17「恒月国の、紋章」
二年前、雪那が出ていったとき、彼は今よりもっと線が細くて、背が低かった。顔立ちも相まってとても儚げな弟で、昔は病がちでもあったから、本当は二年間ずっと心配だった。
王候補は、国にとって大事な存在だ。王になる存在であれば、国にとって唯一の存在。
引き留めることはあってはならないと、送り出したけれど。
どうしているのか、元気にしているのか、気がかりでならなかった。
いなくなってから、小さな頃の泣きじゃくっている姿を夢に見たりした。
雪那。わたしの弟。今度こそ、弟が健やかに過ごせるように……。
宮殿の図書室の奥、一見すると物置の部屋にいる彼の姿を見た。
いいや、あそこにいたのは──。
「…………あ」
瞬きをして、固まった。
感覚としては座っているつもりだっただけに、横たわっている状況がまず理解できなくて、次に場所にも混乱した。ここだ、と思う景色じゃなかった。
ここは、と、勢いよく身を起こすと、横になっていたのは寝台だけど、やっぱり西燕国の部屋じゃなかった。
──紫苑
急激に思い出した。
紫苑と会ってしまった。
ここはどこ。西燕国? こんな部屋あっただろうか。それともまさか、恒月国……?
部屋の中は、わたし一人だけ。
ここが恒月国だと言うのなら。
出なければと思った。
紫苑はいない。今なら間に合う。戻るのだ。戻す。紫苑には会わない。そんな覚悟はない。
思うや、寝台から飛び降りた。並べてあった靴を履き、扉へ向かうと──扉は開かなかった。
鍵がかかっている。
「なんで鍵」
内側から開けられる仕様ではないため、他に扉という正式な出入口がない部屋からすると、これでは閉じ込められているようではないか。
ここが西燕国であっても、恒月国であってもそんな心当たりはない。無意識に眉が寄る。一体全体誰の仕業だ。
閉じ込められているという状況となると、ここは一体どこかという疑問が再びやって来る。
まあいい。まずは出ることだ。ここがどこでも、誰の仕業であっても、まずは出る。
図書室の鍵を開けたときと同じく、『裏技』で開けるべく、衣服の中をごそごそする。
あれ? そういえばマントがない。……蛍火と連絡をとるための鏡もない。
「……」
あの鏡は一見、ただの小さな鏡だ。分かる者にしか分からない代物。
そして、気になるのはこの室内。わたしは庶民としての家と宮殿くらいしか、ぱっと判断出来るほど詳しく知らないが、この部屋から窺える持ち主の身分は、相当だ。
ちらりと背後を見やり、寝台周りと、しゃがんで寝台の下を見てみるが、マントや鏡らしきものはない。
それならそれでいい。さっさと鍵をあけ、扉を思いっきり開くと廊下が待っていた。
廊下もやっぱり広い。最近ずっと歩いていた西燕国の廊下と同じくらいだ。
走りはじめながら、上下左右に視線を走らせる。天井も高く、上も下も壁も柱も意匠が凝らされている。このレベルは貴族では無理かもしれない。
とりあえず走る廊下は長く、見通しが良い。こんなに広い廊下なのに、いるのはわたし一人のようで、人影も見えなければ他の足音も聞こえない。
「こっちに行けば、外のような気がするんだけど……」
当たり。
前世も含めた記憶の内、宮殿に住み続けた年数が最も長い勘が物を言った。感覚以外に指針なく、かなりいい加減に角を曲がり走り続けていった先に、外があった。
出たのは外廊下だが、地面が見える外に出たなら、あとは敷地から出る出入口を探すだけだ。
「痛っ」
壁にぶつかった。
額を強かに打って、ちょっと涙目になりながら後退するはめになる。
痛い。何だ何だ。
壁と言っても、体を弾かれた二歩ほど先には見える壁はない。
見えない壁がある。
おそるおそる手を伸ばしてみると、指が弾かれる。
「……結界」
結界が張ってある。横に長く続く外廊下の先を見ると、この建物の大きさが測れる。かなり大きな結界だ。
この廊下を走って行っても、途切れる箇所があるとは思えなかった。
起きたときよりも、鍵のときよりも不意打ちされた気分だった。結界まで?
