16「上等だ」
──これは、夢か、幻か。
恒月国──紫苑は自らが王をしている国に戻った。神秘の力を使ったため、一瞬だ。
睡蓮をとっさに連れて行ったのは、以前、よく睡蓮が泊まっていっていた宮だった。名を、
寝台の上に横たえ、側に座り、顔にかかる黒髪を避けると、記憶と寸分違わぬ顔が現れる。
「……睡蓮」
触れると、肌の感触と、確かな温かさがある。
現実だ。これは現実で、夢でも、幻でもない。
実感しながらも、まだ信じられない心地がどこかに残り、しばらく彼女を見続けていた。
──確かに、見た。
月と同じ色の瞳と目が合った。
そして、その声を聞いた。一生涯忘れることのないだろう声だ。
言い難い感情が生じた。不意に柄にもなく泣きそうな、歓喜が。同時に、胸の内に、ずっと沈んでいた感情も湧いてきた。
睡蓮が、目の前にいる。
触れられる位置におり、温かい。生きている。
「……せつ、な」
微かな声が、誰かの名を紡いだ。
見るが、彼女は目を閉じたまま。目覚めてはいない。
「……セツナって、誰の名前だ」
「知りませんよ」
そうだろう。
誰とも分からない名前を、今彼女が呼んだことに、胸が騒ぐ。
それは誰だと、問い詰めたくなる。これまでお前はどこにいて、誰と生きていた。
彼女がいなくなり、二百年。紫苑のここ二百年からは当然彼女が消えたのに。
しかし今は問えず、代わりにその頬を撫でる。
「それにしても驚きましたねぇ。あ、これはやはり蛍火様にお教えするべきことですか」
「……いや、あの神子は知っているんじゃないか。この服装、神子のものだ」
「ああ、そうでした」
睡蓮は、神子の衣服を身に付けていた。
そして蛍火は、先々代西燕国王である睡蓮の神子を勤めた男だ。神子長にまでなっているという。
神子のことは把握しているだろうと考えられ、睡蓮と千年という長い付き合いがある蛍火が、見逃すはずはない。
知っている、と直感的に思った。
「そういえば、西燕国で気がつくまで話していたのですよね」
「そうなるな」
だが、自分だと名乗ることはなく、それどころか顔を隠し、こちらが気がつくと逃げようとした。どうして。
紫苑は片手を硬く握り締めた。
「まさか、二百年、生きておられた? 神子として生きて、……蛍火様が隠していらっしゃった、とか……?」
蛍火がどう関係しているのかは気になるところだが、宗流の推測に対し、紫苑は「あり得ない」と断じた。
宗流の二百年生きていたという言い方は、二百年前に睡蓮は死なず、姿が見えなかった二百年もどこかで生き続けていたのか、という意味だ。
それは、あり得なかった。
「王は一生玉座から降りることは叶わない。降りるときは、治世のみならず生が終わるときだ」
それを降りると言えるのかどうかは、さておき。
「……王位に就くとき、王は内界で神に拝謁するだろう。確かにそこに『いる』と感じた神は、こう言った。俺達は王になったが、王位に就いてからも選定中にあるのだと。神は、神に代わり、この世界を一括して治めることのできる人間を見極めようとしている」
かつて、この大地は神が治めていた。
今のようにいくつもの国はなく、隔たりのない一つの地だった。
大昔、神は大地をいくつもの国に分け、それぞれに人間の『王』を立てた。不老の身を与え、人の域から逸脱した性質を与えた。
神は、神に代わって永遠に地を治める人間の選定をしている。ゆえに、王になる選定が終わっても、各国の王たちは今なお選定中にある。
紫苑もそうだ。
「俺達は死ぬか、生き続け生きる神となるかしかない。生きたまま、途中で辞めたいからと言って王位を降りることは叶わない」
睡蓮という王は、千年という、他の歴史のどれよりも遥かに長い時代を作っていた。亡きあと、『千年王』という呼称が広まっているようだが、生前は『最も神に近い王』だと言われていた。
「西燕国には、一度王が立った。今回も王が立った。王が立つのは前の王が死んだ証拠とも言える。睡蓮が死んだのは事実だ。……それに、実際に遺体を見ただろう」
