第4章 烏と林檎飴

 1

   # # #


 涼しい風も吹かなくなっていき、太陽が爛々らんらんと地上を照り付ける頃。私達小学生の待ちに待った夏休みが、もう直ぐそこまで迫って来ていた。

 終業式が行われているのは体育館。

 「——児童の皆さんは、えー。夏休みの間にきちんと宿題をやるように、えー。家事の手伝いもするようにしましょう」

 口癖なのか会話の途中に「えー」が多い校長の話は、明日から始まる夏休みの注意点についてだ。

 藜野あかざの小学校に転校して来た私にとっては初めての夏休み。だが学校は違えど校長の話は共通しているらしい。退屈な気持ちを誤魔化すように周りに視線を向けてみる。

 「校長のあれ、絶対カツラだぜ」

 「だよな。不自然だもん。こう、ふわっとしてるっつうか」

 「漫画だと風で飛ばされるやつじゃん。マジですっ飛んだらウケる」

 こそこそと校長を笑い者にして楽しんでいる男子達は隣の列、つまり二組の児童だ。

 二組を挟んだ向こうは三組の列で、そこでもお喋りする児童が目立っている。比べて私のクラス、一組はわりと静かだが、大半が眠そうに目を擦り欠伸を隠すことなくやってのけていた。

 それにつられそうになった私は、平静な顔つきを保ちつつ欠伸を噛み殺し、もう一度舞台上にいる校長の話に耳を傾けた。

 その時だ。

 開かれた後ろの扉から生暖かい風が吹き込み、その風に乗って校長の髪が宙に飛んだのだ。そして弧を描くようにして教頭の頭にそれは着地し、一瞬、静まり返る体育館。

 「………………」

 頬が紅潮していく校長に、二組の男子達が笑い声をもらした。そして耐え切れなくなったのだろう、直ぐにそのくすくす笑いは大声に変わった。そこから他学年の児童にも伝染し、体育館は皆の笑い声で溢れ返る。先生達も心なしか笑いを堪えているようだ。揃いも揃って肩を震わせ、顔を校長から背けている。

 「い、以上です」

 壇上から逃げるように、顔が赤くなった校長は舞台袖に姿を消した。

 そりゃあ、恥ずかしいよね。全生徒の前でカツラが吹っ飛んで、笑われたなんて。

 私も口元を緩ませてしまったが、校長に対して同情心が芽生えそうになる。

 「えー。他に連絡がある先生はいらっしゃいませんか?」

 頭に乗ったカツラを手に取ってさりげなく後ろに隠す教頭。それを指差して笑う児童がちらほら。

 他の先生から連絡がないことを確認すると、教頭は締めの言葉を口にした。

 「以上で終業式を終わります。一年生から順に、教室へ戻りましょう」

 二階の窓から射し込む陽光が、体育館の熱気を余計に煽る。ざわざわと騒ぎ出す児童の声を耳にしながら、私はそっと息をついた。

 ——ああ、暑い。

 蝉の声が近くで鳴って、誰もが思っていることを思わずにはいられなかったのだ。



 通知表を受け取り、あっという間に下校時間。

 終業式は四時間目で学校が終わるから気が楽だ。出来るなら一人で帰れるようにしたい。

 「沙夜ちゃん!」

 ランドセルに通知表や学年便りを挟んだ無地のファイルを入れていると、斜め前の席の女子に声をかけられる。ランドセルも背負っているから、もう帰るところなのだろう。

 「どうしたの?」

 首を傾げて要件を聞く。

 「この町の紅花べにばな神社から、住宅街と河川敷あたりまでの範囲で行われる夏祭り、知ってる?」

 「夏祭り……? この町にあるの?」

 「うん。やっぱり沙夜ちゃんは知らないか。去年の夏の終わりに転校してきたもんね」

 夏祭りについて説明しようと言葉を選んでいる彼女は、名を藤沢楓ふじさわかえでという。同じクラスだ。藤沢さんは元気で活発な性格で、誰からも好かれる。しかし見かけによらず運動は嫌いらしい。

 「えっとね、この町では夏祭りが一回だけ行われるの。回数は少ないけど、規模は大きいんだよ。さっき言った通り、神社から住宅街と河川敷までの範囲で開かれるから」

 「住宅街って私達が住んでる、あの?」

 「そう! あの『寂れた住宅街』!」

 『寂れた住宅街』とは、藜野小学校の約七割が住んでいる住宅街のことだ。正式な名前は勿論あるのだが、あの住宅街と言えば伝わるため、最近は住宅街の名前を聞かなくなった。

 『寂れた』がつくのは、日頃から外出する人が少なく、静かだからである。

 「あの住宅街も、夏祭りの日は珍しく賑わってるんだ!  いつもは全然人がいないのに、ホント不思議だよ。それでね、その夏祭りに一緒に行きたいなって思って。七月二十七日なんだけど、どう?」

 困った。どうかと聞かれても分からない。二十七日は休みの日なのに、会わなくちゃいけないとか……。いや、とりあえず何か言わなければ。

 「予定があるか分からないから、確認できたら電話するよ」

 「了解! 今日は一緒に帰れるから碧も誘って帰ろ〜」

 「うん」

 一人で帰りたかったけど。

 心中で呟いた。

 筆箱を最後に、ランドセルの錠前を閉める。カチ、と音が鳴ったのを聞き取ると、それを背負って藤沢さんとある子に近寄った。

 「あお〜。一緒に帰ろう。あっ、帰り道で本読もうとしないでね! 沙夜ちゃんと久しぶりに帰れるし、道ばたで危ないし!」

 藤沢さんが言った『碧』とは、同じクラスの鈴風碧すずかぜあおのことを指す。彼女は基本的に落ち着いた性格で、勉強も運動も出来るため女子から好かれている。怒ったら怖いという噂があるからか、男子は怖がっているようだが、それも鈴風さんにとってはどうでもいいみたいだ。

 「分かってるよ。楓と沙夜ちゃんと帰れるなら、本は読まない。そもそもそんなにしたことないけど」

 笑って机に置いていた焦げ茶色のランドセルを背負う。

 「夏祭りに沙夜ちゃんを誘ったんだけどさ、碧も来れるって言ってたよね」

 「うん。おばあちゃんが新しく浴衣を買ってくれたから、祭りには行こうと思ってる。沙夜ちゃんも来るなら、張り切ろっかな」

 「あはは。碧は本当に沙夜ちゃんのことが好きだねー」

 「もちろん! 楓だってそうじゃん?」

 「まあね!」

 純粋な笑みを浮かべる二人に、居心地の悪さを感じる。しかしその気持ちを胸の奥底へと押し込み、今日も今日とて私は笑顔を表情に乗せた。

 「ありがとう。私も二人にそう言ってもらえて嬉しいな」

 実際『好き』と言われて心が揺らがない訳じゃないし。ただ嬉しいと思っても気を抜いたら駄目だ。ボロが出る。

 「本当? やったー!」喜ぶ藤沢さん。

 「わたしも嬉しい」満面の笑みを浮かべる鈴風さん。

 私はその様子に微笑みながら、二人と並んで一組の教室を出た。

 教室ではクーラーが効いていて涼しかったが、廊下は生暖かく、そこに居るだけでも汗をかきそうだ。

 「そういえば終業式の校長の頭、すごいことになったよね」

 藤沢さんが今朝の話題を口にする。

 「楓ちゃん、ずっと笑ってたもんね」

 心の中では『藤沢さん』だが、声に出す時は下の名前で会話をする。『友達』は名前呼びか名前に"ちゃん"を付けるか、という自己ルールに従ったためだ。

 「沙夜ちゃんもあれは笑うでしょ! だって漫画みたいに飛んだんだよ、カツラが!」

 否定は出来ない。校長のカツラが吹っ飛んだ場面を見て、少なくとも面白いと思ったのは事実だ。

 「まあ、あとで笑ったことを先生に怒られちゃったけどね」

 苦笑気味にそう返すと、確かにそこは笑えない、と未だ抜けない笑いを含んだ声で藤沢さんが言った。

 「あ」

 ふと、隣を歩く鈴風さんが声をもらした。

 「あの人……」

 指をさすことはなかったが、その視線は前を歩くある人に注がれている。

 佐々木さんだ。

 それが誰なのか気付いた私は無意識に声をかけようとして、両隣にいる二人に制された。それと同時に自分に対して困惑する。どうして今、私は佐々木さんに声をかけようとしたのか。

 「沙夜ちゃん、やめときなよ。あの人には関わらないほうがいいよ」

 私の腕を掴んでそう抗議する藤沢さん。

 「そうそう。沙夜ちゃんがあの人と仲良くなりたいって思ってても、きっと無理だ。冷めた目で見られるか、無視されるかだけだよ」

 藤沢さんの意見に同意する鈴風さん。

 関わらないほうがいい。冷めた目で見られる。無視される。この見解はどういうことだろう。

 佐々木さんと以前話した時は、二人の言葉とは無縁な、どちらかというと穏やかで優しい人だったはず。七夕の日に色々気にかけてもらったから、断言できる。佐々木さんは誰かを無視するような人じゃない。

 だとしたら七夕以降に何かあったのだろうか。或いはそういう噂が校内で流れている——?

 「どうして?」

 私は最もな疑問を口にした。すると二人は不思議そうに顔を見合わせた。

 「もしかして知らない?」

 鈴風さんが私に問いかける。何が何だか分からないという意味を込めて首を振ると、今度は藤沢さんが口を開いた。

 「噂だよ。関わったら暴力を振るわれちゃうんだって。人をゴミとしか見てないから、話しかけただけでも睨まれるらしいよ。だから沙夜ちゃんも気をつけて」

 気をつけて、か。

 ……嫌いだなあ。

 勝手な噂だけで人を判断して、その人のことをよく知ろうとしないくせに、真に受けて。それで疑いもせずに周りに広めるんだもん。好きになんてなれない。

 思わず顔を顰めてしまいそうになり、慌てて『普通』の表情を取り繕った。

 幸い二人の視線は私ではなく、佐々木さんの後ろ姿を警戒気味に見つめていたため、表情を作ったことには気付かれていないようだ。

 ほっと息を吐き、私も佐々木さんに目を向けた。

 私と同じ赤いランドセルを背負っている彼女は、こちらを振り向きもせず突き当たりの角を曲がる。そうして佐々木さんが視界から消えたのを確認してから、私は思ってもいない嘘の言葉を吐き出した。

 「うん。気をつけるよ」

 ——そんな人じゃないと、否定できなくてごめんなさい。

 いつものように本音を押し殺して出来た罪悪感を、心の奥底へと閉じ込めて。私は気付かなかったことにした。


   * * *


 自分が校内で噂されているのは、なんとなく感じ取っていた。だがこうしてほぼ毎日避けられるのは、慣れたとはいえ気分が良いものではない。

 後ろから聞こえてきた会話の中には、この間少し仲良くなった雨水さんの声もあった。気をつけてと言われていたが、雨水さんはどう返事をしたんだろう。

 まあでも。

 「……関わらねえって決めたしな……」

 気になるが致し方ない。誰かと話してしまうと、仲良くなりたいと欲が出てしまう。それを親に知られたら終わりだ。またいつかのように暴力か罵声が飛んでくる。

 もう蹴られるのも貶されるのも嫌だ。ならば最初から関わらなければ良いというこの考えは、きっと正しいだろう。

 廊下の突き当たりを曲がり、階段を下りて一階へと歩を進める。間もなく一階の昇降口の下駄箱に辿り着くと、鳴り止まない蝉の声がさっきよりも大きく耳に響き、俺は眉をひそめた。

 虫は小さい頃から苦手だ。見ているだけでも鳥肌が立つくらいには、嫌だと心が訴えてくる。だから虫が多い夏はあまり好きじゃない。親からまた聞きたくない事を言われる日々が続く『夏休み』もあるし、正直クラスの人が喜ぶ気持ちには共感できなかった。

 「夏休み一緒に遊ぼー」

 「いいね、いつ集合する?」

 「夏祭りもあるから、今日その予定を立てよう!」

 聞こえてきた会話に知らないふりをし、俺は靴を履き替えて日差しの強い外に出る。

 みんなそうだ。夏休みを楽しみにして、実際楽しもうと思っている。宿題もある中、遊ぼうと約束をする。俺も出来るなら……。

 さっき会話していた人に羨んだ視線を向けそうになって、直ぐに思いとどまった。そのまま前を向いて歩く。

 考えないようにしよう。こうやって考えるから俺は駄目なんだ。

 親から反対されるからだとか、逃げ道を作っているだけの俺が、好き勝手動くのは許されない。いや、俺自身が許せない。

 七夕の日、思い出したはずだ。俺がどうして今の自分になったのか。だったらその決意を無駄にするわけにいかない。

 気が付けば俺は校門を横切ろうとしていた。

 一年生からずっと通ってきた道。どうやら見慣れた風景は、ぼうっとしていても迷わないらしい。

 校門を通り過ぎると目の前に多くの家々が広がる。藜野小学校は俺が住んでいる住宅街のど真ん中なのだ。道多き内の一つを俺は進んだ。

 この住宅街はいつも人通りが少ない。人が多く住んでいるにも関わらず、そこはどこか閑散としていて、つまらないと思う。賑やかな家も人の気配もあるのに、何で自分がそう思うのか俺自身不思議だ。

