八月の初めになっていた。


 クラクションの音が背中にぶつかってきた。

 ふと顔を上げるともう青信号になっていた。

 いけない、いけない。寝ていたわけじゃないんだけど、本当にそんなわけないんだけど、なんだか今起きたばかりみたいだ。クラクションを鳴らされてしまうなんてだいぶ青信号を見過ごしていたのか。まずい、まずい。

 心は大いに慌てていても手先は冷静だった。発進に際して適度なアクセル開度を保持、左手の力を緩めて半クラッチの位置にレバーをもってくる。右足のブレーキレバーをリリースして、左足を軽く地面から放した。

 するするとスムーズに重い車体が動き出す。丁字路なのですぐに左折だった。二速にギアを入れると同時に体を自然と傾けた。左に曲がると少し大きめの道路に入る。

 あまりにも上手い感じに乗れたので、まるで自分が操縦しているように思えなかった。あんなにも練習した甲斐あって今ではほとんどエンストを起こすことはなくなった。

 三速、そして四速へとギアを上げる。怖さはもうそれほど感じない。それよりもバイクに乗るのがなんだか楽しい。

 なんというのだろう。バイクが自分の行きたい方に行ってくれるようになったというか。いや、バイクに乗っているのだから行きたい方向へ行けるのは当たり前なんだけど……。そうじゃなくて……。ボクの行きたい方へバイクも行きたい感じがしている。逆にバイクの行きたい方へ自分も行きたいというか……。一緒の感じがすごくする。

 緩い左カーブがちょっとあってその後に大きく右カーブに繋がっていく。

 そうこういう感じ。自然体。何も考えることなくただ乗っている。アクセルを緩めながら体を適度に右に左に傾けて前輪に舵画をつけ、アクセルを開くと推進力でひらりひらりとカーブを抜けていく。自分でもなんだかきれいに抜けられたような気がして、うむうむなんて満足な頷きをヘルメットの中でする。

 次もまた緩い右カーブ。緩い登りでもある。

 ヘルメットのバイザー越しの視界には二つの流れがある。このスピードありのままに近くのものが流れ去っていく早い流れ。そして遠くのものが徐々に近づいてくる緩やかな流れ。視界の隅では色々なものが滲んで混ざって吹っ飛んでいく。中央の景色は遠くの方から迫ってくる。近づいてくる。いや、ボクの方が向かっている。バイクと一緒に引き寄せている。

 今度はカーブの手前で後輪ブレーキを少しかける。すかさず体重移動といっても腰をずらす程度。後輪のフットブレーキレバーを緩めると曲がっていく。このするする曲がる感覚が病みつきになる。

 どどど……とボクの下で唸るバイクはもはや機械ではなくて生き物だ。いつでも足並みを揃えてくれる相棒という生物。名前だって付けたくなっちゃう。ポチなんてありふれたものよりも黒王号って感じ。

 ボクはこの相棒と一緒にどこまでもどこまでも走り抜ける。いつまでもいつまでも。もっと乗っていたい。もっともっとどこまでも遠くへ。より向こう側へ。強く思う。

 ……もしかしたら、これがもしかしたら旅に出たくなる衝動というやつなのかもしれない。しまった……。今日は旅の用意をしていない。軽装で出てきてしまった。まったくもってバカだ……。それにお父さんとお母さんに別れのアイサツもしていない……。

 今日は、家の近くに山城ってものがあるのを見つけたので練習のつもりで乗り出した。なんとなくネットを見ていたら、この山城のことについて書いているページに行き着いた。それで解説を読んでいくと戦国時代のこの山城での攻防戦のことが載っていて、なんだか無性に行きたくなってしまった。

 この合戦には、おばあちゃんの実家がある地方の英雄、直江兼継が主である上杉景勝と一緒に参戦していたという。おばあちゃんの実家のある地域は一般的には上杉家の所領と言われている米沢市の隣なんだけど。歴史的に見ておばあちゃんの実家の辺りも上杉家の所領だったとこれは図書館の本で読んだ。上杉家の所領の前は直江兼継の所領でもあった。

 おばあちゃんはよく「なせばなる、なさねばならぬ、なにごとも」と上杉鷹山の言葉を言っていた。

 だから一度は行ってみたいと思っている。おばあちゃんが最寄りの駅にしていた『羽前成田駅』はとても古くて雰囲気のいい思い出のいっぱいある駅だと言っていた。おばあちゃんのお父さんだからボクのひいおじいちゃんは、よくその駅まで耕耘機で送り迎えをしてくれたとも聞いた。本当に行ってみたいな。

 なんだか山城の記事を見ていく内に、おばあちゃんにまつわる思い出が溢れてきて、何を見に行きたいのかイマイチわからなくなったけど、どうしても行ってみたくなったから……、こうやって来てしまった。

 今日は天気も良くて暑いけれど走るにはやっぱり晴れがいい。走っていさえいれば空気が流れて涼しい。しばらくは雨の季節でおまけに台風まで来てしまっていたから、こうやって気持ちよく乗れるのも久々で嬉しい。

 スピードはこのくらいでちょうどいい。周りに車が少ないから、ずっとこんなペースで走っていられる。これも気持ちいい一因だ。

 ほんと、旅してるってこういうのを言うのかもしれない。本当にこういうものなんだろうなあ、たぶん。この感覚を、この旅の気分を忘れないようにしなければ……。

 今まで旅に出たい衝動というものがどういうものかわからなかった。旅とは衝動というものが絶対的に必要であると色々なことがあって気付かされた。だけどその衝動というヤツがどういうものなのか掴めなかった。

 だから……、これを覚えておかなければいけない。この感覚を、これが衝動だと。

 ボクは色々なものが足りなかった。お母さんの言う通りだ。自分でもこの何ヶ月の間に色々なことで薄々気付くことがあった。でもそれを認めてしまったら、旅と性に合わないボクを見つけてしまったら、そもそもなんで旅に出たいのかわからなくなってしまう。

 いや、まあ、たぶん、それがいけないのだ。根本的に。旅という行為によって自分の中に空いている穴を埋めようとする心が、たぶんすでに浅ましいのだ。間違っていた。

 自然に純粋に無粋なことは何も考えずに旅に出た人間だけが、旅によって人生を補完されるのである……、のかもしれない。

 じゃあ、すでにボクはダメじゃないか、とも思う。スタートの時点でボクは旅に頼っているんだから。

 お母さんは、たぶん勘の鋭さのようなものを発揮して、ボクに足りない何かに気付いていたんだろう。だからことあるごとにママとは違うと言っているんだ。でもね、でもね、それもボクは認められない。ママとは違うし、他のどの旅人とも違うんだとわかっている。わかってはいる……。

 それでも、ボクは旅に出なければいけない。ボクの旅に、ボクだけの旅に出なければいけない。

 ここまで来てしまったということもある。もう途中ではやめられないし、やめたくない。

 そしてそれだけじゃなくて、ボクは何かを見てみたい。何かを心の中に宿したい。

 旅にはそれがある。旅に出た先に、何かがあるのだと信じている。

 旅に出るためのエネルギーが満たされた時に、ボクは旅に出ることができるだろう。それが衝動というものの正体だとボクは思っている。そう思っている。

 確か、この信号を左折して……、黄色信号だったから停止線の前で止まる。御陵のわきの道だからこの辺りは本当に木とか山とかが多くて田舎感が強い。そう、なんか山城に向かっているって雰囲気だ。

 この信号を左折してから、確か二つ目の信号を左折する……。うろ覚えのネットの地図を頭に浮かべてみる。そうだったように思う。本当は地図をプリントアウトして持ってくればよかったんだけど、今は修行中の身であるからして、そういうのはできるだけ避けたい。

