第22話 夢心地にご注意を

時計台の中を淡々と登って、ようやく最上階にたどり着き、感動の夜景とご対面っ、と思っていたが、街の明かりは思った以上に暗かった。

 地上の石畳を歩いていても、路上をぼんやり照らすだけのガス灯は、大した光量にはなっていなかった。

時計台のこの高さから見ると、点々と小さな光が列をなして、幾何学的な模様には見えたが、それはまるで、夜中に見た蜘蛛の巣にに雨の雫がついてキラキラ光っているようだった。

とても綺麗とは言い難い。

幻想的な景色といえば、確かにそうなのだが、期待外れもいいところだ。

 頭上では大きな何かが動いていた。鉄の板のような物が張り付いている。

 そこは時計台の、まさに巨大な時計の下だった。外周部を歩けるように細い通路と手摺りが設けられている。

これを伝って外周を歩くことができるのだか、通路はやたらと細い。ここは、時計の点検作業通路のようだった。

「私が高所恐怖症でなくて良かったわね」

「大丈夫だよ。この暗さなら、真下は見えない。怖がる必要はないってことさ」

「そういうことじゃ、ないんだけどなぁ。落ちたら死ぬっていう恐怖があるでしょう? 本当にデリカシーとかないんだから」

「でも、君は大丈夫だろう。それにここでは、君を押し倒して、お楽しみするわけにもいかない」

「……何を楽しむのかは、知らないけど、ここには何があるの? てっきり100億ドルの夜景とか、女子落とすのに、絶好のスポットだったりと思っていたのに。少し寂しいわね。古都の街並みだから。ネオンギラギラとかって、イメージはないんだけど。これなら昼間に見たほうが、よかったんじゃないのかな?」

「君は、そんなに僕に落とされたいのかい? ここの反対側が綺麗なんだよ。ほら、いくよ」

 リブルは紗百合の手を取って歩いた。通路はかなり狭いから、二列では歩けない。角を二回曲がって反対側に出た。

紗百合は目を疑った。

何も無いはずのその一帯は光に溢れていた。

 そこは光の川だった。眼下には大きな川が流れている。

先ほどまでは、地上だったためか全然見えなかったが、この高さからだと、その大きな川を一望できた。

「ぅわっ。なにこれっ! すごい…… 綺麗っ」

 それはまるでホタルの大群が一斉に移動しているかのようだった。

薄いピンク、淡いブルー、白に緑に様々な色で光が流れていた。川は遥か向こうまで続いており、巨大な大きな布が揺れているかのようにも見えた。

紗百合は、しばらくの間、我を忘れてその光景に見惚れた

「凄い綺麗…… これは何なの、何が光っているの?」

「命の灯ってやつなのかな。少し違うか。魂の叫びみたいな光なのかもしれない」

「……何なのそれ」

「ここは、第三世界と第四世界の間の世界。その世界の人の魂が、ここを通っていくんだ。そして、第二世界へと旅立っていく。あの光は、そんな旅路の灯火みたいなものさ」

「それって、死者の国へのってことなのかな。この川は死者の、通り道ってわけなのね。そう思うと、何だか不気味な光なのかもしれない……」

「それは、人の捉え方であって、僕達はそうは思っていない。だから旅立ちなんだ。新しい世界への道中なんだ。死んだら終わりだと思っていないかい。死んだ後でも、魂は残って、新たな使命を得て新世界にいくんだ」

「新たな使命? 死んでもなお、働かせられるのかしら? 天国で就活でもするわけ?」

「だから、死ではなくって、生まれ変わるんだよ。少し違うか。君たちのいう生まれ変わりは、完全に違うものに、新しく生まれ変わることだと思っているけれど、新世界の場合は、基本はそのままなんだ。第三世界で生きた姿が、基本となって継承される。だから、あちらの世界で、しっかり生きれなかった人は、次の世界でも、ちゃんとやっていけない。つまり第三世界は試練の場所なんだ。次の世界で存在するためのね」

