Episode 35:亡者執着のツルと褐色美形のあ・く・ま
アストロの左目が赤く染まる。途端、アストロの右足に激痛が走った。痛みでアストロの左目が元に戻る。
足元には黒い影が蠢いていた。その影の先にはツルのような化物――ベリスがいた。影がアストロの右足首を掴んでいた。アストロはそれを蹴り払おうとする。アストロは恐怖していた。普段恐怖することのないアストロが恐怖していた。
「貴方のお相手は私わたくしが致しましょう。貴方の中に、死者の想そうが見えます」
影の中からズルズルと何かが這い出てくる。黒くドロドロとした何かだった。デドロではない。デドロよりも形は留めていた。いや、形は留めている。上半身だけが地上に出ているのだ。下半身が影の中なのだ。
その形はアストロの知っている形だった。忘れるはずもない形だった。いじわるな女の子の形。大好きだった形。だが、その形は今となっては見ることもできない。そう思っていた。ネビィの形だ。
全身は黒く、目は赤く、まるでこの世の者とは思えない姿だったが、間違いなくそれはネビィの形だった。だが、アストロは恐怖していた。ネビィの形に、真黒な姿に、恐怖していた。ネビィの形の影はズルズルと這い出てきた。
「アァ、アストロちゃん……愛おしいアストロちゃん」
「やめろ、ネビィは死んだ! 死んだんだ!」
アストロは後ずさりする。足を掴まれているため遠くまでは行けないが、ジリジリと後退する。
「死者は貴方にとても会いたがっていたようですね。共に逝きなさい、約束の地へ……」
アストロは何とかして影を振り払おうとしていた。だが、ネビィの形をしたそれはガッチリとアストロの右脚を掴んで離さなかった。そしてアストロを影の中に引きずり込もうとしていた。
「下手に動けば苦しむだけですよ。受け入れなさい」
「冗談じゃあないぜ。俺はこんな邪悪な化物は知らない。俺の知っているネビィは意地は悪いが可愛らしい奴だった。偽りの約束なんか、必要ない!」
アストロはそう言うと右目を赤く光らせた。
「はぁ……。受け入れれば楽になれるというのに貴方は、どこまで愚かなのでしょう」
「ぐっ!?」
ネビィの形をしたそれは腕を伸ばしてアストロの首根っこを掴んだ。そしてギリギリと締め上げていく。アストロの気道はふさがれ徐々に意識が遠のいていく。
「さ、せる、か!」
アストロはその腕を振り払い、距離を取った。だいぶ息が上がっている。アストロが戦闘不能になるのも時間の問題だった。それほどにベリスは強かった。いや、もしかするとネビィの姿が原因なのかもしれない。
男の子は脚を震わせていた。とても恐ろしかった。アストロもドリウスも立て続けに傷つくのを見て男の子は耐えられそうもなかった。泣き出してしまいそうだった。ルタナスが男の子を見る。そして両刃剣を抜いた。
「シャラボラ! テメェの能力でこの意味もねぇ戦いを止めさせろ!」
褐色肌の化物――シャラボラはルタナスの方を向いて呆れた顔をした。
「オッサン、ボクたちがお姉ちゃんの家族だってこと忘れたわけじゃあないよね?」
ルタナスがグゥと唸る。
「医療団はお姉ちゃんの管轄下なんだよね。つまりボクの管轄下だよ?」
ルタナスはギリギリと歯を鳴らした。シャラボラは笑っている。完全に見下していた。シャラボラはルタナスの傍へと飛んでいく。ルタナスが剣を振るえば丁度胴体で切れる位置だ。だが、ルタナスは剣を鞘に収めた。
ルタナスが率いる医療団はネビィの管轄下だった。その家族であるシャラボラたちに対して斬りつける行為は即ち、反逆を意味した。故にルタナスは今の今まで何も行動できずにいたのだ。
そして声を上げたものの、ルタナスはやはりその剣を振るうことはできなかった。
「アハハ、えらいえらい。ねぇ、ボクも暇なんだよね。ルタナスおじさん」
「……何をすればいい」
ルタナスは悔しそうな顔をしていた。シャラボラがルタナスに対し座るよう命じると甘えるように身をねじ寄せた。シャラボラがにっこりと笑う。ルタナスの中で何かが動いた。心臓の脈が速くなる。人間の、緊張した時に起こる現象と同じように心臓が速く鼓動している。
ルタナスは顔を拭った。汗をかいている。
「すっごい! ルタナスおじさん超元気じゃん!」
シャラボラが顔を赤らめてルタナスの膝の上に乗った。ルタナスの胸に頭をピッタリと当てる。ルタナスが両刃剣に手をかけようとした。その手をシャラボラが止める。完全にシャラボラのペースだった。
感覚が麻痺していく。シャラボラの甘い声とマシュマロのように柔らかな肌に触れるたびにルタナスは戦意を失い、心臓の鼓動が速くなっていく。