 本当の旅に出た時に、どこかである情報を得た際にはまずは頭に叩き込んで覚えるのが基本じゃないだろうか。このボクの頭でどれだけそれが実行できるかははなはだ疑問だけど、今日のように練習すれば必ずや習得できる技術だと思っている。

 今度は青信号になってもすぐに出発することができた。左折すると片側二車線の広い道路だった。こんな感じなのか……。山へと向かう道なのに、これはどうなんだろう。

 曲がってすぐに右側は石材屋さんなのか石でできた大きなマスコットキャラが立っている。少し行って一つ目の信号を越えると左側には花屋がある。地図で見たとき近くに大きな霊園があったから当然の布陣なのか。

 二つ目の信号はすぐだったから、ゆっくりとバイクを進めていった。ラッキーなことに二つ目の信号は青信号のままだった。

 速度をもっと落としていって交差点を左折した。ちょうど角には古びた商店のある狭い細い道だった。車一台が通れるくらいだ。

 さすがに山城だ。これも図書館の本で読んだことだけど、城というものは敵の侵入を防ぐために道の一部分を細くしたりワザと曲がりくねるように造らせたという。これもその一つであるのかもしれない。なんだか歴史の秘境に入りこんだみたいでわくわくしてきた。

 道なりに行ってみる。というかこの細い道しかないけど。片側にはまばらに民家があって、どれも古そうな大きな家だった。農家だろうか。反対側は小川を挟んで畑になっているようだ。なんの作物なのか、不勉強のボクにはわからない。いかんなあ。

 これがたぶん長閑というんだろう。近所にこんな田舎があるなんて思いもしなかった。ここはまだ東京なのだろうか。

 小さい橋を渡った。本当に小さい橋だった。あ! と思ったら橋だったと気付くような具合だ。でも行き過ぎてしまってからバックミラーで見たけどなんか朱塗りぽかった。その近くには小屋みたいな小さな建物も見えた。でも三角の屋根は小屋にしては立派に見えるけど……。そう思っている内に遠くになってしまった。

 橋を越えてから、いや地形的に言って川を越えてからなのか、見える景色が変わった。ますます田舎具合が増していった。本当にここがどこなのかわからなくなる。片側にあった農家はもうない。かわりに木がうっそうと茂った山の斜面がある。山のキワの小道を走っているということか。

 道はまだアスファルトだ。いやこれはコンクリートなのかなあ。でもそれもかろうじて残っている感じで、土というか砂利に還ろうとしている。

 こんな感じではあるけど、前人未踏ではないみたいで人は定期的に入っているみたい。畑が一面にあって青々とした葉っぱが整列している。ここは農道ということか。

 あ! と思った時にはもう遅い。踏んづけてしまった。枝というかなにかの植物の蔓かなあ。ヘビかと思って一瞬パニックになったけれど、それで慌ててブレーキをかけることはなかった。パニックブレーキは転倒のもとだと教習所で教わったし本にも書いてあったから戒めていた。冷静に、冷静に。

 もう少しだけスピードを落とした。もう少し慎重にいかないと。スピードを落としたぶん少し暑さを感じるようになった。夏用のメッシュジャケットを着てきた甲斐がある。さっきのあ! でかいた冷や汗が乾いていく感覚(錯覚が)ある。

 ひたすらと突き進んでいくと……、そうはいっても一分くらいのことかもしれない。初心者だから長く感じてしまう。

 大きくカーブした先が広場のような場所になっていた。ここがHPに書いてあった駐車場だろう。駐車場からしてなんとも山城らしい雰囲気だ。アスファルトで舗装してあるわけでなく、スペースが区切ってあるわけでもない。これだとただの草の少ない野原みたい。でも周りと比較してみると駐車場っぽく見える。明らかに草が少ないし砂利も敷いてあるような。車が来ていたのか踏み後もある。

 今は他の車はない。マイナーな場所なのかなあ……。さてどこに停めようか。広場の入り口付近にバイクを止めて考える。どこに停めてもいいとなると考えてしまう。バイク用もないようだし。本当ならここでどうどうと真ん中に停めることができたなら大物にでもなれるのかもしれないけど。後からもしかしたら大勢来るかもしれないと考えて、できるだけ端に駐車した。それでも先に来た優位性のある場所ではある。端っこの中でもバイクに直射日光が当たらない木陰の下だ。倒れないような平らな場所でもある。

 エンジンを止めてサイドスタンドを下ろしてバイクを自立させる。もあっとした熱さに包まれる。夏の空気とバイクから立ち上る熱。ひたすら暑い。まだ体に振動が残っているから余計にむさ苦しい。でもエンジンの音が消えた瞬間はホッとする。一仕事終えた感じだ。

 眼鏡を外して胸ポケットに入れてからやっと顎ヒモを緩めてヘルメットを脱いだ。さすがに夏だ。空気が入りこんでくるヘルメットだけど汗で髪の毛がペットリしてる。

 ヘルメットをタンクの上に置くと、自然と深呼吸してしまった。まだまだ緊張するけど、バイクを操ることが面白くなってきた。

 汗がぽたぽたと頬から顎先まで流れ落ちて、そしてタンクの上に置いたヘルメットの頭頂部分に落ちていく。

 呼吸音だけしか響いてなかったのに、さっきから音が混じっている。jijiji……。とかminminとか、これは蝉の声で、意識するとすごく響いてくる。なんか大合唱だ。

 それが合図だったのか……、水っぽい汗の匂いだけだったのに、なんだか青い匂いがより混じってくる。青くて熱い、そして土っぽいものが立ち上る。

 この木陰の位置から広場を見ると視界は白く滲んでいる。これは濃い緑と白い陽射しが混ざっているからなのか。コントラストの絶妙な感じが、もうなんというか、夏だった。

 なんの変哲もない風景なのにおお!って唸ってしまう。自然の中にいる。夏の中にいる。

 こんなの今までの人生の中にはなかった。

 しばらく広場を眺めながらボーッとした。いつまでも見ていたい。

 ボクは、夏の中にいて、夏を満喫している。ボク自身が夏の一部になっている。夏を見ているけど、この夏の景色は見ているボクも含めて一つの風景になっている。ような気がする。見ている視点も内包したパッケージになっている。気がする。

 バイクに座ったままジャケットをべりべり剥がすようにして脱いで、そしてジャケットのポケットに入れていたハンドタオルを出して顔や頭の汗をぬぐった。それでも視線はまだ広場を、それを含めた全体を見ていた。いや味わっていた。こうやってずっとぐだぐだしててもいいかもしれない。

 これで冷たい飲み物でもあったりするといいのかもしれないけど、あいにく持ち合わせていなかった。近くに自販機もないようだし、戻るのもなんとなくだった。

 それに……、それにだ。ここでまったりするのが目的じゃなかった。そうそう、思い出した。山城だった。ここが入り口なんだ。入り口でもう止まるなんてどうかしてる。頭を拳でこつんと叩いて、さてさてと小声で言ってからバイクを降りた。

 暑い。動くと暑さがねばーっとまとわりついてくる。のろのろ動いてバイクにヘルメットを取り付けた。夏用のグローブはそのヘルメットの中に入れた。メッシュジャケットは持っていくことにする。

