いたんだと思う?」

 「おっかねェ? 狐が?」

 確かにヨサメも警戒していたが、あれは馴染みない相手に対する威嚇というだけではなかったのか。狐だから危ういと? 戒里も違う意味であの狐を警戒しているが、天狗がいう狐は種族全体を指しているようだった。

 「あれ、知らねえのかよ。まあお前、外との接触は禁じられてるし、情報が回ってこねえのも無理ないか」

 天狗は井戸の水を汲みながら言った。

 「狐ってのは、前々から化けの天才だって騒がれてる妖でよ。いろんな姿に形を変えるのさ。屈強な大男、美しい女、赤ん坊、老人。何にでも化ける。化かすことは騙すということだ。人間の間でも、狐に騙されて金品を奪われたことがあるって話だ」

 「こっちでは?」

 「俺たちの世界では、そうだな、まず味方のふりをして騙されることがある。自分は何の害もないという顔をして、対立してる一派に情報を売るとか、そうやって争いを生み出すんだ。だから、たとえ無害でも、狐ってだけで迫害されるやつは多いだろうよ」

 正直、狐の評判や扱いなど知ったことではないし、もし仮に天狗たちの間で派閥争いがあったとしても、狐の情報とやらで双方が滅ぶことはないだろうと思う。それくらい、戒里は狐も狐が持つ情報も見くびっていた。

 戒里にとって狐は、少なくとも今この屋敷にいる狐は、始末対象になり得るか否かでしかない。

 そこまで考えて昨夜のことを思い出した。

 あの狐も、情報を渡すと言っていた。ヨサメがどうしてすぐに取引に頷いたのか謎だった。なるほど、狐の情報はそれなりの価値はあるらしい。あのヨサメが信用するほどなのだ。

 それでも戒里は思う。噂は噂でしかない。

 「で、話は戻るけど。ヨサメは何でそんな厄介な拾い物をしたと思う?」と天狗。

 「さァね。オレが知るかよ」

 「オレは」天狗はまた語り始めた。「オレはさ、こう思うんだよ。狐は派閥争いのためにヨサメが引き入れたんじゃないかって。こんな時期におかしいと思ったんだよ。真面目なヨサメが疑惑のある者を屋敷に置くとは考えられない。大天狗様の許可も取ったらしいからな。ヨサメは狐の情報を利用して、どっちかの派閥を潰そうとしてるんだ。そうに違いない」

 熱を帯びていく言葉の数々。天狗は「ついに戦が始まるんだ」と興奮するように言った。

 水浴びを終えて、鬼火で乾かしてくれとせがむ天狗に、戒里は眉を寄せた。

 「こんな時期って言うけどよォ、今、何か大変なことでも起こってんのかァ?」

 一瞬、ピシッと天狗が固まった。口が滑った、と言いたげな顔をしている。

 「今のは聞かなかったことにしてくれ」

 天狗はさっさと来た道を引き返していった。折角出してやった鬼火は天狗を乾かすことなく、所在なさげに漂っている。

 何だったのだろうか。

 戒里はもう一度鬼火を掻き消した。



 屋敷に戻ると、ヨサメが戒里を部屋へ手招いた。

 狐の話だろう。予想に違わず、ヨサメは言った。

 「大天狗様の許可が下りたから、しばらく狐が居座ることになる。拾った本人に言うのもなんだが、出来る限り接触は控えてくれ。お前の存在はまだ秘匿されてる。邪鬼だと知られては困る」

 そこで初めて戒里は自身が世間から隠されるべき存在であることを知った。

 ヨサメの話から推測するに、どうも自分はまだ封印されていることになっているらしい。かつて戒里が眠っていた地は大天狗により管理されており、まだ妖の世界では『邪鬼』は復活していないのだ。

 「聞いたぜ、ヨサメが拾ったことにしたんだろ」

 「別にお前のためだけじゃない。そうした方が都合が良かったからだ」

 「狐の手でも借りたいって? 情報は情報でも誰かさんにとっては不都合なモンらしいなァ」

 仲間割れが始まる。派閥争い。

 こんな時に、と天狗は言った。

 「誰に何を吹き込まれたか知らんが、余計な詮索はするな。お前は大人しく屋敷に居るんだ」

 「わァってるよ」

 カマをかけたのにするりと誤魔化され、ムッとした。

 「友として外を見せてやりたいって言ったくせに」

 当てつけのようなことを言ってしまった。自分でも呆れる。

 案の定、烏天狗も呆れたようにため息を吐いた。

 「条件付きで外へ出られるだろう。言ってくれれば、付き人と一緒にいくらでも外へ行ける」

 「お前と大天狗が許可したら、だろうが。許しを得て外出したのは一年前が最後だ」

 「綺麗な海が見れて良かったじゃないか」

 「野郎だけだろォ」

 「此処に女はいないんでね」

 言い返そうとし、口を噤んだ。部屋の扉がノックされたからだ。「ヨサメ殿、例の件で話があります」ヨサメの次に偉い烏天狗、と戒里が勝手に思っている者の声だった。

 ヨサメは扉の向こうへ返事を寄越すと、戒里に部屋を出るよう言いつけた。

 「すまんな。急用だ。お前は自室で他の奴らと喋ってろ」

 「話はまだ途中だろォ、おい、追い出そうとするなよ!」

 「はいはい、はいはい」

 適当にあしらわれて苛立ちが込み上げる。しかしヨサメを責め立てようとして開いた口は、ある言葉によって再び閉じてしまうこととなった。

 「あと二年、いや一年耐えてくれ。そうすればお前はもっと自由になれる」

 どういう意味かと思考した一瞬、バタンと部屋から閉め出された。通路には戒里一人。しんと静まり返っている。ヨサメを訪ねた烏天狗と入れ違いになったのも一瞬の出来事だ。なんて素早い。なんて隙の無い。

 一つ舌打ちをして、戒里は自室へ引き上げた。

 「やあ」

 自分のお気に入りの寝床の側に、狐がいた。軽薄そうに声をかけてきたが、その目は真剣に光っていた。

 「おい、そこを離れろォ。お前たちもなんで入れたんだよ!」

 扉の前で見張りをしている二人に噛み付く。狐の付き添い役二人にも、戒里は苛立ちが抑えられなかった。彼らは戒里の気迫に怯えた顔をして、狐に目を向ける。彼女が言ったから、と言い訳をするように口をもごもごさせているが、声にはならない。どれだけ時が経とうが、邪鬼を畏れる奴は屋敷内にも半数以上いる。

 戒里は唇を噛んだ。

 狐は、戒里の反応を観察するようにしてから、告げた。獣の姿のままで暫く療養するから、世話になる挨拶をしに来たのだ、と。首根っこを引っ掴んで追い出そうかと思った。

 「まさか、天狗の隠れ里に鬼がいるなんてね。驚いたよ。珍しいこともあったもんだ。大天狗は横柄で自分の山にしか興味がないようなやつなのに、交流があったんだね?」

 天狗と烏天狗の前で堂々と大天狗を詰った狐は、心底不思議そうに戒里を見つめている。その目の色に、僅かな好奇心と不安が揺れ動いた気がして、昨夜のことを探ろうとするものの上手くいかない。

 奇しくもこの部屋には今、大天狗の傀儡はいなかった。戒里の心配事が気付かれることはない。

 「鬼は、オレだけだァ」

 狐の真意が測れないまま、会話を繋ぐ。

 「へえ? それはまた、何て珍しい……」

 狐は思案げに呟く。戒里は、昨日の出来事は、とそれだけが気がかりだった。

 幾許か静まり続けた空間は、戦場よりも混沌としているように感じる。

 不穏な空気は、ない。妙な胸騒ぎもしない。手が震える、舌が乾く、冷たい汗が伝う、そんなことも一切ない。プレッシャーはあってないようなものだ。

 狐の目は依然、好奇心と不安がない混ぜになっている。そこに恐怖は映らなかった。あるのはただ純粋な疑問符。

 「どうして鬼が天狗の隠れ里にいるんだ」

 とても小さな声だった。こんなに静寂に包まれていても、聞こえるはずがないような、そんな声。きっと背後の天狗たちには聞こえなかっただろう。

 「まあ、いいさ」狐は言った。「部屋に戻るよ。じゃあね」

 そのまま部屋を出て行った。残りの四人も、慌てて引き上げる。戒里は一人取り残された。再び静まり返った自室を見て、「元通り」そう思う。もしかしたら口元が緩んでいたかもしれなかった。

