二月の終わりになっていた。


 最後の一冊だった。

 一番右端の書架の一番下の段の、その一番右隅にある一冊。それを慎重に引き抜く。この時に背表紙の上の部分を指で引っかけて倒すように取ってはいけない。確実に本を傷めてしまうから。そんな細々としたことだけど、やっぱり本好きには大事なことで、そういったことは全部ここで教わった。

 前の職場でも本を丁寧に扱うことは指導されていた。でもそれよりも段ボールに詰め込んで発送先に送る流れの方が重視されていた。なんか違う感じだ。ま、ここでのことも特殊性のある限定的なことかもしれないけど。

 最後の一冊を手に取った。本の背を左手で掴むと、ちょうどバーコードのシールが貼られている面があらわれる。これは全国どこでも同じ仕様になっているということだった。特殊な事情とか特殊な本以外は。

 基本的に縦書きの本はこうやって背を掴むと裏表紙があらわれる。この本は縦書きなのだろう。裏表紙だ。バーコードシールも定位置に貼ってある。反対に横書きが主体だと題名なんかが大きく書いてある表表紙になる。ただバーコードは表紙の絵にかかったりするかもしれないから定位置じゃない場合も多々ある。その場合は少し狙いを定めないと。

 この棚は300番台だけだから、ほとんどがお堅い本ばかりで、だから縦書きが多くて裏表紙の定位置にバーコードシールが貼ってあるものばかりだ。機械的に作業を進めるには好都合だ。

 ボクは右手に持った電気シェーバーみたいな機械をバーコードに近づけた。すぐに表紙の上を濃い赤い光の走査線が一本あらわれる。その赤い光の線をバーコードの黒い縦線が並んでいる上にクロスするように重ねる。

 おお、きた。手にぶるると振動が伝わる。機械が読みとった反応を返してくる。不思議なことだ。もう何百回、いや何千回、それも五日間毎日やっているのに不思議だと思う。機械的にホイホイと進めている間は熱中しているからそうでもないけど、こうやって一区切りの時には必ず思ってしまう。

 このぶるるという手に伝わる感触は生き物みたいに感じる。バイブレーションだとわかっているけど、なんだか妙に生々しい。昔、ほんの小さい頃、一度だけ従兄弟と一緒に釣り堀に行ったことがあって、ニジマスを釣った時のことを思い出す。これを初めてやった時にその思い出が甦ってきた。釣り竿に伝わってきた魚の感触が同じに思える。

 図書館を回遊する知識という魚を釣り上げたということなのか……。いやいや、釣っただけではダメで食べないと血肉にならない。知識は読まないと身にならない。

 この今日最後の作業の本を手にして、これはどんなものなのだろうと考えてみる。

『民俗社会における民間信仰の役割--稲荷神社と地蔵菩薩』

 うん、たぶんちょっと難しそうだ。釣ったのはいいけど歯が立たないってヤツか……。まあ、でもこの釣りは知識を釣り上げるものじゃないからいいのか。本に個別に付与されている番号を一つ一つ釣り上げることが目的なのだ。番号さえ手に入ればそれでいいのだ。

 チーフの話だとこの後にも重要な作業があるようだ。PCの中には書架ごと、そして棚ごとの並び順で番号がデータベースとなって構築してあり、このさらってきた番号と照合していくらしい。これで無くなっている本がわかったり、場所が違って配架されていたりする本がわかるとのことだった。

 どこの図書館でも年一回は行っている蔵書点検というものだった。昔の呼び名を使っている人もいて曝書ともいうらしい。なんか昔から、この2月の終わりの期間に図書館は一ヶ月近くも休むよなあ、とか思っていたんだけど、中に入ってみるとよくわかった。

 蔵書点検は大切だと思う。

 ヒューマンエラーはできるだけ起こさないことが重要だけど、やっぱりどうしても起きてしまう。配架ミスは防ぎきれないと思う。勘違いしてしまうのはどうしようもないし責められない。だからそのエラーを解消する作業の方を重要視するのは当たり前なのだ。

 この蔵書点検中に配架ミスを何冊も見つけた。時には他館の本も混じっていたこともある。かなりびっくりした。この館のシールはピンク色なんだけど、紫色の駅前館の本を見つけた時はどうしようかと思ったものだ。