 さてさて、どこが入り口だろうか。やっぱりあそこからだろうなあ。

 広場の奥まった先に山に続く道というか、ちょうど木々がそこだけ切れて登れるようになっている。他にそんな場所がないから、そこしかないようだ。

 ふん、とやる気だかなんだか短い息を吐き出し、白く明るい広場へ歩き出した。広場を横切ると頭頂とむき出しの腕の辺りがひりひりして、汗がすぐに浮き上がってくる。

 山道の入り口にたどりつくと道の先を覗き込んだ。木々が重なりあっていてさっきの木陰よりもずっと暗くなっている。涼しそうだというのが唯一の良いトコだ。

 これかなあ。なんの標識もないんだけど。薄暗さにひるみ気味になる。山城って観光地じゃないのかなあ。らしくはあるけど、なんかすごい地味な道だ。これはあまりに地味すぎて山の仕事をするために入る道なんじゃないだろうか……。

 うーん、でもたぶんこれが本当の山城である証なのかもしれない。実戦向きというか。江戸時代に建てられた城と違って実用一辺倒だから、こんな入り口なのかもしれない。

 ……そうだよ、たぶん。きっと、そう。こんなとこで臆するなんてビビリもいいとこだ。ボクはなにかを振り払うように頭を振ってから一歩を踏み出した。

 この間買ったダナーのブーツは本来は登山のためのブーツだから、本来の仕様に沿うことだろう。ライディングブーツであることよりも本領発揮をすることだろう。と、思ったのに一歩目の足が地面につく寸前、なんか微妙な感覚に襲われた。足下がぐにゃりとした。柔らかいものを踏んだような……、地面がとろけているような……。

 お! とっと、よろけてしまった。バランスが崩れて、慌てて二歩目を踏み出した。そこもぐにゃぐにゃしていて、もうなんだか普通じゃないみたい。自分に出せる一番の素早さでもう一歩踏み出した。

 頭がクラクラする。視界は普通と変わりないのに、頭の中だけがぐらぐら回っている。苦しくなって大きく息を吸っているのにぜんぜん入ってこない。心臓の音だけがわかる。同じ鼓動が頭の中に響いている。こめかみも同じようにぴくぴくしている。汗が全身から吹き出る。なんか苦しい。それだけ。

 そのままよろよろと数歩山道を登ってしまった。足が自分のものじゃないように勝手に動いている感じ。

 そしてそれはなんとも急だった。本当になんの前触れもなかった。

 何事もなくなってしまった。ただの普通になった。地面はただ固いものだし、空気を吸ってる感じがする。脈拍正常。ただかいた汗だけは消えてなかった。夏だから当たり前だ、と言われるかもしれないけど。

 さっきまでは聞こえなかった蝉の声がする。暗い場所に似合う蝉時雨。少しの風で頭上の木が揺れて、ひそひそとした音がする。

 そんな中、ぽつーんと独りいた。そんな自分をいま発見した。

 さっきのあれはなんだったんだろう。やばい感じというのがあれか。でも気のせいといわれれば、そんな気もする。夏疲れかも。だんだんそうかもしれないと思ってきた。じゃなきゃ、雰囲気に飲まれたか……。

 でも止めない。歩く。この小さい登山道を進む。歩き出すと普通だし、なんか軽やかな感じもする。ヘンな感じもするけど、さっきのは気のせいかもしれない。それよりもここで引き返したらこんな小さな目的も達成できないのかと落ち込むのは明らかだ。それはイヤだ。最近はとみに目標を達成できてない自分なのだから……。

 ぶつぶつ言いながらけっこうな角度の斜面を登っていった。なんだかしみじみと怖い感じが身に染みたから、いや寂しい感じか……、声を出すことでそれを紛らわせていた。

 背の高い木ばかりで、それはたぶん杉みたいで、陽射しはその隙間から降りてくるだけだった。光の穴があちこちにあいている。斜面はなだらかになってきていた。

 誰もいそうもない森の中の小道を歩く。道自体は使われているようだ。踏み固められた土だ。でも道から外れてしまうと、なんというか自然そのものというか、歩けといわれたらイヤだと即答するくらいだ。倒木があって杉の落ち葉が一面で苔もあって、たとえは悪いけど腐海というかなんというか。

 これが森というものなんだ。本物だ。住んでる近くにこんなのが広がっているなんて。物語に出てくる森の中。いつの間にかそんなところに紛れ込んでしまったなんて、なんか不思議だ。

 ボクは自然というものに、あまりというかまったく興味が持てなかった。自然の中にいて何かすることが楽しいとは思えなかった。自然とは遠い反対側にあるもので、決して交わらないものなんだと思っていた。

 本の中に自然というものが出てきても、それは物語の構成要件であって、どんなに綺麗な美しい描写であっても、ボクのリアルとは縁遠いものだった。

 でもこうやって何の因果か実際に自然のど真ん中に投げ出されてみると、身の回りすべてが自然という状況になってみると、なんというのか、心が揺れてしまう。

 蝉の音や風の木々の音がして無音ではないのに静かに思える空間。薄暗くて陽射しが点々としている怖い空間、人も動物もいない倒木と枯葉と苔だけが斜面全体にあるだけの寂しい空間、だけどすごく心に入ってくる。

 なんだかわけのわからない気分になる。怖いとか寂しいとか思っているのに落ち着いた気分が心の中に沈殿していく。マズイ感じもする。何もないのにここに座り込んで長い時間ボーッとしてしまいたくなってくる。

 ボクはその弛んでしまう頭を振って、早足でここを抜けることにした。

 しばらく行くと明るい場所に出た。

 さっきの感慨とはまったく違う場所に出てしまった。いや似ているのか、似て非なるものなのか、混乱する。

 さっきバイクを停めた広場に似ている。野っ原とでもいうのか。頂上に出たわけではないみたいだ。山の途中の開けた場所。片側は下に向かう斜面でさっきの森がある。反対側も同じような斜面で上へ続いている。この場所だけぽっかりと木々がない平らな場所。

 低い丈の草が生い茂る真ん中を小道が奥へと続いている。

 さっきまでの涼しい日陰から熱い日向に出たからかクラッとくる。だけどこれが普通のような気がする。夏の外はこれだ。まぶしくて濃い緑の草は光って見える。目を細めた。

 少し風が吹いた。草は風を視覚化させる。音も風を表す。草や木が鳴る。蝉の声はしなかった。

 暑かったけど……、汗がいっぺんに出てきたけど……、この場所もなんか居心地のいい場所だ。夏でなければ、春とか秋だったらやっぱり座るか寝ころんでずーっとボーッとしてしまいそうになる。こんななんのヘンテツもない風景なのに。

 今回はこの暑さのおかげで助かっている。暑いがゆえに歩こうと思う。早く木陰に行きたいと早足になる。

 そしてまた森の中に入ってしまった。でも、その数メートル行った先で微妙な場所に行き着いた。

 別れ道だった。

 さてどうしよう。立て札は何もない。それらしいものも見つからない。不親切の極みだ。どこかに倒れているのかと周りの地面を見てみたけどなかった。

 どうしよう。立ち止まって考えてみる。だけど頭のてっぺんから流れてくる汗のせいで考えがまとまらない。いや普段でもまとまらない人だったか、ボクは……。やっぱり直射日光にあぶられて、不慣れな山歩きに馴れないブーツに夏の山歩きには不似合いなGパンでは、疲れと暑さで普段よりも余計に頭が回らない。

 本当はエイヤ!っと棒でも倒して決めたいところだけど、そんな勇気もないので、もう少しだけ考えにすがってみる。ここまできて引き下がるのは体力よりも気持ちのほうが盛大にくじけるので、それはしない。だからこそ、なんとか理屈が立つ方法で行く道を決めたい。

