6☆

 なんだ、こりゃあ!

 なんなんだ! これは!


 心の中だけで叫ぶ。

 でも行動にはなんだこりゃ感が少しは出ていたと思う。

 持っていた薄い冊子を放り出していた。放り出したといっても机の上にぱさっと落としたくらいだけど。たぶん周りから見たら少し乱暴に置いたようにしか見えないだろう。

 ボクは人の目を気にしてしまうのだ……。たぶんだけど見てる人なんていないのに。ちょこっときょろきょろしてみる。やっぱりいない。休み時間なんだし、書庫の本を読むのは許されているんだから、まったく器が小さいな……。

 心の中ではもう全力で放り投げている気分でいるのに。それくらい憤慨していた。なのに実際は落としただけというか少し乱暴に置いただけ。自制心が働いたというか。やっぱり図書館で働いている人間が図書館の本をそんな風に扱うのは問題視されてしまうかな、なんて……。これもあまりにも小心者すぎるな。イヤになる……。

 ただなんとなくこの本というか、この冊子を読んでいるときには用心してしまう。色んな意味で自分に持たれているイメージを損なうかもしれない危惧がつきまとう感じがする。

 それにしても……。これはいったいぜんたいなんなんだろう。まだ周りを気にしながら、でもいつものように考えてしまう。

 机に置かれた本。いやこれは冊子と呼んでもいいだろう。B5ほどの大きさで中は二段組みで文字がびっしりだ。だからこそこの薄さに収まっているのだろうけど。

 この冊子……、ちゃんとしているように見えなくもない。いや、やっぱりちゃんとしてないかもな、これは。素人感が半端なくある。でも手作りにしてはそこまで酷くない。表紙は少し厚手の色紙だけど、製本はきっちりしているように見える。でも売っている本ではあり得ないレベルのもの……のようにも見える。ISBNのバーコードもない。

 図書館の本であるのかもあやしい。図書館のバーコードシールがどこにも見当たらない。この図書館固有の資料なのかな……。これと似た感じの表紙を持つ薄い冊子が大量に配架されている書架がある。そこの冊子であることが濃厚だけど……、やっぱり図書館のバーコードが付いてないのはおかしい。他の似たような冊子には付いているのは確認したから。やっぱり特別な事情があるのだろうか。それともバーコードが壊れて修理のためにこの机にあるのだろうか。だったらなんらかの修理は必要なのかな……。

 誰かの私物……、ってわけでもないのかな。ずっとこの机の上に放置されたままになっているから。ボクが知るだけで一週間近くも。

 その一週間ほど前に、ちょうど2月の終わりくらいに蔵書点検が終わった。この冊子の中に書いてあることと同じで、この図書館も2月の終わりに蔵書点検をしている。

 いや違うか……。たぶんこの図書館が舞台なのか……。明らかに同じ建物であるような記述がある。登場人物だってそうだ。チーフは四十代の男性で大柄で体育会系に見えるけど気さくな人柄だし、サブチーフは二十代(であろう、聞いたことないけど)で、クールな感じの美女だ。じゃ、最近のこの図書館のことが書いてあるってことなのだろうか。

 なにか違うような気がするんだけど……。

 ……そんなことが書いてあるこの冊子をボクが発見したのは、その蔵書点検が終わって平常運転が始まった頃だった。

 いつもほんの一コマだけどローテーションに資料の修理が入っていて、ほとんどがバーコードの張り直しなどの細々だけど軽い作業をしていた。書庫の隅の一角に机が一つだけ置いてある作業場所だけど、ボクはこういった細かい作業は好きみたいで、寒いんだけど上着を着ていつも頑張っていた。

 その机の上に無造作に置かれたままの冊子だった。修理の指示書もなかったから、ボクが手を出してはいけないものだとわかったので放っておいたんだけど……。次の日もそのままになっていた。だからなんというか気になってしまって……。どういったものなのか、休み時間に中身を見てみた。

 なんなんだろう。この冊子は……。いやこの中身は……。この中に書かれていることは、いったいぜんたいなんなんだろう。自伝とか手記とか。大まかな分類はそうなのかもしれないけど、なんかヘンなのだ。

 確かにこの図書館は何年かに一度、自伝とか手記みたいなもののコンクールみたいなものを開いている。市民の人が書いたそういったものを募集して審査して賞をあげて、そして本というか冊子にして図書館に収蔵したりしている。だからこの冊子も、それと同じものだと思われるんだけど……。そうに違いないものだけど……。なんかヘンなのだ。

 まず若い感じが存分にする。このバイトを始めたころ色んな興味がわいて出てたから色々な書架を見て回った。当然あの書架も見ていて似たような冊子を何冊かパラパラと覗いた。どれもが年配の人の書いた本だった。人生の回顧録だったり、闘病記だったり……。

 でも、この本は! 冒頭からユキちゃん云々とか書いてある! ユキちゃんって、もしかしたらたぶんだけど、あのユキちゃん?

 読み進めて、一章が終わるくらいのころ、これは旅行記なのだと当たりをつけたんだけども……。

 また放り投げたくなる衝動にかられた。

 旅に出ないで終わっている!

 なんなんだ、これは! 無精して長めになってしまった髪をかき回した。いつもやるクセで短いときはキレイにかき回るのに……。モヤモヤする。おわりって書いてあるから、これで終わりなんだろうけど……。これで終わりなの? もしかしたら続編とかがあるわけ? なんなんだ、これは! 書いた人間はなにを考えてる!

 いやいや、少し冷静になってみよう。これはたぶん、推測するにフィクションの可能性が高い。そんな証拠が多々あるから……。

 …………。

 …………ぐぅ……。

 なんかなんか、お腹がぐうって鳴り出した。書庫の片隅で静かなトコだから響いてしまったような。音と同時に寒さも足下からじわじわくる。こんなとこでこんなことやっている自分が愚か者に思えてくる。検証なんてバカみたい。

 なんか少しだけどうでもよくなってきた。貴重な休み時間にお昼も食べないで……。お腹がすいて、すきすぎた感じがして。

 この問題は少しほうっておこう。

 さあ、お昼たべよう。おひる。

 書庫は暖房が入ってないから3月だといっても上着がないと寒い。いまになって今日は上着を着てこなかったことを後悔した。

 思い切り立ち上がると古い回転椅子のどこかの部分でぎーっと鳴った。

 椅子か……、イスなら、あのハンモック式のシートがいいかな。いま流行っているし、座り心地はいいのかも。オヤジの持ってるなかにあったかな。やっぱり最近のはないかな。でもわかんないよ、ミーハーなトコがあるし。

 お昼休みの時間であっても書庫の大きな通路の電灯は点きっぱなしになっている。出納業務の為だ。でも、この一角はその業務に係わり合いがないから電気を消す。薄暗い。お昼時間帯のスタッフもどこかで整架しながら待機しているのだろうけど静かだった。

