第5章 鬼女、ベニバナサマ
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気が付くと、そこは一面灰色の世界だった。
何かの花が全体に広々と咲いていたのだろうが、どの花もしおらしく、黒ずんで枯れている。
この空間には、空が存在しているようだ。けれど、花と同じように本来の色を失い、太陽の姿もなかった。
どうして私がここにいるのか。それを説明するには、五日前に遡らなければならない。
戒里さんが
内容は主に三つに分けられる。
一つ目の話は、戒里さんの過去。これは以前、宮原先生が語った内容とほとんど変わらなかった。違いと言えば、宮原先生より説明が雑で、大まかで、簡潔だったことだけ。
戒里さんは宮原先生が私達に話していた事を既に知っていた。だから要約したのだろう……多分。
二つ目の話は、戒里さんの過去に関わる、もう一つの真実。戒里さんの過去話に出てきた村に、とある妖怪が病を流行らせたこと。その妖怪が、三年前にこの町に現れ、三人の子供を襲ったこと。その妖怪の狙いが、三年前に襲った三人の内の一人——月森君だということ。そして、戒里さんはその妖怪を捕まえようとしていること。戒里さんは慎重に語ってくれた。
三つ目の話は、その妖怪がどうやらこの街の神社の主らしいということだ。神社の主ってことは、神様のようなものではないかと思い、私は戒里さんに「本当にその妖怪があの神社の主なのか」を尋ねた。
「あァ、間違いねェよ。神社の主って言うより、神社にしか居場所がない妖、だけどなァ」
そう答えた戒里さんは何やら根拠があるようだった。
「昔、風の噂で聞いたことなんだよ。その妖は"ベニバナサマ"っつって呼ばれてるみてェでよォ。美しい女の姿で人間の前に現れ、誑かし、最終的には『喰う』んだと。そんで、ベニバナサマを恐れた人間どもはそいつの怒りを鎮めんと神社を造ったんだ」
「それがこの街にある、あの神社……」
「そうだァ。あの神社の名前もそんなんだっただろ?」
言われて、思い出す。確かに聞いた話では、紅花神社というそうだ。行ったことはないが。読みもベニバナサマと同じ、べにばなじんじゃ。
「ベニバナサマって、何かの話で聞いたことがあるよ」
死神さんが言った。
「そりゃ、かみくんなら聞いたことはあるだろうぜ。この町に伝わる昔話に出てくるくらいだからなァ」
昔話? そんな話、あっただろうか。
私が知らないと言えば、二人は困った顔をした。どうやら、説明しようにも文献が少なく、戒里さんも死神さんも詳しくは知らないらしい。分かっているのは、その妖が鬼女であることと、今まで数々の人間を喰らって生き永らえていること。それくらいだけだと言う。
「人を
単純な疑問をぶつける。戒里さんはその瞳を少し翳らせ、囁くように答えてくれた。
「人間の血と肉は、妖力を高めてくれるからだ。堕ちた妖は大抵、飢えてんだよ。だから美味そうな匂いがしたら本能的に捕らえようとするし、喰おうとする。それで、妖力を溜めて、飢えを凌ぐ。妖力さえあれば、オレ達妖怪はずっと生きていけるからなァ」
ぶるりと背筋に悪寒が走る。
固まった私の代わりに、一番聞きたかったことを死神さんが訊ねてくれた。
「ベニバナサマの話は分かったよ。でも、あの鎌鼬は何なの? 今回キミが怪我をしたのは、鎌鼬が関わってるんでしょ」
「鎌鼬は、ベニバナサマの眷属……みてェなもんだなァ。従者っつった方が分かりやすいかァ?」
「いや……、何となく分かったよ。ありがとう」
戒里さんは、また現れるであろう鎌鼬と猫又を捕まえたいと言った。
「オレの力がまだ完全に回復してねェから、彼奴を逃がしちまったァ。
「でも、無茶ですよ。戒里さん怪我したばっかりで、余計に動きづらいんじゃ……」
「……」
少し動くだけで、傷の痛みに呻いてしまうほどの怪我。死神さんは何も言わなかったけど、私は無理をしない方が良いんじゃないかと言った。止める、まではしないが、もう少し安静にしてからでも遅くないと。
「相手も戒里さんに見つかったことを知って、ニ、三日は様子を伺うことにするかもしれませんよ」
少なくとも私がその立場だと、そうしただろう。すぐに仕掛けるのは危険だと判断し、警戒するはずだから。
「沙夜の考えは、一理あると思うけど」
相手は敵——戒里さんの味方——の数が分からない訳だからね。と付け加える。
「……」
戒里さんは考えていたようだったが、死神さんの言葉が後押しして、傷の痛みが緩和し、動けるようになるまで安静に過ごすと決めたようだった。
「怪我した状態で、一翔ん家に帰りたくねェからよォ。……ここに居させてもらえねェか?」
戒里さんのその言葉で、私と死神さんは顔を見合わせた。確かに、暫くは私の家に居た方が安全かも。その時の私は、乙女の恥じらいを持ち合わせていなかったから、そう考えたのだろう。死神さんは反対するような目つきだったが、結局、戒里さんは私の家で過ごすこととなった。
そして一日が過ぎたわけだが、私はベニバナサマの昔話が気になって仕方なかった。しかし、その時はまだ"気になる"というだけだったので、何もしなかった。
翌日、夕方頃に宮原先生が私の家に来た。戒里さんから事前に事情を聞いていたらしく、「巻き込んですまないね」と謝られた。戒里さんの怪我はまだ良くなってない。もう少し休ませることに。その間、宮原先生がベニバナサマたちの動向を探っていた。
翌々日。死神さんと戒里さん、宮原先生と一緒にトランプをした。その際にも、ベニバナサマの話が出てきた。というか、戒里さんと宮原先生がその事について話していたため、嫌でも聞こえたのだ。死神さんも私も自然とその会話に参加していた。宮原先生は学校を休んでいるようで、日中は私達と過ごしていたが、夕方になると外へ出ていた。
その次の日、私はベニバナサマの昔話がどんな話なのか気になり、ついに行動を起こしたのだった。図書館でそれらしい文献がないか探すのだ。死神さんがついて来てくれたが、怪我の具合がまだ芳しくない戒里さんは宮原先生とトランプしていた。会話の内容はやはり、ベニバナサマたちの動向について。
それから私は図書館に通っているのだが、情報量がほとんどなく、お父さんのパソコンを使ってインターネットで調べたりもした。
そして昨日のことだ。戒里さんの怪我が少し良くなったのと同時に、ベニバナサマの昔話を探していた私は、図書館の奥深くにある古書ばかりの場所で、それっぽい本を見つけた。
ただその本は、紅花神社について詳しく書かれている本だったから、ベニバナサマの昔話というより、紅花神社の歴史、という感じだった。ベニバナサマの話は少ししか書かれていなかった。まあ、一応収穫にはなった。
戒里さんが怪我をして五日が経った。完全とは言えないものの、戒里さんの傷はある程度塞がり、ある程度動けるようだ。
宮原先生が毎日探っていた事に関しても、今日は進展があった。小さな妖怪の目撃情報だ。鎌鼬と猫又を見かけたらしい。見かけた場所は、紅花神社。
戒里さんが、一度、紅花神社に行ってみると言い出した。宮原先生も同意した。私は紅花神社を近くで見たことがなかったから、ベニバナサマの話も考慮した上で、自ら行きたいと名乗り出た。
戒里さんと宮原先生は「これ以上、巻き込みたくない」と当然の如く反対した。
もう既に詳しい事情も聞いたのだから、これ以上も何もないだろう。そう思ったのは私だけじゃなかったらしく、死神さんが「見るだけなら良いんじゃないかな」という姿勢で援護してくれた。
それから一時間くらい押し問答を繰り広げた。自分でも、どうしてこんなに興味を持っているのか不思議だった。
先に折れたのは、戒里さんと宮原先生。行くのは良いが、危なくなったら、すぐにその場から離れること。これが条件だった。勿論、頷いた。
夕方になり、私達は紅花神社へ訪れた。
灰色の石段が遠く伸びている。何段あるんだろう。石段の先には大きな鳥居がある。朱の色を施された鳥居は、夕日に照らされることなく、そびえ立っていた。石段の周りは木々で囲まれている。
夏の暑さが汗を誘い、蝉の声が頭に響く。
私達は慎重に、石段を一つ一つ上がった。
どれくらい経っただろう。あと十段ほどで到着だ。宮原先生は人の姿でいる事に疲れたのか否か、美しい狐の姿で石段を駆け上がっている。死神さんは浮くことができるし、楽そうに石段を上がる。
戒里さんは迂闊に力が使えない事と怪我をしている事が重なり、私と並んで足を運んでいる。戒里さんに疲労の色は見えない。
宮原先生と死神さんが残り十段を上り終え、私と戒里さんもその後に続く。
そうして、やっと鳥居をくぐった時、まるで待っていましたと言わんばかりに、強風が吹いた。
あまりの風の強さに飛ばされそうになり、自分の体が宙を浮く。近くで風に耐えている戒里さんが左手で私の腕を掴んで、引き寄せる。
死神さんと宮原先生もどうにか耐えているらしい。戒里さんは怪我してるのに、私が飛ばされないように上手く立ち回っている。その事に私は申し訳なさを感じた。
明らかに普通の風でない事は、私でも分かった。死神さん達も警戒してるはずだ。
「邪悪な鬼め。死神と狐も連れてきおって……余計な手間をかけさせるな」
風が来る方向から、声が聞こえた。男の声にしては少し高めだ。聞いた事のある声。私は自分の体が少し震えているのに気付いた。
「鎌鼬ィ!」
戒里さんが憎々しげに叫ぶ。だが、声が届いたのかは分からない。そのくらい、風音も大きいのだ。
「そこの鬼と娘以外は、此処から去れ。あの方の命令ぞ」
戒里さんと……私以外?
「鎌鼬、これでは奴らの返事が聞こえぬ。風自体と風音を弱めよ」
「ぎゃっ。何も尻尾で叩かずとも良いだろう」
もう一つの声が聞こえたかと思えば、風音が弱まった。風の強さも優しいものに。
「……」
はっきりと見えた。五日前に見た鎌鼬の姿と、七夕の日に見た猫又の姿。社のお賽銭箱の前に居る。
戒里さんが彼らに近付こうとした。けれど、体が動かない。私も足を動かそうとしたが、叶わなかった。
「無駄よ。どれだけ動こうとしても、あの方の金縛りには逆らえまい。此処はあの方の領域だ」
鎌鼬がせせら嗤う。
「さて。本題に入るとしよう。邪悪な鬼めとそこの娘以外は、此処から去れ。返事は?」
「……嫌だ、と言ったらどうするんだい?」
宮原先生が応える。
「ボクも遠慮したいね」
死神さんが言った。
鎌鼬は猫又と視線を通わせたかと思うと、「こうするのだ」と鎌鼬が旋風を巻き起こした。猫又は優雅に二つの尾を揺らしている。
旋風は私と戒里さんの元へ迫っていた。死神さんも宮原先生も止めようとしてくれているようだが、その体は一ミリも動かない。
目前の旋風を前に、私は咄嗟に目を瞑った。
…………。
何も、起こら、ない……?
目を開けて見ると、戒里さんが空いてる右手を前に突き出し、風を受け止めていた。そのまま風の軌道を歪め、横に受け流す。
「なっ」
鎌鼬の声が驚きに満ちる。
「何故だ! あの方の金縛りに敵う者など、いないはず……!」
私も不思議に思った。さっきは、動けなかったのに。
「ははっ。馬鹿かァ? オレ様が金縛りに屈する鬼だと? あれくらい、何てことねェよ」
戒里さんは鎌鼬が何かを言う前に裾の中に手を突っ込んだ。
「……? あ」
何か探してる風だったが、戒里さんの顔は蒼白に。
「やベェ。移動出来るやつ、夜雨に渡したまんまだァ……」
その言葉で察した。瞬間移動が出来る『あれ』を探していたけど、見つからなかったんだ。
「こうなれば一気に畳むしか……!」
鎌鼬はその隙を逃さず、幾つも旋風を巻き起こし、こちらに向けてきた。戒里さんは慌ててそれを受け流すが、流石にそれが何回も続けば、怪我に響いて限界になってしまう。ましてや、金縛りが解けていない私も居るんだ。足手まといになっているだろう、と私は自分の無力さに顔をしかめる。
次々と襲ってくる旋風は徐々に威力が増していった。埒が明かないと、戒里さんが宮原先生に叫んだ。
「夜雨を呼んで来てくれェ、雅!」
雅、と呼ばれた先生は、狐の姿のままだった。
「でも、体が……」
「腹んとこに力ためて、なんか、がーって感じですれば動けんだろ! かみくんも!」
幸い、この会話は風音であちらには聞こえていないようだった。
宮原先生と死神さんは戒里さんの「がーって感じ」の言葉に困惑しながら、どうにか動こうとする。
「出来たよ、戒里!」
「頼むぜェ!」
先生は狐姿で鳥居をくぐり、石段を駆け下りた。死神さんも何とかしたようだ。こちらに駆け寄ってくる。
「沙夜!」
でも、私の体はどんなに頑張っても動きそうになかった。戒里さんも足は動かないみたいだ。さっきからずっと腕を動かして、迫り来る旋風を防いでいる。
「くそ、くそ、くそっ!」
「落ち着け、鎌鼬。狐は逃がしても良い。あの方もそう判断し、金縛りを解いたのだろう。死神とて同じこと。焦る必要はない」
「う、うむ。そうだな」
旋風が止んだ。いきなり攻撃を止めた相手に、死神さんと戒里さんが警戒する。一方、私は妙な音を聞いた気がして、目を閉じ、耳を澄ました。
からん、からん。しゃらん、しゃらん。
何の音だろう。心地良いような、不気味なような……特徴が掴めない音。
死神さん達には、聞こえていないみたい。
私だけに聞こえる。
その音は、直接頭に響くような大きなものに変わっていく。
からん、からん。しゃらん、しゃらん。
からん、からん。しゃらん、しゃらん。
「……」
あれ……おかしいな。何だか、眠く……。
からん、からん。しゃらん、しゃらん。
眠れ、眠れ。人の子よ。
さあ、おいで。
——そして、冒頭へ戻る。
* * *
光が散る。視界が開けた。
俺は一を数える間もなく、いつの間にか、紅花神社の鳥居を前にして立っていた。
神社の石段は所々苔が生えていて、端の方なんて今にも崩れ落ちそうなヒビが入っている。緑の葉っぱが薄暗く周囲を落ち込ませており、唯一の光を持つ夕日も木々の合間に見え隠れしていて、まるで薄暗さを強調するかのようだった。
「雨水さんは……?」
異様に静かな社の前まで足を運ぶ。古臭い見た目の割には、まだまだ朽ちるには時間がかかりそうだ。周りには人の気配がない。木の葉がざわめき立つ。
「夜野さんと狐もまだのようですね。一体ここで何が……」
そこで言葉を切り、後ろにいたルカが屈み込んだ。一つに束ねた黒髪が地面に着くのもお構いなしのようだ。不思議に思って俺もルカに倣う。
「何かあったのか?」
ルカは俺に応じず、キメ細かい砂を撫でるような手つきで触った。かと思えば、そのまま立ち上がり、社の方へ歩み寄る。まるで何かの痕跡を辿っているみたいな動き……いや、事実そうなんだろう。
邪魔にならないよう待ちながら、俺は他に手掛かりがないか探し始めた。
「……あ?」
そう言えば、妙に暗いな。夏祭りは明日だ。例年通りなら、この神社にはあっちこっちに提灯が飾られてるはず。風で飛ばされたのか? いやいや。毎年気象に影響されないように何かと工夫してるんだ、そう簡単に吹き飛ばされるわけねえ。
鳥居の向こう、石段を振り返る。僅かながら夕日の光が伸びているが、提灯は一つも見当たらない。薄暗い。
何で、提灯がねえんだ?
雨水さんも戒里さんも見つからない。こんな時に死神さんは何してるんだよ。雨水さんが大変だってのに。まさか死神さんも一緒に居なくなってたりしてないよな?
突然、形容し難い不安感が泉のように湧き出てきた。このまま、見つからなかったら。流風のように。そんな考えが頭を駆けずり回る。
「佐々木!」
上空から降ってきた声に、俺ははっとした。この声は間違いなく「夜野先生!」
「すまん。少し遅れた」
そう言って地に降り立った夜野先生の背後から、毛並みの美しい狐がひょこっと顔を出す。……もしかして、夜野先生に掴まってここまで来たのだろうか。
「戒里達は!?」
狐が言う。咄嗟のことで、俺が喋る狐に反応を返せないでいると、助け舟としてルカが口を挟んだ。
「もうここには居ないようですよ」
白い手袋で隠された人差し指を、地面に向ける。
「賽銭箱の前で、気配が途切れています」
それを肯定するかのように木々が揺れた。僅かに砂埃が舞う。ルカは、喉の渇きに気付いて水を欲するような自然な態度で、焦り一つ見せなかった。
「おいおい。じゃあ戒里達は、奴らに攫われたって事か?」嘘だろ、と夜野先生が呆然とする。
「持ち堪え切れなかったのか。この分じゃ、きっと死神も」狐がぶつぶつと何かを呟く。上手く聞き取れない。
「奴ら」って何だ。話が見えない。どうにも俺は、現状に置いてけぼりを食らっているらしい。勝手について来たから、事情を知らないのも当然と言えば当然だが。
「……」
俺に出来ることはないのか。無意識に眉間に皺が寄る。足手まといも良いとこだった。
先の行動を相談している先生と狐を尻目に、なんとなく、社を睨んだ。そうする事で特に何かが起きるわけでもないが、睨んだ。そのまま空間に穴が開いて、そこから雨水さんや戒里さんが出てこねえかな、と考える。
ルカが俺の元へ来る。俺はただただ社を見ていた。
夕闇が濃くなっていき、社を取り囲む茂みが暗く塗り潰された。じんわりと光る提灯の行方も知れず。その内、幻覚が見え始めた。社の前の空間に黒い穴が出現して、穴の遠くで音がする。誰かの声みたいだ。幻聴もするのか。徐々に拡張する空間の穴に、銀色が見えた。
ピリリと肌が刺激される。
「波瑠さん、下がってください!」
不意に腕を引っ張られ、体勢が崩れる。ルカに支えられていると気付いたのは、目の前の出来事が幻覚でも何でもない、正真正銘、現実だと自覚してからだった。
咄嗟に先生達に視線を向けると、ルカと同じように警戒体勢に入っている。
空間の穴から銀色が迫ってくる。その銀色の正体に、俺達は漏れなく唖然とした。
「——ベニバナサマってのは、随分と好き嫌いがあるようだねえ。ボクだけ除け者か」
緊迫したこの場に、全くもって不釣り合いな声が無情にも響く。穴から雑に放り投げられたからだろう、尻餅をついた彼は、のそっと起き上がった。
「何を、しているんです」
硬い声のルカには見向きもせず、こちらに背を向けたまま、彼は答えた。
「ボクは何も。偏食家には、突き返されたけどね」
死神だった。
☆ ☆ ☆
一番に異変に気付いたのは、誰だったのだろう。
準備が終わり、そろそろ帰ろうかと話していた時のことだ。公園に向かって走ってくる人影が幾つも見えた。
「稲葉さん! 大変です!」
何やら慌てた様子で叫ぶおっちゃんに、稲葉のじいちゃんが事情を尋ねる。
「それがっ、祭りの飾りが誰かに荒らされてて! 提灯が一瞬で消えたんです!」
その声が引き金となり、次々と不安な声が届く。
「うちの子がまだ帰ってこないんです! こんなこと、一度もなかったのに」
「早く帰って来るように言ったんだが、もう二時間以上も経ってるんだ!」
「神社の方にも提灯がない!」
「子供の叫び声を聞いて駆け寄ってみたら、目の前で子供達が一斉に消えたんだ!」
「このままじゃ子供達が」
「このままじゃ祭りが」
四方八方から飛んでくる言葉に、稲葉のじいちゃんが落ち着くよう宥める。事情を知らない僕達はただただ圧倒された。
「落ち着けい! 喧しい!」
一向に収まらない言葉の数に耐えれなかったのか、稲葉のじいちゃんが喝を入れた。狼狽えながらも、押し寄せてきた人達が口を閉ざしていく。すごいな。
「それで何だあ? 祭りの飾りが荒らされてるってぇのは、本当か? 提灯がなくなったのも?」
「そ、そうなんですよ〜! 公園を含めてもう十箇所はぐちゃぐちゃです。明日は祭り当日なのに」
「……よし。後で確認するぞ!」
「「はい!」」
辺りに声が反響する。
「子供が帰ってこないんです! もしかして何か事件に巻き込まれたんじゃないかと」
悩ましげに語るのは、四十代くらいの女性。
「子供が消えたのを見たんだ!!」
三十路らしき男が「信じてくれ!」と懇願する。
提灯もそうだが、子供が消えるというのは不可解な話だ。
胸騒ぎの理由はこれだったのか、と腑に落ちるとともに、一体誰がこんな事をしたのか、という疑念が湧く。
人の仕業か、妖怪の仕業か。重要なのはここだ。もし本当に目の前で一斉に子供が消えたのなら、それは最早、神業で——
「なあ……ぁ」
話しかけようとして、はたと気付く。戒里は居ないんだった。僕の呼びかけに反応したのは、稲葉だった。
「なに?」
「あ、いや……何で提灯と子供が消えたんだろうな」
「そんなの、俺にわかるわけねーじゃん」
不安げな表情だった。らしくない顔に何か言ってやろうと思ったら、稲葉とは逆の方から裾を引かれて、僕はそちらに顔を向ける。輝汐だ。何だか怯えているように見える。何か感じ取ってしまったのだろうか。いや、不安なのは当たり前か。輝汐はまだ四年生だ。
輝汐の頭を撫でて、一人ずつ対応していく稲葉のじいちゃんの背を見上げる。
夕刻。奴らの時間だ。万が一のことが起きないように、頼れる大人からは離れないようにしないと。三年前の二の舞にならないように。
そんな事を考えていたら、どこからか刺すような視線を感じた。鬱々とした黒い感情を向けられているみたいで、ぞっとする。堪らず周囲を念入りに見渡すが、それらしい影は見つからない。代わりに、声が聞こえた。
あの日。あの時聞いた、妖怪の声。脳内に直接、入り込んでくる。
『人の子、人の子』
『見つけたぞ』
『次こそは必ず』
『必ずや』
「喰ろうてやる」
全身の毛が逆立つ。おぞましい声だ。あの妖怪の声だ。どこから聞こえるのか分からないが、幻聴でないことは確かだった。
「一翔? どうしたんだよ。顔、青いぜ」
「兄ちゃん、おれ。おれ、なんか、気持ち悪い」
「うお、輝汐も顔あっお! 大丈夫かよ、座るか?」
我に返る事も出来ず、僕は立ち尽くす。背筋に冷たい汗が伝って気持ち悪い。稲葉が輝汐を支えているのが、定まらない視界に入って来る。
僕は、ええと、何を考えて、何をしてたんだっけ。何を、気をつけるんだった?