「えーっと。あの川は、まんざら三途の川で間違っていなかったんだ」

「どう捉えてもいいよ」

 大量の光は途絶えることなく流れていく。

一つの光が一人の魂の灯。

旅立った世界に、未練はあったのかもしれない。

何も残すことなく、旅立ったのかもしれない。

人生が終わり、次への始まりへの旅路。

みんなどんな思いなのだろう。

 次に何が待っているのか、果たして次があるのかわからない不安で、旅をしているのだろうか。

行き先は、天国かもしれないし、地獄かもしれないのに……

幻想を抱いて、我旅立たんと、覇気あるやつも、いるのかもしれない。

人の魂が、生前のことを継承しているのなら、意外と天国は混沌としているのかもしれない。

「そうだね、岸の向こうが天国地獄って訳ではないけれど、この川の果てが、いわゆる天国ってやつなのかもしれない」

「かも、しれない? リブルは知らないんだ。向こうの世界は」

「僕は確かに、あちらからやってきたけれど、君たちの言う天国とは、多分別物なのだと思うよ。それと、僕達は目的を果たさないと戻れないんだ」

「目的って、私の監視ってこと?」

「そうだね。厳密にいえば、君を守ることが、僕らの使命なんだ。さらに厳密にいうとね、君たちが消滅してしまったら、僕たちの任は解かれる。その代わりに代償を払うことになる。って、大したことでは、ないのだけれどね。これ以上は言えない」