 ボクはだからその静かさを壊さないように、という理由を頭の中で言って、いつものようにこそこそと書庫のフロアを抜けた。いや別にこそこそすることはないんだけど……、やましいことなんてしてないんだけど……。なんとなく堂々とすることができない。小さいころからそうだ。まったく、困ったものだ。だからといって直すこともしない。いやそうじゃない。どうしたら直すことができるんだろうか……。どうしたら……。

 階段を一番上のフロアまで上がる。三階にはロッカールームと休憩室があるんだよな、この建物も。廊下の片側は窓になっているから図書館の中でも明るいほうだ。

 やっぱり最後の章はここが舞台なんだろう。蔵書点検のときに夕闇の廊下で人が待っていたりすると窓からの藍色で人影が浮き上がって見える。なんかその場面を読んだときゾクゾクした。

 それにしてもほんとけしからん。

 なんで旅に出ないんだ。なんであんなトコで終わるんだ。あれだけ旅に出るのはどうたらこうたらと言っておきながら、肝心要の旅に出るところまで行かないなんて。実話だとしたら、それこそ主人公のボクは根性というものが足りないし、フィクションであるなら起承転結もなってない中途半端すぎて読者の怒りを買うだけだ。

 うーん、放っておけと思ったのに、また考えてしまっている。

 いやいやこれは怒りだな、そうとう怒ってるんだ。一週間、ずっとあれに付き合ってきた。一週間、ずっとモヤモヤした気分でいた。旅に出るのかな、どうなのかなって、心が落ち着かなかった。それなのに、それなのに、なんか宙ぶらりんになってしまった。いつまでも考えが止まらない。

 今日も昼休みの時間を少し使って読むつもりだったから、朝来るときにコンビニで昼ゴハンを買っておいた。それをロッカーから取ってきてから休憩室に向かった。

 廊下を抜けて休憩室のドアを開けた。

「おつかれさまでーす」

 少し軽めの挨拶をする。こんな調子がこのバイト先でのボクのキャラになっている。少し明るいほうが馴染みやすいかと思って……。案の定、受け入られやすかったし、こういう風にしている限り居心地はいい。この場所限定ではあるけれど。

 ただ……、いまではその雰囲気を壊すのがちょっと怖い。こんなの長く続くだろうか。続けばいいと思っているけど、どうだろうか。

 休憩室にいるのは4人だった。相変わらず少ない。ボクはアレを読んでいたから遅くなっただけだけど、他の人たちは外に食べに行っているのだろうか。

 4人は二組に分かれている。一組はおばさまたちでちょっと話に入っていけそうもない。

 まあ、でも見た瞬間から考えるまでもなくもう一つのグループに合流すると決めていた。グループといってもたぶん近くで食べているだけかもしれない。もう少し積極的に行かないと気を引くことなんてできないよ、と思っている。ても、たぶんセンパイには無理かもしれない。

 部屋の中央にある大きなテーブルに向かい合って食べているのは、積極性の足りないセンパイとクールな美女のサブチーフだった。

 当然のようにセンパイの隣のイスに腰を下ろした。サブチーフの隣は緊張する。アレに出てきたサブチーフよりも気さくな感じはするけど、その理知的な眼差しで見つめられると萎縮してしまうというかなんというか。

 そんなクールビューティな感じのサブチーフだけど、今日は優雅なランチにはなっていなかった。いつもより少し早いペースで手作りっぽいお弁当を食べている。にしても乱れてないところがカッコイイ。

 おばさまたちは、ボクが合流しなかったことをとがめるわけもなく(当たり前か)、さも当然のごとくおしゃべりの続きを始めた。

 ボクはセンパイの食べている昼食がなんなのか目ざとく見つけて、いつものようにチャチャを入れた。

「あ、センパイ、またチョココロネとメロンパンですね。好きですよね、その組み合わせ」

 で、いつものようにセンパイは無言でパクつき始めた。怒ってるのか、それとも憮然としているのか、無表情な感じだからイマイチわからない。

 これはたぶんあれだろうか、昔のアニメで主人公の女の子が食べていたパンを真似しているんだろうか……。シャナとかこなただったっけ。らしくないと言えばらしくないけど、会うたびこの組み合わせはなにかあると思うんだけどな。一回、マジで理由を聞いたんだけど、なんか途端に無表情の中にも暗さが滲み出してきているというか、だから聞くのを本心から遠慮した。このセンパイとはこれからも仲良くしていきたいから無用な波風は立てたくない。

 センパイと話しているとなんとなくだけど、楽しい。だからいつものように、センパイを最近のアニメに引きずり込もうと、自分のお昼を食べながら今期のアニメの論評みたいなものをした。こういうのは割と得意なほうだ。大学でのサークルでいつもやっていることをそのままやればいい。

 でもなんだか話しているうちに今期のアニメに対する愚痴みたいになってしまった。そんな自分に気付くと自己嫌悪になる。サークルじゃ毒吐くやつらばっかりでウンザリしていたのに。いつの間にかボクも朱に染まっているんだと気付くと悲しくなってくる。でもね、たぶんだけど、春のクールに力を入れることにしているのか、冬アニメは不作というか力不足のような作品が多いように見えるんだ。人気マンガ作品のアニメ化とかあるのに、なぜなんだろう。

 そんなグチグチした話なのに、センパイは絶妙な相づちを打ってくれて、なおかつ滅多にない笑顔までして聞いてくれる。これが適当に話を合わせてくれているわけではないのだ。話のあちこちでこの声優さんはアレに出てた人だよねとか、キャラデザはあの作品と同じだよねとか、この監督はあの監督の下で働いていたよねとか、例はちょっと古いけれど的確というかツボついてくるような受け答えをしてくれるのだ。

 センパイも同じ人種なのだ。そしてたぶんとてもいい人なのだ。サブチーフも悪い人だとは思わないけど人種が違うのは明らかでボクの話なんて聞いてないし聞く耳もまったくもってない。まあ、忙しくて早くゴハンを食べないとだからかもしれないけど。

 センパイの醸し出す雰囲気をボクは好ましいと思っている。同じ世界の住人であることもその一因かもしれないけど。でももっと根元的なことというか。たぶん、サークルのヤツらとは違ってとっても大人なのだ。

 例えばどんな作品に対してもリスペクトがあって、その上で冷静に批評しているように感じる。オタク的なスラングも滅多に使わない。世の中に広まっているようなオタクが発祥の言葉なんかは絶妙なタイミングで使ってくるけど。なんだかオタク的な言葉で愚痴ってるボクがあまりにも幼く見える。