 だが今日は少し雰囲気が違う。夏祭りが月末にあるからだ。そのために準備する者は続々と登場し、人通りが少ない道も重そうな箱を持って歩く人が増えた。

 この町には神社があるが、屋台は神社に開くのではなく、近場の公園で開くことになっている。祭りといえど神社。汚れてしまったら駄目だという判断から、神社は綺麗に掃除をし雰囲気作りに提灯を飾るだけ。となれば屋台を開く公園も合わせて綺麗にした方がいいわけで、地域の人は積極的に手伝ってくれる人を募集しているのだ。

 見覚えのある四つ角を左折する。そういえば、月森の家はこの角を右に曲がって真っ直ぐ行けばあるのか。雨水さんの家はどこにあるんだろう。稲葉は、確か真っ直ぐだったな。学校からの帰り道はそうだったはず。

 それぞれの面々が頭に浮かび、無意識にそんなことを考えた時、一匹のからすが羽音を響かせて俺の前に現れた。

 「……っ」

 苦手意識から顔を歪めた俺に、烏は警戒することなく一歩ずつゆっくり近寄って来る。人に慣れているのだと思い、後退った。

 黒い羽。鋭いくちばし。監視するような目つきに、よく通る鳴き声。恐怖心に駆られ、意図せずとも体が硬直しそうになる。心臓が早鐘を打つように動いていた。

 近寄らないでくれと願う俺の心の内と対話するかのように、近くの木で蝉が鳴き続ける。そしてどんどんクァア、クァアと甲高い鳴き声が……くろいのが、おれの、そば、に——……。



 「おやまあ、怪我してるよ、烏さん」



 そんな声が俺に意識を取り戻させた。

 はっとして前をちゃんと見ると、そこには薄緑の着物を着たおばあさんが烏に話しかけている。おばあさんの言葉に理解が遅れたが、なるほど。確かに烏の足から赤黒い液体がアスファルトを染めている。血だ。

 気付かなかったが、思い返せば少し動きが鈍かったかもしれない。

 おばあさんはしゃがんで烏に笑いかける。

 「痛かっただろう。うちへおいで。手当てするよ」

 その言葉に、クァア、と弱々しく烏が鳴いた。

 目の前の光景に俺は目を見開いて驚くばかりだ。烏はもっと凶暴で、恐ろしくて、声をかけようものならその嘴で襲ってくる。そんな鳥だと思っていたのに。それにこのおばあさんは烏相手に笑いかけているし、手当てすると言っている。烏だってそれを了承するかのように鳴いた。

 不思議な光景だった。

 俺としては、何故おばあさんはそう平然と烏に近寄れるのか、理解に苦しむ。俺が烏を苦手としているからだろうが。

 ただ自分が情けないなと思った。一匹くらいなら大丈夫だ、まだマシだ、少なからず後退りはしないだろうと踏んでいたのに、たった一匹にすら怯え、後退したのだ。

 前に一度、多くの烏に囲まれたから、余計に恐怖が湧き出てきたのだろうか。結果的にその烏達は偽物のようなものだったわけだが、あの時の怖さは未だに覚えている。それが怯えに繋がるのなら素直に頷けるな、と俺は思考した。

 「お嬢ちゃんも大丈夫かい? 怪我してるなら手当てするよ」

 おばあさんが烏を優しく抱えて立ち上がる。

 問われているのが自分だと理解した俺は、大丈夫ということを伝えた。

 「気をつけて帰るんだよ」

 そう言って軽くお辞儀をしたおばあさんは、俺がさっき通った道に去って行った。その様子を動かず見届けて、ぽつりと呟く。

 「俺が女だって分かるんだ……」

 男に間違えられることが多いという訳でもないが、俺を認めてくれた気がして嬉しくなった。毎日のように母さんと父さんに否定されるから、その反動だろう。

 「…………」

 不思議なおばあさんだ。


   ☆ ☆ ☆


 「校長の頭、やっぱズラだったな!」

 学校の帰り道、満天の青い空の下で友達の稲葉が高らかに言い放った。

 「前々から怪しいと思ってたんだよ。あのなんかもこっとした髪の毛。ズラか? いやでもまさか、いやズラだな? いやいやそんなバカな——って思ってたけど、これでバンジカイケツだな!!」

 「解決ではないだろ……」

 校長にとっては公開処刑のようなもので、結局未解決だ。まあ僕も正直面白かったから稲葉のことをとやかく言う資格はないが。

 「俺にとっては解決だからいいんですぅ」

 口を尖らせて話す稲葉の顔は、拗ねたものではなく、冗談を言い合っている時のものだった。

 「にしても暑いな〜。今日何度だっけ? 二十八度はいってたよな」

 「あー、そうだな。気温が高いから熱中症には気をつけろって先生も言ってたし、二十八度はいってた。多分」

 ジリジリと蝉が木の葉に隠れて音を鳴らす。空には雲ひとつない真っ青な空。そして歩くだけでも汗が流れる蒸し暑さと、生温い風。まるで周囲が夏の季節に合わせて風景をすり替えたようだ。

 「気をつけろって言ってた先生がへばってたもんだから、俺笑ったわ」

 絶対歳だからだぜ、と稲葉はこそっと僕に囁く。思わず笑ってしまった。

 雑談をしながらその後も足を進めていると、見慣れた四つ角の中心部が、遠くに見え始めた。それを見兼ねた稲葉がとある話題を切り出す。

 「臨時で来てた夜野先生いたじゃん? 先生を辞めたって噂もないからたぶん他の学校に行っちゃったんだと思うんだけどさ、一翔は夜野やの先生が今どこの学校にいるか知ってる?」

 夜野先生。フルネームで言えば夜野おさむ。六月下旬に僕らの学校に新しく来た先生のことだ。だが一ヶ月も経たないうちに藜野小学校から居なくなった。僕らの担任も事情があって居なくなった理由は答えてくれない。それもあってか児童は動揺の声を上げ、周囲の先生に問い詰めては宥められていた。中でも一番質問にあったのは理科の、宮原里緒みやはらりお先生だ。宮原先生は夜野先生と学生時代からの仲で、ほとんどの児童が何か知っているのではと勘繰った。宮原先生もある意味災難だったと思う。

 「いや、知らないな」

 簡潔に、僕は何も関与していないと伝えた。だが稲葉はその返事が予想通りだったようで、やっぱりか……と軽いランドセルを背負ったままの肩を下ろした。

 「なんで知りたいんだ?」

 「ほら、七不思議調べする時にお世話になっただろ。もうちょっとちゃんとお礼を言いたかったなと思ってさ〜。宮原先生には言えたけど、夜野先生には言う機会があんまなかったから」

 機会がなかった? 同じ学校に居たのだから、いくらでもお礼を言う機会はあったと思うのだが。そう言うと稲葉は顔の前で手をひらひらさせた。その行為は差し詰め"無理、無理"といったところだろう。

 「一翔はタイミング良くお礼が言えたかもしんないけど、俺は違ったんだよ。休み時間やっと廊下で見かけて駆け寄ろうとしたら、あっという間に男子も女子も話しかけに行くんだぜ? 周りにいっぱい人がいて口々に質問とかしてるやつら見たら、俺に割って入るなんてできるわけがねーだろ。ああ、恐ろしかった。人気者ってすごいな」

 気温が高く暑いというのに、稲葉はわざとらしく腕をさすり、ぶるっと体を震わせる。その目はどこか悟りを開いているようにも見えた。

 「それは間の悪いことで。この町に住んでたら月末の祭りに参加すると思うけど、まずこの町にいるかどうかが怪しいしな」

 僕は笑みを浮かべながら軽く言った。

 「だよなあ……。祭りには来ねーよな」

 「どうするんだ? 稲葉」

 「……っあー! もう叫んだら出て来てくんねーかなあ!?」

 中々解決策が出なくて痺れを切らしたのだろう。稲葉は叫んだ。

 「それはそれで怖いだろ」

 思わず突っ込んだ。

 四つ角を右折すると僕の、真っ直ぐ進むと稲葉の家がある。中心部に着いたことだし、もう話は終わりにしなければ、ずっと帰宅できなくなるだろう。

 「稲葉。昼ご飯食べてから、神社の近くで集合な。今年も祭りの準備する人はそこが集合だって」

 「了解でーす、一翔センパイ! じゃあまた後でー!」

 小さく敬礼ポーズをキメて、手を振りながら真っ直ぐ歩いて行く。稲葉の去る姿をある程度見送って、僕は立ち止まり、周りに目を走らせた。

 青空に届きそうな電柱の頂上に、一羽の黒いからすが止まる。カア、カアと蝉の合唱に対抗するかのように鳴くその声が、僕に不吉なものを知らせてくれているように感じた。

 祭りの準備を手伝う人々はもう集合場所についている頃だろう。小学生や中学生などより、やはり下準備というのは大人がやる。募集されているから、毎年僕は弟と稲葉とで準備を手伝っているに過ぎない。遅めに下校したことも相まって、この道を通る児童も最早いない。

 よって、いつもより人の気配がする住宅街も、また閑散とした雰囲気に戻ってきていた。

 「、戒里」

 何もない空間に声をかけると、ざわっと空気が揺れ出した。それだけで、そこに何かがいることは明白だった。

 「つまんねェなァ……。オレは突然の声に驚いて慌てふためくお前の姿が見たくて隠れてたってのに」

 視覚的には誰もいないが、確かに僕の目の前でそいつが残念がっているという気配を感じとった。

 「ま、いいか」

 短い諦めの言葉が耳に入った途端、目前にある景色が変化する。人形をした和服姿の妖怪——戒里が姿を現したのだ。

 相変わらず片腕にはぐるぐると白い包帯が巻かれており、ほんの少し赤い血が滲んでいた。出会った当初からあった怪我は、未だ治らず健在らしい。そのせいで僕はこいつの手伝い役に選ばれたのだから、僕にとっても早く傷が治ってほしいものだと常々思う。

 「いつから気付いてたんだァ? 結構バレねェように、視えなくしてたんだぜ」

 首を傾げて問うた時、戒里の髪が微かに揺れ、身長差があったとしても、鋭い二つの角がはっきりと見えた。

 「いつから……稲葉と学校を出たあたりからだな。知ってる気配を感じたけど、姿が見えなかったし、まあいいかと思って放っておいたんだ。戒里だろうなとは予想してたし、驚かなかった。残念だったな、僕が驚かなくて」

 見えなくできるならずっと僕に見えないようにしてほしいものだが、それはきっと戒里の術的なものが働いて成せるのだろう。変な期待は失望の元だ。

 「おォ、言うじゃねェかお子様くん」

 ひくっと口元を引き攣らせて、これまた鋭い牙を笑みと共に見せる。

 「つか、その稲葉ってやつに嘘ついてよかったのかよ。何が"知らない"だ。夜野先生って言やァ、夜雨よさめのことだろォ?」

 「…………」

 そうだ。僕は稲葉に嘘をついた。戒里が言った通り、夜野先生とは夜雨さんのことである。だが夜雨さんは人間ではなく、烏天狗という名の妖怪なのだ。当然見える僕は何故夜雨さんが学校を去ったのかも知っているし、たまに僕の部屋で戒里とトランプをやりに入って来るから、会おうと思えば会える。しかし稲葉は七夕の時、夜雨さんが僕の家を訪ねたが、間が悪く稲葉は夜雨さんと"直接"会っていない。

 つまり何が言いたいかというと、見えない稲葉に知っていると真実を告げたとしても、何故知っているのか、何故元先生と児童が仲良くプライベートで話しているのか、という説明が嘘まみれになるからだ。僕は友達相手に幾つも嘘は重ねたくない。

 だから一つの嘘で、事を収めようとした。

 戒里はそれを聞くと、そうかァ、と言葉を返した。

 「一翔が決めたんならいいんじゃねェ? オレは知らねェが」

 興味がなくなった時の戒里の反応だ。こういう直ぐに飽きるところが子供っぽく思う。

 「戒里は何で隠れてたんだ? 夜雨さんにちょっかいでもかけて怒られたか」

 からかい半分で尋ねると、珍しく戒里が黙った。

 「…………歩きながら話す」

 口を開いたかと思えば。

 あれ、当たりだったのか? 本当に怒られて隠れていたのか。どうにも信じられない。追いかけられたなら隠れるという行為にも頷けるが、怒られただけならどうして、と思わず首を捻ってしまう。

 足を動かし始めた戒里に続くと、ぽつりと呟く声が聞こえた。

 「悪い、何て言ったんだ。もうちょっと大きな声で言ってくれ」

 カア、と僕の声の後に電柱に止まっていた烏が羽を広げて飛び立つ。バサバサと羽ばたく音ともに聞こえた言葉は、戒里のもの。

 「オレは、悪くねェ」

 ……いや悪くないも何も、僕は事情を知らないんだから、判断しかねるんだが。

 僕は事の発端は何だと話を促した。

 「実はなァ——」

 戒里は言いづらそうに話し出した。

 いわく、最近夜雨さんの様子がおかしいと。

 曰く、心配して相談に乗ろうとしたが、言い方を誤って逆に落ち込ませたと。

 曰く、何気ない一言で夜雨さんが怒ったと。

 そして最後に『お前の顔なんて見たくない』と吐き捨てられ、自分も落ち込んで姿を見えないようにしたと。

 全てを聞き終わった僕は、片手で顔を覆いそうになった。

 「……何て言うか……」

 子供か。

 「オレは話を聞こうとしただけなのによォ……。あんな怒らなくてもいいだろォ」

 その言葉に、僕は拗ねているんだなと思った。

 「でも夜雨さんが怒るって……何やらかしたんだよ」

 僕から見ても、夜雨さんは妖怪であるにも関わらず、人に優しいところがある。だから妖怪などの類が嫌いな僕でも恐怖心は湧かないし、敵意も抱かずにそれなりに付き合いがある。

