7☆

 4月の終わりになっていた……。


 いや、まだだ。4月も半ばになったばかりだ。なんか上手くいかないな。こうなんというか、現実は月の終わりにだけ何かが起きるわけじゃないのだ。当たり前か。そうか……。月の終わりになったらなにも起きなくても呟いてみればいいんだ。4月の終わりになっていた。5月の終わりになっていた。6月の終わりになっていた。

「センパイ、なにをブツブツ言ってるんですか?」

 急にたれ目の丸顔が目の前に現れた。くっと息をのんで一歩後ろに飛び退こうとしてしまった。踏みとどまったけど。これがよくいうパーソナルスペースが狭いというやつなのか、ラブコメやラノベとかでよくみる……。あまりに急だし顔が近いから、びっくりした。

「センパイ! 次は……」

「ち、近いよ。ちょっと離れてくれる」

「すいません。目がわるいもので、つい」

 じゃあ眼鏡とかコンタクトを付ければいいのに……。と言いたいとこだけど、なんかそこまで踏み込むのは、いいものかどうか。

 実際こんなんで学校とかで差し支えないのだろうか。ボクなんかコンタクトだけど、もしものときの為に眼鏡だって持ち歩いている。

 だいたい図書館の社会的役割とか云々する前に自分の仕事に対する姿勢を考え直したほうがいいのではないのか……。

「センパイ、怒ってますか?」

「いや、怒ってない……」

「すいません。眼鏡はフレームが肌に当たるとかぶれて、コンタクトはアレルギーがあって……。使い捨てを試してみてできるだけ早く……」

 口から言葉が洩れていたんだろうか。気を付けないと……。

 意外と体が弱い感じなんだ……。なんか言い過ぎたかな。言動とか行動とか見ると、よくいう元気なヒロインのカテゴリーに入るんだけど……。ギャップもえを狙ってる……、わけじゃなさそうだしな。ボクも背は高くないほうだけど、目の前の女の子は更に低くてボクの首までしかない。それで体が弱いなんて、病弱ヒロインの枠なのか。でもフツーの大学生の女子にしか見えない。別に神でも宇宙人でも未来人でもない。(これはセンパイの口癖を真似した)

「センパイ、思うんですけど、やっぱり公共図書館のあり方は、このような貸出サービスだけに偏ったあり方では……」

 また始まった。もうこれで今日は三度目の大演説会だ。ご高説はもっともなことかもしれないけど、ボクもキミも立場はアルバイトなわけで、まずはアルバイトとして職務を全うするべきだと思うんだけど……。と言いたいんだけど、さすがに踏み込みすぎか……。

 リンリン……、とまた内線電話のベルが鳴る。いつも通りその内線は取らないで、書庫の隅にある荷物用のエレベーターに向かう。もう何度目かのことだからわかっていると思って声はかけなかったけど……、後ろを振り向いてみたら付いてきてはいなかった。まったく……。

「行くよ!」

「はい!」

 返事だけは頼もしい。今度こそは付いてきているのをしっかりと確認してエレベーターの前まで来る。もう箱はこの階に到着していた。今日はお客さんが少ないみたいだからいいけど。一応、次やることはわかっているらしく、荷物用の小さいエレベーターのドアを開けていた。そしてコウハイちゃんは頭だけじゃなく体ごと箱の中に入って中のものを取っていた。

 またいつものように名前を覚えていない。苦手なんだよな。それになんか名前を呼ぶのは自分から距離を詰めていくような強引さを感じてしまって。

 ちっこくて非力なコウハイちゃんは最初のこれだけでヒーコラしている。たぶん次回からは一人でこのローテーションの一角を任されることになるんだから、あまり手伝わないことにしていた。後ろから見ているだけ。いくら手伝ってオーラを出していても、つぎに困るのはコウハイちゃんなんだ。

 エレベーターから取り出したのはプラスチックのホルダーに入ったレシートみたいな紙だった。ホルダーはエレベーターに残しておく決まりだから、そこだけボクが手伝うことにしてコウハイちゃんの手からホルダーを受け取って箱の中に戻しドアを引き下ろした。

 コウハイちゃんの手には紙だけが残った。薄い紙でレシートと同じく感熱紙にプリントされている。これは開架にない本、つまり書庫に眠っている本を請求するための紙、請求票だ。この請求票に印字されている題名の本をできるだけ早く書庫から探してきて、その探してきた本をエレベーターに乗せ、一階のカウンターまで送る。あまりお客さんを待たせてはいけない、時間との勝負だ。これがこのローテーションの主な仕事だった。書庫出納というのはセンパイから教えてもらった。

「センパイ、これは……」

 紙を読んだコウハイちゃんはほとんど涙目で聞いてきた。もう何十回も教えてきたのに。また、なのかな。また、ですか。しょうがない……。これも仕事だから、また一から紙の見方を教える。

「まずはこの本がどの階に配架されているのかを見るんだよ。ここに三閉と書いてあるから三階の閉架書庫という意味なんだ。ここは二階だから文学関係の本しか置いていない。だから題名なんかを見なくてもこれはそれ以外の本なんだとわかる」

 ボクたちは早足で階段に向かった。その間に請求記号を確認する。図書館独自の番号の振り分けで、だいたいどの数字がどの種類の本を指しているのか暗記してないと素早く本を見つけることができない。この紙に書かれている請求記号は380番台だから民俗学とかその辺り。題もなんだか妖怪関係の本みたいだ。題だけ見ると面白そうに思える。

 コウハイちゃんはフムフムと頷きながら真面目に聞いている。聞き上手なのかもしれないけど、ほんとうにわかっているのかどうかは怪しいもんだ。

 3階書庫についた。一応、十分に説明したはずだから、ここからは黙って見ていよう。

 コウハイちゃんは紙を見ながら、そして書架のわきに書かれた案内を交互に見ながら歩く。書架が横向きの列となって連なる割と広い中央道を行く。この中央道から左右に細い脇道、書架と書架の間の道が走っている。最終的にはこの脇道に入って本を取ることになるんだけど。この中央道は階段近くの道と奥にももう一本ある。3門は奥のほうの道沿いにあるから、この中央道からでは遠回りになるんだけど……。

 コウハイちゃんは急になにかを思い出したように脇道に入ってそこは早足ですっ飛ばして奥の中央道に出た。そこで急に歩みが止まって、細い道を右左と覗いたりしている。奥の中央道までは合ってるんだけど、そこから先がまだわかってないみたいだ。さっき教えたんだけどな。

 左右に列をなしている書架は、側面を中央通りに向けている。そこにはこの書架に収まっている本の請求記号が書いてある紙が貼ってある。ほとんどがPCからのプリントアウトだけど、このまえの蔵書点検で本を移動した書架なんかはまだ手書きだったりする。でもその張り紙を見ればだいたいその本のある場所にはいける、はずなんだけどな。

