15「紫苑さ──ごほんごほん、怯えさせているのでは?」
「あの壁があったかと言われましても、私はあなたほど西燕国に来たことはないので記憶が曖昧と言いますか、少なくとも二百年は来ていないので覚えていなくても無理はないと言いますか」
「普通に覚えていないって言えよ」
「覚えていません。そういうあなたも分からないのでしょう」
「分からないと言うか、あそこは壁がなかったような気がする。……そもそも、壁があったとしてもあんなに高かったか」
「言われてみると、少々壁が高いような気もしますね」
前を見て言葉を交わしていた方の内、片方の微妙な動きを、わたしの目が捉えた。
「この国の方に聞けばよろしい」
こっち、向く、まずい。
「ああ、ほら、ちょうどそこに神子がいます」
──間一髪
反射とは素晴らしい。
自分の体なのに永遠に動かせないのではと思った体は、迫る緊急事態に、機敏に動いた。
一気にフードを被った。
頭がフードの布地を伸ばしてしまうんじゃないかというくらいに、限界まで深く被り、さらに俯いて顔を隠した。
ただし、急な事態に、依然精神は混乱の渦中だ。
──ど、どどどどうして紫苑がここに。
心臓がうるさく打つ。非常事態だ。紫苑がいた。
どうして、他国の人間がここにいるのか。
そこだけ考えると、頭の隅が答えらしきものを寄越した。
即位式が終わり、忙しい時期第二段がやってくる。
各国からの使者が来るならこのタイミングだ。他の祝い事であれば当日に他国の者が出席することもあり得るが、即位式はその国だけのもの。
即位式が終わり、正式に王が立ったと改めて知らせを受けて、使者を出すなら出す。
恒月国と、まだ国交が繋がっていたのか。
──「恒月国の王、紫苑様もまだご存命ですよ」
蛍火から、生存のみは聞いていたけれど、だからって、王が来るなんて。
「そこの神子」
呼ばれたのは、残念ながらわたしだろう。
他に人がいれば、それとなく場を離れることも、離れられなくても混乱が収まるまで紛れられて声なんてかけられなかったかもしれないのに!
逃げるか。逃げると不審者だし、服装からして神子だってばれている。どうする。
「……何のご用でしょうか」
頑張れわたしの喉。
声変わりのときだ。
とっさに声色の変化を試みたわたしの無意識の判断、自分で褒めてやりたい。
「少しいいか」
「わたしは他国の方のご案内には役に立たないと、思いますので、他の人間を──」
「……よく他国の人間だと分かったな」
おおっと?
確かに他国の人間だとは言われていない。服に各国の印がわざわざ縫い付けられているわけもないし……。
自分で落とし穴を掘って、その落とし穴に落ちるギリギリの位置に躍り出てしまったらしい。この短い間に。わたしは馬鹿か。
「……まさか、『以前』からこの国にいる神子か?」
「それはないですよ。こちらの神子は二百年前に一新されています」
「そうだったよな」
どうもこの二人、身分を隠して来ているようだ。
神子の方は服装からして神子だが、紫苑は格好からして王としては来ていない。……使者に扮して来た?
「いえ、その……そちらの神子の方をお見かけしたことがなかったので、他国の使者の方々なのではないかと。この時期、ですから」
頑張れわたし。危機から脱するんだ。
ギリギリ予想できて、納得できる理由でつじつま合わせを試みた。
「ああ、なるほどな」
予想当たってた。やっぱり身分隠して来ていた。でなければ、王である紫苑がこんなに放っておかれるはずがない。
「以前こちらにいた神子……殿も引退したのか?」
「以前……と言いますと」
「この国が千年続いた折にいた王付きの神子だ」
蛍火のことだ。
「……その神子なら、内界にいます。神子長になりました」
ついでに最年長のようです、と付け加えれば、
「神子長?」
「あれ? 私、言いませんでしたか」
「聞いていない。まあいい。最年長は……それはそうだろうな。俺が知る限りで千年と二百年と、あとどれくらいだ」
「国付き筆頭の立場になる時点で、それなりの歳月を生きている証拠ですからねぇ。私もですが」
宗流、喋り方に間延びした感じが混ざるの、相変わらずだなぁ。
紫苑と一緒にいる神子は、
……いや、王と王付き神子が揃って何をしてるの。
わたしでも、蛍火は残して行ってたのに。
そうである。かくいうわたしも、使者に扮して新王を拝みにいくということをしていた。紫苑を初めてみたのも、それが最初だった。
真似するなよ。
……いや、他国との縁がろくにない今、この国や雪那にとっては、興味を示されている様子なのは良いことか。
豪快な面がある紫苑が、主張が弱い雪那に教えてやってくれないだろうか。思うように、国を変えていいのだと。臣下との渡り合いの仕方も、教えてあげてくれないだろうか。
どうにか、紫苑と雪那の橋渡しを出来ないか。……いやいや、紫苑がここに出入りするようになると、わたしがそう頻繁に出入りするわけにはいかなくなるのでは……?