 青年リブルが紗百合を見つめて言った。

「僕たちは死なないから、死んでも君を守る、なんて言うことはできないけれど、絶対に死なせたくない、絶対消滅させない」

「わかったわ。あなたの任務とお仕事。私は、あなたの重荷になってしまうかもしれないけど、あなたのためにも頑張るわ」

 紗百合はリブルに抱きついた。そして顔を見上げた。

「ねえ、キスの続きをするんでしょ?」

 紗百合は足をつま先立ちをして背伸びし、リブルにキスをした。

「さてどうするの、続き……」

 紗百合はいたずらっぽく笑った。

 リブルは、その唇を自分の唇で塞いだ。重なる唇は、しばらく二人に時間が過ぎるのを忘れさせた。

 ……重なる唇が離れ、紗百合の潤った瞳がリブルを見つめていた。

「君はせっかちだな。せっかくロマンチックなところだったのにな」

「女心は変わりやすいのよ」

リブルは、紗百合の熱を帯びた瞳を見た。そして、もう一度唇を重ねた。



二人だけの時間。

二人だけの空間。

鼓動の音と、お互いの温もりだけが、そこを支配していた。

それでも、かけがえのない刻は過ぎていく。

時間なんて無くなってしまえばいいのに……

時が止まらなくてもいいから、もう少しこのままでいさせて……

頭上で大きな鉄板がガコンと動いた。

時計台の巨大な時計の針が動いたのだ

二人の唇が離れていく。

青年リブルは、紗百合を優しく見つめ、そして言った。

「……それでは、行こうか」

 リブルはタンとジャンプして、手摺の上に乗った。

「紗百合もほら」

 リブルが手を差し伸べる。

「……え?」

 紗百合の手を取ると、引っ張り上げ、手摺りの上に立たせた。

 そして、手摺りから跳んだ。

 当然、紗百合も一緒に中を舞った。

「ぇえ~ッ!」

 廻りはもう漆黒の闇だった。下は見えないから、視覚的な恐怖はなかったが、落下している実感はあった。

「まって、ちょと、落ちるっ!」

 リブルは、そのまま手を引っ張っているだけだった。

光の川が、どんどん小さくなるのを知り、紗百合は、ようやく自分たちが飛んでいることに気が付いた。

「あぁ。びっくりした。どうなるかと思ったわ」

「紗百合。ここなら誰もいないよ。僕たち二人だけだ」

 二人は手を繋いで飛んでいた。浮いていたと言った方が正確か。

周りは薄い闇に覆われていて、どちらが上か下かわからなかったが、はるか下に光の川が見えるところ、高度はかなり上がってるようだ。

「さあ。続きをしようか」

「え? ちょっと待って。ねえ、どこかお部屋、とらないの?」

「部屋? どうして? この空間は広いから何も問題はないと思うよ」

 相変わらずリブルは優しく微笑んだ。

「じ、じゃあ。ベッドとかない訳?」

「ベッド? どうして? もう眠いのかい?」

「あ、ぃゃ、そういうことじゃなくって……」

「それに重さがないのだから、必要ないだろう?」

「それって、重力がないから、ベットはいらないってこと? そういうことでは、ないんだけど…… シャワーとか浴びないの? って言っても無駄だよね……」

「シャワーて、お風呂についている、あの液体の出る機械かい?」

「お湯が出るの。それで体を綺麗にするのよ」

「そんな液体を浴びても、体は何も変わらないよ。それとも、わざわざベタベタになりたいのかい」

「体の汚れを洗い流したいのっ」

「紗百合の身体は綺麗だよ。だって、誰とも交わっていないからね。もう、その服もいらないね」

「え??」

 紗百合の服が青白く光はじめた。

「ちょっと待ってっ!」

「何を待つのかな?」

 リブルが変らず、優しく微笑んだ。

 ばぁっと服が青白く光り、やがて四散した。

 紗百合の着ていた白のワンピースは光と共に消え去った。

「きゃーっ!」

 紗百合はとっさに左手で胸を隠して、膝を曲げて、下を隠した。

右手は手を繋がれているから、動かせない。

 すると、リブルの服も、光と共に四散した。

「ちょっと、もっと暗くならないの?」

「くらいと紗百合がよく見えないだろう」

 正面に裸のリブルがいた。

鍛えられた身体は、無駄な肉など当然無く、引き締まっている。

 下の方をチラリと確認したが、当然、ついているものはついており、力強くこちらに突起していた。

 リブルは、もう一つの手で紗百合の左手首をつかんだ。

隠していた胸があらわになる。

「きゃっ。ち、ちょっと何するのっ!」

「何って、キスの続きをするのだろう?」

「……いや。ちょっと待ってっ」

「何を待つんだい、続きをしたいと言ったのは紗百合の方だし。こういうときは、少し強引の方がいいのだろう?」

 リブルの体が重なってきた。胸と胸が触れ合い、お腹とお腹が触れ合い、お互いの体温の熱が伝わり、そして、下部の谷間と突起物が触れ合った。

 一瞬、感部に突起物が触れ、紗百合の身体に刺激が走り、体をよじらせた。

「ちょっと、いきなりなのっ。その前にすることがあるでしょっ」

「その前? すること? それは何だい?。言ってごらん」

 リブルの表情と声はいつものように、穏やかで優しい。

ニコッと笑った笑顔でそう聞かれ、紗百合はさらに赤面した。

「そ、そ、そんなこと、女子に言わせるなっ」

「じゃ、このまま続行ね。体の力を抜いて」

「え? ……だから、まだダメだってっ」

 緊張と恥ずかしさと、半ば怒りで、硬直した紗百合の下部の谷間には、当然リブルから伸びた硬い枝は入ることはなかった。

