8☆

 7月のおわりになっていた。


 7月のおわりにとうとうなってしまった。

 7月いっぱいはとにかくよく働いた。お金が欲しかったというよりも、なんだか悪い気がしたのだ。チーフとかサブチーフには無理を言って夏休みにしてもらったみたいで……。

 ウチの大学は小中高と同じ二十一日から夏休みに入る。たぶん他の大学の人から聞くと珍しいらしい。試験やレポートやその後の試験休みやらで、講義の組み合わせによっては7月いっぱいほとんど休みになってしまう。ボクがそうだった。

 図書館も二十一日から夏休みシフトに入ることになっていて、朝は三十分早く、夕方は一時間遅くまで開館することになっていた。そのぶん、アルバイトで入れる人は多めにシフトに入っていた。ボクは色々思うところがあったから二十一日前から多めに入っていたけれど。二十一日前は週三日とか入っていたり、夏休みは週四日入っていたりとか……。

 それで8月に入ったら全休で……。やっぱり無理を言ったかな……。チーフ悩んでいたっぽかった……。サブチーフは大丈夫と微笑んでいたけど。チーフにとってシフトを組むことは重要な仕事の一つで毎回毎回悩むのは仕事のウチなのだそうだ。悩んでるフリかもしれないとも言っていた。わからないものだ。

 ボクはけじめと思って頑張ってシフトに入ったし一生懸命働いた。

 仕事は……、とても楽しかった。

 センパイは前よりもシフトに多く入るようになっていたから話をする機会も断然増えた。いままでで一番多かったんじゃないかな。コウハイちゃんも仕事をどうやら飲み込んだみたいで、あのうっとうしくなるくらい一緒にいることも少なくなったような気がした。

 なんか楽しかった。すべてが上手く回っているみたいだった。心が軽くて羽みたいだ。なんだか心が明るくて透明なものでいっぱいに満たされているようでスッキリとする。

 夏休み中働いていたいな。このまま旅になんか出ないで、センパイとかコウハイちゃんとかと一緒にここでこうして働いていたい。そうしていたいな……。シフトが終わる頃そう思ってしまった。

 でも……、

 だめだだめだだめだだめだ。シンちゃんみたいに心の中で叫んだ。なにを考えてるんだ、ボクは! もう決めたことなのに。決断したことなのに。すべてが回りはじめている。もう回って回って、ここまで来ているんだ。

 あとは旅に出るだけなんだから!

 ここで夏中ずっと仕事をしていきたいって気持ちと平行して、でもやっぱり旅に出たいって気持ちもある。早く旅に出たいって心が叫んでいる部分があって、それが逃げを許さなかった。

 …………。

 …………。

 ふぅーと息をつく。

 回想おわり。

 なんか目が回りそう……。いやいやこんなところで目を回してはいけない。目の前の相棒がこのままここに置いたままではダメだと言うだろう。いや言わないけど、たぶん腹を立てて故障するんじゃないだろうか。旅立たないで置いておいたら。

 もうバイクは、いや旅の相棒は思いっきり旅仕様になっていた。もうアレのボクと同じ。大仰しいなんて笑えなくなった。ボクは相棒を見て笑った。汗が額から目に入ってちょっと痛いけど、でも笑みは止まらなかった。

 今年の梅雨は一週間前に開けて、暑い熱い夏が到来している。ガレージのシャッターを全開にして窓も全部開け放っているけど、それでも暑い。

 昨日で目まぐるしいまでのシフトは終わってしまい……、いよいよ三日後だった。

 旅立ち。

 いよいよだな。

 ボクはいま夕方に向かって、図書館のアルバイトさんの終業時間に合わせるように準備をしている。バイクに荷物をくくりつけ、いまからでも出発できるような用意をしていた。

 このバイクで、この完全旅仕様の相棒と一緒に、今日図書館に行くつもりだった。

 昨日の仕事おわりにセンパイから、もし時間があるようだったら今日図書館に来てくれと言われた。もうぜんぜんOKだった。どんな困難があっても行く気持ちだった。旅の用意しかすることがないし、それももうほとんど済ませてあるから時間はいっぱいあるのだ。

 それでその時に啓いたのだ。これはセンパイに見てもらうチャンスではないのか、と。ボクのバイクを、旅仕様の相棒を、そして旅に出るボク自身を、見てもらえるチャンス。

 あれから……、あの旅立つと宣言したあの日から2ヶ月間、練りに練って考え抜いた旅支度だ。いやあの日からじゃない。アレを読んだときから考えに考え抜いたボクだけのボクのためのコーディネートなのだ。

 SR400にはアレを読み終わったあとしばらくして純正のキャリアを付けてしまった。悩めば悩むほどキャリアは必要だという結論しか出てこなかった。頭は迷っていたけど、体は意に反してさっさとバイク屋さんにキャリアを注文してしまった。取り付けたときにはやっぱりもう戻れない気分に浸ってしまったけど。でもそれが一つの通過儀礼だったのかもしれない。そこからはバイクを旅仕様にする抵抗感がなくなってしまった。

 両サイドにはサイドバックをぶら下げた。いちおう革製ってところが潔くないボクを表しているのかもしれない。タンクバックに関しては革製でいいのが見つからなかったし、色々と貴重なものを入れたり、防水じゃなきゃダメだったり、持ち運びを考慮したりした結果、最新のものを取り付けた。SRには合わないけど、でも仕方ない。

 ここまでは宣言前に遊びのつもりでSRに取り付けていた。ホントになにを考えていたのやら……。これに夢中で走りにもいかなくなってしまって本末転倒な事態になっていた。

 宣言したあとからは、もう少し装備を揃えるのにも現実味が出たものになった、というか。もっとヘンテコな方向に向かってしまったというか……。

 アレではリアシートに大きなシートバックを積んでいた(ようだったのを記憶しているのだけど)。でもボクはより旅らしくしたいと考えて、サイドとタンクのバック以外はバック類はやめて、モノを積むようにしようと思った。そのほうが玄人みたいな感じが出るし、ボクはもう経験者なんで違いを出そうと意識した。ただ積むだけだと型くずれしそうで怖いし、急な雨なんかも怖いから、柔らかいけど防水仕様の大きな袋に入れて積むことにした。型くずれしない具合にモノを入れて、それを何回も練習してバイクに積む。そんなことを毎日やった。だいたい馴れることができた。もう少し時間があったら速度も速められるかもしれないけど。

 この防水の袋は5枚ほど用意してあって、サイドバックに入れる中身を入れるのにも使ってるし、予備にも持っていこうと思っている。なにかと便利に使えるだろう。

 そして持っていくモノ達を吟味した。

 テントとかシェラフとかは、やっぱりバイクに載せる都合上、オヤジの持っている登山用のものが嵩張らないし機能性が優れていると考えて借りることにした。なんかテントはアレと同じものかもしれない。ちょっとそれは嬉しかった。テントを立てるだけで前室ができる優れものなのだ。シュラフはコンパクトに畳めるもので3シーズン用のものだ。なんかあんまり使ってないみたいだ。聞いたら、買ったはいいけど前から使っていたものの愛着が強くてとかいうなんかよくわからない理屈を言っていた。それでその時にマットは銀マットしかないけどどうしたんだと聞いたら、友人に貸したままになっているとかいう、これまた曖昧な話が返ってきた。ほんとにもう。だからシュラフの下に敷くマットは空気が入って膨らむけど小さくなる最新式のを買った。

 調理器具もオヤジのとファミリーキャンプで使っていたものを吟味して持っていくことにした。

 バーナーというかストーブは、アレではカセットガス式を使っていたけど、ボクはもう初心者ではないのでホワイトガソリンを使うものにした。ブルーのプラスチックの外箱に入っているいまはもう絶版になってしまったモデルだ。オヤジはガス式のものを一つ持っていけと言っていたけど、ボクには考えがあってバーナー類はこれ以外に持っていかないことに決めていた。

 その代わりたき火台を持って行くことにしていた。直火でのたき火を禁止しているキャンプ場でも、このたき火台があればたき火ができる。そしてそのたき火台の上で調理ができる金網みたいな器具もついている。このたき火を使って調理をするつもりだ。さすがに家で使っているような鋳鉄のフライパンやダッチオーブンはバイクでは持っていけないから、ミニフライパンは買って用意した。直火に置けるコッフェルはあったから持っていくし、その他のフォークやスプーン、シェラカップなんかも昔キャンプに使ってたものがキレイにしまわれていたから持っていく。あとパスタなんかを茹でるのに特化した蓋付きのクッカーは買った。蓋に湯切りの穴があって、試しにやってみたら案外おいしくショートパスタができた。

 それと……、小さいヤカンを持っていくことにしていた。そしてそして紅茶のティーパックも色々な種類を用意した。これはセンパイが心の底から敬愛するヤン・ウェンリー提督が紅茶好きであって、センパイもそれに習っていて、ボクもそうしたいと思ったからだ。

 センパイが心酔しているものだから、なんと原作の小説から読んでしまった。アニメがあったら原作よりも先にアニメを見るというのに……。小説から読んでこんなにドはまりしたことはなかった。もうセンパイと同じくヤン提督の弟子になってしまった。センパイはユリアンなんかよりもずっと不肖の弟子だけどね、なんて言うけど、それならボクのほうがもっと足下にも及ばない感じだ。

 提督関連でもう一つ持っていくことを決めているものがある。スキットルというステンレスでできた小型のボトルにブランデーを入れて持っていくことにしていた。紅茶に入れているのを見て美味しそうで、一度やってみたかった。センパイはあまりお酒は好きじゃないみたいで、そんなに美味しいものでもないよ、なんて言ってたけど、せっかく二十歳になってお酒が飲めるようになったんだから、たき火の前でそれを飲んでみたい。どんな味がするのか。帰ってからセンパイに報告するのだ。センパイ、けっこういける味でしたよって。これは旅のお楽しみだから、たき火の前まではお酒を飲まないことにしていた。

 細々としたものも趣向を凝らしたものにしていた。まずはライト類。最近流行りの高輝度LEDにした。オヤジの持っている懐中電灯は伝統的な逸品だけど、豆電球だし、ヘッドランプはLEDだけどなんか暗かった。だから奮発していいのを買ったと言いたかったんだけど、オヤジが半分はお金を出してくれた。旅の用意をしていたらしょっちゅう構ってきて、勝手にライト類とか調べてきた。でも買って良かった。ほんとうにすごく遠くまで闇夜を照らしてくれる。

 作業用のものは電気を使うけど、こうサイトを照らす灯りは別に用意した。ウチにあるホワイトガソリン用のフィールドランタンは大きくてバイクに積むのには不向きだった。けっこう旅に似合うのに残念だ。でもそのフィールドランタンよりももっと旅に似合うランタンを見つけてしまった。

 『天空の城ラピュタ』でパズーが坑道に降りたときに使っていたランタンだった。カンブリアランタンというもので英国ウェールズ製だった。高価だったけど迷わず買ってしまった。これを使ったからってパズーやシータみたいな冒険はできないけれど、センパイに見せたらきっと「これはいいものだ」と言ってくれるに違いない。

 ナイフ類は、これはオヤジの使っていたアメリカ製のプライヤーにいっぱい機能が付いているものを持っていく。アレにも登場していたけどフランス製の木の柄の折り畳みナイフも買ったので持っていく。スイス製の十徳ナイフはオヤジが持っていったほうがいいと言うから持っていく。小さくて嵩張らないからという意見を聞き入れた。

 あとは細々としたもの。貴重品やアメニティグッズや腐らない食料品、主にパスタだけど。そして現地で買った食材を入れるための幅の薄いクーラーバックも買った。氷を買って入れておけば夏場でも腐らないと思うけど、どうだろうか。胃薬は必要だろうか……。

 乾電池とかスマホのバッテリーとかも用意した。あ、そういえばソーラーパネルで電気が充電される機器も買った。スマホには地図やらナビやらのアプリを入れてあるから電池切れはマズイ。バイクのバッテリーから電気が取れるようにもいちおうしてあるけど……。

 アレではスマホを解約するなんて暴挙に出ていたけど、ボクはスマホがないと……、いやスマホがあっても迷ってしまう体質だから旅には似合わないけれど文明の利器は捨てられない。紙の地図だけなんて、たぶん北海道へ行くつもりが沖縄に行ってしまうじゃないだろうか。

 服装はやっぱり悩んだ。メインでは暑いと思うからパンチングメッシュの入ったジャケットやクールタイプのジーンズを選んだ。寒かったら上からカッパを着ようかと思っている。もちろん替えの服では普通のジーンズも用意してあるし、どうしてもっていうからオヤジ殿の持っている山用の薄くても機能性のあるフリースも借りた。靴もブーツっぽいライディング用のものにした。靴ひもの位置が普通の靴とはずれた位置にあって、シフトチェンジのときにシフトレバーに靴ひもが絡まないように作られた優れものだ。

 M65というジャケットもこの旅の象徴として買った。なんか野暮ったかったけどボクにはそれが合っているのかもしれないと思った。

 そしてヘルメットだ。これが一番変わったかもしれない。今までのはクラシカルなもので、耳あてに革がついていてシールドではなくてゴーグルをして乗っていたんだけど……、やめた。夏だから機能的には空気がヘルメットの中を吹き抜ける最新式のがいいのかもしれないけど、まだボクにはカッコ良く乗りたいっていう未練があって、ジェットヘルにしたんだけど、車のステアリングなんかをデザインしている会社が作ったヘルメットにした。クラシカルと現代的なデザインが融合したような感じでカッコイイ。シールドが二重になっていて、眩しいときは内側の黒いものを下ろせばいいようになっていてそれも気に入っている。空気も多少入ってくるからいい。

 このくらいだろうか。これでいいだろうか。

 頑張ったな。いつ見てもキレイに荷物が積めている。カンペキだ。

 今日はこのバイクに乗るけど旅装では行かない。普通にジーンズとTシャツにM65にする。ヒップバックも旅用なので付けてはいかない。あ、でもセンパイに見せるために腕時計はしていく。あんまり腕時計はしないんだけど、いまは馴れるために付けている。センパイとお揃いのメーカーの対衝撃仕様のデジタル時計だ。これはウチにあったもので、たぶんオヤジが使っていたものだと思うけど、オヤジは興味がないみたいでそこら辺に置いてあったからもらったのだ。センパイも付けているくらいだから使い方を聞こうと思っている。なんだか機能のいっぱいついた時計みたいだけど、説明書もないし、オヤジに聞いてばかりでオヤジがなんか嬉しそうな顔をするのもシャクだった。

 その時計の液晶を見ると……、そろそろ時間のようだ。

 ボクはSRに近づくと差してあるキーを捻った。メーターに灯が入る。そしてセンタースタンドで直立しているSRに跨った。畳んであるキックペダルを引き出して、ハンドルについているデコンプレバーを握った。そしてそろそろとキックペダルを踏み込んだ。クランクケースの上部の窓から白い印の表れてくるのを確認する。ちょうど見えたところでデコンプレバーから手を離した。足の力を緩めるとキックレバーの戻るかたかたかたと乾いた音がする。そしてアクセルを少し開き気味にしてから……、大きく息を吸い込んで……、思いっきりキックレバーを踏み込んだ。

 やったあ!