俺も、お前も。
睡蓮の訃報が、内界の神子を通してもたらされた。内界には、王や神子が光となって示される水鏡がある。
神子を示す光は多いが、王を示す光は国の数しかない。
王の光は、年数によって眩さが変わるのだという。千年という長さ王をしていた者の光が消えれば、一目瞭然。
光が消えること、すなわち、死を示す。
訃報を聞き、信じられなかった紫苑は宗流と共に西燕国へと渡った。
あの国の宮殿は、いつ行っても落ち着いて穏やかな空気で満ちていたが、あの日だけは違った。
暗く、胸騒ぎがする空気だけが濃く漂っていた。
そして、その源を目にした。
命の失せた、睡蓮の遺体だ。
そんなに弱い精神はしていないのに、今でも時折思い出すし、夢に出てくるときがある。
上半身の衣服が変色していて、肌の色が変わり果てていた。短剣の柄が、彼女の体から出ていて、彼女の手が柄を握っていた。
──自害
「……蛍火も、あれは演技の顔じゃない。演技であれだけ悲痛な顔と雰囲気が出せるなら、あいつは役者より役者だ」
いつも食えない顔をしていたくせに。
あのとき、あの神子の、手が隠れそうな衣服の袖からちらりと見えた手が、震えていたことをよく覚えている。呆然とし、光のない黒い目から、涙が伝っている様を。
今蛍火が知っているとしても、二百年前確かに睡蓮は死んだ。あれが嘘で、蛍火が隠し睡蓮がずっと生きていたことは、あり得ない。
「では、なぜ、睡蓮様は今生きて目の前にいらっしゃるのです?」
「…………なんでだろうな」
どうして、目の前にいる。
お前は死んだはずだ。なぜ。
疑問はそれ含め複数あるが、どうでもいいような気もする。
少なくとも、彼女が起きてからでいい。
「全部、睡蓮が起きてからだ」
「お起きになると言いますと、どれくらいの強さでおかけになったのです?」
「かなり強く」
「ええぇ」
「相手が睡蓮だったから、強くしなければ逃がすと思ったんだ」
背を向けられ、一歩距離が開いた瞬間にまずいと思った。
信じられないながらも、目の前に姿が現れ、今の瞬間を逃せば、二度と手を掴めないと感じた。かつて唐突に、二度と取ることが出来なくなった手を。
「……確かに、睡蓮様であれば紫苑様に軽く対抗出来るはずですね」
「軽くって言うな。だが、そうだった」
王や神子には、神秘の力と呼ばれる力がある。その力は生きる年数に左右されるようで、睡蓮の生前、紫苑とは六百年の差があった。神秘の力の差は比べるのも馬鹿らしいくらいだった。
その記憶があって、瞬間的に可能な限り強く、眠りに落とそうとしたのだ。……が、結果としては抵抗なんてなく、ほぼ一瞬で落としてしまったと言っても過言ではない。
「『探れば』分かる。今の睡蓮には力が微々たる程度しかない。……まるで別物の体みたいだ」
「同じお顔ですが」
「知るか。そんなことを言うなら、根本で、また死んだはずだったっていうのが出てくる」
「堂々巡りですねぇ」
堂々巡りだ。
紫苑はとうとう手のひらで、顔を覆った。意味が分からない。
「それで、いつ頃お目覚めになる予定ですか」
「……そこまでするつもりはなかったんだが、一日は経つんじゃないか」
「うわぁ。かなりの強さでやりましたねぇ。六百年の付き合いながら、失礼ですがちょっと……」
「俺だって、そこまでする気はなかったって言ってるだろ!」
抵抗する力を持っていないと知っていたら、もっと軽くしていた。
大声で反論してしまったため、睡蓮をとっさに確認したが、彼女は目を閉じたまま、目覚める様子はない。
そういう術だ。普通の睡眠ではないから、いくら騒いでも、揺すっても、起きない。
「食らっても睡蓮ならふらつくくらいだろうっていう感覚ではやったが……本当に神子か?ってくらいに力も抵抗力も低い」
「そんなにですか」
そんなにだ。
「一度眠りに落とした。その術が浸透している。これでも解ける部分は解いた方だ。あとは浸透している部分が自然に効力を失うのを待つだけだ」