 安心したからか眠気が込み上げてきた。寝床に倒れ込む。仰向けになって欠伸をした。

 重くなる瞼に抗えない一方で、ついさっきの言葉が軽く浮き立つように耳に残る。狐が去り際、戒里に囁いた言葉。

 「あまり覚えてないんだけど」

 朗報だ。

 「あんたが助けてくれたんだってね」

 狐の記憶には何も残ってない。

 「ありがとう」

 こちらこそ、と微笑んでも良かったくらい、晴れやかな気分だ。



 それからちょうど一年後。戒里は屋敷にいる必要がなくなった。もっと言えば、大天狗の傀儡を装うことはそれ以降なくなった。

 戒里の知らぬ間に、事態は急展開を迎えていた。

 天狗の派閥争い。

 天狗の里、お山の拡大のため、多種族の棲家を荒らして土地を奪い、時には殺戮も厭わないくらい横暴なかぎりを尽くした大天狗。彼を支持する一派は、十年以上も前から大天狗の所業を称え、崇め、血が流れる事件を数々引き起こしていたそうだ。

 そんな父たちの行為を知った息子は、お山を守るため、密かに父を失脚させることに決めたという。これは六年前の話だ。

 これ以上、お山に敵を作ってはならない。お山を守るため、そして多種族との争いを避けるためにも、私と一緒に戦ってくれないか。息子は皆に訴えかけた。当然、大天狗の所業を知らぬ天狗たちは大勢いた。息子の主張を信じられないと蹴った者も、また大天狗の行いは身内の恥、そう非難する者もいたそうだ。

 状況から見ると大天狗派の方が優勢だった。古株の天狗や烏天狗はほとんど大天狗側であったし、傀儡にされていた者はもとより大天狗を裏切れない。大天狗に陶酔している者も多数だった。井戸の前で戒里と話をした天狗も、そちら側だった。

 息子の味方は少なかった。数で言えば七対三、到底勝てるはずもない。

 結末がひっくり返ったのは、狐が現れたからだった。

 化けの天才、あらゆる情報を持つ狐。彼女の出現は、大天狗も予想出来なかった。加えて、大天狗の信頼する部下、ヨサメが息子側についたのもあって、状況は一変。

 ついに大天狗は権威を失った。最後の抵抗とばかりに暴れた大天狗は、戒里を切り札にしようとしていたみたいだが——これは後でヨサメに聞いた——生憎と戒里は傀儡ではない。その企みも無駄に終わった。

 今思えば、大天狗はいざとなった時の兵器として、戒里をお山に連れてきたのかもしれなかった。封印が破れたのも、実は大天狗の仕業かも、と邪推したくもなる。

 大天狗一派は潰えた。息子はそのまま長となった。

 新たな『大天狗』となった彼は、共に戦った仲間に感謝を伝え、特に貢献してくれた三人の名を挙げた。

 一人はヨサメだ。内密に事を進められたのも、ヨサメがいてこそだったとか。

 もう一人は、戒里が勝手に偉いと思っていた烏天狗。

 そして最後の一人は狐だった。狐の情報がなければ負けていた、新しい長はそう笑ったという。



 「長ェよ。何時間喋りゃ気がすむんだ」

 戒里はうんざり頬杖をつく。

 「お前にも関係あることなんだ」

 「あたしを助けてくれたのもあんただし」

 閉鎖されていた屋敷の一角。戒里はヨサメと狐と顔を合わせていた。

 「助けてねぇよ。なんで狐がいんだよ。大体、オレにここから出るなっつって一年だぜ。屋敷の中を自由に出来るのは嬉しいけどよォ、派閥争いって何だそりゃ」

 無関係だろ、と目で訴える。

 あのいけ好かない大天狗の目論みが失敗した話は気分が良いが。傀儡のフリはもうしなくていい訳だ。話を聞いた限り、ヨサメ含む天狗どもは傀儡術については知らないようだし、好都合だった。

 「狐を拾ったのはお前だ。今回の件は、お前だって一役買った」

 「拾ったって物みたいに言わないでくれるかい。さっきから狐、狐って、あたしにはミヤビって名があるんだけどね。まあ、あたしも感謝してるんだよ。あんたがいなかったら今頃、のたれ死んでたか殺されてた」

 「なんで殺されるんだよ」

 「あたしにも色々あるんだよ。こっちも派閥争いみたいなものかな、同族から逃げている途中だった」

 「へェ」

 天狗や烏天狗の派閥争い、狐同士も争ってたなんて、この時代の妖はつくづく暇なんだな。

 「あたしの話はいいんだよ。あんたの話」

 ビシッと獣姿でこちらを指す。ヨサメが続く言葉を引き取った。

 「実は狐が協力してくれたのはお前のおかげだと、天狗様に言ったんだ」

 「嘘じゃねェか」

 「真実だよ。お前が狐を連れて来なかったら、オレたちはあの方に負けていた」

 戒里と初対面の時、きっとそれよりも前から、大天狗を慕ってきたヨサメ。戒里を外に連れ出してくれた時も大天狗を信用していた。今だって「あの方」と呼んでしまうくらいなのだから、ままならない。

 今回の騒動はなるべくしてなったのだろうが、それでも、天狗たちの間では様々な葛藤が渦巻いていただろう。

 無意識に居住まいを正した。

 「百歩譲って狐を助けたのがオレだとする。それをお前の長に伝えたって別に良いぜ。ただ、それ以外はオレは何もしてない。オレはここにいるだけだ。お前の言い方だとオレも派閥争いに貢献したみたいじゃねェか。何でそこまでする?」

 「言っただろ」

 戒里は眉をひそめた。

 「友として、お前を外の世界に連れて行くためだ」

 「は」

 覚えてたのかよ。



 その後、あれよあれよと話が進み、気が付けば戒里はかつての場所で新たな長と向き合っていた。

 新しい天狗の長は先代と違って真面目で、いわゆる熱血漢。要は情に熱い男であった。

 天狗様は簡潔に挨拶を済まし、戒里に感謝を述べ、二つ提案した。

 一つは、今後とも親交を深めないかということ。戒里が邪鬼であることは、ごく一部の天狗・烏天狗しか知らない。同じ屋敷に居た者たちだ。彼らは存外偉い立場であったらしい。確かに言われてみれば屋敷の面々は、あの日、戒里が大天狗と相見えた時、同じ場にいた顔ぶれだった気もしなくはない。あれ全員じゃなかったんだな。

 天狗様は傀儡術について知らないようだった。大天狗と対立した時にでも気付きそうだが、大天狗の傀儡であった者は皆、操られていた時の記憶がないらしい。故に傀儡術は天狗の後世に残らなかった。