 それで一応、観察というものをしてみる。どこかにヒントが落ちてないだろうか。見ていると若干ではあるけれど二つの道には違いがあるのを発見した。よくやった、自分。右の道は少し下がっている。左の道は少し上っている。些細なことかもしれないけど。

 ……いや、もう少し違いがあるのも発見した。すごいぞ、自分。右の道のほうが少し手入れされているように見える。左のほうが道に草の生えている率が高い。ように見える。気のせいかそれとも暑さで朦朧としているから、かもしれない。大丈夫か、自分……。

 やっぱり右の道かな。賢明と言えるかなあ。運命をかけるなら右か。でも下がっているからなあ。もしかしたらこのままどこか下の一般道にぶつかる可能性もあるよなあ。

 左は、なんとなく怪しい。でも上っている。上るためにここまで来ているのだから左に行けば後退ではない。左は冒険だと思う。迷う可能性だってある。こんな山で迷うなんてお笑いだとさっきの風景を見る前のボクだったら思っていた。でも自然は侮れない。危険だってある。もしかしたら、なんて思う。

 ほんと、どうしようかなあ……。

 うーん、うーん、うーん……。そうか、そうだなあ。なんとなく気がついた。

 旅だ。旅なのだ。旅というものはリスクが付き物だ。それは自然と向き合ってる今と同じだ。ここでリスクを恐れているボクは一生旅になんて出られない。旅とは冒険の連続で出来上がっているのに、ここで冒険を取らないことは致命的なんだ。

 だからもう何も考えずに左の道を歩き出した。一応、理屈は付けている。遭難した時は下がるよりも上に登ったほうがいいと何かの本で読んだ。まあ、この場合は少し違うかもしれないけど。危ないと感じたら元来た道を戻ればいいだけだと心に保険もかけている。もう色々浮かんでは消えていく心模様なんて無視して進んでいった。

 すると道はさっきよりもキレイになった。明らかに人が入ってるような気配がある。

 ちょうどさっきの野原の一本道みたいな平らな場所だった。道の脇には切られた丸太が積み上がってある。そんな山が二つ三つある。その先には作業小屋なのか物置なのか、コンクリート製の簡素な建物がある。

 良かった。こっちで間違いじゃなかったみたい。そうだ。重大な選択には必ず冒険が付き物なんだ。どっちにしろリスクはあるんだから、自分の心の赴くままに向かうのがベストなんだ。心の赴いた先で出会ったリスクの方が対処するのに覚悟ができるってもんだ。

 などと小声でぶつぶつ言って歩いていると……、ちょうど小屋の近くまで来た時だった。

 中からだと思う。がたがたと音がした。明らかに自然が出す音じゃないのがわかる。瞬間的に体を止めた。ヘンな体勢だったけど、それすらも気付かなかった。

 小屋を見つめる。もしかしたら……、やばいのか……? この状況はやばい空間に入りこんでしまったのか……?

 たぶん、たぶんだけど、野生動物というのが一般的な見方だ。こんな自然の中なんだからこんな音を出すようなヤツが小屋に潜り込んでいても不思議ではない。そんな動物は……、でももっとやばいか。鳥じゃないだろう。声はさっきから聞こえているけど、ものを揺らして音をたてるなんて……、やっぱりタヌキとか……、鹿なんてことはないよなあ。熊だったら……、果たして逃げ切れるだろうか。どこかに木の棒が落ちてないだろうか。

 それでなければ、こっちも確率が高いけど、人間だろう。さっきから史跡に向かっている割にはぜんぜん他の観光客に会っていなかった。この世界の人間はボク一人だけなんじゃないかと勘違いしてた。観光客はボクだけでも、これだけ作業の痕跡があるんだからその作業をしている人がいてもおかしくはない。当たり前の話だ。

 他の観光客が暑さにやられて休憩っていうのもあり得る話だけど。休憩するにはちょっとばっかり勇気のいる小屋ではある。コンクリートは古びていて長い年月風雨にさらされていたように見える。表面の灰色が濃くなっている。屋根も同じコンクリ製で殺風景この上ない。窓は一つある。少し高い位置で、近くにいっても中を覗くことができそうもない。逆に中から外を眺めるのもできないんじゃないのか。窓は当然のように閉まっている。これはやっぱり物を置いておくための小屋だろう。雨宿りくらいならできるだろうけど。

 ボクはまたもやなにか棒きれのようなものを探した。割と重要なことを思いついてしまった。世の中には人目をはばかるような人種というものが存在する。この場所は絶好のたまり場に見える。だったら棒よりも逃げたほうがいいかもしれない。だけど運良く手頃な棒きれというか角材が転がっているのを見つけてしまった。ちょうど二メートルくらいわきに黒っぽくなった角材が何本か……。作業員とかタヌキとかだったら大笑いなことだ。

 固まっていた体が目標を見つけて動けるようになった。一歩目……、そろそろと動く。二歩目……、失敗した。まだ馴れていないブーツだったからかもしれない。何かの木の枝を踏んでしまった。バキバキって割と大きな音がした。

 定期的にがたがたしていた音がぴたっと止まった。これはマズイかもしれない。ボクは体勢を立て直して数歩を駆け寄るように棒きれのとこまで来た。

 その時だった。ごろごろと何か重い物が横移動するような音が聞こえてきた。建物の見えないところにドアがあって、それが開いているのがわかる。たぶん誰かが出てくる。人で間違いない。ちゃんと扉を開けて出てくるんだから。しゃがみ込んで角材を掴み上げようとした。もうこれしかない。たぶん。

「こんにちは」

 それは予想外の声だった。なんだか女の子のような高い声がした。角材を握ろうとしていたボクは顔を上げた。もう人が目の前まで出てきていた。そしてあまりにも予想外の人が立っていた。想像していたよりも違っていたし、声から予想していたのとも違った。タヌキでも熊でも作業員でも観光客でもヤンキーでも、まったくなかった。

 中学生くらいの男子がいた。いや確定はしていないんだけど、たぶん中学生だと思うし、男子だとは思う。制服の夏服、半袖のワイシャツに薄手の黒いスラックスを着ている。男子の夏の制服。そして田舎の中学生のように頭を丸坊主にしている。顔も幼くて、サイズの合ってない大きいレンズの眼鏡をかけているから余計にそう見える。いや幼いというか男子に見えない感じに見える。

 これはなんというかけっこう場違いな感じではないだろうか。完全に自分を棚に上げているけど。山歩きしているライダーはないよなあ。ヘルメットもグローブもないからライダーに見られないか……、じゃあなんだろう?

 山歩きしている中学生は……、田舎だったらあるのかなあ。地元の子だったら。いや、やっぱり、おかしい。おかしいよ。こんなところで、それも人気のない場所のもっと人目に付かない小屋に入りこんでいる中学生なんて……、悪い子のはず。

 うーん、うーん、でも……、そう見えない。いい子に見える。純朴で、頭も良さそう……。今時ズボンの中にシャツの裾を入れているなんて。なんかワイシャツもスラックスも折り目正しい感じがしている。そもそも夏休みなのに制服を着ているだけでもマジメだよなあ。ボクの中学生時代だってここまでじゃなかった……、いやそうでもないか。カゲでオッサンみたいなヤツと言われていた……。

 まあ、だからこそ、こんな格好の男の子が悪いことをするためにここにいるとは思えないんだけど。ボクだったらなにか理由が……、昆虫や植物の採集とか雲の観察とかで来ていそう。なんだか急に目の前の男の子に親近感というか、興味がわいてきた。