 それに弟の浩太がこの前読んでいた、人外が登場する本にも書いてあった。妖怪の真名まなは、その人に教えるとその人間に自由を奪われるのだと。

 夜雨さんは自己紹介をするかのように、平然とした顔で僕に真名を告げたのだ。少なくとも僕を信用しているから教えたのだろう。……自分の自由が失われるかもしれないというのに。

 そんな夜雨さんが戒里の一言で怒るとは、到底思えなかった。

 「戒里達は『家族』なんだろ? お互いに大切だと思ってるっていうのは見てるだけでも伝わるし。たった一言で怒らせるってどれくらい地雷踏んだの?」

 「あ? 別にィ。"どうせ人間はオレ達のことなんか全く気にしてない"って言っただけだァ。事実だろォ? 何も悪くねェじゃねェか」

 不満顔を晒しながら放った戒里の言葉に、僕は少しの間、声が出せなかった。

 確かに、と思ってしまったのだ。僕ならともかく、普通の人には妖怪は見えないし、信じることもあまりない。そこに在るのに、見えないから気にしない。気にする必要だってない。

 人間は、妖怪のことを気にして生きていない。

 その通りだ。

 「ったく。夜雨は何でそんなに人間を庇うんだろうなァ。オレには分からねェ」

 戒里の気持ちを考えて、僕は口を結んだ。あまり口を挟まないほうがいいだろう。余計に二人の仲が拗れるかもしれない。

 「…………」

 だけど戒里の言う通り、僕も分からないな。夜雨さんが僕ら人間に優しくしてくれる理由も。

 そんな夜雨さんに疑問を抱く戒里が、人間の僕に弱音を吐くわけも。

 嫌いなはずの妖怪に、心を許しかけている自分も。

 全部。ぜんぶ、分からない。

 いっそこの暑さで全て忘れられたらいいのに、と帰路につきながら僕は一つ、小さなため息を吐くのだった。


 2

   # # #


 両親は今日も帰りが遅い。

 だからか、自室に一人でいると、つい何度も時計を見ては時刻を確認する私がいる。夏休みの宿題も毎日少しずつやればいいのだから机にかじりつく必要もないし、かといってこんな暑い中出かける気にもなれない。こういう時、暇というのが正しいのだろうか。

 「久しぶりに本でも読もうかな……」

 私は読書が好きだ。

 学校では本を読むのを控えているから、周囲の人には読書好きだと思われていないが、それでも暇な時は家で読むことがある。

 いつもそれで時間を潰してた。集中してるから、時間はあっという間に過ぎていくのだ。

 親が帰ってくるのは夕方から夜の間。最も遅い日は深夜の二、三時頃。最近は二人とも帰ってくるのが遅い。恐らく今日もそれは同じだろう。

 私は三段ある棚の二段目から一冊本を抜き取り、ベッドに腰掛けた。本の表紙は、満点の星空の下に二人の少年の後ろ姿が描かれている。

 この本は私のお気に入りなのだ。表紙が本物の星のように輝いていて、内容がとても胸に残るから。

 しかしさあ読もうと一ページめくったそのタイミングで、部屋の小窓を二回ノックする音が耳に届く。

 「……?」

 開きかけた本を閉じてベッドの上に置き、立ち上がって小窓に近づく。

 私がそっと窓の外を伺うと、家々が並ぶ風景が見えた。そこに何の変化もない。——いや、なかったというべきか。

 「やあ」

 軽い挨拶をしながら現れたのは、黒いスーツに身を包む銀髪の青年。さっきまでは居なかったのに、いつの間にか宙を立っていた。

 そんな人ではない彼を、私はこう呼んでいる。

 「死神さん」

 窓越しでは声が聞き取りにくいため、躊躇なく窓を開けた。そうすれば熱風が部屋に入り込んで、死神さんも風のようにすうーと入ってくる。

 「外は虫が騒がしいね。暑さとかこの体じゃ感じないけど、木の葉も綺麗な緑だし、もう夏かな?」

 「はい。夏です。死神さんは暑さを感じなくても季節の違いが分かるんですね。もしかして視覚や聴覚だけで判断しましたか?」

 「うん。季節はもう何度も見てきてるからね。慣れだよ」

 死神さんと出会ってから約二ヶ月が経った。それなのに未だに驚くことがあるとは。登場の仕方やちょっとした揶揄いには驚かなくなったが、やはりまだまだ『死神』は未知だらけだ。

 「それはそうと、キミ、書物を読む途中だったのかい?」

 ベッドに置いた一冊の本を手に取り、死神さんがその表紙を興味深そうに見つめる。

 「あ、いえ。まだ読んでません。読もうとは思ってましたけど」

 「へえ。じゃあボク邪魔しちゃったかな。ゴメンね」

 「大丈夫です」

 申し訳なさそうに言う死神さんに、思わず笑みが溢れた。

 「そう? なら良かった。ここ座るよ」

 一言入れてベッドに腰を下ろし、死神さんはまた本の表紙を見続ける。

 「何か気になることでもありますか?」

 不思議に思って声をかけると、死神さんはいつもの軽い口調で答えた。

 「いや、最近の書物は表紙が綺麗なんだなって思ってさ。本物みたいにキラキラしてるでしょ。この前は墨ばっかりの絵で味気なかったのに」

 変わったねえ、としみじみ呟く死神さんは、一体何歳なんだろう。墨ばっかりの絵はどちらかというと室町時代の頃に多かったような気がする。歴史の教科書に書いてあった。その時代を『この前』で表現するほど、死神と人は時間感覚が異なるのだろうか。

 死神さんは見た目は青年だが、中身はとんでもなく歳を重ねているのかもしれない。

 「その本、私のお気に入りなんです。一見悲劇のようで、幸せな結末を迎えるんですよ」

 「面白そうだね。でもボクはそれほど字を読まないからなあ。どちらかというとこういう物語は、口で語るタイプなんだよね」

 言われてみれば死神さんは読み書きが苦手そうなイメージだ。物語を口で語るタイプと言われると疑いもなく納得してしまう。

 はい、と本を返されて、私は仕方なくそのまま棚にそれを戻した。今日は読めない日だったか……。

 読書時間がなくなった落胆で複雑な気持ちになりつつ、死神さんの隣に座った。

 「ところで沙夜。祭りの日が近いんだってね。ここに来る途中で忙しそうに道を歩く人を見かけたよ。昨日より人が多かったから珍しいと思ってたけど、近くの掲示板に祭りについての紙が貼ってあって知ったんだ」

 祭り。藤沢さんと鈴風さんも言ってたな。

 「私もよく知らないんですけど、町で大きく開催されるみたいですよ。神社からこの住宅街までの範囲だと聞きました」

 「お、意外と大規模な感じだね。あの紙には書いてなかったな……キミは行くの?」

 「まだ決めてないので、今はなんとも」

 「そっか。……ボクは祭りには行かない方がいいと思うよ」

 少し間を空けて聞こえた言葉。

 「えっと、どういう……?」

 意味が分かりかねて聞き返すと、死神さんはごく平然とそれを口にした。

 「祭りの夜は、人ならざる者が多く姿を現すんだ。賑やかな雰囲気に混ざりたいと思う者が多いしねえ。特に多いのは妖怪。ま、つまり百鬼夜行のことだね」

 百鬼夜行。それは、深夜に魑魅魍魎が列をなして徘徊するというもの。

 死神さんの言うことが本当なら、確かに行かない方がいいかもしれない。

 だって今は、私も見える側だから。死神さんはきっとそのことを案じているのだ。見える人間は、人ならざる者に狙われやすいということを。

 しかし祭りが夜だとしても、天候が良い日に決行だろう。どちらにしよ、暑いところにはあまり行きたくないな、と思った。


   * * *


 俺は帰宅してすぐ自室にランドセルを置き、外へ飛び出した。

 家に父は居なかった。リビングには母が居た。だが母さんは俺に興味がないのか、何も言わなかった。だから小声で「出かける」と告げて、あの家を離れた。

 目的地は特にない。それでも自然と足はある方向へと歩く速さを変えなかった。日頃から通っているような場所だから、意識的じゃなくても向かってしまうのかもしれない。そういうところは自分でも不思議に思う。これが癖というものなのだろうか。

 「……」

 それはそうと、今日はまだを見かけないな。毎日朝に一度は顔を合わせるのだが、今朝は会わなかった。あいつの事だから何かあった訳ではないだろうが、約二ヶ月も毎朝挨拶をするから、逆に挨拶がない今日は妙な気分になった。

 これはもしかして俺の双子の兄、流風るかが居なくなってから、まるで腫れ物を扱うように友達が急に俺と話さなくなった時と同じ気持ちではないか? いやこの考えだと俺はただの寂しいやつになってしまう。まあ実際同じようなものか。

 そんな思考を広げながら歩き続けて数十分。俺は見慣れた場所を前にして立ち止まった。

 家から少し遠い所にある古い公園。掃除をしばらくしていなかったと一目見て分かるほど汚れが目立っている。けどこの公園は、俺と流風の思い出の場所でもあった。

 砂利の上を踏み歩き、公園の中に立ち入る。木々が多いせいか蝉の声がうんざりするほど聞こえて、思わず手で耳を塞いでしまう。虫の声は好きじゃない。小さな命に対して申し訳ないとは思うが、嫌なものは嫌だ。こればかりはどうしようもない。

 「……つか、夏だからここも虫が多いんじゃ……」

 今、気が付いた。

 気付くのが遅かった。

 何故来てしまってからなのか。

 夏は、木の近くに蝉だけじゃなく、あのうねうねと気持ち悪い動きを見せるやつがいるのだ。

 そう。その虫の名前は——

 「——毛虫、というのは一体どのような虫を指すのですか?」

 「わ……っ!」

 突如として背後に現れた男の声。情けないほど驚いた俺に構わず、声の主は次々に言葉を紡ぐ。

 「そこら中の木で音を鳴らしている虫がそうなのでしょうか……? しかしあれは確か、蝉という名の昆虫だったはず。波瑠さんは毛虫というのが何か分かりますか?」

 問いかけられてやっと俺は後ろを振り向いた。するとそこには黒い外套を羽織った長髪の男が悠々と立っていた。目尻深く被っているシルクハットの影の中、男が口元を愉快そうに緩めているのを、俺は見た。

 「からかうじゃねえよ。ルカ」

 本当にびっくりしたのだと告げると、男——ルカは微笑みを俺に向けた。

 「すみません、波瑠さん。少し驚かせてみたかったもので。波瑠さんが昆虫を苦手としていることは承知していますよ」

 「あ、ああ。そうか。でもそれだけじゃなくて、突然現れるのもやめてくれねえ? おどかされるのも苦手なんだ。前にも言っただろ?」

 「ですから、前にも鈴を鳴らしましょうかと」

 「そこまでしろとは言ってねえ」

 軽口を叩きあったその後、俺はルカに気になっていたことを尋ねた。

 「朝、何かあったのか?」

 ルカは数秒不思議そうに瞬きをして、俺に質問の意図を求めてきた。

 「いいえ。特に何かあったわけではありませんが……どうしてです?」

 「いつも朝早くから玄関にいるのに、今日は居なかったから。何かあったんじゃねえかなって思ったんだよ」

 それだけだ。

 ふと頭に浮かんで、一度考えてしまったから気になっただけ。

 「何もありませんでしたよ。今朝波瑠さんの元へ行けなかったのは、単純に用事が出来たからです。まあ、その用事も大したことではなかったのですが」

 深い理由は何もないと、ルカは微笑を浮かべたまま言った。

 「"悪魔"も急な用事が出来るんだな。何となくだけど、俺はもっと悪魔っていうのは自由気ままなものだと思ってた」

 ルカはあまりそういうタイプには見えないが、悪魔は用事が出来ても放棄するようなイメージがあったのだ。

 「勿論、自由気ままな悪魔もいますよ。ただ、私がそうであるかと問われれば微妙なところです。義理堅いというわけでもありませんが……私は少し、曖昧な立場にいますから」

 言いながら、表情に暗い影を落とした。

 曖昧な立場。それはルカが人間に優しいところがあるからか? 悪魔という名が似合わないような男だから、悪魔としての立場が曖昧であると、そういうことだろうか。

 「……そうなんだ」

 何と返答していいか分からず、結局、ありきたりな言葉を漏らした。

 「それはそうと波瑠さん。もうすぐ祭りがあると耳にしたのですが本当ですか? 何でも今から準備をするのだとか」

 「どっかで聞いたのか。ああ、本当だぞ」

 「……危険なのでは?」

 「えっ、何で」

 意味が分からないからちゃんと説明してほしいと頼むと、ルカは事も無げに言った。

 「祭りという賑やかな場では人外が多く集まるんです。最近はどうやら妖怪側で物騒な騒ぎがあったそうですし、私達のような者が視える人間はとても狙われやすい。危険です。気を付けないとまた大変な事に巻き込まれてしまいますよ」

