五月の終わりになっていた。


 雑誌のめくれる音が断続的にしている。パラパラパラパラららら……。

 おっとっと、いけないいけない。なんだか少し寝てしまったようだ。雑誌をめくりながらいつの間にか意識が途絶えてしまったみたい。寝ころんで読んでいたからかもしれない。

 ダメだ、ダメだ。ボクは首を振って、頭を振り回して、眠気を振り払って、怠けそうになる自分を奮い立たせた。

 銀マットを敷いているフローリングの上に正座した。

 さて、どこのページだっただろうか。改めて最初からページを辿ってみる。アウトドアの特集ページだったと思うけど。ん? そう言えばそうか……。迂闊といえば迂闊だ。最近のボクは雑誌といえばアウトドア的な特集をしたものしか買っていない。どの雑誌を見てもアウトドアの特集があるに決まっている。

 じゃあ、あの記事はどの雑誌の何月号だったんだっけ。ぱらぱらとめくって通して見ても記憶にある記事は見つからなかった。いったいどれだ?

 隣に積んである雑誌の山を上から崩していく。表紙を見てまわる。たいてい表紙には特集記事の内容が書いてあったりする。それにどの記事がどの表紙のものだったのか、なんとなく記憶がある。

 そう思って一冊を取り上げて見てみたけど……。ダメだな。これじゃない。まったくダメだ。記憶そのものが間違って刻まれてしまっているのかもしれない。こんなポンコツ脳ではこの方法は有効ではない。どの雑誌の表紙を見ても件の記事が載っているように見えるから始末に負えない。

 試しに真ん中の一冊を見てみる。なんとなく載っていそうな見覚えのある表紙だ。

 ふむふむ、なるほど、ね。いや、なんかこれ、なんかどうだろう……。

 千葉県の沿岸ではウユニ塩湖と同じ景色を楽しめるスポットがあるみたいだ。砂浜を歩く人の姿が鏡のように打ち寄せる海面に映っている写真が載っている。どうなっているのか、なかなか幻想的だ。バイクで訪れた先でこういった美しくて幻想的な光景に出会えたなら格別な気持ちになるのかもしれない。

 ……いや、いやいや……。それはどうなんだろう。本当にそれはどうなのだ。それはいったいぜんたい旅なのか。旅を体現していることになるのだろうか。そんなことをするのはただのツーリングじゃないのか。ツーリングではいけない。遊びじゃなんだから。

 旅とは、もっとこう……。適切な感じが思い浮かばないけど、違うのだけはわかる。

 たとえばだけど本当のウユニ塩湖までバイクで行くとかなら、もしかしたら旅になるのかもしれない。いやそれだと冒険か。それにボクとウユニ塩湖には旅をするだけの関係性というものが果たしてあるのだろうか。

 あ! ……違う、違う。そうじゃない。今はそこではない。見失っていた。とっても迷子になっていた。最近こればっかりだ。そうとう頭を悩ませているからこればっかりになってしまう。

 旅の本質を見極めることこそがボクの旅の本質ではないかと思う。だからこういう一見すると遠回りみたいなことも仕方がない一面もあるのかもしれないけど。

 でもあまりに考えすぎて頭が痛くなって終いには吐き気で寝込んでしまうこともあるからほどほどにしないといけない。

 答えを探しているのに、答えが出てこない。答えなんてそもそもないのかもしれないし、答えを探しているようでいて、答えなんか探していないし、そんな気もないのかもしれない。答えを探しているフリなのかもしれない。それなのになにかしら答えが出なければ……、いや答えを出さなければ……。

 ああ、そうだ。今はこっちの答えを出さないと。これは早く答えが出そうなのに。

 あれでは確実にダメだというのはわかった。昨日それが証明されてしまった。いつものようにバイクに乗っていたら、その最中にスニーカーが壊れてしまった。右の親指辺りに穴があいていたのは気付いていたんだけど、まさかまさか靴底が剥がれてしまうとは思わなかった。降りたら右足の方だけパカパカしていて、それを見ているとなんだか悲しかった。いや情けなかった。こんなに靴が壊れるまで乗っているのに……。靴が壊れるような乗り方しかできないのか……。