 後に、傀儡術は負の遺産であると大妖怪が密約を交わし、この時を最後に永遠に忘れ去られることになるのだが、それを戒里が知るのはまだ先の話。

 そして天狗様からのもう一つの提案は、自由に生きてみないか、ということだった。

 屋敷を出て、各地を転々とするも良し。このまま屋敷に居着くのも良し。好きに生きてみろ、と告げられた。

 勿論条件もあった。他の妖怪に邪鬼と知られないこと。災厄を招くようなことはしないこと。

 でも、それだけだ。天狗様は戒里を簡単に信用した。

 信じられないのは戒里の方だった。

 邪悪な鬼。そんな自分をもう一度封印するでもなく、むしろ外に出るのを勧めるような奴。大天狗みたく利用しようともしない。

 ヨサメとミヤビが立会人で、天狗様は戒里を信じていて。

 無性に腹の奥がむずむずとしたのを覚えている。


   # # #


 ベニバナサマが人間だった時の、いわゆる精神体、それがコウカだ。

 泣き腫らした目で、コウカが私に告げた。

 「ベニバナサマは鬼になって、人の心を持つことが嫌になった。だから、切り離して捨てることにしたの。それがわたし。わたしは、もはや過去の亡霊なのよ」

 「どうしてベニバナサマを助けたいの? ベニバナサマが外でやっていることを、あなたは知ってるの?」

 「知ってるわ。だからこそ助けてほしいの」

 不意にコウカが椅子から立ち上がって、私に背を向けた。荒廃した野原を眺めている彼女は所在なさげだった。

 「ここ、すごくつまらない場所でしょう。無彩で、乾燥してて、どんよりと重たい空気がのしかかる。生も死も等しく、平等が故にどこにも逃れられない。およそ生き物と呼んでいいものは何もないし、わたし以外、永く留まることも出来やしないの。すごく……すっごく、つまらないでしょ」

 コウカが両手を広げ、色のない空を見上げた。

 「これが完全に消えたのなら……それって、すっごく、晴れやかな気分になると思うのよ」

 コウカは腕を下ろして、続けた。

 「ベニバナサマが外で何をしてるのか、聞かなくても分かるわ。鬼になったとしても、棄てたとしても、彼女の心はここなんだもの。花が枯れるほど荒んでて、目に映る全てのものが無価値に思えてしまうようなもの。ここにいたら、伝わってくる」

 「……鬼になりたくてなった訳じゃない、だから助けてほしい、って言うの?」

 「そうよ」

 振り返ったコウカは、相変わらず不思議な瞳をしていた。

 その瞳に映るベニバナサマは、きっと私や月森君、戒里さんたちから見たベニバナサマとはまた違った姿なのだろう。人や妖怪に害をなし、色んなものを巻き込んで傷つけて、時には人間を喰らう化け物。けれど一方では、人に裏切られ、なるべくして鬼女に成り果てた可哀想な存在。

 どちらも真実で、偽りなく存在してしまう事実なのだ。

 戒里さんに抱えられた時のことを思い出す。ベニバナサマは恐ろしかった。具体的に何が恐ろしいと感じたのか言葉で表すには難しいくらいに、ただただ恐ろしかった。恐怖が心を締め付けて、安寧を求めれば求めるほど遠ざかっていくような絶望感、あるいはそれに近しいものを感じた。

 眠ったままの月森君を見る。彼はベニバナサマに一度襲われた。そしてその後も何度か狙われ続けているという。

 私には、とても話が通じない相手に思えてしまう。

 「……どうすれば、助けられるの?」

 臆病者、と頭の中で誰かが罵った。コウカを無碍に出来ないからって、期待を持たせるのか、そう責め立てる声がする。それは私の声なのだろう。

 「わからない」

 コウカが言った。

 「方法はわからないの。助けてほしい、救ってほしい、誰でもいいから、どうか。そう叫んでいる気がするけど、それはどっちなのか、わからない。ベニバナサマはわたし。救いを求めているのも、本当は彼女じゃなくてわたしなのかもしれない。……誰かに縋りたくて仕方ないの」

 最初からコウカが望むものは一貫している。

 ならば、私に出来ることは————。

 決断をする前に、はらりと上から何かが舞い落ちる。落ちてくるそれを掴むと、途端に灰のように崩れた。見上げると、ひらりとまた何かが落ちてくる。それはまるで燃え尽きた紙のようで、指で摘むとやはり脆く散った。

 「燃えてしまう……!」

 私と同じように見上げたコウカは声を漏らした。

 「おねえさん、ごめんなさい。もう時間みたい。あの人の火が近づいてきてるわ。それに、ここに人の子の意識があり続けるのは危険なの」

 コウカの顔には焦りが滲んでいた。

 「久しぶりに人と話せて楽しかったわ。おねえさん、どうかわたしの願いを叶えて。お願い。これが最後なの」

 お願い。

 水の中にいるようなぼんやりとした声が耳元で揺蕩った。

 私の意識は深いところへ落ちていく。



 気が付くと私は闇の中にいた。ペタペタと手探りにあたりを触る。何かが手に触れた。暖かい人肌。人間の手だ。徐々に目が慣れてきて、それが月森君であるとわかった。

 彼はここでも目を覚まさないのだろうか。

 そんなことを思った時、右方面から薄らと光ったものが現れた。霧に包まれたかのように形が曖昧なそれは、見るとこちらに近付いてきている。

 敵かも知れない。

 月森君を起こそうとして、数秒悩む。彼が目を覚ましたとしても、きっと見えないままだ。この異空間から出ようともしない月森君と、私はどう向き合うべきなのだろう。説得したとして、それは果たして彼のためになるのだろうか。月森君が見えなくなったのは、彼自身がそう望んだからだろうに。

 そんな躊躇いが私の行動を制御していると、光はすぐそばまで迫った。

 「これは……火の玉?」

 光は妙な形をしていた。どこかで見たことがある。確か鬼火だとか狐火だとか呼ばれるものの類。

 そっと手を伸ばし、恐る恐る触れてみる。温度は感じなかった。小さな風の目に触れているような、柔らかい感触がした。けれど私の指は火の玉をすり抜けている。

 何故だか、怖くはなかった。

 「ん……あれ、僕は、何をして……」

 はっと手を引っ込めた。火の玉と私の間にいた月森君がゆっくりと体を起こす。その目は虚だ。

 「月森君」

 「雨水か? ごめん、僕はまだ見えないみたいだ」

 「そうみたいだね。何が起きたか、覚えてる?」

 「ええと、確か元の世界に帰ろうとして……背中を押されたような気がするんだけど。僕達はまだ異空間に?」

 「うん」

 問題は今いる場所が何処なのか分からず、下手に動けないことだ。火の玉もすっかり動きを止めて、ただ依然とそこにあるだけ。

 私は顔を上げ、そっと周りを伺った。火の玉のおかげで少しだけ闇が晴れている。

 乱雑に白い紙が散らばっていた。何かが書かれているのは分かったが、文字を読むには暗すぎる。傍らには筆が置かれていて、筆先には黒い墨が付着していた。まだ乾いていないらしく、時折、ぽつりと砂色の床に黒が落ちる。

 火の玉が照らす範囲は小さかったが、散乱した紙の向こうに、立体の物が見えた。紙とは違い、整頓して並んでいる。じっと凝視していると、やがて暗闇に慣れた目が立体物の特徴を捉えた。

 「提灯」

 思わず心の声が表に出る。月森君が不思議そうに訊き返した。

 「提灯? そこにあるのか?」

 「たぶん二十個以上。暗いから数ははっきりしないけど、綺麗に並べて置いてある。祭りでもするのかな」

 「祭り……ああ、もしかしてそれ、街のやつじゃないか? 祭りの提灯がなくなったんだって、誰かが騒いでた。変だなって思ったんだよ。年季の入った提灯を盗んだって何にもならないし、紛失したにしては数が多すぎるから」

 「妖怪がここに持ち込んだってこと?」

 「可能性はあるんじゃねーの」

 ふと揺れた火の玉。静止していたのに、またゆらりゆらりと動き始める。

 「雨水」月森君が呼びかける。「ここに誰かいるのか」

 火の玉がくるくると私と月森君の周りを旋回する。どうしてか敵意を感じないのが、余計得体の知れないものに思えて、警戒する。

 「火の玉が」短く答えた。「それ以外は何も」

 くるり、くるり。

 「そうなのか? 変だな」

 くるり、くるりと回る。

 「さっきから知ってる気配がするんだ。戒里みたいな」

 ピタッと火の玉が止まった。まるで頷くように上下に動き、右方向に進んだかと思うと、こちらに舞い戻ってくるのを二度、繰り返した。

 「……ついて来いってこと?」

 また火の玉が上から下へ動いた。

 私は月森君に状況を伝え、相談し合い、ついに、戒里さんの気配がするという火の玉の後ろを道標の如く歩き出した。見えない月森君の手を引きつつ、考えるのはコウカのことだった。