 思いの外、重要な話だった。聞き逃さない方がいい内容だろう。

 が。

 「俺は祭りには行かねえよ。もちろん準備もしない」

 親から許可が出ない限り、俺はどんなに行きたくても祭りには参加出来ないのだ。

 俺がそう告げると、ルカはニ、三回瞬きを繰り返した。

 「そうなんですか。ならば心配する事もありませんでしたね」

 そう言って微笑んだ矢先、頭上からいきなり声が降ってきた。

 「佐々木と悪魔か? ちょうどいい、少し頼みを聞いてもらいたいんだが」

 バサバサと羽ばたく音と知っている口調。見上げてみると、黒い羽を動かして浮遊している山装束姿の夜野先生がいた。頭には兜巾、片手には錫杖が握られたままで、その肩には一羽の烏がとまっている。クァアと甲高い鳴き声が公園に響いた。

 「夜野さん、お久しぶりですね。頼みたいこととは一体?」

 俺が烏を苦手としていることを知っているルカが、そっと庇うように前へ出る。夜野先生はルカの目前に降り立った。

 「いやなに、大したことじゃない」

 夜野先生はそう言いながら、肩に乗っている烏に目を向けた。

 「こいつが佐々木に言いたい事があるそうだ。そして手伝ってほしい事がある、とも言っている」

 烏は肯定するかのように鳴いた。

 「まあ未熟な烏天狗のだ。オレのように人の姿に化けたり、話したりはまだ出来なくてな。代わりとしてオレがここに馳せ参じたわけだが……佐々木は烏が苦手というのは本当らしいな」

 怖かったか? と気遣う様子に、俺は曖昧な表情を浮かべるばかりだ。

 「クァ。クァア! クァア!!」

 バタバタと羽を動かして烏が懸命に何かを伝えようとする。黒い羽は動くたびに夜野先生の頬に当たっていた。夜野先生は顔をしかめて口を開いた。

 「"怪我をして頼ってしまった。怖がらせるつもりはなかったんだ"」

 その言葉に思い当たる光景が脳裏に浮かんだ。

 「あの時の……?」

 烏の足には白い布が巻かれており、そこでようやく下校中に遭遇した怪我を負っていた烏だと気付く。

 「クァア!!」

 「"そうだ"」

 白い布が巻かれているのを見ると、あのおばあさんに手当てをしてもらった後なんだと分かる。

 その後も烏の言葉を代弁している夜野先生と会話が続いた。手伝ってほしいことがあると言っていた話も聞いた。元よりそれが本題だそうだ。

 「簡単に言うと、あの時のおばあさんにお礼がしたいってことですか」

 「ああ。話が早くて助かる」

 「夜野さんが行けばいいのでは?」

 ルカがもっともな疑問を口にした。しかし夜野先生は首を横に振る。

 「相手はオレを知らないんだ。突然押し掛けても警戒されるだろう。しかし佐々木はその場に居たし、その人に顔を知られている。会いに行くのも偶然を装えばいいと思ってな。月森に頼もうともしたんだが、あの子は祭りの準備で忙しいと早々に出掛けてしまったから」

 夜野先生は烏が俺に言いたいことがあると聞き、丁度いいと思ったそうだ。

 話を聞き終わった直後、ルカが棘のある声色で夜野先生に言った。

 「波瑠さんは烏が苦手です。異空間の時に貴方が仕掛けた偽物の烏、あれがまだ心に傷として残っているんですよ。それなのに頼み事なんて——」

 「いいよ、ルカ。俺は平気だから。この機会に苦手を克服したいんだよな」

 ルカを遮って俺は本心を口にする。無理してるわけじゃないが、本当は怖いという気持ちを悟られないように笑みを浮かべた。

 それに俺が引き受けようとした理由は苦手を克服することだけじゃない。

 あのおばあさんなら、と思ったのだ。あのおばあさんなら、後ろ指さされる事なく普通に言葉を交わせるのではないかと。俺は期待を寄せていた。

 ルカは暫く俺の目を見つめて、最終的に折れてくれた。

 「分かりました。波瑠さんが望むというのであれば、私が口を出すのは筋違いでしょう。ですが、少しでも気分が悪くなった時は言って下さい」

 もう見慣れた微笑みは、蝉の音に崩れ気味だった。

 俺は人でない者と揃って公園を去る。


 3

   ☆ ☆ ☆


 昼食を食べ終わり、僕は戒里と弟の輝汐きせきを連れて集合場所に赴いた。うち——月森家では四年生から祭りの準備を手伝うことになっているのだ。

 集合場所には既に稲葉が居た。

 「遅いぞ、一翔! 輝汐!」

 開口一番にそう言った稲葉の手には白い紙が握られていた。

 「悪い、稲葉」「ごめん、稲葉」

 僕と輝汐の声が重なる。

 「いや輝汐は呼び捨てやめようぜ……。俺の方が年上!」

 「え? あれ、そうだっけ?」

 輝汐が揶揄い口調でとぼけている頃、戒里は紅花神社の鳥居をじっと眺めていた。初めて見たのかも、と思ったが、そんなはずはないかと考え直す。

 「稲葉はいつ来たんだよ? 兄ちゃんと家出る前に時計確認したけど、全然集合時間に間に合う時間だったぜ。遅いとかあり得ないよ」

 「ふん、聞いて驚け! 二人が来たのは俺がここに着いてから二分経った頃だ!」

 「二分かよ」

 聞こえてきた会話に思わず突っ込んだ。

 「なにをぉっ! 二分でも十分長いんだぜ!? ほら、秒にしたら百二十秒。長えだろ?」

 「持久走だったら長いな。——で、その手に持ってる紙はなんだ?」

 稲葉はたった今思い出したかのように紙を見て、僕と輝汐に渡してみせた。

 紙に書かれた字は確かに稲葉のもので、字体が愉快に踊っていた。内容は単語で記されている。公園、掃除、人足りない、手伝う、道具×、とどれもぱっと見では意味を測りかねる。だが多分、訳すとこうだろう。公園を掃除するにあたり、人が足りない。だから僕たちが手伝うことになったが、掃除道具は必要ない。

 「じいちゃんがこれしろって言ってた。覚えきれないからメモったんだけど、俺らは公園の掃除を手伝うんだってよ! もう他の人は行ってるらしいぜ」

 「本当に道具はいらないのか? 箒とか」

 「いらねえってさ。なんかもう用意されてるっぽい」

 「公園って言っても一、二……四、五くらいあるか。どの公園か分かるのか?」

 「あ、それについては問題ないぜ。だって」

 稲葉が言い切る前に、後ろから声が飛んできた。僕らは一斉に振り返ると、そこには、稲葉のじいちゃんがこちらに大きく手を振って近付いているところだった。

 「じいちゃん!」

 がははと口を大きく開けて笑いながら、稲葉の頭をガシガシと撫でる。

 「稲葉のじいちゃん! こんちはっす!」と輝汐に続き、僕も「こんにちは」と挨拶した。家族ぐるみの付き合いは今年になって増えたのだ。それまで僕と稲葉はあまり関わりを持っていなかった。

 「おう! 今日からよろしくなあ、坊主ども!」

 稲葉のじいちゃんの手がそれぞれ僕と輝汐の頭を撫でる。

 「じいちゃん、いいから行こうぜ!」

 埒があかないと稲葉が放った一言で、ようやく公園に向かうこととなった。

 僕達が掃除する公園に着いたのは、それからおよそ十五分後だ。

 「おい一翔ゥ、ここで何すんだよ?」

 キョロキョロと辺りを見回す戒里。家を出る前に一度言ったはずなのに、もう忘れたのか。

 「掃除、僕達は何をするんだ? 箒とか?」

 最初の言葉だけ強調するように言えば、戒里は納得した風に頷いた。もう既に公園には掃除をしている人もいるし、これで納得しなかったらどうしようかと思った。

 「草むしりじゃね? メンドクセーけど、俺たちそれくらいしか出来ねーじゃん」

 「えー、草むしりやだよ。兄ちゃんもっと楽しいのしようぜ」

 「掃除をしに来たのに嫌とは、輝汐の坊主も面白い事を言うなあ!」

 ……何なんだろう。この賑やかな空気。楽しいのは楽しいが、妙に気疲れする。ただでさえ暑いのにこれ以上暑苦しい空間にしないでくれ、と思ってしまうような。

 「……草むしり、するか」

 僕はそっと呟いた。稲葉と輝汐が同時に「えー!」と声を上げる。構うものか。

 蒸し暑い空気が漂う中、僕は頬を伝う汗を拭った。


   # # #


 「昔話で一番好きな話はなに?」

 夏祭りの話に一段落し、「好きなように過ごしてて」と言われるがままに本を読んでいた私は、ベッドの上で壁に寄りかかって満喫していた。

 「昔話、ですか」

 本に栞を挟み、死神さんに聞き返す。本は開いた状態で私の手元にある。

 「そう。有名なのとかでも良いからさ」

 暇で暇で仕方ないと言うわけでもなさそうだったが、そんな話題を出すあたり、相当暇だったのかな。

 「昔話で好きな話は特にないですね。あまりその手のものは読まないので。幼稚園に通っていた頃に絵本で読む程度でした」

 「棚の書物の中にないの?」

 「はい。あ、でも昔話をモチーフにした本ならありますよ。そんなに多くないですけど」

 「ふーん」

 そっちから聞いたくせに興味がなさそうだな。釈然としない。

 死神さんが棚に目を向けた所で、私は再び開いたままの本に視線を落とした。幾つも連なった文字を目でなぞる。

 「じゃあ今度、ボクのとっておきの昔話を語ってあげるよ」

 語るのには自信あるんだ、と声が続く。

 顔を上げた私は、死神さんを目に映した。死神さんはもう棚を見ていなかった。けれど、話しかけている私にも、目を向けていない。空気を視認出来るみたいにじっと、何もない空間を見ている。

 「楽しみに、待ってます」

 一瞬、死神さんの隠し事を打ち明けてくれるのかと錯覚した。どうやらただ単に昔話を語りたいだけのようだったが。

 私の返事に、死神さんは静かに笑った。

 「——で、キミは妖怪が好きなんだね」

 棚の本を指差してにんまりと口角を上げる。

 「へ?」

 あ。そう言えば一時期ハマってた小説が妖怪もので、二十冊くらいシリーズがあったな……。隠してなかったし、そりゃバレるね。うん。

 「死神の書物はないの?」

 「ああ、はい。そうですね。死神より妖怪が好きだったので」

 「……へえ」

 死神さんの目がすっと細まる。かと思えば、すっかりいつもの笑顔で言った。

 「そういや、今日戒クンを見かけたよ」

 「戒クン」戒里さんのことか。

 「なんかね、夜野おさむと喧嘩してたよ」

 どうしたんだろうね、と言いたげなわりに、けろっとしている。

 「喧嘩……殴り合いとかですか? それともこう、妖術的な戦いを……?」

 「ううん。言い争い」

 なんだ、つまらない。っていうか、二人は仲が良かったはずじゃなかったのか。疑念に顔色を曇らせた私に、死神さんが言った。

 「意見の相違、ってやつだよ」

 窓の外を小さな影が通り過ぎる。烏が鳴いた。


   * * *


 烏の鳴き声を合図に俺の足は止まった。目線が行き着くところは木造建築の店だ。

 すみれ堂とペンキで施された店の看板には年季が入っており、手前の自動販売機も一見、故障しているようだった。軒下で色違いの風鈴がまるで双子みたいに音を奏でている。涼やかな音色に気温が低くなるのではないかと期待したが、生憎な熱気はそんな思考を嘲笑う勢いである。

 「飴屋」

 三人——と一匹——の中で誰かが呟いた。ひょっとすると俺が言ったのかもしれない。どちらにせよ、暑さで思考が鈍っている気がした。

 太陽の光が当たらないようにするためか否か、店内から見える飴細工はどれも日陰に設置されていた。

 俺は横開きの戸に手をかけた。心地良い冷気が肌を包む。開く際に少々がたつく戸も店内の雰囲気に溶け込み、洋風とも和風とも似つかない、どこか別次元のような世界に足を踏み入れた気分だった。それでいて、既視感も覚えた。何となく、昔よく足を運んでいた駄菓子屋に似ていると思ったのだ。

 「いらっしゃい」

 潤った穏やかな声が聞こえた。小さなカウンターの奥にちらりと和室が覗く。きっと自宅なのだろう。その自宅と店の境に、おばあさんがいた。俺が見かけた時は薄緑の着物だったが、今は栗色の着物。背景と同化するようでしない、という曖昧な印象を受けた。

 「あの」

 話しかけた後で、何を言おうか考えておけば良かったと後悔した。続く言葉が見つからない。

 おばあさんは不思議そうに待ってくれている。微笑むと目尻に皺が寄り、くしゃっとした顔になる。気が付けば俺は「覚えてないかもしれませんが、あの時、烏の手当てをしてくれてありがとうございました」とお礼を言っていた。

 いきなりのことだったのに、おばあさんは嫌な顔一つせず、俺に柔らかい笑みを向けた。

 「ちゃあんと覚えているよ。ありがとうだなんて、照れるねえ。あの烏さんはお嬢ちゃんの友達かい?」

 「え。いや、ちがっ」

 否定しようとしたが、言葉を呑み込んだ。今はそういう事にしておいた方が話をしやすい。正直、烏と友達とか考えるだけで震えが止まらなくなるが、俺は無言で頷いた。

 出入り口の戸で隔てられた向こう側にいるだろう夜野先生と烏にそっと視線を送る。何故彼らは入って来ない。理不尽じゃねえ? と眉が寄る。ルカは俺の斜め後ろで物珍しそうに飴細工を観察していた。