 今日は一発でエンジンが始動した。

 心地良いアイドリングの音が響く。

 るるるるるる……。



「これはほんとうに謝らないとだね、ごめん」

 図書館にSR400で乗り付けたボクを見てセンパイは言った。

 べ、別に謝るようなことをセンパイはしていない。ボクが悪い。謝るのはボクのほうだ。

 センパイはこうも言って謝った。自分がSRに先に乗ってきてたからさぞ言い出しづらかっただろうって、ほんとうに申し訳なさそうで、ボ、ボクのほうが狼狽えてしまう。

 た、確かに百歩譲って言い出しづらくはあったけど、ここまで言えなかったのはやっぱりボクのほうの原因が大きくて……。

「丸かぶりだものなあ」

「いえ! 一緒で嬉しいです」

 これだけは誤解なきように伝えなければ……。声に力が入ってしまった。

 それはずっと心の中に沈んでいて、それは日が経つごとに重たくなっていった。たかがバイクのことなのに。同じバイクに乗っている人なんてそれこそたくさんいるのに。軽く言えばすみそうな話なのに。こんなに誤解されそうな時期まで黙っていてしまった。

 ボクはセンパイと一緒のバイクだったから丸かぶりが恥ずかしくて言い出しづらかったわけじゃない。その反対の気持ちだったから。センパイのバイクに対する姿勢と自分を比較して恥ずかしかったから。それをもっともっと説明したかった。言い訳だって聞こえても、誤解されないのなら、そのほうがいい。

 そしてできるなら、これからは一緒に走ってもらえると幸いだと伝えたかった。ほんとうは言いたかったのに、いざセンパイを前にすると頭の中が混乱してしまって……。気恥ずかしさとか。はじめて図書館まで乗ってきた緊張とかで。なかなかアニメの話をするようにはいかない……。

 ボクはサイドスタンドを下ろしてバイクを自立させてからバイクを降りて、夏用のグローブを外してヘルメットを脱いだ。ため息が自然と出た。少し涼しさを感じてホッとした。

 エンジンは切っていたけど、まだ乗ったままで話をしていたなんて、あまりにも緊張しすぎだ。降りるときや脱ぐ動作もロボットみたいでカチコチだ。まったく、まったく!

 景色のトーンが少し落ちただけの夏の夕暮れにセンパイは立っていた。

 センパイは仕事が終わったあと、ずっと駐輪場で待っていてくれたみたいだ。いや駐輪場で待ち合わせの約束をしたんだから当たり前なんだけど、でも馴れない運転で遅くなってしまったのに居てくれた。そこに立つセンパイの姿を見て嬉しくなってしまった。

 だいぶ緊張が解けて、だから熱い空気を感じるようになって、これは上着を着ていることが原因だと気付いて慌てて脱いだ。脱いだ瞬間は涼しく感じる。近くの公園から蝉の声がしていて、夏が夏らしくて、なんだかいいのか悪いのかわからない。

 ボクは深呼吸を一つした。鼻の上にできていた汗が落ちていく。

 さてこれからどうするのだろうか。駐輪場にボクも停めたほうがいいのか。それとも、それともやっぱりセンパイと一緒にバイクで帰るのだろうか。そう思って駐輪場を見た……、けどセンパイのバイクはなかった。あらためてセンパイの格好を見ると、珍しく夏用のネイビーのテーラードジャケットを着ている。こっちのセンパイも大人っぽくてカッコイイ感じだけど。でも見慣れないセンパイにちょっと戸惑ってしまった。

「センパイ、バイクは?」

 センパイは大きな苦笑いをした。それは苦み成分がひじょうに多いように感じた。

「僕もバカだなあ。ちゃんと言ってなかったのが悪いよね」

 話を聞いてみると、センパイはボクとコウハイちゃんの旅立ちをお祝いするために飲み会を開いてくれようとしていた。夕方から会うのだから、ボクもそうかもしれないと考えれば良かった。それがフツーというものだろう。なんだか思いばかりが先走っていてほんとうにダメダメだな、最近のボクは。

「バイクは家に置いてくればいいよ、待っているから。それと……」

 センパイは肩からかけていたキャンバス地のバックの蓋を開いて、ごそごそと中からなにかを取りだした。ちょうど文庫本を重ねたくらいの大きさで……、いやそれはふつうに文庫本が重なっていた。それも4冊ほど。

「はじめに渡しておいたほうがいいかな、これを。僕からの餞別だよ」

 センパイは畏まった顔で、まるで献上するかのように両手でその4冊を差し出してくる。ボクも恭しく両手で受け取った。一番上の本の表紙が目に入る。古めかしいタッチで人物が描かれている。本を覆っているカバーもあまり見たこともないくすんだ緑色の表紙で……、いや見たことある。閉架書庫の文庫コーナーにこんな色の文庫がいっぱい並んでいる。

 ボクはセンパイの顔を見ると、センパイはなにかに気付いて苦笑いというかもう少し面白そうに笑った。

「図書館の本ではないよ。古本屋で買ったものだ」

 まあくれるというんだからそうなんだろうとは思ったけど……。受け取った4冊を両手上で少し広げてみると、3冊は古臭い少し茶色に変色した中の紙に表紙も緑色が色あせた感じになっていた。でも中の一冊は、上から3番目のものだけは白い表紙で新品のような新しさだ。

「前にユキちゃんが出ている話はこの辺りが舞台だったか聞いたことがあったよね」

 そうだったかな……? なんかそんなことを聞いたような……気がするけど、たぶん聞いたんだな。センパイのほうが正確だ。

「あの時、僕はユキちゃんは宇宙人製アンドロイドだと思ったんだ。でもなんか記憶に引っかかってしまっていてね」

 そうだ。そうだ。アレがフィクションかもしれないと思ったのは、そのユキちゃんのこともあったんだ。名前問題、一条くんと早瀬さん事件のほうが大きくて、なんだかそっちは忘れてしまっていた。なんかもういまとなってはそんなことどうでもいいような場所に流れていってしまっているというのか……。

 フィクションであろうがなかろうが、そんなこととは関係なく、モノゴトはアレのせいで急激な流れを見せて、こうやって旅に出ることになってしまった。アレがこの世にどんな形であれ存在していたからこそボクはこの場に立っているのだ、たぶん。

「べつにあの……、その話はもう……、え! もしかしたらこれがそのユキちゃん?」

 鈍いボクは途中で気付いた。そうか、この本の中に出ているのか、あのユキちゃんが!

「そうだよ」

 そうしてボクの手の中の4冊から新しい一冊を取り上げた。

「この本はシリーズになっていてね。ユキちゃんはこの3冊目から登場するんだ。それでね、舞台は国立市とか谷保天満宮とかなんだ。ここから5つ、6つめ向こうの駅だね。この辺りと言えばこの辺りかな。多摩だからね」

 そしてセンパイは、その件の文庫本を一番上に表紙が見えるように置いてくれた。マヌケなボクはいつまでも残りの文庫本を両手に乱れて置いているだけだったから、センパイはそれも積み直してくれた。

 表紙が見えた。ドキッとする絵だ。ショートカットの女の子の半分は制服で、残りは裸で描かれている。題名は『カーニバル・ナイト』と書いてあった。その上には「妖精作戦PARTⅢ」となっていた。

 もしかしたらこれがユキちゃん……? ボクも漠然というか自然にユキちゃんのイメージは長門だったわけで……。

「ほんとうは全冊、古いソノラマ文庫であげたかったんだけど、面白いものを見つけてね。その創元文庫版のほうの解説を書いているのが『涼宮ハルヒの憂鬱』の作者なんだ」

 だから新刊なんだ。なんだかありがたいことだ。ほんとうに。ボクの言った小さなことを覚えていてくれて、そしてこうやって答えを出してくれるなんて……。なんか感動する。こんなこと初めて……。

「センパイ、旅のあいだにこれを読みたいと思います」

「うん。そうしてくれると嬉しいよ」

 静かに穏やかに笑っているセンパイを見ていると、なんかこう胸が締め付けられるみたいで……。こんな優しさを受け取ったことがいままでなくて、いや優しさだけじゃなくて、本をもらっただけなのに、なんか違う別の大きななにかをもらったみたいで……。

 そしてまたあの気分……、このまま旅になんて出ないで夏はセンパイと一緒に仕事していたいと思ってしまった。

 ボクはいただいた4冊を近くに立てているバイクのサイドバックに丁寧に仕舞った。

 よし! じゃあ、早速バイクを置いてこよう。そして素早くバスに乗って……、そうだ、お店の場所を聞いておけば、先にそっちに行ってもらって……。

 あ、そうだ。これも言わなきゃ。

 この旅から帰ってきたら、センパイとツーリングに行きたい。それこそ本の舞台、そしてアレの舞台となっているなんとか神社にでも行きたい。帰ってきたコウハイちゃんを後ろに乗せてあげて一緒に行ってもいい。3人が休みで都合のいい日を聞いて……。

「あのセンパイ、ボクが旅から帰ってきたら、9月でいいんですけど、あの、その、バイクでこの本の聖地巡礼というか……、行きませんか?」

 それを聞いてセンパイはとてもとても静かに笑った。静かすぎて、まるで時が止まったみたいだった。寂しい感じがすごくした……。

「ごめん、これも言ってなかったかもしれないね。僕は8月いっぱいでこの仕事を辞めるんだ」

 え?

 え、なに?

 急になんだか世界がぐるぐるしだした。暗くなった世界が回り出して、いるような……。

「大学時代の先輩に誘われて……。最初は契約社員からなんだけどね」

 ちょっと……、ちょっと、待って!

 ウソでしょ……?

 悪い冗談はやめてくださいよ、センパイ。笑えないですよ。

 笑えないですょ……。

 …………。

 …………。

 センパイが……、いなくなっちゃう……。ほんとに……?

 ほんとに!

 なんか急に汗が出てきた。不快極まりない全身の汗。べとべとしててボクを絡め取るような汗。そして熱い空気。イヤだ……。

「むかしこの図書館で一緒に働いていた人にこのことを話したら送別会をしてくれることになってね。その時に君たちの話をしたら、じゃあ旅立ちの会も全部一緒にやりましょうってことになったんだ。ちょうど君にその人を紹介したかったんだ。たぶん僕なんかよりも話が合うと思うよ」

 なんだかセンパイの声が遠くに聞こえる。なにがなにやらなにもわからない。

 センパイがいなくなってしまう。センパイがいなくなる。センパイがいなくなっちゃう!もう一緒に仕事ができなくなってしまう。もう会えなくなってしまう。そんなの、そんなのイヤだ! イヤだ! イヤだ!

「センパイ! センパイはこの図書館に永久就職じゃなかったんですか……」

 なんだかわけのわからないことが口から出てきた。センパイが苦り切った笑いをするのがわかっているのに、そうしてしまった。

「いや……、できればそういう選択もあったのかもしれないけど。仕事は楽しかったからね。君たちと話しているのも楽しかった。ただ色々あってね……」

 センパイは頭をかいてごまかしている、ように見えた。そこまで提督のマネをしなくたっていいのに……。

 いろいろって……、なに? いろいろって……、どういうこと? センパイの後ろには大きないろいろがあって、それが流れを作り、そしてその流れがセンパイを図書館から違うところへと押し流そうとしている。そうなのかもしれない。ボクには推し量ることなんかできない、いろいろ……。

「あ、来た来た。君に紹介したかった人だよ。彼女もアニメ好きでね。たぶんきっと馬が合うとおもうよ」

 図書館の従業員出入り口からスラリとした美人が現れて子どものように大きく手を振った。サブチーフと違って、なんだか光輝くような感じだ。いつも軽快で、そして怖いモノ知らずな感じ。全力疾走が似合っている。

「やあ、待たせたね、シショー」

「シショーゆうなよ。カタカナは尊敬してる言い方じゃないんだよ。だからといって別に尊敬はしなくてもいいんだよ」

「そんなこと! ちゃんとソンケーしてるよ。チーフとサブチーフには挨拶してお菓子おいてきたから。もう用事はおわり」

「あ、そうか。そのための挨拶か。内定取れたんだって、おめでとう」

「余裕余裕」

「今日は早○さんは?」

「なんかまた旅に出たみたいなんだよね。誘ったんだけど、また○○のところみたい……」

「そういえばあまり連絡……」

 なんかいま……、よく聞き取れなかったけど、なんかの単語が引っかかった、ような……。なにかそれはひどく重要で重大で、ボクの立ってる場所を根本的にひっくり返そうとするなにかに思えた。

 なにかは……、いろいろななにかは……、頭の中でぐるぐるグルグル浮遊して、グニャグニャまわり続け……、そして唐突にビューッと音を立てて頭の中の一カ所に集まってきた。形をつくりだそうとしている。

 親しげに話すセンパイとその女の人を見ていたら、意味のある単語が浮かんできた。

 もしかしたら、もしかしたらだけど……、

 アレを書いたのは……、センパイ?

 ……ありえるのか? ほんとうにそうか? それはただ単にボクの妄想じゃないのか。センパイがいなくなる不安が起こした。

 でも……。もしかしたら……、

 もしかしたら……、

 ありえるのかもしれない……。

 そうかもしれない。そうなのかもしれない。そうであるのかもしれない。

 ……ちょ、ちょっと待って。待って待って。あまりにも納得の仕方がスムーズで、自分の考えなのに狼狽えてしまった。なんだか謎が解けたようなしっくり感がある。ダメだダメだ、流れのまま流されては……。立ち止まって考察を加えないと……。

 センパイには確か……、小説を書いているという噂があった。そしてアレはフィクションじゃないかとボクは思った。ユキちゃんのことにしてもそうだ。答えを探してくれたんじゃなくて、もしかしたら初めから知っていたということでは……。

 ホントに? ホント、ホント、ホントだったら……、どうしよう。

 心臓がドキドキというかドクンドクンと早く強く打つ。頭の中がその鼓動でいっぱいになってしまう。でもヘンに冷静なボクいて、この夏の空気は熱いな、とか思ってる……。

「バイク置きにいく? それともチーフに言ってくるから一晩ここに置かせてもらうかい? あ、でも新しそうだから心配だよなあ」

 ボクは返事できない。なにもできない。いや、もうホント、ダメだな……。どうしよう。

 グラグラした頭で出した答えはこれだった。

「あ、す、すいません……。せ、せっかくなのですが、今日は、もう、帰ります……。き、近日中に旅立つもので……」

 なんだか自分の体なのに自分じゃないようで、カキンコキンで、上手く言葉が出ていたのかもアヤシイ。

 でも……、でもでも一刻も早くここから立ち去りたかった……。早く、できるだけ早くここから離れて、そして一人でよく考えたい。考えてみたい。考えて考えて考えて……、でもそしてどうするんだ? どうなるんだ? それはわからないけれど、でも考えていたい。

「あ、ありがとうございます。大事にします」

 ぺこりと頭を下げると、もうあとはなにも考えないようにしてヘルメットを素早く被った。もうこれでセンパイの顔もよく見えなくなったし声も聞き取りにくくなった。これでいい。これでいいんだ。センパイはなんか言っていたけど、隣の綺麗な女性もなんか言っていたけど、もうなにも入ってはこなかった。

 ボクは夢中で用意して、キック一発でSRのエンジンをかけると、そのままなにも言わずに走り出した。

 さよならも言わなかった……。


 少し薄暗くなっていた。

 走り出すと空気は風になって涼しかった。

 上着も着ないで走っているからかな。汗まみれだったからかな。

 頬も目元も涼しくて、それは汗のせいばかりでないのはわかっていた……。



 ……ホントだ……。

 こうやって目をつぶって立っていると……、水の音に包まれている、ようだ。

 浮遊感……? 世界が水音だけで構成されているようになって、ボクはどこでもないようなところに放り出されてしまったみたいに。目を開けたら異世界かも、なんてあり得るかもしれない。