 それに、だ。センパイはボクが絶対に読まないような本の話もいっぱい知ってる。話としては少しだけかもしれえないけど、その少しが印象的なものだった。

 それはノーベル賞作家のカズオ・イシグロという英国人作家(日本人の名前なのに英国人なのもはじめて知った)の話だ。なにかの偶然で大学の教養課程で英米文学のレポートの話をしたときだった。カズオ・イシグロの話が出た。カズオ・イシグロの作品の主人公は『信頼ならない語り手』という要素があり、それが物語を表向きから裏側に向けさせるベクトルになっている。誰だか忘れてしまったけど英国人作家がカズオ・イシグロを評論している話を出して語ってくれた。

 ボクはもちろん図書館でカズオ・イシグロの作品を借りて読んだ。今までノーベル賞作家だということで敬遠していたけど、センパイの話の後だったからか、物語はすごく胸に響いた。そしてレポートを書いたんだけど、評価でAをもらってしまって、なんだか申し訳ない気持ちになってしまった。

 センパイは他にも(たぶん)膨大な知識をため込んでいる。でもそれをあんまり出そうとはしていないみたいだ。それに噂だと小説も書いているみたいだ。あくまで噂の範囲を出ないのはセンパイは誰にも(もちろんボクも含めて)話していないからなのだ。噂をたどるとチーフかもっと上の立場の人が言ったとか……。個人情報なのに!

 こう、なんというのかな、このセンパイはもう三十代くらいだろうけど若く見えて、なんか大学の先輩くらいに見えるんだけど、それなのに大学の先輩とは明らかに違う独特の空気みたいなのが周りにあって……。それなのに仕事はできる人だった。けっこう色々な人に頼られている。アルバイトを越えた部分の仕事も理解しているみたいで社員の人をフォローしたりしている。そこまでできる人はアルバイトの中にはいない。

 そうセンパイは社会人なのに学生と同じアルバイトをしている。不思議なことだ。センパイ以外は大学生のアルバイトばかりなのに普通に立っている。ボクだったら、なんか居たたまれなくなって辞めてるか卑屈になっていると思うんだけど……。

 なにか力というか想いの強さがあって、だからこそ平然とそこに立ち続けていられる。そんな印象を受ける。そうだ。超然としたって言葉が似合う。ナニを越えてしまったのかわからないけれど、越えることができないものを越えてしまったような……。想像力が豊かだねって諭されてしまいそうだけど。

 もうなんというのか本人には絶対に言えないけど憧れているっていうのか。なんか考えただけで恥ずかしい。そうなんだ。まるでボクの上位互換なんだ、センパイは……。

 そうこうしているうちにアレと同じクールなんだけど気さくなサブチーフは、お弁当を食べ終わってさっさと片付け始めた。なんかその流れるような動き(さすがサブチーフがやるとカッコイイ)に目を奪われる。ボクたちとおばちゃんたちに軽く挨拶すると風のように休憩室を出ていった。

 どうやら今日は人が急に休んでしまって、チーフが替わりにお昼返上でカウンターに出ているみたいだ。だからサブチーフは早くお昼を切り上げてチーフと替わってあげようというらしい。お昼ぐらいは食べないといくらあんな感じのチーフでも夜までは大変過ぎるだろうと言っていた。なんか愛だよね。

 管理職というのはほんとうに大変そうで、二人が支え合っていかないとダメみたいで、支え合っているから職場がうまく回っているのかもしれない。ま、もしかしたらさっきからおばちゃんたちがしている噂のようにチーフとサブチーフの仲はそれ以上なのかもしれないけど……。

 チーフは四十代くらいで、アレに出てくるチーフとだいたい同じ感じだ。体育会系のごつい体してるのに気のいい感じ。ただ少し若者のことを「わかってるよ」的なオーラを出すことがあって、そこがわかってないよねって思うときがある。でもそれでもウザイという感じじゃないから、そのぶん大人なのかもしれない。

 チーフもサブチーフも大人だよな。なんか思った以上にあの二人はお似合いなのかも。いやいや、これはイカン。困ったな。ボクはもう一つの、あまりというかぜんぜん広まってないカップリングを推しているのに。センパイとサブチーフだってお似合いだと思う。センパイとサブチーフはよく見ていないとわからないけど仲がいい。と思う。どうだろう? いまはなんとなくもどかしい感じの二人だけどもう一歩前進するようにコマを進めたい。

「そういえばこのまえサブチーフと話をしたんですけどね。サブチーフって『レッドツェッペリン』が好きみたいですよ」

「あぁ、ああ、そうなんだ」

 なんか動揺している。なんなんだ。ヘンなとこで動揺するから、次の展開が読めなくて困る。

「なんか意外ですよね。昔のロックバンドが好きって。似合わない感じがします。クラシックとか聴いてそうな感じじゃないですか」

「………………」

 うーん、なんか反応がイマイチだな。ここはやっぱりセンパイの知識の泉を活性化させてハートに火を点けろ! 泉の水じゃ火は消えちゃうからいい比喩じゃないな。

「センパイなら『レッドツェッペリン』の曲知ってますか? バンドの名前は聞いたことあるんですけど、曲はどうも」

 これは半分は嘘なのだ。その話を聞いたとき帰りのバスの中でググってみた。ただアニソンと違って洋楽はどこかわかりづらい。カッコイイとは思うけど肌に合わないというか。

「『移民の歌』とかだね」

 やっぱり知ってた。さすが、センパイ。

「それでどんな曲なんですか?」

「それこそググってくれ」

 間髪入れずに言い返されてしまった。鼻歌でもいいから歌ってくれればいいのに。マジメだな。でもなんだかセンパイの切り返しが鋭くて、お笑いのコントっぽかったから笑ってしまった。

「でも良かったじゃないですか。話題がこれでできましたよ」

「どういう意味?」

「いや、よく話をしてるじゃないですか、センパイとサブチーフって。仲がいいんじゃないかって」

「なにをほざいているのかね君。サブチーフと言えば天上の女神さまもかくやって美貌と知性の持ち主なんだから、まあ、僕とは釣り合わないね」

 そうかな。そう思っているのは自分だけなんじゃないかな。女神さまなんて形容使って茶化しているけど、そのワードを選択した時点で好意があるってことなんじゃないかな。まあ、今日のところはここまでにしておくよ。あまりつつきすぎて嫌われたら困るのはボクだし。次の機会までにまたネタを用意しよう。

