第2話 農場の家
砂埃をあげながらひたすら直進していた車がやっと街道をそれたのは、街を出てから一時間以上が経った時だった。
曲がり角に「レッドリバー・ファーム」と書いてあるボロボロの看板が出ていたので、この車は農場に向かっているのかもしれない。
私が運転している女の人をチラリと見ると、彼女もこちらを横目で見返してきた。
その目つきは「文句がある?」と言っているようでもあり、こちらのことを気遣っているようでもあった。
私にしてもこの先でどんな人たちが待っているのか怖いようでもあり、やっと何かがわかるのではないかという期待感もあったので、複雑な気分だった。
車は芽が出たばかりのジャガイモが列になっている広大な畑を両側に見ながら、踏み固められた土の農道をしばらく走っていた。しかしとうとう山の麓に何軒かの建物の群れが見えてきた。
風雨にさらされて色あせた赤い屋根の大きな建物が道の行きつく先にあり、その側に農機具小屋のようなものがいくつも建っている。
赤い屋根の向こうにも四軒ほどの住宅が見える。
窓の外からかぐわしい臭いがしてきたので、動物も飼っているようだ。
こんな広い土地を持つ農家は見たことがない、と私は思った。
いったい何と比べてそう思ったのだろう?
赤い屋根の大きな建物が、やはり目的地だったらしい。
車がやっと止まったので、私は窓ごしに建物を見上げてみた。三階建ての大きな家で、たくさんの部屋があるようだ。
いったいここに何人の人が住んでいるのだろう?
外には建物をぐるりと囲うようにウッドデッキのポーチがあり、ごつい木で作られたテーブルやベンチがあちこちに置かれている。家の軒の下につるされていたブランコには大人三人ぐらいが一度に座れそうにみえた。
玄関わきに置いてある鉢は水がなくなっているようで、土が乾いて花がしおれかけている。
「着いたわよ。サリー、トーマスさんとの話し合いが上手くいかなかったらうちに来て泊ってもいいわ。とにかく一人でどこかに行くのだけはやめてちょうだい。みんな本当に心配したのよ」
「ええ、わかりました」
どうやらこの女の人の家は、赤い屋根の向こうに見えた何軒かのうちの一軒なんだろう。
最初に彼女が言っていたことから考えると、私はここにもう住んでいて食事も作っていたのかもしれない。私がいなくなって、この女の人が代わりに食事を作ったり買い物をしていたんだろうか?
「私」も他人に迷惑をかけて、困ったもんだな。
私は完全に人ごとのように、そう思っていた。
女の人はどこかうわの空の私を気遣って、玄関まで付き添ってくれたが、ドアを開けてもう一つの買い物袋を降ろすと「私、まだトーマスさんが苦手だから、もう行くね。頑張って!」と言いながら私の肩を叩き、さっさと自動車に乗ると農機具小屋の方に走って行ってしまった。
……はぁ、友達?にしては、友達がいがない人だな。
そんな苦手なトーマスさんに、私一人で立ち向かえというのだろうか?
ま、でも「私」と結婚する予定だったそうだから、取って食われはしないだろう。
私は玄関の中へ入りながら、奥の方へ声をかけてみた。
「ごめんください~、失礼します。どなたかいらっしゃいませんか?」
すると二階からガタンと大きな音がして、正面に見える階段をドタドタと男の人が降りてきた。
ものすごいしかめっ面をしているので容姿を損ねているが、濃い茶色の髪に青い目のまあまあ男前のお兄さんだ。青色のチェックのシャツの胸元が開いていて胸毛が少し覗いている。それにシャツの衿の所が少し濡れているように見える。
近くまでやって来るとその男の人の背の高さと威圧感に圧倒されそうになった。
がっしりした筋肉質の身体にはホコリや汗の匂いもまとっていて、この人が肉体労働者であるということがよくわかる。
「サユリ、いったいどこへ行ってたんだ?!」
押し殺した低音の声が、出会い越しに「私」を
そんなに怖い声を出されても、私は関係ないんですけど……
でも、この人は私のことをサリーじゃなくて、サユリと呼んだ。
いったい私はなんという名前なんだろう??
「あの、お怒りのところ申し訳ありませんが、ちょっと事情があるというか、何というか……私は自分の名前とか、何をしていたかとかを覚えていないんです。今日のたぶんお昼頃だったと思います。突然、自分が教会のような所にいることに、気づきました。その後に外を歩いていたら、私のことを知っているという買い物帰りの女の人に、サリーと呼ばれてここに連れてこられました。でも、あなたは私のことをサユリと呼びましたよね。私の名前は本当は何という名前なんでしょうか? あなたはどなたですか? トーマスさんという方にお会いしたいんですが……」
私が話を始めると、彼にとってはあまりにも意外な話だったのか、ポカンと鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、じっとこちらの方を見ていた。
そして私が話し終わると、急に私の肩をつかまえて、今度はすぐ側でジロジロと全身を確認してきた。
ち、近いんですけど……
「ジョークだと言ってくれ!」
「………………」
それが残念ながら冗談じゃないんですよ。
彼が掴んでいるところにギュッと力が入ったかと思うと、その後そっと手を離された。
男の人はガシガシと髪を掻きむしりながら、玄関先に置いてあった買い物袋を目に入れると、それを手に持って私を台所の方に連れて行った。
そして十人ぐらいが一度に食事ができそうな広いテーブルがあるダイニングに私を座らせると、買い物袋をカウンターに置いて、側にあった大きな木の椅子にドカリと音を立てて座った。
しばらく二人の間に言葉はなく、沈黙がその場を支配していた。
何かを考えていたのだろう両手で顔を擦っていた男の人は、やっとくぐもった声で話し始めた。
「しかし荒唐無稽な話だな。俺には、君はサユリそっくりに見える。でも……なんだか話し方や所作が違うような気もする。クソッ! 記憶喪失だって?! そんなことが本当にあるのか?」
「記憶喪失? それとはちょっと違うんじゃないでしょうか? 以前読んだ本では……」
あれ? どんな本をいつ読んだのかしら?
「以前? 何か思い出したのか?!」
男の人は、一縷の望みを見出したかのように、私の方に迫ってきた。
しかし、私の頭の中は依然とぼんやりとしてつかみどころがなく、やはり何も思い出せない。
「いえ、考えようとすると霞がかかったようになって、何も思い出せないんです。でも、記憶喪失なら言葉も話せないと思いますし、日常のあれこれも覚えていられないんじゃないでしょうか?」
「そうか……君がそう言うならそうなのかもな。俺にはさっぱり見当もつかん」
「あの、ところであなたの名前は? もしかして、あなたがトーマスさんなんですか?」
彼はこの状況を軽蔑するかのようにフッと鼻先で笑うと、青い目をこちらに向けて自己紹介をした。
「いかにも。俺がザック・トーマスだ、婚約者殿」
「ザック……」
少しでも何かを思い出せないかと名前を何度も頭の中で繰り返してみたが、そこには何の引っかかりもなかった。
普通だったら婚約者が相手の名前を忘れるなんていうことはないよね。
私はここにきて初めて、なにか申し訳ないような気がしたのだった。
カンタスへの道 秋野 木星 @moku65
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