 …………。

 …………。

 ……いやいや、これが当たり前だ……。

 目の前の世界はやっぱり現実だった。

 夏の朝、神社の前、池の上にかかる赤い橋の上……。

 むかし二十号だった道を走って、その道沿いに鎮座する谷保天満宮に来ていた。けっこう早い時間帯だったからなのか、すいすいとここまで走ってこれた。だからこの場所はとても静かだった。いま水音だけしかしないのは当たり前だった。

 旅立ちの日に、まず最初に訪れたい場所はここだった。ここがアレの通りなのか、是非とも見てみたかった。いや見るだけじゃなくて、同じ場所に立ってみたかった。同じことをしてみたかった。そうしたらなにか霊感のようなものを感じるかもしれない……。

 あれから……、センパイから本をもらった夜、いっぺんに4冊読破してしまった。もう一心不乱で、時を忘れるとはこういうことなのかと妙に感心した。読み終わったのは翌日のだいぶ日が昇ってからで、そこから少し眠って、起きたら3巻だけもう一度読んだ。体はフラフラになったけど、頭は妙に冴えていて文章を読むはしから頭の中に映像がわーと押し寄せてきた。

 その時から、ここは是非とも訪ねてみたい憧れの地になった。

 ほんとうは国立の街をいろいろと散策してみたりしたかった。あの本の舞台でもあるし。でも旅の途中だから後日のお楽しみにすることにした。アレの舞台である立川から玉川上水駅、そして東大和市駅っていうのもできれば行ってみたいな……。

 この神社に到着して、鳥居の横の駐輪場にバイクを置いて、参道を行くと石段をコの字に降りることになった。まずは大きな本殿にお参りをした。

 そして……、左奥に向かうと……、

 あった。池だった。そして小さい社だった。

 石造りの鳥居をくぐって、橋を渡り、女神さまにお参りした。そうそう百十五円も忘れなかった。ゆっくりお参りした。旅の安全とかセンパイの就職が上手くいきますようにとか、いろいろなお願いが頭を巡った。

 でも最後にはありがとうと感謝した。

 よく考えてみると、この女神さまが旅に誘ってくれたようなものなのだ。二人とも無事に旅に出れたのも女神さまのおかげなのだ。いや一条くんは出られたのかどうかは知らないけど……。センパイのことだから旅に出る前に終わるのが粋だとか思ったのかな……。

 そのあとだった。とうとう橋の上で目をつむってみた。なるほどなるほど、そうかそうか、こういうことであるのか。

 水の音しか聞こえてこない。水の音の上に浮かんでいるような感覚。

 でもそれだけだった……。なにも起きなかった。なにかが起きそうな気配すらなかった……。当たり前か……。

 そう思ったからか、違う音も混じっているのに気がついた。まずは蝉の声だ。あの話では聞こえていなかったものだ。そして遠くからする車の音。かすかに人の声みたいなもの。そんなに神秘的ではなかった……。ここはやっぱり現実の一部……。ガッカリはしなかったけど、少し気落ちして目を開ける。やっぱりここは現実だった。それを確認した。

 ついでに水音の元も確認する。橋の近くに池の水が流れ落ちている場所があるのを見つけた。たぶん水音の元はここだろう。

 ……なんか別になにかを確認したいわけじゃないんだけどな……。相違点を見つけたいわけでもないし……。でもなんだか楽しい。この場所を実感する作業が楽しい。しばらくそれに没頭する。鯉がばしゃりと水の上に跳ねるのを見つけた。亀がただゆらりと浮かんでいるだけなのを見つけた。

 水の流れ出ていく先を追いかけてみた。近くにある大きな鳥居から敷地外に出てみると、小さい水路があってそこに流れ出ていた。その水路の近くには掲示板が立っていた。そこにはほんとうに古い映画のポスターが貼ってあった。今回は『二十四の瞳』だ。近くの図書館が映画会を催しているようだ。

 ほんとうにあったことなんだ……。もしかしたらほんとうにあったことなのかもしれない。ほんとうのことだった……?

 呟きながらまた橋の上に戻っていった。その間も誰にも会わなかった。不思議なことだ。アレの中に出てきたあの人、自転車のあの人でも表れないかな……。ブレーキ音を響かせて坂を下りてこないかな……。

 でも一人きりだった。独りぼっちだった。一人で橋の上から下の池の水面を覗き込んでいた。

 なんだかやっぱりユキちゃんが似合うな。こうしていたのかもしれない。和紗結希少尉か……。悲しい人だった……。でもでも長門有希ちゃんでも似合ってるかもしれない。この池を物思いにふけりながら見ていたのは……。それも絵になる。画が浮かんでくる。いやいやいや、もっと言ってもいいなら、もしかしたらファーストチルドレンでも似合うかもしれない。あの物憂げな眼差しは絶対に似合う……はずだ。

 あーあ、言いたかったな……。ホント、語りたかった。いや語り合いたかったな……。そうだねえ、なんて頷いてくれたような気がするな……。

 センパイに、ここへ来たことを報告したい。報告して、ボクが感じたこと思ったことを話したい……。そしてセンパイの意見や考えを聞きたい。それにうんうんと頷きたい。

 そしてそして……、

 アレはセンパイが創ったんですよね?

 軽く尋ねたい……。笑って「ばれたか」と言うのかもしれない。あーあ、もう旅なんかやめて戻ろうかな……。誰かの穴埋めでバイトは出られるような気がするし……。

 …………。

 …………。

 ……それが、できればなぁ……。そんなのダメに決まってるじゃんか……。この旅をちゃんと終えることができないと、センパイと再び相まみえることなんてできない。

 センパイは……、たぶんだけど、センパイにしか語ることができない言葉を話している。だからこそボクだけじゃなくて、みんながその言葉を聞いてくれるし聞きたいと思ってくれる。そしてその言葉を聞いた相手がその言葉を咀嚼というか吟味してしまうところがある、と思う。

 コウハイちゃんも、センパイとは方向性が違うかもしれないけれど、自分の言葉というモノを獲得しようともがいているように見える。ほんとうに持てるかどうかは本人のこれからにかかっているのかもしれないけれど、でもボクはできると見ている。コウハイちゃんはそれに向かってひたむきに走っているから。転んでも走るのを止めないから。

 いままでのボクには……、それがない。残念だけどそんな言葉を得ることができてはいない。ボクという人間の言葉なんて誰も聞いてはくれない……。ボクには語るべきなにものも持ってない……。まあ、それはみんなに聞いて聞いてっていう欲求が重要ではないと思う。聞いてもらえるにこしたことはないけど、それよりも自分の話す言葉を自分でどう思うのかが重要というか……。

 ああ、またなんかいつものように混乱している。いつもこうなんだ。こうやって頭の中だけで考えている限り、なんとなくしかわからない……。なんかこう、手で掴んでいる、その実感が欲しい……。

 だから旅なんだ。

 たぶんボクの目の前にあらわれた唯一の実感なのかもしれない。ボクが手に掴むことのできる唯一の言葉なのかもしれない。

 池を覗き込んでいるボクの顔がゆらゆら歪んでいる。水面に映る像を赤白の鯉たちが尾ひれで蹴散らしている。考えてばかりいるボクの頬をビンタでもしているみたい。

 ここでアレのボクもいろいろと考えていた。たぶんあそこで書かれている以上のことを考えていたにちがいない。なんかこの場所は悩み人に考えを巡らさせるような磁気フィールドでも張り巡らされているのかもしれない。

 旅の第一歩を因縁深いこの場所にしてほんとうに良かった。いろいろと見て、聞いて、感じ取って、考えて……、こんな少しの時間でも得たものがあった。かな……。

 たぶんだけど、得たものが少しのものであったとしても、それが蓄積されて時が経ってなにかの化学変化が起きたら、それが言葉になるのかもしれない。そんな予感しかない。

 だからこそ、センパイと次に会うのは旅を終えてからじゃないとダメなんだ。少しでも蓄積されたものができたボクでないと……。

 あ、そうだ……。やっぱり……、コウハイちゃんにセンパイの連絡先を聞いておいてもらおうかな……。なんかあんなことやらかしてしまって……、ボクから聞くのはなんか恥ずかしい……。こんなことならバイトで一緒のときに聞いておけば良かった。いつでも会えると思っていたし、あらためて聞くのもなんかなんか恥ずかしくて……。コウハイちゃんのことだからもう聞いているかな……。

 ジャケットのポケットからスマホを出して、コウハイちゃんにその旨を連絡しておく。ま、コウハイちゃんには借りがいっぱいできた……。無事に帰ってきたら、なにか奢ろう。

 …………、

 …………、

 なんか、あの時の情景が頭に浮かんできてしょうがない。ホントにやっちまったって感じだ……。

 センパイとあの人。センパイが紹介しようとしていた溌剌とした美人。目に輝きがあって、それがコウハイちゃんと違って勝ち気な雰囲気で、でもそれが魅力的な感じで……。センパイの彼女なのかな……? なんかセンパイのことをシショーとか呼んでいたけど……。センパイってなにげにモテるよな……。モテるというのか、慕われるというか。コウハイちゃんも心酔しているみたいだし……。

 ぴこーん!

 !……。

 コウハイちゃんからの返事が来てびっくりした。こんなに早くに起きてるなんて……。起こしたか? なんか悪かったな。なになに、旅から帰ってきたらみんなで祝勝会をしますって書いてある。なんの祝勝だ? このまえの旅立ちの会のリベンジです、と書いてある。なんだかなあ。それでセンパイのメールアドレスが添えてあって、それを見ているとなんだか少し落ち着いた感じがした……。

 ……当たり前の話かもしれないけど、やっぱりこの程度の時間いただけじゃアヤシイ人なんて現れたりしなかった。わかっていたことだ……。そういう小さい奇蹟みたいなことがあってもいいのに……。なんだか少しおかしくなって笑った。慌ててヘンに思われてないか周りを見回したけど、やっぱり人なんか見かけなかった。

 ボクは肩をすくめて、でもその肩がなんか軽くなっていたから旅を続けようと思った。

 女神さまにあらためてお辞儀をした。

 そして池をあとにして、本殿に戻り、石段を昇っていった。

 夏は夏らしくて、熱い。急に暑くなってきた。夏の一日が始まったように感じる。熱い空気と蝉の声に包まれる。

 なんだか今朝出発したばかりとは思えなかった……。もう旅をして何日もたっているかのような気分だ。

 旅立ったのはたった数時間前のことだ。

 朝は4時頃、自然と目が覚めた。興奮して眠れなかったわけじゃなくて、自然と眠くなって目をつむり、起きたらその時間だった。

 居間に降りていくとお母さんとオヤジはもう起きていた。じいちゃんはいつものように趣味の畑に出ていた。身支度ができた頃には、すごく早い朝食も出来上がっていた。普段となにも変わらない朝食を食べた。最終的な身支度も終わって……、いや持っていくモノの最後の確認というか、いざ出発というときになって普段とは違ったものになった。

 ヘルメットも被りグローブも付けて、キック一発でエンジンをかけた。

 その時になって、お母さんもオヤジもおじいちゃんも外に出てきた。近くに住んでいる従兄弟のユータまでやってきた。出発の瞬間まで盛大にお見送りをしてくれるようだ。過保護か! とツッコミを入れたくなった。お母さんなんか涙ぐんでいる。まったく腹立たしい。おじいちゃんはなんか万歳しそうになってユータに止められていた。ユータ、サンキュー。まったく恥ずかしい。オヤジはサムズアップをした。旅立ちの用意を手伝ってくれたから、しょうがないから同じのを返した。恥ずかしいな、もう……。そんなビミョーな空気の中でバイクを発進させた。

 ボクは旅に出た。

 いつもの道を走り、いつものじゃない道を走った。

 やっぱり簡単なことだった。

 旅に出ることなんて容易いものだ。

 旅とは……、たぶん終わって無事に帰ってくることが旅立つことよりも何十倍も意味のあることだと思う。

 …………、

 …………、

 そう無事にバイクのところまで戻ってきた。小さな小さな旅だったけど、これは意味のある旅で、バイクのところまで神隠しに会わずに異世界に召還などされずに戻ってきたことに意味がある。これで大きな大きな旅に出られることになるんだから。

 ヘルメットホルダーにかけていたヘルメットを取って、荷物がちゃんと積んであるのか確認した。よし、大丈夫だ。ハンドルに付けてあるクランプにスマホを取り付けてアプリを起動させた。昨日ルートを指定しておいた。いちおうこれに従っていくことにしている。

 この旅には二つ目的地がある。

 近い方から言うと、一つ目は栃木県足利市。二つ目は山形県にある羽前成田という駅だ。

 栃木県足利市はついでというかおまけというか、おじいちゃんが強く勧めるから行くことにした。よくよく話を聞いてみると、ウチのご先祖さまは元は足利の人で例幣使街道を通ってあの場所にやってきたらしい。なんか足利学校の初代校長と縁があるとか……。よくわからないけれど。

 縁も所縁もあるにはあるけれど実感がない。ただどんな景色なのか見てみたい気がする。自分の中にあるDNAの螺旋の構成要素にはその土地の空気や水や大地が元になっているみたいだから。

 そして二つ目、これがこの旅の本命の目的地だ……。

 山形県長井市にあるフラワー長井線という列車の駅。

 羽前成田駅。

 ここはボクとはなんの繋がりもない場所だけど、興味はとってもある。かなりある。ネットで調べてみた。とっても古い駅舎で大正時代のものだそうだ。ノスタルジックな雰囲気だ。でもあんまり鉄分が多くないから「ふーん」と思うだけなんだけど。

 興味は別のところにあるんだな、これが。この駅は、アレのボクが旅に出たら一番最初に行きたいと言っていた場所なんだ。実はボクはアレを読んでいる最中から気になっていた。「うぜんなりた」という響きがなんかいいと思った。それで心に残ってしまっていた。

 …………結局……、

 アレは見当たらなくなってしまっていた。読み終わってからはしばらくはあの机の上にあったのに。いつの間にかどこを探しても見つからなかった。

 だからほんとうに山形県長井市の「うぜんなりた」という駅なのか、確認のしようがなかった。ボクの記憶だけが頼りの状況は、ひじょうに頼りない。

 でも……、行ってみる価値はあると思った。そこに行って、そこに辿り着けたなら、なにか価値を得る、と思う。アレではボクはぐずぐずして出られなかった。でもこのボクはもう旅に出た。旅に出てしまった。一足先にこの駅に着けるのはボクなのだ。もしかしたらそこに着けるのはボクだけかもしれない……。

 …………、

 …………、

 パンチング加工が施されたグローブをはめて無事に準備が完了した。一連の儀式を行うとキックレバーを思いっきり踏み込んだ。るるるるる……。軽いエンジン音がする。今日は一発でかかることが多いな。順調順調。幸先がいい。

 ボクはゆっくりとSR400を動かして旧二十号へ乗り出した。元来た方向へと走り出した。

 ボクの旅がほんとうに始まった。



 旧二十号を走って、割とすぐに右折して立川方面に向かった。立川の駅前を抜けてモノレールの下の道路を走る。むむ、これは……、記憶ではアレのボクはモノレールに乗って下の道路を走るバイクを見ていたんだった。それはボクなのか……。なんてね。

 立川から東大和に入る。おお、あの玉川上水駅の横を通り抜けた。東大和市駅まで行ってみたい欲求があるけれど、今回は時間がないので、このまま進む。

 モノレールの終点の上北台駅を越えて、新青梅街道を横断する。ここも大きな道だ。この道もなんかまだ早いかも……。新のついてない青梅街道を左折して、少し走り右折して山道を通ると、多摩湖を渡る道にでる。ここから西武ドームのわきを走り抜けて、所沢の行政道路のバイパスを西に走ると飯能にでるはずだった。……なんか複雑だけど……、ナビがあるから……、まだ大丈夫……。