「ほんと、『レッドツェッペリン』じゃなくて『レッドミラージュ』が好きだったら良かったですよね。話がもろに合いますよ」

「そうだね……、うーん、やっぱ独り言を口に出していた?」

「はい。少しだけ。ちなみにボクはGTMも好きですけど」

「GTMももちろん好きだよ。ただHMから続いているデザインだったからねぇ。もうMHが見られないと思うと寂しくて」

「GTMに対して期待が高くなりますよね」

 結局はこんな感じで話はいつも通りになっていく。これが一番しっくりくる。楽しい。こんな話がずーっと続けばいいのに。さっきまで感じていたモヤモヤが消えていく。

 そうだ! ついでだからもう一つ二つモヤモヤを解消してもらおう。

「センパイ、ちょっと質問があるんですけど」

「なに?」

 さてどう切りだそう。このモヤモヤの正体だってよくわかってないんだけど。いいや。たぶんこんな感じで。

「一条と早瀬という名前で連想するものは?」

「うーん、たぶんそれはもちろんマクロスだろうけど……」

 ですよね……。それしか思い浮かばないですよね。この組み合わせだと。世代じゃないのに、すぐにわかっちゃったもんな。

 でもそれはうんうん唸ってしまう結果なのだった。これではアレはフィクションだという証明になってしまう。主人公の名前が一条で、相手の女の子が早瀬で……、できの悪いパロディ……にもなってない。だったらいっそのこと相手はリン・ミンメイにでもしてほしかった。なんだか急にこの一週間が無駄に思えてくる。モヤモヤは膨らむ一方だ。

「そういえば新作ができるって聞いたねぇ」

「そうですね。そうなんですけど……」

「けど?」

「……もうひとつ聞いていいですか?」

 聞いてどうするというんだ。いくらセンパイだってこのモヤモヤに対して答えを出すことなんてできやしないのに。それになんというか、よくよく考えてみると、そもそもこれは答えが必要なことなのだろうか。ボクのやってることなんてただ単に自分のモヤモヤを気のいいセンパイにぶつけてるだけなんじゃないのか。八つ当たりというか。まあ、ここまで言ってしまって引き返せないけど。

 ボクの逡巡をセンパイは根気よく待ってくれていた。いい人なんだ。

「ユキちゃんと宇宙が関係していたら?」

「……なにかの連想ゲームみたいだね。それとも心理ゲームかな」

 といいながらセンパイは腕を組んで考えてくれている。

「そうだね、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース」

「ですよね」

「この答えによって相手の心理状態がまるわかりとか?」

「いえ、ただの知識の確認というか。ちなみにあの話ってこの辺が舞台でしたっけ?」

「いや、違うんじゃないかな。兵庫県の西宮とかじゃなかったかな」

 やっぱりそうだ。ボクの知識に間違いはなかった。どうもおかしなコトばかりだ。チグハグとでもいうのか。いや、たぶんアレではなくて自分の心のコトなのかもしれないけど。

 やっぱりフィクションなんだろう。もうほぼ確定的だ。本当のところフィクションであろうとノンフィクションであろうとどっちでも構わないのかもしれない。他の人間だったらそうなのかもしれない。ボク以外だったら……。

 でもなんか違う。何かが違うというのはわかるんだけど、その何かがわからない。もどかしい。

 はあああ……。心の中だけでため息をついた。もういいや。いまは欲望を充足することにしよう。そのほうが幸せだ。

 その後、いつものようにセンパイと他愛のないアニメの話をしてお昼休みを過ごした。



 午後の時間、センパイは一階のカウンター業務や書庫での出納業務、整架、配架のローテーションになっていた。ボクは今度は三階のCDやらDVDを扱う部署の仕事だった。改めて今日のローテーション表を見て確認した。午後も午前中と同じように書庫で補修整備の仕事だったら良かったのに。仕事は細かいけど自分のペースでできるし、休憩時間にはアレについて想いを巡らせることもできるのに。現物だってそこにはあるんだし。

 カウンター業務は気合いを入れないとダメなんだよな。お客さん相手は難しい……。などと愚痴から入るときは上手くいかないことが多い。午後はミスが多かった。小さいものだったけど、やっぱり落ち込む。

 就業時間が終わって、三階のバックヤードにあるロッカールームに向かう。ああ、この時だ。アレではバイトの女の子が待っていたんだっけ……。もう五時は過ぎているから、廊下の片側の窓は薄暗くなっている。アレよりは季節が進んでいるからか、少し明るさが残っている。

 あれ? 人影が……。センパイだ!

 ああ、でも残念。待ってくれてるわけじゃなくて、ちょうど帰り支度を終えたセンパイが男子ロッカールームから出てくるところだった。ちょうど出てきた位置が、ボクが想像していた早瀬さんが待っていた位置そのものだったから……、なんかこう……。

「おつかれさまでぇーす」

「おつかれ」

「待ってくださいよ。そこまで一緒に帰りましょう」

 なんかそのまま「じゃあね」と行ってしまいそうになるセンパイを引き留める。まったく意外と素っ気ない。いやこれは前に聞いたことだけど、センパイは相手のプライベートを尊重して就業時間が終わったら無駄話をしないようにしているらしい。気を遣ってくれているんだろうけど、いまはあんまりありがたくない。ボクのこの後の予定なんてまったくないから。センパイと少しでも話ができるほうが充実する。帰りの用意をして廊下に出ると、センパイは待ってくれていた。まあ、そこまでの距離なんだから無碍にするのもなんだと思ったのかもしれない。

 そういえばセンパイも革ジャンを着ている。シングルのライダースは使い込まれていていい感じだ。古着屋で買ってきたのだろうか。ちょっと聞いてみたい。一条くんの革ジャンはどんなのだろう。書いてなかったな。うーん、それにアニメ声の女子大生か……、そうとうネコ被っているんじゃないか。

「いや、普通にいるんじゃないかな」

「センパイは会ったことありますか?」

「え? ないほうが珍しいと思うけど」

 そんなものなのかな。声優志望とか。

「そんな特殊な事例じゃなくても……」

 やっぱりボクの人生経験が浅いだけなのか。周りにはいない……、ように思うんだけど。

 そんなことを話しながらスタッフ用の駐輪場に向かった。

 格好からもわかるとおりセンパイはこの図書館までバイク通勤をしている。センパイは革ジャンのポケットからキーを取り出すと、駐輪場に置いてあるバイクのヘルメットホルダーからフルフェイスのヘルメットを外した。そして持ってきた帆布のバックを後部シートにネットでくくりつける。

 ボクはその一連の作業を黙って見ていた。いつも思う。センパイはやっぱりボクの上位互換だ。

 センパイが乗っているバイクはYAMAHAのSR400だった。いまどきキック始動のクラシカルな外観のバイクだ。センパイは中古を買ったといっていた。なるほど、ところどころに錆が浮いている箇所がある。汚れもあるからあまり手入れされているようには見えなかった。でもセンパイはキック一発でエンジンを始動させた。安定したアイドリング。こんな寒い季節でも乗っている証なのだ。機関良好だ。どノーマルなSR400だけど、排気音は規則的なリズムを刻んでいて、聞いてて気持ちいい。