 デニムのエプロンの前についている大きなポケットに青いプラスチック製のバーコードリーダーを入れた。持ってた本を軽く平手で叩いて埃を落とす。あまり動いていなさそうな本だから割と埃がついていた。そしてしゃがみ込むと本棚の下段の一番右隅の定位置に本を入れた。

 図書館というものは左から右に向かって本を並べていくものだと初めて知った。頻繁に本に付いている番号の順番に並べ直したりする整架をやっているからか、普通に本屋に行くと並び順が気になってしまう。逆になっていたりすると直したくなってしまう。職業病になるほど長い期間働いているわけでもないのに……。もしかしたらあまりに楽しくてのめり込んでいるからかなあ。

 この蔵書点検にしてもそうだ。あまりに楽しくて入れ込んでしまっているせいか、気付くとみんなよりも倍近くもバーコードをなぞってしまったりしている。

 ボクはよっこいしょと立ち上がると、両手を腰にあててからそり返すように大きく伸びをした。縮こまっていたものがきゅうと伸びる感じが気持ちいい。一仕事終えて達成感を感じているから、こんな単純な動作でも幸福感を味わえるのかもしれない。

 今日の成果を確認する。通路が狭いから書架全体を視界に収めることはできない。少し後ろに下がっただけで書架にぶつかった。後ろも続きの300番台だ。明日は後ろをやるのかな。でもなんとなく違うような気がする。データ処理は請求記号ごとではなくて書架単位でやっているようだからなあ……。今日が先週と合わせて五日目なんだけど、毎日違う書架を割り当てられている。気持ち的には300番台は全部終わらせたかったんだけどなあ。こればっかりは仕方ない。

 書架と書架の間の細い通路のどん詰まり、袋小路にボクはいる。ここは行く先のない道。どこにも繋がらない道。ただ作業をするための道。本を取りに入るだけの道。作業が終わったら、探し物が見つかったら出ていく道だ。

 さあ、とりあえず今日の仕事は終わった。帰ろう。

 長い書架に挟まれた小道を出口に向かう。少し大きめの通路に出た。この通路はメインストリートみたいなところで左右にさっきと同じような小道、つまり書架が並んでいる。整然と、そして厳めしく。

 ボクは書架に端に付いているスイッチを押して、さっきまでいた小道の上で灯っていた電灯を消した。すると急に全体が暗さを増す。当たり前だ。メインストリートを灯す電灯の電源はもう切られていて、他でも作業は終わっているから明かりはほぼ無い状態だ。物音もしないから人もボクしかいないのだろう。

 でも完全なる真っ暗闇ではない。階段側の方からは電灯の明かりが書庫に入ってきている。出入り口の上にはピクト君が緑色の光を出している。それに出入り口と反対側には細長い矩形の窓があって、そこから外にある外灯の明かりが入りこんできている。

 おお、なんかいい感じだ。これくらいの暗さがなんかいい。うっかりと古代の書庫に入りこんでしまったトレジャーハンターの気分になる。カッコはらしくなくてジーンズにセーターにデニムのエプロンだ。やっぱり理想は革ジャンに帽子に鞭かな。こうなんというのかな。こんななりでもやっぱりボクには素養があるように感じる。トレジャーハンターとしての。自分だけの自分だけに意味を持つお宝を探す。それはもしかしたら形あるものじゃないかもしれない。この暗さの中に融け出している大いなる意志の欠片かも。運命の歯車というものかも。でもそれは見つけたらすぐに人の心の中に入りこんでしまう特別なもののような気がする。

 この暗闇の中には何十万冊という古今東西の本から融け出した活字の黒が漂っている。その中には、あの、ボクを駆り立てた本も入っているだろうし、それこそ古今東西あらゆる旅に関する本もある。