 聞こえてなかったと思ったのか、それとも言葉の通じない外国人とでも思ったのか……、なかなか返事をしないボクに対して男の子はもう一度ゆっくりと丁寧に挨拶してきた。

「こんにちは」

「あ、こんにちは……」

 じろじろという感じで見ていたボクは慌てて挨拶を返した。どうもしどろもどろになってしまって……、初対面の相手にはいつもこんな感じだ。

 声はまだ声変わりもしていないような可愛いものなのに、その挨拶をしている堂々とした態度はボクよりも大人に見える。ここは、大人としては、ちゃんとしたところをみせないと、いかんかも……。

「き、君は……、この辺りに住んでるの、かなあ……」

 とりあえず会話を成立させようと無難な話題を絞り出した。

 でもこの男子中学生はボクの苦肉の策をいとも簡単に無視した。態度は丁寧ではあるけど、その下に生意気さが透けてみえる。気にしなかったけど。会話のスキルが高くないボクには慣れっこなことだ。さすがに中学生に露骨にやられると少し落ち込むけど。

「おにいさんは、ここのひとじゃないよね」

「まあ、まあ、そうだね」

 今度は向こうがボクを値踏みするようにじろじろ見ている。そして笑った。それはでもあまりイヤなものじゃなくて、華やかな感じがしていたし、嬉しそうでもあった。ボクを見て笑ったようだけど、それは蔑みではなくて何かに気付いて笑ったみたいだった。

「じゃあ、もしかして、おにいさんは、たびびとなんだね」

 た・び・び・と……?

 なんか思ってもいなかった言葉が出てきて面食らってしまった。これってあれだろうか、やっぱりあの、その、旅人ってことかなあ。それは旅をする人ってことなのかなあ。その旅人以外にたびびとと聞き間違えるような単語があるのだろうか。うーん、ないかもなあ。

 ということはもしかしたら、いやもしかしなくても、あの、ボクがなりたくてなりたくてしかたなかったもの……。ボクがここ数ヶ月間なろうと頑張ったけど、一歩も踏み出せないでいたもの……。

 ボクは、なっていた……、ということなのだろうか。いつのまにか……、そんなふうに見られてしまうようなオーラが出ていたということなのか……。

 ボクは旅人に見えていた。たぶん。旅人の雰囲気がある、ということなのだ、たぶん。

 まだまだだと思っていたのに、いつのまにやら、実感もなく、旅人になってしまっていたらしい。初めて会った人からそう見えるくらいには旅人らしいのかもしれない。まだまだぜんぜんダメだと思っていたのに……。

 旅にも出ていないのに、旅人になれたというのか……。

 なんだか……、なんだか本当に……、うれしい……。でもなんだか恥ずかしい。

 憧れていたものになれたのは嬉しいけど、なんの実績もないのにそう見られてしまうのはまがい物のように感じる。だから悲しい……のかもしれない。いつの間にか旅をしている人に見られてしまうような人間になってしまっているのに、実際には旅に出たこともないなんて……。なんだか、なんだか……。

「そうかなあ。そうみえるってことは、それは本質がひょうめんにあらわれているってことじゃないかな」

 そうかなあ……、そうなのかなあ……。

「旅ってなにかな」

 旅とは何か。難しい質問だよ。そうだなあ、旅っていうからには、ただどこかに行くだけではダメだと思う。それは旅行だ。ただ行くだけというのなら……。ただの旅行では意味がない。なんの意味もないんだ。ただ行って、ただ帰ってくるだけなんて……、イヤだ!

 旅は、旅とは、行った先で、いやその行っている間も含めて、ボクが何かを掴むことができるものでなければ……。未知の何かをこの手で掴むものでなければ……。

 そのためにはただ行くだけじゃダメなんだ。ボクが得心して行くのでなければ。これこれこういう自分が行ったからこそ、これこれこういうものを掴み取れたのだと思いたい。これこれこういう相棒を連れて、これこれこういう旅装を調えて、これこれこういう心持ちで旅に出たからこそ、途方もない何かが向こうから出向いてくる気がする。

 準備の段階でさえボクは何も知らなかった。なんにもわからなかった。それがゆっくりでも段々に多くのものを知り、そして掴んで、もう離さない。絶対に離さない。

 知らなかったもの知り、今まで思ってもみなかったことを手に入れ、経験したこともないことをやった……。

「それってもう旅なんじゃないかな」

 ……、……、……ん?

 そう……?

 そうか……なあ。

 そうか……、

 そうか、そうか! そうかもしれない。

 本当にそうかもしれない。そうだよ、そうだよ。

 旅はもう始まっているんだ。旅とは、もう準備の段階から始まっているものなんだ。いやいやもっと言ってしまえば、旅とはすべてのことを言うんじゃないだろうか。

 ボクがこうして旅を志向するようになったそのすべてをひっくるめて旅と言ってしまっても差し支えないものなのかもしれない。

 だからボクはもう旅に出ている。

「おにいさんは、旅人ですか?」

 もう一度男の子は微笑みながら尋ねてくる。 そうだ。もう胸を張って答えられる。

「うん、そうだよ。旅人だ」

 男の子は大きく嬉しそうに笑った。それはなんというのか、男に対して感じてしまうには不謹慎というか、花の咲いたようだった。鮮やかな笑顔、可愛いというよりも美しいというかなんというか。

「だったら、おにいさん、おにいさん」

 ん?

「いっしょにあそびませんか?」

 あ・そ・ぶ?

 あそぶってなんだろう。あそぶってどういうこと。あそぶってあの遊ぶか?

 ボクは旅をしたいんだし、旅に出ないとならないんだ。そうそう遊んでる暇なんてない。今までだって決して遊んでいたわけじゃない。旅とは遊びでするものじゃないし、遊びに行くものでもない。毎日毎日を旅についての考察を巡らせ、もしくは自分のことについて照査し、意義や構造や揺らぎや意味を見つめ直して、それでやっと旅というものが全うできると思われるわけで……。

 旅に出ていない毎日もそうやって過ごしてきたボクは……、そうか! さっき気付いたんだ、もう旅に出てるんだ。

「旅って、なに?」

 だから……、さっきまで考察していた通り……、旅とは旅行ではなくて……。

 ん? なんだかヘンな既視感がある。いま言われたような質問を最近どこかで見かけた。どこでだっただろうか……。

 ……思い出した。そうだ。あの本だ。旅行記というものに最近はまっていて、図書館からいっぱい借りてきて雨の日々に読み漁っていた。何かヒントはないかと探していた。

 旅をする人は、旅人と呼ばれる人たちは、どのようにして旅立ったのだろう。どんな気持ちに到達したら行動をおこせるのか。そればっかり気になってしまって、どうしても心にしっくりくるものを探し当てたかった。

 そんな中、手に取った一冊に同じ問いかけがあった。

 旅とは、なんぞや。

 答えは、こうだった。

 旅とは遊びである。

 遊ぶために遊ぶという行為を行うことができるのは人間(や一部の高度な知能を持つ動物)だけである。よく動物があたかも遊んでいるような行動を取ることがあるのは、それは何かしらの訓練を行っていたり、習性ゆえのことだったりと純粋に遊んでいるわけではない。遊ぶために遊ぶことができるのは高度な脳機能を使うことであり、ほとんど人間のみが行うことができる特権である。遊びという概念の純粋無垢な部分を遊びとして捉えて楽しむのはほとんど人間だけであろう。

 そして旅だ。旅するためだけに旅をするのは人間しかできない。他の諸々の要素--習慣や習性を抜きにして旅の純粋無比な部分だけで旅立てるのは人間しかできない。

 ゆえに旅と遊びは本質的に似ている。いや同じである。

 まるっきり同じではないけど、ほぼこんな感じで書かれてあった。

 本当だろうか? こんな嘘っぽい話はにわかに信じられない。実証されているように見えなかった。信じられない。

 それにその時のボクはそこまで読んで「わー!」と叫んで読むのを止めてしまった。だから逆に頭に残ってしまったんだけど……。

 本当にそうなんだろうか? ボクは真剣に、それこそ人生をかけて旅に臨もうとしていた。それなのにこれはなんなのだ。旅は遊びじゃないし、遊びのために旅するわけじゃない。それは同じではない。決して同じものでは……、同じなんかでは……。

「そうかな?」

 そうかな? って……。そうだと思うけど。そのはずだけど……。……違うと言うのか?