 はあ、と息を吐く。するとおばあさんは俺が喉を乾かしていると勘違いしたのか、「お茶でも飲んでいくかい?」と言った。

 そこまでお邪魔するのは迷惑になるだろうと俺は断ろうとした。

 「波瑠さん、波瑠さん! この飴というものは食べられるのですか!?」

 ルカが活き活きとこちらを向きさえしなければ。

 「折角ですし、彼女のご厚意を受け取りましょう。そしてこの飴というものを頂くのです!」

 ルカが主張する姿は珍しく、断るのも一苦労になるだろう。それに断ったとしてもしおらしくなるのは目に見えているから、その時俺の良心が痛んでしまうのも想像しやすい。苦々しい思いを唾と一緒に呑み込んだ。

 「お言葉に甘えて、お邪魔します」

 慣れない敬語で、俺はおばあさんに笑いかけた。



 「悪いねえ。うちにはジュースがなくて」

 二枚の座布団が一つの卓袱台を挟んでそれぞれの場所に位置している。おばあさんにくつろいで良いからね、と言われ、俺はそわそわとしながら一つの座布団の上に正座した。

 おばあさんが用意したお茶が卓袱台にコトンと置かれる。湯気が出ていた。暑いのに、熱いお茶か……。いや、ありがたいが、本当にありがたいのだが、この季節にはあまり飲んだ事がないのだ。余計に喉が乾くとかない、よな。体に良いとかなんとか聞いたことあるし。

 俺は湯呑みを両手で持って口をつけた。少し熱かったが、意外と飲める。

 お茶を飲んでいる短い間、しきりにルカが飴について熱く語っていた。決して「食べてみたい」などと直球な言葉は使わず、延々と「聞いたことがある」と飴についての知識を一人でに披露してくれた。多少現実と違う部分もあったが、話の中に俺も知らない事があったから、驚いた。本当かどうかは置いておいて、何でルカがそんなに飴に詳しいのか、疑問でもあった。

 「お嬢ちゃん。飴は好きかい?」

 熱弁するルカと対照的なほっこりとした態度に、俺の心がじんわりと温かくなる。嫌がられていない。怖がられてもいない。自分の扱いが、他者と同等であるような気になった。

 「嫌いじゃないです。でも、最近はあんまり食べねえ……ないんです」

 「そうなんだね。なら、うちの飴を食べてみるかい? ちょうど試作品があるんだ。良かったら感想を聞かせてほしい」

 「! 本当!? あ、ですか?」

 「嘘はつかないよ」

 「じゃ、じゃあ、頂きます」

 ルカの顔がぱっと輝いた。おばあさんが「少し待っておくれ」と奥へ引っ込んだ後、期待のこもった目を向けられる。つーかシルクハット被ったままかよ。

 「……は、波瑠さん。その飴、私が——」

 「…………」

 俺も食べたくなったって言ったら、どうすんだろ。第一、おばあさんが見ているところでルカが食べても大丈夫なのか。悪魔は人には見えないんだ。その悪魔が食べた物だって突然空中で消えたように見えるんじゃ……?

 「あの、波瑠さん?」

 聞いてますかーと戸惑った声がしたような気もしたが、俺はどうしたものかと悶々としていた。

 「オレも、食べてみたいな」

 その時。俺の思考を遮った人物は、悠々と背後に立っていた。心臓が跳ねる。びっくりした。いつの間に。

 「……夜野さん。遅かったですね。何を躊躇ためらっていたのですか?」

 横で飴が食べたいアピールをしていたルカの表情が引き締まる。夜野先生は数秒の沈黙の後に、「ちょっとな」とニコリ。そのまま俺達と少し離れた壁際に腰をかけた。あの烏は居ない。きっと屋内だから入って来なかったのだろう。

 おばあさんの足音が近付いてくる。

 夜野先生が目を閉じた。眠いのだろうか。だったらここで寝なくても……。不思議に思ったが、ルカが再びアピールを始めたため、気が逸れる。

 店の前の風鈴が、優しく音を奏でた。


   ☆ ☆ ☆


 「もー無理! あっちいし、疲れるし、腰痛いし!!」

 公園って意外と声が通るな。感心している僕に、空へと叫んだ稲葉が指を差してきた。

 「大体、なーんで草むしりなんだよ、一翔!? ホウキの方が絶対良いだろ!」

 絶対、楽だろ! と喚く稲葉に輝汐が答える。

 「気付くのおせーな。もう三十分経ったのに。っていうか、稲葉、三十分で腰痛めたのかよ? ダッセェやつ。兄ちゃんを見習え!」

 プクク、とわざとらしく笑いを堪えるフリをする。

 確かに、三十分経ってから気付く稲葉の思考力は、ある意味侮れない。が、それを煽れば、また面倒なことに……。

 「んだと輝汐ぃ!? お兄ちゃんっ子のお前には言われたくないですー。ずっと兄ちゃん兄ちゃんって話しかけてたくせに! どうせ大して草むしりしてねーんだろ。ほらほら、謝るなら今のうちだぜ」

 「謝る必要はない。兄ちゃんならそう言うし。それにお兄ちゃんっ子で何が悪いんですかあ? 兄ちゃんはおれに塩対応なんだもん! だから草むしりで兄ちゃんの手伝いしようと、こんなにむしってやった!」

 こんもりと山になっている草の量を稲葉に自慢する輝汐。ゴミ袋に入れてなかったのは自慢するためだったのだろうか。

 「はー? そんなの言ったら俺の方が多いもんねー。俺は珍しく頑張った!」

 同じくらいの量の草を前に誇らしげな稲葉。こいつも入れてなかったのか。

 「頑張りと結果はちがうって知らねーのか? 兄ちゃんを見ろ! おれよりも多く草を……! ま、稲葉とおれだったら、おれの方が頑張ったし、草の量も勝ってるな」

 「一翔を持ち出すのは反則だろ! あいつは慣れてんだよ。あと、俺の方が勝ってるから!」

 とうとう言い合いを始めてしまった。あと慣れてるって何だ、慣れてるって。

 そんなことより風で飛ばされるかもしれないから、早く草をゴミ袋に入れたほうが良いと思うんだけど。僕はそれを言おうとしたが、二人の様子を見てやめた。とりあえず早く終わらすために草むしりを続けよう。

 我関せずというように黙々と作業を進めていると、辺りをうろついていた戒里が足先をこちらに向けてきた。

 「なァ。お前、オレら以外に人じゃねーもんと知り合い居るかァ?」

 こそっと話しかけた戒里の視線は公園の入口に向けられている。何かあるのかと目線の先を辿る。

 「死神さんとくまさんくらいしか会話しないぞ。それがどうかし」

 「じゃあ彼奴あいつら、見覚えねェかァ?」

 どことなく食い気味に問われる。ようやく戒里の視線の先が把握できた。距離があって『彼奴ら』が何を指しているのかは分からないままだが。

 「何か居るのか? どれを言ってるのか分からない」

 「はァ? 見えねェのかよ。彼奴らだよ、彼奴ら。あの猫又ねこまた鎌鼬かまいたち

 猫又と、鎌鼬? 普通にその辺に居そうな妖怪じゃないか。

 「彼奴ら、七夕ん時も見たぞ。……気を付けろよォ。一翔。お前、狙われてるかもしれねェからなァ」

 戒里が警戒している。そんなに危険な妖怪なのか。訳が分からなかったが、僕は戒里の指す二つの影を発見した。確かにこちらの様子を伺っているようにも思える。

 まさか、の——。

 「兄ちゃん!」

 「一翔!」

 びくっと肩が震えた。

 「な……なんだ?」

 動揺を押し隠し、尋ねる。戒里は目つきを尖らせて入口付近を見ている。

 「おれの方が多いよな!? 稲葉なんかより、だんぜん多いだろ!?」

 「俺の方が多いだろ! 輝汐よりずっと草むしったし!」

 同時に重なった声に、僕はまだ言い合いを続けていたのかと目を丸くする。

 二人の前にまとまっている草の山を交互に見てみる。

 「……いや、一緒ぐらいじゃないか」

 点数制だったら同点だ。

 草の量をもう一度見ようとしゃがんだ二人は、それぞれ見比べた後、お互いに顔を見合わせた。

 「そう変わんねーな」

 「おれも稲葉も同じくらいだ」

 なーんだ、と楽観的に笑い合う。

 「何なんだよ……」

 すぐ解決する話だったのかよ。

 「おーい、坊主ども!」稲葉のじいちゃんが右手を上げて駆け寄ってくる。「調子はどうだ?」

 言いながら、僕達がむしってきた草の量を眺める。

 「一翔くんが多いみたいだなあ。輝汐くんは春樹と同じくらいか」

 少し考える素振りを見せる稲葉のじいちゃん。

 「よし! 草むしりはこのくらいで良いぞ。元々草刈り機はあるからな。御苦労! 次は石拾いを頼む!」

 稲葉のじいちゃんの左手に草刈り機が握られていると、今気が付く。そして僕は手につけていた軍手を外した。それは輝汐も稲葉も同様。

 「——あるのかよ! 草刈り機!!」

 稲葉が再び空に向かって叫んだ。


 4

   * * *


 ガラス細工のように透き通る、真っ赤な色。おばあさんが卓袱台に出した飴は、林檎飴の"ようなもの"だった。俺が知る林檎飴とは少し違う。子供用に作った一口サイズの大きさだ。棒も付いてない。

 「今度の夏祭りには参加しないんだけどね、去年は作っていたから、今年も少しだけ作ってみたんだよ。まあ、味見しようと思ってたものだから、見た目は良くないかもしれないけど。味は保証するよ」

 ゴクリ。隣でルカが唾を飲む音が聞こえた。食べたいのだろう。

 「ありがとうございます」

 どうしよう。悪魔は人と同じ物は食べないって前に言ってたし、俺だって食べたいし。出来れば、譲りたくない。

 ルカの外套の裾をくいっと引っ張る。その仕草にいち早く気付いたルカは驚いたようで、だがしかし、察しがついたのか、我慢するように目を閉じた。そして次に目を開けた時「すみません、波瑠さん」と微笑んだ。

 「その飴を食べる資格があるのは、波瑠さんだけ。私に譲る必要はありませんよ。悪魔に食事は要りませんからね。……ただ、興味はあるので、味の感想を私にも教えてほしいのですが」

 ……もうちょっと、渋るかと思った。俺の視線に気付き、ルカは「嫌なら別に」と両手をわたわたさせた。知らずに口元が緩む。下を向くふりをして頷くと、ルカはまた優しく微笑んだ。

 あれ。でももう一人食べてみたいって言ってたヒトがいたような……。思い出して夜野先生を見る。まだ目を瞑ったままだ。じゃあ、俺が食べてしまってもいいよな。

 一人でに結論付けて、皿に五つある飴を一つ指でつまみ、口に含んだ。途端、舌に広がる林檎の味。飴だから溶けるものだが、こんなにもするすると口の中で溶けていくのが分かる飴は初めてだった。普通の飴より溶けるのが早いみたいだ。

 「美味しい」

 無意識に溢れた言葉。おばあさんはそれを聞いて「そうかい」とどんどん食べる事を勧めてくれた。

 隣でルカがお腹を空かせているかと思ったが、そうでもなかった。顎に手を当てて何か考え込んでいる。

 まあ、いいか。

 「ごちそうさまでした」

 結局全て食べてしまった。しかも「美味しい」しか感想を言ってない気がする。詳しく言葉にしておばあさんに伝えようと思考する。だがそれを中断したのは、おばあさんだった。

 「美味しいって言葉だけで、わたしゃ嬉しいよ」

 おばあさんは湯呑みに口をつけた後、ほおっと息を吐いた。

 「最近は客足も遠のいてしまってね。前は繁盛していたんだけど、スーパーが出来てからは一気に……て、いや。お嬢ちゃんに聞かせるような話じゃなかったね。気にせんでおくれ」

 そう言うおばあさんの顔は穏やかなものだった。だが、俺にはとても寂しそうな表情に見えた。

 「……それなら、俺に聞かせられるような話をしてくれませんか。おばあさんともっと話したいんです。駄目、ですか……?」

 少しでも長く、この居心地の良い場所に居たかった。家には帰りたくない。せめて、夕方くらいまでは。

 おばあさんがキョトンとした。びっくりさせてしまったのかもしれない。いや、いきなり失礼だったかも。慌てて撤回しようと口を開くと、同時に、おばあさんがふふと笑みをこぼした。

 不思議がる俺に、おばあさんが言った。

 「そうだね。若い子にはつまらない話かもしれないけど、聞いてくれるかい? わたしのとっておきの話」

 今度は俺がキョトンとする側だった。おばあさんの言葉の意味を頭が理解した頃には、もうすでに俺が返事をした後だった。

 穏やかな空間で、俺はおばあさんの柔らかい声に耳を傾ける。

 一方で、ルカが険しい顔つきを夜野先生に向けており、夜野先生もそれを承知の上で寝たフリをしているなんて、この時の俺は知る由もなかった。

 店の前を通り過ぎる、黒い影の事も。


   ☆ ☆ ☆


 掃除を開始してから、もう随分と経った気がする。

 草むしりから始まり、石拾いに箒。それ以外にもゴミ箱のゴミを廃棄したり、フェンスや遊具を磨いたり。大人はトイレ掃除と虫よけの道具を所々に置く事をしていた。だが、やはりどれだけ頑張っても一日目。そんなに簡単に全ては終わらない。