 見ると、すぐ近くまできている。というかボクの立っているすぐ前、コウハイちゃんの立っているまさにその場所の通路を入っていくんだけど……。

 ああーあ、一つ向こうの通路に入っていってしまった。なにも確認せずに確信したように。そこじゃないのに。これは、もしかしたらもしかしてだけど、ボクの教え方が悪いってことだろうか。

 慌てて入って行った通路を覗くと、まったく見当違いの場所を見ている。焦っているのはわかるけど、ほんとうに題名とか見てるのだろうか。これはやっぱりボクの責任なんだろうな。

 去年、ボクが入ってきたときはセンパイが教えてくれた。センパイの教え方は手取り足取りみたいな丁寧な感じじゃなかった。でもボクは瞬く間に上達した。センパイは要点をしっかり細かく教えてくれたのだ。要点の要点みたいな部分も……。ガチガチだったボクに気楽にするようにアドバイスもくれた。

「書庫の出納はね、宝探しゲームだと思えばいいんだよ」

 書庫の場所や請求記号なんかが書かれた請求票は宝の地図で、探している本が宝というわけだ。宝探しではなく宝探しゲームだというのは、ゲームだから宝は必ず見つかるものだからと言っていた。ほんとうの宝探しだと宝は見つからないこともあるから、ゲームだったら宝を用意してあるから必ず見つけることができる。図書館で本を探すのだって同じだ。探している本は必ずあるんだから、ゲームのように楽しんで探せばいい。

 感銘を受けてしまった。もうそれからは緊張することもなく技術も上達した。同じバイト仲間の中ではセンパイの次に書庫出納が上手いと自分では思っている。自負ってヤツだ。

 でもなあ、こんな状況を見てしまうとボクはなにを教わってきたのか、悲しくなる。

 ああああ、それに最近センパイとも会ってないな。

「センパイ!」

「なに?」

「今度こそ見つけてしまいました!」

「なにを?」

「不明本です」

「…………」

「やっぱりですね、この書架の構造を抜本的に改革しないと不明本がなくなりませんよ!資料ひとつひとつにRFIDを付けたほうがいいと思います。資料は図書館にとっての財産ですから不明本などという不名誉な……」

 ボクは呆れかえってなにも言えず無言のままコウハイちゃんの手から請求票を奪い取って、正しい書架への小道に向かった。奥から二つ目くらいの棚だとあたりをつけて、本の背に付いた請求記号のラベルを流し読みしていった。該当の請求記号の場所を見つけたら、今度は題名のほうを流し読みする。

 あった。すぐだった。3冊目くらいだった。目の高さくらいだから台を持ってくることなく、ひょいと本を取りだした。背表紙を左手で掴むと表紙にはバーコードとその本に割り振られたID番号のシールが貼ってある。下三桁の数字を見て、手元の紙に書かれてあるID番号の下三桁の数字と比較して照合する。もちろん、ぴったり同じ。これだ。この本だ。

「あったよ、これ」

「あ、あ、あ!」

 後ろから不審そうに覗き込んでいたコウハイちゃんが目を見開いてヘンな声を出した。

「センパイ! まほーを使いましたね」

 だめだ、こりゃ……。

 本日なんどめかのため息が出た。



「センパイ、助けてください! もう限界です!」

 開口一番、叫ぶんだ。そしてこの気持ちを、やるせないこの気持ちをわかってもらうんだ。

 お昼の休憩時間になったら即コンビニに行って適当なものを選んで一刻も早くここに来た。休憩室のドアを開けて開口一番センパイに泣きつく……、はずだったのに。中にセンパイの姿はない。最近いつもそうだ。なんだかセンパイと会えない日が多い。このバイトを辞めたわけではないようだけど。

「え、昨日は出勤してましたよ」

 テーブル席で優雅にお弁当を広げていたサブチーフに聞いたら、そんな返答だった。ただ単にシフトが重なってないだけなのか。シフト表を確認してない自分が悪い。次はいつなんだろう。ゴハン食べ終わったら検討しよう。誰かと交換も視野に入れて……。

 チームを組むんなら断然センパイとがいい。

 早くゴハンを食べて書庫の片隅で検討会をして、その後はぶらつくかな……。

 テーブル席はサブチーフを中心にして若手の女子スタッフやアルバイトで女子会みたいになっていた。そこに入りこむのはちょっとパス。ドア付近のソファ席に逃げ込んだ。

 よっこらしょと腰をおろして、コンビニの袋からおにぎり二つとペットボトルのお茶を出した。梅おにぎりのフィルムをぱりぱり剥いていると……、休憩室のドアが開いた。センパイか! なんて振り向いたけど、なにを期待しているのだ、ボクは……。

「おつかれさまですっ!」

 すごい元気のいい声が休憩室に響く。やっぱりというか当たり前というのかコウハイちゃんが入ってきた。

「あ! センパイ! 隣いいですか!」

 目ざとくボクの隣が空いているのを見つけると返事も待たずに座ってきた。女子会に参加すればいいのに……。見た目だけだったらいまどきの女子大生なんだから、それらしく向こうに行けばいいのに。

 コウハイちゃんを誘ってくれないものかとそれとなくサブチーフを見たけど……、なんだか温かい目で見守られてしまった……。他のみんなも同じような目でボクを見ている。

「センパイ、聞いてくださいよ。昨今の図書館における現状を打破するには、やっぱり貸出サービス偏重ではなく、レファレンスにも力を入れるべきだと思うんです。それによって潜在的ニーズを掘り起こせるのではないかと、わたしは思うんですけど……」

 ……センパイ、助けてください……。



 やっと……、やっと解放された……。

 午後も同じチームで書庫出納ばかりやらされた。どうやらコウハイちゃんは今年入った同じアルバイトの誰よりも遅れているみたいなのだ。たぶん図書館の仕事にむいてないんだと思う。ガッツがあるみたいだから失敗してもめげないでやっているみたいだけど。偏差値の高い大学なんだから頭はいいはずなのにわからないもんだ。やっぱり、あの前のめりなところがいけないのではないだろうか。

 もうさんざん同じことを繰り返してため息まみれでウンザリしていたときに、やっと終業時間がきて交代の人が来た。「おつかれさま」の言葉を掛け合ったと同時にボクはすたこらとロッカールームに駆けだした。帰りまで一緒というのはたまらない。このままでは今日一日中図書館のあり方についてのご高説を聞かされることになる。もうほんとうに勘弁してほしい。

 さっさと帰り支度をすませてさっさと階段を降りて一階へと向かう。いつもだったらセンパイと一緒だったり他のバイト仲間としゃべったりでぐだぐだ図書館にいたりするけれど、もう今日は一刻も早くここから立ち去りたい。