「あそびはひつようだよ」

 ん?

 この言葉も確か……、どこかで聞いた。いややっぱり見たというか、読んだものだ。

 そうだ。そうそう、バイクのメンテナンスの本だ。クラッチレバーの中を通っているワイヤーは、張りすぎてしまうとワイヤーを痛めてしまったり、クラッチが切れなかったりしてダメだと書いてあった。

 だからこそあそびが必要なのだ、と。クラッチワイヤーは張りすぎずに、レバーが少しだけ動くぐらいの緩さが必要だという。それがあそびだと。

 あそびは必要だ。あそびは必要なんだ。

 ボクに旅が必要なように、あそびというものも同時並行的に必要なものなのだ。そのあそびの部分がボクの人生にないものだから、ボクは張りつめたクラッチワイヤーみたいにギクシャクしていたのだ。

 あそびだ。あそびなんだ。

「ぼくたち、いとこのおねえさんとあそんでいたんだ」

 ぼくたち? おねえさん? 複数形と新たに出てきた単語に戸惑った。まだいるということなのか。

 男子中学生は大きく頷くと親しみのある笑顔になって小屋を指さした。小屋には、こちら側は壁で、そして高い位置には横に長いけど幅の小さな窓があって……。

 あ! 一瞬びくっと体が震えた。

 窓には顔がある。こっちを見てる。二つ。顔が二つ。窓から覗いている。二つとも同じ顔だった。いや同じでは、ない。似ているけど同じじゃない。輪郭とか造りとかは血の繋がりを感じるくらいそっくりだけど。それはこの目の前の男子中学生にも言えることだ。三つの顔はそっくりだけど同じじゃない。いや違うか。この場合、二つは同じに見えるけど一つはそっくりだけど違う。

 三つの顔は同じようにレンズの大きい眼鏡をかけている。顔の造作と眼鏡までは三つ同じだけど、ただ一つ違うところがある。

 男子中学生は丸坊主だけど、窓から覗く二つの顔のうち、男子中学生と同じ坊主頭なのは一つだけで、もう一つはおかっぱ頭だった。

 ぼくたちとおねえさんの違いか……。

 そして三人とも同じ笑顔をしている。嬉しそうなんだけど、なんだかあまりにも華やかな感じで、それは年相応じゃない感じもして、なんだかとっても……。

「いっしょにあそびませんか?」

 再度請われた。

 うーん、うーん……、

 いや、どうしようかなあ。いやいや、なんか、そうだなあ。これだけ言ってくれるなんてなあ。

 …………、…………、いいかもしれない。

 もしかしたら……、あそびもいいものなのかもしれない。行き詰まってるボクに足りないもの、それはあそびで、旅とあそびはセットというか、人生の両輪であり、そろってこそ推進力が生まれるということであるのかもしれない……。

 いつの間にか、いやどうしたことだろう、なんかちょっと恥ずかしいことに男子中学生に手を引かれていた。小屋の側面のほうへ連れて行かれている。悪い気はしない。ただ妙に恥ずかしくて、なんだか、おしっこの瞬間を見られているというか……、恥ずかしい。

 やっぱりというのだろうか、当然なのかもしれないけれど、小屋の側面には、いやこっちが本来なら正面になるのか、引き戸があって開いたままの状態になっていた。

 どうも想像と違って小屋の中は明るいみたいだ。ここから見てもそれがわかる。だから少し安心した。暗闇に連れ込まれるのはあそびだとしてもなんだか怖い。

 明るい部屋ですることなんて、そうだな、あんまりやらないけどゲームの対戦相手とか……? そんなアニメを観たな。

 元は何色で塗られていたのかわからないほど錆びた引き戸が半分開けられていて、そこから小屋に一歩踏み入れた。

 ほらね、やっぱり明るい。そして中はなんだかモアッとした熱い空気だった。頭がクラクラする。大丈夫だろうか……。

 ぐらっと体が少し傾いて、コンクリートの床が目に入った。ここは案外白かった。足は踏みとどまってくれて、視線が上がっていくと、壁も同じようにコンクリだけど白くて、外観から感じるよりも新しいのかもしれない。まあ、古くても新しくてもここに人が長居できるようなものではない……。

 ……ん?

 んん?

 んんんんん!

 頭をハンマーで思いっきりぶっ叩かれた気分だ。いやこれは本当に叩かれてる。声が出ない。体が動かない。これって、どうなの。ほんとうにどうなの!

 このまま気絶してしまいそうになる。いや、気絶してるんだよ、もう。じゃなきゃ、こんなのなんか見るわけがない……。

 思ったよりも明るい陽射しが入りこんでいる壁の上側についている小さい窓の下には木製のベンチがある。それに乗っかっていたから、あの窓から顔を覗かせることができたんだ……、いや問題はそこではない。

 そのベンチには二人の人間が座っている。

 夏服の男子中学生はほんとうにそっくりで、たぶん双子なんだろう。

 でも隣には……、ぜんぜん似ていない。もう泣きたくなるくらい丸わかりだ。

 こんなの、本当に、なんか、いいのか。

 隣にいるのは女の子だった。女の子というか、女の人だ。女でしかあり得ない。もう肌色というか、ほとんど白色だけど、それだけだった。それしかわからない。いや見てしまう。見ちゃだめなのに。

 顔の造りや眼鏡は男子中学生と同じだけどおかっぱの女の子は、スラリとした女の子は裸だった。服なんて何も身につけていない、まっさらな裸だった。

 これは現実じゃないみたい。こんな異常な状況なのに、全裸の女の子は笑っていた。楽しそうだ。

 ボクはどうしても見るのをやめられなかった。頭ではわかっているのに、どうしても目が離せなかった。見つめてしまっていてどうしようもない。

 もうそのなんというか、こんな状態の女の子を、裸の女の子を、写真とかじゃなくて現実で目で見るのはこれが初めてだ……。だからって見続けていていいものじゃないことぐらいわかっているんだけど。

 なんかボクの方がすごく恥ずかしい。逃げ出してしまいたい。後ろに数歩さがったけど、手を引いてくれていた男子中学生に背中を押さえられた。力なんて強くなかったのにボクは抵抗できなかった。

「さあ、どうぞどうぞ。いっしょにあそびましょう」

 さっきと何ひとつ変わらない穏やかな声。いや穏やかというか、その中に華があるというか。それはなんというか魅了するような声というか、蠱惑的というか。単語だけは知っていたけど、こんな感じがまさにそれなんだと実感させられた。