喰ろうてやる。声がこびり付く。思考が乱れる。音がする。からん、からん。しゃらん、しゃらん、と頭に鳴り響く。鳴り響く度に、眠気が増す。
「……い、お……! かけ……!」
稲葉の声が木霊するが、それさえもまともに聞けない。もういいかと、自ら意識を手放しそうになった時、脳が震えた。
「しっかりしろよ一翔ッ!!!」
キーンと耳鳴りが眠気を散らした。
耳を押さえて固まる僕に、稲葉が怒ったような顔で詰め寄る。
「こんな時にへばんじゃねーよ。この体力なし! お前の大事な大事な弟の一人がしんどそうなんだぞ! 眠いとか言うんじゃねーだろうな、な!? 聞いてのかブアーカッ! バーカバー……」
「うるさい」
「アっハイ」
あれだよ、あれ。言葉のあやとりだよ、あやとり。とか何とか意味の分からない言葉で弁解し始める稲葉には反応せず、僕は輝汐の体を支えた。
……一瞬、何かに意識を呑まれた。稲葉のお陰で何とかなったみたいだが、あの感じは、三年前と同じ感覚だった。今回の騒動は、あの時の妖怪が関わっているのか。それなら僕は……。
「ごめん、ごめんって。本当にこの通り。でもお前がぼーっとするからだぞ!」
「いい。謝んなくていいよ。お前のお陰で目が覚めたし。謝るのはどっちかって言うと、僕の方だしな。ぼうっとして悪かったよ」
「なんだよ。やっぱ眠かったのかよ。ブラコンが聞いてあきれるな!」ふんす、と鼻を鳴らす稲葉。
「言ってろ」無意識に輝汐の頭を撫でていた手を、静かに下ろす。
——もし本当にあの時の妖怪が関わっているのなら、僕は、弟達を、何としてでも守らなければ。僕に出来るのはきっとそれだけだ。
「春樹、一翔くん! すまんが先に帰っといてくれ。輝汐くんの具合も良くないみたいだしなあ。大人たちに送ってもらえ。遠慮なんてするなよぉ!」
一通りの話が終わり、稲葉のじいちゃんがこちらに声を寄越した。いつもの調子で豪快に笑う。稲葉のじいちゃんは僕達を危険な目に遭わせたくないんだろう、といっそ分かりやすい気遣いに稲葉と似通った部分が見え、遺伝だな、と思った。『大人たち』と指す人が顔見知りの人ばかりだから、帰り道は安全だろう。
「じいちゃんは? どうすんだよ」
稲葉が不満げに口を尖らせる。素直に言うことを聞く気にはなれないらしかった。
「今回の騒動は、どうやら神社の近くで起こってるみたいでな! 様子を見に行ってから帰るつもりだ」
「じゃ、じゃあ俺も!」気になる! と叫び出す勢いだった。
「春樹。お前は、一翔くんたちと一緒に、帰るんだ」
稲葉の勢いが祖父の静かな迫力に気圧され、稲葉自身は一瞬、言葉を詰まらせた。その隙に稲葉のじいちゃんが口を開く。「一翔くん、そういう事だからな。このバカ孫を頼む」
僕は頷く。稲葉が拗ねたような顔をしたが、僕が「輝汐を支えるの、手伝ってくれ」と言えば、ころっと顔つきが変わる。もう好奇心は抑えられたようだ。
「おいおい、流石に見てらんねえし、手伝うっての」
八百屋のおっちゃんが輝汐の背負い役を申し出る。稲葉のじいちゃんは数人と一緒に、もう神社に向かっていた。途中までは同じ道だから、彼らの後について行くように、僕達も歩き出した。他の人達も自宅へと散っていく。夕日が建物に隠れた。
道中、空気を明るくさせるためか、稲葉がよく喋っていた。一つの話題が尽きるたびに、「そういえば」と新たな話題を見つけ、呂律を回す。僕は相槌を打ちつつ、道すがら何か異変がないか観察した。
前を歩く彼らが角を曲がった。神社のある道だ。僕達はそのまま曲がらずに、直進する。曲がり角の奥は、提灯がなくなっているのが分かるほど、暗がりが浮き彫りになっていた。まだ夕暮れと言えども、影は夜よりも濃く黒々と伸びている。
曲がり角を通り過ぎて一歩、二歩、三歩、四歩。足を止めると、隣を歩く稲葉が更に前へ足を運び終えた後、振り返った。早く行こうぜ、と稲葉の顔に文字が見えた。勿論、実際にそんなものは書いてないが。稲葉はいきなり立ち止まった僕を不審がる。稲葉のさらに奥を歩く八百屋のおっちゃんが、輝汐を背負い、のっそのっそと前進している。
大人は八百屋のおっちゃんだけじゃない。もたもたしていると、気付かれてしまう。
「……稲葉」
僕は、今しかないと思った。
「置いてかれちまうぞ、早く行こうぜ」
そう言って僕の手を引こうとするから、僕は腕を掴まれないように避けた。稲葉が眉を寄せる。意味が分からなくて動揺しているともとれるし、単純に苛立っているようにもとれる。僕は輝汐を一瞥し、稲葉に言う。
「弟のこと、頼む。暫くの間でいい。僕が居ない事を気付かれないようにしてくれ」
「はあ? 意味わかんねーよ。何で、」
「ごめん。でも、今はお前しか頼めないから。僕は行かないといけないんだ」
自分で言っておきながら、胡散臭い言葉だと思った。だがまあ、本心だ。
何か言おうとする稲葉を遮り、「後はよろしく」と一方的に告げ、僕は四歩下がって、道を曲がった。走り出す。後ろから追いかけてくる気配はしない。多分まだ、稲葉は理解が追いついていないのだろう。申し訳ないと思ったが、ここは追ってこない事を祈って足を動かした。
神社へ向かう一行は呆気なく見つかった。道違いしてそれほど時間も経っていないし、距離も僕が走るほどじゃなかった。でも、気持ちだけが先走って、脳が「もっと早く神社へ行かなければならない」と全身の神経に命令しているみたいだった。不思議なことに、それくらい胸騒ぎがしたのだ。
稲葉のじいちゃんたちにバレないように、ある程度の距離を測り、歩き始める。
こういう時、戒里が居てくれたらあっという間に神社へ行けるのに。
無意識にそう考えて、自分があいつを頼りにしていた事に気付く。何だ、それ。何だよ。何なんだよ。
大嫌いな妖怪を、"頼りにしている"? 馬鹿馬鹿しい。僕は妖怪が嫌いなんだ。嫌いで嫌いで仕方ないんだ。情も湧かない、そうだろう? 妖怪相手に気を許しちゃいけないことぐらい、分かってるだろ。
「……」
僕は歩く事に集中する。
神社に着いた。
稲葉のじいちゃんが同行者と何か話しているのが聞こえる。僕は近くの電柱の裏から様子を伺っていた。こういう時、小柄で良かったと心底思う。
提灯のない薄暗い石段の先に、ぽっかりと不自然に浮き出た朱色の鳥居が見える。
あれ、と瞬きをした。
夕日をも遮断する木々の中、鳥居の向こう。ふと、影が濃くなった。人だ。影は一つじゃない。人だけでなく、動物のような影もある。
三年前の妖怪が本当にいるのかどうか、確かめに来ただけだった。神社に行けば、何かしら収獲はあるだろうと踏んでいた。
どうやらそれさえも、一筋縄ではいかないようだ。
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灰色の世界に目が慣れてきて、周りに障害物がないのを確認してから、私は歩き出した。細い道が一本だけ、先に続いている。次第に、導かれるように足が勝手に進むみたいで、なんだか気分が悪かった。立ち止まろうとしても、足は動き続ける。
死神さんと戒里さんはどうなったんだろう。覚えてるのは、直接頭に響いてきたあの妙な音だけ。自分が今どこにいるのかさえ分からない。
私が今するべきことはきっと、死神さんと戒里さんを見つけることしか他にない。
「……だったら、適当に歩いていても意味がないな」
無駄な体力を使うだけだ。仮に歩き続けて彼らを見つけることが出来たとしても、私の体力が残っていなかったら、必ず足手纏いになる。実際、神社では戒里さんの足を引っ張ったのだ。余計なことをしてしまったと反省する。
けれど、そう思うのに、尚も足は動いている。止まらない。
本当に気味が悪いな。何なんだよ。自分の足を見下ろして悪態を吐く。その時だ。
「おねえさん、だあれ? どこ行くの?」
幼げな声だった。舌足らず、という表現の方が正しいかもしれない。道の真ん中に、一人の少女が立っていたのだ。それまで止まる気配のなかった私の足が、ピタリと止まる。
紅色の目をした少女だった。くすんだ色味の小袖からちらと見える、死人と見紛うほどの白い手と足は、立っているのが不思議なくらい細くて、今にも崩れ落ちそうだ。柔らかな少女の髪が力なく垂れ下がる。
「……おねえさんも、答えてくれないのね」
少女が寂しげな表情を見せる。私は何と答えて良いか分からず、眉を下げた。
「まあ、いいわ。それくらい。みんなそうだもの。こんな変な子供と言葉なんて交わしたくないわよね」
自嘲じみた言葉とは裏腹に、少女は晴々とした顔つきになった。ころころと変わる少女の感情についていけない私は、ただ黙って少女の声に耳を傾けていた。
「ねえ、おねえさんはどこに行くつもりなの。言っておくけど、この道に終わりはないわよ。進んでも良いことなんてないし、むしろ後悔する場所が待ち構えてる。……ね、もう一回訊くね。どこに行くの?」
少女が微笑む。どうせ答えないんだろう、という心情が読み取れた。それが少し癪だったので、一言、返した。「私にも分からない」
ぱちくりと、少女が目を瞬かせた。「そうなの」
「あなたは」私も訊いてみた。「あなたは、どうしてここにいるの」
少女はまるで奇妙なものを発見したかのような表情をして、私を見た。その瞳は仄かに翳りがあって、見つめ返しているだけで、無性に胸を掻き立てられそうになる。
「気付いてないの?」少女が言う。「そう、そっか。気付けないんだ。じゃあ、危ないわね」
何だか神経を逆撫でされてるみたいだ。思わずムッとしたが、自分より小さな子供に声を上げるのは大人気ない。
「……」
でも、おかしい。ここは少なくとも、こんな小さな子供がいるような場所じゃない。現実ではあると思うが、夢の可能性もある。そんな異空間だ。
以前も異空間に入ったことがあった。その時も今も故意じゃないけど、きっと今回もその可能性が一番高いだろう。そんな所に、なぜ。私と同じで巻き込まれた? 誘拐という言葉が頭を掠める。いや、そんなはずは……。
「ベニバナサマを探してるんでしょう」
え。思わず少女の顔を凝視した。今、なんて言ったの。どうしてそれをこの子が知ってるんだよ。
「彼女の居場所、知ってるわ。知りたい?」
試すような目が私に注がれた。その紅い目と私の目がかち合った時、少女は笑みを深くし、言った。「こっちよ」
少女が踵を返して歩き出す。足取りは軽やかだった。そんなに知りたいと顔に出ていたのだろうか。いや、そもそもどうしてこの子はベニバナサマの居場所を……?
切りのない疑念を投げかける間もなく、ついて行かなければ、という義務感に駆られ、少女の後を追った。
「こっち」
「もうすぐよ」
「あとちょっと」
時折振り返りながら手招く少女の足に、私は中々追いつけなかった。走ってもいないし、早歩きもしていないのに、少女は早かった。むしろ、歩いているのかも疑問だ。いっそ浮いているのではないかと思ったほどに。
「ここよ」
ただただ平坦な道を悪戯に歩かされている気がして、少女を信じていいものか迷い始めた頃、少女の声がやけに大きく響き、はっとした。
いつの間にか、少女がいない。
その代わり、目の前に小さくひび割れた空間があった。こういうの、空間の裂け目って言うんだろうか。
ここだ、と消えた少女は言っていた。この先に、ベニバナサマがいる。
「……っ」
途端に怖くなってきた。震えさえしない体とは裏腹に、心が寒々としてくる。大丈夫、だよね。殺されたりしないよね?
わなわなと震える指先をひび割れた場所に近付ける。
触れるか触れないかというところで、どんっと背を押された。声を出す暇さえ与えられなかった。手がその空間に入る。手だけじゃない、腕も、足も、胴体も。自分の意思とは関係なく、吸い込まれていく。
誰が? そう思って何とか背後に目をやると、くすんだ色と死人のように白い手が見えた。目の前の色が変わる。暗くなる。完全に体が空間の中へ入った。混乱と動揺と、あと何だろう、もう何が何だか分からない。
「ベニバナサマを……『妾』を助けて」
おねえさん。少女の声が遠く聞こえた。
「……は、関係……元の場所……」
ゆらゆらと水が波紋を広げるみたいに、五感が刺激された。
全身に鳥肌が立つような冷たい空気を感じる。何処からか漂ってくる花の甘い匂いが鼻孔を掠めた。緊張と恐怖と不安の味が舌の上を転がる。誰かの張り詰めた声を拾った。
そして、和服姿の角を生やした男と、一見イタチに見える生き物が私の両目に飛び込む。
「このガキは関係ねェだろォ! 他にも人間を攫ってここに連れてきてるはずだ! そいつらも喰うつもりかァ⁉︎」
怒気を孕む声が鼓膜を力強く振動させる。戒里さんだ。
「貴様、しつこいぞ! 人間もベニバナサマの糧になれるのだ、喜んで
戒里さんと口論しているのは、鎌鼬だった。長く鋭利な爪から、微かに鉄の匂いがする。
まだ意識がはっきりと覚醒しないまま、どういう状況なのかを考える。頭の中がぐちゃぐちゃに荒らされている気分だった。冷静を保とうとしているのに、それを許さないとでも言うのか、次から次へと知らない場所に飛ばされる。もううんざりだ。でも、元はと言えば私から巻き込まれに行ったのだし、私に文句を言う資格はない。
「ンだよ。かみくんは帰らせただろうがァ!」
「全く話の通じん奴め! あの死神は紛い物だろう!? あんな化け物、あの方に捧げられるはずがない!」
死神、化け物と聞こえて、はっと起き上がった。化け物。化け物だって? あの死神さんが? どういう——。
「目ェ、覚めたかァ」
戒里さんの声が私の思考を分断した。彼は私の前を庇うように立つ。対峙している鎌鼬は、戒里さんよりも鬼のような形相でこちらを睨みつけていた。ぞく、と悪寒が走った。
「その娘を寄越せ!」
鎌鼬が爪をこちらに向けた。かと思えば、目にも止まらぬ速さで戒里さんに近づき、大きく腕を振り上げる。そして何度も戒里さんの体を切り裂かんと、爪を振り下ろした。戒里さんが避ければ、避けた方向に爪を向ける。空気を裂く音が伝わってくる。風を伴った鎌鼬が、また宙を蹴った。戒里さんは攻撃しない。鎌鼬の攻撃を回避するだけ。少しして気付いた。どうやら、私の近くに鎌鼬が来ないように、立ち回っているらしかった。鎌鼬には爪という武器があるのに対して、戒里さんは素手、その上病み上がりと来た。
「どうせ逃れられぬッ! 此処はあの方の領域なのだぞ!」
無茶だと思った私の心中を見透かすように、鎌鼬が言った。
「ごちゃごちゃうっせェ! 口を開けばあの方あの方ばっかじゃねェかァ! そんなに好きなら、さっさとそっちに行けばいいだろ?」
わざと煽るような事を口にして、私から気を逸らせようとしてるんだと分かった。治ったばかりの傷が開きかけているのか、戒里さんの顔が少しずつ険しいものに変わってゆく。私を守ろうとしているから、やり返せないのだ。私がいるから。……守ろうとなんてしなくていいのに。
「だからっ。その娘を献上するために此処にいると言っておろうが!」
はっとした。ああ、駄目だ駄目だ。頭を振る。戒里さんは私を守ってくれている。なら、その間に私は現状を把握する必要があるだろう。
まず、整理しないと。
ベニバナサマは戒里さんと私をこの空間に呼んだ。そして今この場において、狙いは私だけ。
神社で鎌鼬は何と言った? 「死神と狐も連れてきおって」「余計な手間をかけさせるな」確か、そう言っていたはず。言葉通りなら、死神さんと宮原先生は彼らにとって邪魔な存在で。戒里さんと私だけが狙われる理由があり、それぞれ別の意図で連れてこられたということになるのだろう。
鎌鼬が今まさに私を狙うのは、私をベニバナサマへと献上するためのようだ。献上という言葉から察するに、恐らく、私は生贄にされるのだろう。
……あれ、ちょっと待って。戒里さんが「他にも人間の子供を攫って」って言ってた……よね? まさか、生贄は私だけじゃない……? 生ぬるい汗が背中に張り付いた。
逃げられない、此処はあの方の領域。鎌鼬はそう言っていた。此処から出るには、以前のように、この空間を作った張本人を説得することが一番安全な方法。だけどそれは不可能だ。ベニバナサマを説得出来る人なんて存在するだろうか?