 ……ほんとうは高速道路を走れば目的地まで早いのかもしれないけど……。この旅には大きな問題があることは初めからわかっていた。重大で深刻だ。いつかは乗り越えないといけないことぐらいはわかっているけど……。まだ決心がつかないというか、まだもう少し先延ばししてもいいかなとか思っている。

 まだ高速道路に乗り上げたことがない。バイクで走ったことがない。正直言って怖い……。とっても怖い……。情けないと自分でも思っているけれど、どうしようもない。

 それに加えて片側二車線の道路を走るのも怖かった。地元の二十号や十六号は少し慣れたけど、それでもまだ緊張する。ほんとうは十六号をひたすら走っていくルートも考えたんだけど、まだいまは時期尚早かと思って却下した。足利に行く前にはどうしても大きな道路を走らなきゃいけないから、その頃までには慣れないといけないんだけど。慣れているはず。そう、慣れの問題だと思うんだけど。

 慣れれば、慣れることさえできれば……、もっと自由に旅をすることができる。旅の目的の一つにはそれもある。苦手なものをなくしていく。そして余裕を手に入れる。センパイなら、必要があれば高速をパーッと走っていくだろうし、あえて下道を選んでその土地土地の景色を堪能したりするのかもしれない。少しでもその境地に近づかなければ……。

 最近はだいぶ車の流れに乗れるようになってきて、少しはSR400を操れているのかなって気持ちになっている。この旅もそういう気分が継続するようにしていかなければ。

 なんかここまで走ってきて、のろのろだったから車に抜かれまくり、緊張で手の汗とか肩が張って痛くて気持ちが挫けかけた。

 でも飯能を抜けて宮沢湖のわきを通る辺りでは、緑の中を走る道で気分が良くなった。その後は八高線沿いに高麗川駅の前を通り、越生を抜けて、熊谷、東松山森林公園方面に入っていった。

 群馬県に入って太田市、桐生市を抜ける辺りになって、コンビニでウダウダ休んでいたら急に雷が鳴り出して酷い大雨に遭遇した。三十分ほどコンビニの休憩スペースで休んだら晴れたので、これもいい気分転換になった。北関東のこの辺は雷が多いとオヤジは言っていてほんとうだった。

 桐生市を抜けて鹿島橋を渡ったら、やっと栃木県足利市に入った。けっこう遠いな。もう時刻は午後三時を大幅に越えていた。怖くて疲れたのもあって、途中お昼休みやコンビニ休憩が多かったからこんなものなのかも。あんなに休憩を入れたのに、足利市の標識が見えたときはホッと息を吐くのもつかの間、背中に今まで感じたこともないような疲れに掴まれた感じになった。まったくこんなんでやっていけるんだろうか……。

 足利市には知っているところなんてぜんぜんなかった。先祖がここから出たというだけだから親戚だっていない。いや居るのかもしれないけど、たぶん遠いものだと思うしどこにいるのかもわからない。でも事前にいろいろ調べたところ行ってみたい場所があった。

 渡瀬橋だった。あの歌に歌われた渡瀬橋だった。なんか近くには歌の記念碑みたいものが建っているみたいだから、とりあえずはそこを目指そうかと思う。

 ずっと見も知らない街ばかりを走ってきたせいか、足利の街中をこうやって走っていてもなんの感慨もわかなかった。でもやっとナビを頼って走る走法が板に付いてきた感じで、目的の場所までは楽に行くことができた。

 碑の前で休憩した。センパイに特別に注意されていたから水分はちゃんと取るようにしていた。近くの自販機でスポーツドリンクを買った。

 歌詞の通りに夕方までいて夕日を眺めてみるのもいいかと思ったけれど、たぶんそこまではいられないな……。

 もっとこう、なんというか、感激すると思ったのにな……。

 初めてバイクで遠い目的地に着いたんだし、とっても微かなものだけどボクとも縁がある地に着いたんだから、涙くらい出るかもと思ったのに……。心はなんだか平坦だった。平坦すぎて、少し笑ってしまった。

 なんだ、こんなものか……。目的地に着いたのに、目的地に着いたと思うだけだった。ただ見知らぬ場所に、違う場所にボクは立っている。それだけだった。

 それよりもここから数十キロ先にあるオートキャンプ場が今日キャンプするところで、その心配というか不安というか、それが心にずっと重たくある。

 そっちに気をとられてしまって、少し休んだら「もう、いいか」ってなった。ボクの体内のDNAは戻ってきたというのに醒めてるのかなんの反応もしない。

 最後は鉄橋のような渡瀬橋を渡っていくことにした。鼻歌でも歌いながら。



 なんか疲れたな……。

 だるい……。手ぇ痛ぁ……。

 一仕事終えたからなのかな……。力が抜けてしまって疲れがドッと出てきた……。いやドッとどころじゃなくてドカドカと……。こう背中とかお腹とか股の内側とか、だるいし痛い。いろいろ微妙に混ざりあって精神を攻めてくる。特に酷いのは左手首。なんか千切れそう……。クラッチレバーを握りこんだり離したりを繰り返したせいだ。筋肉痛の酷いヤツで痛くてどうしようもない。

 これじゃ……、明日はヤバイな……。どうしよう……。ドラッグストアとか近くにあるだろうか。筋肉痛の薬ってあるのか……?

 さっき組み立てたばかりのアウトドア用のつり下げ式チェアに座り込んでいる。もう座り込むだけ。動けない。座るというかしがみついている感じ。これしかできない。

 オートキャンプ場に着いて、管理事務所で手続きとお金を払ってからバイクでキャンプサイトまで移動した。

 木が適度に植わっている林の中で、少し行くと小川が流れている場所だった。けっこう良い位置だったから、その時はキャンプの喜びを噛みしめた、のは早かったかも……。

 なかなか盛況のようでけっこうな数のテントがある。車やバイクで来ている人も多いみたい。早めに予約しておいて良かった。

 最初のキャンプ場は、こんな感じの場所に決めていた。ちょっと料金はお高価いものだったけどテントサイトまでバイクや車が乗り入れることができて、ネットで見ても安心できる気がした。バイクと離れるのはやっぱり不安がある。

 それに初日だから静かすぎるようなキャンプ場よりは、設備の整った多少にぎやかな場所のほうが不安が解消されるというものだ。お母さんもおじいちゃんも、オヤジでさえも少しくらい高くてもいいから管理のちゃんとしているところにしなさいと厳命してきて、ここはその点でも安心させることができた。

 右隣にはもうテントを張っている人がいて、どうも古い車で旅行をしているようだ。着いてすぐにキャンプの本にマナーとして載っていたから、一声挨拶をしてからテントの設営を始めた。

 テントを組み立てて、ペグを地面に打ち込んで張り綱をした。テントとバイクを覆うようにタープを張った。小さいテーブルを組み立ててイスを組み立ててから、テーブルの上にバーナーとランタンを出した。そんなことしてたら多少は明るさが残っていた周りは、どっぷりと暗くなってしまっていた。ふと気付くと、暗い中にいたのだ。なんか暗くなると、にぎやかさも遠くにあるように思えた。気の早い虫の声がしているからかな。いやそんなに気が早くないか。夏だというのにこの辺りは割と涼しい。

 急に自然を感じられるようになって、精神もゆるみがちになってしまった。さてさて少し休むかな、とイスに腰を下ろしたら、もう体はだらけてしまって動こうとしなかった。

 急激に痛みとかだるさが頭の中で明確な位置を占める。目が開かない……。さっきからお腹が鳴っている。でも動けない。ゴハン食べたい。でも動けない。作りたくない。

 あ! そういえば地元の食材でも買おうかと思っていたのに、うっかり忘れてた。どうしよう……。朝食用に食パンを持ってきているからそれを食べれば……。乾燥パスタも持ってきているから無理すればバターしょうゆのパスタくらいは作れるか……。なんかメンドクサイ。美味しいゴハンが食べたい……。

 温かくて、美味しくて、お腹にたまる感じのものが食べたい……。お腹空いた……。動けない……。お腹空いたな。動くのイヤだな。

 なんか情けなくなってきた……。最初からこんな体たらくなんて……。涙が出てくる。できると思ったのに。なんだこれ。ぜんぜんダメじゃん。

 頭ではもっと違う旅が描かれていた。空想の中ではちゃんとできていたのに。地味だけど滋味で美味しいものを作って食べて、そして一人でいる時間を楽しむ。そんな夜を満喫する。それができるボクだったはずなのに。ボクはそういう人間だと思ったのに。

 なんだこれ? バカじゃないのか……。

 イスに座り込んだまま、それこそウダウダしていた。いやイジイジしていた。このまま寝てしまおうかな。疲れてるし……、痛いし……。そうしようかな……。

 コトリという小さい音がした。なんだかいい匂いがする。なんだ、なんだろう……。

 目を開けて顔を上げて、音がしたほう、テーブルのほうを見てみた。隣のサイトからのぼやーっとした灯りに照らされて見知らぬ男の人が立っていた。

 !

 勢いよく背もたれに預けていた上半身を起こした。見知らぬ男の人は笑っているようだった。薄暗くて顔は見えなかったけど、そんな雰囲気だった。

「これ、いま淹れたんだ。飲んでよ」

 なんか聞いたことある声だ。ボクは慌てて額に付けているヘッドランプのスイッチを入れた。そしてテーブルの上を照らしてみる。そこには金属製のマグカップがあって、中にはたぶんコーヒーが入っている。匂いからするとそうだ。でもずいぶん茶色い。

「カフェオレだよ。お近づきのシルシにね」

 見知らぬ男の人は自分の手にもカップを持っていて、それを乾杯でもするように目の前にあげた。そうだ。思い出した。お隣さんはこんな感じの男の人だった。

 これはなにかな……。同じキャンパー同士の気安さってやつなのかな。その自然体の振る舞いが、こんなこと日常茶飯事でなにも特別なことではないということを、主張していないのに主張している感じで、なんだか憧れてしまう。

 そうだ。そうだ。たぶんこういうさり気なさがなんかセンパイに似ている。声のトーンは低くてセンパイよりも大人っぽい感じで、だからセンパイよりも年上なのかもしれない。

 この暗さだとライトを当てないと顔とか表情はよく見えないけど、さすがにそれは失礼だからヘッドライトは消した。さすがに顔立ちまでは似てないだろうけど、センパイに少し似ているキャンプ場の先輩にお礼を言った。

「ありがとうございます。いただきます」

 向こうもボクの表情なんてわからないはずだからできるだけ丁寧に聞こえるようにした。

 コーヒーは苦手だけど、まだカフェオレなら飲めなくもない。いや……、今日のこの匂いはなんか堪らない感じ。フラフラと手に取った……。早く飲みたい。

 カップに口を付けて、その温かくて甘い液体が口の中に広がった。コーヒーと牛乳の甘い香りが鼻から入ってきた。もうこれだけで幸せな気分になってしまった。ホッとする。舌の上ではさっきから甘い液体が踊っていて、飲み込むと体にじわーと染みこむ。また一口、一口、一口……、ごくごく半分以上いっきに飲んでしまった。

「うまいだろ? やっぱキャンプはコーヒーだな。これはカフェオレだけどブラックもいいぞ」

 キャンプ場の先輩の意見には大量の賛成票を投じたい。今回はじめてわかった。コーヒーがこんなにも美味しいなんて。おいしい、おいしい、おいしい。

「きみ、あんまりキャンプしたことないだろ? 遅くに来たのに悠長にタープまで張ったり、イスやテーブル組み立てたりして。それに食事の用意しないでごろごろしてたり。なんか食べてきた……ってわけでもないようだし」

 ちょうどいいところでボクのお腹がぐーぐー鳴り響いた。恥ずかしいな、まったく……。顔が見えなくて良かった。ホントに。

 初心者扱いされてしまったけど、なんか怒る気になれなかった。こんな状態のボクはカンペキに初心者だ。オオバカだ。恥ずかしい人間だ。なにがアドバンテージがある、だ。初心者も初心者、初心者レベルマックスだ。

 カフェオレのせいかもしれない。なんだか自然に素直になった。

「そうかもしれません……。小さい頃にキャンプとか割としてたんですけど……。バイクで旅するの初めてで……。なんか予定と違っちゃって……」

 男の人はバイクと近くのテントとかタープとか見てうんうん頷いていた。キャンプ道具とかも見て、またうんうん頷いた。

「旅か……、旅だよね……」

 どっかで聞いたことあるような言葉を呟いていた。

「ちょっと待ってて……」

 言うとキャンプ場の先輩は自分のテントサイトに戻っていった。なんだ。なんだろう。なんかヘンなこと言ったかな……。

 でもすぐに戻ってきた。

「はい」

 テーブルの上になにかを置いた。

 今度は立ち上がってまたライトを点けてテーブルの上を見てみた。そこにはレトルト食品のパックが二つ置いてあった。これはお湯の中に入れて温めてお皿に出せば食べられるものだ。ライス入りのドライカレーと本格的なビーフシチューだ。

「長距離を走ってきた時は疲れるからね。ご飯作るのめんどうだろう。食べてくるのもタイミングが悪い時もあるし。だからこういうのを常備しておくといいよ」

 ああ……、なんかちょっと……、目なんか霞んできてしまって……。このちょっと気の利いた経験上の知恵が嬉しい。そんなことも知らないで上級者ぶっていたボクのバカさ加減にも涙腺が……。キャンプ場の先輩だけでなく、この男の人はキャンプの先輩でもあり、そしてそして旅の先輩でもあるんだ。ボクは先輩運だけはあるのかもしれない。

 今度もボクはきちんと頭を下げて、この二つの食品をいただくことにした。早く食べよう……。もうお腹が空きすぎてツライ。さっきからぐぅぐぅなきやまない。

 そこで思い出した。動きがピタッと止まる。あ! あ! 肝心なことを忘れていた。水を用意してなかった。水なんかそこら辺で買えばいいかと思ってたから……。買ってない……。しょうがない。炊事場に行って水でも汲んでくるか。それとも管理事務所にあった売店で買ってこようか……。なんかどっちも遠いな。急にこのサイトがいい場所じゃなくて、不便なところに思ってしまう。人間ができてない。肩がしょんぼり落ちてしまった。用意できていない自分の不甲斐なさもそうだけど、上手くいかないことがあるとすぐにいままでいいと思っていたこともダメに思ってしまう品性のなさが、イヤになる。

 しょんぼり立ち上がったときに、また自分のサイトに戻っていた旅の先輩がやってきた。手にはペットボトルの水とウチにもある有名なホワイトガソリンのランタンを持っている。おお、なんというのか、これは神レベルの対応だ……。申し訳ない……。

「たぶん初心者ってのは誰もが同じようなことをやらかすんだ」

 ランタンの光で初めて見た男の人の顔はニヤリと笑った顔だった。



 今度は大爆笑されてしまった。そんなに笑わなくてもいいのに。傷つくよな……。

 確かにトンチンカンなことをしていたのかもしれない。お湯を沸かそうと持ってきていたガソリンバーナーに火を点けようとしたら、練習ではちゃんと火が点いたのに……。本番なのにいくらやってもダメだった。これはあれを使うべきときだと啓いて、ウエストポーチに忍ばせていたジッポーをおもむろに取り出した……。

 それを目撃した途端、旅の先輩は腹を抱えて笑った。それだけじゃなく、ジッポーは危ないからと言われて火の点く先が長くなった使い捨てライターで簡単に火を点けてくれた。

 ほんとうに恥ずかしい……。言い訳をさせてもらうと、練習のときには点いたんだから、これは旅の先輩がおもしろ半分に見ていたからだと思う。いや、これも性格悪いな……。恨みがましい目で見ていたからなのか、笑うのは止めてくれた。もしかしたら笑い疲れただけかもしれないけど。

 それじゃ、と言って旅の先輩は帰ろうとするのを、ここはやっぱり引き留めた。なんかさっきから失点ばかりで、ここは挽回をしたかった。お礼とでもいうか……。奥の手じゃないけどボクの中では一番に旅の雰囲気を味わえると思っているものの出番のようだ。

「いろいろなお礼に、これ飲んでいきませんか?」

 サイドバックの中から取ってきてテーブルの上に置く。銀色の表面がバーナーの炎を映している。スキットルだ。この中にはオヤジが『いい酒』だと言っていたものを入れている。ほんとうはブランデーを頼んだんだけど、それよりもWILDLIFEには似合うからと言われたものだ。

 旅の先輩は面白そうにニヤリと笑った。なんかまたダメダメの醜態を笑っているのかもしれないけど……、今度こそは大丈夫。コーヒーと食べ物のお礼にこのいい酒とやらをご相伴にあずからせてあげよう。

 旅の先輩は愉快そうな足取りで自分のサイトからイスを持ってきてボクの小さいテーブルの向こう側に腰を下ろした。

 フィールドランタンの温かみのある光に包まれて、二人はテーブルに向かい合っている。テーブルの上のバーナーの炎が微かに光に温度を加えている。コッフェルの中の水が沸こうとしているからかな。夏だというのに温かみがいいなんて不思議なものだ。

 ボクはたぶん神妙な顔つきでスキットルの蓋を開けて、向こうが持ってきたカップとボクの自前のカップにいい酒とやらを注いだ。蓋を開けた瞬間から、これはお酒ですという匂いがした。鼻に来る感じだけど、これこそが旅を体現しているものだと思った。

 ボクは匂いだけでもういっぱいいっぱいな感じがしたけど、ムリヤリ笑って目の前にカップを捧げた。旅の先輩は苦笑だったけど付き合ってくれた。

 ゆっくりと舌の上で転がすように、とどっかの本で読んだから、そうやって一口含んでみた。

 ぐあっと口の中で広がるものが、いやこれは爆発だ!