 センパイはもうフルフェイスのヘルメットを被ってしまっていた。流れるように手際がいい。センパイはSRなのにフルフェイスを被っている。寒いんだからそのチョイスは正解かもしれないけど……。

 SR400はスタイルで乗るバイクだと思っている。クラシカルな外観だからこそ、その歴史に見合うカッコで乗るべきだと思うし、そう思われているんじゃないかな。SRは乗る人にスタイルを要求するバイクなのだ。SRに乗る人はどんなカッコで乗っているのか、絶えず周りから見られていると思う。逆に言えばそういうスタイルの自分を見て見てと思っている人間が乗るバイクであるのかもしれない。いや、バイク自体はそんな思想はつゆほども持ってないと思うけど。

 でもセンパイは平気でフルフェイスを被っている。革ジャン、ジーンズはSRに合っているスタイルかもしれないけど、グローブはナイロンの防風仕様だし、ブーツではなくて革っぽいスニーカーを履いていたりする。普通のツーリング用のタンクバックまで付けていたりする。チグハグだ。なんかカッコ悪い。

 でもすごく自由な感じがする。クラシカルな外観なのだからカッコもクラシカルという固定観念はない。自由というか軽さがある。冬でも乗りたいんだったらカッコは二の次。そういう意志を感じる。いやそんな肩肘張ったものではなくて、もっと自然体なのかもしれないけど。

 なんだか落ち込み……。既成概念でガチガチなのはボクなのだ。恥ずかしい。

 用意のできたセンパイはSR400に跨る。「じゃあね」と言って手を挙げた。ボクも手を挙げて挨拶を返す。センパイはひとつ頷くとSR400はするすると滑り出して駐輪場を出ていった。いい走り出し。その走り去る後ろ姿を見送った。そしてボクもいつものようにバス停に向かって歩き出す。

 やっぱり考えてしまう。ボクはセンパイみたいになりたいのだろう、たぶん。

 センパイはネガティブな要素が多い。三十歳くらいだと言っていた。それなのに図書館のアルバイトをやっていたりする。ちゃんと仕事には就いてないみたい。それだけ見ると憧れる要素なんてないみたいに見える。でもそんなことを考えてしまうボクは、やっぱり何かに囚われているのだと思う。

 センパイにはそういった普通であることを超越したように見える。その先にいる。なにを超越したのか、どこに降り立ったものなのか、それはわからない。でも同じ地平線には立ってないんじゃないかと接していると思う。さっきは超然という言葉を使ったけど、なんか違うな、なんだろう。言い方がわからない。

 センパイはいまの境遇に動じていない。平然としている。それなのに周りの人には優しくて、いつも影でフォローしていたりする。独りでいるのを見るとすごく似合う。だからといって人を寄せ付けないわけじゃない。話しかける人がいっぱいいて、いつもほんわかした会話の流れになっている。不思議な人だ。

 ボクは、たぶんそんな立ち位置に憧れているのかもしれない。いや違うのかな。もしかしたらセンパイが見ている景色をボクも一緒に見てみたいと思っているのかもしれない。できればいままで見てきた景色も……。もしそうできたら変わることができるのかも。

 いつものようにバスに乗る。いつものように座れなくてつり革を握って揺られる。大きなカーブを曲がった辺りで体が斜めになる。

 そうか……。なんか思いついてしまった。なんでいつもよりこんなにもセンパイを意識しているのかわかった気がした。たぶんそうだ。アレを読み始めたからだ。

 アレは、アレこそがボクに近い。このまま行けばボクはアレのボクになる。その可能性は高い。いや、もっと悲惨かもしれない。ボクはわけのわからないまま、自分ではなんか違うと思いながら、でも黙ったまま仕事をしていくだろう。首を振りながらも歩みを止めないんだ。そして最後には、行き詰まる、そんな目に会う。

 だからこそ、アレがフィクションかもしれないと思ったら、こう怒りみたいな、でも形のないグニャグニャしたものが心にこもったみたいになった。

 アレのボクは小さくても一歩を踏み出した。よくわからない、なんの意味があるのかわからない、そんなんでも一歩を踏み出した。二歩目、三歩目で躊躇しているように見えるけど、踏み出したこと自体に価値があると思う。たぶんだから旅だって……。

 それが作り話だったなんて……。なんかガッカリというか。いやもっとひどくて心に穴があいてみたいになって、そこからどくどく洩れだしているような。穴に風が吹きさらされているような……。

 ボクは、どうなるんだろう。アレのボクはあのままで終わりなのだろうか。あの終わりの言葉のあと、続きがあるのだろうか。

 そしていまここにいるボクは……、どうしたらいいんだ。アレのボクが踏み出せたのだったら、ボクだって踏み出せるはずだ。似ている者同士、向こうができるのならこっちだって当然できるはず。それにアレのボクはまごまごしていたけど、ボクだったらもしかしたらもっと簡単に一歩を踏み出せるかもしれないという感触がどこかにある。

 似た者同士ではあるけれど、ボクにはアドバンテージがある。先行している者を見て後ろから行く強みではないかと思っている。それに多少の経験だってボクにはある。

 ただ……、少しは躊躇というか考えてしまうことがある。それは……、どこに、どのように、どれだけ踏み出していいのか……。そこがまだ形になってなくて、曖昧で、現実味にかけていて、だからボクの現実にはなっていなくて……。でもその一歩が見えたときには、絶対、確実にボクは踏み出せると思う。

 Piッ! 支払機にICカードを当てて降りた。いつもの通りのことをしていた。バスを降りてから気付いた。今日は小銭で払ってみようと思っていたのに。このまえ電車に乗るのに切符を買って乗ってみたのだ。なんだか少しいい感じがした。違うトコに行く感覚になったというか。だからバスも小銭で払ったら、もしかしたら一歩を踏み出せるなにかの足しになるんじゃないかと思ったのに……。

 なんか少しガッカリ……、いやアレのことも含めると大いにガッカリしてウチまでの道をとぼとぼ歩いた。

 少し歩くとウチに着いた。でもすぐには家の中には入らなかった。とりあえずガレージに向かう。ガレージとはいってもそんなカッコイイものじゃなくてただの小屋なんだけど。

 この辺りは東京都なのに辺鄙な田舎で、ウチもじいちゃんの代までは農家をやっていた。そのときに物置だった小屋で、いまでも農機具なんかが端っこに置いてある。

 主にガレージとして使っていて、なおかつそう呼んでいるのはボクだけなんだけど。それもこれもこいつを置いておくために……。

 小屋の中だけど銀色のカバーをかけている。少しでも埃がかかるのがイヤなのだ。なにしろ新車で買ったものだし、まだ一度も傷を付けてないから。距離もそんなにいってない。そしてそしてここぞという場所には気の利いた改良を加えたりなんかしている。