じゃあ、元の世界からの接触はどうだろう。……駄目だ、こちらから向こうに接触するのは難しい。出口を探すべきか? ここがどんな異空間かも知らずに? リスクが高すぎる。
「——大体、何でこの子を連れてく必要があんだよ? お前らが狙ってんのは……っぶねェ!」
鎌鼬の爪が戒里さんの腕を狙う。間一髪のところで避けた戒里さんだったが、その隙を突いて鎌鼬が突風を巻き起こした。途端に戒里さんの体がぶわっと浮いて、そのまま吹き飛ばされる。
「戒里さん!」
吹き飛ばされた反動で傷が開いたようだ。「気休めだ」と言って包帯を巻いていた戒里さんの笑顔が頭に過ぎる。はだけた和装から覗き見える包帯は、本来の色を失い、真っ赤に染まっていた。血。頭が真っ白になる。
「無様だな、鬼よ!!」
目的を聞いたのがいけなかったのか、鎌鼬が毛を逆立てていた。怒りを通り越して、殺気立っている。足が竦んで動けなくなる前に、私は戒里さんの元へ駆け寄ろうとしたが、「動くんじゃねぇぞォ!」と彼自身に止められた。ピリリとした空気を肌で感じる。彼も怒っているのか。
ひりひりと痛みを感じるような風が私の目の前を横切って、戒里さんを襲う。空中で風に絡め取られた彼を見ることなく、鎌鼬はゆっくりと私に歩み寄る。最早二足歩行に疑念は抱かない。
「暴れてくれるなよ、人間」
鎌鼬の爪が迫ってくる。私は強く目を瞑った。
ふと、花の香りを嗅ぎ取る。その後、いつまで経っても、鋭い痛みも何も襲ってこない事に気付き、目を開けた。鎌鼬が、あらぬ方向を見て動きを止めている。
一体何が、とそこで私は初めて周りに目を走らせた。
此処は、私がいた灰色の世界とは随分と違いがあった。そもそもこの場所は草原じゃない。枯れた花が一輪もなければ、私が歩いていた道も一つさえなかった。地面は土でも草でもなく、冷たいコンクリート。いや、コンクリートでもないかもしれない。けれど、とにかく固い。それに、とにかく広い。此処は、ちゃんとした色があった。
妙に寒々しい空気が頬に触れる。どこかでぽちゃんと水の落ちる音もした。お城にある牢獄のようでもあるし、山奥にある洞窟のようでもある。見上げれば、大きな鳥籠のようなものがいくつも吊られていた。周りのものを確認できるほどの明るさはあるが、どこから光が漏れているのかは分からない。何だか薄気味悪いところだ。
鎌鼬の視線の先には、何もないように思えた。でも、鎌鼬は食い入るようにその一点を見つめ続けている。
「おい、無事かァ?!」
いつの間にか風の呪縛から逃れた戒里さんが、これまたいつの間にか私を抱えて、鎌鼬と距離をとった。それでも鎌鼬は動かない。何が起きているの? そう思った刹那、妙な音が辺りに響いた。
からん、からん。しゃらん、しゃらん。
この音は……どうやら、私以外にも聞こえているようだ。私は戒里さんと一緒に警戒態勢に入る。
「あの方が……」鎌鼬が呟く。
からん、からん。しゃらん、しゃらん。
誰もいないのに。何も近付いて来ているように感じないのに、足音がした。決して荒々しいものではなく、とても優美な音だ。
『妾を助けて』
こんな時に、何故か少女の声が蘇った。
あの子が何者か分からないままだ。連れてこられたにしては、随分とのんびりしていた。そのくせ、子供らしからぬ大人びた雰囲気を纏っていた。紅い目と白い手。歴史の教科書に載っていそうな古いくすんだ色の小袖。人間か人外かも分からない子。
からん、からん。しゃらん、しゃらん。
音が鳴る。
そういえばあの子、言ってた。ベニバナサマを探してるんでしょう?って。彼女の居場所、知ってるわって。そうして着いたのが、今の場所。
「まさか」
嫌な予感がした。
「あの方がいらっしゃった!!」
鎌鼬の声が弾む一方で、私は顔色を悪くした。何もないその空間に、人影が揺れる。
「喧しいのう。何をそんなに騒いでおるのじゃ」
凛とした声。十二単のような華やかな服装。赤い花が咲き乱れた柄だ。柔らかな髪や唇が紅色に染まっている。そして一つだけ、大きな角があった。
現れた彼女のふわっと欠伸をする姿に見惚れそうになり、慌てて瞬きをした。美しい人だと思ったが、遠目からでも、少し開いた彼女の口に牙が見えた。鬼女という言葉が頭を掠める。
「申し訳ありません! 生贄に抵抗され、やむなく!」
鎌鼬は彼女の足元で頭を垂れた。
「なるほどのう。道理で。美味そうな匂いがすると思うた」
微笑みながら細められた紅い目は、容赦なく私を射抜く。体が動かなかった。
美しい女の姿をした鬼。彼女こそが紅花神社の主であり、この異空間の創設者————ベニバナサマ。
☆ ☆ ☆
稲葉のじいちゃんを筆頭に、同行者たちが次々と石段を登る。僕はまだ電柱の影に隠れていた。
神社には誰かがいる。妖怪の可能性が高い。だけど当然ながら、稲葉のじいちゃんたちは、それに気づいていないようだった。どうすればいい。止めるべきか? いや、止めるにしたってこれという方法が思いつかない。何かで気を引くことも難しいだろう。下手に動けば、見つかって「早く帰れ」と言われるのがオチだ。かといって事情を話すわけにもいかない。……有無を言わせぬような語気の強さでいけば、何とかなるか?
稲葉のじいちゃんが残り少ない石段の上を踏みしめる。鳥居はもう目前だ。
最早、迷ってる暇はない。
僕は電柱の影から飛び出して、石段の前で立ち止まる。少しだけ乱れた呼気を整え、僕はすうっと空気を吸い込んだ。そして。
「おーーーーーいッ!!」
僕は声を大にして叫んだ。合唱祭でも出さないほどの声だった。自分でもそんな大声だ出たのかと驚いた。しかし、流石に近所迷惑を考える余裕はなかった。
「な、なんだ!?」
「どうした!?」
何事かとみんなが揃って足を止め、振り返った。僕の方へ多くの視線が集まったのを感じつつ、ここからどうするか、ひたすら思考する。
とりあえずみんなの足を止めることは出来た。次は神社から離れさせる方法だ。妖怪たちにはまだ気取られていないはず。その証拠にまだ襲ってこない。
「……坊主、一翔くんか!? どうしてここに……春樹たちと帰ったんじゃなかったのかあ!?」
稲葉のじいちゃんが僕の姿を認め、僕に負けず劣らない声を出した。石段を下りてくる。すると他のみんなも「そうだ、そうだ」「何でここにいる」「子供は危ないだろ」と稲葉のじいちゃんに倣って、石段を下りる。
僕は小さく息を吐いた。なんだ。思考する必要はなかったみたいだ。みんな、鳥居から離れていく。
「まさか、何かあったのかあ!?」
両肩を強く掴まれる。稲葉のじいちゃんの珍しくも切羽詰まった声が耳に入った。焦り一色に染めたその表情を見て、何も悪い事はしていないはずなのに、ちくりと罪悪感が胸を刺す。
「あ、えっと」
言うんだ。何かあったことにして、みんなを神社から引き離すんだ。鳥居から離れたと言っても、まだ油断は出来ない。
「……っ、……」
そう思うのに、言葉が、外へ出るのを嫌がった。そのうち、段々と口の中が乾いていく。自身の唇は硬く結ばれ、中々開いてくれない。
稲葉のじいちゃんは僕の言葉を待っている。「何もなかった」という言葉を。こんな非常事態だ。稲葉たちの無事を確認して、早く安心したいに決まっている。
そんな人に嘘を告げるのか。騙すような真似までするというのか。
「一翔くん、どうした!?」
気遣わしげに呼びかける稲葉のじいちゃんを、両目に映した。
言わないといけない。早く。妖怪に見つかる前に。早く、嘘を。
「——何も」
口が勝手に動く。
「何も、ありませんでした。僕が勝手に来ちゃったんです」
俯いて、唇を噛んだ。掌に爪が食い込むくらい、強く拳を握る。息を吹き返したみたいに、唾液が舌の上に転がる。嘘を吐けなかった想いと共に、全て呑み込んだ。
「勝手に……春樹じゃなくて、一翔くんが?」
「ごめんなさい」
肩から温もりが消えた。顔を上げると、困った顔をした稲葉のじいちゃんがいた。
「子供は危ないから帰したというのに。バカな孫に似たのかねえ」
呆れたように笑う。僕も笑って誤魔化そうとしたが、途中で我に返る。
「お願いがあるんです」
僕は詳しい事情は何も話さず、ただ、神社には行かないでほしいと訴えた。当然、稲葉のじいちゃんだけでなく、周りの人達もみんな訝しんでいた。
「お願いします。神社には行かないでほしいんです」
それを繰り返した。だけど、根負けするほど、この街の人は押しに弱くない。何故だどうしてだと口にする者もいれば、何も言わないけど、表情が不満そうな者もいた。
「神社には行かないでください」
頭を下げた。本当に、僕はそれしか出来なかった。神社には行かないでくれ。あの朱い鳥居をくぐらないでくれ。くぐったら、もう。
お願いだ、稲葉のじいちゃん。
体を起こして、目の前の面々を見つめた。
空に、暗澹たる濃紺のカーテンが引かれる。夕日は沈んだ。夜の到来。いつの間にか、月が出ていた。満月になりきれていない、まるで中途半端な、欠けた月。足元を小さな妖怪が幾人か通りがかった。これから、彼らの時間が来る。いや、もうすでに来てしまった。
稲葉のじいちゃんが僕の目を見て、口を開きかける。だが、僕はもう手遅れだと気付いた。
猫が現れた。
「小僧」
石段の上に鎮座し、喋る。二つの尾が気怠げに動いている。愛らしくも見えるその姿に、僕は絶望にも似た気持ちを抱いた。
「い、稲葉のじいちゃん! 早くここから逃げよう!」
手を掴んで無理矢理にでも神社から距離を取ろうと画策するが、神社に背を向けた瞬間、眼前に猫又がいた。
「なんで……」
呆然とする僕に、猫又は言った。
「逃れられぬ。お前はもう、あの方の食糧であるぞ」
カッと頭に血が上った。だけど、結局何も言えなくて。稲葉のじいちゃんから、そっと手を離した。悔しくても、拳を握る力さえ出せなかった。
まるで呪いだ。三年前から続く、忌々しい呪い。『喰うてやる』そう言った妖怪の声がずっと頭の中にこびり付いて、消えない。『逃げられぬ』そう言う猫又の言葉が、全身の力を奪っていく。
僕はせめてもの抵抗で、猫又を睨みつけた。それでも目の前の敵は飄々としている。その事実が気に食わない。恨めしい。何も出来ない非力な自分が腹立たしい。
「どうしたんだ?」
「急に黙って、なにか気になることでも」
「夜が怖くなったか。まだ子供だしな」
困惑した言葉が口々に囁かれる。稲葉のじいちゃんが「一翔くん?」と躊躇いがちに呼んだ。それを背に、僕は猫又から目を離さないように気を張る。
「ふむ」不意に、猫又が冷めた目で僕の後ろに目をやった。「邪魔だな」
何が、なんて言われなくても分かった。血の気が引く。強がっていても、僕はやっぱり怖いらしい。
「そうさな。小僧、取引をせぬか」愉快だとでも言いたげに、尻尾を揺らす。
「……何を、言ってるんだ」小さな声で返した。
「お前をあの方の元へ連れてゆく。逆らえば後ろの人間は皆殺しだ。だが、抵抗せぬというならば、人間どもには手を出さぬ。お前は大人しく私について来れば良い。どうだ。悪くない取引だと思うが」
信じられるわけがない。
そう思った僕を嘲るように、猫又が言う。
「信じずとも良い。お前が私に従わず、逃げるというのなら、それはそれで私がそこの者どもを片付けるだけのこと。人間がどうなろうと、私は痛くも痒くもないのだから」
そりゃそうだ。妖怪は人じゃない。人の心を理解出来ないのだ。
「だがよく考えるのだ、小僧。お前は大切なのだろう?」
……だからこうやって、簡単に言ってのけるんだ。人間の僕にとって、それがどれだけ覚悟のいるものなのかも知らずに。
「どうする、人間」
ああ、本当に、腹立たしい。足掻こうと藻がいて見せても、ついには大嫌いな妖怪の言う通りにしないと、僕は何も守れない。
僕は猫又を睨みながら、口を開く。
「わかっ……」
言い切る前に、僕の目が黒い羽を捉えた。ひらりひらり。落ちていく。
バサッと羽を広げる音がした。
「そこまでだ。月森、猫又」
錫杖が地面を突く。かつんと小気味いい音を鳴らすその人を、僕はきっと呆けた顔で見ていたに違いない。
「眠れ」
背後から、もう一つの声。振り返ると、鳥居の前で稲葉のじいちゃんたちに手を翳す女性の姿があった。九つの尾と耳がピクリと動く。「少しの間でいい、眠れ」
稲葉のじいちゃんが倒れた。他のみんなも、次々と意識を失っていく。よく見れば、みんな穏やかな寝息を立てていた。どうやら眠っているだけのようだ。
「去ね。猫又」
聞いたこともない、鋭い声音だった。
「断ると言えば」
猫又はどこまでも面白がる。
「オレは容赦しないぞ」
「ならば争うか? あの方にとって、お前たちは邪魔な存在。今此処で始末するのもやぶさかではない」
双方の瞳が怪しく光った。
「月森」夜雨さんが言う。「下がるんだ」
「な、どうして! こいつの狙いは!」
「分かっている! だから下がれと言っているんだ!」
「……っ、分かってないだろ!」
猫又の狙いは僕。僕が行けば、街のみんなは守れるんだ。どうして僕が下がる必要がある?