 びっくりして、飲み込んでしまった!

 あっつい塊が喉から食道を通っていく。血が血管の中で爆発したみたいに胃から体全体に向かって駆けめぐる。頭がくらくら揺れる。ぐらぐらする。胃から逆流する感じになって咳こむ。ごっほっ! ごぼっ!

「大丈夫か?」

 一口飲んだ旅の先輩はふつうだった。余裕な顔している。涙目で悶えるボクのためにペットボトルの蓋を開けてくれた。その水を受け取って慌てて飲む。大きなペットボトルだったけどそのまま口を付けて飲んだ。ダメだ。それでも消えない。ますます熱くなる。

「おいおい大丈夫か。空きっ腹で飲むから」

 しばらくは水と共に過ごした。体がいうことを聞くまで水を少しずつ飲み続けた。

 なんだ、これは……。なにが『いい酒』だ。とんでもないものだ。あー、気持ち悪い。一口でこれなんて、どうかしてる。ぜったいこれはからかわれたんだ。そうに違いない。明日にでも文句言ってやる!

 ボクの具合が大したことないのが見て取れたのか、旅の先輩はまたカップに口を付けた。そしていかにも美味しそうに舌で転がして飲んでいる。

 旅慣れとはこういうものなのかもしれない。そうは思うけど……。まだ舌の上と喉に残る不快感を思うと……。旅には慣れたとしても、こんな『いい酒』には慣れないと思う。

 たぶんボクはこの旅の先輩にも、そしてセンパイにも遠く及ばない。いまのこの時もセンパイだったら提督にあやかって紅茶にブランデーを入れて飲んで歴史に思いを馳せていたことだろう。

 無様だな。いやになる。失敗ばっかり……。悲しくなることばかり。

「ほんとうに大丈夫かい?」

「はい……、なんとか」

 なんともなってないけど落ち着いてきたことには違いない……。

「あんまり酒とか飲んだことないのか?」

「…………」

「バーボンをストレートでなんて飲むもんじゃないよ」

「これって、……バーボンなんですか?」

「知らなかったのか? これは甘くていい酒だよ」

 知らなかった……。これがバーボンか……。確かに旅に似合う『いい酒』だ。オヤジ……、チョイスだけはいい。西部開拓者っぽくしてくれたのかもしれない。でもカップに残っていたバーボンの匂いをあらためて嗅いでみたけどムリムリムリってなった。

「飲めもしないのになんでこんなもの持ってきたんだ。お相伴に預かって俺得だけど」

 えーと……、たぶん旅と言ったらたき火の前でいい酒を飲むというのが定番というかなんというか……。せっかく旅に出たのだから自分が普段やらないこと、自分の方向とは明らかに違うことをしてみたい、しなきゃダメだと思った。旅に出ること自体ボク的ではないけど、それに加えて酒を飲むなんてもっともボクから外れた行為だと思う。それでいて旅のイメージには一番合う。やったらカッコイイなと思ってしまう。

 それを正直に話したらやっぱり笑われてしまった。もう笑われてばっかりだ。ボクは笑い者で大バカ者なんだ……。なんだかガッカリだ。初日でこれなんて……。慣れないことなんてしたからかな。そもそもこの旅自体がボクのガラではなくて分不相応ってやつなのかな……。

「君を見てると……、友人を思い出すよ……」

 手に持っていたカップをテーブルに置くと、さっきから沸騰しているコッヘルのお湯の中にレトルトドライカレーの袋を入れてくれた。

「君の持ってるキャンプ道具を見ていると……、似ているんだ」

 バーナーの火を調節してお湯が噴きこぼれないようにしてくれる。ボクはその手際の良さを黙って見ていた。

「友人は……、たぶんキャンプとかアウトドアが好きなんだろうけど、それよりも道具を集めるのが好きみたいなヤツでね。自分の今持ってる道具のほとんどはその友人から借りているんだ」

 そして計っていたのかテキトーなのか、お湯からレトルトを取り出して、テーブルに出していたお皿代わりの小さいフライパンの上に袋を切って出してくれた。

「まあ、食べなよ。胃が落ち着くから」

 そのカレーの匂いが急激に食欲を刺激したみたいで、いただきますと言ったか言わないかくらいでスプーンを握ってドライカレーをパクついた。美味い。美味い。泣けてくる。お腹空いてたからだけじゃない。ほんとうに美味い。

「その友人が言うんだ。旅に連れていく道具は旅を演出するものじゃないとダメなんだと。だから道具は旅らしいものという基準で選ぶんだと」

 ボクの食べているあいだ、旅の先輩はお酒の残っているカップに今度は湧かしてあるお湯を入れて飲み始めた。

「でも友人はね、ほとんど旅をしないんだ。道具を持つことで旅をしている夢をみてると自分では言っていたよ」

 ボクはスプーンを止めた。なんか聞き捨てならない、感じがする。

「……ボクもそうだと……」

「君はこうやって旅に出てるから違うよ。ただちょっと気になってね。さっきから話を聞いていると、背伸びしすぎているのかなって思うよ。たぶん旅は背伸びをするためにするもんじゃないから。たぶんね」

 付け足すように「たぶん」と入れたけど、それこそたぶん「たぶん」とは思ってない感じがした。だからボクもたぶんとは思わない。ボクは背伸びをしすぎた。旅は背伸びしてなんぼとか思っていた。それで上手くいくのが旅なんだと。

「まあ、今こうしていることが旅という概念に合ってるのか違うのかを気にするのもバカげているしね」

 ご、ごもっともです……。ボクの気持ちを見透かされたみたいで食べながら顔が赤くなってしまった。

「いろいろなモノゴトにカタを嵌めていくのは面白くないよ。旅はそういう既成概念を壊したり捨てたりすることから始めるんじゃないのか、とか思ったりする……。いやこれも旅を概念的に捉えているよな。俺も未熟なのを実感するよ」

 なるほど、というか……。それは旅を頭の中で捉えないことが旅ということか……。いや、わからない。難しい。

 ボクは根本的なところから間違っていたのかもしれない。自分を変えようと旅に託す行為自体ダメダメなのかもしれない。なんだかバカ丸出しで恥ずかしいし悲しい。もう帰ってしまいたくなる。

 ボクはもぐもぐとドライカレーを食べ続けた。美味しくて、美味しいものが喉を通って胃の中に納まっていくのを実感する。

 なんだかそれだけで楽しい気分が出てくる。単純だな。単純なんだ。あれだけ失敗だ! 大バカだ! 情けない! 恥ずかしい! とか喚いていても美味しいものを食べると幸せになったりする。失敗が帳消しになったような気分を味わう。ボクは単純な生き物なんだ。美味しいものを食べただけで変わってしまう。

 変わることなんて、案外簡単なことなのかもしれない。美味しいものがあれば……。単純か……。そうか……。そうかもしれない。そうなのかもしれない。単純でいいのかもしれない。

 …………。

 …………。

 そうだ、よし!

 ボクはちょっと思いついた。持っていってもらうことにしよう。ボクという存在からはみ出したものを……。

 ボクはドライカレーを食べきると、サイドバックのところに行って荷物をごそごそした。細長い台形の下の部分が丸っこい瓶を取り出した。まだ半分以上琥珀色が残っている。スキットルに入りきらなかった分の『いい酒』だ。これとスキットルとその中の分と……、ジッポーもいいや。あとなにかな……、木の柄の折り畳みナイフもいいや。多機能ツールがあるから。

「え……、これを……」

 ボクは不思議顔をしている旅の先輩にうんうん頷いた。ゴハンを食べきったら気持ちがスッキリした。自分のやることが正しいような気がしてきた。

「これとか高価ったんじゃないのか?」

「いいんです。なんかボクのバカさ加減の象徴なんです。心が改まったので……、たぶん不必要なものなんです」

 お金の問題じゃない。あのモノ達はボクの浮ついた心なのだ。変わりたいと思っていたのに、なんにも変われなかったボクのバカな心。それがあのモノ達に象徴されてる。

 だからこそ適切な人に渡して使ってもらうのが最善なのだ。ほんとうはセンパイに渡したかったけど……。バカだけどボクの心だし。でももしかしたらセンパイよりも旅の先輩に渡す方がモノ達には本望なのかもしれない。

「コーヒーとか食事とかのお礼と思っていただいてもいいです」

 それになにも知らないボクに旅を教えてくれたお礼でもある。素人丸出しのボクを救ってくれたお礼。初日を有意義なものにしていただいたお礼。

 旅の先輩はボクとテーブルのモノ達を交互に見つめてふーっと息を吐いた。

「ま、もらっておくよ。そうだな、運があってもしかしたらどこかの旅先で出会う時があったら旅の思い出と一緒に返すとしようか」

「そうしてください。ボクもその時にはお酒がちゃんと飲めるようになっているかもしれませんから」

 まあ、また走りすぎたかな、とか思うけど、そう簡単には治らないんだろう。

 やっといろいろなものが落ち着いたボクは、でも紅茶を飲む気にはなれなくて、またコッヘルに湯を沸かして白湯を飲んだ。

 旅の先輩はスキットルからカップに『いい酒』を注いでいる。今度は水を入れて飲んでいた。お酒が好きなのか、美味しそうだ。

 なんだか落ち着いてくるといろいろなことが気になってきた。そう、やっぱり一番に気になるのは旅の先輩の旅の先輩たる由縁だろう。隣のサイトを断ってから覗かせてもらった。実に興味深いものでイッパイだ。

 旅の相棒はなんだかクラシックカーみたいな古い感じの車だった。くすんだ赤色が年代を感じさせる。ボクのSRみたいに新車で買えるレトロじゃなくて、ほんとうに古いものなのだろう。でも街中でときどき見かけるから有名なものかもしれない。

 そしてテントだ。これも興味深い。テント自体は三角形の昔ながらのものだ。そしてここからはびっくりなのだけれども、テントの中は地面がむき出しだ。インナーテントがない。そのむき出しの地面に簡易ベットであるコットが置かれている。これでいいのか、これで……。いや、これでいいんだ、これで。たぶん。旅慣れた仕様なんだ。確かにコットがあれば下がむき出しでもいいような気がする。テントに入るだけならいちいち靴を脱がなくていい。もしかしたらエアマットを敷いて寝るより寝心地がいいのかもしれない。

 タープも木を使って簡易的に張ってある。その下にテーブルがあって、ガスバーナーがあって、もう一つランタンがあって、こっちはうっすらと明るいだけだ。

 簡素な感じだけどほんとうに旅の先輩に似合う玄人仕様だ。

「偵察は終わったかい?」

「ずいぶん旅慣れていらっしゃるんですね」

「旅というか……、昔から独りでキャンプをするのが好きだったからね」

「いまも独りキャンプの途中ですか?」

「いや、今回は……、そうだな、君の好きな旅になるかな」

 それからぽつぽつと旅の先輩は自らの旅のことを語り始めた。やっぱり旅には語りが必要だ。はやる心を戒めないといけないのだけど、なんだかわくわくが止まらない。

 旅の先輩はほんとうは旅人になる気なんてさらさらなかったらしい。最近はキャンプからも遠ざかっていて、アウトドアらしいこともほとんどしない生活だったみたい。実家の会社をお父さんとお兄さんの3人でもり立てていくのに、本人曰く燃えていたのだそうだ。

 でもお父さんが死んでしまい、なにかが変わってしまった。周りはなにひとつ変わらなかったのに、自分の心だけが変わってしまった。それをわかってしまった。なにがどう変わったのか、自分ではいまもってよくわからない。言葉では説明できないモヤモヤしたなにかだった。それが疎ましくて仕事にも身が入らず、なにをしても虚しい気分でいた。そんな本人曰くだらしない状態では仕事に差し障りが出てきた。だからしばらくお兄さんに言って休みをもらったということだった。

 でも……、このあとの部分がボクにはどうしても不可解なことではある……、いやわからなくはないことではあるんだけど。

 ある日突然、車を運転していたら……、旅に出てしまったということだった。

 うーん、なんかどっかで聞いたことのあるようなないような……。なんだったっけ?