 ごわごわとした銀色のナイロン製のカバーを静かに剥がしていった。厚手の生地だから信頼性はあるんだけど、少し重いのが難点だ。

 SR400。これがボクのバイクだ。

 タンクの色がホワイトの限定色で一番気に入っているところだ。マフラーもヘッドライトもクロームの部分はぴかぴかに光っている。小屋に付いている貧弱なライトに照らされていてもこんなだ。一週間に一度は必ずバイクを磨いている。ワックスやポリッシュや柔らかいクロスで乾拭きとか。そのせいかタンクの表面なんかほんとうに滑らかで、置いた布が滑り落ちるくらい。柔らかいものが厚く厚く層になっている。

 大学に入ったときに、入学祝いといままで貯めていたお金を思い切って使ってこのバイクを買った。あ、免許取るのにも使った。あれから半年以上は経つのに距離はぜんぜん伸びてない。春も夏も、なんとなくもったいない感じがして乗れなくて、秋は忙しかったし冬は寒くて……。なんのために買ったのか……。薄暗い光の中でもきらきらなSR400を眺めてため息をついた。

 大学に入学することになって、いままでの生活を変えてみようと思った。なんとなくだけど、このままだと沈んでいってしまうような焦りがあった。いや息苦しさとか。

 アニメが好きな人間は、アニメ好きの集まる場にしか寄っていかなくてその中で生きる、みたいな感じがした。高校に入ったくらいまではそれで別になんの不都合も感じなかったし、楽しくて充実していた。アニメやマンガはいまでも大好きだから、そのままでもそれなりによかったのかもしれない。

 でもなんだろう。高校の頃に、なんとなくそんな生き方に苦しさを感じてしまって……。いや苦しいというか、ボクがボクでないような違和感……。それがだんだんボクの体を締め付けているような……。

 ボクが話す言葉は、実は通じていないのではないかと思うようになった。

 いままではなんの疑問もなかった。ボクの話す言葉は、その世界では通じているような気がしていた。ボクが話すあれこれは、ああそうだねと皆がわかってくれていた。ように感じていた。

 でも……、たぶん違う……。ボクの言葉は通じない。誰にも。同じ場を共有している人たちの中にいても、ほんとうの意味では通じてなんかいない。ただ通じているように見えているだけ。

 ボクはなにも語れてはいない。自分のことも、ボクの周りのことも、そして世界のいろいろなことも、すべて。なんだかなにもわからなくなってしまった。

 そういうことをわかってしまった。

 痛切に理解する出来事があった。些細なことなのかもしれない。ボクだけが重大に思っているだけ。なのかもしれない。でも……。

 高校のときに、地域交流と国際交流を混ぜたようなイベントを市内の高校の数校で共同開催するイベントがあった。ボクはその委員にムリヤリ入らさられたことがあった。くじ引きの結果は神さまの遊びのせいだった。

 半年間、会議という厳めしい名前の付いた話し合いが何回も行われた。性格なのか毎回きちんと出席してノートも取った。でもボクができたのはそこまでで、あとは周りと合わせることで精一杯だった。誰かの言った意見に賛成するか、でなければ反対だとしてもそれを言うこともなくただ黙っていた。

 でも……、開催まであと一ヶ月といった頃、ボクは変わった。表面的には……。

 同じ高校から何人か出ていた委員のうちの一人とよく話すようになった。同じ仕事を任されてしまって自然と一緒に帰ったりするようになったのだ。

 彼女は自分からその委員に参加すると手を挙げたといった。またとないチャンスであるというのに、教室内の空気は初めから誰に厄介事を負わせるかというものだったから、くじ引きとか言い出す前に手を挙げた、と。

 そう、なんというか、張り切っているというか、こういう風に生きるべきだ、いや生きていきたいと強く主張するような子だった。眉毛がぴくりと跳ね上がる仕草が、なんとなく彼女の意志を表しているように感じた。

 話していると、なんかぜんぜん合わない感じだった。趣味というか、好きなものというか。彼女はマジメだった。いやボクだってマジメにアニメやマンガが好きだけど……、ジャンルとしてマジメなものは得意ではなかった。彼女みたいにマジメなものをマジメに考えていくのが、なんというのか恥ずかしいというか、ボクたちじゃなくて大人が考えるべき問題で、ボクが考えるのは出しゃばっているように感じてしまう。

 そう思ってはいても……、彼女の姿勢の正しさは眩しかった。なんとなく心をグラグラ揺すられる。それに彼女の可愛い顔で怒ったように話す声を聞いているとなんとなく楽しかった。

 ボクはだからできるだけ話を合わせるようにしていた。知識を総動員しても彼女に付いていくのがやっとだったけど、でも頑張って熱く語れるボクになっていった。

 いや、そういう人間でいようと思っていたけど、内心これはダメだな、とも思っていた。ボクが話すたびに、言葉を口にするたびに頭の中でからんからんという軽いものが転がる音がしていた。話すたびに、ただかっこよさげな言葉だけを並べているように思えて落ち込むばかりだった。だから口から出た言葉は空気に触れるとすぐに消えていく感じだった。

 彼女の言葉だって理想主義的なもので、中身はうすいのかもしれない。でもそれはいまの段階ではまだ、というだけで、いずれは彼女のそのまっすぐで大きな器の中に中身が満たされれば一発で人を動かすような重たいパンチの効いた言葉になるような気がした。

 そんな二人が……、いやそんなボクの姿勢では上手くいくはずもなく、大規模交流会が終わった後は、同じ高校に通っているはずなのに疎遠になってしまった。いやいややっていたボクには当然の結末だった。口の中がイヤな味でいっぱいになった。

 その時からだった。ボクは自分の言葉というものを考えるようになった。ボクの話す言葉には、やっぱり何かが足りなかった。別にマジメな話をする気になったわけじゃない。相変わらずなんとなくマジメな話は苦手感がある。そうじゃなく、例えアニメやマンガの話をしていても、ボクの言葉の中になにか重要なものが入っているようにしたかった。

 そう思って……、そう考えて生きてきたのに……、なにかを言うたびにその言葉は空っぽなコップの中で音を立てているようにしか聞こえなくなってしまった。

 彼女はというと……、着々と言っていることに中身を入れるよう努力していた。その後は生徒会の副会長を務めていたし、卒業後は風の噂だけどアメリカの大学に留学するということだった。彼女は一歩進む事に中身を大量に自分の器に注いでいるように見えた。

 ボクのほうはやっぱりモヤモヤを引きずっていた。それは在学中よりも根深くなっている感じがして、卒業の頃はけっこう深く落ち込んだ。なんだかずいぶんと置いていかれたような気がして仕方ない。別に彼女の背中を追いかけたいわけではないんだけど……。