 意識だけが存在し得る荒れた野原。彼女は今も一人でいる。

 体は安全なところにある、と声が蘇った。さっきの場所まで、コウカが運んでくれたのだろうか。燃えてると言っていたのは、この火の玉のせいなんだろうか。

 火の玉を追いながら、拭えない不安をいつまでも抱えている。

 「あ、地面が泥っぽいところに出るから、足元気をつけて」

 「分かった。ごめん、僕が見えないばっかりに」

 「気にしないで。きっと何とかなるよ」

 早く終わらせたい。


   鬼5


 男が血を流して倒れた。真っ赤に汚れた爪を眺めて、戒里は苦い顔をする。

 またやってしまった。よもや死んではいないだろうが、これで四回目だ。

 事の発端と言うほどのことは何もなかった。単に歩いていたところを、山奥で野宿をしていた幾人かの人間に目撃されてしまい、襲われた。要は返り討ちにしただけだ。

 不可抗力だ。

 「戒里ー、ミヤビがあっちで虹色の貝を見つけたんだとさ。あとは龍に鱗を分けてもらえるよう交渉すれば、山神様と人魚の痴話喧嘩は終わりだ」

 ヨサメが木々の合間を縫って空より降り立つ。そのままこちらの惨状に気付き、げえ、と珍しい声を出した。

 「殺してはいないだろうな」

 「あァ、けどオレは別に悪くねェぜ。こいつらが鬼だ鬼だって刀を振り回すから、つい」

 「この前もそうだったじゃないか。やはり目立つんだろ、それ」

 ヨサメが自分の頭をツンツンと突っつく。戒里は角に触れ、渋い顔をしてみせた。

 「人間なんぞのために化けたくねェんだよ。あいつら、人とはちょっと違うってだけですぐ火炙りだの退治だの、いちいち騒がしくしやがって」

 戒里は人間が嫌いだった。特に、刀を腰に下げ、得意げな表情で闊歩する人間が大嫌いだった。

 たとえ戒里が怪我をした人間を助けても、奴らは「食べられる」と逃げ出すか、こちらを攻撃してくるのだ。実際、戒里は何もしていないにも関わらず刀で斬られたことがある。時には石を投げられたこともある。戒里を見て化け物だと騒ぐ人間にはうんざりだった。

 「人間を喰ってないだけマシだろォ? 殺してもいないんだぜ」

 ヨサメはため息を吐いた。

 「災厄でもない限り、天狗様は何も仰らないからな。オレに一任している節さえある。だから言わせてもらうがな」

 「ンだよ、説教は聞きたくねェぞ」

 不貞腐れた戒里は、ミヤビの姿を探した。彼女ならヨサメの気を逸らすことが出来る。

 「なんだい男共、こんな所で人狩り? やめておいた方がいいと思うけどね」

 「ミヤビ」ヨサメが声に振り向く。「揶揄わないでくれ」

 「相変わらずお堅いね。何、また襲ってきたのを返り討ちにしたの。人って面白いね。妖に勝とうと、最近では陰陽師なるものが出てきたらしいよ」

 「ああ、おかげで都から逃げてきた妖が天狗様のところに押しかけてきたさ。全く傍迷惑なことだ。こっちは妖相談所じゃないと言っているのに」

 「仕方ないよ。一時期あたしや戒里を匿ってくれたのが、何処からか話が漏れたみたいだし。今もこうして種族が違うのに一緒にいるんだ、噂も広がるさ」

 ぽんぽんと会話をしながら、ヨサメとミヤビは倒れた人間をそっと起こし、傷の手当てを始めた。戒里はそれをつまらなそうに見る。二人が人間に友好的なのは、何も今に始まったことじゃない。

 戒里は理解出来なかった。人間は欲深くて支離滅裂で変な生き物だ。男も女も子供も、みんな同じに見える。理解しようとも思わなかった。

 妖怪と人間。その違いは沢山ある。

 例えば寿命。

 例えば姿。

 例えば食糧。

 挙げ出したらキリがない。所詮は分かち合えないものなのだろうと、戒里は思っていた。





 格子牢の中で、鎖のじゃれる音がする。

 まさか、人間の娘と恋をするなんて、当時の戒里は知る由もなかった。

 根強く芽生えた因縁は、時代を経ても尚、戒里を蝕んでいる。

 戒里は繋がれた両手に目を落とす。枷の隙間から見える手首は、青紫よりも色濃くなっていた。鬼火はまだ帰らない。戒里はまた目を閉じた。深く、息を吐く。

 たった一度の恋だった。想い返さない日なんてない。彼女の癖も、ころころ変わる表情も、鮮明に焼き付いているのだから。

 愛おしい日々だった。されど、許されざる逢瀬だった。

 喪った命は戻らない。

 過去を変えたとて救われない。

 だからこそ、戒里は今ここにいる。全てはあの日に終止符を打つため。

 「自己満足でいい」

 あふれた激情は声となって外へ飛び出した。

 目を開けると、鬼火の気配が強くなる。三つのうち、二つが戻ってきた。戒里はそれを打ち消した。ほんの少し、妖力が血のように循環した感覚がある。

 あと一つは、さっき目を閉じたおかげで行方が探れた。

 鬼火が少女を見つけたのだ。


   # # #


 火の玉を追いかけ、格子牢に辿り着く。狭くて細い道や、暗闇が続く通路を通ったのが幸いだったらしく、誰とも出くわさなかった。かえって不自然なほどだ。

 牢の中から息遣いがした。私と月森君は立ち止まったが、火の玉は牢に吸い寄せられていくみたいに、何者かの手に渡った。

 火の玉に照らされて、その者の姿が浮かび上がる。

 「戒里さん!」

 私の隣で、月森君が驚く。見えなくても、戒里さんが居ることはなんとなく分かるようだった。

 「よォ、嬢ちゃん。悪ィんだけど、この枷外してくれ」

 戒里さんがこちらを向いた。その目が丸く開かれていく。

 「一翔、なんで居るんだァ」

 「お前こそ、なんで」

 奇妙な沈黙が降りる。

 私は言った。

 「とりあえず、枷を外せばいいんですね?」


 6

   # # #


 格子牢から出た戒里さんが首をコキコキと鳴らした。解放されたのがよっぽど嬉しいらしく、私の手を取りブンブンと振った。感謝の気持ちを表しているつもりらしい。ちらと後ろを見やると、戒里さんが力任せに壊した格子が歪んでいる。

 子供っぽい動作とその力加減に笑みがこぼれたのも束の間、月森君が口火を切る。

 「戒里、何でここに居るんだよ」

 明後日の方向に語りかけない辺りは流石としか言いようがない。火の玉から戒里さんの気配を読み取ったのも月森君だし、彼には何か、妖怪の気配を掴むことができる力があるのかも知れなかった。

