13 「甘やかすと言うなら、私も甘やかして欲しいですね」
わたしの拳が起こした振動で、立てかけていた鏡がぱたんと倒れた。
『おっと、鏡が倒れましたよ睡蓮様』
直して下さい、と言われるので、まずそこじゃないと思いつつ、直す。
立て直した鏡には、例のごとく、一糸の乱れなく完璧な姿の蛍火が映る。
この一日一度の連絡も、何度目か。もう慣れて、自然な日課と化しつつある。日記みたいな感覚かもしれない。
今日はとうとう愚痴が爆発した。
雪那の会議出席風景を観に行った。堪えに堪えてしばらく。感想が噴出である。
わたしは、蛍火に雪那を取り巻く状況を説明した。
『睡蓮様も、即位当時は年齢も今の西燕国王と同じくらいで、舐められていたことがありましたね』
少し考えるそぶりを見せたかと思ったら、蛍火が言ったのがわたしのことだった。
「そうね」
おまけに言えば、わたしの反応を求めず期待しない人間がいた反面、積極的に近づいてくる者もいた。
残念ながら味方ではなく、未熟な王に未熟な判断をさせて、自分の良いようにもっていこうとする人間だった。
どんな王でも、腐っても王。
先日の雪那の部屋に来ていた臣下は、その類いだ。だからわざわざ、と感じたのだ。
今は側にいる神子に言っているけど……。
厳しくも理不尽だが、舐められる王は、舐められるものだ。
「……そう言うと、蛍火もけっこうそれが『仕方ないでしょう』っていう空気出してたよね」
わたしが侮られるのは、まあそうだろうなっていう空気を。
『そんなに一生懸命になっても空回りしますよ、と申し上げましたことがあったような』
「うわ、覚えてるんだ」
『睡蓮様こそ』
「わたしは……今思い出したの。ほんと、蛍火は最初はなんか、いけすかなかった」
『………………神がお選びになるとはいえ、王は人間。即位した途端に性格が変わるわけでもなく、完璧超人にはなりません。一年で倒れた王もあり、役立たずのぐずぐずの王もいたといいます。正直私にとって睡蓮様は当時若かったですし、あなたが若かったように私自身若造だったのでしょう。『小娘』で『田舎娘』だった人物がまともに政治を出来るとは思えませんでした。ええ、見た目で人を判断するなとか何とでも仰ってください』
……いや、けっこう本音出したね?
初耳事項がたくさんだったんだけど。
そして早口で、後半は何だか息継ぎもほとんどなくて一気な様子は、何というか……。
「蛍火も、青かったんだね」
『……止めて下さいますか、その目』
視線を逸らして、顔も背けた。ちょっと顔が赤いのでは?
昔の自分を思い出して恥ずかしいっていうやつですか。
わたしは、昔を思い出してそんなに恥ずかしいと思うことはなかったけど……。
「いや、それより雪那」
わたしの即位当初の話なんていい。雪那だ。
『似ているようで、異なる事情が混ざっているかもしれないため、見た目より実情も異なっているかもしれませんね』
わたしの場合とは、と蛍火も話題の中心をきっちり戻した。
『知識不足な部分は置いておき、他の要素として、西燕国には百年王がいませんでした。その間王不在で政治を回してきたはずです。二度、その百年が続き、さらに間の王の統治も数年でした。内情も芳しくなかったようですから……西燕国は、王がいなくても回る体制が染み付いてしまっているのかもしれません』
だからと言って、と言いたくなる。
この国は、百年王がいなかった。その間、臣下のみで政治を回してきて、今回新王は政治に疎い人物ときた。
臣下は王を当てにしていない。そしてそれを新王──雪那自身も感じてしまっている。
臣下がため息をついていたが、雪那の方だってため息をつきたいだろう。
勉強が間に合っていなくとも、王となったからには責務が生じる。だからまだ分からないことが多くても、実践の場に出なければならなくて、出ている。
雪那は頑張っている。
前から頑張っていたけど、新しく頑張りはじめた。意見を聞かれても臣任せに出来る文言だってあるけど、ちゃんと、自分で話そうとして話している。
即位前の憂鬱そうな空気は、軽くなったように思える。
頑張ってみる、と言った通り、頑張っているんだ。
「……わたし、別に雪那のこと甘やかしてないよね」
『何です、急に』
「いや……」
この国付きで王付きとなった神子に、わたしは雪那をちょうどよく甘やかすのが得意なのだと、言われた。
その神子には、雪那が図書室に行くことを伝えていて、そっとしておくようにも同時に言っておいたのだが……。
甘やか……しているとしても、いや、だって弟だし。
王として、やらなければいけないことはあるからそれはやらないとと思うけど、息抜きはさせてあげたいと思うのは当たり前では?
それに、即位式のときには厳しくしすぎたんじゃないかと思ったのに。
「やっぱり何でもない。解決した」
蛍火は不思議そうにしたけど、深刻な話の流れではなかったので、大したことではないと判断したようだ。
『甘やかすと言うなら、私も甘やかして欲しいですね』
「んん……?」
思わぬことを言い出した。
甘やかしてほしい?