「君を守れるか分からない。いいから下がれ!」
夜雨さんは頑として僕の前から退かない。猫又はそんな夜雨さんを一瞥し、その背にいる僕へ視線を送った。猫又の目は爛々と不気味に光っており、その口許には歪な笑みが作られていた。
「お前は何も守れぬよ」
猫又が僕に向かって言ってることは明白だった。当然、僕は言い返すつもりだった。しかし、ふと、ある事に気付いて、僕は茫然とした。
——たとえ自分自身を犠牲にしてでも、この街のみんなを守る気でいた。三年前からずっと、そう思ってきた。だって、それが今の僕に出来る唯一のことで、何かを守ることは、三年前弟を助けられなかった贖罪でもあったから。
だから、いざという時は、覚悟を決めようとしていた。そしてその時は訪れた。不名誉かつ不本意ながら、その機会を猫又に与えられたのだ。
だけど、今の僕は何をしている? 後ろに宮原先生が、前には夜雨さんが。その間に立ち、庇われている僕は何なんだ? 一体何をした? 何が出来たと言うのだ。
「……っ」
息が詰まる、胸が苦しい。気付きたくなかった事に、気付いてしまった。
この身を賭してまで街の人を守ろうとした。その『僕』は、確かに今もここに居るのに。……ここに、居る、はずなのに————
自分を奮い立たせるために、力の入っていなかった手で拳を作ろうとした。が、もう駄目だった。
僕は無力だ。
「烏天狗よ、遅かったみたいだな」
猫又はせせら嗤う。
「なに? どう言う意味だ」
「あの方の思惑通り、小僧は堕ちた。少し言葉を交わすだけで折れるとは、心も体も脆弱なようだ。あの日と変わらぬ」
「何を言って……まさか!」
此方を向いた夜雨さんの瞳の中に、僕が映っていた。僕がどんな表情をしているのか、自分でも分からなかった。夜雨さんには僕の表情が見えているだろうか。僕は、どんな顔をしている? あれ。何故、夜雨さんがそんな顔をするんだ。
わからない。……わからないんだよ。
上手く思考が働いてくれない。視界が霞んできた。からん、からん。しゃらん、しゃらん。甘美な音がする。次いで、花の香りが鼻腔を擽った。鼻までおかしくなったみたいだ。周りに、花なんてなかったのに。
「「月森!!」」
夜雨さんがこちらに手を伸ばしてくるのが、なんとなく見えた。宮原先生の声が、さっきよりも近いところで聞こえた。
「小僧、行くぞ」
猫又の姿が消える。
「待て、猫又!」
宮原先生が叫んだ。
「くそっ——早く手を! このままじゃ連れていかれる!! オレは今そこには!」
夜雨さんも声を張っていた。
何だろうな。不思議と、手を取ろうとは思わなかった。なんだか何もかもどうでも良くなってしまった気分だ。何も出来ない自分。何も守れない自分。守られるだけの、弱い僕。……そんなの、要らない。
伸ばされた手をぼんやりと見つめる。そして、思った。
——今更、その手を取ったところで、何になる。
「聞こえてるのか、月森!」
夜の帳が下りた、石段の下。黒い空に半端な月が浮かんでいる。中途半端なのは、僕も同じだ。
僕は、空間へと呑まれていく感覚に身を委ねた。
暗転。もう何も見えやしない。
* * *
「離せよ、ルカ!」
鳥居から連なっている石段の下で、何やら不穏な話し声がしたかと思えば、月森が妖怪に連れて行かれそうになっていた。死神さんが妙な空間から出てきて、一時間も経っていない時のことだった。俺達は雨水さんと戒里さんを助ける方法について話し合っていたため、神社付近で起こっている非常事態に気付くのが遅くなったのだ。もう一つ気付くのが遅くなった理由を言えば、ルカと死神さんがまたもや挙げ足取りの言い争いをしていたからである。
「離しませんよ! 月森さんはもう手遅れです!」
「んなことねえっ」
「波瑠さん!」
強く腕を掴まれ、そのまま境内の奥へと連れられる。鳥居から遠ざけられる直前、見えたのは、月森の姿が何もない空間に消えたところだった。月森は海中に沈むみたいに、居なくなった。
「なんで……なんで止めんだよ!」
俺はルカに噛み付いた。
「波瑠さん。落ち着いて。言ったでしょう、手遅れですよ。波瑠さんが駆け付けたところで……」
「それでも!」
これといった感情を伴わない、至って平坦なルカの声を遮った。
「それでも、助けたかったんだ……!」
近くにいたのに。
もちろん、やけに冷たいルカの態度が誰を思ってなのかは知ってるし、俺も出来る事なら危ない事はしたくねえ。だけど、この状況を見過ごすことなんて俺には出来なかった。
もうあの人達とは関わらないと決めた。……キーホルダーだって捨てた。ルカは、その俺の気持ちを尊重しようとしてくれている。だから神社に来る時も止めてくれた。今もそうだ。
案の定ルカは困った顔をしていた。掴んでいた俺の腕を離す。そして今度は俺の両肩に手を置いて、言った。
「波瑠さんが彼らを想っている事は分かります。助けたいと思う波瑠さんの気持ちも理解し得ます」
ですが、と言葉を続ける。
「貴女は、ただの人間なのですよ」
ざあっと音を立てて、風が吹いた。
「作戦を立てよう」
月森が連れて行かれたあと、呆然としていた夜野先生と狐が境内に踏み込み、開口一番にそう言った。彼らの顔はこれでもかというくらい暗かった。
「雨水に戒里、それに月森まで……。こうなるなら、もっと早くに手を打つべきだった」
宮原先生の姿を形作った狐は、「巻き込んですまないね。佐々木」と無理矢理に笑みを作った。狐が宮原先生だと知っても、俺は驚かなかった。そんな場合じゃないと割り切った。先生も心中穏やかではないはずだ。
「死神、もう一度戒里と雨水の事を聞かせてくれ」
社の前に立ち、こちらに背を向けていた死神さんは、夜野先生の方に向き直った。死神さんの顔も心なしか険しい。
「……狐のキミが神社を去ってから、沙夜の様子がおかしくなったんだ。急に、体の力が抜けたみたいで、気を失った」
死神さんは目を閉じて、その時の出来事を反芻した。
「沙夜が眠ってしまった事には直ぐに気が付いたよ。だけど、気付いた時にはもう遅かった。猫又と鎌鼬の姿がなくなって、代わりに、何もない空間から黒い穴が現れた。ボクも戒クンも抵抗する間もなく、そのまま穴に吸い込まれたよ」
黒い穴。それは死神さんと一緒に神社に現れた、あの。
「幸い、ボクと戒クンは沙夜みたいに気を失う事はなかった。だけど、鎌鼬が目の前にいた」
死神さんが憎々しげに吐き出す。
「あいつ、ボクを見て『邪魔者も連れてきてしまった』って言ったんだ。『これではあの方に叱られる!』とも喚いていたね。かと思えば、沙夜を見るなり『美味そうだ』とかほざいてたよ。まあ、その後は知っての通り、異空間から強制的に追い出された」
俺は眉を顰めた。
死神さんの話を聞くのは二度目。しかし「美味そうだ」という言葉を聞く度に悪い想像が浮かぶから、俺は心の中で舌打ちをした。
まさか、ベニバナサマは雨水さんたちを食べるつもりなのだろうか。
「ありがとう、礼を言う」
言いながら、夜野先生も顰めっ面をしている。
「それで? どうするつもりなの?」
「その事なんだが……これを使って異空間に行けないだろうか」
そう言って夜野先生が懐から取り出したのは、以前戒里さんが持っていたあの『瞬間移動が出来るやつ』。
「創られた異空間に、外部から接触するのは難しい。だが、あちらから出口を探すのは極めて困難だろう。だからといって、これが使えるかどうかも試してみないと分からないが」
「じゃあ試すよ」
「あ、ああ」
死神さんの気迫に押されたのが後押しとなったのか、夜野先生は先程の暗い顔を取っ払った。
「ならば二手に分かれよう。異空間に向かう者と、此処に残る者」
「それなら、あたしは此処に残るよ。石段の前で人を眠らせたままだし、何より、別途であちらに行けるかもしれない」
「確かにそうだが、お前はあちらを頼む。オレが此処に残ろう」
「どうして?」
「少し気になることがあってな」
とんとん拍子に進む宮原先生と夜野先生の会話。不意に、夜野先生が俺に呼びかけた。
「佐々木、君も此処に残るんだ」
「やっぱり、駄目ですか」
決して、行く気満々だったわけではない。行けたら行きたいという程度だ。だが夜野先生はそんな俺を見て、行きかねないと思ったのだろう。
「当たり前だろう!」
境内に響き渡るくらい大きな声だった。ビクッと肩が揺れた。
「君は人間の子供だ。場合によっては、死ぬかもしれない。ただでさえ相手は見境なしに人を襲う妖だ」
「それに、鬼の戒里でさえ手こずった相手でもあるよ」
続いて、宮原先生が言った。腕を組み、昏い色を潜めた目。宮原先生は下唇を噛む。
「巻き込んでしまったのは申し訳ないと思ってるよ。君を此処に連れてくるつもりはなかった。だけど、いや。だからこそ、佐々木まで危険な轍を踏む必要はないんだ」
子供だから、人間だから。今日一日で、何度も聞いたような気さえする。……それほど、巻き込みたくないのか? いや、それはそうか。先生達にとって雨水さんや月森が『あちら』に連れて行かれたのは、きっと予想外のこと。ここで俺が妙に動くと、俺までもが『あちら』に連れて行かれるかもしれねえ。万が一そうなってしまうと、ベニバナサマが有利になる可能性も。二度とこちらに戻ってこられないなんてこともあり得る話だ。
でも。
「もう、雨水さんも月森も巻き込まれてる」
助けたいと心底思う。俺だけが安全な場所にいていいはずがない。二人の今の状況を知ってなお、俺だけが、逃げていいはずがない。自分でもびっくりするほど、俺はあの二人を大切に思ってるらしい。
自分から捨てたのにな。
「いけませんよ、波瑠さん」
湖面の揺れを止めてしまうような、冷たく響くルカの声。夜野先生と宮原先生に顔を向けていた俺は、隣に居るルカの顔が見れなくて、俯く。ルカが苛立っている。初めてのことだ。しんと静まり返った境内に、再びルカの声が響く。
「貴女は此処に残るべきです。十年とそこらしか生きていない子供が、人喰いが居る異空間に行く? 私は呆れましたよ。貴女がそこまで自らの命に鈍感だとは」
「……ルカ」
「言ったでしょう。貴女は、魔法や術が使えるわけでもない、ただの人間です。異空間に行ったところで、波瑠さんに出来ることは限られています」
それは……。
反論の余地もなかった。黙り込む俺に、ルカは気遣うような視線を送る。しかしそれも一瞬という僅かなもので、ルカは夜野先生達と作戦の続きを立てましょうと話を戻した。
「此処に残るのは私と波瑠さんと夜野さん。あちらに行くのは宮原さんと死神。で、よろしいですね」
「そうだな」と夜野先生。
「問題ないよ」と宮原先生。
「ボクはあっちなの? また戻って来るかもしれないよ」と死神さん。
「ご冗談を。あの少女を助けたくて仕方がないのでしょう」とルカ。
方針は決まったようだ。
「頼むぞ」
夜野先生が宮原先生に例の物を手渡す。その横に立つ死神さんは未だにルカと笑顔で睨み合っていた。
俺は、どうすればいいんだろう。見ているだけで何もできないなんて嫌だ。
夜野先生が『瞬間移動が出来るやつ』の操作を宮原先生に教えている。宮原先生は使い方に慣れていないらしく、少々手間取っていたが、その時間も終わりを迎えた。
宮原先生と死神さんの足元に、魔法陣のような模様が浮き出た。そして、それは青い光を放ち始める。眩しくて、目を開けているのが辛かった。目を閉じる。
ふっと周囲から光がなくなったのを感じ取り、目を開けた。唯一、月明かりだけが境内を照らしている。目の前に、二人の姿はなかった。
3
# # #
ベニバナサマ。寂れた住宅街の紅花神社に住まう主。美しい姿で人を惑わす鬼女。
私と戒里さんを異空間に招いた張本人は、目の前で白い牙を見せながら、微笑んでいた。
「して、そなたの名はなんじゃ?」
彼女のおぞましいほどに紅い瞳は、戒里さんに抱えられたままの私を映している。
「おい、名前を答えるなよ。帰れなくなるかもしれねェからな」
戒里さんがとても小さな声で忠告した。何が何だか分からなかったが、とりあえずコクリと頷く。でも、名乗らないままだと却って怒りを買うのでは? 偽名でも何でも言ったほうが……。私の考えを読んだのか、はたまた、単純に心配したのか。戒里さんが私の口を手で塞ぐ。その途端、味わったことのない凍てついた視線が私に注がれた。ベニバナサマの目が心なしか怒りに満ちているように見えるのは、私の気のせいではないはずだ。憎悪と言っても過言ではないくらいの空気に刺されている気分だった。
名乗らなかっただけでここまで怒るとは思っても見なかった。油断しようものなら、即座に喉を掻き切られそうだ。実際に想像してしまい、顔が真っ青になった。
「如何致しましょうか?」
鎌鼬が丁寧な口調で尋ねる。私からベニバナサマの視線が外れた。さっき体感した恐怖が凪いでいく。
勘弁してほしい。こんな所に長居したら、私の心臓がもたない。
「小娘のみ格子牢に連れてゆけ。そなたに鬼の相手はしんどかろう。牢の見張りも忘れぬようにな」
「はっ。仰せのままに」
再びベニバナサマの目が私に向いた。それと同時に、頭の中で音が響く。からん、からん。しゃらん、しゃらん。またこの音だ。次第に瞼が重くなる。
「お、おい! 寝るんじゃねェ!」
慌てた戒里さんが私に声をかける。だけど、今度も私は容易く意識を失ってしまうのだった。
「うぅ、ひっく」
少女の啜り泣く声が鼓膜を揺らす。いつの間にか、私は洞窟の中で立っていた。ポチャンと水音が響く。何だか先ほどいた場所に似ている。流石に、鳥籠はないが。
「ぐすっ」
また泣いている声が聞こえた。一体どこから? キョロキョロと首を動かして見渡す。
「ひっく、う、うぅ」
——あ。いた。見つけたのは、こちらに背を向ける形でうずくまっている少女。
「どうして」
少女の元へ一歩踏み出す。しかし私はその一歩で立ち止まった。突然、少女が振り返ったからだ。
「どうして、わたしなの?」
少女の目は深い悲しみに満ち満ちている。両目から溢れる涙を手で拭い続けていたのだろう、目元が真っ赤に腫れ上がっている。痛々しい、と思った。
「どうして、わたしだったの?」
少女が問う。けれど、私に答えを求めているようには見えなかった。言うなれば自問自答。少女の顔色はすこぶる悪い。まるで、死んでいるような……なんて、何を縁起でもないことを。
「どうして」
繰り返しぽつりと零れた言葉。私は、少女の目線に合わせて膝をついた。少女の目に私ははっきりと映り込んでいる。でも、少女は変わらず、虚ろに言葉を落とす。
「わたしだけ、どうしてこんな目に遭うの。どうして。どうして……」
壊れたように涙を流す少女の様子に、既視感を覚える。
赤ん坊のように声を上げて泣くことが出来ず、これでもかと声を押し殺し、それでも、両目から流れるものはどうしたって止められない。——その姿を、私は嫌と言うほど知っていた。
「……泣かないで」
知らぬ間に、私の口が言葉を紡いでいた。そこで初めて、少女の言葉が途切れる。
「泣かないで」
壊れ物を扱うように、少女を優しく抱きしめた。
「——おねえさん、だあれ?」
その言葉が引き金となって、脳裏にくすんだ色味の小袖を着た少女の姿が過ぎった。血の気の引いた白い肌。そして、ベニバナサマと同じ紅い目。
私が今抱きしめてるこの子は、あの少女とそっくりな姿をしていた。
けれど、そんなことはどうでも良かった。ただ、泣き止んでほしい。縋るような目を、私に見せないで欲しい。それに誘発されて、余計なことを思い出してしまいそうだから。
たったそれだけの燻った想いで、私は突き動かされていた。
「泣かないで」
私は再三、口を開く。少女は依然と涙で頬を濡らしたまま。
「それなら、ずっと傍に居て。……わたしを独りにしないで」
そう言う少女の涙を親指で拭い、私は————
——気が付くと、冷たい牢の中で横たわっていた。パチパチ。二、三度瞬きをする。頬が痛い。固い石の上にいたからだ。のろのろと上体を起こし、目だけで周囲を確認する。
洞窟なんて、どこにも見当たらなかった。眼前にあるのは格子状の囲いだけ。少女も居なかった。
「……ゆ、め……?」
音にならないほど、自分の声は掠れていた。普通に声を出そうとすると、喉が痛い。落ち着くまで無理に喋らない方が良さそうだ。
妙な夢を見た。それだけなら良いが、どうもただの夢のように思えない。何かの暗示だろうか?
「起きたか、人間」
格子の向こう側は通路だったようだ。暗くて気付かなかった。通路には、鎌鼬が立っていた。鋭い爪がきらりと光ったような気がして、私は無言で通路から距離をとる。
「恐怖で声も出ないか。いい気味だな」
鎌鼬は嬉しそうだ。いい気味と言われて少しムッとしたが、まあいい。それより戒里さんは大丈夫だろうか。ベニバナサマは戒里さんが封印される原因となった妖怪。そして月森君を襲った妖怪でもある。戒里さんの傷が悪化してしまったことも心配だ。宮原先生も「戒里はベニバナサマを恨んでるから、暴走しないか心配だ」とボヤいていた。戒里さんが、トランプの強い死神さんに対抗して、二人だけでババ抜きをしていた時のことだ。だから、宮原先生の心配は私しか聞いていなかっただろう。
恨みは人を変えてしまうことがある。宮原先生はそれを危惧してるのだ。
「人間、名は何という?」
「う……」
咄嗟に名乗ってしまいそうになり、開きかけた口を素早く閉じた。確か、名前を教えたら元の世界に帰れなくなるかもしれないんだっけ。危なかった。
「……簡単に口を割らない、とでも言いたげであるな」
鎌鼬が苛立ちをぶつけるように格子を叩いた。ガシャんと派手な音がする。
「せいぜい残り僅かな命を惜しむといい。お前のような小娘、誰も助けには来まい」
敵意剥き出しの彼に、私はひたすら心の中で「どっか行け」と唱えた。格子が私達の間を隔ててるおかげで、鎌鼬を怖がる必要はなかった。それに私がベニバナサマの生贄ならば、鎌鼬は手を出せないはず。
大丈夫。怖くなんかない。大丈夫。——まだ、大丈夫だから。
鎌鼬も私も無言で、お互いが睨み合うように対峙していたあるとき。私がいる場所からは見えないが、キィと扉の開く音が聞こえた。誰かが来た。思わず身を固める。
「鎌鼬、この小僧の見張りを任せた」
「な、上手くいったのか!?」
「何、造作もないことよ。人間とは斯くも弱いものだな」
鎌鼬の会話からして、扉を開けたのは妖怪のようだ。ベニバナサマの眷属が何人いるのか分からないが、私が知ってる鎌鼬と猫又は側近的立場だと思う。
じゃあ、今鎌鼬がタメ口だったってことは、つまり。扉を開けたのは、猫又?
「小娘は捕まえたのであろうな」
「勿論だとも。舐めてもらっては困るぞ、猫又よ」
こっちだ、と鎌鼬が手招きをする。視界の端に、二つの尾を揺らす猫又の姿が見えた。そして、他にもう一人。猫又の隣に立つ少年の姿もあった。
「つ、きもり、くん……?」
私は目を見開いた。
何で月森君が猫又と一緒に? そっち側なの? まさか。そんなのあり得ない。月森君はベニバナサマに狙われて……、今回もそれを防ぐために戒里さんが秘密裏に動いていて、でも、月森君は格子の向こうに居て?
混乱したまま、通路の方へ駆け寄った。
「月森君!」
格子を掴む。
「ぎゃっ!」
鎌鼬が短い悲鳴を上げた。今まで無言だった私が一際大きな声を出したから、吃驚したのだろう。私はそれにも構わず、月森君の様子を確認する。
本当はそっち側の人間で、私と顔を合わせるのはバツが悪いとかだったら、どうしよう。そう思ったが、それは違うようだと悟った。
月森君の目は虚ろで、意識もはっきりしてないのか、ずっとぼんやりしている。まるで操られた意思のない人形だ。端的に言えば、様子がおかしかった。
「月森君に、何したんですか」
私の声は震えていただろう。その震えが怯えからなのか、怒りからなのか、混乱からなのか。私には、分からなかった。
「小娘如きに教える義理はない」
猫又は私のことを一度も見なかった。月森君を鎌鼬に託すと、黙ってここを去っていく。私は非難めいた視線を猫又に送った。が、勿論、猫又はその間も振り返ることはなかった。
鎌鼬は極度の人間嫌いだと思ったけれど、猫又の方がよっぽど酷い。格子を掴む手に力が籠る。
「人間、離れろ。小僧もここに入れる」
言いながら鎌鼬は月森君の首元に長い爪を立てた。言う事を聞かなければ、月森君を殺すと言っているようなものだった。私は言われた通り、壁に背がつくまで後退る。瞬間、強い風が吹く。風が止んだ頃には、月森君は私と同じ牢の中にいた。一体いつの間に? 鍵を開けた音も聞こえなかった。そもそも、この格子牢に鍵があるのかさえも分からない。確かめようにも、鍵穴らしきものは見当たらないし、鎌鼬が鍵を持っているようにも見えない。
「……」
助けを待つしかないのか。いきなり、虚無感が胸の内に広がった。
虚ろな目をしていた月森君は、今は目を閉じて静かに寝息を立てている。
戒里さんのことも気になるが、私はとりあえず、月森君が目を覚ますまで傍にいることにした。鎌鼬は見張りに徹している。
☆ ☆ ☆
幼い頃から、人でないものが見えた。あやかし、妖怪、物の怪。呼び方はそれぞれだが、それらの存在は、まやかしではなかった。少なくとも、僕の世界は妖怪がいることを含めて成り立っていた。
初めは見えることを隠していなかった。僕の見える世界は、当然、皆と同じものだと思い込んでいたからだ。だから、外に出かけた時、電柱の影にいる一つ目小僧とか、律儀に手を挙げて横断歩道を渡るモジャモジャの謎生物とか、そういうことも当たり前だと思っていた。年に数回現れる魚っぽいものが空を泳いでいたりしても、僕にとってはそれが日常だったのだ。時々巨体な妖怪らに追いかけられたり、怪我をしそうになったりはしたけど、それも普通だと思っていた。
自覚したのは、幼稚園を卒園して小学一年生の頃。きっかけとなったのは、いつも通り、朝起きて学校に登校し、昼休みになった時のこと。
「あれ?」
僕はある事に気づいて、首を傾げた。
「どうした?」
友達が、会話の途中で言葉を止めた僕を不思議がる。僕は斜め前の席を指さして、言った。
「あの子、転校生? あそこの席、前から空席だったよね」
空気が凍った気がした。友達は怪訝な顔をして首を振る。「転校生なんて来てねえよ」
「え。でも、そこに」
確かに人がいた。僕より少し小柄な男の子が、一人で俯いて座っている。
「あの男の子、一人ぼっちだよ。何で誰も話しかけないの?」
僕行ってくる、と席を立つ。その手を友達に掴まれたので、今度は僕が友達を不思議がった。
友達は怒ったように顰めっ面をしていた。いや、本当に怒っていた。
「かける、何でそんなウソ言うんだよ。おれがお化けとか苦手なの知ってるだろ」
「う、うん」
「知ってるのに、何でウソつくんだよ」
「ウソ? ちがうよ。だってあの子はクラスメイトでしょ」
その瞬間、友達の顔が歪んだ。
「あの子って誰だよ! その席はずっと誰もいねえよ!」
以降、そんなことが何回か続いた。その時友達が叫ぶ以前からも、僕は変なことを言っていたそうだ。その内、僕は周りから「ウソつき」と呼ばれ始め、しまいには先生からも「ウソはいけません!」と怒られるようになった。
本当のことしか言っていない。お化けが苦手な友達を怖がらせようと思ったわけでもない。そう抗議しても、「あそこに男の子がいる」と言った僕の発言は消えない。そうなることが決定していたみたいに、僕の言い分は誰にも信じてもらえなかった。
次第に僕は理解した。僕が見ている世界は、皆とかけ離れている。皆の世界に妖怪の存在はない。けれど、悟って仕舞えば、次の行動を決めるのは容易かった。信頼を取り戻すには、誠意を見せればいい。相手の望む通りの誠意を。そこに僕の気持ちが介在していなくても、最早関係なかった。
そうは言っても、その時の僕はまだ妖怪に対して強い憎悪を抱いてはいなかった。襲ってくるやつは嫌いだったが、戯れにくるだけの害のない低級妖怪は嫌いじゃなかった。むしろ僕から関わりに行っていた。モジャモジャ姿の小さな妖怪は特に愛らしかった。
僕がそのモジャモジャでさえ憎み始めたのは、やはり、あの日からだ。今から遡って三年前。
「兄ちゃん! こっちでサッカーしようぜ!」
「ちょ、輝汐兄! ずるい。一翔兄はぼくとシーソーするんだよ!」
あの頃の僕は、弟達とよく公園で遊んでいた。球技が好きな輝汐はサッカーやキャチボールを。落ち着いた遊びが好きな浩太は、シーソーやブランコ二人乗りを希望することが多かった。そして、一通り遊び終わると、今度は二人とも息を合わせて鬼ごっこやかくれんぼをやりたがる。それの繰り返しを過ごす日々だった。「ウソつき」と呼ばれることもなくなって、平穏に過ごしていた。
かくれんぼをしようと言い出したのは、浩太だった。
「鬼ごっこは疲れるからイヤ」
いつもは鬼ごっこを提案する輝汐も少し疲れていたのか、浩太に賛同する。
「じゃあ僕が鬼をやるよ。六十秒数えるから、その間に隠れるんだぞ」
「「はーい」」
公園の木に顔を伏せて、目を瞑って数え始める。公園はそれほど広くないし、六十秒もあれば十分隠れることは出来るだろう。
「——兄ちゃん!!」
僕が六十秒を数え終わり、さあ探そうと目を開けたところ、ちょうど、輝汐が僕を呼んだ。しかし、かくれんぼをしていたとは思えないほど切羽詰まった声だった。頭の中で警鐘が鳴った。何かを考えるより先に、声の方へと体が動きかける。けれど、遅かった。
鉛でも落とされたかのように、重たい衝撃が後頭部を襲う。咄嗟に地面に手をついたが、力尽きそうになる。それでも後ろを振り返って、僕は何が起きたのか確認しようとした。
目に飛び込んできたのは、紅。
「足りない、足りんのじゃ……」
頭に鳴り響く警鐘音と、そいつの、何かを渇望する声色が重なった。大きな角が一本、額から生えている。ふわりと漂うように長い髪が揺れた。不気味なほどに紅い色がそいつの唇を染めている。昔の姫様みたいに華美な着物を纏っているのも、却って歪な感じがした。
見たこともない妖怪だった。だからこそ、到底敵わないことが分かってしまった。
「良い匂いがするのう。霊力の匂いじゃ」
腕を掴まれ、無理やり立たされる。顎を掴まれた。弟がそいつの背後にいるのを辛うじて見つける。逃げろと叫ぼうとしたが、それさえも目の前の妖怪に阻害される。
「微力だが……『あの時』の人間と同じ霊力じゃ。これは幸先良いのう。お主を喰えば、妾は」
ふと、妖怪が口を噤んだ。輝汐と浩太のどちらかが、僕の目の前にいる妖怪に向かって石を投げつけたのだ。もしかしたら二人同時に投げたのかもしれない。幽霊ではないから、石は妖怪の背に当たる。
「に、兄ちゃんを離せ! また石を投げるぞ!」
「何なの、おまえ! 一翔兄から離れてっ!」
だめだ、だめだよ。妖怪を刺激したら、取り返しのつかないことになる。
「何じゃ、あの童ども」
妖怪が輝汐と浩太を見据えた。ほんの僅かに、僕の顎を掴む手が弱くなる。僕はその隙に妖怪の腕を振り解き、体当たりした。頭が痛い。ぐらぐらする。それでも、怯えている弟を傷つけたくないから、僕は。
「二人とも、逃げろ!!」
早く、早く、早く。
「で、でも」
浩太がためらった。
「兄ちゃん!」
輝汐はまだ踏ん張ろうとしている。
——その一瞬が命取りになった。
地面に滴り落ちる雫が等しく赤い。赤、紅、あか……目がおかしくなりそうだ。
目に見えている世界があかに染まって、ようやく気付く。
弟の悲鳴。何者とも知れないおぞましい声が耳をつんざく。
「邪魔をしおって……主らも喰ろうてやろうか?」
ぶつぶつと呟く妖怪の姿はまさしく鬼だった。そいつは、弟を苦しめようと手を動かす。
「は、離せよ!」
やめろ、やめろ! 弟に手を出すな!! 僕はそう叫んでいた。
「い、だぃ、くるしい! 兄ちゃ、助け……っ」
そいつは、輝汐の腕と首を掴んで、力を込める。しかし抵抗をやめない輝汐に焦れたのか、額に人差し指を向けた。片方の手は首を掴んだままだ。人と比べ、随分と伸びきっている爪が輝汐の額の皮膚に食い込んだ。ぷくりと血が出てきて、そのまま地面に落ちる。
「輝汐兄に何してるんだ!!」
浩太が石を掴んで妖怪に投げた。妖怪は輝汐から手を離し、今度は浩太の元へゆっくりと歩み寄った。輝汐は地面に投げ出されて、咳き込んでいた。浩太も恐怖で動けない。
「哀れよのう」
浩太の手足に赤い線が走る。大量ではないにしろ、それは赤い液体となって流れ落ちた。
切られた? あの一瞬で?