 日が暮れて来たのを合図に、稲葉のじいちゃんに言われ、僕達は掃除道具を片付けていた。

 「あ"ー、つかれたー」

 もう腕しんどい、と項垂れる稲葉。輝汐は途中まで掃除に勤しんでいたが、夏バテでダウン。今は水分補給も十分に摂って木陰のベンチで休んでいる。大人の中にもそういう人は居るし、これからはもっとバテる人が多くなるだろう。人手不足が増すのは目に見えている。誰か誘うべきだろうけど——正直子供が大人より動けるとは思わない。僕も稲葉と同様に疲れているし、これが何日か続くのは本当に死にそうだ。

 稲葉のじいちゃんが地域の人と話しているのを横目に、僕はせっせと汚れた軍手や雑巾をゴミ袋へ。最初と比べると公園の中はマシになったが、まだまだ汚れている。骨が折れるな、とため息を吐いた。

 「疲れてるみてェだなァ」

 ニヤニヤと戒里が僕を見下ろす。戒里は掃除中、虫を発見しては怖がらせ、近くに来ていた小さな妖怪達とは談笑していたりと、何かとらくそうに過ごしていた。

 「いやァ、掃除なんてもん、このオレ様にしてみればちょちょいのちょいなんだけどなァ。やっぱ、お子様はお子様、ただの人間のガキだなァ!」

 「……そのお子様のただの人間のガキの僕に、夜雨さんと喧嘩したって弱音を吐いたのは誰だっけ?」

 分かりやすく戒里の肩が跳ねた。効果音を付けるなら、『ギクゥウ』ってところだな。大方忘れていたとか、頭の隅に追いやって考えないようにしていたとか、そんな所だろう。なんて分かりやすい。

 「う、うるせェ! 今はンな話してねェだろゥ」

 「そうだなー。で? 仲直り、しないの? 今日はずっと何処にも行かなかったみたいだけど」

 「……する気はあるぜェ。オレは、だけどなァ。今は放っておくべきかもしれねェし、彼奴はまだ怒ってるかもしれねェだろォ?」

 「……でも、このまま拗れて、すれ違って……また同じ目に遭うかもしれないんだぞ」

 僕の言葉に、戒里は押し黙った。

 「一翔、もうじいちゃんたち帰るって! やっとだぜ!」

 稲葉がはしゃぐ。僕は俯いた戒里を横目に、稲葉の元へ向かった。

 輝汐も回復したようだ。稲葉のじいちゃんの近くを大人しく歩いている。気持ち的にはまだぐったりしているのかもしれないし、早めに帰った方が良いな。

 周りの人はすでにまとめてあるゴミ袋をそれぞれ分担して持ち、順番に公園を出始めていた。僕達もそれに続く。

 その時、それとなく周囲に視線を巡らせたが、あの猫又と鎌鼬は何処にも見当たらなかった。

 「兄ちゃん。明日も掃除しなきゃなんねーの? おれもうヤダよ」

 「母さんに聞いてみないと分からないな。父さんは許してくれそうだけど」

 「でもさー、一翔はずっとやって来たんだぜ? それで輝汐が逃げるって、なんか、ズルくない? 俺もだいぶ前からやってんのに」

 「そ、それはそうだけど」

 輝汐がむすっと頬を膨らませる。

 「お〜い、坊主ども! 道の真ん中を歩くんじゃないぞお! この時間帯は危険だからなあ」

 稲葉のじいちゃんが言った。僕は輝汐と稲葉の会話から外れ、後ろを歩く稲葉のじいちゃんの言葉を脳内で再生する。

 『この時間帯は危険』と言ったか? 確かに夕暮れは危ない。人ならざる者たちの活動時間だからだ。でも、何で。何で、稲葉のじいちゃんがそれを……?

 考え過ぎだろうか。最近、何てことない言葉を聞いてすぐに勘繰ってしまう。

 こんな状態では駄目だな。頭を振る。

 「……あれ?」

 そう言えば、戒里の姿がどこにも見当たらない。夜雨さんの所に行ったのだろうか。それなら一言くらい、かけてくれればいいのに。

 「どうした?」と稲葉。

 「何か見つけたの?」と輝汐。

 何でもない、と返し、僕はもう一度二人の会話に参加した。


   * * *


 「おやまあ、もうこんな時間」

 おばあさんが時計に目を向け、ぽつりと呟いた。

 俺も時間を確認する。時計の針は四時二十五分を迎えていた。

 そろそろ帰らないと、迷惑になるだろう。俺は残っていたお茶を飲み干し、おばあさんに声をかけた。

 「ありがとうございました。美味しかったです」

 「いいや、お礼なんて良いよ。またいらっしゃい」

 「……はい!」

 嬉しい。嬉しい。また来ても良いのか。この、温かい空間に。

 帰り支度を終えて、俺は店を出る。ルカもまた来れる事を喜んでいた。

 ただ、一つだけ不可解がある。夜野先生だ。先生は終始無言だった。おばあさんの話に烏が出てきたのに、夜野先生は何の反応も示さなかった。それに、俺とルカが先に店を出たが、夜野先生が出て来るまで少し間があった。お礼がしたいと言っていたのは先生なのに、と俺は首を捻る。

 「……助かった。ありがとう、佐々木」

 微笑む夜野先生。夕暮れの空から一羽の烏が飛んで来た。烏は夜野先生の肩に止まり、鳴く。

 「クァア、クァア!」

 「こいつも感謝すると言っている」

 「はあ」

 生返事になってしまった。

 「夜野さん」ルカが声をかけた。「……何を企んでいるのです?」

 険しい顔つきのルカに夜野先生が答える。

 「企む? 何を言っているんだ。別にオレは何も企んでいない」

 「……私の言い方が良くありませんでしたね。もう一度聞きましょう。企んでいないと言うのなら、どうして波瑠さんを巻き込んだのですか? 貴方は何を隠しているんです」

 どことなく険悪な雰囲気になる。死神さんと話してるわけじゃねえんだから。そう思ったが、今ここで口に出せる勇気はなかった。

 「巻き込んだ、か。……少し、誤解があるようだ。この際はっきり言うが、確かにオレは隠している事がある。しかしだな、別に危険なことをしようだなんて思っていない。佐々木を危ない目に遭わせる気はないんだ」

 俺と目を合わせて、夜野先生が「誤解させてすまない」と謝った。

 俺はと言えば、何故ルカがいきなり咎めるような態度を見せたのか分からず、戸惑っていた。

 ルカは変わらず怖い顔をしている。

 「……そうですか」

 それなら良いのですが、と続けた。

 夜野先生は姿形を変化させ、その大きな黒い翼で羽ばたく。あの烏も夜野先生の近くを飛んだ。空の向こうに飛んだ二つの影を見送り、俺はほっと胸を撫で下ろした。

 急に烏っぽくなるからびっくりしたじゃないか。心臓が飛び出るかと思った。

 風鈴の音がするりと耳に入ってくる。俺は帰路に着きながら、ルカに尋ねた。

 「なあ。何か気になることでもあったのか? 夜野先生も誤解があるようだって言ってたけど……教えてくれ」

 シルクハットの影に隠れた目が細められた気がした。

 「ええ、まあ。夜野さんの態度がおかしく感じたものですから、つい」

 険悪な雰囲気はさっぱりと消え、ルカが微笑む。

 「態度が? いつ? 俺は気にならなかったぞ」

 「彼女、ええと、名前、何でしたっけ?」

 おばあさんのことか。

 「確か……長谷川って苗字じゃなかったか?」

 下の名前は名乗っていなかった。

 「流石波瑠さん。——長谷川さんの話に烏が出て来たでしょう? あの時だけ、夜野さんが目を開けていたんですよ。それ以外はずっと目を閉じていたのに、おかしいと思いませんか」

 それは確かに少し怪しい。

 顔に出ていたのだろう、ルカが俺を見て「でしょう?」と同意を求めた。

 「でも、考え過ぎなんじゃねえの。目を開けたってのもさ、単に起きたからとか。大きな反応もなかったし」

 「いいえ。夜野さんは最初から起きていましたよ。狸寝入りでした」

 よく分かるな。驚く俺に、ルカが曖昧に微笑む。

 「……あれ? それなら何で夜野先生がおばあさん……じゃねえや。長谷川さんの話に反応したんだ? その烏が仲間だったとかか?」

 「さあ。それは私にも分かりません。ですが、何かあるのは間違いないでしょうね」

 何かある、か……。俺は長谷川さんの話を思い返す。

 三年前のことだ。道の隅っこに怪我をした烏がいて、あまりにも痛々しい傷を見兼ねて手当てをした。それから一週間くらい、ずっと同じような事があったという。長谷川さんがその烏を見つける場所はいつも違ったが、毎回、同じ烏だった。以前手当てをした箇所もまだ治らぬ内に、あちこちと傷をつけて弱っていた。

 長谷川さんはその烏をしばらく世話していたそうだが、ある日、忽然と居なくなったらしい。傷の痛みが和らいで無事に飛べるようになったから、巣に戻ったのかもしれない。そうは思うものの、いきなり姿を消した烏が心配であるようだった。

 「……」

 この話と夜野先生に一体何の関係があるんだ?

 悶々と考え込む俺。不意に、ルカが言った。

 「そうです、波瑠さんに伝えないといけない事があるのですが」

 「何だ?」

 一旦、思考を中断して、続きを促す。

 「——。……必要になれば、仰って下さいね」

 ……優しげな声。

 俺は視線を下げた。

 「わざわざゴミ箱から拾ったのか」とか「余計なお世話だ」とか、「本当は捨てたくなかったから、ちょっと嬉しい」とか。色んな気持ちが溢れそうになったが、その全てに蓋をして、呟いた。



 「………………そんな時は、もう二度と来ねえよ」



 二度と、欲しいなんて願わない。あの夜、そう決めたんだ。

 ルカから視線を感じたが、俺は知らないふりをした。


   # # #


 ドサドサッと派手な音が窓の外から聞こえた。

 「死神さん、今の音って……」

 私はあと数ページで読み終わる本に栞を挟み、死神さんと顔を見合わせる。

 「何か落ちたみたいな音がしたね」

 五時になろうとしている時間帯。私と死神さんは窓に近付いた。

 「気を付けて。妖怪の気配がする」

 死神さんの忠告に頷き、私は恐る恐る窓を開けた。下を覗く。

 「やっと捕まえたぜェ、尻尾ォ!」

 ……戒里さん?

 「それは尻尾ではないッ、俺の足であるぞ! 離せ、離せ! 離さぬかッ、この邪悪な鬼めが!!」

 誰かが喚いている。

 「戒クンだね、あれ。何してるんだろ」

 死神さんも不思議そう。それもそのはずだ。私の家の庭で、戒里さんとイタチのようなモノが言い争っているのだから。二人とも草の上に突っ伏して、一方はもがき、また一方はもがく者の足を掴んでいた。

 あれ? でも、あのイタチみたいなの、どこかで————

 「俺を誰と心得る! 偉大なるあのお方に仕える、鎌鼬ぞッ! 貴様のような落ちぶれた鬼が、俺に手を出して許されると思うな!!」

 その者は、戒里さんに足を掴まれたまま、叫んだ。

 何ともまあ、格好がつかない体勢だ。しかし、おかげで私は思い出すことが出来た。月森君の家で七夕祭りに参加した時、塀の上からこちらの様子を伺っていた人ならざる者達のことを。あの時あそこに居たのは、二つの尾がある猫又と、今まさに戒里さんの手から逃れようともがいている、鎌鼬。

 夕日が差し込む一角に、キラリと光る鋭利な刃が放り出されている。鎌だ。鎌鼬の物なのだろう。その証拠に、鎌鼬はそれを取ろうと手を動かす。その手さえも、指先から長く鋭い爪が伸びていた。

 「絶対逃がさねェぞ!」

 戒里さんが声を張り上げる。

 私と死神さんは突然の出来事に呆気にとられて、見ていること以外、何も出来ないでいた。

 「鎌鼬ィ! てめェの主はオレ様が消してやる! 塵も灰も、何一つ残させねェぞ!」

 「くそ、くそッ。こんな所で時間を食うわけにはいかぬというのに……!」

 元々、人間サイズの戒里さんと小動物サイズの鎌鼬は力では敵うはずがない。傍から見てもそれは瞭然だ。

 ——だが。

 「致し方ない……計画がある以上、妖力は出来得る限りためておきたかったが……」

 風に乗って、そんな言葉が聞こえてくる。

 嫌な予感がして私は自室を出た。死神さんから制止の声がかかったが、構わず私は急いだ。階段を下り、靴を履き、玄関のドアを開ける。戒里さんと鎌鼬が居る庭は玄関を出て右手にある。

 壁側に寄ったまま角を曲がると、足元に鎌が転がっていた。そして、そこで見た光景は、生きてきた中で一番衝撃的だった。

 「……っ、ぐ、がはっ」

 凄まじい風を身に纏い付けた鎌鼬。その手の刃物のような爪が、起き上がろうとしたのであろう戒里さんの背中に、深く突き刺さっていた。赤黒い血がボタボタと草花へ滴り落ち、広がる。

 動きが鈍くなった戒里さんから爪を引き抜いた鎌鼬は、そのまま私の方に顔を向けてゆっくりと近付いてきた。気付かれていたとは思わなかった。私は思わず後退あとずさる。震えが止まらなかった。

 ぐったりとした戒里さんが大量の血を流しながら、鎌鼬を捕まえようと手を伸ばす——が、あと一歩の所で、意識を失ったしまった。心なしか、その腕からも血が出ているような気がした。

 目の前に宙を浮いた鎌鼬がやってくる。いや、風に乗っているのだろうか?