 旅に出てしまってから、どうするか考えて、思い出したのが(不本意だけど)ボクと似ている友人の存在で、出先までキャンプ道具を持ってきてもらったということだった。そして車も交換したという。より旅らしく旅をするために、あの車にしたかったということだ。ボクにはああいったけど、この旅の先輩も旅に拘っている。

 そのあとは質問タイムになった。聞きたいことはたくさんあったけど、そのほとんどは些末なことになった。大事な部分も聞きたい気がしたけど……、センパイにも聞けなかったことが旅に出たらかき捨ててなんてできるわけがない。それに人には話したくないことだってあるだろうから……。

 まずは相棒のことを聞いた。交換してまで乗りたいなんて俄然興味が出た。SRに対する想いと同じなのか、どうなのか。

 MINIという英国の車だった。旧車という言い方をしていた。その中でも新しいほうなんだそうだ。ここはSRに乗ってるからよくわかる。センパイのSRはボクのと違って古いほうだからだ。

 MINIという車は聞いたことがある。TVのCMでもやっている。けど、なんか形が違う。こっちのほうがヘッドライトが丸くてばっちりお目目でカワイイ。聞くところによると旅の先輩は交換する前はCMで目にする新しいMINIに乗っていたんだけど、旅をすることは不自由の中に自由を見ることだと気付いて無理言って交換してもらったらしい。なんだかその友人さんにはけっこう甘えてるのかもしれない。もしかしたらその友人さんは神さまレベルのいい人なのかな。

 でもボクなんかが見てもこのMINIで旅するのはとてもいいように思える。屋根には白い枠が乗っていてそこに荷物を積めるようになっている。なんだかそれはルパン三世みたい。そう正直に言ったら笑われた……。

 なんだかだんだんわかってきた気がする。その友人さんはやっぱりボクと似ているのかもしれない。旅に対して現実以上のなにかを載せて、嵩上げして妄想しているみたい。

 旅の先輩はそれをすべてわかった上で道具を貸してもらっているのかな。無理やり借りたと言っているけど。旅に出ない(出られないのかも……)友人さんに代わってそのキャンプ道具を使って旅をしているのかもしれない。これも妄想かな……。

 次にテントのことを聞いた。これも是非とも真似したい。フロアレステントで有名なメーカーのものといっていた。ちょっとボクは勉強不足で知らなかった。コットはボクのチェアと同じメーカーのもので寝心地はいいみたい。

 もう一つのランタンは、あれは光源だけじゃなくて虫除けにもなっている。そういうオイルを燃やしているというのだ。それを聞いたとき頭の中ががーんとなった。そうだ。虫除けだ。なにも考えていなかった。いまは冷感素材の長袖Tシャツに似た素材のジーンズだから気にならなかった……。

 やっぱり顔に出やすいのか、今回も気遣われてしまった。虫除けのオイルを分けてもらった。ボクが買ったカンブリアンランタンにも使えるそうだ。

 明日になったらすぐにでもアウトドア用品の売ってるお店に行こう。そして足りないものを買おう。ドラッグストアにもよって筋肉痛に効く薬も買わないと……。

 こういうときはスマホは便利だ。最近は、特に大学生になってからはあまり有効性というものを疑問視していたものだけど……。でもこうやってなにかあればスマホに頼ってしまう。便利を享受してしまう。これは生活の奥深くまで入りこんでいるということなんだろう……。いいのか悪いのか……。

 いまのこの感覚を正直に目の前の旅の先輩に述べると、やっぱり笑われた。こういう自分の考えを真面目に言える相手はセンパイしかいなかったから……。ついつい旅の先輩にも同じようにしてしまった。でもこの旅の先輩もセンパイと同じような笑い方で嫌みが感じられなかった。同じことをセンパイに言ったらこうだったかもな、なんて思えてしまう。

「よくバイクで一人旅になんか出ようと思ったね?」

 そう水を向けられた。今度はボクの番なのだ。待ってましたってわけじゃないけど、やっぱり相手のことを聞いてしまった以上、自分のことも話さないと居心地が悪かった。

 まあ、確かにこんなボクが旅に出るのは無謀だったのかもしれないけど……。でもバイクで一人旅という単語は、なんか思わずにやけてしまう。無謀でもへたっぴでもボクがそれをしてるなんて……。

 なんかさっきから気が良くなってしまって、頬が弛みっぱなしに思える。その頬も熱っぽい……。そのなんというか熱に浮かれているのか、お腹も満ちて緊張が解けたのか、センパイと話していると錯覚したのか、いろいろな話をした。これはでもさっきの一口の酒のせいかもしれない。

 自分のあり方について話をした。

 自分の話す言葉について、みんなの話す言葉について、特にコウハイちゃんや高校時代のあの子について。

 そしてセンパイの話をした。

 アレについても話した。アレから始まった旅に出る経緯についても話してしまった。まったく……、ほんとうのほんとうの部分、旅に出たほんとうの理由は自分でも未消化で誰にもまだ話したことなかったことなのに。それさえもぺらぺらしゃべってしまった。

 アレのボクを追い越すことが、センパイに追いつくことであり、そしてやっとセンパイと共に歩めるボクになれるのだ。この旅から無事に帰ったら、アレのボクを追い越して、センパイまでも越えられるのかもしれない。いや、越えちゃダメだろう。越えたらダメだ。並び立てるのが理想なんだ。

 ……そうか……。

 でも……。

 センパイはいなくなってしまうんだ。

 センパイ……、

 もう一緒にいられないんだ……。

 …………。

 どうしよう……。

 …………。

 …………。

「ずいぶんそのセンパイのこと好きなんだ」

 …………は?

「ラブラブじゃないか」

 は?

 いや……、なに? それ? なんて言った?

 その小さい一言は大きな爆弾だった。

 なんだって!

 爆弾は爆発するためにあるもので、こんな静かな夜だけど、爆弾は大爆発したわけで、でも被害甚大なのはボクだけで、なにも考えられなくなって、なにも言えなくなった。

 ええと、どうゆうこと……?

「なあんだ、自覚なしなのか」

 そしてフフフと大人の先輩は余裕の笑み。銀のマグカップを目の高さに掲げてから一口飲んだ。

 もう……なにがなんだかわけのわからない夜は過ぎていく。

 ボクだけ独り残して……。

 疲れているのに、なんだか息苦しいし、熱っぽくて夜中まで眠れなかった。



 やっぱり寝過ごした……。

 目が覚めたとき、すぐには寝袋から出られなかった。半端なく左手首が痛い。半端なく腰が痛い。半端なく腹筋が痛い。内股の筋肉が痛い。足首が痛い。全身が痛い。しばらくストレッチ的なことをしないと起きあがれなかった。起きても動くたびに鈍い痛みがする。

 腕時計はどこにしまったのかわからないからスマホで時刻を見た。あっとかうっとか声が出てしまった。旅人にあるまじき時間に起床してしまった。今日こそはしっかりやるつもりだったのに。初っぱなから躓いた。イタタッ……。悲しくなってきた。さっきから頭も重い感じで……。

 なんでボクはこうなんだろう……。

 這々の体ってこういうのなんだ、勉強になるなって冷静な自分が指摘する、そんな格好でテントからやっと這い出た。

 当たり前だけど外のほうが眩しい。タープの張る位置を間違えたのか直射日光がテントの側まで来ていた。日なたに出た部分から暑さを感じる。

 うん? なんだこれ?

 違和感は出しっぱなしにしていたテーブルの上にあった。なにかが置いてある。いやそれもあるけど寝る前にテーブルを片づけておかなかった失敗も痛い。

 腰をさすりさすり前室に置いているビーチサンダルをつっかけてテーブルに向かった。なんなんだろう、これは……。

 テーブルの上には渋い銀色がカッコイイ感じの細長いステンレス製の水筒があった。あまり見かけないタイプで、ふつうキャップはプラスチック製が多いのに、これは胴体と同じ金属製だった。その隣にはその水筒をもっと太らせた感じのプラスティック製のボトルがあった。あ、置き手紙もあった。風で飛ばされないように小石が置かれている。

 読んでみるとやっぱり旅の先輩からだった。どうやら昨夜の出来事は夢ではなかったみたい。あまりにも現実感がなかったから、疲れて夢でも見たのかと起きたときは思っていた。

 旅の先輩は通常通りの時間に旅立ったらしい。ぜんぜんわからなかった。たぶん爆睡していたんだろう。テントが静まりかえっていたから声をかけずにいてくれたみたいだ。そして贈り物と置き手紙を置いていってくれた。

 旅をしている先輩には手紙を書く時間さえあったというのに、ボクは起きる気配もなかったなんて。どうせなら起こしてくれれば良かったのに。いやいや、それはダメの上塗りだ。

 でも……、贈り物か……。そんなつもりで渡したわけじゃなかったんだけどな。

 手紙には、やっぱり昨日渡したものと交換で持っていって欲しい、と書かれていた。このボトル類は未使用品の新品ということだった。どうやらボクに似ているという友人さんは、自分の買い集めたアウトドアグッズを全部旅の先輩に振る舞ったようだ。自分ではキャンプをしない人間なのに、使用感だけはとても気になる人みたいだ。このキャンプ道具を渡す見返りが使用感を報告するということらしい。車移動なのをいいことに複数のギアを渡された、と。

 ということは、この品物たちはその友人のもので、使用感を報告するって義務はどうなるんだ? と思ったらその友人のメールアドレスが書いてあって、報告を頼む、だって。友人さんには話しておくと書いてあったし、こういうイレギュラーが好きな人みたいだからよろしくということも書いてある。

 なんか、いいのかな。ボクみたいなのが報告しちゃって……。なんだかよくわからない状況だ。寝ぼけてるから余計にそうだけど、たぶんはっきりした頭でもなんのこっちゃって思うかもしれない。

 ……いや、ボクも同じだ。急に自分の持ってるものを渡して持っていってくださいとか言って……。なんか恥ずかしいな……。似てると言われるわけだ。

 プラスティックのボトルは透明だから中に保証書のような紙切れが入っているのが見えた。ステンレスのほうにも中を開けたら保証書が入っていた。ほんとうにまっさらな新品だ。これで各地の名水を飲むといいとも書かれてあった。なるほど、それはいい考えだ。でもたぶんあれだな。昨日の晩、ボクが水で苦労したから、これを渡してくれたんだ。これに水を補充しておけばいざってときに飲むことも食べることもできるから。

 まったくもって……、ボクは優しい人たちに囲まれて幸せ者だな。幸せすぎるのかもしれない。ほんとうに夢みたいだ……。いや、この品物があるから現実だ。アレのボクが体験したヘンテコな出来事ではないんだ。

 ただアレのボクはヘンテコな体験を経て、なにかしらの気付きを得たように、ボクにも昨日や今日の出来事によって大いなる気付きを得た、ように感じる。

 つまりは、この一件をもって、あらためて旅をしきり直せ、というなにかしらのお告げなのかもしれない。この醜態を糧として旅を良きものとしろって……。

 短い時間だったのかもしれないけど、その割には旅の先輩からの手紙は綺麗な読みやすい字で書かれてあって、文面も面白いし、なんだかスキルの高さを感じてしまう。うーん、また見習うべき人が現れたみたいだ。

 その手紙の結びにはこう書かれてあった。

「旅の恥はかきすてて、というのは昔の話で、世の中はいい人ばかりではないから、あまり羽目を外した行動は慎むように。自称いい人より」

 気を付けて行動するように、と念を押されてしまった。つくづく過保護され体質だな、ボクは……。会って間もない旅の先輩にまで心配されてしまって。

 別に旅の恥をかきすてるつもりは……。恥ってなに? 普段なら恥ずかしくてできそうもないことだけど旅だから、もう会うこともない人たちの中でならやれるっていう意味だよね……。昨日のことはまさにそれ……。なのかな……。確かに恥ずかしいことをやらかしたけど、自覚的にやってやろうとしたわけじゃなくて、ましてや旅にかこつけてやらかそうとしたわけではなくて……、ふつうにナチュラルにやってしまったわけで……。

 それは……、もっとダメだな……。

 反省だ。反省しなければ。気を付けろと言われたし……。でも自覚してやってやろうと思ってなかったのに……。そう見えたのかな……。うーん。

 …………。

 …………。

 ……そうか……。

 そう見えたんだな。他人には、やっぱりそう見えるんだ。ボクは旅で浮かれているように見えるんだ。そうか、そうか。やっぱり、そうか。用心しないとダメだ。そういうキャラじゃないんだから……。

 気を引き締めていこう。グッと引き締めて、今日からが旅の始まりだと思おう。

 まずは……、朝ごはんだ。

 紅茶とパンですまそう。

 そして早く出かける用意をしなければ。

 まったく……、朝から大きなため息をついてしまった。まったく、小鳥のさえずりだけが慰めてくれる。いや、それだけじゃないけど、いろいろといただいて気を遣ってもらって……。

 がんばろう……。



 ボクは旅を続けた。

 初日の失敗を挽回しようと頑張った。

 少し遠回りして大きなホームセンターと併設されたドラッグストアによった。この買い物のおかげでなんとかリカバリーできたのではないだろうか。

 筋肉痛は湿布とか塗り薬でだましだましでもなんとかなりそうだ。食べ物もレトルトやドライフードや缶詰を買った。しばらくキャンプに慣れるまではこれらを温めて食べることにした。ライディングとかキャンプサイトの設営とかで手一杯で、調理の余裕、主に心の余裕がない。仕方ない。次の日の旅までにできるだけ疲れを残さないようにしなければ。もちろん火の点く先が長くなったライターも忘れずに買った。予備も買った。

 初心者であるけども、旅にはまだ慣れない愚かな初心者ではあるけども、次の日にたき火だけはやった。直火禁止だったからたき火台を使って。センパイには悪いと思ったけど、その時にはコーヒーを飲んだ。インスタントだけど、ミルクもたっぷり入れたけど、コーヒーを飲んで炎を見つめた。

 でもどうなんだろう……?

 こうやって自分が旅に慣れていくのがわかる。嬉しい気持ちがあるのに、心の中に大きな穴がぽっかり空いているような感じもある。

 これがほんとうに求めていたものなのかな。これがほんとうにあの旅なのかな。なんかモヤモヤする。ほんとうにどうしたらいい……?

 二日もかけてのろのろゆっくりと山形に向かった。相変わらず下道を通り、休み休み、できるだけ余力が残るように走った。この計画はもともと立てていたもので、オヤジの意見を取り入れたものだ。最初に立てた行程計画を勝手に見られたあと、とても強引に修正させられたのだ。親だけあって、子どもを見る目は正確だったと言わざるを得ない。

 まったく、このゆったりした計画のおかげで心にも余裕が生まれたんだけど……。

 だけど……。だけどね……。

 山形県が近づくにつれて、なんか怖いような感じがするし、なにかが待っているんじゃないかというゾクゾクした期待感が出てきた。ボクの背後でなにかが起ころうとしているように感じるし、なに寝言言ってるんだって思うときもある。

 なんだか複雑すぎて、心の中を解きほぐすことは、もうあまりしなくなった……。

 あの初日以来、あんまり人との交流的なものは起きなかった。あの初日が特別だったということだろう。この状況がふつうで、こんなものなのだろう。

 だから……、

 だからこそあまり旅に幻想を抱かずにフツーの心で旅をすることを心がける。この旅がフツーに終わることがボクにとってはベストなことであるのかもしれない。

 無事に帰ることが一番なんだ。

 たぶん、そう。



「あ、おいしい……」

 なかなかの美味である。

 まずはカラシを付けずに一口かじる。熱かったからほふほふと口の中で転がした。咀嚼して飲み込む頃にはしみこんだしょうゆ味がちょうどいい感じで、美味しかった。二口目はカラシを付けて、熱さも慣れたのかそのまま味わった。こんにゃくってこんなに美味しいものだったっけ?