「いたい、いたい……っ。なに、これっ!」
ただの切り傷ではないのか、浩太は痛い痛いと泣き叫ぶ。それなのに、あいつは、愉しそうに肩を揺らす。
「妾は主らに興味はない。故に、生かしてやろうぞ。——とはいえ、生かすだけでは物足りぬ」
口元に手をやり、大した暇もなく笑みを深くした。
「主らから兄の存在でも奪ってみようかの。さすれば、この場で
……からん……しゃらん。遠くから音がする。不意に、咳き込む声も泣き叫ぶ声も止んだ。輝汐と浩太は倒れたまま動かない。それを確かめた妖怪の口角が徐々に上がる。やがて、ニタリと不気味な笑みを表情に乗せた。
あいつは弟たちに向けて、大きく口を開く。弟の“記憶“を喰おうとしていた。そんなことが可能かどうかなんて知らない。でも、僕はひたすらやめろと叫んだ。だが無駄だった。無慈悲な妖怪の声が響き渡る。
人の子、人の子。
美味そうな匂い。嗚呼、腹が空く。
——駄目だ、我慢できない。
貧弱な意識を繋ぎ止めていた僕の体は、地面に縫い付けられたみたいに動かない。これじゃあ、弟たちに駆け寄れない。助けられないじゃないか。
未だに頭が痛い。後頭部はズキズキしている。一体何で殴られたと言うのだ。まだ僕は、朦朧とした意識を失うわけにはいかないのに……そんなことはお構いなしに、全身の力が吸い取られていく。
気絶する寸前、ふわりゆらりと落ちてくる黒い羽が手の甲を掠った。同時に、伝播する台詞が一つ。
「喰ろうてやる」
妖怪の声は深く脳に刻まれて、今も鼓膜にこびりついている。
この日から、僕は妖怪が憎くて憎くてたまらない。
「目、覚めた?」
ふと、誰かの呼びかけが聞こえて、意識が浮上した。冷たく固い感触が頬に触れている。
なんだ、これは。目を開けてるのかさえ分からない。真っ黒に塗りつぶされている空間を見ているみたいだ。
「月森君? まだ眠ってるのかな……」
「!?」
がばりと起き上がった。聞き覚えのある声だった。何でここにこの人が。というか、ここはどこだ。
「び、びっくりした。急に起き上がって大丈夫なの? 体調が悪いんじゃ……」
「雨水か」
今となってはもう疑問ですらなかった。落ち着いたこの少女の声は、確かに雨水のものだ。
「う、うん」
声の方に顔を向ける。だけど、思った通り見えない。
「雨水」
「なに?」
声のする方へ近寄った。人の気配が感じられた。もう一度雨水を呼ぶ。返事がある。
「あ、あの。月森君」
「なんだ?」
「や。近い……」
慌てて声から距離をとった。「悪い、わざとじゃない」
音を拾うことも、話すこともできる。僕は今、目を開けているだろうに、それでも景色が見えないなんてことあるのか? まさか、視覚が——。
「月森君」
静かに呼ばれる。その声音は先ほどよりも一定で、平坦すぎるほどだった。しかしそのお陰で、僕も徐々に冷静さを取り戻す。
「もしかしてなんだけど」雨水が言う。「目、見えないの?」
その時、僕は思わず苦笑してしまった。
まさかとは思ったが、本当にそのまさかだったとは。
悟った僕は頷いた。
「雨水の声は、聞こえるんだけどな」
* * *
死神さんと宮原先生が『あちら』に行った後、驚くほど境内はシンと静かになった。夜野先生は何か思うところがあるのか、険しい顔をしたまま口を噤んでいる。
そんな折、ルカが静寂を破った。
「波瑠さん、怒ってますか?」
第一声がそれだ。余程気にしていたのか。それとも、俺が怒っていると厄介だと考えたのだろうか。
「……怒ってたのは、ルカだろ」
初めて聞いた苛立った声は、何故分からないのか、と責め立てるものと同等だった。
正直、怖かった。
以前、ルカは俺に、とても低く冷たい声を聞かせたことがある。本人は呟いたことに気付いていなかっただろうが、内容も普段のルカからは想像がつかないようなものだった。いつもは微笑み、丁寧口調だ。だけど、あの時は違った。
「私は……その、怒っていたわけでは」
だがまあ、今回はあの時とは似て非なるものだな。ルカの丁寧口調は崩れていない。それに、やっぱり悪魔と言えど、ルカは優しい。
眉を下げたルカを見て、俺は淀んだ気持ちが少しだけ晴れた。
「ルカ。雨水さん達を助ける方法はないのか?」
分かりやすく話を変えた俺の意図が伝わったらしく、ルカは一瞬戸惑ったものの、会話を続けた。
「え、ええ。そうですね。現状、助け出す方法は無に等しいかと。それに私は悪魔ですから、妖怪の扱う術にはあまり知識がありません」
「やっぱり、ないんだな」
思わず舌打ちをしてしまった。
死神さんと宮原先生だけが、今のところ頼みの綱だ。ルカでさえ分からないのに、妖怪について詳しくない俺が分かるはずもない。
「……」
そう言えば、夜野先生は気になることがあると此処に残った。先生なら何か方法を知っているのかもしれない。俺は険しい顔つきの先生に呼びかけた。
「夜野先生」
「……」
聞こえなかったのだろうか。
「夜野先生?」
「……ん、あ、ああ。何だ? 佐々木」
「雨水さん達を助ける方法は、他にないんですか?」
あちらに行く方法はたった一つ。あの瞬間移動ができる装置を使う他ない。
でも、それ以外にあっても良いだろう。そうじゃなければ助けられないんだ。
俺がそう考えていると、夜野先生は「一応、あるにはある」と言葉を濁した。
「あちらに行く方法の中で、一番に可能そうだったのがあれだっただけだ」
「それってどういう……」
「他にも方法はあるけれど、可能性は決して高くないと言うことですね?」
「その通り」
夜野先生は鳥居に近付いた。夜闇が生温い風を呑み込む。
「見ろ」
そう言って、何かを指さした。俺とルカも鳥居に近寄り、先生の指が突きつけられた所に視線をずらした。そこに広がるは、寂れた住宅街の一歩外の景色。遠くに見える緑一帯の山だった。最も、今は辺りが暗すぎるから、黒い影にしか見えない。
「山?」
「山、ですねえ」
あの山が、雨水さん達を助ける方法?
不思議がる俺達二人。
「明日の夜、あの山の向こうから大勢の妖がやって来る。この街の夏祭りはいつも派手だから、妖は皆、気に入っているんだ。年に一回だけと言うのも貴重感が増すのだろう。毎年、夏祭りに間に合うように”百鬼夜行の道”として決められている」
「百鬼夜行の、道……」
百鬼夜行。その名称は聞いたことがある。人でない、それこそ魑魅魍魎の列。
異形の姿ばかりが集い、連なるという。
それが明日の夜、行われる。
「でも、祭りはできねえだろ。提灯が消えたことで、街のみんなは大混乱だ」
「そうだ。明日、祭りが開催されることはない。だが百鬼夜行は変わらず行われるだろう。明日の夜はこの”道”を通ろうとするはずだ」
先生が腕を下ろした。そして、感情を抑え込むようにして、拳を作る。
「妖の中には、妖術を用いて妙なからくりを作る者がいる。”
一気に視界が明るくなった心地だ。なんだ、方法があるんじゃないか。良かった。
しかし、表情が明るくなった俺とは対極的に、先生は顔を曇らせる。
「ただ、其奴に頼むには明日まで待たなくちゃならない。その間に戒里たちの身に何かあれば……。だからと言って、今からその妖に頼みに行くのも厳しいが」
「きびしい……それは、此処を離れるのが危険だってことか?」
「そうだ」
俺はもう一度山を見た。山の向こうから妖怪がやって来るのは、明日。しかも、夜。それまでにベニバナサマが何もしない保証はどこにもない。
夜野先生は、本当は、今直ぐにでもその妖怪に頼みに行きたいんだろうな。
「今から行くとすれば、誰か一人でも此処に残っていれば良いのですね?」
不意に、ルカが念を押すように言う。
「それなら、私が残りましょうか。波瑠さんは止めても行くと言うでしょうし。貴方が居なければ、妖と関わることは難しいでしょう」
「馬鹿を言うな! 佐々木は人の子、百鬼夜行の群れを見るだけでも危ない。妖は人間の匂いに敏感だ。連れて行くのは無茶だ!」
予想通り、先生は猛反対した。というか、匂いって?
「大丈夫ですよ」
ルカは相変わらず冷静だ。
「何が大丈夫なんだ!? 君は心配じゃないのか!」
「ええ。心配ですよ。とてもね。ですから、波瑠さんに指輪を渡したのですよ」
「……指輪?」
先生の語気が弱くなった。その後直ぐに俺を見つめる。
俺はというと、ルカの言葉を聞いて、左手の親指にはめた指輪に、そっと指先を乗せた。赤みを帯びた宝石は、撫でると、その硬さをより実感できる。
「あまり公にしたくありませんが。この指輪は私と波瑠さんの契約の証。妖怪に匂いがバレたとしても、この指輪がある限り、波瑠さんに危害は加えられません。私、悪魔ですから。遠くに居ても、波瑠さんが対象を教えてさえ下されば、手を下すことなど容易なこと。——本当は、私も行ってほしくありませんよ」
最後の言葉は、ルカの本心。
先生は暫くルカと俺を見比べたり、指輪を凝視したりしていたが、納得はしたらしかった。
「手を下されると、それはそれで厄介なことになるんだがな。まあ、いざという時の話か」
そして、先生は大きなため息を吐いて、分かった、と。
しかし、えらくあっさりと認めるんだな。もうちょっと渋るかと思ったのに。
「佐々木を連れて行く。妖が近くにいる時は、くれぐれもオレから離れるなよ」
そう言って、黒い羽をバサバサと動かす。先生の足はもう地面についていなかった。
「俺は何をすればいい」
問いかける。何かしたい。その気持ちは変わらない。だけど、どうすればいいのか、明確なことは分からねえ。ただ連れて行ってくれるだけじゃ、何の意味もない。
「そうさな。飴を持ってきてくれ。話はそれからだ。すみれ堂の彼女を頼るといい。あそこの飴は交渉材料になる」
「分かった。その間、先生はどうするんだ?」
今にも遠くに飛んでいきそうな先生を見て不安になる。やっぱり一人で行くだなんて言わねえよな。
「オレは、石段の下で眠らせている人を家に帰しに回る。まだ気になることが残ってるし、それの確認もするつもりだ」
気になること? それは雨水さん達を助ける方法じゃなかったのか。夜野先生の様子を見るに、百鬼夜行のことでもないようだ。
「また落ち合おう。場所は——」
「気になること」を訊こうとしたが、俺は口を閉ざした。
芯のある声がする。「場所は、すみれ堂の前」
先生の体が傾いた。そのまま石段の下へ飛ぶ。夜野先生は眠る人々を一人ずつ抱えていく。両肩両手で抱え切らなくなると、その人を宙に浮かせたりもしていた。
月が見える空に、烏と同じ真っ黒な羽の羽ばたきが響く。
きっとその音を聞くことができるのは、俺たち見える者だけ。
「……」
ルカは紅花神社に留まることを選んだ。ここから先は、俺一人。一人で夜の道を歩くのは、あまり経験がない。だから、少しだけ怖い。ついつい、人ならざる者が沢山いるのではないかと考えてしまう。
「波瑠さん」
だが、俺の隣に立つ者こそが人ならざる者。不思議と、夜への恐怖が薄らぐ。
「私は、貴女に危険な所へ行ってほしくありません」
それは、はっきりとした拒絶。
「私と契約したからといっても、貴女はただの人間。大人にも程遠い」
それは、再三聞いた言葉。
「それでも、行くのですね」
俺はルカと目を合わせた。ルカの瞳は、心配の色が見え隠れしている。
「うん。俺は行くよ。——居なくなる人は、もう俺の兄さんだけで十分だ」
ルカが目を見開いた。何か言おうとして口を開くが、結局、その口から紡がれるものはなかった。ルカは俺の背を優しく押した。俺は石段を一段、また一段と下りていく。風が鳴る。雲が月を覆う。
「お気をつけて」
ルカの声を拾って、振り返ろうと足を止めた。だけど、ルカが居ない心細さに気づいて、俺は振り返らず、足を動かし始めた。
……悪魔のルカ。出会った当初こそ警戒したが、今ではすっかり警戒心がナリを潜めている。
そんな自分に驚いてしまう。
ルカが居ないことが当たり前だった。それも今となっては逆だ。ルカが居ないことに心寂しく感じる。
悪魔に気を許すなんておかしいんだろうか。
ルカのことで妙に後ろ髪を引かれつつ、俺はすみれ堂に向かう。
4
狐と死神
気が付くと、狐と死神は見慣れぬ場所にいた。
コンクリートのような地面。彼らはそこに立っていた。鳥籠が無数天井からぶら下がっている。籠の中には何者もいない。それは丈夫な縄で吊るされているだけである。
どこか遠くから、水が跳ねる音がする。ぴちゃん、ぴちゃん、音が繰り返される。
洞窟のように、周囲には整頓された道がなく、深い暗闇が広がるばかり。左右に首を動かしてみるも、黒いもやのようなものが視界を邪魔する。
あるいは、牢獄のように底知れぬ恐怖を感じた。二度と此処から出られないのではないか。そんな疑念が当然かの如く湧き溢れてくる。
ただ、と狐は死神と目を合わせた。
死神が頷く。
どうやら、無事に異空間に転移することが出来たようだ。狐は一先ず、安堵の息を吐く。
「ベニバナサマとやらは、此処には居ないみたいだねえ」
死神が険しい顔のまま言った。
「そうだね。近くに気配は感じない。……何処に居るんだ」
そもそも、捕まえ損なったのがいけなかったのだ、と狐は唇を噛んだ。もっと早く捕まえていれば、こんな事にはならなかったのに。
「あの子の気配もしない……か。このタイミングで死ぬはずがないし、生きてはいると思うんだけど」
狐は少女の姿を頭に浮かべた。礼儀正しく、遠慮深い、優しい人の子。
そういえば、とふと考える。
「死神は、どうして雨水と一緒にいるんだい? それに雨水のあの腕輪は、何か意味があるものなのか。普通の人には見えていないみたいだが」
死神がこちらに顔を向けた。その表情は抜け落ちていて、飄々と笑う彼はいなかった。これ以上触れてくれるなと言わんばかりに、目を細める。
「……なに。知りたいの?」
「ま、まあ。“死神”が生きた人間の傍に居るって聞いたことがなかったからね。死期が近い人には見えるらしいけど、あの子はまだ」
「そうだね」
死神が狐の声を遮る。
「腕輪はね、ボクとあの子の契約の証なんだ」
「契約?」
狐が聞き返すと、死神は可笑しいと言いたげに口の端を歪めた。
「聞いた事がないのは当然だね。死んでるならまだしも、生きた人間の傍に居る″死神”ってのは、世界を余すことなく探したって、きっとボクだけだ。契約を持ちかける死神なんてのも、ボクだけ」
「なら尚更、どうして君は雨水に契約を? 大体、悪魔でもないのに契約なんて出来るのかい?」
「……どうして契約をって言われても、ボクはキミにそれを語るつもりはない。——契約は出来たよ。あの子相手だったら、簡単だ。だけど、そうだね。一言理由を話すとすれば、あの子は」
呼吸音。のち、声。
「沙夜は、『特別』な人間だからだよ」
あと、と付け加える。
「悪魔って単語、気安く出さないでね」
死神の顔は、殺意にあふれていた。そんなに嫌いなのか、と狐が呆れる。
特別な人間。
狐は雨水沙夜と、もう二人の姿を瞼の裏に描く。
死神が傍に居る少女。悪魔と共にある少女。そして、生まれながらに我々を認識できる少年。
死神の言う『特別』がどんな意味を持つのか知り得ないが、狐にとっても、彼らは『特別』であった。人ならざる者を瞳にうつし、声を拾い、触れられるだけで、彼らはもう普通とは言い難い。
普通でない者の末路は、大抵、不幸が待ち受けているものだ。
狐はもう一度、少年少女の姿を思い浮かべた。
程なくして、視界を覆うような黒いもやが消えた。
狐は死神と歩き始める。
不意に、狐の毛がピリリと逆立った。何かが来る。
人よりも重量感がないその足音が、相手が、狐と死神の探している者ではない事を暗に語っていた。
ぴたりと音が止む。
数歩先で、猫又が優雅に尻尾を振っていた。
5
* * *
当たり前だが、すみれ堂は閉まっていた。中に明かりがついていないのか、店も辺りも揃って暗い。
夜野先生も意外と無茶なことを言う。すみれ堂の店主、長谷川さんは寝てるかもしれねえだろ。
どうしよう。インターホンはパッと見た感じ、見当たらないし。
迷った末、とりあえず戸を叩く事にした。戸は頑丈とは言えないから、優しくノックする。これで出て来なかったら、次の手立てを……否、もうちょっと粘ろう。俺はまた戸を叩いた。
何度目かのノックの後、戸の奥からガサゴソと何かが動いている音が聞こえた。
「長谷川さん、俺です。波瑠です」
ゆっくりと戸が開く。
「おやまあ。波瑠ちゃん。忘れ物かい?」
「違うんです、忘れ物じゃなくて」
「ああ、ちょうど良かった。忘れ物ついでに、良かったらまた飴を貰ってくれないかい?」
「忘れ物じゃ——って、飴?」
「そうそう。波瑠ちゃんが帰った後も作っていたんだけどねえ、また失敗してしまってね。今持ってくるよ。入りなさいな。忘れ物は一人で探せるかい?」
「う、うん」
勢いのままに店に入ってしまった。
でも飴を貰えるなら、有り難く頂戴しよう。
「……」
やっぱり、この場所は居心地が良いな。不安と焦燥が織り交ぜになっていた心が、一気に浄化されていくみたいだ。そこまで考えて、安心したのも束の間、さっきとは違う不安が心に入り込んだ。
——家では、今、両親が怒っているだろうか。
そんな不安。
ついこの間、父さんに関わるなと言われたばかりなのに。俺は二人を助けようと動いている、関わろうとしている。妖怪絡みはバレないとしても、雨水さんと月森が関わっていると父は考えるだろう。
怒られるだけじゃ、済まねえかな。
自嘲した笑みを浮かべる。
「波瑠ちゃん、これなんだけどねえ」
長谷川さんの声ではっと思考が切り替わる。奥の部屋から出てきた長谷川さんの手に、一つの小瓶が。小瓶の中は可愛らしく包装された飴がいくつか入っていた。飴の形は丸っこいものもあれば、細長いものもある。
「ほ、本当に失敗したんですか? こんなに」
可愛いのに、と言えなかったのは、自分に似合わない言葉だったからだろうか。
「遠慮しなくていいんだよ。はい」
小瓶を手渡される。咄嗟に受け取った。
長谷川さんを見ると、その顔はとても穏やかだった。意味もなく泣きそうになった。
俺はお礼を言って、また来ると告げてから、すみれ堂を出た。
欠けた月が空で笑っている。今にも消えそうな雲が、必死に、月を隠そうと漂って見えた。
大きな羽が風を煽る音が聞こえる。その音は次第に大きくなっていった。
“それ”の姿がはっきりと見えた。
「佐々木、待たせたか?」
「全然。俺も今、飴を貰ったところだ」
黒い羽が羽ばたきを止めた。夜野先生が降り立つ。
「何個か貰ったぞ」
長谷川さんから受け取った小瓶を見せると、夜野先生はほっとした顔をした。
「良かった」
そんなに俺は使えないやつだと思われていたのだろうか。そう思ったが、それにしては、夜野先生の表情があまりにも安心に満ち溢れていて。
唐突に理解する。
先生。
なあ、先生。
何で、俺に来させたんだ。
問い詰める言葉が頭の中に次々と浮かんで、たまらなくなって顔を顰めた。
本当は、先生が来たかったはずだ。街がこんな事になって、長谷川さんが心配になったんだろう。でも、自分から会うことはせず、俺に任せて。
「佐々木、彼女は…………いや。何でもない。行くぞ」
「……っ」
馬鹿じゃないのか。そう詰ってやりたかった。
素直に言えばいいのに。先生自身が頼みに行けば良かったのに。
此処で落ち合うと言ったのも、早く彼女の安全を確認したかったからだ。きっと、そうだ。
なのに、何で。
————あぁでも。俺だって、それを先生に言う勇気はない。
「ど、やって、行くんだ」
自分の意思とはそぐわず、言葉がつっかえてしまった。
「少し我慢してくれよ」
先生はそう言うと、俺を米俵のように抱えた。あれ、急に扱い雑じゃねえ?
