飼い猫に食べられたなら。

@uuuuuira52

飼い猫に食べられたなら。

飼っている猫に先立たれては、生きていけないと気付いた。

齢四十、親も友も恋人もいない、仕事はいくらでも替えのきく事務職。もし明日、私がいなくなったとしても誰も困らない。そんな私の存在を唯一頼りとしてくれるのが、飼い猫だった。

彼を拾ったのは十三年前の雨の日。河川敷で死にかけていた。最初は薄汚れた灰色の猫かと思ったが、家に連れ帰り洗ってみれば光を反射して輝く真っ白な被毛であることがわかった。翌朝、動物病院へ連れて行くとまだ生まれて間もないのだと知った。病院に預かってもらう選択肢もあったが、なんとなく家で飼うことにしてもう十三年。特に大きな怪我や病もなく成猫にまで育った彼。この狭苦しいワンルームで決まった時間に私の与える餌を食み、排泄し、眠り、また餌が出てくるのを待つ十三年。どんなに退屈だか知れない。

猫の十三歳といえば老猫に近しい。そんな彼の生涯を、この家で終えさせてしまうのが、なんだか、忍びなく思ったのだ。かといって今さら外へ放り出したって生きてはいけないだろう。結局は、彼は私に拾われた時点で死に場所が決まっていたのだ。この、じめじめとした黄ばんだ壁に四方を囲われたアパートの一室、と。

今日も彼は私の足音を聞くと雄のくせに甲高い甘ったれた声で鳴く。それは決して私への好意などではなく「こう鳴けば餌が出てくる」という学習の結果に過ぎない。寝間着に彼の白い毛が何本も何本もこびりつくので、いつからか掃除は諦めてしまった。餌を入れる容器に魚臭い固形物をざらざらと盛り付ける。こんなものが果たして美味しいのか、といつも疑問に思う。

けれど彼は私の存在がなければ食事にすらありつけないのだ。私の存在が、彼を、生かしているのだ。それなら、彼が死ねば私の存在する意味とは?目の前でゆっくりと餌を食む猫を見つめる。いくぶんか、毛艶が失われ、食事の勢いも衰えたことに今さら気付いた。彼が死ねば、私は、私の存在は、一体、誰の役に立つというのだろう。彼に先立たれては、もう、生きていけないのではないか。この小さくて柔らかくて気まぐれな、せいぜいあと二年も生きない猫一匹を失い、その先何十年と続く自分の命を無駄に燃やし続けるくらいなら。

「ねえ、おまえ、私を食べてみる?」

なんとなく、そんな言葉が口を突いて出た。彼は、餌を食べるのをやめて私を見た。彼と暮らしていくうちに気付いたが、彼は、彼らは、きっと人の言葉が理解できるのだと思う。曇りかけの青空か、晴れかけの曇り空か分からない青みがかった瞳が、じっとこちらを見つめていた。

「そんな餌じゃあ飽きたでしょう、私をお食べ」

なんとなく、思ったのだ。私を食べれば、私の残りの寿命が彼に与えられるのではないかと。寿命だけではなく、知識も、言葉すらも、ぜんぶそのままそっくり、彼に与えられるのではないかと。そうして、彼はこの先何十年か分からないが、私の分まで、自由に生きてくれるのではないかと。

「窓は開けておくから、食べきったら好きに出ていけるよ」

なんとなく、いや確実に、言葉は伝わっただろう。彼は餌を食べるのをやめ、こちらに近づいてきた。腕の中に迎え入れる。あたたかい、やわらかい、何度もブラッシングを繰り返し、雪原のように白銀に輝く毛皮に、鼻先を埋めた。私のすべてを彼に与えられる、ただ、そのことが嬉しいばかりだった。

「さあ、お食べ」

なんとなく、これは、この気持ちは愛というものではないか、と思った瞬間、小さいけれど尖った牙が、肉に突き刺さった。


彼は時間をかけて私を食べた。体が小さいので、一回では食べきれなかったのだ。最初は肩から腕、つぎにもう片方の腕、右足、左足、胴体、内蔵。骨は隅に積まれ山となった。

どれだけの時間が過ぎただろうか、もはや残されたのは目と耳と口だけだ。これを食べきったら、彼は開け放った窓からひらりと出ていってしまうのだろう。だけどそこには私も一緒にいる。彼の血肉となり、彼の命となって。

結局、名前を付けずじまいだったと気が付く。けれど名前をつけたところで、私がいなくなればその名を知る人なんていなくなるのだから。白い毛に私の血をくっつけた猫が目の前に現れた。残骸となった私を見下ろし、最後の食事をしようと私に鼻先を寄せる。


一口で、唇と舌を食べられた。

これでもう、彼を呼ぶことはできない。

一口で、目を食べられた。

これでもう、彼の美しい毛皮や瞳を見ることはできない。

一口で、耳を食べられる。その間際。

「おかあさん、大好き」

きっと私を食べたことで命だけでなく言葉も得たのだ、彼が耳元でそう言った。

泣きたかったけれど泣くための目はなかった。

私も大好きだったと答える唇と舌はなかった。

音がなくなった。

私は彼とひとつになった。

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