 ボクはこうやって目を閉じて手を伸ばして、暗闇の中から、闇に融け出した活字の中から重要な部分を掴み取る。旅という概念を支配する大いなる意志をこの手に……。

 …………。

 ま、当たり前のように掴むものは空なわけで……。目を開けてグーパーして手の平を確かめてみても、いつものように何もない。ため息さえも、もう出ない。

 でも何かもう少し掴めるものがないだろうか。少しの啓きでもいいんだけど……。頑張っているんだから何かしらの恩恵が……。

 九月からこの仕事を始めて、もう半年近くになる。だけど本当に何もない。どうかしている。

 ボクは首を振って肩を竦めて、なんて器用なことをやってから、出入り口に向かった。一階の事務室に向かう。この端末を返却してどこまでやったのか報告して帰ることを告げて……。

 さっきまでの暗闇書庫から階段に出ると、さすがにまぶしい。視界が白っぽい階段をのたくら降りる。さすがに階段は危ないから省エネとして電源を切ることはないみたいだ。

 九月に突入した時にお父さんからこのアルバイトを紹介された。大学生のやるアルバイトだったけど欠員が出たからどうだということだった。学生と同じ使いっ走りの扱いだし、出勤日数も限られているし、時給も低い。何よりもボク以外、アルバイトは学生ばかりだから断ってもいいと言われた。

 市役所に勤めているお父さんは、ボクが図書館好きだということを知っていても、学生時代にはこの手のアルバイトを紹介してくれることはなかった。よっぽどボクが煮詰まっているのを見かねた故のことだろう。三分の一くらいは人がいないから困っていたというのもあるかもしれないけど。

 ボクも、当然のように困っていた。何かをしなければならないと焦っていた。それなのに行き詰まってどうしようもないところまで来ていた。

 八月のあの事件は、ボクのそういう状態を完全に露呈させた。神さまや仏さまにまで憐れんでいただいた……。旅人だよ、とか、大丈夫だよ、とか。たとえそれが真夏の夢幻だったとしても、それはそれでありがたかった。

 だから……、だからこそ旅に出るのを諦めるつもりはない。それは半年ここで働いてみても変わらなかった。

 ただ……、ただ漠然と旅に出たいと思っていても、そう簡単に旅に出られないということも実感としてある。ボクの心にはたぶん最初から旅に出ようという弾みのようなものがない。色々と旅の用意を調えてきたけど、そうすればそうするほど焦りが出てくるし重く沈んでしまう。まごまごぐずぐずを繰り返す。

 もうすでに弾んでいる人は、ボクのように切羽詰まってから旅の用意を始めようなんてするわけがなく、自分でも気付かない内に弾みに任せて旅立ってしまっているものなのだ。弾みを持っている人はとにかく旅に出て、その先でまごつくのだ。

 旅に出るほうが先なのだ。

 それでボクだ。

 もうすでにまごまごしてしまった。旅に出ることができなかった。旅に出るのが後になってしまっている。これではダメだ。この事実はもうどうしようもない。覆らない。

 ならば、こうしようと考えた。

 最初から弾んでいないボクは、旅に出るよりも弾みをつけることをまず考えよう。いや考えてはダメで、弾むことができるような状況に自分を置いてみようと思った。

 それで図書館だった。図書館は好きだった。ボクの人生の中で多大な影響を与えてくれたかけがえのない場所だ。そこで仕事をしてみたら、もしかしたら……。

 それにボクが旅に出ようと志したのはこの図書館で見つけた本が原因なのだから。ボクが旅に出てしまう原因もこの図書館で見つかる可能性だってある。

 そういった意味でもこの図書館のアルバイトは天啓に思えたのだ。

 こうももたもたオタオタしまくっていたボクが、旅に出る弾みを掴むことができたなら、それはもう最強だと思うのだ。

 本当に今度こそ、ここで掴めるような気がしてならない。そんな気しかしない。すぐそこに落ちているのか、浮遊しているのか。ふいになんの気もなしに掴めてしまうような。

 ただ困ったことが一つある。いざ旅に出る時に迷うかもしれない。図書館の仕事が思ってた以上に楽しいのだ。なんか自分にしっくりくる。物覚えの悪いボクなのにすぐに業務に馴れた。たった半年なのになんだかずいぶん昔からここに居着いて仕事をしているような気分になる。最初の最初からこの仕事をしていればもしかしたら……、なんて思わず思ってしまう。