 帰り際、普通だったら裏口から出るんだけど、ちょっと気になって職員用の駐輪場のある出入り口を使った。

 まあ、わかっていたことではあるんだけど。駐輪場にはセンパイのSR400はなかった。当たり前だけど。なんだかな。ほんとうになんだかな。

 もう春になったんだからボクもSRで通勤しようかな。でもなんか今更っていう気がする。センパイになんて言おうか。

 ボクもSRに乗ってるんです。でもなんか同じのに乗ってるのって少し恥ずかしくありませんか。だからいままで……。

 ダメだ。それだとセンパイと同じだから恥ずかしいみたいに聞こえる。そうじゃないのに、そうじゃないんだって。同じSRに乗ってるのに、このままだとボクは上辺だけで乗ってるような感じがして……、だから乗ってこられなかった……。

 でも……、でももういいかな。そんなことウジウジ考えてるのなんてオオバカだ。そんなことよりも素直にバイクに乗ってきて、それでセンパイとバイクの話をしたり、そうだ! アレを一緒に検討してもらうってのはどうだろうか。いいかもしれない。フィクションかノンフィクションなのかという話も大事だけど、それとは別にボクがアレに触発されて、旅というものを考えている、そんな話も聞いてもらいたい。装備をアップデートしている話だってセンパイならわかってくれるかもしれない。いつものようにうんうん頷いて、いいかもねって言ってくれそうだ。そうだ、そうだ、今度会ったときに話してみようかな。その後だな、SRに乗ってくるのは……。

「あ!」

 げ!

 まったく人間ほんとうに驚いたときにはアニメやマンガのように「ゲ!」とか呟いてしまうものなんだな。いやいやこれはアニメやマンガを見過ぎているから現実にそのような状況になったときにスタンダードとして自然に出てしまうようになってしまった、とか。

 たぶんどっちでもいいんだ、そんなことは……。この状況では、もう逃げられない。

「センパイ! 待っていてくれたなんて! じゃ、行きましょう!」

 どこに行こうというんだ。

 トコトコと自転車に歩み寄るとサクサク鍵を外して荷物をカゴに入れたら歩き出した。

「どうしたんですか? 早く行きましょう!」

 コウハイちゃんの頭の中では一緒に帰ることが既定事実になっているようだ。振り向いたその笑顔を見ていると……、逃げる気も失せた……。というか、初めから走って逃げるなんて考えてないけど。今までのボクのキャラにその選択肢はないんだ。つれない態度を取るのも大人げないし、もう一択しかない。

「ああ……、行こうか……」

 声は引きつっていたかもしれないけど、もうここまで来たら……。

「お金あんまりないので駅前のマックでいいですか?」

 いつの間にやら話し込む態勢になっていたりする。いいよ、もう。こうなったら毒くらわば皿までとか据え膳くわぬはなんとかだ。いや違うか。やけっぱちだ。

「大丈夫です。わたしが奢りますよ」

 コウハイちゃんはニコッと屈託なく笑った。眩しい笑顔に目が眩む。

 なにか特別な力に導かれてでもいるかのようにずるずると足を動かした。



「センパイ、わたしのことキライですよね」

「え……、え、と、そんなことないけど」

 またなんという微妙な話題から会話を始めるんだ。こんなの返答に困るのは当たり前じゃないか。キライではない。キライなんかじゃない。ただ……、

「わかってるんです。よくうざがられるので」

 これはボク個人に対してじゃなく対人関係全般に対しての話なのかな……。ボクは奢ってもらったロイヤルミルクティーに口を付けた。少しだけど間をもたせる。

 駅前のマックは覗いたらけっこう混んでいて、それで諦めてくれるのかと思ったらビルの二階にあるチェーンの喫茶店に連れ込まれた。彼女と同じものが無難だと判断してこれにしたけど、なかなかいける。

「センパイはいい人ですね。こうやって嫌がらずに付き合ってくれて」

 これは半ば強制的だったと思うけど……。まあ、いい人だという見解は否定できないな、こんな状況では。それとも優柔不断かな。なにも返答をせずに、というか返答のしようがないのでもう一口甘い暖かい飲み物をすする。

 なんだか少しだけわかったような気がする。大きな目をくりくりさせて光をきらきら反射させている状態のコウハイちゃんには、なにを言っても聞いてもらえないのだ。一人語りをさせておくしかないみたいだ。

「いつも思うんです。わたしが困ったなって思ったときには、いつもセンパイが側にいてくれます」

 そうかな……。なんだかボクがコウハイちゃんの教育係にされているだけのような気がする。これもたぶんいい人とか優柔不断とかの結果なんだろうけど。ボクってそんなキャラだったっけかな……。

「……戸惑っているときにはいつも後ろから助けにきてくれて……。とてもありがたいと思っています」

 ホントに? そう、見えていたのか……。ちょっと意地悪だったかもしれないと反省していたんだけど。それともこれは褒めているように見せかけて嫌みを言っているとか。なんかイヤな性格だな、ボク……。

「お昼休みのときだって、わたし、悲しくなっていたんです。あまりにも図書館の現状が立ち後れているのを目の当たりにして愕然としていました」

 そうだったかな……。いつもの調子に見えていたけど。わからないもんだな。

「そんなときにセンパイが優しく隣に誘ってくれて熱心に話を聞いてくれて、すごく嬉しかったんです」

 ち、違うと思うけど。なんか勝手に隣に座ってきたように見えたんだけど、気のせいかな……。いや気のせいじゃない。話だって勝手にまくし立てていたような……。まあ、もういいや。どうもコウハイちゃんの現実とボクのとでは甚だしい解離が見られるようだ。

「わたし今までこんなにも受け入れられたことがなくて……、なんか神さまに出会ったような感動を覚えてしまって」

 これはマジか? マジなのか? なんかさっきまで通常運転だったため息が発作のように何回も出てきた。一度、大きく吐き出すように咳払いした。喉になんか詰まってるような気がした。

「そう思うのは勝手だけどさ、そんなんじゃないよ、ボクは」

 そう、そんな人間じゃない。そんな優しくて頼りになるセンパイはボクなんかじゃない。

 それこそ、それはセンパイのことだ。それだけはきちんと言っておかなければ。

「そんな謙遜も素敵なセンパイです」

 うぐぅ、言葉に詰まる……。神さまに例えられて、それを全力否定するのは当たり前じゃないか。受け入れるほうが頭のおかしな人間じゃないのかな。

 この辺りで少し話の角度を変えたほうがいいのかもしれない。このままだとヘンなとこに足を突っ込んでしまいそうな気がする。

「そ、それよりも、どうしてそんなに図書館にこだわるのかな?」

 ま、でも、聞くまでもなくだいたいの予測はついているんだけど。たぶん、小さいころからの夢だったとか、小さいときに居場所がなくてそれを図書館で見つけて、それで恩返ししたいとか、そんなお約束みたいなありふれたものじゃないのかな。