「まさか、このまま?」
冗談だろ。顔が真っ青になる。
「そのまさかだ」
バサッと羽が広がる。夜野先生がトン、と軽く地面を蹴った。
どんどん地面が遠くなる。夜野先生の黒い羽が動いている。
俺は、今、宙を浮いている……?
地面だけでなく、気も遠くなりそうだった。
「着いたぞ」
羽音が聞こえなくなってから、俺はぎゅっと瞑っていた目を開けた。途端、目に飛び込んできた光景に叫びそうになったが、先生が俺の口を手で塞いだ。
「しっ。静かに」
先生も周りを警戒しているらしい。眉間に皺が寄っている。
俺はコクコクと頷いた。
山の中。木陰に身を潜めながら、改めて前方に目をやった。そこには、異形の者達が長い列を闊歩していた。
牛のような角を持つ者や、髪自体が炎の如く燃え盛っている者。首が長く伸びる女、顔が無い童、大きな犬、何者とも知れぬ幾つもの影。西洋風の帽子を被った、耳の尖った奴も居れば、反対に、揉み烏帽子なるものを被る和装姿の奴も居た。他にも、見た目は人間そっくりの姿で、お面や仮面、布、紙などで顔を隠している者達も列を作っていた。空にも明らかに人でない者が漂っている。
何だ、これは。これが百鬼夜行?
俺は指先が冷える感覚に唇を噛んだ。得体の知れないものを見たこと以上に、制御の仕様がない畏れを感じたのだ。悪魔のルカとはまた違う威圧感。それに立ち会っただけで、足が竦んだ。そんな自分が情けねえ。
きっとこの中には、言葉が通じない奴もいるだろう。夜野先生みたいに、人と似た姿でいる妖怪は少ないのかもしれない。
「佐々木、これをつけておけ。妖だと認識するように術をかけておいた。いいか、くれぐれも人間だとバレないようにな」
先生から手渡されたのは、顰めっ面の天狗のお面。言われるがままにつけた。視界が狭くなる。
「……怖いか?」
手のひらが背に触れた。無理はするなと言われた気がした。俺は無意識に指輪に触れる。
「怖いけど、大丈夫だ。雨水さんと月森を助けるためだから」
先生は少々驚いたように目を見開いた。
「そうか。……強いな、君は」
その時、ガサガサっと背後から物音がした。振り返ったが、音はまだやまない。先生が俺を庇うように一歩前に出る。
草間から出てきたのは、妖怪ではなく、兎だった。先生が警戒を解いたところを見ると、本当にただの兎だったのだろう。
しかし問題はそこではなかった。
「
先生と俺の姿をすっぽり覆うように影が伸びた。瞬間、空気を震わすは野太い声。
ギギギ、と音が出そうなくらいぎこちなく首を動かすと、ギョロリと動く五つの目玉がこちらを見下ろしていた。
声なき悲鳴が俺の口から出た。
「
五つの目玉はどれもちぐはぐに動いていて、こちらを見ているのかすら怪しかった。だが、先生が俺の手首を掴み、数歩後退ったが、呼応するように五目玉の奴も前進したのだから、俺達を認識しているのは確実だった。
気付けば、数々の妖怪が足を止め、こちらを向いていた。だがこちらに構わず闊歩し続ける者もいる。五目玉は「夜行を止めた」と言ったが、全ての妖怪が足を止めたわけではないようだ。
どうやら、立ち止まったのは五目玉の仲間のようだった。
「お久しぶりですな、百目鬼の親分」
夜野先生が堂々と声をかけた。
「オレはお山の天狗様の眷属。名を」
言葉を切った先生が俺を気にする素振りを見せる。
「名を、烏天狗の夜雨という」
五つの目玉が同時に瞬きをした。先生に顔を寄せる。地面に伸びる影が濃くなった。
「なんと、夜雨殿であったか! こちらこそ久しゅうございます。ご無礼を申し上げました」
すると、周りにも声が広がった。
「ヨサメ?」「あのお山の」「天狗様が重宝なさっている烏だと」「何百年か前に、邪悪な鬼を退治したという噂もあるお方だ」「なぜ此処に」「百鬼夜行に参加なさるのか」「天狗様は今回お休みなのに?」「だからこそやも」
ひそひそ。ひそひそ。小さな声だったのもあって、俺は上手く聞き取れなかった。
「これ! お前たち! 夜雨殿に失礼であろう!」
五目玉が一喝する。
「申し訳ございませぬ。何分、世間知らずの子らでしてな」
「気にしないでくれ。一年ぶりの百鬼夜行、邪魔してしまったのはオレの方だ。不躾だった」
「決してそのようなことは!」
会話を聞く限り、先生の方が立場が上なのだろうと予想がついた。お山の天狗様とやらが結構な位の妖怪なのだろうか。
「——して、夜雨殿。その者は……?」
ギョロリと目玉が動く。その内の二つの目が俺に焦点を当てた。五目玉の仲間もこちらに気付き、一斉に目が動く。
咄嗟に先生の袖を掴んだ。先生は俺を一瞥した後、五目玉に言った。
「知り合いの天狗だ。まだ幼く、つい先日怪我をしたために空が飛べない。人見知り故、言葉を介すのが苦手でな。あまり構わんでやってくれ」
ギョロギョロと目玉が動く。俺を見定めているようなその動きに、体が強張った。
やがて、五目玉が口を開いた。
「あい、承知した」
それ以降、五目玉の目が俺に向くことはなかった。
「そういえば、夜雨殿は知っておりますか? 明日通る”道”で、とある美女がもてなしをしてくれるという話。我らは小耳に挟んだ程度だが、どうやらそれを目的に夜行に参加した者もいると聞きます」
ふと、五目玉がそんなことを言った。あくまでも先生がその話を知っているか知りたかっただけらしいが、俺と先生の思うことは同じだった。
明日通る”道”の正体は俺が住まう街。とある美女、が誰を指すのかは分からないが、その美女がベニバナサマである可能性が高い。つまり、今まさにベニバナサマの事で何か知れるチャンスが巡ってきたのだ。
「その話、詳しく聞かせてくれないか」
先生が尋ねると、五目玉は五つの目を伏せた。
「申し訳ございませぬ。我らは、詳しいことは何も」
俺は落胆した。チャンスは去ってしまったらしい。
「そうだったのか。致し方ない。こちらも無茶を言った、すまないな」
「滅相もございませぬ」と五目玉は身を引いた。俺達を覆っていた影がなくなる。
俺は黙って彼らの会話を聞いていた。
「百目鬼の親分、もう一つ聞きたいのだが」
「何なりと」
「『からくり技師の煙々羅』が何処にいるか、分かるか?」
「からくり……ああ、あの者でしたら、先頭の方に居ります」
一つ目玉を閉じた後、そう答えた。
「助かった。感謝する」
先生がお礼を言った時、またひそひそと話す声が聞こえてきた。五目玉の仲間だ。
「なるほど」「なるほど」「あの者に会いに来たのか」「百鬼夜行に参加は」「参加なさらないようだ」「なんだ」「共に参ることが出来ると思うたのに」「残念」「ざんねん」
二度目は何とか聞き取れた。一度目と同じように五目玉が一喝するのを見て、最初もこんな感じだったんだなと思う。
「そうだ。我らも行かねば。——夜雨殿、我らはこれで」
忙しく五目玉とその仲間は列に加わった。
彼らの姿が遠くなっていくのを確認してから、夜野先生が口を開く。
「大丈夫だったか?」
心配げに揺れる瞳を見て、俺は張り詰めていた空気が和らぐのを感じた。
「大丈夫」
短く返答する。何なら親指も立てた。
「先生、知り合いだったんだな。もしかして初めから五目玉に会いに?」
「五目玉……」
先生が苦笑いをする。
「会えたら良いとは思っていた。彼奴は百ほどの目を持っているんだ。百目鬼って妖怪を知らないか?」
「知らない」
「まあ、知らずとも良いんだがな。とにかく、目を沢山持ってるから、探し物や探し人が居るなら、彼奴に聞くのが一番手っ取り早いんだ」
「先生が探してるのは、さっきの、からくり技師の煙々羅っていう妖怪なのか」
「……しっかり聞いてるな……。その通りだ。『からくり技師の煙々羅』と呼ばれる、術具なんかに詳しい奴が居るんだ。調べた限りでは、あの空間移動が出来る道具だって其奴が作ったって噂だ」
へえ、と目を丸くした。あれは作られたものだったのか。
先生が遠慮がちに俺の手を取る。
「これは正真正銘、其奴が作ったものだ」
手の平に乗せられた物に視線を落とす。一見、トランプの箱に入っているそれは、不思議な模様が描かれたカードだった。
「これは?」
「トランプ。……に、見せかけて作られた術具だ。戒里が作らせていたようでな、月森の部屋に持ち込んでいたんだ。気になって、すみれ堂に寄る前に取ってきた。一枚ずつ一度しか使えないが、身を守ることが出来るだろう」
使い方を教える、と言って先生は箱の中から何枚か出すよう指示した。短時間の取扱説明だけで俺が使いこなせるわけがないだろうと思ったが、粗方説明を終えた先生はそれでも俺が持っておくようにと念を押した。
「先生、ちなみに何でこんな絵なんだ?」
俺はカードの模様の最たる特徴に疑問を持った。
数字が赤と青に光ったり浮かび上がったりしてるのだ。それだけでは終わらず、トランプの四つのマークが見事に違うものにすり替わっていた。変わり果てたそれらのマークは、鬼火、雪の結晶、緑の葉、白い花の四つ。トランプの姿をしているかと思えば、実は全くの別物だ。
「さてな。オレもよく分からない。単に”イメージしやすい”からかもしれん。もしくは戒里がこの絵にしたかっただけか。とはいえ、戒里も使い方は聞いていたみたいだが、本当にトランプとして使っていたしな。月森も絵柄が絵柄なだけに騙されていた」
「騙さ……、え?」
戒里さんが月森に嘘を吐いていたという事か? これが本当にただのトランプだという嘘を。
「戒里としては月森に使わせるつもりで作らせたんだろう。結果的に説明も含めて渡しそびれ、今の有様だ。全く爪が甘い。加えて急いで作らせたために、効力を発揮しない失敗作もあるようだ」
へ、へえー。俺は手元の箱を握った。
本来、月森が使うはずだった物。これがあれば、月森は『あちら』に連れて行かれなかったのではないだろうか。そんな、あったかもしれない未来を想像する。しかし、すぐに打ち消した。
「先生」「佐々木」
言葉が重なる。こんな時だが、俺と先生は顔を見合わせて笑った。考えていることは、やはり同じ。
行きと同様に、先生が俺を抱える。運び方は雑なままに違いないのだが、一回目より扱いが丁寧だった。その気遣いが素直に嬉しい。
「飛ぶぞ」
声がかかると同時に、地面が遠のく。
向かうは、百鬼夜行の先頭あたり。
『からくり技師の煙々羅』の元へ。
先生に抱えられながら空を行く俺は、下を見下ろし、長蛇の列過ぎるだろう、と思わずにはいられなかった。前も後ろも、というか後ろの方に列が長く続いている。
俺は月森みたいに、小さい頃から人でない者を見てきたわけじゃねえ。だから今の状況は、とても信じ難いものだ。しかも、俺の苦手な烏と関わりがあるヒトに抱えられているから、尚のこと。
風が頬を苛める。地上とは異なる風の流れ。それさえも、何者かの仕業なのではないかと勘繰ってしまう。
先生が黒い羽を大きく広げ、緩やかに動かす。
「佐々木」
ふと名を呼ばれた気がして、あ? と耳を澄ました。
「君は、死んでくれるなよ」
呟きとも取れる、か細い声。元より俺に伝える気はなかっただろうその声音からは、何も感じ取れなかった。僅かに震えた先生の口が一文字に結ばれたのを尻目に、俺はそっと息を吐く。
当たり前だろ、と思った。俺はまだ死ぬつもりはねえ。たとえ死ねと言われても、抗うだろう。
ただ、とも思う。先生の言葉は懇願に似ていた。そこにどんな感情があるのか分からなかったのに、俺は、何故だか胸が苦しくなった。
間も無くして、先生が地面に降り立つ。それでも此処はまだ山の中。俺が思っていたより、この山は大きかった。俺を下ろした先生が一方向を見据える。俺も目を向けた。ともあれ、俺達が木陰に隠れているのは言わずもがな。
ゆらゆらと火の玉が周りに現れた。百鬼夜行の先頭を歩く者が下駄の音を響かせる。だが先生の視線は違うところに注がれている。
視線の先を辿りきれず、俺は早々に諦めて奇々怪々の一行を眺めた。異形の集まりであることは変わらないのだが、威圧感が増したように感じる。
この中に『からくり技師の煙々羅』なる妖怪がいるのか。見た目も何もかも知らない俺には、探すことは到底不可能だ。先生は見つけただろうか。
「——見つけた」
ドキッとした。心の中と呼応して聞こえたそれは、隣から発せられたものだ。
「どこに……」
尋ねようとした時、口元に人差し指を置かれた。
「佐々木、離れるなよ」
瞬間、視界がぼやけた。だが俺の目に問題がある訳ではないと悟る。これは煙だ。何故? 火炎の匂いなどしなかったし、山火事であるはずがない。
俺と先生の体に纏わりつくようにして、煙は色を濃くしていく。そして、そのまま煙は目の前で人のような姿を象っていった。
現れたのは、儚げな綺麗な女性。白い肌は透き通るようで、伏せられた瞳の淡黄色が際立っている。煙のように漂う髪は、ほんのりと白銀に輝いていた。
思わずぽーと見惚れてた俺を、先生が肘で小突く。はっとした。
先生は俺を一瞥した後、女性と向き直った。
「久しいな」
「…………」
「百鬼夜行の邪魔をしてしまって申し訳ないんだが、君に頼みがあって来た」
「…………」
「此処では何だから、少し場所を変えたい。いいか?」
「…………」
……あの。このヒト、何も言わねえんだけど? 先生の声に何の反応もしないんですけど? っていうか、さっきからずっと見られてる気がすんだけど。
先生もそれに気が付いたのか、女性から隠すように俺を後ろ手にまわす。やっと女性の目が先生に向けられた。
「この子は知り合いの天狗だ」
五目玉の時と同じ紹介をされた。
相変わらず無口な女性が、人差し指をするりと動かす。不思議なことに、一つ瞬きをすると、女性の手元にさっきはなかった薄汚れたノートが。女性はこれまた何処からか取り出した筆を持ち、開いたノートに何やら書き出した。よく見たら、ノートはお手製の物のようで、文房具屋に売っている物よりも丈夫そうだった。ただし見た目は古い。
女性は自分が書き込んだ文字を俺達に見せる。
『驚きましたわ。私に頼みをするなんて、余程お困りのようですね? 良いですよ、場所を変えましょう』
俺はそこで漸く気が付いた。
『からくり技師の煙々羅』は、筆談なのだと。
6
狐と死神2
猫又に見つかったのは最悪手だった。自分達が異空間に入り込んだ事があちらにバレたのだ。
咄嗟に転移を使ったのだが、この道具だってそう易々と使っていい代物ではないだろう。回数制限があるかも怪しいのだ。次は迂闊に使わないようにしなければ。
狐は辺りを見渡した。
「また妙な所に”飛んだ”ねえ。キミ、ここが異空間の中だっていうのは本当?」
死神も周辺を見ていたらしい。
此処は先刻の場所と異なる。目の前に牢屋があるのだ。格子状に作られた檻の中には、何者もいない。牢は一つだけでなく、幾つも連なっていた。その全てを見て回ったが、やはり其処はもぬけの殻だった。
「ああ、そのはずだよ」
しかし気になる事はあった。
「布……?」
一番奥の牢の中に、白い布らしき物が落ちていた。中に入ろうとしたが、格子状に張り巡らせた妖気を感じ取り、狐の手は引っ込む。きっと触れれば、自分達の居場所が筒抜けになってしまうだろう。それだけじゃない、この妖気は明らかにベニバナサマのものだ。少しでも触れると、拒絶反応が総じて起こり、電気か何かが体を蝕む。狐は死神にも触れないように伝えた。
死神は狐の言葉に頷いていたが、彼の飄々とした態度には少々不安になった。自発的に行動は起こさないはずだが、うっかりという場合があるのだから、油断が出来ない。
「ねえ」
死神が狐の横で、同じ格子牢の中を見ていた時だった。いきなり鋭い声で呼びかけられ、狐は敵襲かと身構える。だが周りを見ても、それらしき影はない。この場には、自分と死神だけだ。
狐の心情を知ってか知らずか、死神は牢の中を指差して言った。
「あれ、沙夜のハンカチだよ」
その声がどんな色を帯びていたのかは、あえて言うまい。
狐は格子に触れようとする死神を止めるのに、想像以上の労力を使った。
「落ち着いて、死神! まだ何かあったとは」
そんな言葉を掛け続け、彼はやっと落ち着きを取り戻した。
「ごめん、取り乱した」
それでも彼の表情は焦燥が滲んでいる。
だが、これではっきりと分かった。
「雨水は此処にいたんだ。戒里と月森も一緒に居てくれれば、安心なのに。……もし怪我でもしていたら、あたしはどうすれば良いんだ」
ぽつりと呟く。
「ベニバナサマは此処では手を出していないと思うよ」