 でもそれこそがポイントなのかもしれない。なんだか今までとは違う流れに乗っている。この流れにこそ、この流れに身を任せればこそ、ボクは違う先に行けるのかもしれない。今までたどり着けそうにもなかった先へ到達できるのかもしれない。そんな期待感が体の中をぐるぐる渦巻いている。

 一階の廊下も暗い。明るい閲覧室とは違って裏方は節電を徹底している。使わない場所はほとんど電気を点けてない。だいたいこの時間だといつもやっぱりピクト君の緑色の薄ぼんやりした光だけがボクを照らしている。

 暗いだけの廊下の先には白い明かりの漏れている場所がある。そこが事務室だった。チーフとサブチーフがいるだろう。

 この図書館は民間の会社に業務を委託していた。指定管理者制度とかいうらしい。だからチーフもサブチーフも管理職ではあっても市の職員ではなく社員だった。どおりで最近なんだか図書館の雰囲気が変わったなあと思っていた。これだったからかもしれない。

 ごろごろと音を響かせて横開きのドアを開ける。なんか明かりに目が慣れていなくて眩しすぎて瞼が開けられない。自分が夜行性の小動物にでもなってしまったみたいに、こそこそとしてしまう。

 でもすぐにチーフに見つかってしまった。

「ごくろうさん。遅くまで悪かったね」

 満面の笑みでねぎらってくれる。

 事務室の中央の机では、陣頭指揮をとっている四十代くらいのチーフが、若い女性のサブチーフと話し合っているところだった。この二人の空間だけ光が円形に当たって浮かび上がっている。感じがする。空気がそこだけ違っているんじゃないだろうか。

 清浄な世界に入るために一歩踏み出した。

「悪いね、最後に一列頼んじゃって。まったく急に休む人が出ちゃってさ、ほんと、助かったよ」

 四十代のチーフはけっこう体格がよくてお肉が好きな方の肉食系って呼ばれていて、なるほどと思う。体育会系とも違う感じだけど、ご飯は食べそうだ。力も強そうだし。四十代は自己申告だけど見た目はそんな歳には見えない。性格はボクと違って陽気な部分が多くていつも朗らかでいるように見える。こういう人がチーフをやるんだなあ。

「お疲れさま、遅くまでありがとう」

 サブチーフはいつものようにクールな雰囲気だ。サブチーフはチーフとは対照的に細身の女性で、身のこなしや表情も含めて何もかも洗練されている感じで、だからといって人当たりが悪い感じじゃなくて……。

 ボクはなんだか急に気恥ずかしくなってしまって無言で頷くと、デニムのエプロンに入れてある青い端末を取り出してサブチーフに渡した。サブチーフは手際よく端末を操作して読み取り冊数を確認した。

「すごいですね。五千冊は越えてます」

 机の上に広げていた書架図にピンクの蛍光ペンで、さっきまでボクがやっていた書架の位置を塗り潰していたチーフは、そのペンを置いてサブチーフが差し出している端末の小さい液晶を覗いた。そして大げさにびっくりした声を出した。

「ほんとだ。すごいな」

「かつてのチーフみたいですね」

「え、なにそれ、なんか若い頃はすごかったですねって言いたいわけ?」

「え、それ以外に聞こえました?」

「まったく、今でも何かとすごいんだから」

 いつもクールなサブチーフはチーフが相手だとこうやって夫婦漫才のような合いの手を入れている。一見二人の性格は合わないように見えるけど、ボクには計り知れないほど相性はいいのかもしれない。

「なあ?」

「はあ……」

「若い子に無理強いするのはおじさんの悪いトコなんですからね」

「いいじゃないか、若い人から若いですねなんて言ってもらえたらなんか若返る感じがしない?」

「それがオヤジ発想です」

 ぴしゃりと言っているけどサブチーフの顔にはクールな微笑が浮かんでいる。やりこめられた風なチーフにしても破顔って感じの笑顔だった。返答に困っているボク自身、やっぱり笑顔でいるのがわかっている。顔の筋肉がいつもと違う感じに動いている。

 今のこの雰囲気はボクを含めて成り立っている。不思議だ。ボクなんかが入ってもいいものなのか。ボクが入っているのに、こんな風になるなんてあり得なかった。

 この仕事を始めてからそんな不思議な感覚ばかりこの身に降りかかってくる。今までのボクが物語を読むことでしか味わえなかった感覚を、こうやって現実で味わってしまう。なんでだろう。なんでだ。戸惑う。どうしたらいいのか。なんか胸がさわさわする。