 俯いてもじもじしていたコウハイちゃんの顔が上がる。やっぱりその大きな瞳がキラキラしている。なんだかそのキラキラはボクを不安な気持ちにさせる。ヘンなトコに足を突っ込むかわりに、大きななにかの尾を踏んだのかも、しれない。

「はい。待ってました! 聞いてください!」

 やっぱり、不安は的中だ……。



 それからみっちり一時間は幼少期の話を聞かされた。居場所がなかったコウハイちゃんの唯一のオアシスは図書館だったようだ。そして心優しい司書さんが自分のために探してくれた絵本や児童書のおかげで、本好きになっていったという涙ながらのエピソードだ。お約束といえばお約束な話ではあるんだけど。

「でもわたしは気付いたんです」

「ナニを?」

「いまのままでは図書館は衰退していきます。いずれはなくなってしまうかもしれません」

「そうかな……。いまのままじゃダメ?」

「はい!」

「でもいままでの話は、この現状の図書館に救ってもらったように聞こえたんだけど」

 ちょっとばかり意地悪な質問をしてしまった。言いたいことはなんとなくわかるけど、この現状を維持しているのはみんなのけっこうな努力があってのことなんじゃないかな。安易な変革はその努力を否定するものかもしれないし、変革という理想に逃げることであるかもしれない。どうだろうか?

「わたしのノスタルジーにとってはこのままのほうがいいですけど……」

「けど?」

「でも、わたしだけがいいなんてダメです。図書館はわたしだけのものじゃないです。もっとみんなにとっての有益な図書館でないと。それが本来の図書館のあり方だと思うのです」

「あり方、か……」

「居場所のない子のための図書館、それもすごく必要なことですけど、それだけじゃなくて社会に有機的に役立つ図書館というのも見てみたいんです!」

 それはごもっともなご高説だけど……。それは夢のまた夢みたいなものかもしれない。

「図書館が好きだから、図書館というシステムが本来どういうものなのか、どうあるべきなのか、いっぱいいっぱい勉強してきました」

 す、すごく前のめりになっている。勢いがすごい。もう体ごとこっちに乗り出してきている。顔が近いよ……。

「図書館というのはもっともっと社会に役立つシステムなんです。もっとちゃんと整備して世の中に周知すれば」

 まあ、そうかもな。でも社会に役立つことだけが存在意義ではないと思うんだけど……。

「わたしはそんな図書館を見てみたいんです。働いてみたいんです」

 なんか演説みたいになってきた……。

 うーん、なんか、なんかな……。

 うーん。

 うーん、と……。

 ああ……、そうか! なんかわかった。わかってしまった!

 こういう風にしゃべる子を確かにボクは知っている。いや知っていた。問題意識を常に持ち、社会に有為なる人材であろうと意識する高い志の人間。いつでも言葉と目に力が入っていて、前へと進み皆を引っ張っていこうとする人間。

 このコウハイちゃんもそうなんだ。この近距離から見る大きな瞳はキラキラしていて、そしてそこからビームでも発しているうような圧を感じる。

 ん? でもなんか潤んでいるような……。涙……、溜まっている。

「でも……、でもダメなんですぅ」

 イスに力なくすとんと座り込んだ。

 ボクもやっと前向きフォースから解放されてお尻の位置をずらした。やれやれ。

「わたし、こんなエラそうなこと言ってもダメなんですぅ……」

 ま、そうだよな。そうなるよな。

「わたしはあまりにも図書館の仕事にむいていません……」

 とうとう俯いた。泣き出しそうだ。いやこれはたぶん泣くな。元から感情の起伏が激しいから人目なんて気にしないんだ。なんかこれは割と困った状況なのかもしれない……。ボクは人目をけっこう気にするのだ。

「くやしいです。あんなにあんなに勉強したのに……」

 なんというか、かける言葉が見つからない。あの仕事ぶりからすると天性からダメっぽいし……。でもそんなに難しい仕事だろうか? 馴れれば誰もが無難にこなせるような気がしないでもない、ような。

「わたしは小さい頃から変わってないのがわかりました。図書館しか行くところがなかった頃の子どもと同じなんです。なにもできない、なにも変えることができない。子どもの時から変わってなんかいなかった……」

 やっぱり泣き出してしまった。でもそれは号泣とかそういう感じではなかった。俯いたままぼろぼろ涙をこぼすだけだった。

 弱音、なんだろうな。悔しい思いがずっと溜まっていたんだろう。こんなただのバイトのセンパイの前で泣かなきゃならないくらい弱り切っていたんだろう。

 変わる……か……。誰もがいまの自分から変わろうとするものなのかもしれない。どんなに人生を前向きに頑張って進んでいる人でも、いまの自分はダメでそこから脱却したいと願うものなのかもしれない。

 図書館の仕事を覚えるくらいで変わるとは思えないけど……。ボクはなにも変わらなかったから。でもコウハイちゃんは違うのかもしれない。誰でもできそうな仕事だけれども、コウハイちゃんならそれを糧として、変わることができるのかもしれない。

 ボクとは違う化学反応……。

 うん。まあ、いいや。そうかもしれない。見てみたいかもしれない。ボクがダメだった答えを、コウハイちゃんなら見つけられるのかもしれない。

「いいよ。わかった」

 なんだか自分ではないような、誰かボクの中にいるような、その人が発しているような声に聞こえた。内心めんどうなことになるとわかっているのに、止められなかった。

「ちゃんと仕事ができるように特訓してあげるよ。居残りだって付き合ってあげる」

 こうやっぱり……、顔を上げたコウハイちゃんの大きな瞳は瞬く間に輝いたのだった。

 大丈夫かな……。



 5月のおわりになっていた。

 ほんとうに5月のおわりのことだった。

「センパイ、助けてください! もう限界です!」

 今日は大丈夫。大丈夫のはずだ。ちゃんとシフト表は確認した。ローテーションが違っていたから朝はチラッとしか顔を見なかったけど、来ていることは確認済だ。ちゃんとお昼休みの時間が一緒なのだって確認してある。準備万端怠りなし、といったところだ。

 ドアを開けたその先に休憩室のテーブルにいたセンパイはきょとんとした顔をしていた。もうあのパンじゃなくコンビニのおにぎりを手に持っていた。3月のおわり頃だろうか、心境が変化したのかそれとも飽きたのか、センパイのお昼はおにぎりに変わっていた。