 私は強風に煽られて、咄嗟に両腕を顔の前にやった。

 微かな金属の音がして薄目を開けてみると、鎌を持った鎌鼬がこちらを見ていた。

 …………

 私じゃない。鎌鼬は私を見てない。

 

 「人間、人間か、貴様?」

 鎌鼬が戸惑う声を出した。

 「——違うよ」

 ふと、風の強さが弱まったかと思えば、気付いたら私は死神さんの後ろにいて……。

 死神さんが私を隠すように、一歩前へ出た。

 「ボクは人間じゃない。死神だよ」

 酷く冷めた声だった。鎌鼬は少し驚いた様子で、しかし、逃げるように夕闇に溶け込み、姿を消してしまう。

 現実味のない現実を目の当たりにし、私はしゃがみ込んだ。

 「……っ」

 なに。何なの、訳がわからない。

 どうして戒里さんが鎌鼬を捕まえようとしていたの? 鎌鼬が戒里さんを刺したのは何故? それに、鎌鼬が口走っていた"あのお方"って、一体誰のことなの。

 以前見かけた時は、てっきり月森君が狙われてるんだと思ってた。でも、それは違った……?

 ああ、嫌だな。思考が乱される。嫌なものを見てしまった。トラウマになりそうだ。

 頭を抑えた私を心配してか、死神さんが私の肩にそっと触れる。

 「もう大丈夫だよ」

 そんなありふれた一言のおかげで、私は徐々に落ち着きを取り戻していった。

 っていうか、戒里さん、死んでないよね…………?

 私と死神さんは倒れている戒里さんに駆け寄って何かと声をかけるが、反応なし。

 「息は……してる。よかった……!」

 「とりあえず、体を起こそう。キミは救急箱持ってきて。ついでに汚れていいタオルも」

 「分かりました!」

 私は慌てて家に戻った。



 六時。

 窓の外の景色はほんのりと明るい。夏の夕方はまだ続きそうだ。

 「……」

 鎌鼬から受けた戒里さんの怪我は酷かった。血が溢れ、肉が抉れたような切り傷だった。私はあまりの痛々しさに目を背けたが、死神さんは平気な様子で応急手当てをしていた。命に別状はないらしい。救急箱の中身も随分と減った。

 庭に放置は出来ない。そこで、リビングのソファに戒里さんを寝かすことにした。両親の帰りが遅い事は死神さんに話してあるし、そもそも両親は"見えない"し、バレることはまずないだろう。戒里さんは死神さんが背負って運んだ。私が出来たのは、ほんの小さな手助けだけ。

 戒里さんの血も"見えないもの"だから片さなくていいそうだ。でも……私には、見えるからなあ。なるべく庭を見ないようにしよう。

 「ありがとうございました」

 しんと静まり返った空間に私の声が響く。食卓の椅子に向き合って座っているから、死神さんの表情が伺えた。……『何のこと?』って顔だ。

 「あの時、助けてくれたじゃないですか」

 そう私が少し笑うと、死神さんは合点がいったと頷いた。

 「どういたしまして。キミには怪我してほしくなかったからね」

 さらりと言ってのける。

 「戒里さん、まだ目覚めませんね」

 ソファに顔を向ける。寝息は聞こえないほど小さく、「気付かないうちに死んでいた」なんてことがありそうでハラハラしてしまう。

 「致命傷じゃないとはいえ、あの傷だからね。妖力でも持ってかれたんじゃないかな」

 「妖力? ……ああ。確か、人間でいう元気のもとみたいなものでしたっけ?」

 「元気、元気か。うん……っ。そうだね。そんな感じのもの」

 死神さんが含み笑いをする。何かおかしかっただろうか。小首を傾げる私に、死神さんは気にしないで、と。

 「それより、気になるね」

 「何をですか?」

 「あの鎌鼬のこと。戒クンと何か揉めてたみたいだったし」

 そうだ。どうして揉めていたのだろう。戒里さんは鬼気迫った雰囲気だった。鎌鼬の方も何か言っていた。なんと言ってたかな。ええと。

 「『偉大なるあのお方に仕える、鎌鼬』」

 あと、何だっけ。不穏に感じた言葉があったはず。私は記憶を辿った。

 「……『計画がある以上、』」

 その続きが思い出せない。妖力がどうとか言っていたような気がする。それなのに、肝心の言葉はあとちょっとのところで出てこない。

 もう少しで思い出せそうなのに……!

 「——『妖力は出来得る限りためておきたかった』……じゃないかな」

 「そう! それだ! ……あっ」

 思わずタメ口になってしまった。咄嗟に口を手で塞いだが、すでに意味は成さない。

 「すみません……」

 「いいよいいよ。気にしてない。キミさえ良かったら、そのまま敬語じゃなくても良いんだよ?」

 相変わらず、笑顔の裏の本音が読み取れない。

 「いえ。それは遠慮しておきます」

 私は右手を前に出し、断った。

 「……結局、戒里さんから直接訊くしかないみたいですね。教えてくれるかは、また別でしょうけど」

 「そうだね」



 「知りたいかァ?」



 静寂になりかけていた空気を裂いて、ソファの方からそんな声が飛んでくる。

 驚いた。暫くは目覚めそうにない、と思っていたのに。

 「……ッ、てて。こりゃあしくじったなァ……」

 包帯の上から傷を撫で、戒里さんが体を起こす。その顔は痛みで歪んでいた。汗もかいているようだ。夏の暑さも伴って辛い状態だろう。

 私は席を立って戒里さんの近くへ。念のためのタオルは用意してある。血を拭き取るためのタオルではなく、汗をかいた時用に準備していたものだ。死神さんは椅子に腰掛けたまま、戒里さんに問いかけた。

 「しくじったってことは、あの鎌鼬を捕まえれるって確信してたみたいだねえ。いや、ただ自信があっただけかな?」

 少々、挑発的だ。

 怪我してるヒトに、何もそんな言い方しなくても、と思う。だが戒里さんは全く気にしていないようだ。

 私が差し出したタオルを「ありがとなァ」と好意的に受け取り、返答する。

 「その通り過ぎて、何も言えねェよ。——オレ様には自信があったァ。かみくんの言う通りな。だがこのザマだァ。……ほんと、つくづく運がねェ」

 「あの」

 戒里さんが私を見る。「なんだァ?」

 私は気になっていたことを訊ねた。

 「何で鎌鼬を捕まえようとしたんですか? あの鎌鼬も何か言ってましたし。何か、あるんですよね」

 戒里さんとあの鎌鼬の間には、何かある。それは確実だ。

 「……知りたいかァ?」

 ついさっき聞いた言葉。死神さんの反応をちらりと伺うと、彼は「キミが決めて」と。私は戒里さんに向き直り、頷いた。

 「知りたいです。教えて下さい」

 「…………しゃあねェ。お子様は巻き込みたくなかったんだがなァ」

 がしがしと頭を掻き、「長くなるぞ」とぶっきらぼうに言った。

 ソファの上で、怪我の負担を軽くする体勢を整えた戒里さんは、"それ"を語り始める。



 "それ"は、かつての異空間で耳にした戒里さんの過去と、もう一つの真実。

 そして、この町の神社にまつわる昔話が関わっていた。



 5

   ☆ ☆ ☆


 祭りの準備を始めて早五日。とうとう明日は祭りが開催される日だ。

 僕達が掃除していた公園も見違えるほど綺麗になった。今では屋台も数個並んでいる。

 「一翔ー、その紐ちょうだい」

 掃除が終わり、屋台も設置し終わり、残る仕事は飾り付けだけ。住宅街の方はまた別の人達が飾り付けしている。祭りが近くなる度に、住民達はワイワイと賑やかな様子になった。

 「赤か? それとも白? オレンジもあるぞ」

 屋台を置く公園の木々の間や、夜になると暗くなるところなどを重点的に明るくしなければならない。そのため、各公園に何十個ものの提灯が配布されるのだ。

 僕と輝汐と稲葉は、三人揃って木と木の間の場所を担当していた。大きな石もほとんどない地面に脚立を置き、その上に乗って提灯を紐で吊るしていくのだ。昨日、帰り際に稲葉のじいちゃんが長く丈夫な紐の束を木に括り付けてくれたから、その紐に提灯を取り付けるだけ。至って簡単な作業だ。

 「赤はさっき使ったから、オレンジ」

 「稲葉、そこは白じゃなかった?」

 「白だな、はい」

 「えっ。もしかして俺、全然信用されてない??」

 そう言いつつも、稲葉は僕から白色の紐を受け取った。脚立の上だというのに、若干背伸びをしている。危なくないか? と思ったが、この三人の中で一番身長が高いのは稲葉だ。……とは言っても、稲葉と僕は一、二センチほどしか違わないのだが。

 そんなこんなで、稲葉は提灯を紐で取り付ける係、僕は紐を渡す係、輝汐は提灯を渡す係をしている。

 僕と輝汐の役割は地面の熱が煽ってくるだけで、それ以外に大変なことはこれと言ってない。逆に稲葉は暑さよりもそれ以外が大変そうだ。

 まあ、この役割分担は稲葉のじいちゃんに任せられたから、稲葉も文句を言えなかっただろう。もちろん、僕も輝汐も同じだ。稲葉のじいちゃんはある意味恐ろしいからな。

 「なあなあ、じいちゃんから聞いたんだけどさ」

 手を動かしたまま、稲葉が言う。

 「明日の祭り、何かスタンプラリーみたいな事するみたいだぜ」

 「「スタンプラリー?」」

 僕と輝汐は同時に首を傾げた。

 「そ! 飾り付けした公園を巡って、その公園のどこかにあるスタンプを押すんだって。専用カードがあるらしい。スタンプでカードが完成したら、神社に行くんだってさ。そこで見事、景品がもらえる!」

 「景品だって、兄ちゃん! おれ、バスケットボールがほしいぜ!」

 はしゃぐ輝汐が微笑ましい。この場では一番の癒しである。

 「稲葉は景品が何か知ってるのか?」

 「いんや。俺は何も。じいちゃんが教えてくれないんだよ」

 むすっとした声色が現れる。これは、相当聞いたけど教えてくれなかった時の反応だろう、と予想する。

 稲葉が脚立から下り、少し位置を横にずらしてから、もう一度脚立に上った。輝汐から提灯を受け取った後、次に紐を求める。僕は今度は迷わずオレンジの紐を手渡した。

 「僕は食べ物系がいいな。物は当たり外れがあるけど、食べ物だったら基本、何でもいける」

 「あー」

 輝汐が納得する。

 「兄ちゃん好き嫌い少ないもんな」

 「へ。そうなの? 俺、一翔はガッツリ系が苦手だと思ってた。カツ丼とか、牛丼とか、そういうの」

 「普通に食べるぞ。野菜系も特に苦手なものはない」

 「お菓子とか果物もめっちゃ食べてるぜ」

 作業を続けながら雑談をする。

 「そのわりには? 俺より? 背が小さいようですが……っ」

 「笑うな。別に気にしてないけど、お前に言われるとなんか腹立つ! なんか知らんが腹立つっ」

 「何も二回言わんでも!」

 「おれも二人みたいに早く大きくなりてーなー」

 日常を思わせる会話が心地いいと思うのは、やはり僕が見える体質故だろう。

 このまま無事に、祭りが開催されればいいが……何だか、妙な空気を感じる。祭りの夜は百鬼夜行があるようだし、それが気にかかっているのだろうか。それとも、五日前から戒里の姿が見当たらないからだろうか。書き置きがしてあったから、別に大した事じゃないだろう。そう、分かってはいるのに。

 嫌な予感がするのだ。

 胸がざわついて仕方ない。まるで得体の知れない『何か』に見据えられているかのようだ。じっと、じっと、何者かが僕の動向に目を光らせているような、気味が悪い感覚。

 ふと、風が付近を流れた。地面の熱を緩和する、生温くも優しい風。

 頬を撫でるその風が、何となく、僕に囁いたような気がした。 

 『気をつけろ』


   * * *


 五日も経てば、飴屋であるすみれ堂の店主、おばあさんこと長谷川さんと打ち解けるのは早かった。

 無理に敬語を使わなくていいと言われ、素の自分でいられたし、話も沢山したし、毎回違う種類の飴をくれるし。可愛がってくれているのだと直感的に理解出来る。

 それに何より、両親にこれらの事がバレていない。それだけで心に余裕が出来た。

 そして、何となくだが、分かった事がある。夜野先生の事だ。

 夜野先生とはこの五日間、毎日顔を合わせている。場所は今日も訪れているすみれ堂で、だ。最初こそ居合わせたのは偶然だと思っていたが、五日も経てば嫌でも察してしまう。夜野先生は何か特別な理由があってここを訪れているのだ。

 建前上は取り繕われた。直球で訊いても、ここの飴が気になって、だとか、色々上手く理由をつけてはぐらかされた。だが昨日、ルカと推測を言い合った結果、一つの仮説に辿り着いた。