 だから靴を買おうと思った。それこそボクの旅に耐えられる靴を。

 それに、ある重要なことを思い出してしまった。気付いてしまった。日本の四季のことを失念していた。

 もうすぐ、もうすぐそこに梅雨というヤツがやってくるのだ。そんな簡単なことに昨日靴が壊れてしまうまで気付かなかった。なんだかそれも情けない。

 それからがしっちゃかめっちゃかだった。ボクの用意の中に雨降り対策というものが完全に欠けていた。カッパすら買ってなかった。

 いや、たぶんそれはもしかしたらボクの意識が欠けていたわけじゃなくて、ボクの意識が無意識的に封じ込めていたのかもしれない。

 イヤな記憶。雨降りのとってもイヤな記憶。

 本当はその記憶によって怖さと同時に雨降り対策は必須だと体に刻み込んでいたはずなのに。怖さの方が勝ってしまったからまんまと封じ込められて忘れてしまったのではないだろうか。それが靴が壊れたのを契機に記憶はこじ開けられてしまい、狼狽することになってしまった。

 たぶんそうだ。そうに違いない。

 昨日から大慌てで色々と調べなければならなくなった。封じ込められた記憶を払拭するために、上塗りするためにも、完璧な雨降り対策をしなければならない。

 でもそれは同時に思い出したくない、意識が無意識に隠していたイヤな記憶を思い出して、それを追体験する結果になってしまった。

 イヤなイヤな、怖い怖い記憶。

 甦る記憶。

 あれは本当にイヤだった。


 バイクの納車日は最短にしてもらった。別に引き延ばす理由なんてないし用事なんてあるわけがないから。早く乗りたくてたまらない気持ちばかりだった。

 教習所ではイマイチわからなかったことが最近はなんとなくわかったような気がして、もし今乗ったならもっともっと上手く乗れるような、そんな気がしていた。

 それに、やっぱり、一番には相棒が側にいれば、もう旅に出たのも当然のような気分になるだろうと思った。

 今回は、買ったばかりの真新しいヘルメットを抱えてバイクに乗れるような格好をして、中央線、モノレール、西武線を乗り継いだ。

 東大和市駅からの道筋は、もういろんなところが軽やかでスキップしそうなくらいだった。そうは言ってもスキップが出来ない人なんだけど。どうも片足だけしか上がらなくて不格好だ。それでもコンビニ過ぎた辺りからどうにも自制できなくてやってしまった。らんらんらんという女の子の声がどこからか聞こえてくる感じで、自分でも歌っていたかもしれない。

 店に着いた時、やっぱり小柄で無骨で無愛想な店主はいなかった。当たり前か。代わりにというか元からなんだけど、愛想のいい大柄な店長がにこやかに出てきた。店長からバイクの説明を受けて、事務所で残りの代金を支払った。これで本当に本当にボクは相棒を得たのだ。

 バイクは外に置いてあった。ぴかぴかだ。光ってる。今後ともよろしく。挨拶代わりに幅広のガソリンタンクを撫でた。

 なんか大きい。黒いから厳つい感じが半端なくある。今日からこれに乗るんだと思うと、なんだか武者震いしてしまう。やってやれないことはないという楽観と大丈夫だろうかという悲観が、この大きな車体を見ると交互に襲ってくる。

 緊張しながら、手が震えてぎくしゃくしながらヘルメットをかぶった。顎ひもがなかなか締まらない。何日か家で練習したのに、本番では手が滑ってしかたない。ヘルメットの次はグローブを装着して完了だ。

 エンジンはさっき店長がかけてくれていて、もう暖気も十分だと思う。そんな季節でもないか。アイドリングの音が、その低くて規則的な連続音が男らしくてくらくらする。

「大丈夫か?」

 見ると店長が心配そうに見ていた。愛想のいい笑顔がなんか凍っている。

「大丈夫です。どうもありがとうございます。なにかあったら連絡しますので、よろしくお願いします」

 色々な不安を宥めるようにヘルメットの中で大きな声を出した。頭をぺこりと下げる。そして教習所で習ったとおり後ろを見てからバイクに跨がった。やっとだ。やっとなんだ。

 うぅ、なんかやっぱり大きい。目の前にはババーンと幅広のタンクがあってその向こうにハンドルがある感じだ。こ、ここでびびってはダメだ。なせばなるっておばあちゃんはいつも言っていたじゃないか。

 えーと、バックミラーの調整をして、それからサイドスタンドをあげて、クラッチを握って、ギアを一速に入れて……。

 ボクは片手をあげて最後に挨拶すると、後方を振り向いて確認してから、クラッチをゆっくり放して、そろりそろりという感じで動かしていった。公道に乗り入れ走り出した。

 いや、どうなんだろう、これは。走り出してからもその大きさを実感した。大きいものに乗っている感覚がする。

 でも、でもでもなんだか意外となんとなく大丈夫に思えた。不思議だ。乗り出すと、重さ自体はあまり感じられなくなった。スムーズに進んでいく。

 歩いてきた道を今度はバイクに乗って通り抜けた。東大和市駅前を越える。

 これなら、もしかしたら、なんとかなりそう……かもしれない。まだまだ油断はできないけど、でもボクの選択は間違ってなかったかも。少し気分は落ち着いて、さっきの鼻歌が出てきた。