 別に悲しくはないのに、悲しいことなんて起きてないのに、そんな要素なんて微塵もないのに、なんだか目の前が滲んでくる……。

 ……ボクは二人に「お疲れさまでした」と挨拶をしてから事務室を後にした。

 なんかヘンな感じだ。この半年近くの間いつも感じていた。違和感と言ってしまえばそうなのかもしれないけど、悪い感じがぜんぜんしない。だからなんとなく期待できる。ボクは確実に違う方向へ進んでいる。

 また階段へ戻る。三階にロッカールームがあって荷物はそこに置いてある。ゆっくりと階段を上る。急ぐ必要なんてない。でもゆっくりする特別な理由もない。ただ帰り際はこうやって確実に上っていく感じが好きだ。

 三階に至る最後の一段を上る。ロッカールームや休憩室に向かう廊下だ。廊下は建物の端にあって、片側全面が窓だ。だからなのか、電気は消えていてもぼぅと仄かに明るい。

 なにかの気配を感じてボクは見る。廊下の窓際で闇が動いている感じ。

 ちょっとびびったけどそれは人影なのがすぐにわかった。外からの藍色に縁取られた影だった。

 誰なのかはすぐにわかった。

「よぉ」

 声はアニメ声なのに男の子っぽく片手を上げて挨拶してくる。早瀬さんだ。同じアルバイトだけど大学生の女の子だ。

「お疲れさま」

「遅かったねえ。残業?」

「まあ、ね」

「ふーん」

 ドアは開けっ放しで固定してある男子ロッカールームに入った。

 他のアルバイトである男子大学生二人と共用しているロッカーの扉を開ける。エプロンを脱いで、ハンガーにかけてある革ジャンと交換してかけた。下に置いてあるキャンバスのバックも取る。

 エプロンを付けるか外すかだけだからかもしれないけど、男子のロッカールームは部屋をまじぎりした一部だし、ドアも開放されていてらしくはない。

「……帰らないの?」

「待ってたんだよ」

「……」

「いっしょに帰ろう。一条くん」

 これもやっぱり不思議な感じだ。これはボクが読んでいる物語なんじゃないかと思ってしまう。フィクションが目の前で起きているような感覚。

 これは現実でなく小説の中の出来事。

 自分がどこに立っているのかわからなくなる。どっち側?

 普通ならなんとなく怖くて聞けないようなことでも、今なら、こんなフィクションみたいな世界でなら聞くことができるかもしれない。そんな気がした。

「なんでいっしょに?」

「べつに、いいでしょ」

 薄暗くてもよくわかった。小さい形のいい鼻にきゅっとしわをよせている。そのままアッカンベーでもしそうだ。

 ボクは肩をすくめて首を振った。器用なことがクセになってしまったようだ。

 ボクよりもたぶん五、六歳は年下な女の子は、ボクを導くように先に歩き出した。

 ボクは自然と付いていった。

 本当にボクは何もわからない。何もわかってない。ここまで来ても、どこまでいっても。どうしたらいいのかわからない。

 答えなんかわからないようにできているんだ。永遠に、たぶん一生わからない……。

 もしかしたら、答えがわかること、いや何かをわかることなんて、ぜんぜん意味のないことなのかもしれない。ボクにとっては……。

「ここんとこ毎日いっしょに帰ってるけど」

「いいじゃない! もっとバイクのこと聞かせてよ」

「なんで?」

 階段の途中で振り向いた顔は可愛くニヤリと笑っていた。それが薄暗い中で輝いている。

「きまってるじゃん。わたしも免許とってバイクに乗りたいからだよ」

「……それで?」

「そうね……」

 女の子は歩き出す。自信を持っている。ボクは付いていくしかない。

「旅に出るんだ」

「旅……か……」

「そうだよ、旅だよ。とびっきりの旅にだよ」

「そうだね。旅だね。旅だよね」


 旅……。



              おわり




    ☆



 え?

 これでおしまい?

 もう終わってしまった?

 ほんとうに?

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