 そんなことは実はどうだっていいんだな。自分に対して内心でツッコミを入れる。なんかそれも嬉しさゆえの行動で、浮かれきっているのが自分でもイタイくらいにわかる。

 やっとだ。やっとのことなのだ。センパイに泣きつくことができる。

「センパイ! 久しぶりじゃないですか!」

 内心は嬉しいのに、尻尾があったらなんか振り回しそうなのに、こう素直じゃないボクは恨めしげにジト目をしてみる。

「ああ、そうだねえ。そうかもねえ」

「もう辞めてしまったのかと思っちゃいましたよ」

「ははは……、ほんとうは辞めて欲しかったということかなあ、それは」

 なんだか久しぶりで涙が出そうになる。こんな他愛のない会話がすごく心が安まる。図書館のこれからを考えるなんて話は一ミリも出てこない。これでアニメの話ができたら最高だ。春アニメは豊作なんですよ、センパイ。もうさっさとセンパイの隣に陣取って、ボクもコンビニの袋からおにぎりを出した。

「センパイ、聞いてくださいよ」

「もう聞いたよ」

「そうですか、それなら話が早い。ボクだけコウハイちゃんの相手をさせられてとっても疲れて、大変だったんです」

「え、そう? そうは聞いてなかったけど。なんだかすごく情熱的というか熱心に指導されて、とても感激したって聞いたよ」

 あれ、なんかおかしいな……。中身もそうだけど、なんかセンパイの耳に入ってきている情報の方向がヘン……。

「……え? ちょっと待ってください。それは誰に聞いたんですか?」

 てっきりサブチーフからボクの奮闘ぶりを聞いているのだと思っていたけど。サブチーフはしょっちゅう気にして聞いてきてくれるものだから、その度に涙ぐましい努力の数々を話していたのだ。

 センパイは黙って隣を指さした。

 そこには! いた!

 肩幅の比較的大きいセンパイに隠れるようにして小柄な小動物的なコウハイちゃんが持参しているいつものお母さん手作り弁当を広げていた。

 な、なんで! センパイと仲良くごはん食べてるんだ!

「今日は午前中はずっとチームで出納業務をしていたんだよ」

 センパイが説明してくれているあいだコウハイちゃんはボクを見てふふふと自信満々に笑っている。なんか釈然としない。

「いやあ、けっこうできてるじゃない。チーフやサブチーフにテストしてきてとか言われたけど、そんなの必要ないくらいだったよ。一人でも十分やっていけるんじゃないかなあ」

 コウハイちゃんの顔がますますドヤ顔になってる。なんて自慢げな……。

 ここまでくるのにどんなに苦労したか……。請求記号を覚えるところから始まって、どの請求記号までの書架がこの位置とか、この棚からこの請求記号はこっちに跳ぶとか、大型本などの別置の場所とか、もうほんとうに手取り足取りに近い感じで教え込んだ。

 ボクも大概物覚えが悪いと思っていたけど、コウハイちゃんのそれは超弩級というヤツだ。この図書館の業務以外では頭のキレを見せるのに不思議なくらいだ。たぶんもしかしたらコウハイちゃんは自分の好きな本が目にはいるとそっちに気がいってしまうからなのかもしれない。こんなんでは図書館の将来は心配だな。実感する。

 ほんとうにまったくもって(この言い回しはアレの影響だな)自慢したいのはボクのほうだ。ドヤ顔ってどうやるんだ? こうか。

「そんな難しそうな顔してないで。よく頑張ったね、二人とも」

 そんなぁ……、センパイ、ボクだけを褒めてください。

 コウハイちゃんはやっぱりその大きな瞳をきらきらさせて「はい!」なんていいお返事をしていた。ボクもしょうがないので「はい……」と小さく返事をしておいた。

 それからはやっぱりコウハイちゃんの独壇場で、話題はもっぱら図書館の機能とはどうあるべきなのかとか将来はどうあるべきなのかについてのいつもの話になった。

 でもセンパイはセンパイだった。ボクみたいに相づちを打つだけじゃなく、外国の図書館、特にアメリカの公共図書館を例に挙げながら知識や意見を披露していた。

 なんだかボクだけカヤの外に置かれたみたいでしょんぼりしてしまう。

 でもそれはそれとして、センパイの話はためになる。一生懸命聞いてしまう。頭に残そうと努力する。どっかの誰かさんの話は聞き飽きたから耳を素通りしてしまうんだな。

 センパイのこの知識の量は、司書の免許取得の講義を受けてるんだけど、その習ったことを軽く凌駕している。ボクも4月から大学の講義の中に司書免許取得できるものを入れてるんだけど、ぜんぜんセンパイに追いついてない。司書の免許は持ってないって言ってたけど本当だろうか。

 センパイって司書じゃないのに司書みたいで、いやそれを超えた存在みたいで、やっぱりボクはセンパイのようになりたいのかもしれない。ぼーっとしながらそう思った。

「……なので、有機的に図書館を機能させることが直近の課題なんです」

 ここはやっぱり拍手の一つでもしておかないとダメかな。コウハイちゃんのいつもの演説が一段落ついたところだ。

「いつも元気ね」

 立ち上がって拳を固めていつものように熱く語っていたコウハイちゃんの後ろにサブチーフが立っていた。涼やかな目元のクールな笑顔が秘書度を高めている。お弁当の代わりにバインダーを抱えているから休憩ではないみたいだ。

「ちょうど良かったわ。いてくれて」

「どうしたんですか?」

「今の時間、チーフはカウンターに出てて、お使い頼まれたの」

 こういうとき気の利くセンパイはサブチーフとの会話を引き受けてくれる。学生のアルバイトであるボクとコウハイちゃんはただ話の流れを見ているだけなのでとても助かる。

 サブチーフはクールな目元をのほほん組に向けた。

「早くて悪いんだけど、夏休みの予定がどうなってるのか聞きたいんだけど。今のところでいいんだけどね、お二人さん」

 心外だ。なぜ二人セットで扱われるのだ。まったくもってってヤツだ。

 言葉に詰まっているボクをよそに、そんなことは気にするべくもないヤツが一人、元気良く手を挙げていた。

「ハイ! ハイ! わたしはこの夏休みにアメリカの大学でやってる図書館実習講座に参加します!」

 おお、さすがにぶれないな。あれだけ図書館図書館と連呼しているんだから本場に行くのは当然か。センパイは「ほう」なんて感心した声でエライエライと子どもを褒める感じになってる。頭でも撫でそうだ。あんまり手放しで褒めないでほしい。暴走しそうだから。