「一つ聞きたいのだが」
「は、はい」
ちょっと油断していた。
「紫苑さ──ごほんごほん、怯えさせているのでは?」
「普通にしているだろ」
「真顔はこわ──」
「何だって?」
紫苑が笑顔か真顔で威圧する光景が見なくとも、目に見えるようだった。
喧嘩するなら、もう解放して。
蛍火と再会したときとは別の懐かしさを感じていたけれど、一刻も早くこの場から、彼らの前から去りたい気持ちは変わらない。
「邪魔するな、いつまで経っても話が終わらない」
「了解でございます」
「で、だ。いいか」
「……はい」
「あの壁」
外廊下にいる今、横の方を見ると、庭と、その先に意匠も何も凝らされていない高い壁が見える。
指か、視線か、示しているものが見えなくとも、示されている壁とはあれだろう。
「いつからあるものだ」
「……正確な年数は……」
「この国の前の王が作ったのか」
「……いいえ」
音楽を始めとした芸術を愛し、派手に生きたという先代王なら、あんな壁は作らなかっただろう。
作ったとしても、壁に工夫を凝らしたはずだ。何か模様を刻ませたり。
殺風景となる、ただの壁を作らせることはなかったのではないだろうか。会ったことはないけれど、そう思う。
「あれは、『千年近く』続いた折の王が作らせたそうです」
紫苑が、こちらを見下ろした気配がした。「……睡蓮が……?」と呟き、視線が離れる。
「一時期、壁がない断崖絶壁みたいな場所を絶景が見えるって勧めてきたのに……?」とか言っている。
聞こえてる。聞こえてる。
大体、そんなの、死ぬ随分前のことだ。
「どうしてだ」
「それは分かりません。かの王はもういませんから」
だから本当は、あんな壁は壊したっていいはずなのだ。雪那も言っていた。景色を見るには邪魔だ。かなり上に行かないと壁の向こうの景色は見られない。
「……ああ、そうだったな……」
表情の見えないまま聞こえた声の雰囲気が沈んでいて、とても聞いていられない心地になった。ここにいられない心地にも。
「恐れながら。わたしはこれで失礼させていただきます」
会話の切り時が見え、わたしは深く一礼をした。
顔を上げないまま、その場を去るべく踵を返し、歩きはじめる。
「その前に」
宗流の声が言い、わたしは肩に手を置かれ、予想外にも止まることを余儀なくされた。
その上、あろうことか、視界を覆うフードに手がかけられた。
あ。
「それなりの地位ある神子から一つ、注意を。これは、人の前では取った方が──」
覆いが避けられて、青い目が現れた。宗流の目。
まともに、目が合う。
つまり、それが意味するところは。
目まで完全に、顔が露になったということだった。
「──────え」
宗流は、紫苑の神子だ。
紫苑が即位したときに王付きの神子となり、彼らの国によく行き、紫苑とよく会っていたわたしの顔はよく見ていた。
紫苑が即位してから、わたしが生きていた四百年。毎年。下手をすれば毎月の年もあった。
「──すい──いや、まさか──」
宗流はぱっと布から手を離し、後退った。
表情も、目も、驚愕一色。
まずい。待って。でも、この場で宗流一人にだけ口止めなんて。
思考があっという間に、さっきとは比にならない混乱でぐちゃぐちゃになり、体の一切の動きを奪い取られた。
「宗流、どうした」
「し、紫苑様、これ、私にだけ見えている幻覚ですか」
「何言ってる」
礼儀の一線は守る宗流は、らしくなく、背後の主の胸ぐらを掴み、前に引っ張り出した。
「おい宗流、」
「見てください」
宗流に向かって声を上げかけた彼が、側近のただならぬ様子に、その視線が離されない方を追う。
綺麗な、紫色の目が、こちらに向いた。
固まるわたしを、映す。
目が見開かれ、紫が、全て見えるようになる。
「──睡、蓮?」
「や、やっぱり、幻覚ではなかった。目と頭が煮えたのかと思った……!」
混乱しているのか、胸を撫で下ろしているのか分からない宗流をよそに、紫苑はわたしを凝視し続ける。
「睡蓮か。どうして……」
死んだはず。
「ち、ちが」
わたしは、やっと動けた。首と、口だけ。首は横に振り、口でも否定する。
だが、それは逆効果だった。
「その声──その姿。違わない。俺が、睡蓮を見間違うことはない」
なぜか、死んだはずである人間だと、短時間で確信させてしまった。
なんで。
もっと疑いなよ。他人の空似とか。
「睡蓮だな」
違う。そうだけど、肯定するわけにはいかない。
──紫苑に合わせる顔はない。
そのときだ。一気に、体の制御権を取り戻した。
踵を返し、足を踏み出す。とにかく前へ。遠くへ。離れる。一旦退避、だ。
「──逃がすはずがないだろう」
周囲で、唐突に、風が生まれた。
風は、わたしの周りを取り囲み、歩みを阻み、許さない。
髪が煽られ、視界を数秒遮る。
再び前が見えるようになったときには、紫色の花びらが吹雪となっていた。
庭からなだれ込んだと一瞬錯覚しそうな花びらが、壁の内側では、ひらひらとわたしに降り注ぐ。
くらりと意識が揺れた。まずい。意識を持っていかれる。
以前のわたしなら、こんな小さな竜巻のようなものを消し去り、そのあとこれ見よがしに姿を消してみせただろう。
でも、今、神秘の力が「ないに等しい」と蛍火に称された身だ。
ふっと体から力が抜けた、と分かったことを境に意識が急激に遠ざかった。
床に頭が打たなかったことが、薄れゆく意識の中で不思議でありながら、安堵した。
──その日の夕刻頃、西燕国の外廊下にて、使者に扮した二名と、神子に扮した一名が姿を消した。
当事者以外に、目撃者はなかった。
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