 それはどこか物語めいている力であり、また彼が視力を失った原因でもあるのだろう。

 戒里さんは事の顛末を手短に語った。話し終えた後、ふと顎に手を当てて、首を傾げた。

 「お前、なんか変じゃねェ?」

 口籠った月森君に代わり、私が答えた。

 「目が見えないんです」

 「目ェ? 妖怪が見えねェのか」

 「どちらも、です」

 ぱちくりと瞬きをした戒里さんは「変なのォ」と月森君の肩をバシバシ叩く。

 「つか一翔ゥ、駄目じゃねェか。ベニバナサマはお前のこと狙ってんだぜ、三年前のだってそうだったろ」

 私は驚いた。てっきり戒里さんは、月森君にベニバナサマの件を知られたくないものなんだと思っていたから。だからこそ私の家に身を置いていた、そのはずだ。

 「そうなのか」

 月森君の返答もやはりおかしい。淡白すぎるというか、彼はもっと——いや、これ以上踏み込んでどうするんだ。

 戒里さんも月森君の状態に気付いたようだ。私を見て何かを言いかける。言葉を呑み込んだらしい戒里さんは、しかし、再び口を開いた。

 「あァ? 嬢ちゃんもどうしたんだ、その腕」

 「腕?」

 思い出した。

 「鎌鼬に切られたんです」

 さっきまでコウカのところに居たから、痛みを感じなかったのだろうか。自覚すると、ジクジクと痛みが主張し始めた。

 「妖怪につけられた傷ってのは、人間のガキにはちと厄介かもしれねェなァ。治りにくくなるぜ」

 私はそっと包帯に触れた。

 「痛むかァ?」

 頷く。

 「お前たちをここから出すのが先だな」

 月森君の体が強張るのがわかった。戒里さんは気付かずに、そのまま如何にして脱出するかを思案している。

 「戒里さん。少し前に、死神さんと宮原先生がいたんです。一度はここから出れることになったんですけど、運悪く私と月森君は取り残されてしまって。もしかしたら、二人はまたこの異空間に来るかもしれません」

 「だとしたら、夜雨も来るだろうぜ」

 夜雨とは、夜野先生のことらしい。

 私達は今の場所を離れ、味方を探すことにした。



 地響きのような音がしたことに、三人が気付いた。

 音の出所を、警戒しながら、探り当てる。

 通路の先に人影があった。何か争っているような声もする。

 真っ先に声を上げたのは戒里さんだった。「夜雨!」人影が振り返る。夜野先生。

 こちらを見て目を丸くした先生は、即座に叫んだ。

 「逃げろ!」

 先生の背後から何かが突進してきた。猫。いや違う。

 「二人は下がれ! いいかァ、絶対に連れていかれるんじゃねェ」

 猫又が唸る。獰猛で、狂気を宿した目が爛々と光っている。

 「小僧だけでもあの方の元にッ!」

 猫又の前足が振り上げられ、同時に、青白い炎に襲われる。戒里さんが火の玉で対抗した。青白い炎に向かってそれは放たれ、炎と炎がぶつかり合い、互いを打ち消した。

 見えない月森君の手を掴んだ私ごと、戒里さんの背に庇われる。火の玉を躱した猫又は、ギラギラと殺意を隠そうともしない。

 「邪鬼め。貴様はいつもいつも我らの妨害ばかり! あの方がどれほど嘆いておられるか。許せぬ。我らは決して貴様を許さぬ!」

 憎悪だった。猫又の言葉、表情、その全てから禍々しい感情があふれている。

 ベニバナサマ。

 猫又に鎌鼬。

 邪鬼って何なの。

 視えてるというだけで、何故執拗に月森君を狙うのか。

 どうして、ベニバナサマは戒里さんに執着しているのだろう。

 ねえ、コウカ。

 私には、“彼ら”が判らないよ。

 戒里さんと夜野先生に囲まれ、形成が悪くなった猫又は悔しげに呻く。そして風のようにふっと姿を消した。

 「彼奴逃げやがったァ!」

 「引き際は心得ているようだ。厄介なことこの上ない」

 「夜雨てめェ逃してんじゃねェよ!」

 「それは戒里も同じだろう!」

 言い合いう二人。猫又を逃した焦りで、お互いやるせない思いをぶつけ合っているように見えた。

 月森君の手を離し、二人を止めようと声をかける。けれど段々ヒートアップしていく様子に、上手く割り込めず、その間に二人はまた相手への不満をぶつけた。

 「そもそもお前が人間に肩入れするから、オレが警戒する羽目になるんじゃねェか! 今回のことも、一翔を巻き込まないようにしようって話したのはてめェだっただろうが。それなのに何で一翔がここに居るんだよ!」

 「人嫌いは治ったんだろ。戒里こそ敵に簡単に捕まって、その上、無関係の雨水を巻き込んでるじゃないか。それにオレは人間に肩入れなんてしていない!」

 「飴屋の人はどうなんだよ?」

 「なっ。彼女は関係ない!」

 「深く人と関わるのは危険だって言ったのは夜雨だろ! オレだって嬢ちゃんを危険な目に遭わせるつもりはなかった!」

 ぎゃんぎゃん。やいのやいの。

 騒ぐ二人の声を聞きつけ、月森君は呑気に「戒里と夜雨さんの喧嘩って、子供っぽいんだな」と呟いている。

 私はため息を堪えた。取りなすように、一つ、力一杯手を打つ。音に驚いた三人の視線を感じながら、告げる。

 「今は仲間割れをしている場合じゃあ、ないはずです」

 場の空気が切り替わった。



 「ベニバナサマを滅ぼす算段はついた」

 夜野先生が言うには、この件には死神さんと宮原先生だけでなく、佐々木さんとルカさんも関わっているらしい。

 来た道を引き返し、見覚えのある場所を通り過ぎる。

 「死神は佐々木と外で成すべきことをしてくれているんだ。悪魔には捕えた鎌鼬を任せている。情報を吐かせるためだ。もしそれで上手くいかなければ、この異空間の調査を頼んでおいた」

 元々、夜野先生は猫又の捕獲を担当していたのだという。その現場に居合わせたのが私達というわけだ。

 「彼奴には攫われた人の子と妖を任せた。無益な争いを避けるためにも、狐としての機転を働かせてくれるはずだ。こうして月森と雨水を見つけられたのも運がよかった。戒里といてくれたんだな。二人とも、無事で何よりだ」

 包帯で覆われた私の腕を見て、先生が気遣わしげな顔を見せた。私は曖昧に微笑む。

 月森君の目のことも宮原先生から聞いたようだ。

 「それで? 滅ぼす算段ってのはァ?」

 「まずは異空間を壊す。異空間さえ失えば、奴らは逃げる場所がない。そこを一気に叩く」

 そんなに上手くいくだろうか。

 「異空間を壊す前に、無関係の人たちは避難させなければならない。実はこれがかなり大変なんだが、やるしかない。でなければ、攫われた彼らは異空間の狭間に取り残されて、二度と帰れなくなるだろう」

 戒里さんが囚われていた格子牢の部屋の前を通る。この道の先は、提灯があった部屋に繋がっている。

 「他に方法はねェんだな。いいぜ。けどよ、二つ言いたいことがある」

 先生が促した。

 「一つ。外は大丈夫なのか? 仮にここをぶっ壊せたとして、ベニバナサマと手下が暴走したらどうする。被害は拡大するぜ。それこそ三年前の比じゃねェくらいに」

 「大丈夫だ、手は打ってる。死神と佐々木に結界を張ってもらうんだ。この異空間は紅花神社に創られている。神社全体を覆って仕舞えば、外に被害が出る心配はない」

 どうやら結界というのは、妖術の一種らしい。ただし、夜野先生と宮原先生の力ではうまく結界を張ることが出来ないため、それ専用の妖道具を使う。外から誰かが立ち入ることも、また敵が外へ逃げ出すことも阻止するよう、設定できるのだそうだ。その道具は以前から『からくり技師の煙々羅』という妖怪に借りていたという。