「センパイも良かったらご一緒しませんか?いまならまだ間に合いますよ。二人で図書館の未来を大いに盛り上げましょう」

 一途すぎる大きな瞳が真っ正面から向かってきた。やっぱりそのセンパイはボクか。

 これは本気で言っているのか。冗談だったらできの悪いものだし、本気だったらもっとできが悪い。上手く例えられなかった……。 その向けられた瞳がキラキラ輝いている。そんな目で見つめてこないで……。なんだか自分が恥ずかしくなってしまう。ボクはそんな人間じゃないんだ。世界を大いに盛り上げるための団になら参加してもいいけど……、でもそれだって正面から仲間になるような人間じゃない。せいぜいアトラクションのライドに揺られて疑似体験がいいとこなのだ。

 いつの間にかボクに視線が集中しているのに気がついた。コウハイちゃんからは強力な視線ビームだけど、センパイもサブチーフもなんだかボクに答えを求めている。

 コウハイちゃんに乗るのか、どうなのか……。あり得ない。決して、ない……。

 いやいや重く受け取りすぎだろう。これは、あれだ、主旨としては夏休みバイトに出られるかどうかを聞いているだけなんだ。

 前途有望な大学生として夏休みをいかに有効に使うかの調査ではない……。だから普通に答えればいい。焦る必要なんてなにひとつない。去年と同じで、夏休みなんて予定がない。それでいいんだ。

 去年と同じでバイトとウダウダした日常。それでいいんだ。今年は図書館でのバイトなんだし、センパイだっているんだし……。

 なんか、

 でも……、

 ボクは……、それでいいのかな。そんなんでいいのかな……。

 急に、本当に突然に、なんの前触れもなく唐突になにかのイメージが湧き上がってきた。

 ボクは浜辺に立っている。ちょうど波が来るかこないかの辺りに立っている。

 静かに立っているボクを、遠くからボクが見ている。他人事のように見ている。

 なんだかボクは境目に立っているのだ、と瞬間的に知る。

 そしてボクは波に足を浸したいのかもしれない。冷たくて気持ちいい、その水に素足を入れたい、のかも。

 ボクはなにかを言った。

 ボクじゃないようなボクがなにかを言ってしまった。

 聞き取れなかった。

 覚えてない。

 どうしたのかな……。

 なにを言ったんだろう。

「……そう……。二人とも予定があるのね。チーフに伝えておくわね」

「シフト作りですか?」

「そうなの。夏休みはいつものことだからね」

 そうはいっても落胆しているサブチーフの背中を見送った。

 やっぱりそうなんだ……。予想は当たったけど、あまり自慢できるものじゃない。センパイだって予想できたように、早め早めに手を打つのがチーフの得意とするところで、それでいていつもいつもシフトのコトで頭を悩ませているのはこの職場の風物詩なのだから。

 ……ん?

 まだボクに視線が集中しているような……。

「なんかすごいねぇ。そんなキャラではないと思ってたけど」

「センパイ! なんだかすごいです! それは青春ですね!」

 は? なに? どういうこと?

 なんだか頭がボーッとしてしまって……、熱くなってボーッとしてしまって……、ボーッとなって混乱してしまって……。

 よくわからないんだけど……。

 お、覚えていないんだけど……、

 いや、そんなわけない!

 思い出した!

 ば、ばかな……。

 なにを言ったんだ、ばかやろう……。とんでもないことを言ってしまった……。

 とてもガラじゃない。キャラが違う。それこそ銀河のはじっことはじっこほど離れてるじゃないか……! まるで頭の中とは正反対のことを言ってしまっていた……。いま思い出してみても背筋が凍る。寒気がする。自分が言った気がしない。

 ボクはこう言った。朗らかな声で。

「夏休みはバイクで日本一周の旅に出るつもりなんです」

 信じられない。いくらゴーストが囁いたとしてもこんなことは絶対に言わないと思うんだけど……。

「大丈夫?」

「だいじょうぶですか?」

 二人同時に心配の声が出る。もしかしたらそれだけ青い顔をしていたとか。

 それなのに……、そんななのに……、またボクはニコッと笑って心ないことを言い放ってしまった……。

「だ、大丈夫です。旅に出るまでは死ねません……」

 なんだこれは……。



 相変わらずキック一発でエンジンがかかる。センパイのバイクはいつ見ても、なんかいい。仕事おわりにいつものようにノコノコと駐輪場までセンパイについていった。

「まさかバイクに乗ってるなんてね」

「すいません、だまってて……」

 なんだか心が痛い。べつに負い目に感じることなんてなにもないのに。話すも話さないも自由なんだし、告知する義務なんてないんだから……。そう思うけど、そう言い訳を並べている自分の心が申し訳ない感じがする。

 それに……、それにだ。ボクがもう少しコウハイちゃんのように無邪気だったら、素直ないい子だったなら、もしかしたらセンパイとバイクの話で盛り上がることができたかもしれない。もしかしたらもしかしてだけど、一緒に走りにいったりしちゃったかもしれなかったりして……。

 その機会をなくしていたのはボクだったのだ。ボクのヘンな自意識がそうさせたのだ。

「ま、あれだね。僕がアニメの話ばかりしていたから、話しづらかったね。ごめんね」

 気を遣われた……。センパイのほうが聞き役だったのに。こんなときに気遣ってくれなくたっていいのに……。

 センパイはいつものように会話しながらも荷物をタンデムシートにくくりつけたり、ライディングジャケットを着込んだりしていた。

 さっきからボクは話をどうやって続けようか、よくわからなくなっていた。センパイはそんな気まずい感じを和らげるように、いつものようにしていてくれている。

 ほんと、ボクはなにをやっているんだろう。いったいぜんたいなにをしたいんだろうな。もう春もとっくのとうに過ぎてしまったのに、頭の中は春のままなのかな。なんだかここ最近、頭が熱いのだ。いや頭だけじゃなくて、なんか熱いのだ。

「最近ヘンなんです……」

「え?」

「なんかこう、ヘンなんです……」

 センパイは夏仕様のジェットヘルを被りながらにっこり笑った。こうあんまりこんなにも崩れたように大きく笑うセンパイなんて見たことなんかなかったからドキッとした。

「ヘンじゃないよ。大丈夫だよ」

「そ、そうですか」

「ああ。大丈夫だよ」

 そう繰り返して言うと大きく頷いた。またあの笑顔が見たいと思ったけど、今度は静かな笑顔を見せるだけだった。でもこれもいつもと変わらない感じで落ち着くんだけど。

 センパイはSR400に跨った。口元の笑みは大きくなりかけた。

「今度はバイクの話をしよう。なに乗ってるか教えてよ。じゃあね」

 片手を上げるとメットのシールドを下ろして、クラッチレバーを握り一速にギアを入れて、左右を確認するとクラッチレバーをリリースしてするすると車道のほうを出ていった。

 やっぱり見送るだけだった。なにか言いたかった気もするし、なにかをしたかった気もするけど。そういえば、笑顔見たかったな。

 なんだかなにもわからないグニャグニャだ。頭をくしゃくしゃとかき回した。そうやってもなにもかわらん!