 串に刺してある丸くて味の染みたしょうゆ色になったこんにゃくをまじまじと見つめる。このカラシを付けたときの味が、なんというか、しょうゆ味にカラシのぴりっと引き締まる感じで、大人の味だ。いやいや、もうしょうゆ味の玉こんにゃくを好きになった時点で大人の味が堪能できる舌になったということだな、うむ。

 駐車場で、ちょうど店の入り口近くにバイクを停めている。その相棒に寄りかかって、さっき買ってきた山形名物玉こんにゃくを食べている。

 たぶん博識のセンパイのことだから、尋ねたのなら、山形に行ったら玉こんにゃくが名物だから食べるべきだと言われたと思う。でも残念ながらこの情報をくれたのはオヤジ様だった。なんでもこの付近というか、正確には隣の市なんだけど、米沢に友人がいて何回か山形を訪ねたことがあるということだった。定番の米沢牛は美味しかったけど、丸いこんにゃくが串に刺さった玉こんにゃくも、質素な食べ物の割には味わい深くて良かった。ぜひ食べてみたほうがいい。と強く薦められた。

 サンプラザうめやという地元のスーパーが目に入って、ほんとうは缶詰やドライフードを買うために寄ったんだけど、店内を見て回っていたら大きな鍋におでんを売るようにして、この玉こんにゃくだけが何本も売られているのを発見したのだ。

 これは食べるべきだ。薦められていなくても匂いに釣られた。もう即買った。そしてさっさと外へ出て、こうして美味を堪能している。想像していたよりもずっとおいしい。オヤジの情報にしては気の利いたものだった。

「鯉の甘煮も美味いんだぜえ」とか言っていたから、それも探してみるとしようか。

 今日も天気は快晴で暑い。東北なのに、暑い。もっと涼しいのかと思ってたのに……。まあ、でも朝晩は意外と寒かった。ウチの近くも東京にしては緑多すぎな端っこではあるから朝晩は都心に比べると涼しいけど、なんかそれ以上だった。ふつうに着込んでしまった。日中はこんなにも暑いのにな……。

 うむうむ。うまいな、これ……。

 ぺろりと平らげてしまった。なんか名物みたいなものを食べたのはこれが初めてかもしれない。ひたすら走ってひたすらキャンプしただけだったからな。

 それは早く着きたいって気持ちがあったから、かもしれない。無事に終わりたい、早く終わりが来ないかな、とかって気持ちもあったから、かもしれない。

 でも……、この目と鼻の先のところまで来てみると……、なんだかもっと遠回りしてもよかったかもしれないって思う気持ちが出てきた。

 とうとうここまで来た。来てしまった。もうすぐそこまで。やっとついたのに……。やっとの思いで来たと思ったのに……。

 …………。

 …………。

 ……近くにぐるっぺとかいうホームセンターがあるみたいだから寄っていこう。アウトドア用のガスを買わないと……。あとドライフードもあるかな……。

 やっぱりもう一本買って食べよう。



 スマホの画面を見ると目的地はもうすぐだった。



 見知らぬ街を走っていると、ボクはほんとうになにも知らなかったんだと感じる。

 風が前からぶち当たってくるこの感じは、無知なボクがなにかを吸収しているように見える。ボクが吸収しているのは、果たしてなんなんだろう。風のような透明で少し涼しくて包み込んでくるもの……。

 知識とか知恵とか、じゃないだろう。

 東北のことは、山形のことは、長井市のことは、スマホを使っていっぱい調べた。文字情報だけじゃなくて写真もいっぱいあったから、行ったような気になる。

 でも……、そんなものじゃないようななにかがボクの体にこうやってぶち当たってきている。

 ボクがいままで生きてきた空間とは明らかに違うトコに「来ちゃったな」って思った。でもそのなにがどう違うというのか、それを明確には言えない。違うというのがわかるだけで、言い表せない……。ただ違うということだけはよくわかるのに。

 ここは違うトコなのに、ボクは来ることができた。バイクを走らせ、相棒に跨り、来ることができた。

 バイクに乗って来ることが出来るのに、違うって感じられる場所がある。

 ボクはその違うトコに到達することができる。なんだかすごいことのように思える。

 さっき食べた玉こんにゃく……、いままであまり食べたことがない、違う食べ物なのに、美味しくてまた食べたくなる。違うを体験したのに、ボクは友好的にそれを受け入れている……。

 あーあ、もう……。

 センパイだったらボクのこの気持ちを明確に言い当ててくれそうなのに。そしてボクはそれを「なるほど」って大きく頷いて手を打ち鳴らすのに……。

 こうやってバイクに乗って風に吹かれているだけが精一杯だ。違うとしか感じ取れないし言葉にもできない。ウムウムと頷くしかできない。もどかしい。

 旅に出ることで上がったスキルが一つある。ちゃんと安全運転しながら、なにか考えを巡らせることができるようになった。ちゃんとミラーで後方を確認したり、道路状況を把握したり、危険を推測したり、安全運転が出来ているのに、考えが浮かんだり沈んだりすることができる。ぶつぶつと途切れたものなのかもしれないけど。

 …………。

 …………。

 ……羽前成田駅は、大正時代に建てられた駅舎がそのまま残っているということだった。昔は国鉄の駅だったけど、今はフラワー長井線という路線になっている。ホームページを見てみると単線の車両が一両だけ走る小さな路線だけど、車体はとてもカラフルだった。

 なんの変哲もない田舎の路線だと思っていたけど、ネットを調べていくうちに面白いものを見つけてしまった。

 この辺りは映画の撮影場所になっていた。『スイングガールズ』という邦画だ。けっこう有名な女優さんが出ていて、帰ったら観てみようと取っておいてある。田舎町の女子高生がジャズの演奏に目覚めていくお話みたい。

 ジャズか……。ジャズはぜんぜん聴かない。ウチにも聴く人がいない。友人にもいない。遠い存在なんだな……、……いや、いた。

 そういえばセンパイがアニソン以外で聴くものは少しだけだけどジャズだと言っていた。なんと言っていたかな。確かジャズ・ヴァイオリン。誰々とか言っていたけど覚えてない。センパイと知り合ってほんとうに初期の頃の話だ。ただジャズにはヴァイオリンもあるのかと不思議に思ったのだ。

 …………、

 …………。

 なんか出てくるものがセンパイとの思い出ばかり……。別に一生逢えないわけじゃないのに……、バカだな。

 そういえば旅の先輩になにか言われた気がするな。なんだったっけ……? なんか尊敬しすぎはなんとかに転換してとか言われて、なんと答えたんだっけ……、もうやっぱり酒はダメだな。思い出せない。渡して正解だった。これからはコーヒー一筋でいく。

 ……いや、紅茶も飲む……。



 そうこうしているうちにスマホのナビは目的地の近くまで来ていることを教えてくれた。最後の曲がり角だ。

 やっと、ほんとうにやっと来た。



 なんか……、着いちゃった……。

 ホントに、来ちゃった……。

 一生着かないかもと思った。夢にだけ現れる桃源郷みたいなものに思っていた。

 なんか……、こんなにもあっさりと……。

 深呼吸してみる。なんだかうまく息が吸えない感じ。すーはーすーはーすすすははは、ごほごほ……。

 駅前広場かな、駐車場かな、その片隅にバイクを停車してエンジンを止める。なんか体が揺れている。頭が揺れている。うまくバイクから降りられない。揺れる揺れる。降りたのはいいけど足下がふわふわした感じ。

 まずは革グローブを外し……、なかなか脱げない。それからヘルメットの顎のストラップを外して、やばい、どうしても外れない。これはやばい。ずっとメット被ったまま生活するのか……。こんな脱げないなんて、もしかしたらここに到着するのはお前にはまだ早いという何かしらの意志なのか。こんなあっさり着くのは現実じゃないということか。

 やっと脱げた。それで大きく大きく深呼吸ができた。いろいろな感覚が戻ってきているように感じる。

 しばらくぼーっとしてしまった。一、二分だろうか、それとも十分は経っていただろうか。ただなにもわからずにボーッとなった。

 気付くとずっと駅舎だけを見ていたみたいだ。その名前が書かれた看板だけ見ていた。

 羽前成田。

 やっぱり来ちゃったんだ。とうとう。

 なんかやっと動こうという気持ち、活力みたいなものが出てきた。

 歩きながら、駅舎の外側を見て回る。木造で古い建物だ。でも朽ちている感じではなくて、古いけど綺麗な感じ。窓だってガラスがある。いや当たり前か。現役で使われているからなのか。現役とはこういうものだと言っているのか。

 中に入ってみた。

 割と涼しい。薄明るい。薄暗いというべきなんだけど、暗さよりも仄かな明るさのほうが主体的で、そのバランスが和やかな感じというか……。なに言っちゃてるんだろうね。

 むかし切符を売っていただろう窓口は閉まっている。カーテンがかかっている。でも昔の看板、行く先までの値段、料金表か、それがいまだに古いままある。

 時が止まったままというか……。うーん、陳腐だよな。なんだろう。それだけじゃ言えない感じで……。時は平常通りに動いているからこその古さなんだ……。でもなにかが止まってしまっているように見える。それが時であったように認識してしまう。その止まったなにか、だよな。うまく言えないな。

 確かアレでは、一条くんのおばあちゃんが使っていたふるさとの駅だった。アレのボクが旅に出たらまず始めに目指す場所だった。

「来たよ」

 口に出してみる。

 誰もいない駅舎の中は、別に木霊するようなこともなかった。

「来ちゃったよ……」

 もう一度呟いてみる。今度は誰かではなく、自分に向かって言ったようになった。いやボクにではなくて、アレのボクに言ったのか。それが一番しっくり来る。

 ……センパイにも言ったのかもしれないな。アレはやっぱりセンパイの創作物だと思う。センパイによるフィクションなのか半フィクションなのか完全なるノンフィクションなのか、それはわからないけど。センパイが話してくれているような雰囲気があの文章にはあったように思う。

 だからセンパイよりも先にここに辿りついたような気になった。センパイを追い抜いてしまったのかな。それだとなんか寂しい。

 駅舎の真ん中に正方形にベンチのようになっている部分があって、しばらくそこに座って過ごした。なんかなんか和む。

 もしかしたらもしかしてだけど、センパイのおばあちゃんがここで過ごしたのかもしれないな。

 ……え?

 そうかな……。

 そうだとしたらセンパイは小さいときにここに来ていて……。おばあちゃんに手を引かれた小さい子が駅舎を抜けていく、ような想像をしてみた。センパイの小さい頃なんてイメージできなかったから完全な想像だけど……。

 なんか楽しいな……。

 その内、がたごと音がして列車が駅のホームに入ってくるのが見えた。なるほどカラフルな車両だ。停まった列車からは誰も降りては来なかった。乗る人も無し。列車は走り出して行ってしまった。

 ボーッと見送った。放心したようにそれだけを見ていた。

 小さい子がボクの横を通り過ぎて外へ向かった。後ろからしずしずと腰の曲がったおばあさんが歩いてくる。ボクを見て軽く会釈した。外に出た小さい子がおばあちゃんを呼ぶ。

 ボクは腰を浮かせた。

 待って!

 とか言う前に気がついていた。

 わかってる。そんなこと起きない。

 これはボクの脳の中で起きているだけの幻なんだ。わかっている。

 でも小さい子の笑顔だけは幻の割には脳に焼き付いた。誰の笑顔なんだろう。アレのボクか、センパイか……。

 どっちなのかわからない。わからないでいいのかもしれない。どっちも同じ。

 勢いを付けて立ち上がった。大きく伸びをした。深呼吸もする。

 …………、

 …………。

 これでボクの旅は終わった……、

 ……のかな。



 ボーッとしているのは気分がよかった。

 駅舎の中とか外の木陰とか。そんなところでボーッとしていてもよかったんだけど、ちょっと見てみたい景色があった。

 旅に出る前にオヤジが宣うた。

「やっぱりあの辺りは田園風景を見るのが圧巻なんだぜい」

 いちいち語尾に「~だぜい」とか付けるのはうざかったんだけど、この地を旅していた先輩ではあるからして、言うことを聞いてみないことはないことはやぶさかではない。

 それにボクも興味があった。

 この地はかつて誰かの見た心の風景なんだ。だからこの地が文章に書かれた。それをボクが見た。来ようと思った。あの駅だけではもったいない。

 スマホの地図で見てみると、ちょっと走った辺りに津島神社という神社がある。田圃の真ん中に鎮座している。だから行ってみることにした。神社とかにはそれほど興味がなかったんだけど、あの谷保天満宮に行って以来なんとなく気になる。

 ものの十分ほどで着いた。

 ほんとうに田圃の中に神社がある。道を走っている最中から鳥居が見えてなんか感動した。細い道を入っていくと、ちょうどその鳥居の前まできた。

 来てみた……、けどなんかつまらなかった。静かな神社だけど、本殿はぴったりと戸を閉めてある。黒獅子祭りという獅子舞が有名な祭りをやっているとインターネットで見たけど、やってない。当たり前か。お獅子の頭があるみたいでそれだけでも見たかったのに。こんな閉まった状態ではそれも叶わない。

 しょうがない。しょうがない。

 次だ。プランBだ。

 すぐにSR400を走らせた。ここからはあまり地図を見ないで、いい感じのところがあったら、そこで景色を見ようと思う。

 細い道を走り、角を一つか二つ曲がった。

 その先だった。

 田圃が広がっていた。田圃が高低差のある土地にうねうねと広がっていた。

 ここかな……。この辺りだな。

 ちょうどいいところにバイクを停められるような場所があった。あらだて公民館という建物のわきに停めた。

 さっきと違って体は揺れてない。エンジンを止めたあと、スムーズに降りられたし、メットが脱げなくて焦ることもなかった。

 ジャケットのジッパーを半分くらい下ろすと、フーッと大きく息を吐いた。

 なんだかこの感覚が良くなってきた。この一息つくのがいい。いろいろなものが戻ってくる感覚。

 勢いよく水が流れている音が聞こえた。

 風が心地良い。青い稲が揺れている。

 遠くには農家さんの家が何軒かあって、その後ろは林みたいになっていて、更にずっと奥には大きな山が右から左に向かって屏風のようにある。

 それ以外は田圃が広がっている。目の前から、家の向こうまで、開けた右側はずっと奥まで。田圃だ。緑の田圃。そして大きな山。

 一つの視界に広がっておさまっている。

 なんだろう。なんだろうな、これは。

 ホッとする。なんでだろう。

 美しい……、そうかもしれない。でもそう単純なものじゃないって思う。

 長閑……、そうかもしれない。でもそれだけじゃないなにかがある。ような気がする。

 懐かしい。癒される。どれも言い当てているようで、ぜんぜん違うような気もする。

 いろいろな言葉が浮かんでは沈んで、ごちゃごちゃになって、ぐるぐる回っている。

 これを、この風景やそれを見ているボクの気持ちを表すのは、ボクでは無理みたい。

 ボクはただホッとするだけ。それだけしかできなくて、それだけで十分なのだ。それだけしかできないけど、それで満足なんだ。

 なんか無駄な力がしゅるしゅる抜けていく。柔らかいものだけがボクを満たす。

 ノロノロとバイクに戻って、サイドバックにパッキングしてある水筒を取り出した。旅の先輩からの忠告を守って、今朝キャンプ場近くのわき水を入れてきたのだ。美味しい水らしく、けっこう人が並んでいてボクも混じって汲んできた。

 途中で少し飲んでみたけど、こんなものかとか思ってしまった。

 でもいま飲みたい。ここで飲んでみたくなった。とっても。

 …………、

 …………。

 おいしい。美味しかった。美味しかった美味しかった。喉が渇いていたからもしれないけど、前に飲んだときよりもずっとずっと美味しい。

 なんか……、なんかね……。

 …………、

 …………、

 もう……、

 ……いろいろなことがどうでもいいって、

 そんな感じ。

 ホント、もういいや。

 すごく力が抜けて、のろのろと木陰にしゃがみ込んだ。

 しばらく眺めているだけ。

 ボーッとしてるだけ。

 見えるのは……、

 田圃。

 大きな山。

 聞こえるのは水の勢いよく流れる音……。

 でもそれも遠い感じ。

 ボクはここの一部だった。

 …………、

 …………。

 ……なれたかな……。



 しばらくそうしていると、遠くからポンポンという断続的な音がしてきた。

 ボクは初めその音に気付かなかった。ずいぶん近づいてきて大きくなってきてから、やっとその音が意識できた。だからたぶんけっこう前からその音はしていたんだろう。

 もうホント、景色を見ながらぽけらーとしてしまっていた。

 気付いてその音の正体を確かめようと顔を向けた。なんだか懐かしい感じの音。よくわからないけどなにかの乗り物が近づいてくる。いやたぶん、そうあれは耕運機だ。

 ウチにある現役のものよりは数倍大きくて、後ろに荷台なんかを付けている。乗り物のようにして使っている。この辺りではこういう風にして使うのか。ウチとは規模が違うんだな。ケッテンクラートみたい。そういうアニメを思い出した。

 そうだ……。そういえばずっと昔、おばあちゃんがまだ生きていた頃、おじいちゃんが気合い入れて農業をやっていた頃、ウチにも大きな耕運機があって、そういえばこんな音だった、かな……。なんか涙が出てきそうになる。こんな使い方はしてなかったけど大きくなったらボクにも運転させてくれるって言っていたな、おじいちゃん。もう忘れたかな。

 ボクが見ていると、大型耕運機は目の前で停まった。おじさんというか、頭が真っ白で割と年齢が高いのがわかるからおじいさんか……、男の人が一人乗っていた。

 バイクをチラッと見てから言った。

「東京からきっただか?」

 たぶん、わかるようには言ってくれたのだろうけど……。

 ボクは頷いた。頷くしかできなかった。ここ二日ばかり人とまともに会話してなかったから緊張してしまった。それに山形の言葉もよくわからないから余計に声が出なかった。

「ここいらたんぼばっかでなんもないべしたあ?」

「……えーと、そんなことないです」

 これだけは声を大にして、いや声が出なくて小さかったけど、言いたい!