 「まァそれなら何とかなるか。じゃ、二つ目な」

 戒里さんが眼光を鋭くさせた。殺意を滲ませて、彼は言う。

 「ベニバナサマは、オレが殺す」

 月森君が息を呑む。沈黙したまま、何かを言いたげな顔をして、口を閉じた。私も同じような表情をしていただろう。

 夜野先生が頷いたのを見て、私は思った。彼らは、ずっとこの時を待っていたんだと。

 過去の因縁。

 長く続く恨みと信念。

 あまりにも純粋で明確な殺意。

 ——きっとこれは、人間が踏み込んではいけない領域。

 一同足を止める。眼前には壁と同化している扉が。私と月森君が居たところは、この扉の向こう側。中は真っ暗だ。

 改めて見ると、ここだけ空気が違うように感じた。

 戒里さんが扉を開ける。夜野先生は私と月森君を庇うようにして立っている。

 「変だ」

 呟いたのは誰だっただろう。

 足を踏み入れると、前方を歩く戒里さんが声を上げた。「何だこりゃ」屈んで、ある物を摘み上げる。白い紙。墨汁が飛び散っている。

 暗闇に目が慣れた私は、いち早く奥を見遣った。提灯が並んでいる。さっきと変わりない。

 「うわっ」

 月森君が転びそうになった。慌てて夜野先生と私で支える。

 「大丈夫?」「大丈夫か?」

 「ごめん、何か踏んだみたいで」

 筆。真っ暗でも、毛先はパサついているのがわかった。

 あれ、と思った。

 「誰です」第三者の声。「妖怪ですか」

 戦闘態勢になりかけた私達。またしても戒里さんが声を上げた。

 「くまくんかァ!」

 誰、はこっちの台詞だった。



 「失礼しました」

 くまくんこと悪魔のルカさんは、驚かせてしまいましたね、なんて言いながら微笑んだ。

 「鎌鼬さんがあまりにも黙秘を貫くので、少々強引な手を使わせていただきましてね。異空間の構造を教えてくれたのですよ。ここは比較的安全な場所のようです」

 散乱していた白い紙を集め、一枚一枚順に並べていく。

 「それは何をしているんだ」

 夜野先生が代弁するかのごとく訊ねた。

 「構造図です。生憎と大きな紙を持っていませんので、代用しているんです。幸いこの紙は、近くの部屋にたくさんありましたから」

 「小さく書けばいいじゃねェか」

 こんなに白紙を使わなくても、と片眉を上げる。私も同じ気持ちだった。

 「ちょっとね、試したいことがあるのですよ。テストみたいなものです。あまり深く考えないでほしいですね」

 ルカさんは悪魔という名に似合わず、物腰柔らかで丁寧な口調だ。しかし、死神さんとはまた違う、何か底知れないものを感じるから、私は少し苦手だった。

 「鎌鼬はどうしたんだ。まさか外に?」と夜野先生。

 「いえ、そこにいますよ」とルカさん。

 紙を並べつつ、一点を指差した。提灯よりも奥の暗闇。

 戒里さんが近寄る。空気が揺れた。

 「ふぐんうッ、ふが……ッ」

 「あっれまァ。縛られてやがる。拘束しすぎじゃねェ? くまくん」

 「それくらいが丁度良いかと」

 「ふがッんが……!」

 「……いっそ憐れだな……」

 目と口を布で覆われ、木棒に括り付けるように手足を縛られている鎌鼬。それはさながら豚の丸焼きのような格好で、よくよく目を凝らすと鎌鼬の下に火を焚いた跡が残っていた。

 私は引き攣りそうな顔をどうにか標準に保つ。私と月森君がいた時と、ルカさんがいた時とですれ違いが起きていたらしい。良かった。

 「これ、提灯だろ。何でここにあんだよ?」

 「街から消えた分か」

 「ああ、宴に使うとか。飾りにするんですって」

 「飾りィ? しかも宴って。ンなこと聞いてねェぞ夜雨」

 「紅花神社はちょうど百鬼夜行の通り道なんだ。ベニバナサマはここに妖を招いて喰うつもりらしい」

 「こんな風にですか?」

 「いや、流石に丸焼きみたいにはしないと思うが……」

 「くまくん、食べようとしてたのかァ?」

 「まさか。食べたら舌が腐り落ちそうでしょう」

 「普通に不味そうって言えよォ」

 「味の問題じゃないだろう」

 所謂敵地で何してるんだろ、この人たち。

 調子が狂う。

 「ところでお二人は仲直りされたんですね」

 「まァな!」

 「こんな状態で喧嘩を続ける気にはなれないさ」

 「どうして喧嘩したんです?」

 「こいつが人間の肩を持つから」

 「別にオレはそんなんじゃ」

 「ほらな」

 「何が」

 「別にィ」

 「おい」

 「おや仲直りされたのでは?」

 「まァな!」

 「おい」

 ……本当に何してるんだろうか。



 全ての紙を並べ終えたルカさんは、そのまま手を翳した。

 紙それぞれに黒い線が描かれている。構造図。

 「何するんだァ?」

 「まあ見ていて下さい」

 淡い光が灯る。紙の周りを囲むその光の線は、紙同士の隙間を埋めるように働いた。

 まるで散り散りに破れた紙を繋げているようだ。それも、何の跡も残さず。

 光が収まった頃、眼前にあるのは最早小さな紙じゃなかった。等身大の地図と言っても差し支えない。

 「これをしたかったんですか」

 思わず問いかけた私に、ルカさんは口元だけで笑って見せた。

 「どうぞ笑って下さい。私は繊細な作業が苦手です。雨宿りのために傘を生み出したり、欠けた物を直したり、そういうのが得意ではないんです。だからこれは練習なのですよ——いつかのための」

 周囲が暗くなる前に、戒里さんが火の玉を出した。ぽおっとあたたかい光に包まれる。

 ルカさんは真面目な顔になって指差した。

 「私たちがいるのはここです」

 構造図の右下、端の方。

 「小さい……」

 本当に隠されているみたい。安全な場所だけあって、ベニバナサマも、ここにぞろぞろと人が居るとは到底思えないだろう。

 「全体を見ると顕著ですね。今いる場所は手狭に違いありません。しかし他はどうでしょう」

 「通路はまあ良いとしてだ。大きいのは間違いないだろうが、正直オレが思っていたよりも部屋数が少ないな。それこそ百はいってると思ったんだが」

 「箱の中にいるみてェだな」

 異空間の構造はシンプルだ。形で言うと長方形。大部屋が五つ、それぞれ上下左右、そして真ん中にあり、小部屋も含めて、全て通路でつながっている。右手には小部屋が三つ並んでいて、それは下部分も同じだった。戒里さんがいたのは、右上の角の部屋だろう。

 左手には、人間の小腸のように曲がり角ばかりの通路があった。その場所にはピンと来た。私と月森君が鎌鼬に追われ、逃げ込んだところだ。となると私が囚われていた部屋は、おそらく下部分の小部屋。

 私たちはそれぞれ意見を出し合い、まとまった見解を、ルカさんが書き出してくれた。構造図に黒字が足されていく。

 出来上がった構造図には、まだ白が残っていた。

 「ここ」夜野先生が指差した。「この上部分の部屋は、まだ誰も行ってないようだな」

 戒里さんが頷く。

 「真ん中も通ってねェ。ただ、他の部屋を考えると、宴はここで行われるだろうなァ。一番広い部屋だしなァ」

 ルカさんは筆を置いて、鎌鼬に問いかけた。

 「宴はどこで行われるんです。上の部屋ですか? 中央の部屋?」

 布で口元を覆われたまま、鎌鼬はそっぽを向いた。応えようとしない。

 しかしルカさんは構わず、鎌鼬に近付いた。口元の布を取る前に、何かを囁く。鎌鼬には聞こえていたのだろう。私達には聞こえなかったけれど、それが鎌鼬に”効く”言葉であることだけは分かった。