 逃げなきゃ、みたいな焦る気持ちとはうらはらに気持ちよさが足を止める。

 引き戸の閉まる音がする。重い鉄がごろごろ音をたてている。

 もうこれはたぶんダメだ。逃げられない。いや、ボクはたぶん逃げ出したりはしないのかもしれない。

 目の前では、あそびというものが始まっている。もう目が離せない。釘付けだ。

 ここにいたい、ここから離れたくない。強く強く願ってしまっている。

 ベンチでは隣り合って座っている男の子と女の子が見つめ合うとすぐになんの躊躇いもなく唇を重ねた。

 キスだ。キスだ。これはキスだ。なんか体が熱くなってくる。心臓が破裂しそうだ。映画とかでは見るけど、現実では初めてで、だからこれは映画なんだよ、たぶん。

 男子中学生は、そのなんということか、その女の子の裸の胸に手を当てて動かしている。いいのか、それいいのか。

 柔らかそうな白い膨らみを、少し強めに、そして先っぽを中心に撫でるように動かしている。おっぱいの先のピンク色を人差し指と中指の腹で挟んだりしていじっている。

 こ、こんなの、いいのか、見てしまって、いいのか。なんか悪いことしてるみたいだ。どうしよう。ほんとうにどうしよう。

 口の中が乾いているのか、それとも唾が大量に溢れているのかわからない。でも喉が動いているし……。飲み込む音が頭に響く。

 ふふふ、と男子中学生の含み笑いが耳元で響いている。これはボクの手を引いてくれた中学生で、まだボクの汗ばんだ手を握っている。なんだか恥ずかしい。ボクのこの状態がなんだか丸わかりみたいで。

 目の前で繰り広げられている男子中学生と女の子のキスはよりいっそう激しくなった。お互いかけているレンズの大きい眼鏡がぶつかってかちかち音がする。

 暑い室内で行われる熱い抱擁があそびだというのか。これが本当の……。

 手を引いてきてくれた男子中学生はいつの間にか女の子の空いている隣に座っていた。その男の子はボクに笑いかけると優しく女の子の体を引き寄せ、そしてやっぱり激しくキスを始めた。

 女の子の、その甘い感じの吐息というかうめきが響いている。湿った音がそこから微かに響いている。

 さっきまでキスをしていた男子中学生は、やっぱり華やかな笑顔をボクに向かって投げかけてくれる。どっちがボクの手を引いてくれていたのかわからなくなってくる。

 ボクは、ボクは、ここにいるのが……、どうなんだ。あそぶと決めたのはボクだけど、これは……、ここに……。動けないままのボクはただそのあそびを眺めているだけだった。

 一通りキスが終わったのか、女の子はボクを見つめてきた。正面にいるボクを、やっぱり同じ笑顔で、何も考えられなくなってしまうあの笑顔で……、いやもっととろけそうになる、どうにかなってしまいそうな笑顔だ。

 怖かった……。見つめられて、見つめ合って、ボクは視線が離せなくなっていた。体が熱くて熱くてたまらない。体に流れている感覚が速くなったりゆっくりねっとりだったりしている。これは、たぶん、気持ちいい。

 女の子は立ち上がった。それはなんだか見せつけるような堂々とした振る舞いだった。ボクに抗う術はない。

 あう、あう、あう。頭の中では意味不明のうめきばかりが溢れかえっている。

 女の子はあまりにも綺麗だ。裸はとても美しい。いやそんなのじゃ足りないくらいどうしようもなくて、視覚からボクの奥底にまで到達して心を揺さぶり続ける。女の子、裸、存在感。

 ゆっくりと女の子が歩み寄ってくる。

 目の前に迫ってくる白い肌、胸のふくらみ、先がつんとした薄い桃色、滑らかな柔らかなお腹、その下の……。

 もう、すぐ、そこに、手の届くところに。

 女の子は言う。それはそれはかわいらしい、でも怖いくらい艶やかな声で、聞いた人の心を震わせて、もうどうなってもいいと思わせるようなその甘い声で。

「あそぼう。ねえ、あそぼうよ」

 全身が液体になったように崩れた感覚に陥った。もうダメだ。もうダメなんだよ。もうこれでボクは帰れない。液体のまま、地面に水たまりをつくり、べとべとになって、最後は干上がっていく。液体になったボクには、でも小さな波が起きて、それはだんだん大きくなって、最後は大きな波になってぐるぐるになる。

 だけど、そうボクは液体でもなかった。波もなかった。ボクは立っていた。

 そして女の子に手を引かれるまま、あそんでしまった。おおいにあそんでしまった。心ゆくまであそんだ……。



 うぅ……。

 ひやりと冷たいものが顔を撫でていく。

 一回、二回、三回……。なんだか気持ちいい。火照ってどうしようもない体に心地良い。

 ボクはようやく自分が寝ていたのだと気がついた。起きたということか……。

 なんだ?

 なんなんだ?

 瞼を開けていく。なんか薄暗かった。まだ滲んでいる世界。目を大きく開けてみた。うーん、うーん、なんだかようやく世界のピントが合ってきた。

 ん! 体がビクッと反応してしまった。

 目の前には女の人の顔が上下に並んで二つある。なんだ! お団子状態の顔、そんなわけあるだろうか……。

 上段の大きい女の人の顔はにっこりしていた。小さい方はなんだか吃驚した顔だ。よくよく見るとちゃんと見ると、女性が小さい女の子を抱っこしてボクを見下ろしていた。

「良かった。気がついて」

 女性の笑顔はもっと大きなものになった。なんか親しみある。ホッとする。女性がおかっぱでもなく眼鏡もかけていないのも一因かもしれない。ちゃんと服も着ているし……。当たり前だ。なんだかとってもとってもすごく恥ずかしい。これが穴があったらってヤツなのか。逃げ出したくなってくる。バカなことをやっていた自分が急に現実に引き戻されてみっともない感じがとてつもなくする。

「やだ、さっきより赤いわよ。大丈夫?」

 女性がそういった途端、冷たいなにかが顔に触れた。幼稚園児くらいの女の子が持っているタオルでボクの顔を撫でてくれた。さっきからこの子に拭いてもらっていたみたいだ。なんだかいたたまれない。

 夏の白い健全な親子の前で、あんな夢にうつつを抜かしていたなんて……。まったく!

 ……女性の話によると、ボクはここで軽い熱中症になって倒れていたらしい。

「散歩の途中であなたが倒れているから、もう慌てて」

 なんか笑われてしまった。笑い話になっててよかった。

 ボクはなんの用意もなくこの暑さの中登山を決行して、自覚症状もないまま熱中症で倒れてしまったということだ。それを親切な散歩の途中の親子に見つけてもらって助けていただいた、と。まるでバカだ。カンペキなバカだ。それであんな夢を。バカ丸出しだ。

 やっと体が動くようになって、横向きに寝ていたボクは上体を起こして座り込んだ。

 ボクよりも年上かもしれない、いやそれはたぶん母親だからそう見えるだけかもしれないけど、十分に若い女性は、娘からハンカチを受け取ると持っていたペットボトルから水を落として濡らした。そしてそのペットボトルとハンカチの二つをボクに渡してくれた。

 急に喉が渇いてしかたなくなった。受け取ったボクはペットボトルの水を一気に半分近くまで口から流し入れてしまった。

 水は冷たくて澄んだ活力が体全体に染み渡っていく。まるで命そのものを飲んでいるようにみるみる元気になっていく。そんな感じがする。こんな効き目のある水はどこの産地のものだろう。いや、水を飲んだだけで命を取り戻すなんてどれだけ瀕死だったんだ。冷蔵庫から出してきたんじゃないかって思えるくらい冷たいと感じるなんて、どんだけ暑さにやられていたんだ。ハンカチで顔を拭くと頭の中までしゃっきりする感じがする。

 それでやっと自分の今の状況というものに目がいく余裕ができた。林の中だった。杉の山林が頭上を覆っている、そんな場所だ。だから日陰って感じなのか……。なんだか見覚えがあるようなないような。