「おかしいな。意外と難しいんだな。この行為って」

「違うわよっ。あんたのやり方が下手くそなのよ。いいから、もうやめて」

「それは違うよ、紗百合が僕を受け入れないから、入らないんだよ」

「……だから、違うって。リブルのやり方が悪いのっ」

「やり方を教えてくれないと、僕だってわからないよ。初めてなのだから」

「だから、もう、やめましょ!」

 紗百合は半分懇願していた。お互い初めて同士で、さらに相手は無知無頓着だときた。

たとえ、ハートを射抜く笑顔を持っていたとしても、デリケートで繊細な処女の股間を射抜くことはできないだろう。

「紗百合、じっとして。動くと角度が狂うから」

 リブルは繋いでいた右手を離して、自分のモノを掴んで、紗百合の股間に当てた。

「ぃゃッ!。ゃめてっ!」

 じわじわと、モノが食い込んでいくが、それ以上入ることはなかった。

「紗百合。力を抜いて。ほら、もう少し……」

 リブルは優しく耳元で囁く。

「お願いだから、もうやめてっ!」

「何を怖がっているのだい。何も心配することはないよ。君は僕に身を委ねれば、いいだけなんだから」

 リブルはさらに体を押し付けた。

突起した接触部分が少し谷間にめり込んだ。

「痛っ!!」

 紗百合の下部に激痛が走った。

そして、紗百合の怒りは頂点に達した。

「やめろと言ってるだろっ!」

 空いた左手で、リブルの下顎を思いっきり殴った。

「グワァっ」

 突然のことで、バランスを崩し体が離れた、すかさず左脇腹に蹴りを入れた。

 中を浮いていたといっても、至近距離での蹴りは、それなりに効いたようだった。

 リブルは握っていた左手を離してしまった。

「リブルっ。あなたにはまだ早い。ちゃんと勉強してこいっ!」

 宇宙空間のように、二人の距離は離れていった。

 ほっとした紗百合だったが、今、自分が落ちていることに気がついた。

……風を感じる。

今まではそんなことはなかったのに、体で風圧を受けている。

何も衣類を身に着けていなかったから、なおさらかもしれないが……

 髪のなびき方からして、頭から落ちている。

落ちている方向を見ると、はるか向こうに光が見える。

光の川の帯が、少しずつ近づいてきている。

 紗百合は少し考えた。

リブルと手を繋いでいたから、この空間を自由に飛んでいたのだが、さて、リブルを呼ぶか?

 ぶるぶるぶるっと、紗百合は顔を振った。

見た目はかわいくて、優しくて、純真なのだけれど、それ故に、無神経で無頓着で無節操で強引。

 先ほどの裸体姿を思いだいした。

 欲棒むき出しの無垢な少年は、だだ、ソレを押し込むだけに迫ってきた、恐怖の対象だった。

「あぁ…… 夢に出そうだわ…… ってこれは半分夢なんだけどな……」

 川の光が近づいてくる。

とりあえずスピードが落ちるか、手足をばたつかせ、抵抗を試みるが、一向にそんな気配はなかった。

以前見た夢の中では、特に意識しなくても飛べたのに、ここでは、どうやら法則が違うのかもしれない。

そういった力は、封印されたのかもしれない。

「……これはまずいぞ」

 紗百合は焦った。

どうにもこうにも焦った。

高い所が怖いわけではない。

ただ、このまま地上に激突したらどうなるのだろうと、その恐怖が心を支配し始めていた。

カテゴリー5に、抱きつきられたあのときの恐怖に似ている。

「……消滅してしまうっ!」

 時計台が見え、魂の川が近くに見えてきた。

光の帯がゆっくりと流れている。

あらためて見ると、プラチナのネックレスのようにキラキラ輝いて、とても奇麗だ。

すこしの間見惚れてしまい、ハッと我に帰って、とっさに手で空を切り、落下方向を川の中央に定めた。

 川の中央なら、深度があるから、もしかしたら助かるかもしれない。

 光の帯が近づいてくるにつれ、光の一つ一つが見えてきた。

改めてその壮大さに心を奪われた。

幅は500mはあろうか。光の粒の集合帯が一定の方向に流れていた。まるで巨大な高速道路の夜景を見ているような感じだった。

「綺麗……」

 紗百合の目にはもう、光しか目に入らなかった。

 死を覚悟した瞬間は、景色がコマ送りのように見えるというが、まさにそんな状態だった。

 そして、見えた。

 見てしまった。

 光の正体を。

 ここは川ではなかった。大量の人だったものが歩いていた。はっていた。うごめいていた。

 その、動いている塊の胸の一部が光っていたのだ。

 ほとんどは人の形をしており、中には首のないもの、上半身がないもの、その逆に上だけの者もいた。

死者の行群。

屍の群れ。

魂の旅路とはよく言ったものだ。

これはだだの、地獄への苦行の旅ではないのか。

紗百合は絶句した。

助からない。

あんなところに堕ちたくない。

紗百合は頭を両手で抱えて、身を丸くして身構えて、目を固くつぶった。

 そして、叫んだ。

「お願いっ! リブル助けてっ!」

 

 頭に鈍い衝撃が走った。それに伴い痛みが走り、同様に肩と背中にも鈍い痛みが走った。

 あまりにも激しい痛みだと、脳が神経を遮断して痛みを抑えるというが、それはこの類なのかと紗百合は思ったが、どうやら普通の痛みのようだった。

おそるおそる目を開ける。

白い壁に、白い天井。

 ……おや、この顔のひんやり感は床だな。

 どうやら生きているみたいだ。

手も足もちゃんとある。

服も着ている。これはパジャマか?