 鬱々していたボクは、卒業後数日して何かを決心しなければこれからを生きていけないと強く思うようになって、だから決心した。ボクのやり方でボクを変えていかなければいけない。いままでと同じ毎日をただ過ごしていてはダメだ。小さなことからで構わない。いままでの自分とはまるっきり違うことをやらなければ。

 だからこそ大学を入るのを機に少し生活を変えてみようとした。まずは手始めにバイクに乗ることに決めた。いままでの自分の生活とはまったくかけ離れた世界。だけども昔から妙にカッコ良さに惹かれていた乗り物。

 そう、バイクに乗ることが生活を変えることにはならないと、いまなら思うことだけど、あの頃は違っていた。自分とはかけ離れたライフスタイルこそが変革の鍵だと思った。周りの知り合い誰もがやらなかったバイクに乗る。それもファッショナブルなものに乗る。オタク的な、周りの人は知らないけど「これはいいものだ」みたいな考えは捨てて、万人が認めるものを選んで乗る。乗る人にもそれなりのカッコを要求するバイクにする。だから着るものだって持ち物だってバイクに合わせた。いままでのボクとはテイストが違うものでボクの周りを彩った。

 そうやって決意して新生活に臨んだのに……。それがどうしたことだろう。大学の空気にまごまご漂っているうちに流れ着いたのはいつものテイストの集まるサークルだった。居心地のいいぬるま湯のような環境で、うだうだと力ない言葉を吐き出す日々になってしまった。バイクに乗って通学する日もあるけれど、ほとんどが前と変わらない日常。

 そんな半年が過ぎて、なんだかすべてが重荷になってしまっていた。バイクの距離が伸びないし上達もしないのが憂鬱だ。わかったような話をしてもとても軽い言葉だけふわふわ流れていくだけの環境。勉強もイマイチ面白さがわからない。

 大学に行くのもイヤになって、それでもまだもがいていたくて、そうやって鬱々と大学の廊下を歩いていたときに掲示板に図書館のバイトの募集を見てなんとなく興味を惹かれた。図書館にはいままで寄りつきもしなかったけれど、ボクの言葉を補強してくれるものは知の殿堂ではないだろうか。天啓というんだろうか。その掲示板の募集はもう締め切りが過ぎてしまっていたから、地元の図書館のバイトを探して、いまに至っている。

 図書館の仕事をしたってなにも変わらない。センパイがよく使う言葉に、忸怩たる思いでのたうち回っているというのがあるけれど、それはボクにもあてはまるというものだ。ボクはなんの言葉も獲得していない。図書館自体にはそんな力があるわけじゃない。仕事をしていても知が備わるわけじゃない。

 でも、いまはなんとなくのたうち回るのもいいのかもしれないと思っている。ボクと同じくらいのたうち回っただろうセンパイの超然とした雰囲気を知ったのが大きかった。

 とはいえ……、目の前のバイクを見るとため息が出てしまう。それも少し長い。

 同じSR400なのに、センパイのものとは違ってキラキラ輝いている。

 センパイのは古めの車体なのか、フロントブレーキがドラム式でクロームの部分にところどころ錆が浮いている。洗ってないのか埃も被っている。あまり磨いてもいない感じだ。最初、まだセンパイとあまり話していないときには、センパイのSRを見て「勝った!」と思った。ボクのバイクのほうが断然勝っている。浅はかに思ってしまった。

 でもいまでは負けたと思っている。バイクの綺麗さは優劣じゃない。乗る人の想いという点ではボクは大負けなのだ。

 バイクは飾りじゃない、乗ってなんぼのものだと、センパイは口では言ってないけど、その行動で示している。ファッショナブルな格好じゃなくたって、フルフェイスのヘルメットを被っていたって、SRに乗るのになんの不都合もない。乗っている、乗り続けているほうが偉大なことなのだと感じてしまう。

 センパイはキック一発でSR400のエンジンを始動させてしまう。ボクは新車だというのに、キック一回でエンジンをかけることは、たぶんできない。儀式を慎重に行わないとダメだ。デコンプレバーを引いて、エンジンのシリンダー内圧力を抜いてキックペダルの抵抗をなくす。キックペダルをゆっくり踏み込んでいって、クランクケースの窓から目印が見えるようにする。そこから思いっきり体重をかけて勢いよく踏み込む。それでも良くて2回目でやっとかかるかどうかだ。なんだかもうため息すら出ない。

 ……でも、なんかちょっと、今日も磨いておこうかな……。いつもの通り、納屋に備え付けの棚にカバンを置くと、工具箱というかバイク磨き箱の中に入れてある軍手を取ってはめた。3月の初めだから、いくら納屋とはいってもコートは脱がないでそのまま作業をする。多少汚れても大丈夫だから大丈夫。クリーム用に使っているウェスを取り出してきてクロームの部分から磨き始めた。今日は乾拭きだけにしておこう。

 所有している人間は大したことないのかもしれないけど、バイクはそうじゃない。価値ある存在なのだ。手に入ってもボクの生活はあまり変わらなかったけれど、こうやってSR400を磨いていると良かったと思える。こうしているだけで、なんかいい。見ているだけでも楽しい。これが『相棒』を手に入れたということなのだろうか……。アレのボクもこんな気持ちだったのかな。

 なんか少しむかついてきた。思い出した。一条なんて名字、絶対にとってつけたに違いない。たぶん名前はヒカルだ。まったく腹立たしい。アレがフィクションだったなんて。まったく! まったくっ!

 まあ、読んでる途中でもおかしな場面とかあったけど……。あの人の去った後とか、ドワーフの店主とか……。それに明らかに山の中での神さまの件はジブリみたいだった。でもそれは、なんというか、あれなんだ。センパイから教わったマジックリアリズムとかいう表現手段だと思ったんだ。アレのボクが体験した現実は脳内ではああいう風に変換されたのだと、ボクは解釈した。

 それなのに、ああ、それなのに、すべてが作り物だった(かもしれない)なんて……、腹立たしいったらありゃしない。

 なんか裏切られたような感じがすごくする。

 今日まで、そう今日の午前中までは、アレのボクとボクは同じ生身の人間で、同じようなところで躓く似た者同士だと……、信じていたのに。似たところがたくさんあって、でもアレのボクのほうがボクよりも先に色々なツライ目を体験してしまって、たぶんこのままだとボクも同じような目にあうような気がして一挙手一挙動に目が離せなくなっていた。

 境遇だってまったく違うし、そもそも明らかに別個の人間なのだから完全に同じ目になんかあうとは限らないのに、でもボクはボクのように感じていた。ボクがあの世界でもがいているように思った。そのあがいている手足の動きが、ボクがしているように感じた。いやこれからのボクがするように。