「……解ける部分が無かった場合、どれほど眠った状態だったのですか、それ」
うるさい。
仮定の話は無視して、紫苑は睡蓮に視線を注ぐ。
ここにいる。生きて、また会え、触れられる範囲にいる。
「ところで紫苑様」
「何だ」
「どうして、結界をお張りに?」
「は?」
宗流の方を見ると、神子は結界です、と辺りを示してみせた。
意識をやると、確かに結界が張られていた。部屋を囲み、さらに建物を囲む結界が。
宗流によれば、ここに来た瞬間に張ったと言う。
「あの、まさかなのですがお気づきになられていなかった、とか?」
「……今お前に言われて気がついた」
「そんなこと、あります?」
今起こっていた。
結界を。だが、言われて気がついたとはいえ、遅かれ早かれ張っていた。
例えば、今。
「二度と、目の届かないところに行かせないように、だな」
かつて、互いの立場上引き留めることが出来ず、理解の出来ない別れに見舞われ、喪失したはずの存在に手が届いたなら、二度と離せるはずがない。
「……すっごく重いこと聞きました」
「重い? いや……」
ああ、そうかもしれないなと自覚する。
「上等だ」
別にそれでいい。
疑いようもなく、目の前に存在する女を見て、認める。もう、それでいいだろう。無理だ。
「一日ここにいるおつもりですか」
「可能ならな」
「無理ですねぇ。お仕事はしてください」
「一日くらいいいだろう。元々今日は西燕国にいる予定だったんだ」
「それが続くかもしれない雰囲気があるので、絶対駄目です。睡蓮様がおられなくなったときが一度目、二度目が再会しての今回政務に支障が出るのは笑えません」
「二百年前、そうは言っても持ち直しただろう」
「ですが、二百年西燕国に寄り付かなかったことからして、引きずっておられるのは確実でしたから」
悪いか。
「謎いっぱいですが『おそらく睡蓮様』が再び現れたことへの反動が怖いな、と今思っています」
「何だ、それ」
宗流の言い分は分かる。その疑惑を払拭するためにも大人しく飲もうと思っているため、そこへの反論はしようとしなかった。
ただ、反動が怖い、に軽く笑う。
「紫苑様、今、『暫定睡蓮様』を目の前にして、嬉しいですか」
「暫定睡蓮、って何だよ」
また軽く笑ったが、質問に答えはする。
「突然すぎて、よく分からない」
嬉しいと言えば、もちろん嬉しい。この嬉しさは、何だろう。これまでに感じたことのない嬉しさだ。単なる「嬉しい」ではない。単に嬉しいと言い表したくない。そんな言葉では、この気持ちは表せないだろう。
「ただな、これは間違いなく睡蓮だ。俺の本能が言っていることは──またあれだけの思いを味わうなら、二度と離すべきじゃないってことだ」
離したくない。離せない。
もう、失いたくはない。目の届かないところに、行かせたくない。
だから、重くたっていい。それが防げるのなら、いいだろう。
──ああ、離さないとも
「これから、どうなさるおつもりですか?」
「そうだな……とりあえず別の宮に移す」
宮殿の敷地には、王が住み、政治を司る正殿と呼ばれる一番大きな建物を中心に、周りには複数の宮がある。
用途の異なる宮で、用途ゆえに主のいない宮もある。
今いるのは客用の宮の一つだが、ここから睡蓮を移す。せめて、より近い場所に。結界もそこで改めて張り直そう。
「宗流、指輪を持ってこい」
「指輪? どの指輪です?」
「俺が即位のとき、与えられた指輪だ」
宗流は、王の意図を捉え、わずかに目を見開いた。
「本気ですか」
「やるなら、俺は徹底的にやる」
もう決めた。この決意は揺らがない。
紫苑の迷いない言い方に、わずかに瞠目していた宗流は、一礼した。
「承知致しました。──内界への連絡は」
「当然、無しだ」
蛍火の意図は読めない。
今の睡蓮のことは知っていることは明白だ。知らせて、良いようになるとは思えない。
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