 三年前、長谷川さんが助けたという烏。それが夜野先生だったのではないか、という仮説だ。



 「波瑠ちゃん、今日も良かったら食べておくれ」

 「……昨日より量が多いような……」

 無料でいいのだろうか。一度、気になって長谷川さんにお金の事を尋ねたことがある。その時、長谷川さんは俺の不安げな表情に気付き、言った。

 「これはどれも店頭に並べられない物だからねえ。失敗作ってところだ。わたし一人では消化しきれないから、いつも廃棄してるんだよ」

 そして、こうも言った。

 「だから、波瑠ちゃんが来てくれて嬉しいよ。遠慮せず食べておくれ」

 そう言われると、厚意に甘えようと思ってしまうのが性だ。

 夜野先生は毎度お馴染みの所に腰を下ろしている。目は閉じているが、寝ているわけではない。今ではそれが俺にも分かった。意識していないと全く見分けがつかないが、ルカは一発で気付いたのだから、やはりすごい。

 「ルカ、ルカ」

 長谷川さんの注意が逸れている間に、こそっとルカに飴をあげる。

 ルカは飴を口に入れ、幸せそうな顔を見せた。

 「今日は何の話をしようかねえ」

 昼時。蒸し暑い外は蝉が鳴り止まない。ずっと快晴が続いているから、お客さんも熱が和らいだ朝や夜くらいにしか来ないそうだ。

 チャンスだと思った。もう一度、助けた烏の話を聞こう。そして今度こそ、夜野先生の反応を確かめるのだ。そうすれば全部分かるだろう、と。

 ルカも同じ事を考えたのか、俺と目を合わせ、頷いてみせる。

 「俺、もう一回、あの話が聞きたい。烏を助けたって話」

 初めてリクエストを受け、長谷川さんはきょとんと目を丸くさせた。だがそれは一瞬のことで、穏やかな表情で語り始めた。その落ち着いた声をしっかり聞きながら、俺は夜野先生を横目で伺う。

 夜野先生は、目を開けていた。

 その瞳は優しかったが、同時に、憂いを帯びていて。予想と違う様子に戸惑った。

 長谷川さんの話は続く。



 ——三年前。

 わたしは主人を亡くして、途方にくれてた。

 元々、このすみれ堂は主人のものだったしね。一緒に飴をつくって生活していたけど、それまで続けていた夏祭りの屋台も出来なくなって、繁盛もしなくなって。いっそ手離してしまおうかと考えていた時期だ。今でこそ馬鹿な考えだったと思うけれど、あの頃のわたしはお婆さんなのに、まるで迷子の子供みたいでね。何をしても上手くいってる気がしなかった。

 その日は気分転換に散歩でもしようと思って、店を閉めたんだ。そうしたら、ちょうど外に出て五分くらい経った頃に、怪我をしてる烏を見つけたんだよ。

 可哀想に、ざっくりと切られたような傷が一つあってね。三センチもしなかった傷だけど、あまりにも痛そうだったから、「助けないと」って気持ちになって、そのまま手当てをするためにうちに帰ったんだ。

 相当弱っていたから、しばらくはうちで世話をした方が良いかと思って烏を休ませたんだよ。次の日の朝には、もう居なかったんだけどね。

 ただ、また同じような時間に別の場所で怪我をしている烏を見つけたんだ。昨日手当てをした烏だと気付くのは早かったけれど、次は別の場所を擦りむいていてね。このまま放っておくのも出来なかったから、またうちで手当てをしたんだ。それがなんと、一週間も続いた。烏の方も警戒心がなくなったのか、三日目からはうちに居座っていたんだ。怪我をする時は、決まってなぜか外だったがね。

 別段、烏が好きというわけでもなかったよ。でも、楽しかった。主人を亡くして元気がなかったわたしは、怪我を負って飛びにくくなった烏が、一生懸命羽ばたこうとしてる姿を見て、元気をもらった。

 だけど、一週間経った後、急に居なくなったんだよ。傷の治り方が早いものだと思ってはいたけど、まだ完全に治ったわけじゃない。その状態で居なくなってしまった。

 どこかでまた弱ってるんじゃないかと心配で探したんだがね、結局、その烏とはそれきりさ。

 今でもそこらを飛んでいる烏を見ると、三年前の烏を思い出すよ。

 ……ああ、そうそう。

 この前話した時は言ってなかったけどね。その烏が居なくなってから、不思議なことがあったんだよ。

 店の前の軒下に小さな木の椅子があるだろう? 自動販売機の影に隠れていて、ぱっと見では分かりずらい場所の。そこにね、果物が入った籠が置いてあったんだ。それは一度きりだったんだけどね、「助けて頂いた事、感謝する」って綺麗な字で書かれた紙もあって。あの時は、誰を助けただろうと考えたものだよ。



 ゆったりと話し終わった長谷川さんは穏やかな笑みのまま。

 俺は話を聞いた後、夜野先生の反応を加えて思考し、確信した。やっぱり、三年前の烏は夜野先生だ。

 「おや、もうこんな時間か」

 時計を見た長谷川さんがふわっとした声を上げる。俺も時間を確認した。三時を過ぎている。

 「波瑠ちゃん。渡したい物があるんだよ。少し待ってておくれ」

 そう言って腰を上げた長谷川さんが、奥の方へ。

 渡したい物が何か分からず、気にはなったものの、夜野先生に話しかける今の時間を見過ごすわけにはいかなかった。

 「夜野先生」

 いつの間にかまた目を閉じていた夜野先生に呼びかける。ルカはこれを狸寝入りだと言っていたが、本人はその気がなかったようで、あっさりと目を開いた。

 「佐々木か。どうした?」

 不思議そうな顔をしている。当たり前か。俺が今まですみれ堂の中では話しかけなかったから、突然何だと思うのも無理はない。

 「さっきの話、聞いてましたよね?」

 ルカが尋ねた。夜野先生は動揺もしない。

 「ああ。聞いていた」

 「じゃあ訊きます。三年前の怪我した烏って、先生の事ですか?」

 大きな反応は見られなかった。ただ、夜野先生は俺の目を見据えて——そして、認めたのだった。

 「……ああ」

 ルカと顔を見合わせる。またはぐらかされるだろうと思っていたから、こうも簡単に頷くとは予想外だ。

 「さ、最近ここに来てたのは、長谷川さんと会うためですか?」

 「そうだな。少し時間が空いたから、久しぶりに会えないかと。まあ、向こうはオレが視えないから、見守るだけで終わってしまうが」

 三年の時日を、『少し』で表すのか……!

 「では、何故波瑠さんを頼ったのです。一人で行けば良かったでしょう? 烏が苦手だという人の子に、どうして」

 ルカの双眸が冷たく光る。夜野先生はたじろきさえしなかったが、難しい顔をした。

 「……確かに、巻き込んですまんと思っている。烏が苦手だと聞いていたし、頼るべきではなかったのかもしれんな」

 「っならば」

 「だが、月森には頼めなかったんだ。あの子は聡い。オレと戒里が仲違いした事も知っているだろうし、頼れば、告げる必要のない事も口走ってしまうと思ったんだ。だから、彼女と居合わせた佐々木に……」

 ルカは不服そうにしていたが、俺はその点について、特に言いたいことはなかった。強いて言えば、ああそうかと納得したくらいだ。

 というか、戒里さんと仲違いしたって……そっちは大丈夫なのか? あの異空間での事を思い出す。

 「すまなかった。佐々木」

 「いや、気にしてません。でもわざわざ俺を頼らなくても、人として会いにこれば良かったんじゃ……?」

 妖怪としてではなく、人間の夜野先生として。

 「それだと、意味がないんだ。人として会いに来てしまったら、いつかオレはそれに縋ってしまう」

 先生が苦々しく笑った。

 「? それってどういう……」

 その時、長谷川さんが戻ってきた。

 「待たせてすまないね。どこに置いたのかうっかり忘れてしまって」

 「だ、大丈夫だっ」

 慌てて夜野先生との会話を終了させ、俺はお茶を飲むふりをしつつ心を落ち着かせる。

 「明日は夏祭りだからねえ、朝早くにチラシを配られたよ。本来は明日の朝に町の掲示板に貼られるんだが、わたしには協力してくれるからって」

 協力?

 疑問に思いながら、差し出されたチラシを受け取った。

 俺、祭りにはいかねえんだけどなぁ。

 チラシには祭りが始まる日時と場所、そして何かの企画が大々的に宣伝してあった。

 「『公園スタンプラリー! 景品はスタンプを集めてからのお楽しみ!』……?」

 食べ物とおもちゃらしき物のイラストがシルエットで描かれている。

 去年はこんなのなかった気がする。新しく始めたのだろうか。

 「今年は参加しないつもりだったんだがね、自治体の人に頼まれたのさ。『景品の一つを林檎飴にしたいんだ』って頭を下げられてしまって……。流石に大きいのは何個も作れそうになかったから、アレンジしようと思って作っていたんだ。隠してたけど、波瑠ちゃんが今まで食べてた飴はその試作品と失敗作だったんだよ」

 「えっ」

 林檎飴にしては赤い飴以外にも、綺麗な翠色や黄色とかの飴があったような……。

 「祭りに行くんだったら、波瑠ちゃんにも参加してほしい。明日は今までと違って、とても良い出来の飴を贈ろう。これまでわたしの話に付き合ってくれたお礼だよ」

 お礼。その言葉に俺は目を見開いた。

 お礼がしたいのは、こっちだ。あんな家に居なくてすんだのは、長谷川さんのおかげだ。

 祭りには、参加しない。親が許してくれないし、行きたくても行けない。だから行かないようにしようと、そう決めていたのに——

 「……うん。楽しみにしてる」

 俺は、笑みを浮かべた。

 長谷川さんへの俺の気持ちを、長谷川さんが俺に向けてくれる気持ちを、今ばかりは無下にしたくなかった。

 「そうかい。嬉しいねえ」

 優しくて温かくて穏やかで、純粋に好意を向けてくれる人。大人の中で、唯一俺を見てくれる人。初対面で抱いた時と同じように、長谷川さんは不思議なおばあさんだと思った。

 「もう夕方だから、今日はお帰り。また明日会おうね」

 「ああ……また明日」

 俺は店を出た。後からルカと夜野先生が出てくる。ルカは祭りに参加すると言った俺を心配げに見ていた。俺は安心させるように笑いかける。きっと今は自然に笑えているだろう。

 両親にはバレないように、明日の夜、家を抜け出そう。そっと心に決める。

 「……そういえば、夜野先生、戒里さんと喧嘩したんですか?」

 「ん? ああ、言ってなかったか」

 喧嘩したと言う割に、先生は元気そうだが。

 「かなり、癪に来たんでな。顔も見たくないと言ったきり、会ってない」

 「へ、へえ」

 一体、何があったんだ。

 夜野先生の顔が一気に険しくなったから、それ以上は聞けなかった。



 「夜雨!」



 その時だ。

 何処からか美しい毛並みの狐が現れ、夜野先生の妖怪としての名を呼んだ。知っている声のような気がした。

 「急で悪いね。でも、説明してる暇はないんだ! 力を貸して。急がないと、手遅れになる!」

 取り乱している狐は人の言葉を喋っており、九つの尾がある。夜野先生の名を知っていたってことは、この狐も妖怪なのか。いきなりの出来事に驚く反面、そんな事を考えた。

 「落ち着け。ほら、佐々木たちも驚いてるじゃないか。せめて単語でも良いから説明を……」

 夜野先生が狐を宥める。だが狐は俺とルカの事が目に入っていないようで、更に声を張った。

 「——っ!」

 その言葉を聞き、流石に非常事態だと夜野先生が察したのか、狐に向かって一つ頷いた。そして振り返って俺達に言う。

 「佐々木、悪魔。オレはもう行くが、お前たちも気をつけるんだぞ。近頃、悪さをするあやかしがいるからな」

 忠告をした後、バサッと黒い翼を広げた。狐は器用に塀を伝ってすでに家の屋根へ。

 「波瑠さん、もう少し下がっていた方が……」

 そう言ってルカが俺の手を引く。だが、俺はそれを振り払い、今にも空へ飛んでいきそうな夜野先生を呼び止めた。

 「待ってくれ、先生! 俺も連れて行ってくれ!!」

 狐も、夜野先生も、ルカも、目を大きく開いた。

 「波瑠さん?! 何を言ってるんです! 危険ですよ! 行かない方が賢明——」

 「だって、雨水さんに何かあったんだろ!?」

 ルカの抗議を遮り、俺は夜野先生を見上げる。

 「先生、今度は俺から頼むよ。俺も、連れてって」

 この際、関わらないようにしていた事なんか、どうでもいい。

 もしかしたら友達になっていたかもしれない子が、何かに巻き込まれてるんだ。知ったからには見過ごせるはずねえだろ……っ。

 「……」

 先生は迷っているようだった。狐の顔を窺ったかと思うと、また俺に視線を戻す。

 「………………分かった」

 やがて、ポツリと言葉を紡いだ。

 狐は反対のようだったが、先生がそれを押し切ってくれた。しかしルカは眉根を寄せて、口をつぐんでいるまま。

 ルカは俺が行くことを許してくれないのだろうか。先程言葉を遮ってしまった事も重なり、怒っているかも、と少しだけ不安になった。

 「……仕方がないですね。波瑠さん、私も付き添います」

 知らず知らずの内に、顔色が曇っていたらしい。見兼ねたルカが俺に声をかけた。

 そして俺達は、狐にこれから向かう場所を教えてもらい、それぞれの移動方法で"そこ"へ赴く。

 いつかのように眩い光に包まれながら、俺は雨水さん——ついでに戒里さん——の安否を祈った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る