 ボクがバイクに乗って旅に出ようとする気持ち……、ボクはすごく納得した。ボクの人生を変えるには、いままでボクがしたこともないようなことをしなきゃダメなんだ。

 確かに旅に出ただけじゃなにも変わらないかもしれない。ボクがバイクを手に入れただけじゃなにも変わらなかったのと同じに。そんなに上手くいくわけがない……。

 でも……、ほんとうにそうかな……。ボクはバイクを手に入れただけだ。アレのボクだってバイクを手に入れただけだ。

 まだ、なにもしていない。

 旅にだって出ていない。

 だから全部が「まだ」なんだ。

 これから、なんだ。

 もしかしたら……、

 ボクが旅に出たならば……。

 そうなんだ。旅に出たならば、変わるかもしれない。変わりそうな、予感がする。

 フィクションであるアレのボクはとうとう旅に出られなかった(だろう)。続編がないからわからないし、書かれなかったら一生旅には出られないはずだ。

 その旅に、ボクこそがいち早く出られたならば、どうだろう。旅に出るか出ないかは、まだボクの手の内にある。だからこそ、ボクだけが旅に出る権利を持っている。

 人生を変えられるチャンスを、ボクのほうだけが持っていることになる。

 なんてね。夢想だな。幻想だな。わかっている。旅に出たってなにも変わらない。ただ行って帰ってきておしまい。そんなのはとうにわかっていることなのだ。一大決心をして生活を変えると息巻いて、バイクを手に入れて、それでどうしたというんだろう。旅に出たってきっと同じだ。ボクはボクだ。ボクは変わらない、ような気がする。

 それに旅って……、旅ってなんだろう。

 旅は旅行とは違う。ツーリングとも違う。アレのボクのようにナニモカモ辞めてするものが旅というのか……。現実的じゃないな。リスクが大きすぎてクラクラする。ぐらぐらする。ぐらぐら……、それはでも、途方もなくて眩暈がしているのか……?

 ぐらぐらしているのは……、旅に出る行為があまりに魅力的すぎて心が揺すられているんじゃないのか。

 ボクならできる。ボクなら変われる。旅にさえ出たら……。ボクだったらすぐにでも出られる。その思いを……、どうしても捨てられない。いくら否定的な意見を言い立てても、頭は言うことを聞いてくれない。

 なんだかぐちゃぐちゃだ、最近……。

 バイクを磨き終えた達成感と苦り切ったため息が同時に出てきた。もうなんかいため息をつけば気がすむのだろう。

 ウェスをバイク磨き箱に放り込んで、軍手も外して同じように投げ入れた。

 そして納屋の片隅に目がいく。これだってため息の原因の一つになる。なんだってこんなしょうもないことをやっているのかな。自分のことなんてなにひとつわかってないという証拠がそこにある。

 棚には、キャンプ道具が整理して置いてある。いやボクが置いた。箱から出して、使えそうなものを出して整理して置いた。旅に出るのに使えそうなものを……。

 アレのボクとボクとは大きな違いが、これだ。それは決定的でもあるし、大したことないことかもしれない。

 ボクはキャンプの経験者なのだ。小学生のころから中学生の始めころまでだけど……。オヤジは山登らーで、アウトドア派なのだ。いま思い出してみてもいろいろなキャンプをした。家族でこぢんまりと、友人家族や親戚とか大勢でとか。オートキャンプに山登りキャンプとか。だからウチにはオヤジがソロで山登りするときに使う登山道具や、ファミリーキャンプの道具やら、すでに揃っている。それはここに元々あったものだ。

 この小屋は納屋として役目を終わったのち、ボクがガレージとして使うまではキャンプ用品が仕舞われていた場所なのだ。その中からソロツーリングに見合うような、いや旅に似合う道具を見繕っている。

 やっぱりそれは、アレを読んだときから始まっている。アレにはキャンプ道具が出てくるけど、名前などの表記はない。一応ネットなどで調べてみたからだいたいの目星はついているんだけど。

 ボクは……、なにをしたいか、いやしたかったのかというと、ボクなりにアレをアップデートしたかった。バイクもキャンプ道具も装備品も、より旅に相応しい洗練されたものがいいのじゃないかと思っていた。そうやって自分なりに想像して、実際に箱から取り出してみるだけでも、なんかわくわくした。

 オヤジの山登りの道具、それもキャンプしながら登山するときの道具は、さすがに玄人っぽい定番で機能性を重視したものを揃えているようだ。わかっているな、オヤジ。

 ただなんとなく旅に必要な、なんというのか、そう、こうファンタジーみたいな要素、それがオヤジのものには少ない感じがする。ガチの山登りじゃないからなんだな。まだファミリーキャンプのときの道具には、そういったファンタジーというか想像したときにカッコイイなと思う道具があったりする。ただソロで使うには……、バイクに積むには大きいというか、嵩張るというか……。

 いまはオヤジはなんか仕事が忙しいみたいで、あんまり山には行っていない。ボクもファミリーキャンプって歳でもない。だから道具はきちんと仕舞われていたけど箱には埃が被っている状態だった。箱から出して、使えるかどうか確認して、手入れをしてみて、そして吟味する。

 どれを持っていったらバイクの旅に似合うだろうか。

 テントは、やっぱりオヤジの使っていたものが小型で設営もしやすいから、これだろうか。こういう携帯しやすくて機能性のいいものは山登りの道具に限るのかもしれない。そう思っているのに、マットは銀マットしか見つからない。これは今風の良いものを買ったほうがいいのかもしれない。

 ストーブはガスカセットのほうが初心者向きだとアレのボクも言っていてその通りだと思うけど、あいにくとボクはずぶの素人ではないから、ここはガソリンストーブを使おうかな。オヤジの持ってるこのブルーのカバーが付いている四角いのはなんかいい感じがする。難しいかな。でもネットで見たら絶版になっているみたいで、それを使うのもなかなか……。それともこの深緑のタンクの上にバーナーが付いているものも捨てがたい。

 こんなことしてるとどんどん時間が過ぎていってしまう。どんどんどんどん。いい加減時間が過ぎたころに、スマホが合図の音を鳴らす。たぶん母親からゴハンができたとメッセージが来たのだ。家族はいつもバイトから帰ってくるとボクが納屋でごそごそなにかやっているのを知っているから、どこにいるかとかじゃなくてゴハンできたというメッセージしか送ってこない。それでやっと気付く。もうそんな時間なのだ。いつも時間を知って驚く。こんなにも長い間やっていたとは。

 足の先が冷たい。この辺りはまだまだ寒い。こんな時期に長時間やることではない。バカみたいだ。この納屋にはなんでかオヤジが薪ストーブを付けている。そしていつも次回からは点けようか悩む。暖かければもっとここで悩んでいられるのにって。でもバイクがあるから危ないか……。

 ぐぢゅん……!

 鼻水混じりのくしゃみが出てしまった。

 まったく、いい加減にしないと……。

 ため息の代わりにもう一度くしゃみが出てしまった。

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