「水渓さん。大丈夫ですか? 水渓さん、聞こえますか? 水渓紗百合さん。分かりますか?

 紗百合の視界に、看護師さんを捉えた。

「……ここは?」

「ぁあ…… よかった。意識が戻ったんですね」

「意識?」

「紗百合さんは、ずっと意識を失っていたのですよ。そして今日、意識が戻りかけたから、先生が声をかけていたら、突然ベットの上で暴れだしたから、抑えつけようとしたのだけれど、紗百合さん、先生を殴って、蹴飛ばしたんです。だから、手がつけられなくなって、そして、ベッドから落ちたのですよ」

「あぁ…… そ、そう、そうなの…… 先生は大丈夫でしたか?」

「ええ。軽い打撲ですみましたけれど、寝ぼけていたとはいえ、すごいパンチとキックでしたよ。何か経験されているのですか?」

 紗百合は苦笑いした。

 床から起き上がると、そこには京花の姿があった。

「ようやくのお目覚めね。寝ぼすけさん」

「えーっと、橘京花さん、ですよね……」

「あら。頭のうち所が悪かったみたいね。なら、私が悪意と殺意で、あなたの記憶を鮮明にしてあげましょうか」

「ぁ。いや、大丈夫。ご心配なく」

紗百合はベットに腰を下ろして、橘京花をみた。

いつものように、白い制服を着ていた。

学校帰りの途中に、お見舞いにきてくれたのだろうか。

「この方はね、毎日のように、お見舞いにきてくれていたのよ。いい友達ね」

「おともだち? 私の下僕が病院で迷惑をかけているから、様子を見にきてあげたのよ。ほら、先ほどだって、あなた、先生を殴り殺そうとしたじゃない。きた甲斐があったというものよ。ちゃんと動画で取ったから、きっといっぱい、「いいね!」がもらえそうだわぁ」

「こら、人の寝相の悪さを勝手に撮るな、アップするな」

「あら、かわいいかったわよ。紗百合の寝顔。まるで恋する少女が、夢の中でデートしているみたいに、幸せそうだったわよ。そして、きっと振られたのでしょ? わかるわぁ。無様に泣いて喚き叫んだのでしょ? ふふ、とても滑稽だわぁ」