 「……宴は中央の部屋、大広間で行う」

 「では、上の部屋は何が?」

 ルカさんを睨みつけ、鎌鼬は唸った。

 「餌」

 それきり黙りを決め込んだ。

 かくして異空間の大まかな構造が判明し、同じ場所に長居は危険との判断で、また移動することとなった。

 ルカさんのみが鎌鼬の見張り役として居残った。

 私と月森君は、攫われた子供たちの誘導役として同行することになった。先生や戒里さんはいい顔をしなかったけれど。

 妖怪の相手は、妖怪が担当する。

 夜野先生によると、宮原先生は上の部屋に居るはずとのこと。

 まずは異空間を壊す。

 そのために、巻き込んでしまった者たちを外へ連れ出さなければ。

 二人とも、犠牲だけは避けなければいけない、と緊張した面持ちだった。



 果たして、宮原先生はそこに居た。

 無事辿り着いた部屋に入ると、数多くの檻に囚われた影が眠っていた。攫われた子供たち。私よりも幼い。

 眠る子供たちとは対照的に、異形の者らは檻の中で怪しく目を光らせている。

 人も妖怪も関係なく、鳥籠のような檻に自由を奪われている。

 「みんな無事だったんだね」

 安堵の息を吐く宮原先生に、夜野先生と戒里さんが言葉を返す。

 一方、私は目の当たりにした光景に尻込みしていた。

 見たことのない姿形をしている彼らが怖かった。けれどそれ以上に、そんな彼らを檻に閉じ込めてしまうベニバナサマが恐ろしかった。小鳥を捕まえるかのような気軽さで、ベニバナサマは彼らを攫ったのだろうか。

 眠っている子供たちが気掛かりだと考えた時、微かに音がした。私は息を詰める。

 カラン、カラン。シャラン、シャラン。

 耐性がついたのか、眠りに落ちる心配はなかった。けれど眠気が襲いかかってくる。

 音のせいだ。子供たちの元へ駆け寄ろうとして、腕を掴まれる。

 「不用意に近づくと危ない」

 月森君の右手が、私の動きを止めていた。

 「月森君……そう、だね。迂闊だった」

 「ここ、変な感じがするんだ。ずっと異空間にいるからかな、感じるんだよ。僕も見えてないから、なんとなくでしか言えないんだけど。妖怪がうじゃうじゃいるだろ? 変な音もするし。何かあってからじゃ遅い。戒里たちに任せて、僕たちは大人しくしておこう」

 戒里さんたちは情報を共有している。

 ここに来るまでの経緯とか、ベニバナサマについてとか、私と月森君のこととか。きっと手短に、起きた出来事を伝え合っているんだろう。

 私に出来ることはほんの僅か。それも微力で、あってないようなもの。

 コウカの言葉が頭から離れない。

 私は唇をぎゅっと引き結んで、前に出した足を戻した。

 宮原先生の声が聞こえる。

 「あっちは大丈夫なのかな」

 雅、夜雨と戒里さんに呼ばれる二人は、もう私の知る先生ではなかった。


 7

   * * *


 「これで良いのか」

 俺は少し声を張り上げて、右に五メートルほど離れたところへ目をやった。

 「そうだね。烏クンの言う通りに出来てると思うよ」

 俺と同じ体勢で、死神さんが草の根を掻き分けている。目立たない位置に設置してくれ、と渡された物は、俺が思っていたよりも機械らしい形をしていた。妖術だの妖道具だの、呼称はどうあれ、もっと古めかしい物を想像していた。それこそお札のような。それが機械って。

 「死神さんは、本当に上手くいくと思うんですか?」

 図書館へ向かう道中、聞かされた作戦。異空間を壊して、ベニバナサマと対峙する。簡単なように思えるが、実は難しいことだと俺は知っている。一歩間違えれば住宅街はどうなるのか。

 「さあね」

 死神さんは肩をすくめた。

 夏の朝は早い。薄く青が色付いた空は、夏特有の匂いを運んでくる。

 図書館から神社へ戻ったのは一時間前だ。そして死神さんから説明を受けた。俺のなすべきこと。ベニバナサマの異空間を覆うようにして、紅花神社周辺に妖道具を設置する。それが俺の役割だ。

 妖道具は全部で九つある。そのうちの四つは設置し終えた。残り五つ。これが以外と時間を食う。

 「烏クンは、百鬼夜行の前にベニバナサマを打ち倒したいんだろうね。今妖怪が訪れても、ベニバナサマの格好の餌だし。その上祭り前にこんな騒動で、街は落ち着かない。戒クンも狐チャンも難儀なものだよ」

 「妖怪の事情は知らねえよ。俺はただ心配ってだけで」

 「沙夜たち? それとも攫われた子たちのこと?」

 「もちろん両方です」

 「キミも難儀だねえ」

 馬鹿にするような言い方でも、呆れた言い方でもなかった。思ったことをそのまま口にしただけ、そんな素直さに少し面食らう。俺の知っている死神さんは、常にルカに憎まれ口を叩いている。

 死神と悪魔。避けられない対立。彼らだって難儀なものだろうに。

 「死神さんはルカのこと、嫌いなんですよね」

 「うん」

 ばっさり。

 「あの。俺とルカって、死神さんから見たらどうですか」

 「どうって何が?」

 「側から見て、俺とルカはちゃんと契約関係にあるのかって。ルカが俺を騙してる……とか」

 声が縮んでいく。

 作業を終えた死神さんが傍に立っている。じっと観察するような目。

 「騙されてるって思ったことがあるんだ?」

 「……いや、別に」

 思い出すのは、ルカの異変。以前、公園で耳にした冷たい声。

 俺はかぶりを振る。

 「ふーん。まあなんだって良いけど。悪魔がキミを騙してるのかって? 愚問だよ。ボクこそ聞きたいね。何でキミはアイツを信じてんの?」

 黙りこくった俺に、死神さんはまた肩をすくめた。

 「難儀だね、ホントに」

 次、あっちに設置しよっか。死神さんが立ち上がった。心なしか柔らかな声で、行くよ、と手招き。

 「はい」

 頷き、死神さんの後ろをついていく。

 「……ところで、さっきの烏クン狐チャンって何ですか」

 「ボクなりの呼び方」

 「まさか、夜野先生と宮原先生?」

 「分かりやすくて良いでしょ」

 「″戒クン”は名前からとってるのに」

 「鬼クン、じゃ語呂が悪いからね」

 「なるほど……?」



 小一時間ほど、着々と作業を続けていく。

 設置する妖道具は、あと一つ。

 「これ、全部置いたらどうすんだっけ?」

 「えーとね、確か……」

 死神さんが妖道具を弄り出す。

 草の根が作業を妨げないよう、抑えておいた。日陰ということもあり、この付近はヒンヤリと心地良い。

 九つの妖道具。結界を張るという代物。結界がよく分からない俺には、バリア的なものだろうか、と想像に苦しむ。けれどこれくらいなら俺にも手伝えるし、作戦の一端に参加できるなら何だって良かった。

 死神さんがカチャカチャと機械音を響かせている。俺はそれを眺めていた。

 だから、気付かなかった。

 「波瑠ちゃん?」

 振り返り、俺は固まった。死神さんが一瞬こちらを注視した気がする。だが俺は死神さんの意図を掴み損ねた。

 「波瑠ちゃんは無事だったんだね!」

 月森の弟、浩太が駆け寄ってくる。後ろから月森の父さんも現れた。

 「佐々木さんのとこの。良かった、君は無事だったんだな。ご両親が心配している」

 あいつらが俺の心配なんてするはずがない。家が離れているから、この人は知らないんだろう。俺は内心舌打ちした。帰れば終わりだ。

 「波瑠ちゃん、一翔兄見てない!? 昨日からずっと居ないんだ。ううん、居なくなったのは一翔兄だけじゃなくて、街の子も。ぼくの友達も一人帰ってないって!」

 「浩太。落ち着きなさい」月森の父さんが宥める。「悪いな。今居なくなった子達をみんなで探してるんだ。何が起きたのか分からなくて、大人も混乱してる。だから、危ないから君も早く帰りなさい」