 ため息をついて帰ろうとしたとき、横を見たらコウハイちゃんが隣に立っていた。ボクが気付いたのを知るといつものようににっこり笑った。いやこれはニンマリか。

「センパイもバイク乗るんですね」

「ああ、言ってなかったっけ」

 言ってるわけがない。照れ隠しなのだ。あの発言をしたのを自覚してから妙にコウハイちゃんの顔が見れなくなってしまった。なんかなんか恥ずかしい。〝青春〟なんて言われたからかな……。

「今日もよっていきますか? おごりますよ」

「……いや……、今日はやめとくよ」

「旅の準備だから、ですか?」

 嫌みに聞こえてきてもいいようなものだけど、コウハイちゃんの瞳は図書館を語るときと同じくらいキラキラしている。言葉に詰まる。ほんとうは早く帰ってボーッとしたい気分なだけなんだけど……。ただ準備というのも、まるっきりウソなわけではないような感じではあるのかないのか。

 なんとなく二人で帰ることになってしまった。ボクが無言で歩き出したらやっぱりついてきた。もう図書館の仕事に関してはセンパイから太鼓判を押されたんだから、ボクから教えるコトなんてなにもない。

「残念です。一緒に図書館の研修に行きたかったです」

「それは……、やっぱりちょっと……」

「そうですよね。センパイにはセンパイの夢があるんですよね」

 ゆ・め……?

 夢か……。夢とかそういう大きなものではないんだけど。でもどう言い返していいかわからないから、そのまま黙っていた。

 違う自分というものを望んでいたボクは、どこかで旅に出ることを夢みていたんだろうか……。やっぱり。自分自身の心のことなのに自分では自信が持てない……。

「センパイはすごいと思います」

 そんなボクよりも自信満々に言われてもな。ボクはそんな目で見られるような人間じゃないんだけど。

「センパイは未来を向くときわたしとは違う方法をとることができるんですね。それは尊敬に値します」

 は? 難しい言い回しを使ってなにを言っているのだね、この娘さんは……。背筋にお尻から頭に向かって寒気が走った……。

「よく考えるんです。人間というのは生まれてから死ぬまでの間に、どこかへたどり着こうとする生き物なんじゃないのかって。どこへどこまで行けるのか、いまはわからないですけど、もがいたり歩いたりしていけば最後には自分の納得する場所にたどり着くんじゃないのかって、そんな気がするんです」

 コウハイちゃんはいつになく真剣でボクはその瞳の輝きから目をそらすことができなかった。自分でずっとずっと考えてきたことなのか、ゆっくりではあるけれど淀みなく言葉が出てきている。

 単純に羨ましいと思ってしまった。言ってることはあまりに理想主義的に感じるし、なんか実感がともなってないものなのかもしれないけれど、でもそれを信じて突き進む力みたいなものを感じる。あと数年したら言葉に実感が伴っていって、その言葉は人を引きつけ動かすことができるかもしれない。

「思うんです。人はそれぞれ行きたいところがあって、そして向かうべき場所があるって。あ、これは別に京都とかニューヨークとかいう地理的なことじゃないですよ」

「そんなの、わかってる」

「自分がどうしても行きたいところ、立ってみたい場所、そこに辿りつくまでどこまでも歩いていくのが人間であるのかもしれません。でも不思議な力が働いて思ってもいないところへ辿りついてしまう場所というのもあると思います。わたしにはそれが図書館でした。行きたい場所は未来の図書館だし、そうして辿りついた場所はこの図書館でした。センパイにとってはそれが旅なんですよね。わたしでは決してできない途方もない方法を持って向かおうとしている。それは尊敬しますよ」

 一気にまくし立てたため、コウハイちゃんは大きく息をついた。

「わたしばかり話してしまってごめんなさい」

 ぺこりと頭をさげたあと、顔を上げるとにっこり笑った。もう見飽きたと思っていた屈託のない笑顔だったけど今日のコウハイちゃんはずっと見ていたいと思わせるものだった。

「なんだか恥ずかしいです。こんなこと言ったのセンパイが初めてで……。なんかセンパイならわかってくれそうな気がして……、ごめんなさい。聞いてくれてありがとうございます。失礼します!」

 急に照れだしたコウハイちゃんは頭を下げてごまかしたのちに小走りで駆けていってしまった。

 こう取り残されたみたいになってしまった。いや、取り残されたんだけど。

 どうしようかな……。

 いまではなくて、これからのこと……。



 別に帰るだけなんだけど。

 心の持っていきばというか、そいうのをどうしようか、と……。

 いつものバイト帰り、同じバスに乗って、ウチまで歩いたんだけど、なんだかいつの間にかウチにたどり着いていたみたいになっていた。ほんとうにバスに乗ったのか、降りて歩いたのか、なんだか自信がない。

 今日起きたことというか、ボクが起こしてしまったことをずっと思い返していた。

 そしてこれだけは明らかに強く感じている。ずっと心臓の音がガンガン響いている。頭がボーッとしているというよりも全身が熱い。季節のせいかもと思った。もう5月も終わり、6月に入れば衣替えで半袖を着ることになる。たぶん暑いんだろう……。ぜんぜんそんな風には感じない。この熱さは、体に起こっている異変は、季節ゆえなんかじゃない。

 たぶん、わかっている。

 家の前まで来ていた。

 家を見た。なんだか少し落ち着いた。いや、出入り口に門の代わりに植えてある柿の木を見上げた瞬間のことだったかもしれない。

 ため息が出ていた。体から熱が出ていって、落ち着いた感じになった。

 ……別に旅に出なくたって……、周りを見ればわかるとおりこんなにもアウトドアなんだから、わざわざ外に行ってまでやることなんてない。バスを降りた辺りは割と住宅街なんだけど、ウチの前まで歩いてくると東京とは思えない感じになってしまう。

 それなのに……、なんであんなことを……。

 まだ青々とした枝を見上げていた。5時台なんてまだまだ明るくて、新緑よりも濃くなった葉が斜めからの光で輝いている。

 さすがに農家だったからだからか、山が近いからか、見渡せば植物や土や石なんかしかない。これで十分じゃないのか。なんとなくこの敷地でキャンプでもすれば旅したようになるんじゃないだろうか……。

 ああ、そういえば、やったやった。オヤジと一緒にキャンプの練習を庭というか敷地の中でやった。テントの設営や撤収。火おこし、後始末。調理もして、野外にテーブルを出して食べて……。オヤジが新しい道具を買ってきたときには、そうして練習した。なんかやってることがいまと変わらない感じがして、なんとなくイヤな気分になる。やっぱりオヤジの遺伝子が入ってるんだな。まったく……。

