Episode 04:足りない何か。
ドクンドクンと心音が聞こえる。とても懐かしい音。あたたかい音。しかしどこか悲しげな音。その音に交じり何かを焼く音が男の子を眠りの深淵から
目を開けるとモフリとした感覚がそこにあった。背中に手を添えられて優しく包み込まれていた。イアノスが男の子を優しく包み込んでいた。男の子が顔を上げてまだショボつく目でイアノスの顔を見る。その顔はお母さんに見えた。男の子はにっこりと笑った。
「おはようお母さん。とてもいい匂いね」
「あなたの大好きな、たまごサンドができたのよ。あら坊や、片方の靴はどうしたの?」
イアノスはようやく男の子の靴が片方ないことに気付いた。男の子は足に目をやる。右足のそこにあるべき靴がなかった。男の子も気付かなかったようだ。イアノスが男の子をベッドに座らせる。そしてタンスの下からピカピカの靴とタンスの中からタオルを引っ張り出した。
それも男の子の家にあるものだった。男の子のお気に入りの靴に真白なふわふわのタオル。使い古した様子がなく、おそらく新品であるということだけがいつもと違っていた。男の子の右足をタオルで優しく丁寧に拭く。真白だったタオルは真黒になっていた。イアノスが顔をしかめる。
「やぁねぇ。泥だけでなく
「すす?」
男の子が首をかしげる。
「長い間使ってないと汚くなって天井や壁が真黒になるの」
男の子が周りを見渡す。汚れなど目立たないくらいピカピカである。綺麗であることを告げるとイアノスはくすくすと笑った。
「守り神の煤化けさんがいるかもしれないわね」
男の子はまた首をかしげるが、煤の守り神と聞いておかしかったのか笑い出した。イアノスもつられて笑い出す。笑ってお腹が痛くなるころイアノスが男の子の足を綺麗に拭き終わり左足に履いていた靴を脱がせピカピカの靴を履かせた。サイズはピッタリだった。
男の子がにっこりしてイアノスに手を差し伸べる。イアノスは頬を赤らめて手をとった。そして部屋を出て行く。イアノスに道案内をされながら男の子はイアノスの手を引いてダイニングへと入っていった。
テーブルには
「食べなくてもいいのよ。あまり好きではないんでしょう?」
そう言われると食べなくてはという気持ちになる。男の子は一番上にあったトマトの一欠けらをフォークで刺して一口だけかじった。甘い香りが鼻を通り抜け、同時に甘味が舌の上でとろけた。それは今までにないようなとろけるフルーツのようなトマトだった。男の子はよっぽど気に入ったのか四つ切りのトマトをすべて食べてしまった。イアノスがとても嬉しそうにしている。
男の子は得意になって他の野菜にもフォークを刺した。コリッコリとした食感の青臭くないちょっと甘めのキュウリ。口の中に入れるとポロポロと踊りだして口の中が楽しくなる瑞々しいブロッコリー。そしてシャッキシャキでジューシーなちょっと渋いけれど程よく甘味がカバーしてくれているレタス。それらすべてを平らげてしまった。男の子が、たまごサンドを口に運ぼうとする。
「やったじゃない! 全部食べたのね、偉い偉い!」
イアノスが抱きつく。まるで我が子が初めてのことをやってのけたように褒め称えた。たまごサンドがつぶれる。イアノスの洋服にトマトケチャップがべっとりとくっついてしまった。それを見てイアノスがしまったという顔をする。
男の子が笑い出す。イアノスは顔を赤らめて笑った。大声で、お腹の底から、お腹がまた痛くなるまで笑った。
「ご、ごめんね。い、今、新しいの作ってくるわね、ね!」
笑いながら息を切らしてイアノスが言った。キッチンへと姿を消す。男の子は笑顔でそれを見送った。誰もいなくなったダイニングを見渡す。目前の空になったお皿を眺める。前の席を見る。ふいに男の子は寂しさを感じた。何かが足りない。その足りない何かに気付いてしまった。シュンと俯く。キッチンからは甘い香りと何かを焼く音が聞こえる。
男の子は席を立ち玄関口の方へ向かった。傍らに傘立てが置いてあった。大きな傘が二本に小さな布の傘が一本。男の子が持っている小さな傘と同じものだった。しかし、そこにあるべき傘がない。黒い布の中くらいの傘がない。黒い布の、お兄ちゃんの傘がない。ダイニングの方からバタバタと音がする。イアノスが玄関口へ走ってきた。
「どこへ、行くの? お外は危ないから戻ってらっしゃい」
男の子はその場に立ち止まってずっと傘立てを見ている。イアノスがチラリと傘立てを見る。再度、男の子の方を見る。そしてまた今までしてきたことと同じように後ろから男の子を抱きしめた。男の子の目に涙が浮かぶ。
「お兄ちゃん……」
それを聞いたイアノスがハッとする。そして無理に笑顔を作り、手を引こうとする。男の子はその手を振りほどいた。イアノスの方をジッと見ている。睨みつけているわけではない。ただただイアノスの顔を、目を、見ている。イアノスはお母さんのようにあたたかかった。しかし、本物のお母さんではない。姿も違う。声も違う。そして、何より、ここに、お兄ちゃんはいない。景色は本物のそれと似ているけれど違う。男の子はイアノスから顔を背けた。イアノスが語りかける。
「あなたはここに居ていいのよ。お外に出ることはないの。ずっとここに居ていいのよ」
男の子は首を横に振る。泣くのをグッと堪えて拳を握り締めている。
「お願いだから言うことを聞いて頂戴。どこにも行かないで」
男の子は泣き出しそうだ。イアノスの顔をまた、ただひたすらジッと見ていた。その目には強い決心があった。行かなくてはならない。お兄ちゃんを探さなくてはならない。ここに留まるという気持ちは、イアノスの元に居たいという気持ちは、心の片隅にあったものの強い決心がそれを抑制していた。
行かなくてはならない。帰らなくてはならない。本物のお母さんとお兄ちゃんが居て、そこに男の子が居る。本物の家族の元に帰りたい。強い決心が、そこにあった。
「言うことを聞いてちょうだい。お外はとても危険なのよ!」
イアノスは声を荒げる。男の子はビクッと身体を震わせた。今まで優しかったイアノスが突然声を荒げ、怒ったからだ。だが男の子の決心は全く動じなかった。強い決心が、そこにあった。
イアノスはその決心に圧倒され引き留めることができなくなってしまった。このまま引き留めたら男の子が男の子ではなくなってしまう気がして、男の子がこの世界に飲み込まれてしまいそうな気がして、引き留めることができなくなってしまった。
「……どうしても行くのね。あぁ。どうして」
「ごめんなさい、お母さん……」
イアノスの目に涙が浮かんだ。それを見て男の子は今まで抑制していたものが外れかけた。決心はあったもののやはり泣いてしまった。男の子はイアノスの元に駆け寄りイアノスを抱きしめた。イアノスもまた抱き返した。二人とも泣いていた。男の子は半分泣くのを堪えながら、それでも涙は止まらなかった。
「甘えてもいいのよ。これから辛いことが沢山あるだろうから」
男の子の堪えていたものが一気に外れた。大声で泣いた。泣きながらイアノスの背をさすっている。イアノスも子供のように大声で泣いた。男の子の声とイアノスの声が混ざり合い部屋中に響き渡る。その混ざり合った声はまるで狼の悲しげな遠吠えのようだった。
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