 ここは、いい!

 田圃見てるだけで、なんかいい。

 だいたいこの旅の目的は、駅を見て田圃を見て、そして無事に帰ることなんだから。

 こうやって田圃とか山とか見たり、鳥が鳴いてるのとか水が流れてるのとかを聞いたり、それがいちばん、いい。ここから動きたくない。ずっとこうしていたい。

 でも……、なんかもう夕方になってきている。太陽も黄色さが増してきている。空気がゆっくりと夕方に向かっている。

 移動したくないな……。この辺でキャンプできるとこないかな。

「すいません、この辺にキャンプ場はないですか?」

 唐突だったかもしれない。なんだか話の流れをぶった切ってしまったのかもしれない。ボクは自分の気持ちだけを優先して言葉を出してしまったのを後悔した。

 ジロリとおじいさんはボクを見た。睨まれているようで、ちょっとびびった。

「さっきから聞いてたんだけなあ」

「……すいません」

「あんたみたいなやっこいのは寺さ、泊まるといい」

 そういって教えてくれたのはこの近くのお寺さんだった。この辺りはみんなそのお寺の檀家なのだという。

 おじいさんはとにかく行ってみろと言って道順を教えてくれた……。けど、よくわからなかった。言葉もよく聞き取れなかったし、ボク自身人から教えられたとおりに行ける人間ではなかった。

 その後、おじいさんは耕運機を動かして田圃の中を突っ切る脇道に入って帰っていった。どうやらあの辺りの農家さんだったみたいだ。

 ボクは「ありがとう」だけは大きな声で言うことができた。なんか話がぶっきらぼうで表情とかも無表情な感じで怖そうなおじいさんだったけど、慣れるとなんか和む雰囲気の人だった。最後に笑ってくれたのが……、またセンパイを引き合いにだそうとしていた。ずっとこうじゃないか。ことある事にボクはセンパイセンパイだ。

 あ!

 なんか急に思い出した。旅の先輩が言ったこと。

 あれは……、そんなこと……、ないというかなんというか……、

 恥ずかしいな……。

 なんか一人で赤くなってしまった……。



 お寺に泊まれるって宿坊ってことなのだろうか。

 やっぱりボクはスマホに頼って位置を探してみる。

 「東照寺」というお寺だった。

 うーん、ま、そうだな……。

 やっぱり今日はそこにお世話になろうかな。なんかもうなにもする気持ちが起きない。キャンプはなんか……、疲れた……。

 名残惜しいけど、この場所をあとにする。そして明日、もう一度この場所に来よう。羽前成田駅にも寄ろう。

 そうしよう……。

 それで……、終わりか……。

 それで……、帰るのか……?



 お寺に着くと和尚さん夫妻が暖かく迎えてくれた。

 さっきの耕運機のおじいさんがなんか電話を入れていてくれたみたいだ。勝栄さんと言っていた。なんか勝栄さんはとてもいい人らしく、東京から来た人間を何人かこのお寺に紹介しているという。もう感謝しかない……。東京くんだりから来てバカみたいにボーッと景色を眺めていた見も知らない人間に……。いやなんか、そんなんだから面倒見てもらったのか、もしかしたら。

 いろいろな人の親切のおかげで、こうして三日ぶりに温かい家庭料理と屋根のしっかりした場所で布団で寝られることになった。ありがたや、ありがたや。

 お夕飯に出てきた細長い油揚げを一本そのまま煮たものはとても美味しかった。煮汁に甘みがあって、やさしい味付けだ。美味い。もちろん玉こんにゃくも出た。イカと一緒に煮込んであった。これも美味かった。

 山形に来てから、こういった素朴な料理がとっても美味しく感じられる。そうそうただの白飯がうまいのもびっくりだった。

 もう……、これで充分かな。この思い出だけで、もうお腹いっぱいかな。

 お風呂もいただいて、今日泊まる部屋にきて、考えることはそればっかりだった。そればっかり確認していた。

 食事のときは美味しいばっかりでなにも考えてはいなかった。考えられなかった。食べるのに夢中だった。それも地元にいたときには考えられないことだった。

 でも一人になってみると……。

 こうして一人の時間がやってくると……、

 なんだか……、なんだか心が苦しくなってきてしまう。

 そう、旅の終わりを感じる。

 もう終わりだと思ってしまう。考えてしまう。その考えが離れない。どうしてもべったり張り付いてくる。

 ボクは首を振った。ぐるんぐるん。散らしてしまえ……。

 気分を変えるために、ちょっと部屋の中にある面白いものを見てみることにした。

 和尚さんは東大出身で、お坊さんの仕事をしながらボードゲームの研究もしているということだった。すごい英才だ。ボードゲームが棚にいっぱいある部屋も見せてもらった。ボードゲームってよくわからなかったけど、その数多あるカラフルな箱を見てるだけで、なんだかすごいって感心した。

 このお寺はボードゲームの愛好家が集まって泊まりながらゲームに興じるということだった。宿泊もそのために行っているようなのだ。ボクは筋違いなんだな……。

 このいまいる部屋にもボードゲームが置いてある。ボードゲームと一口に言ってもいろいろな種類があるみたいだ。ボクも小さい頃に従兄弟のユータとかと遊んだ人生ゲームもボードゲームだし、なんか積み木みたいなものを出たカードの順番で積み上げていくゲームもボードゲームというらしい。

 こう、なんというのかな、勉強になるもんだな。旅に出て、縁も由縁もない場所に来て、親切にされて、こういう風にいままで知らなかったものを勉強できる。

 いろいろあるな……。

 やっぱり……、

 もう、

 ほんとうに、

 充分なのかな。充分だと思っているのかな……。

 もう帰ったほうがいいか……。帰ろうかなあ……。なんとなく目的も叶っちゃったし、それ以外はなんかもうどうでもよくなったっていうか……。

 当初の予定では、この後、東北の神秘を探訪して、もしかしたらライダーの憧れ北海道に上陸して旅を続けようと思っていた。

 …………、

 …………。

 でも……、なんかな……。

 気持ちが……、

 ない……。

 あんなに旅に対して持っていた気持ちが、どこかへ飛んでいってしまった。いや融けてなくなちゃった……。あんなに心の底から突き上げてきていた想いというか熱というか、そういうのがどこを探しても見つからない。

 どこかに落としてきたのかな。

 どうしようかな……。

 帰って……、やっぱり、センパイにいままでボクの出会ったことや経験したことを、お茶でも飲みながら報告したい、かな。

 スーパーで玉こんにゃくを買って食べたこと。

 羽前成田駅で降りる人も乗る人もいない列車を見送ったこと。

 田圃と山を見たこと。水が流れる音を聴いたこと。

 おじいさんとか和尚さん夫妻とか。そうだ、旅の先輩のことも。

 ボクは旅をして、無事に目的の場所に着いて、そこで見て、アレを考え、出会って、どう過ごしたのか。どう考えたのか。それを話して話して、そしてセンパイは最後に言うんだ。ふむ、なるほどねって。なんか無性に聞きたい……。

「帰ろうか……な……」

 呟いてみた。

 なにも返ってくるわけがない。当たり前だ。誰も答えてなんかくれない。ボクにしか、ボクの行く末はわからない……。なにをそんな大仰なことを……。

 また大きく深呼吸した。大きく伸びをした。

 明日でいいや。それを考えるのは明日でいい。明日になったら……。

 気分を変えよう。気分転換。

 少し本でも読もう。もう一度あの『妖精作戦』シリーズでもいいし『アルケミスト』だっていい……。部屋の隅に置いてあるリュックのところにいく。こういう宿泊施設に泊まるときには必要だと思ってコンパクトに畳めるリュックサックを持ってきている。いろいろなバックから泊まるのに必要な荷物だけを移して持ってきている。確か本も入れてきたような……。

 …………、

 …………。

 ん?

 なんか面白いものを見つけてしまった。これは文庫本を読むよりもいいかもしれない。リュックのある近くには本棚みたいな小さい棚があって、そこには本とか地図とかノートとかが置いてあった。

 ノートが何冊かあって、たぶんこういうところの定番で、ここを利用した人たちがいろいろと書いたものなんじゃないかな。寄せ書きというか落書きというか、日記帳というか旅の思い出というか。

 試しに一冊取ってみた。中を見てみる。

 やっぱり……、いやちょっと違うな。

 ここはそういう場所なんだから当たり前か。ボードゲームの感想が書いてある。あとはゲーム大会の感想……、いや勝敗表みたいな感じで書いてあったりする。実況中継とか書いてある……、実況してないし……。

 けっこう書く人がいろいろいて、細かく書く人や絵を描いている人や面白おかしく書いているつもりでただの内輪向けのものだったりと様々だ。この人は潔いな、自分が勝ったか負けたしか書いてない。

 いろいろな人がいる。面白いと言えば面白いけど、なあんだと思えばそんな感じ。

 ボードゲームか……。やってみようかな。なにか覚えて、それを買ってバイトのみんなでやろうかな。

 そうしたら違う自分になれるかな。新しい自分になるのかな……。

 …………、

 …………。

 …………ん?

 いま、なに……?

 ぱらぱらめくっていたときになにか違和感のようなものを見つけた。数ページ戻って見る。どれだ、どれだ……。

 これだ……。

 これは……、

 なんだ?

 写真が貼ってある。写真がある。写真だ。

 写真が貼ってあるのは珍しくない。お酒飲んでいい感じにボードゲームに興じる集団の写真は何枚も見た……。

 けど……、

 これは……、

 これは……、

 なん、なん、だ……?

 急に胸に、いやお腹の中に大きなものが膨らんでいく。体全体に圧力をかける。

「ひぃっ……!」

 しゃっくりじゃなかった。

 喉に引っかかるようにして出たそれは、笑い声だった。

「ひぃっ、ひぃっ、ひぃっ……」

 なにかが突っかかったような笑いが止まらなかった。止まらない。止まらない。

 笑いが止まらない。ぜん息みたいにひくひくしながら笑ってしまった。

 波が、大きな波が、いくつもいくつも体の中心から押し寄せてきて止まらない。

 涙が出てきた。苦しくて涙が出てきた。いや胸が熱くなってきて涙が止まらない。

 揺れる揺れる。ゆらゆら揺れる。ざぶざぶ揺れる。ボクが揺れる。世界が揺れる。

 いつまでも止まらない。ぐるぐる止まらない。笑いが止まらない。揺れる。

 いつまでも、いつまでも。

 一枚の写真を見つけた。

 その写真にはオートバイが写っていた。

 スズキのマローダー250だ。タンクのアルファベットを読み取った。レアなバイクだ。250CC単気筒だけど大きなアメリカン。

 そしてそのバイクの前には……、

 知らない男の人が立っていた。

 センパイがよくするようにはにかんだような小さな笑いを浮かべている。センパイに似てなくもないけど、それは気のせいと呼べるぐらいのものだった。

 まったくもって、知らない人だった。

 写真の下には一言添えてあった。

「大好きな一条くん」

 だって……。



 朝になった……。

 出発のとき、玄関まで和尚さん夫妻は見送ってくれた。

 だから丁寧に挨拶をした。

 社交辞令ではなくほんとうにまた来るつもりだ。だからできるだけ印象を良く……。

 そしてSRに歩み寄ってエンジンをかけた。

 今日も快調だった。SRもだけど、ボクも。キック一発でエンジンは目覚め、すぐに規則正しいアイドリングになる。

 ヘルメットを被り、顎のストラップを締めて、グローブを嵌めた。

 荷物のパッキングとかが弛んでないかどうか最後の確認をした。

 相棒に跨った。

 そんなときだった。

 お寺の急坂を登ってきて駐車場に入ってくる一台のバイクがあった。

 残念ながらそれは小さいバイクで、いつ見てもレトロな感じがすごくいい。ホンダのスーパーカブだった。

 よく仕事用に使われているけど、このバイクは違う。後ろに大きな荷物を積んでいるし、革製の小さいサイドバックを付けている。

 旅仕様だ。これで旅をしているのか。すごいな……。

 乗っているのは女の子だった。髪が長くて後ろにまとめている。ボクが前に被っていたクラシカルなメットにゴーグルを付けたいた。そしてなにより驚くのは、旅しているというのに驚くほど軽装だった。白いタンクトップにジーンズのショートパンツ。サンダル。

 慣れた風に和尚さん夫妻の前までスーパーカブはやってきた。

 ボクのSR400をチラッと見ると、その女の子は大きな笑顔を作った。

 そしてボクに大きなVサインをする。なんかおどけた感じがずいぶんと可愛い女の子だった。

 これがあのライダー同士が交わす伝説の……。初めてだ。ボクも慌ててVサインを返した。なんか気持ちよかった。

 なんだか心おきなく出発できる。

 ボクはクラッチを握ってギアを一速に入れた。クラッチを緩めようとしたとき、和尚さんの声が聞こえた。

「やあ、○瀬ちゃん、久しぶり」

「はい、お世話になります」

 え? いまなんて……?

 それは、なんて名前を……?

 早瀬なの? 早瀬って言ったの?

 …………、

 …………。

 ……いや、いいんだ、もう。

 もういいんだ、そういうことは……。

 わかったんだ……。

 女の子は、今度はボクの方に向いた。手をメガホンのような形にして口元にあてる。

「また来てね! わたしも同じ地元なんだよ。次会ったら旅の話をしようね!」

 ボクは大きく頷いた。ヘルメットのボクが頷いたのがわかるくらい大きく。

 ボクは笑いながらクラッチレバーをリリースして走り出した。

 もう走り出してしまった。

 ボクはもう一度、旅に出る。

 ここからまた旅に出る。

 昨日の夜、決めたんだ。

 ボクの旅はまだ終わってなかった。

 いや始まってもいなかった。

 それに気付いた。

 気付いてしまったんだ。

 ボクは、ボクの旅をしていなかった。

 ボクだけの旅をしないと……。

 だから、

 ボクはまた旅に出る。



 この後、やっぱり東北の神秘を探訪してから北海道に上陸して、時間の許す限り走った。

 得るものは、特別になかった。

 特別なものは、なにもなかった。

 旅があるだけだった。



            おわり

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またたび 藍元丸五 @AIMOTO

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