「……楽しそうだね京花ちゃん。あの、私、病人なんだけどな。もっと、いたわってくれても、いいのだけれどなぁ」

 京花がすっと近寄り、正面から抱き着いた。

 唐突な行動に紗百合は驚いたが、京花が泣いていることに、さらに驚いた。

声を立てないように、鼻水をすすらないよに、紗百合以外の人には気付かれないように泣いていた。

「紗百合…… 傷は痛む?」

 耳元で囁くように、京花が聞いてきた。

「あ、どうだろう。起きたばっかりで、わかんないけど、たぶん、大丈夫そうな気がするよ。今のところは痛くないよ」

 実は、撃たれた辺りがズキズキしていたが、顔には出ない程度の痛みだったので、我慢した。

「そう? 無理しては駄目よ。ゆっくり休んでいなさい」

 京花が背中に回していた腕を、下からパジャマの中に手を入れ、背中をさまぐりだしてきた。

そして、打たれた跡らしき場所をさすった。

「本当に痛くない? 嘘をいっていない?」

「あ。うん。大丈夫だよ。本当に平気だから」

 本当は、触られた辺りは、冷や汗が出るくらい痛かったが、平常を装った。

 京花の腕と手のひらは、背中からわき腹を通り、前の方に向かった。

 ぞぞぞっと悪寒が走る。

「どうしたの、こちらは痛いのかしら、痛かったらいってね」

 京花の手の平と指は、紗百合のやわらかな胸を捕らえた。手のひらで胸をもみあげ、指で乳首を挟んだ。

「ぁッ……」 突然の刺激に、たまらず小さな声を上げてしまった。

「どうしたの、ここが痛いのね。だって腫れているもの、私が優しくさすってあげるから我慢してね」

「ゃっ! んんん……」

「痛いなら、いたいって、言うのよ。我慢しては駄目よ」

「……痛くは……ないよ…… でも、もう……いいから。大丈夫だから……」

「痛くはないのね、それじゃ、もう少し強くするわよ。どうかしら?」

 紗百合は声が出るのを必死にこらえた。

「どうかしら? 痛みは引いたみたいね。よかったわね」

 京花は楽しそうに耳元でささやいた。

パジャマの中に入れていた手も、再び背中に戻し、肩に手を掛け抱擁から脱した。

 京花の目じりに涙の伝った跡があった。

本気で心配してくれていたのだなと実感した。

「京花ちゃん。心配かけたね。もう大丈夫だから」

 紗百合はまだ、起きたばかりだったせいか、体がふらついていた。

とりあえず、ベッドに横になった。

「あら、そう? あなたのベッドの上での奇功を見ていたら、そりゃあ心配になるわよ。笑い過ぎて、こちらがおかしくなりそうだったから。これ以上は勘弁してほしいわ」

「……そりゃあどうも。あ、そうだ。リブル、いるの?」

(僕ならここにいるよ)

 と、ベッドの上に黒の子猫が姿を現した。

 と、紗百合はそれにめがけて拳骨をおろした。

 さっとステップをふんで横に軽くかわす。すかさずもう一度拳骨をおろす。今度は後ろにかわす。

 もう一度拳骨をおろす。さらに後ろにかわす。

 紗百合の手が届かなくなってリブルは聞いてきた。

(何を怒っているのだい。君が僕に怒る理由は、何もないはずだけれど)

「そうよ、リブルは自覚がないから、どうして私が怒っているかなんて、わからないでしょうね」

(京花。何かしたのかい? こんなに紗百合が怒るなんて、なかなかあることではないよ)

「あら、私、何も知らないわよ。紗百合のことだから、夢の中で、リブルに裏切られたのじゃなくって」

紗百合は氷の視線でリブルを捉えた。

「りぃぶぅるぅ! 何も知らないとは言わせないわよ。どうせ、あなたのことだから、私のことは何でも知っているのでしょ? あの後、私はどうなったのっ?」

(あの後って、カテゴリー5を倒した後かい?)

「違うわよ。私がスリーリバーに落ちそうになったときのことよ。私は川に激突したわけ? それともあなたは、寸前のところで助けてくれたわけ?」

 子猫のリブルは表情を変えることなく答えた。

(何を言っているのだい、君は)

 紗百合の肩の力が落ちた。

やはり、だだの夢だったんだ。

私の頭の中の記憶と、一部世界がつながって、一部情報が共有した状態で見た夢。

実際、夢だとは思っていなかったから、明晰夢にはならなかったわけだ。

 紗百合の胸に、淋しさがこみあげてきた。

青年姿のリブルも、ただの夢と幻想だったのだ。

あのおいしいパンケーキも、夢にまで見たおかあさんも、記憶のどこからか読み出された、ただの夢にすぎなかったのか。

 二人で歩いた街道。

二人で食べたパンケーキ。

感動した再開。

時計台からの幻想的な夜景。

すべては、夢だったのか。

 覚めたら、すべて消え去ってしまうのか。

 紗百合は胸が苦しくなってきた。

 リブルが話を続けた。

小さな瞳は、楽し気に紗百合を見ていたような気がした。

(君は僕が言ったことを忘れたのかい?)

「……ぇ」

(何があっても君を死なせない。消滅させない。僕が絶対守ってあげるって)

 小さな黒い猫は、紗百合をじっと見てそう答えた。

紗百合の瞳から涙があふれだした。

「……リブルのばかっ」

 紗百合は眼の前にいるこの子猫に、自分をさらけ出していくことに、ためらいを感じなくなっていた。

 この黒い子猫が、とても愛おしいと、紗百合は想った。


第1期 完

31.2.9 1:19

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夢ならマジ覚めてっ! 祈由 梨呑 @kiyurino

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