「はぁ、んぁ、イイじゃんイイじゃん、スゴいじゃん!」
シャラボラは目をとろんとさせていた。ルタナスは目を瞑って気を落ち着かせようとしていた。だが、それは無意味だった。気を落ち着かせようとすればするほどシャラボラの甘い声は鮮明に聞こえてきた。
シャラボラがルタナスの方を向き、膝に座りなおして抱きついた。ルタナスは完全に身動きが取れなくなった。シャラボラは顔を赤らめて目をとろんとさせて静かに笑っている。
「ルタナスおじさん。ボク、もう我慢できないの。お願い、ちょうだい?」
「な、何を……」
ルタナスがシャラボラに問うた。その瞬間、シャラボラが八重歯の生えた口を開き、カプっとルタナスの首筋に噛み付いた。ルタナスは一瞬ビクッと身体を震わせたが、すぐに力が抜けた。チゥゥといやらしい音が響く。シャラボラがルタナスの血を吸っている。
「や……やめろ……」
「お食事中だよ。静かにしてて」
シャラボラはそう言うとまたチゥゥとルタナスの血を吸った。
やがて血を吸い終わると満足そうにぷはっと言った。そして口元を拭いルタナスの首すじを舐める。首筋には噛み付いた痕があったが、シャラボラが舐めるとその痕は徐々に消えていった。ルタナスは完全に戦意喪失していた。だが、口は利けた。
「シ、シャラボラ。もういいだろう。この戦いは無意味な負傷者が出るだけだ」
シャラボラが困ったような顔をして人差し指を自分の口に当てた。
「えー、どうしようかなぁ? でも、ボクの能力でも止められないと思うよ?」
意地悪な笑みを浮かべてシャラボラが言った。その足がガクガクと震えていた。
シャラボラには敵同士を和解させる能力がある。自らが戦場に立ち、自らが争うことを嫌いとする故の能力なのだろう。
シャラボラはいつでも指揮する立場だった。高みの見物をする化物だった。今回もそれは同じことだ。シャラボラはルタナスと戦う気はなかった。ただ腹を満たすためだけに襲ったのだ。
ドリウスともアストロとも直接戦う気はない。だが、ネビィのことを、お姉ちゃんのことを思うと怒りがこみ上げる。
それでも自分では手を汚さない。いつだってイポとベリスに命令して自分は戦わなかった。そんな自分が、イポとベリスの戦いを止めるのはどうしても嫌だった。
にこやかにルタナスを見下すようにしているが、シャラボラは内心焦っていた。ルタナスは戦意を喪失している。喪失しているのに口答えをする。お姉ちゃんの管轄下であるならばすなわちそれは自分の管轄下だ。それなのにルタナスはやめさせるように言ってくる。気に食わなかった。
「シャラボラ、やめさせるんだ」
ルタナスがシャラボラを見て言う。疲れきった顔をしている。だが、その目の奥にはギラギラと光る何かがあった。シャラボラは恐怖していた。
「だ、だから。無駄なんだってば。いくらルタナスおじさんが頼んでもボクには止められないよ」
「やめさせろ!」
ルタナスは一層大きな声で言った。その声にシャラボラはビクリと身体を震わせる。怖かった。ルタナスが怖かった。シャラボラは爪を立ててルタナスの顔面に一発くらわせた。
「ボ、ボクに命令するな。自分の立場、分かってるの!?」
左瞼から頬に向かって四本の引っかき傷を負わせた。皮膚が抉れて血がにじみ出ている。それでもルタナスはギラギラする目でシャラボラを睨みつけた。シャラボラはそれが怖くて身体を震わせる。
「やめさせろ」
まただ。またルタナスが命令してくる。シャラボラの中では、立場を弁えず命令してくるルタナスに対する怒りと、ギラギラと光るルタナスの目に対する恐怖がぶつかり合って、よく分からないドロドロとした感情があふれていた。
「どうして管轄下にいるお前が、ボクに命令するんだよぉ!」
シャラボラは涙目になり叫び散らした。そして地面の砂を掴み、ルナタスに向けて思い切り叩きつける。これくらいの事しかできなかった。
ふいに大きな音がする。山のほうからだった。廃品置き場がある山だ。シャラボラはその音でハッと我に返り山の方を見る。
シャラボラだけではない。イポもベリスも。アストロやドリウス、ルタナスに男の子も。そこにいた全員が山の方を見た。
山からは煙が上がっていた。煙に混じって黒い何かが渦を巻いて飛んでいる。トルネードのようだった。黒い何かは渦を巻きながらも四方八方に散っていく。
その散った一部がテステ・ペルテにも降り注いだ。地面に落ちた黒い何かはグニャグニャと伸縮を繰り返しながら徐々に近づいて来ていた。
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