けれども、我に返る。
これはまずい。
それに──この結界。触れさせていた手のひらを、思わず素早く引っ込めた。伝わってきた力が、誰のものか分かってしまった。
「……紫苑……」
手のひらをぎゅっと握り締めた。
あれは夢ではなかった。紫苑と会った。そしてここは恒月国で、なぜだかは知らないけれど、わたしをここに閉じ込める真似をしているのは紫苑だ。
紫苑の力は大きい。元々王とは、同じく神秘の力を持つ神官とは力の強さが異なる。
今、紫苑の力が途方もなく強く感じるのは、今のわたしが微々たる力しか持たないからか、実際紫苑が重ねた力がそれほどなのか。判断のしようがない。
それにしても、前のわたしなら絶対に破れるのに!
こんな結界一瞬で破って、宮殿も出て、西燕国にだって身一つで戻れる。
……今出来ないことを過去を思って延々と思うのは不毛すぎる。とにかくやってみよう。
微々たるとはいえ、力はあるんだから、使いようによっては………………。
「……使えない……?」
使いようによっては、という以前の問題が起きた。
集中しようと閉じていた目を開き、戸惑う。
跳ね返されるとかいう次元ではなく、力が消える。
「──この、指輪」
何が原因かと考えると、結界という感覚ではなく、自分の側にあった。
指に、嵌まっている指輪。わたしが身につけていたものでなければ、蛍火が力を込めて渡してくれたものでもない。
しかし、不思議な色味を持つ白い指輪を知っていた。かつては、わたしも同じようなものを持っていたからだ。使う機会はなく、結局箪笥の奥で埃を被ってしまっていただろう。
どういうものか理解して、今さらだというのに指輪を覗き込む動作はゆっくりになった。
指輪には、国ごとに浮かぶ模様がある。
その模様を目の当たりにして息を飲む。
「恒月国の、紋章」
今はやっぱり、と言うべきか。
紫苑がこの結界を張ったと分かり、ここは恒月国だと突き止めたのだから、当たり前だ。当たり前だけれど、この指輪は。
「いや、そこはどうでもいい、どうでもいい」
首を振り、思考を強引に戻した。
今の問題は、この指輪が力を消す効力を付与されているということだ。神秘の力が使えなければ話にならない。結界は物理ではどうにもならない。破れるのは、同じ神秘の力のみ。
「抜、け、な、い……!」
指が引っこ抜けそうだ。
指を引きちぎるのは、さすがに時期尚早な感じが否めない。最終手段すぎる。
他の手段を試してから、ということで、建物の中に戻ってみた。
試しに窓を割ろうと思ったが、割るための鈍器が見当たらないではないか。仕方ないので拳で叩き、肘で打撃を加えてみたが、痛みに悶絶することになった。
これは、わたしの打撃が足りないのか。そもそも、神秘の力がなければ、なんと男一人の手さえ振り払えないようなひ弱だったのだ。
「鈍器!」
理不尽な痛みのせいか、何だか怒りが込み上げてきたわたしは、肘を抱えて伏していた床から身を起こした。
鈍器、凶器、とにかく武器になり得る何か。
手当たり次第に開けた部屋は殺風景で、家具の一つ、花瓶も椅子もない有り様で、わたしはますます憤慨する。
そして、いつの間にか最初の部屋に戻ってきていた。
部屋の趣は、わたしが恒月国に滞在するときに泊まっていた部屋の内装ではない。壊さんばかりに開けた扉も。
廊下だって見覚えのある宮のものではなくて。かつてわたしが泊まっていた宮は、部屋がいっぱいあっても、几帳面な紫苑は宮に誰か泊まっているならと、全部部屋を整えていたから殺風景な部屋なんて有り得ない。
でも二百年経ったならあり得る? 改装されててもおかしくない?
考えれば考えるほど訳がわからなくなってくる。紫苑がしたとして、紫苑の意図が分からないからだろう。
その訳の分からなさを含めた感情をどうにかするみたいに、やっと見つけた椅子を引っ付かんで、振り上げて窓に叩きつけてやった。
「──」
結果は悶絶である。
窓にはひびの一筋も入らず、椅子は弾かれ、わたしも弾かれ。窓硝子が割れれば衝撃は見事に発散されただろうが、弾かれれば衝撃はこちらに返ってくる。
椅子が床に落ちた音がする傍ら、手に衝撃を受けたわたしは、廊下でなったように手を抱え込んで床にしゃがみこんだ。
痛すぎ!
痛みと痺れで震える手を抱えながらも、何より分かった事実に顔をしかめる。
建物から出られない。庭にさえ──外に出られない。
「……何やったんだ」
理解不能、と聞こえてきそうな声が聞こえてきた。
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