 太陽の陽射しがない、わりには暑かった。涼しくない。いや日なたよりは断然涼しいのかもしれないけど見た目ほどではない。空気の循環が悪いのかも……。風もないから音もしない。揺れる音だけじゃない。なんだか蝉の声も、鳥の声もしない。それなのになんとなく音がしていて無音ではない。

 林のところどころには切れ目があって、地面に陽射しが降り注いでいる場所が点々とある。そこは暑そうに白い。

 そんなホワイトスポットが近くにも一つあった。たぶんこの山で一番重要な場所に違いない。聖なる場所。

 小さな石造りの鳥居があって、そして奥には小さいけど社があった。小さいけど古い感じ。いやこれはコンクリにも見える。コンクリが古くなって風化して石造りみたいになって。質素だけど威厳というか怖い感じがする。

 その社に頭上から光が降り注いでいる。この空間の中で社だけが光り輝いているように見える。なんか神々しい。

 ボクはその社の近くにある石造りのベンチみたいなものの上で寝ていたようだ。

 なんだかよくわからない……。こんなところに来た覚えがない。こんな山に入ったのかどうかも、なんだかあやふやだ。

 そもそも……、そうだ! そもそもの理由を思い出した。ボクは女性に山城はどの辺りなのか尋ねた。

「ここじゃないよ。ここじゃ。曲がる道を間違えたんだよ。山城にいくにはもう一本向こうの信号だよ」

 大笑いされてしまった。なんだかすごい受けてた。笑いのツボにはまったというのはこういう感じなんだな、たぶん。

 もう本当にどうしようもないなあ。最初から間違っていたなんて。一本道を間違えて間違ったまま先に進んでいって、挙げ句の果てにこのざまだ。情けなくて涙が出てくる。こんなんで旅人なんてちゃんちゃらおかしい。旅に出たいだなんて、ご大層な妄言でしかないのかもしれない。

 あーあ、どうしたもんかなあ……。あんまりにも情けなくてどこにも自分の居場所が、いや行く場所がないような気がしてきた。

「だいじょうぶ?」

 ああ……、こんなに小さな子にまで心配されてしまった。女の子は小さくて、立っている目線と座ってるボクの目線が同じくらいだ。だから大人のクセに涙を流しているボクを哀れんでくれている。慰めてくれようとしているのか、急に笑顔をつくった。

「だいじょうぶだよ」

 なんだか本当に泣けてきた。小さい子に慰められて、大人のボクは慰められてしまった。恥ずかしいけど、なんだか大丈夫な気がしてきてしまう。大人なのに迷子のボクは、でも大丈夫なのかもしれない。

「だいじょうぶだよ」

 女の子は頷いたように見えた。

「大丈夫」

 上からも同じような優しい声がした。

 顔を上げると女性が、本当に優しく微笑んでくれていた。

 今度は二人が声を合わせた。

「だいじょうぶだよ」



 気がつくと、独り石のベンチに座っていた。

 もう日も傾いてきたのか暗さが増してきたような気がする。いや気のせいかなあ。ただ蝉の声がさっきからうるさいくらいしている。それもかなかなかななんていうから、もう日も暮れてしまったのかと……。夏の終わりに聞くものだとばかり思っていた……。

 さっき……、いやなんかずいぶん前のように感じるけど、あの親子は手を振って帰っていった。この近くに住んでいて、いつも散歩しているということを話していた。ボクのせいで今日は中断になってしまったのだけど。

 笑顔で別れた記憶があるのに、なんだかずいぶん曖昧なものになってしまっている。もっとずっと遠くの出来事だったように感じる。

 ボクは頭を振った。そんなはずない。なんだかちょっと元気をもらったあのことが夢幻であってはたまらない。

 ボクはやっと腰をあげる気になった。山城は、もういいや。座り込んでいたベンチから立ち上がった。

 そしてやっぱり気になっていたものを見つめた。石造りというか、いやコンクリでできた、それは小さな社。まだ木漏れ日が落ちていて、光り輝いているように見える。

 ショートカットはしないで、こっちはちゃんと石造りの小さな鳥居をくぐり抜けた。

 小さな社の正面に立つ。

 ほほう。なんの神社かわかった。江戸時代には伊勢屋と犬の糞と並んで江戸の名物だと言われていたものだ。

 社の閉まっている扉の両脇にはちゃんと眷属が二つ控えている。なんだか愛嬌のある赤い縁取りを目の回りに大きく描いてある白いキツネだ。愛嬌あるけど、なんか眼鏡の奥が笑ってない、みたいな顔でよく見ると怖い。

 ボクはジーンズのポケットから小銭入れを出して、その中から百円と十円と五円を出した。これで115円、いいご縁といって縁起がいいお賽銭の額だとこのまえ読んだ本に書いてあった。それを社の前にあるこれも小さな小さなお賽銭箱に入れた。ちゃりんちゃりんとなんだかいい音がしたように感じた。

 そうして一応覚えたてではあるけれど、二礼二拍手一礼をした。これも一応だけど願い事をするのも忘れなかった。

 いいご縁がありますように。旅に出られますように。本当にいいご縁の旅に出られますように。

 ボクは気が楽になったような錯覚を覚えて、ペットボトルとハンカチを持って歩き出した。山を降りよう。降りる道はさっき親子が向かった道だろうから、それは覚えている。

 ……あっさりだった。案外だった。拍子抜けするほど簡単にバイクの置いてある野原に着いた。

 あれ?

 いや、あれ?

 こんな道だっただろうか。あの登りはいったいなんだったんだ? まったくこういうのをよく本に出てくる「狐につままれた」ということなのだろうか。

 ボクは頭を振ってなんだかバカな考えを振り払った。いや振り払おうとしたんだけど、とうぶんは離れないかもしれない。

 バイクに向かいながらジーンズのポケットに入れてあるバイクの鍵を取り出した。そしてバイクに近寄っていくと……、なんかちょっと違和感がある。

 なんだ、なんだ、なんだこれは! という状況になっていた。葉っぱがいっぱいバイクの上に落ちている。これはなんだ。この木陰が原因か。でも葉っぱは青いから落ち葉でもないし、イタズラか……?

 ボクは手に持っていたペットボトルをガソリンタンクの上にとりあえず置いた。はっぱをどけて、点検しないと……。

 あ、ああ、あれ? あれ? なんだ、これ。これ、なんだろう。なんかちょっと勘違いしていた……のか……?

 ペットボトルではなかった。

 それは竹でできた水筒だった。

 なんだ、いったいなんだ。なんなんだ。

 葉っぱまみれのバイクに乗っている竹の水筒をしばらく眺めていた。これは……、たぶん……、もしかしたら……。

 いろんな記憶や思いや知識が混ざり合って、いやぐるぐる渦を巻いて頭の中を巡っている。髪留めのヒモが手首にないのはさっき確認したけど、これは絶対にあのような目にボクはあったに違いない……、たぶん。

 そしてボクはハッとした。

 この広場の先、出口を過ぎた遠くにはちょうど小さい橋が小さく見える。ここからは特徴的な三角の屋根がちょこっと見えるだけだ。

 そこはお堂なのだ。絶対に。

 そしてそのお堂の中には二人の、いや二体がまつられている、はずだ。

 大きいものと小さいものと、ありがたい大地の仏さま。

 ボクは助けられた、ということだ。神さまから仏さまに。

 ちゃんとこの水筒とハンカチは洗ってから返すことにするけど……。

 でも帰り際にきちんとお参りしよう。まだ小銭入れには115円はある。

 そしてちゃんと願おう。

 今度は間違えませんようにって。




    ☆



 …………。

 なにか、おかしいな。

 どこで間違えた……?

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