「蛍火、そういうこと、言う性格だっけ……?」
非常に疑問である。
聞き間違いか、と、奇妙な顔をしたら、蛍火は冷静にあしらうかと思いきや、弱く微笑んだ。
なんで、そんな、笑いかたするの?
『鏡越しでは物足りないのと、実感が薄れてきます』
「実感?」
実感です、と囁くように肯定し、蛍火がこちらに手を伸ばす。鏡からこちらには出て来ず、触れただけのようだ。
『睡蓮様は、本当に、そこにいるのか。本当に、この世にいるのか』
「いる、けど」
知っていますよ、と蛍火は小さく言う。それは知っているが、『そうではない』のだというようだった。
『私が毎日、幾度手を伸ばしそうになっているか知らないでしょうね』
だから、その笑いかたは、何なんだろう。
ざわざわと、落ち着かなくなる感覚がする。
今すぐ、そっちに言って、「その笑い方は何?」と頬を引っ張ってやりたいような感じ。
「……そっか、出そうと思えば出せるんだ」
『ええ』
こうして互いの場所を掴み、顔を写し出せれば、互いの場所は鏡で繋がっているとも言える。やろうと思えば、この鏡も出入り口になり得る。
「伸ばして、いいよ?」
急に出すとびっくりするから、やらないでいてくれたのだろうか。
遠慮なくどうぞ、と手を差し出してみる。蛍火は、わたしの手を鏡超しに見て、やがて、ふっと息を溢すように微かに笑った。
『それはご親切に』
直後、改めて蛍火が鏡に触れる。そして、指先がこちらの鏡の面から出てきた。指、手……その手が、わたしの手に触れる。
「うえぇ、なんか不思議な感覚」
『「うえぇ」、とはそこはかとなく失礼な響きですね』
「ごめんごめん」
こんなことしたことなかったから。何だか奇妙な感覚だった。視覚情報のせいかな。
こっちに出てきた手をわたしも触りながら、ついでに持っているお菓子を握らせてみる。
「これあげるね。美味しいよ」
『……ありがとうございます』
「何その微妙な顔。疑ってる? 美味しいの本当だって」
『いえ、睡蓮様が味音痴であった過去に心当たりはありませんから、そこは疑っていません』
そう?
「蛍火、手、冷たいね」
『そうですか?』
「うん。冷たい系の人なんだね」
『その言い方は人柄も被害を受けている気がします』
「ええ?」
細かいこと気にするなぁ。
それにしても、綺麗な手だ。女性の手だとは思わないけど、綺麗な手。すべすべだし。
汚れるのは似合わない手、と言うより、汚したくない手、だ……。
「わたし、一度、内界に戻ろうかな」
『……本当ですか』
「うん」
『弟君はよろしいですか』
「よくはないけど、一旦戻るくらいの余裕はあるかなって。あれから蛍火に直接会ってないし」
前途はまだ険しいだろうけれど、雪那の前向きが見えてきた。
即位前の憂鬱そうな空気は、軽くなった。逃げたくなったときの逃げ場もあるから、わたしがいないときでもあそこに避難するといい。
あとは、もう一回くらいそれとなく王付きの神子には、引っ張り出すことはくれぐれもしないで欲しいと言っておこうか。
甘やかす、と見えているならそれはそれでいいけど、ここで一度わたしが弟離れするのもいいかもしれない。
二年前までは、離れたことのなかった姉弟だ。二年を経て、ここでまたべたべたになるのもいかがなものだ。
それに、わたしが裏でどれだけ手を出そうと、結局は雪那が認められなければならない。かつてのわたしが、大いに臣下と戦ったように。
けれど、雪那は生来負けず嫌いとかいう性格の正反対だ。摩擦は避けたい性格。事情もあるようだし、どうにか助けはまだまだしていきたい……。
一方で、蛍火が内界にいてほしいと言うなら、きいてあげたい。彼が、そう望むなら。
せめて、便宜を図ってくれた蛍火に会いに一度内界に戻ろう。また、この国に戻る我が儘は言ってしまうけど。
今、蛍火をないがしろにしすぎている気がしてきた。
「うん、今日明日すぐには出来なさそうだけど、近い内にそっちに一旦戻る」
『そう、ですか』
あ、やっと、あの笑い方が消えた。
借りていた部屋を出ると、ばったり雪那に会った。
「陛下、これから部屋にお戻りですか?」
「うん。──花鈴は、神子の宮に?」
「はい」
まあ、後で雪那の様子を見に、部屋を覗きに行くけど。と思いながら、笑顔で一礼し、雪那が去ってから歩き始める。
「陛下」
臣下が一人、わたしとすれ違い、雪那の注意を引いた。
もしかして、こういう、よく部屋に様子を見に行くところは「甘い」ところに入るのだろうか。
あ。そうだ。
「
雪那に一旦内界に戻ることと、でももう来ないわけじゃないから安心するように言っておかなければ。
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