死神も小さな声だった。
牢の中に目をやる。確かに、此処には血が流れていない。狐はほっとする。
「連れて行かれた、もしくは逃げた。そう考えるしかない」
巻き込んでしまった雨水と狙われた月森は、絶対に無事で家に帰さなければならない。きっと家族が心配しているだろう。人の子を巻き込んだのはこちらの落ち度だと、狐は何度となく後悔の念を抱く。だが、二人を助ける事以外にも、しなければいけない事がある。
ベニバナサマを、滅ぼさなければならない。
元より、戒里と夜雨と狐は、それが目的だった。そのために今まで準備をしてきたのだ。
何百年も前、戒里は人間によって封印された。戒里の時間はその時からずっと止まっていたけれど、その日から、狐は夜雨とずっとベニバナサマを追っていたのだ。あの日からずっと、捕らえようとしてきた。
三年前、月森とその弟が襲われたと知り、紅花神社の存在を知った。そして、”中”に何が居るのかも。
奴は中々尻尾を出さなかった。眷属の鎌鼬と猫又も隠密に活動していたため、見つけることが困難だった。ベニバナサマは、時には無関係な妖怪を操り、人間を襲わせたこともあったくらいだ。
永かった。本当に、永かったのだ。
まさか封印が解けた戒里も直ぐに奴を捕まえようと行動していたとは、最初こそ思いもしなかった。だが、そうであろうな。恨み辛みで言えば、戒里が一番それに長けている。
そうだ。ここで逃す訳にはいかない。
「死神、あたしは……」
別行動を取り、自分はベニバナサマと対峙する。その間に死神が人の子二人を、そして戒里を見つけてくれるなら。狐はそう考えて、口を開いた。
だが、死神がそれを遮る。
「ダメだよ。キミも一緒にあの子達を探すんだ」
狐は耳を疑った。死神は何が何でも、雨水を探しに行くと思ったのだが。
「一人で行っても、キミはベニバナサマに勝てない。分かってるでしょ?」
「でも時間稼ぎなら!」
「無理だよ。キミは直ぐに負ける。だってキミ、攻撃系の力はあまり使えないでしょ」
驚いた。知られていたのか。
「それは……その通りだよ。だけど」
痛いところを突かれ、尚も食い下がる狐に、いいかい、と死神は苛立った口調で言った。
「こっちは人質を取られてるんだ。キミが行った所で状況は覆らない。脅されて終わり」
それとね、と続ける。
「ボクは、ベニバナサマなんて心底どうでも良いんだよ。キミ達が『打倒ベニバナサマ』を唱えても、ボクはあの子が関わっていないなら、手を貸す義理はない。そういうのはさ、沙夜が居ない時に勝手にやってくれる? ボクはあの子が無事なら他はどうでもいい」
狐は呆気に取られた。意見の相違どころではない。
「いい? 勝てない相手の元へ行くのは、馬鹿がする事だ。キミは月森クンと戒クンを探しなよ。こう言っちゃあ何だけど、いざという時、ボクは沙夜以外は見捨てるからね」
分かったらさっさと探しに行くよ、と死神は扉の方へ歩いていく。扉を出てからは未知の場所だと言うのに、死神の背に迷いは見えない。
死神が雨水を大切に想っているのは知っていたつもりだ。しかし甘かった。彼は自分が想定していたよりも雨水に肩入れしている。それは個への執着心と言えるし、他への関心が薄すぎるとも言えよう。
扉の前で死神が振り返る。早く来い、と目が訴えている。
狐は眉を寄せ、目を閉じた。
ベニバナサマを滅ぼさなければいけない。それが目的なのは、最早言うまでもない。
だけど。
「……」
今は、巻き込んでしまった人の子を助けに行こう。
狐は目を開けた。
人の姿をとっている狐は、耳と九つの尻尾だけは変化しないままにしてある。遠くの音をより多く聞き取るために、これでもかと言うほど耳を澄ます。その状態を維持しつつ、狐は足を動かした。
死神が扉を開ける。扉から分岐するように右、左、前の三つの通路が広がっていた。
狐はピクリと耳を反応させる。
微かに聞こえた。
逃げるように響く足音。風。息遣い。空気を切り裂く音。三つの声。
「死神! 左だ!」
ボリュームを抑えたつもりだが、果たして声量を調整出来たかどうか。とにかく、狐は叫んだ。
死神は弾かれたように左へ駆け出す。しかしそれでは間に合わないだろう。
狐は死神の後を追う最中、人型を解いた。すると、通路をみっちり塞ぐような大きな獣の姿が現れる。これが狐の本来の姿だった。
「乗って!」
素早く死神が狐の背に乗り、ふさふさとした黄金色の毛に掴まった。九つの尾も人型の時より大きい。
狐は大きく地面を蹴る。
# # #
「もしかしてなんだけど、目、見えないの?」
そう問うた私に、月森君は苦笑して答えた。
「雨水の声は、聞こえるんだけどな」
月森君は、視覚が機能していない事を何とも思っていないみたいだった。まるで憑き物が落ちたかのように笑っている。それが最初の違和感だった。
私は見えない月森君に状況を説明しようと、格子状の牢の中に居ることや、鎌鼬が今こちらを見張っていること、戒里さんも一緒に居たが今は何処にいるのか分からないことを伝えた。
悪い夢でも見たのか、魘されていた彼の額には汗が滲んでいる。私はポケットから白いハンカチを取り出し、月森君に渡す。渡すだけなのに、そのやり取りでさえ、少し時間がかかった。
元々見えていた人が急に見えなくなったのだ。きっと猫又が何かしたに違いない、と決めつけていたが、月森君と話している内にその線は消えた。
何だってこんな。そう思ったが、見えなくなった彼に当たる訳にもいかず。代わりに鎌鼬を睨んでおいた。少しだけスッキリした。当然、鎌鼬からも睨み返された。
此処から脱出しよう、と言い出したのも、私だった。月森君は私にハンカチを返した後も、無言だったから。目が見えなくなったことを気にしているだろう彼も、牢から出たいはずだと思っての言葉だった。
しかし、予想外のことが起きた。
あろうことか、月森君は首を横に振ったのだ。
「な、なんで」
『優しい雨水さん』を演じるのも忘れて、素で尋ねた。
月森君は困ったように笑う。
「無茶なことは、しない方が吉だ」
いやだから、吉だとか言ってる場合じゃないんだってば。このままだったら、私達はベニバナサマに喰われるかもしれないだよ。早く逃げないと——
「……ぁ」
声が漏れそうになって、咄嗟に手で口を塞いだ。幸い月森君には聞かれていない。
気付いたのだ。月森君が元より、逃げ出そうとしていないことに。これもまた違和感があった。
どうしよう。
このまま動かないでいたら、確実に私達はベニバナサマに……。月森君の言う通り、牢から逃げるのは無茶かもしれない、だけどそれをするしかない。
私は死神さんから貰った腕輪に触れる。落ち着け、落ち着け。静かに呼吸を繰り返す。
「……」
前方、牢の前には鎌鼬。右隣には視覚を失った月森君。
牢の鍵は鎌鼬が持っている。腰元にキラリと光る鍵を見つけてはいたのだ。それを手にするのは難しいが、手に入れさえすれば、鍵穴は向こうだが何とかなりそうだ。格子の間隔は思ったより広いし、私の腕が通る。
猫又が出て行った扉は奥。だけど走れば五秒前後で扉の前までは行けるだろう。
問題は鎌鼬と鍵だ。私は鎌鼬の腰元にぶら下がる鍵を見た。
鎌鼬が私達を故意的に殺すことはまずあり得ない。ベニバナサマからの指示を違えるはずがないから、見張りをし続ける。
「……はあー」
小さく息を吐いて、覚悟を決める。
やるだけやってみよう。
月森君に断りは入れず、私は牢の入り口に近寄った。鎌鼬が警戒の色を示す。
「鎌鼬さん」
「……何だ」
あ、返事はしてくれるんだ。
「どうして私達を此処に閉じ込めるの」
もちろん、私はその理由を知っている。ベニバナサマの生贄として捧げるためだから。
案の定、鎌鼬はそう答えた。
「逃げようとしても無駄であるぞ。お前達は此処からは出られない。たとえ牢から逃れたとしても、この世界からは逃げられない」
この世界? 異空間のこと? 世界と呼んでいるのか。
「逃げられるよ」
「何?」
「私には、あるヒトがついてるから」
笑え、いつもと変わりないように。余裕だと思わせるのだ。
「あるヒト……まさか、あの化け物のことか」
「化け物?」
そういえば、死神さんのことを鎌鼬は化け物だと言っていた。
「思えば、お前は死神と呼んでいたな。あんなの、紛い物なのに」
鎌鼬がくくくっと低く笑う。
私は気にしないふりをして、笑顔を貼り付けながら、馬鹿にしたように笑う鎌鼬に言葉を投げた。
「……紛い物といえば、ベニバナサマもそうなんでしょう」
ピタリと鎌鼬の笑いが止まる。
「何だと?」
予想以上に食いついた。怒りに染まった視線を受けながら、私は口を開く。
それは、図書館で見つけた本に書かれてあった事。
「紅花神社を建てられながら、神様になれない妖怪。いや、妖怪でもない」
鎌鼬の顔に動揺の色が見て取れた。
「紅花神社が創られたのは、ベニバナサマの怒りを鎮めるため。でもそのベニバナサマは、今も昔も恐れられてるけど、神様と呼ばれるような尊い存在じゃない。だって人を食べるんでしょう。崇められる訳がないじゃない。あなたが慕っているベニバナサマこそ、化け物——」
「うるさいッ! あの方は化け物ではない!」
鎌鼬がガンッと格子を叩く。私は腕輪に触れながら、言葉を続けた。
「戒里さんも言ってた! 人や妖怪を食べるのは、妖力を取り込むためって。だけどそうしなくても、妖怪は元々妖力がある程度備わっているから、人も妖怪も食べる必要はないんだ。じゃあ、人や妖怪を食べるベニバナサマは何だって言うの?!」
「黙れ! 黙れぇぇえ!!」
「神様にも妖怪にも成り損なった、」
「うるさい、うるさい、うるさいぞッ! 黙らんか人間!」
鎌鼬が叫ぶ。比例して、格子を叩く音も大きくなった。
殺意を帯びた双眸が私を射抜く。
「お前に、あの方の何が分かる!! 何も知らぬ人間が、あの方を愚弄するなッ!!」
鎌鼬が腕を振り下ろす。同時に強い風が真正面から吹いて、私はそのまま後ろに吹き飛ばされた。壁に背中を強打する。あまりの鈍痛に奥歯を噛み締めた。
「お、おい。雨水?」
見えない月森君は、私と鎌鼬の会話しか聞こえていなかっただろう。だが逃げる気のない月森君に説明したって時間の無駄。
「合図したら、月森君も走ってね」
「は? どういう」
「いいから」
鎌鼬はこちらを睨んだまま。しかし、概ね想定通りだ。背中が痛いのは我慢して、私は鎌鼬に声をかけた。
「鎌鼬さん」
「何だっ!!」
キレながらの返答。親切なんだか不親切なんだか。
「鍵、向こうに飛んでいったけど、大丈夫?」
私の言葉は予想外だったのだろう。鎌鼬は拍子抜けしたような表情を見せ、またすぐさま顔を引き締めた。
「そんな戯言に騙されるわけがないだろう! 鍵なら此処に————って」
鎌鼬の顔が真っ青になった。ない、ない、と呟きながら、自分の体をまさぐる。
「鍵なら、扉の方に飛んでいったけど」
さっきの風で、と付け加えることを忘れない。
鎌鼬の視線が逸れる。彼が牢の前から離れていく。
鍵を探し始めた鎌鼬の怒りは、間違いなく醒めていないだろう。
私は先ほどの問答で引ったくった鍵を、格子牢の鍵穴に入れる。回すのに苦労したが、鎌鼬はまだ鍵を探しているようで、こちらに気付いていない。
カチャ、と微かな音を耳で拾い、私は後ろにいる月森君の手を握った。
月森君は驚いたように目を丸くしたが、彼の瞳は何もかもを映さない。
「絶対に手を離さないでね」
それだけ告げて、私は格子牢から出た。キィと鳴った音に気付いて、鎌鼬がこちらを振り返った。
「小娘、謀ったな!」
怒りの形相。
「月森君、走って!」
私は月森君の手を引きながら、持っていた鍵を鎌鼬の顔に投げつけた。それに気取られた鎌鼬は足を止める。その隙に私は扉の前まで来た。
しかし私の力では容易く扉を開けられず、扉のノブをガチャガチャと揺する羽目に。
折角『鎌鼬を動揺させる作戦』が成功したのに!
「くそ、逃すか!」
背後から鎌鼬の声が迫る。
やばいやばいやばい。頼むから開いて!
ガチャ。
「開いた!」
開けた扉の先には、三つの通路。道を選んでいる暇はない。
逃げやすかった左の通路を駆ける。
「雨水! 何が起こってるんだ!?」
「説明は後! 鎌鼬が追ってきてるから、今は撒かないとだめなの!」
「撒くって……」
ひたすら走る。
走りながら焦る。この通路を選んだのは間違いだったかもしれない。隠れられる場所が一つもないのだ。扉も見当たらないし、部屋に隠れることも出来ない。
通路の先が行き止まりでないことを願いながら、地面を蹴った。
「待て、小娘ども!!」
後ろから、怒号と共に風が吹く。
追いつかれたら、もう逃げるチャンスは巡ってこない。
走ってからどれくらい経ったか分からない。一時間走っているような感覚だが、実際は五分も走っていないだろう。
一方通行に思われた通路は、途中曲がり角が幾つかあった。曲がり角が来る度に、勢いをつけすぎていた鎌鼬が壁にぶつかるから、何とかそれで逃げている状況だ。
だけど、もう精神が限界だった。逃げ切れない自信だけが一丁前にある。そんなの要らないのに。月森君も見えない状態で走るのはきついだろう。
そう考えていると、後ろからまた突風が吹いて、今度こそ私はバランスを崩してしまった。月森君も一緒になって転ぶ。
「やっと、追いついた、ぞ。小娘ども」
鎌鼬も若干疲れているように見えるが、そんなことは言ってられない。
追いつかれてしまった。
「逃げた罰だ、小娘!」
鎌鼬が私を見たかと思うと、右腕に痛みが走り、思わず痛む箇所を押さえた。すると手のひらにぬるりとした感触があり、目を向けると、血が出ていた。重力に従い落ちる血の量が、傷の酷さを物語っている。
痛い、痛いが、目の前の妖怪から逃げられないことがもっと痛いと感じた。
「雨水? どうした?」
こちらの様子が伝わっているはずもないから、仕方ないことだが、それでも月森君の呑気さに今は苛立った。しかし、彼のお陰で頭が冷えていく。
私の頭を占めるのは、あるヒトのとある言葉。
あれは、放課後、雨の日の教室で言われたのだ。
『心の底からボクを求めれば、ボクは何時でもキミの元へ』
鎌鼬の手がこちらに伸びる。これで二度目だ。だが今回は目を瞑らなかった。
私は、願う。
「頑張ったね、沙夜」
ふわりと体が包まれた。聞こえた声、私の頭を撫でる手の温もり。それらはついさっき私が願ったもので。
「死神さん……!」
安心で、もう泣きそうだった。
鎌鼬が突然の来訪者に目を剥く。
「お前っ! 何故此処に!!」
「キミが知る必要はないよ」
飄々と笑う死神さん。
「よくもこの子を傷つけてくれたね。どう落とし前をつけようか?」
「なっ、化け物の分際で」
鎌鼬が不自然に言葉を切る。
「あ、来たみたいだね」
それを聞く前に、鎌鼬は後ろを振り返った。大きな音が近付いてくる。
「し、死神さん。この音は……?」
「ん? ——大丈夫だよ。あれは味方だから」
味方?
疑問に思ったのも無理はなかった。
曲がり角から現れたのは、黄金色の大きな獣。辛うじて狐と分かる容貌は、とても味方には思えなかった。
「全く、いきなり居なくなるから驚いたよ」
「ごめんね。沙夜に呼ばれたから」
狐と死神さんが会話をしている。
でも、この大きな狐、何だか聞いたことのある声だ。
「鎌鼬、観念しな」
「ふぎゃっ!」
狐の前足で鎌鼬が潰されそうになっている。
「雨水、月森、大丈夫だったかい?」
そうだ。この声は。
「み、宮原先生?」
肯定するかのように、狐が目を細めた。
7
* * *
真っ白な空間の中心に、一つだけ、これまた白いテーブルが置いてある。丸いテーブルを囲むように置かれた椅子は四つ。その内三つは、俺と先生と女性で埋まっている。言うまでもないが、椅子の色も白い。
真っ白な空間、とはいえ、何もない空間ではなく。周囲には不気味なほどに扉が散在していた。西洋式の派手な扉や日本の一般家庭にあるようなドアなど、実在する扉もあれば、現実世界に存在しないだろうと思われる、形からして奇抜な扉もある。
『異空間に入り込む道具、ですか』
ふと目についた植物が絡まってい扉は、絵本とかに出てきそうだと思った。しかしその斜め後ろの高さ十メートル以上もの巨大な扉は現実味がなさすぎる。何だか今にも動き出しそうな龍の顔が扉の表面についているし、その上、龍の顔も立体的で少し怖い。あれ、今目が動かなかった? 気のせいだよな?