 でもオヤジのようにガチの山登りには興味はなかった。連れていかれたことはあったけど、あんまり楽しいとは思わなかった。キャンプのほうがまだしも楽しめたけど……、やっぱり自然の中でキャンプしているよりも、キャンプの練習を家でしているほうが楽しかったように思う。もしかしたら今更オヤジからの血が覚醒でもしたのか。だからあんなことを口走ってしまったのだし、最近のボクの行動を思い起こすとそうとしか思えない。

 出入り口から入っていって少し曲がった先にある母屋にはやっぱり今日も直行しなかった。いつものように右手わきに向かった。ガレージだ。物置というか納屋だけど、ボクが使っている間はガレージだ。

 もうほんとにもう、バイトが終わっても、大学が終わっても、休みの日にだって、いつもいつもここに来てしまう。憑かれているかのように。ここに来ていろいろごそごそとやらないと気が収まらないんだな。

 ……たぶん原因はやっぱりこれか。

 ガレージと呼んでいる小さい方の納屋の、そこだけはオヤジの使っていた頃から近代化しているアルミのシャッターを途中まで引き上げた。壁に付いているスイッチを入れると、最近取り替えたLED照明のせいか不自然に明るくなった。

 そこにはSR400がある。ボクのバイク。もう銀色の重たいカバーを被せてはいなかった。いつでも準備ができている、という状態はカバーなんてかけないものだろう。

 変わった部分はそれだけじゃない。

 これが大きな原因だ。いやこれだけじゃないな。これもこれも、たぶん全部。

 いまこのSR400には革製のサイドバックが両側に取り付けられている。タンクバックも付けている。これは革じゃない。機能性を重視したものを付けた。そして専用のキャリアも付けた。もうこの状態はファッションで乗るバイクじゃなくなっている。

 バイクに取り付けているバック類は家に当然あるわけがないので購入した。でも出費はそれだけじゃない。基本的にはオヤジの山での道具を貸してもらうし、みんなで行ったキャンプ道具も使えるものは使うつもりだけど……。旅に似合うものでいいものがあれば、バイト代をはたいて買い足してしまった。やっぱり旅に出るからには納得したものでないと、と思う……。

 …………。

 …………。

 …………これだな……。

 これなんだな……。

 旅に出るなんて本気で思ってなんかいなかったのに、心のどこかでは旅に出る準備をしていた。無駄なものを買ってしまっていた。ボクに旅なんて必要ないと思いながら……。

 なんなんだ、これは!

 アレを読んでから必要があれば自分は旅に出られる人間だと思っていた。ボクなら簡単に旅に出られるって。確信だってしていた。

 出ることができるから、あえて旅には出ない。簡単に旅に出ることができるボクがほんとうに旅に出てしまったら面白くない。でももしなにかが起きてしまって旅に出ることになったときには、躊躇わずに旅を掴み取れる。ボクには一歩を踏み出せる羽がある。

 そう思っている。いや思いたかった、というよりも自分に対してそう思わせたかった。アレのボクとは似ているようで違うのだと。

 そう思いながら、こうやって準備をしている時間は楽しかった。なんだか楽しかった。毎日わくわくする時間を持てた。ほんとうはそんな楽しいけど無為な時間を過ごすだけで良かったのかもしれない。用意するだけで満足していた……と思っていた。

 血、なのかな……。ボクに流れているオヤジからの血がそうさせているのかな……。なんかこれはマンガかラノベの主人公のようなセリフみたいだ。ぜんぜん違うのに。旅と登山じゃぜんぜん違うのに。いや似ているか……。キャンプするところは一緒か。いやいやそんな簡単なものじゃない、なに考えてる。

 ホント……、あの時、なんであんなこと言っちゃったんだろう……。あんなのまるっきりボクじゃないのに。やめです、ウソです、とか言えばいまなら止められそうだけど。

 止められるけど……!

 ほんとうに止めたいのかな……。そんなことしたいのかな……。

 …………。…………。

 やだな……。イヤだ。

 そんなのしたくない。止めるなんてしたくない!

 ボクは跳べるタイミングが来たら迷わず跳べる人間なんだ、そう思いたかった。そんな人間ではないかもしれないし、憧れなのかもしれないけどそう思っていたかった。だからいまそのタイミングが来て、絶好のタイミングが来て、ボクは無意識に自分に従った。

 なりたかった自分になるための一歩を踏み出す、それをボクは逃さなかった。無意識のボクは躊躇しなかった。だからこそぐだぐだしてはいけない。無意識がGOサインを出したのに、表のボクがうだうだしてはダメだ。

 センパイに見せた姿こそがほんとうのボクなんだ。それを自分自身で裏切ってはダメだ。

 センパイだったら、旅立つボクを見て必ず「うーん、すごいね」って褒めてくれる。応援してくれる。センパイの知らない世界に行くボクを認めてくれるだろうし尊重してくれる。はずだ……。それを裏切ってはいけないし、裏切りたくない、絶対に!

 それに……、もう一つあった。それを今日思い知った。

 コウハイちゃんだ。いやコウハイちゃんだけではないな……。

「あついな……、ここ」

 ボクはシャッターを全部開けて、そして窓も開けてこもってる熱を追い出す。

 でも熱は消えない……。

 ……コウハイちゃんだけじゃない……。これはリベンジでもあるのだろう。大学に入って、そして一年もウロウロして回ってきた挽回のチャンス。ボクが自信を持って言える、それを獲得できる、もしかしたら最後のチャンスかもしれない。コウハイちゃんにも言える。そしてもちろんもう会うこともないかもしれないけどあの子にも……。

 ボクはこういう人間で、こういうことをしてきた、だからこう考える。

 そう言える。絶対に言える。

 コウハイちゃんが言った通り、ボクにはボクの行き先があって、そこに立ったときに初めてなにかを言えることができるのだ。コウハイちゃんが熱く図書館を語るベクトルが、ボクにとっては旅なのだ。たぶん。旅に出て、そして帰ってくること。旅を体験して、それを経験とすること。ボクは必ずなにかを掴むことができるはずだ。

 そしてセンパイの隣にやっと立つことができる。

 そして……、

 大きく息を吐き出した……。

 なに熱くなってるんだ……。息まで熱い。燃えてるなんて恥ずかしい感じだけど、でもでもいまはいいんじゃないか。たまにはこういうのもいいかもな。

 ボクは寒くもないのに震えた。武者震いってやつだ。これからの行く先を考えると、心が震える……。

 よーし、やるぞー……!

 あれ? どうした? どうした、どうした?

 目の前が真っ暗になった……。

 張り切りすぎたか。暴走か……。



 熱が出た。風邪だった。二日間は寝込んでしまった……。

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