 注意をはぐらかして、俺は尋ねた。

 「提灯がなくなってるって聞いた。祭りは中止か?」

 月森の父さんは困ったように眉を下げた。

 「今は祭りどころじゃないからな。十中八九中止になると思う。稲葉の親父さんも厳しい顔だったし。……どうしてこんなことになったのか……」

 月森の父さんの声が弱々しくなっていく。浩太の顔も歪んでいる。

 ジリジリと鳴く蝉が、今だけは救いだった。

 そうして話している間に、死神さんが作業を終えたらしい。目が合った。死神さんが頷く。

 “扉”の準備は整った。

 あとは合図を待つのみ。

 身体を蝕むような太陽。蝉。そして鉛のような空気。

 その中から、澄んだ音の響きを捉えなければならない。

 汗が伝った。


 8

   鬼6


 走る。走る。

 山の草木が行手を阻むように聳え立つ。避けるのも簡単だがそんな余裕もない。背後では木々がたくさん薙ぎ倒され、一種の荒れ地と化している。

 走る。走る。

 鬼火を使って探り当てた気配も今となってはどうでもいい。自分の命など幾ら狙われようが構わない。むしろ、それだけであってほしかった。

 走る。走る。ひたすら走り続ける。

 芽生えるのは憎しみと怒りと焦り。

 事の発端とやらは定かではなかった。

 村で疫病が流行ったことがきっかけだったのか。それとも鬼である自分が頻繁に人里へ下りていたことが原因か。もしくは、自分が人間の娘に恋をしてしまったことこそ、許されないことであったのか。

 陰陽師という術師が村を訪れていると耳にしたのは昨日だ。山の妖たちも騒めいていた。陰陽師と妖は対立する存在、命のやり取りは当然のようにある。臆病者の山の妖たちは己の命を守るため身を潜めた。

 その山も、今は半壊している。

 山に隠れている妖怪を全て退治するなら、山ごと攻撃したら良いのではないか。そう提案した奴が心底恨めしい。

 輝く月光とは裏腹に、薄暗い陰の中から洞窟が見えてきた。戒里は幾十もの鬼火を灯し、一斉に洞窟の中へ放った。鬼火が暗躍する景色さえも眉間の皺が濃くなるばかりだ。

 あの娘はここにいる。

 戒里は洞窟の中へ入った。突き当たりまで一本道。格子が見える。鬼火に照らされた人の姿。戒里は格子を力任せに引っ張った。壊れる音が洞窟に響き渡る。

 彼女がいた。日焼けしたのだと照れくさそうに言っていた腕は、以前よりも痩せ細っている。足には枷がつけられており、逃げられないように鎖で繋がれたようだ。美しい黒髪も今となってはくすんでいて、あるとき戒里が顔を真っ赤にして渡した簪も、彼女の髪から消え失せていた。

 彼女に駆け寄った。そっと肩を掴む。

 戒里、と彼女の口から言葉が零れた。弱々しい声。きっと食べ物も水もなかったのだろう。

 「いい、喋らなくていいッ! 此処を出るぞ!」

 枷を破壊し、彼女を横抱きに抱える。

 来た道を引き返す最中、彼女が渇いた喉を絞って声を出した。

 どうして来たの。彼らの狙いは戒里。わたしは囮よ。

 「無理して喋んじゃねェ! 人間なんてオレが返り討ちにしてやらァ」

 このままでは、彼らの思う壺だわ。

 「心配すんなァ、お前はオレ様が守ってやる」

 洞窟から出て、戒里は山奥へ駆け出した。平静を取り戻そうとして何度も失敗する。木々を避けつつ、放った鬼火は消す。血のように妖力が全身を駆け巡り、戒里はさらに早く足を動かした。

 ヨサメとミヤビが陰陽師の足止めをしているはずだ。その隙に彼女を安全な場所へ。

 不意に、キラリと紫色が光った。

 警戒して立ち止まる。ちょうど月明かりに照らされたその場所は小径となっている。砂利の音。二人。小さな気配。

 確かこの山は、彼女の村と隣村との境にあった。

 彼女を一度おろし、再び鬼火を灯す。警戒態勢のまま彼女を庇う。

 現れたのは二人の少年だった。何かから追われるように走ってくる。一人は黒髪。もう一人は、人間にしては珍しい白い髪をしていた。よく見ると目も紅い。妙な子供だ。妖力は感じない。

 白髪の少年が戒里を見て叫んだ。鬼だ。黒髪の少年が白髪を背に、落ちていた太い枝を構える。

 戒里が睨みつけると少年たちはガタガタと震えた。

 敵ではないようだが気味が悪い。戒里は背を向け、すぐさま彼女を抱えた。優先事項は言うまでもなかった。

 彼女を抱き、また走り出そうとした戒里は、陰陽師の気配に集中した。まだ遠い。

 刹那、腹に熱が過ぎった。

 ごほっと咳をすると血がこぼれた。足に力が入らない。膝をつく。

 「なに、しやがったァ……?」

 背後に目をやると、黒髪が太い枝を戒里に突き刺していた。キラリと何かが紫に煌めく。少年の手には太い枝だけでなく、紫色の石の欠片が握られていた。

 瞬時に悟る。

 戒里が黒髪の少年を突き飛ばす。思いの外力が入り、少年は強く地面に頭を打ちつけた。赤い血が砂利の上に広がっていく。戒里は太い枝を抜いた。血が垂れる。白と紅が動いたと思えば、彼女が苦しげな声を漏らした。

 「てめェ‼︎」

 白髪の少年を殴り飛ばす。白髪の手には紫の石の欠片が握り込まれていた。いつの間に黒髪の少年から取ったのだろう。石の欠片は角が尖っていて、鋭利な武器として使えないことはないほどだ。

 それが、彼女の胸に刺さっている。

 躊躇うことなく引き抜いた。これは良くないものだ。気配が禍々しい。戒里は石の欠片を破壊した。石は破片となって砂利に混じり、やがて色を失う。

 「おい、大丈夫かァ!」

 急いで彼女の血を止めようと処置する。手を尽くしたが、彼女の息は依然として弱い。

 飲まず食わずで暗い洞窟に閉じ込められ、彼女は疲弊しきっていた。加えて妙な物で胸を刺された。平生致命傷ではないこの傷で死ぬはずはないのに、彼女は血を吐いた。嫌な未来が指先を震えさせる。

 「なァ、おい」

 戒里の腹の傷はもう塞がりつつある。対して彼女の血は止まらない。

 戒里は彼女の名を呼び続けた。

 彼女の口から掠れた声が出た。

 戒里。助けてくれてありがとう。ごめんなさい。

 「喋るな、それ以上口を開くんじゃねェ!」

 彼女の手が戒里の頬に触れようとする。戒里はその手をぎゅっと握った。

 「死ぬなよ! 生きてくれ。頼むぜ。オレはまだお前と一緒にいてェ……っ」

 情けない顔をしていることは承知だった。彼女と目が合わないことに背筋が凍る。

 ねえ戒里。わたしね、幸せだったわ。

 「やめろ、聞きたくねェ」

 泣かないで。笑った顔が見たい。

 「お前が生きてりゃ幾らでも見せてやらァ、だから」

 戒里、笑って。

 彼女の瞳から涙が溢れた。お手本だとでも言うように、口角を上げて笑ってみせる。

 「……いやだ」

 柔らかく、強情ね、と笑われた気がした。

 彼女の目に大きな月が宿る。すっかり褪せた唇を開き、彼女は囁いた。



 今夜も月が綺麗ね。



 目の中から月が消えた。力の抜けた彼女の手は、戒里が掴んでいなければ地面に引き寄せられていただろう。

 戒里は奥歯を噛み締める。

 冷たい手、頬。血だらけの身体。動かない心臓。

 こんなの、笑えるわけがない。

 陰陽師の気配が近付いてくる。強く濃く、いっそ執念深い欲の香り。人間の匂い。

 あんな奴らに奪われた。

 くだらない理由で、くだらない方法で。

 けれど、彼女を守ると言っておいて守れなかった自分は、もっともっとくだらない。



 愛していたのだ、心の底から。彼女だけが唯一、愛おしい人だった。



 騒めく声が反響する。烏の羽ばたき、狐の鳴き声、その全てが泥に塗れて埋もれていくようだ。

 事切れた彼女を抱きしめる。戒里の中で何かが壊れた気がした。

 月下の鬼は慟哭する。

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