「戒里が持っていた瞬間移動の道具も、君が作ったんだろう?」
テーブルの上には、気付けばティーカップが三つ置かれている。カップから漂ってくる紅茶の香りは、普段俺が口にしないもので、手をつけるのに抵抗感を覚え、まだ飲んでいない。
『何のことでしょう。私は戒里様に頼まれた物しか作っていませんよ。小さな天狗さんが持っているそれですわ。ご存知でしょう?』
すらすらすらと書かれた文字を見せられ、先生が渋い顔をした。
「あれは君が作った物じゃなかったのか……」
ならば誰が作ったと言うのか。その質問の答えを持ち合わせる者は、今この場において誰も居ない。
『異空間に入り込む予定があるのですか? そもそも夜雨様は異空間に入るのが苦手だったのでは?』
「そうも言っていられる状況じゃないんだ。それで、どうなんだ? あるのか、ないのか」
『一応、ありますわ。瞬間移動とはまた似て非なる物ですけれど』
取りに行きますから、大人しくしていらして、と書き置きをして女性が席を立つ。そのまま右横の一番近くの木製の扉を開けた。
扉の中に入っていった女性の後ろ姿を見送ってから、俺は先生に尋ねた。
「煙々羅ってみんな筆談なのか?」
先生がぱちくりと目を瞬く。
「いいや、
「そうなのか……」
あんな綺麗なヒトが元々煙だったことでも驚いたが、煙々羅という妖怪が煙の妖怪なのだと今更ながらに気が付き、それもそれで驚いた。
でも、そうか。『煙々羅』だもんな。現れた時も、煙らしきものからの変身だったもんな。
「佐々木、一つ言っておきたいことがある」
突然、改まった様子で先生が言った。
「君のフルネームを妖に知られないように気をつけろ。彼奴も例外じゃない」
「何で? 知られたらまずい事があるのか?」
「
だから、気を付けろ。先生が繰り返した。それとな、と続ける。
「人間も、ある手順を踏めば、オレ達妖を縛ることが出来る」
「それって、妖怪の真名を知ったら……ってことか?」
先生が頷く。
「操られる、というのが一番いい表現かもしれない。真名を知られ、とある手順を正しく遂行されれば、妖はその人間からは逃れられない。たとえその人間が亡命しても、妖は囚われたままなんだ。——だから、佐々木はするんじゃないぞ?」
最初は真面目に語っていたのに、最後は冗談めかしに言われた。
「しねえよ。っていうか、手順も知らねえし」
俺の表情を見て、先生が笑みを浮かべる。想定した返答だったのだろう。
「とにかく、彼奴にバレないように気を付けろ。真名に関しても、人間である事に関しても。後者は最悪バレても良いが、ある意味大変な目に遭うぞ。とはいえ、人の子とバレた方が、交渉はしやすいだろうがなあ」
ある意味? どういう事か問おうとしたが、その後の言葉と、先生が愉快そうに笑っていたのを見て、言葉に詰まった。本当にどういう意味だ?
ちょうどその時、木製の扉が開いた。俺は反射的に口を噤む。
「……」
ふと、夜野先生と呼ぶ事は、彼にとってどういう意味を持つものなのか、疑問に思った。
もう先生ではないのに、と思っていたりするのだろうか。それとも、真名を呼ばれるよりずっと良い、と考えていたりするのだろうか?
戻って来た女性が席に着く一連の流れを眺めながら、分からねえなあ、と心中で零した。
何の脈絡もなくすみれ堂が頭に浮かぶ。思えば、長谷川さんに、先生は名乗りさえしなかった。関わること、名を知られること、それらを避けたかったのか。だから人としても会いにくる事を、頑なに拒んだのだろうか。
……それは何だか、寂しいことだな。
なんとなくそう考えてしまった思考回路を断ち切って、俺は女性が持って来た物に関心を向けた。
『これに行きたい場所を示す言葉を書き込んで、適当に扉かドアに貼るだけ。貼ったら、これは自動的に消えます。処分もしなくて済みますし、簡単でしょう?』
机上に並べられた五枚の長方形の紙。お札のようなそれは、表裏ともに文字も記号も何一つ書いておらず、普通の紙より若干分厚い。
これが? そう思ったのは俺だけではないようで。
「どんな素材を使ったんだ? ただの紙にしか見えない」
『素材も作り方も秘密。使ってみれば、ただの紙ではないとお気づきになりますわ。あ、勝手に触れないで下さいよ。まだ対価を支払っていないのですから』
女性が筆を置き、水を掬うみたいに、両手の掌を上に向けた。
それを見た先生が「対価を払うのは、本当に使えるか確かめてからだ」と言ったが、女性はお構いなしだ。ため息を吐くと、先生が呆れた顔で俺を見やった。
持っているだろう? そう問われ、思い至った俺は、パンパンに膨らんだ短パンのポケットからそれを取り出す。幾つか飴の入った小瓶。
「……」
変わらず無口だが、小瓶を目にした彼女の瞳が輝く。
ずいっと俺の方に両手を寄せ、早く早く、と言わんばかりに指先を揃えて動かす。
その様子に若干引きながら、俺は白い両掌に小瓶を置いた。その際、親指が少し触れた。彼女に体温はなかった。冷たいとも、温いとも感じない。マネキンの手よりも柔らかいのに、マネキン並みの温度だ。
先生の手は俺と同じ温度だったために、余計不思議だった。
そんな風に考えながら、俺が小瓶から手を離した時、その手をガシリと掴まれる。
「!?」
女性は小瓶を片手に乗せたまま、もう片方の手で俺の手を触る。訳が分からず、されるがままになる。先生も止めようとしたらしいが、女性がそれを突っ撥ねた。
ぺたぺたと触られ、流石に居心地が悪くなった頃、やっと俺の手は解放された。
小瓶を握ったまま、女性が何やら興奮したように筆をとる。ノートに次々と書かれていく文字を見て、俺は言葉を失った。
『貴女、人間ですね!?』
一枚目。
『通りで妖力が全く感じられないと!!』
二枚目。
『どうして此処に? 何故夜雨様と共に?』
三枚目。
その後も質問を繰り出す女性に、俺は圧倒された。傍で先生が苦笑い。だが、俺が人間だとバレた事に対して何の反応も示さないところを見ると、危険はないようだった。
『夜雨様、これはどういう事か説明していただけますね!?』
いつの間にか標的が先生へ。
仕方がないと、まるでこうなる事が分かっていたかのように、先生は俺達の事情を語った。掻い摘んで話したにも関わらず、女性は直ぐに話の内容を理解した。
「この事は誰にも言わないでくれ。頼む」
『勿論ですとも。それでこちらの小さな天狗さん……ではなく、お嬢さんが人の子だと』
女性がピッタリと張り付く勢いで、俺の隣に椅子ごと移動する。ビクッと肩が揺れた。
『私、煙々羅の
可愛らしく微笑む女性。その手元にある文字を見て、俺はハッとした。
煙々羅の霞。それは、間違いなくこのヒトの真名。それを人間の俺に明かすということはつまり。
思わず先生に視線を向けた。先生と目が合う。声に出していないのに、俺の考えを読んだのか、先生は頷いた。同時に俺も「人の子とバレた方が、交渉はしやすいだろう」という言葉の意味を悟る。
俺は天狗のお面を外した。
霞と名乗った女性に向き直り、口を開く。
「俺は、佐々木。佐々木波瑠だ」
『まあ、良い名ですわ!』
霞さんを見て、妖と人は”これ”で対等になるんだと、この時初めて理解した。
「それで、本題だが。これはちゃんと使えるんだろうな?」
先生が話を軌道修正する。
元の位置に戻った霞さんはまた筆をとった。
『思いがけない対価も受け取りましたし、特別に手本をお見せしましょう』
机上の紙を一枚手に取り、そこに筆先を滑らせる。
なんと書いたか教えてもらえないまま、手招きをされ、霞さんが行く方向に付いていく。
「先生、これ」
お面を返す。先生はそれを受け取りながら、俺の頭を軽く撫でた。
良くやった、と副音声が聞こえそうだ。
俺は苦い顔をした。だって気付いたのだ。先生が俺を連れて行ってくれたのって、十中八九交渉のためだろう、と。境内での問答を思い出す。やけにあっさり引くな、と思ったんだ。
『此処は私が作った異空間。扉が多いのは、あらゆる場所に出入りするためです。その内、この術具を使うこと専用に作った扉もあります。……それが、これ』
立ち止まる。其処には、真っ白な空間と同化するようにして在る、何の模様も装飾もない白塗りの扉。実は言うと、眼前に在る扉に気が付くのに時間がかかった。それほど、隠されたように存在していたのだ。
『話を聞く限り、ベニバナサマという妖は非常に厄介である様子。戒里様が此処を訪れた時、封印が解けた事を喜ばなかったのは、そういう事情があったゆえでしょうね。封印を解くため、夜雨様達の手伝いをしたというのに、私は何も知りませんでしたわ』
俺は目を見開く。
戒里さんが封印されていたことは知っていた。宮原先生が言っていたから。だけど、霞さんもそれを手伝っていたとは。
『——夜雨様。百鬼夜行で面白い話を耳にしました。いえ、夜雨様からすれば、あまり面白くないかもしれません』
そんな前置きをする。良い情報でないことだけは確かだった。
「百鬼夜行の”道”の途中、とある美女がもてなしをしてくれる、という話か?」
霞さんは驚いたように瞬きをする。
『存じていらしたのですね、そうです。その話は、どちらから?』
「百目鬼の親分が言っていた」
ふむふむと頷く霞さん。
『とある美女、と抽象的に表現されていますが、私が聞いた話では、とある神社の主が宴を催すという内容で。その主が華やかな着物を纏った美しい一角の鬼だと』
「ベニバナサマは、確かに紅花神社の主だ……」
俺は呟いた。
「……第一、”道”の途中に宴があること自体おかしいんだ。何を企んでいるんだ」
先生が眉間に皺を寄せ、苛立ちげに舌を打つ。
『その”神社の主”がベニバナサマなら、その企みにも想像がつきますわ』
「本当か!?」
『ベニバナサマは人間を襲っているのでしょう? きっと力を欲しているのですわ』
人間を襲っている、と聞き、脳裏に雨水さんと月森の姿が過った。
心臓が嫌な音を立てる。
『ベニバナサマは分かっていたのでしょうね。宴と偽れば、より多くの妖がその街に訪れる事を。当然、力を持った妖も
「まさか」
先生は呆然と呟く。
『喰うつもりなのですわ。人も妖も関係なく、己がために。何よりも、莫大な妖力を手に入れるために』
霞さんが「紅花神社」と記された紙を白い扉に貼り付ける。何の原理か分からないが、紙は重力に逆らって扉に張り付いたままだ。
『これを』
先生に残りの紙四枚と筆が手渡される。筆先には墨も何も付いていなかったが、文字を書くことは出来るという。普通の筆だと思っていたが、これも術具の一つらしかった。
『波瑠さん』
霞さんが俺の名前を呼ぶ。
『貴女と会えて良かったですわ。また会いましょう』
「……ああ。また」
霞さんは百鬼夜行に戻らず、この異空間に残るという。俺達がどう行動するのか興味津々な様子だったが、先生に来るなと何度も釘を刺されたことで、最終的について来ることを諦めた。
彼女とは、もう会えない気がする。会う術も知らないし、仕方がない事だが。
『宴があると聞き、興味本位の者や不審に思う者が百鬼夜行に参加していますわ。最早、それを止めることは不可能でしょう。明日の夜、”道”が無事通れるものであることを願っています』
ノートに書かれた文字を読み、俺と先生は白い扉に体を向けた。
先生が扉のノブを回す。開く音がする。
外の景色がチラリと見えた。
「佐々木」
離れるな、という意。俺が取り残される可能性を考慮したのだろう。
先生の服の裾を掴んで、扉の向こう側へ足を踏み出す。砂の地面に片足をついてから、名残惜しく後ろを振り返った。
開いたままの扉は真っ白な空間に風を運び、霞さんの髪を揺らす。
煙の如く白銀に輝く髪。
憂いのある淡黄色の瞳。
透き通るような白い肌。
優しくも温かみも感じる微笑み。霞さんがゆっくりと口を動かした。
お 気 を つ け て
声はなかったのに、そう言っているのだと分かって。俺は、思わず彼女をルカと重ねてしまった。
扉が閉じる。
瞬き一つをしたら、もう、眼前の扉は消えていた。
# # #
「月森の目が見えなくなった!?」
宮原先生の声に、ロープで縛られている途中の鎌鼬がビクッと体を揺らした。宮原先生はすでに大きな狐姿から人型の姿に変化している。七夕の日に見た狐姿こそが本来の姿だと思っていたが、どうやら認識に齟齬があったみたいだ。……ところで、あのロープ、何処から持ってきたんだろう。
「月森クン、今、ボクらの事見えてないの?」
死神さんが私の傷の手当てをしながら、のんびりと尋ねた。「そんな事もあるんだねえ」と言いかねない口調だったので、口を開きかけた死神さんが何かを言う前に、私は言葉を発した。
「視覚の事もあるんですけど、少し……様子がおかしくて」
今こうして話していても、月森君は口を開かない。他人事の顔をしている。実際、話題が自分の事だと分かっていないのかもしれなかった。
宮原先生も死神さんも不審に思ったのだろう。二人の目が迷いなく動く。
「鎌鼬にやられたのかい?」
縛り上げられた鎌鼬に嫌疑がかかった。
「し、知らぬ! 俺は関係ない! 小僧が勝手に堕ちただけであるぞ……!」
弁明する鎌鼬からは、威圧感も何も感じない。
鎌鼬の言葉に宮原先生が片眉をピクと動かすが、その口は閉ざされている。
堕ちた。その意味は分からない。だけど、月森君がこうなっている原因が鎌鼬でも猫又でもないことは分かっている。
「なあ」
その時、長らく黙っていた月森君が身じろいだ。戒里さんのように胡座をかき、灰色の壁に背を預けながら、彼は言う。
「何で居るんだ?」
場が静まり返る。どういう意味なのか、誰も理解出来なかった。月森君が口を開く。
「宮原先生に、死神さんに、雨水。何で、此処に居るんだよ。鎌鼬はまあ、分かるけど」
平然と言ってのける。
私は巻き込まれに行ったのと巻き込まれたので半々。死神さんは私の願いを叶え、此処に来てくれた。宮原先生は……。
「助けに来たんだ」
鎌鼬を死神さんに任せ、月森君の前でしゃがみ込む。
「君と雨水を助けに来たんだよ。攫われた瞬間も見ているからね」
「……」
「これを使えば、帰れるよ。覚えているかい?」
そう言って宮原先生が取り出したのは、何時ぞやの瞬間移動が可能の道具。
なるほど。確かにこの道具を使えば。
「あたしはまだ此処に残らないといけない。戒里もまだ見つかっていないしね。だから、君達だけでも先に戻っておくれ。死神には、此処を出た後、鎌鼬を夜雨の所へ連れて行ってほしい。頼んだよ」
立ち上がった宮原先生は道具の操作をする。
鎌鼬は死神さんに首根っこを掴まれ、さらに「重っ」と言われた事で怒っていた。勿論、私達がこの異空間を出ようとしている事にも猛反対していた。しかし、自分が化け物呼ばわりした者に笑顔で圧をかけられ、次第に勢いが弱まっていった。最終的に「ベニバナサマの役に立てなかったね」と言われ、ダイレクトに意気消沈していた。敵ながら、可哀想になった。
「沙夜、立てる?」
「はい」
準備が出来たらしい。こちらに手を差し伸べようとしてくれる死神さんには申し訳ないが、その反対の手に掴まれた鎌鼬がこちらを睨んでいたので、私は自力で立ち上がった。
月森君の方を見ると、そちらは宮原先生に体を支えられて、何とか立ち上がったようだった。
「死神」
「分かってるよ。これを持っておけば良いんでしょ」
宮原先生は本当に戻らないつもりだ。瞬間移動の道具を死神さんに預ける。
私と月森君に死神さんから離れないように言いつけ、宮原先生が一歩下がった。
「……」
月森君は無反応。俯いており、はっきりとは分からないが、顔色が悪いように見えた。
声をかけようとしたが、その前に足元が青く光り、私は口を開けず。光の糸が漂い、やがてそれは私達を中心として円を描くように、空中で揺蕩う。
眩しさで目を閉じた。
光が私達を呑み込んでいく。その感覚に身を預けようとして————
前から、両肩を押された。
ドサっと尻餅をつく音が二つ。小さな衝撃を感じて、私は目を開けた。
「なっ!」
光の奥で、宮原先生の声が上がる。驚愕。それとも、戸惑い?
死神さんが驚いたようにこちらを見ているのが辛うじて見えた。だけど、それまでだった。光に呑まれて、死神さんと鎌鼬の姿が消える。宮原先生も倒れ込むようにしてその光に呑まれた。
目の前で跡形もなく光が消えた。死神さんも宮原先生も、鎌鼬だって居ない。居るのは、呆然とした私と、その隣で同じような体勢でぼうっとしている月森君。
……何が起きた?
光に呑まれた宮原先生は、まるで後ろから押されたみたいに体勢を崩していた。
何が起きた?
混乱する頭で考えても、結論は一つ。
私と月森君は取り残されたのだ。
「……ど、どうしよう……!?」
もう少しで戻れたのに。やっと死神さんと合流出来たのに。どうしてこうも上手くいかないんだ。焦りが思考回路をぐちゃぐちゃに踏み荒らす。
「雨水、何か聞こえないか?」
ぼんやりとした声色。危機感も何もない。だが、伝えたい事があるのは本当のようで。
「……」
耳を澄ますと、確かに聞こえてくる。
からん、からん。しゃらん、しゃらん。
「…………でも……眠く、ならない……?」
私の声の後に続いて、月森君も音の不思議さを語る。
「何か、子供の声……みたいだな」
からん、からん。しゃらん、しゃらん。
気味が悪い。怪我をした腕を摩りながら、私は周囲を見渡す。足音はしないのに、この声は一体何処から聞こえてくるのか。
だんだん、声だけが近くで聞こえてきて、怖くなった私は月森君の手を掴み、逃げる体勢を取った。
「誰か居るのか」
「居ない、けど。声が近付いてきてるから」
「……そうか。走る時は、合図してくれ」
「うん」
そんな会話をした後、しん、と声がなくなった。
あれ? と首を傾げる。しかしそんなのは束の間の安息に過ぎなかった。
「——おねえさん」
私は驚いて、息を呑んだ。
眼前に、少女が立っていたのだ。生気が感じられないほどの白い手足。くすんだ色味の小袖を身に纏っている。その少女は後ろ手に手を組み、紅い目を細めて言った。
「また会ったね」
間違いなく、灰色の世界で会った少女。
「此処で話すのは駄目ね。場所、変えるから」
言葉を失った私に構う事なく、少女はふふっと笑う。
今度こそ、意識が遠のいていく感覚があった。見えない月森君も感じたのだろう。
抵抗する間もなく眠りについた私達を見下ろし、少女が呟く。
「ごめんね。もう少しだけ、頑張ってほしいの」
ぽちゃん、と何処か遠くで水の音がする。
「からん、からん……しゃらん、しゃらん……ってね」
その呟きが空気に溶けて消えたように、横たわる少年少女の姿もその場から消えた。
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