18「わたしは花鈴」
声が出たとすれば、究極に変な声が出ただろう。それくらい、不意を突かれた。
わたしは顔を上げた。振り向いた。
扉の側に立っている彼の紫の目が、わたしを見て、転がる椅子を見て、窓を見て──わたしに戻ってきた。
「出られないだろう」
部屋の中に入ってきながら、紫苑は「俺が、今の睡蓮の力は無効にしているからな」と言った。
手の痺れも、痛みも感じなくなっていた。収まったのか、それともそんなことを感じている余裕がわたしにないのか。
「出すと思うのか」
紫苑が、目の前に立った。紫の目が、わたしを見下ろす。
「睡蓮」
しばらく前から、蛍火にまた呼ばれ始めていたとはいえ、今世では呼ばれるはずのなかった名前。
わたしがどんな反応を表してしまったのかは、知りようがない。
紫苑はそれで、わたしが『わたし』である確信を得たようにした。
その上で、
「睡蓮、説明しろ」
言う。
「二百年前、睡蓮は死んだはずだ」
二百年。そんなに時が経ったという。
紫苑の姿は変わらない。そういうものだから。蛍火も。
けれど、かつてのわたし『睡蓮』が死んでから二百年が経った。わたしは一度死んだ。西燕国王としての『睡蓮』は死に、時代は終わり、わたしの知らない王が立ち、また現在わたしの弟が王になった。
わたしは、一度死んだのだ。
「……そう、『睡蓮』は死んだ」
わたしは立ち上がった。
一つの、これだけは決して譲れない覚悟を決め、真正面から紫苑の視線を受ける。
「わたしは花鈴」
事実だ。
ここで戻れるのなら、戻ろう。進まず、戻ろう。わたしは戻りたい。以前確かに死んだ人間だ。紫苑と縁が切れても、別におかしくない。
「あなたとは関係のない人間、他人の空似、別人」
「そんなこと俺が真に受けるとでも思うのか。お前は、間違いなく睡蓮だ」
「ちがう、わたしは花鈴」
カリン、という名を与えられ、生きてきた者。
「何が違う」
一歩近づかれ、一歩離れた。近づくなら近づくって言ってよ。動揺する。
何が違う?
名前が違う。生まれが違う。職が違う。王にはなり得ない存在。
わたしは花鈴。だけれど、睡蓮だった。容姿は同じで、記憶も持っている。
どうすれば、紫苑を納得させられるのだろう。
「今名乗っている名前がどうであれ、睡蓮だという事実は変わらないはずだ」
蛍火も紫苑も、一欠片くらい他人の空似だという可能性をなぜ視野に入れないのか。なぜそこまで確信を持つのか。
確信する目は揺るぎなく、反論の余地を与えてくれない。
「……鍵、結界」
睡蓮ではないと言い続けても、無駄に思えた。わたしは話を変えた。
「西燕国の廊下で出くわしてからの記憶がなくて、目が覚めたらここ。……無理矢理連れて来るなんて」
それも鍵をかけて、結界も張って。
非難の声を向けるが、紫苑は眉を寄せる。
「逃げたからだろう」
「それは──」
「そんなに俺に会いたくなかったか。顔を隠して、名乗りもしなかったな」
「会いたくなかったわけじゃない」
「それなら、どうして今も出ていこうとしていた。どうして逃げようとする。離れようとする。繋がりをなかったことにしようとする」
「──紫苑」
名前を呼ぶと、紫苑が止まった。
呼ぶつもりはなかったのに呼んだわたしは、一度口を閉じたけれど、また紫苑が話し始めないうちに開いた。
「紫苑……わたしは、紫苑と会うべきじゃない」
「──どうして、そんなことを言う」
紫苑が傷ついた顔をしたから怯みそうになるけれど、ここで引くわけにはいかない。
「勝手に死んだなら、またこの世に生まれても会うべきじゃなかった」
「……やめろ」
「紫苑、ごめん。だけど、わたしは以前の誰とも関わる資格なんてない。わたしはわたしが死んだ理由は言わない。だから、わたしはもう王じゃないし、紫苑は──」
「やめろと、言っているんだ」
蛍火とも、紫苑とも。誰とも、関わる資格はない。
それなのに、
「関わる資格? 何だそれは。俺は、睡蓮が王じゃなければ関わってはいけないのか。俺が、睡蓮が王だったから関わり続けていたと思ってるのか」
どうして、蛍火も、紫苑もそれをはね除けてしまうのだろう。
紫苑には、何も言わずに死んだ。死んだなら、また生まれても「睡蓮」は死んだままで。
だけれど、蛍火に会い、今度は紫苑に会い、『以前』に引きずり込まれそうだ。
「お前が何であれ、睡蓮であるなら、関係ない」
真っ直ぐに、こちらを見る視線は変わらない。かつてのわたしを見ていた目で、その目は今のわたしも見る。
「二百年前」
その歳月を音にする声は、苦しげな雰囲気を含んでいた。
「最後に会った日、帰さなければ良かった」
「──」
「睡蓮のことを二百年忘れたことはなかった。その二百年が、あっという間で取るに足らない歳月だったとでも思うのか。……長く生きる身でも長い」
二百年は長い。その歳月に治世が到達出来る王も限られている。
一年は短いと言え、十年ももしかするとあっという間だったと言えるかもしれないが、百年単位は長い。
分かるからこそ、この再会までの二百年を知らないこともあって、言える言葉が見つからなくなる。
それでも、わたしも譲るわけにはいかない理由があるから、どうにか言葉を紡ぐ。
「紫苑、ここから出して」
「断る」
即答した紫苑は、見下ろすようにわたしを覗き込む。
深く目を合わせることにためらいを覚えて、わたしは身構えたけれど、それでは足りなかった。
神秘の力を使おうとしている。そう気がついたときには、遅い。
「何日、何週間、何ヵ月、何年──ずっといればいい。もう別れはいらない」
わたしの意識は混濁し、再び飲み込まれていった。
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