 エンジンの鼓動。吹き抜ける風。流れる景色。メーターの向こうに見えるライトのカバーはピカピカのメッキで、そこには空が映りこんでいるのを発見した。濃い灰色の雲の連なり……。楽しい気分に一抹の不安があった。

 そしてそれは信号で止まった時だった。黒いなめらかなタンクを見ると、一粒の水滴があった。あれ? 思う間だった。それが二粒に増えて、瞬く間にタンクの表面いっぱいになった。

 雨だ。やっぱり雨が降ってきた。天気予報では今日一日は持つと言っていたのに。ぽつりぽつりだった雨がわずかな時間でぼつぼつとなってきた。水滴が空間を落ちていくのが見える。これはマズいかもしれない。ヤバいのかもしれない。このままだと大雨の中を走ることになる。そして雨の用意は何もしてこなかった。

 服装も晴雨関係ないオールラウンダーなものじゃない。普通の服だ。でも旅に必要だとあつらえた服でもある。上着はあの人が着ていたのと同じM65を探しだして買った。谷保天満宮の末社で会ったあの人が着ていた軍物のジャンパーは調べたところM65という代物で、機能性よりも旅を象徴するものとして買ったし、そして着るつもりだった。絶対バイクに乗る時、相棒と一緒にいる時はこのM65だと決めていた。だからこそ今日という日におろしたんだけど。もう袖を見ると色が濃くなった濡れた部分が広がっている。

 どうしよう……。選択の甘さに頭がくらくらする。何もよりによってこんな雨の日に取りに行かなくたって……。もっと天気の安定している日に変更しても良かったのに……。

 でもな……。乗りたかったんだよ。早く、一刻も早くバイクに乗って、旅に出たかった。そんな自分の思いとか、欲望とか、その上に立った状況判断の甘さとかの結果が目の前に見せつけられていて、なんだかもううなだれるしかなかった。

 そんな時だった。後ろから鋭い音がボクの背中にぶち当たってきた。クラクションだ。信号はもうとっくのとうに青になっていた。

 慌てた。慌ててしまった。わたわたした。クラッチレバーのゆるめるタイミングが狂った。ストンと一つため息みたいな音がしてエンジンが沈黙してしまった。ヤバい。エンストだ。止まった。どうしよう。どうしよう。じゃない! どうするんだったっけ? 

 慌てて、慌てすぎて、セルスターターのボタンをすぐに押した。けどウンともスンともいわない。壊れたか? こんなに早く? 壊しちゃったか? メーター廻りにあるランプが全部点いている。緑や赤の光が責め立ててくる。未熟者め!

 後ろからクラクションの連続音と同時に車が至近距離を通過した。危ないくらいの近さで風圧を感じた。怖い。こんな雨なのに危ないじゃないか……。

 落ち着かないと、とにもかくにも落ち着かないと。壊れたのなら、壊れてしまったんだったら……、仕方ない。押してでもバイク屋さんに戻らないと。幸いなことにまだそんなに離れていないから、なんとか押していける。

 …………あ! そうだ! 思い出した!

 押し歩こうと思って、とりあえずクラッチレバーを握りなおしてギアをニュートラルに入れた。メーター脇のニュートラルランプが点く。そこで思い出した。よく教習所でエンストしていた時のこと。今のボクとあの時の心が重なったみたいだ。

 セルスターターはクラッチレバーを握り込むか、ギアをニュートラルに入れないと動かない。エンジンが始動しない仕組みだ。だからさっきのエンストした状態ではクラッチレバーを握らないといくらセルスターターのボタンを押してもエンジンは始動しないのだ。

 だから今はエンジンはかかる。簡単にエンジンは生き返った。さっきと同じ、調子のいいアイドリングだ。壊れてはいなかった。

 またバカをやった。やってしまった。教習所で何回も何回もやったことを、ここにきて繰り返してしまった。なんにも変わらない。大バカ者だ!

 信号はまた赤になっていた。何回目の赤だろう。もう辺りの景色は一変していた。目に見える範囲一面に鼠色が薄く塗り重ねられてるように見える。雨に濡れている。短時間なのにこんなにも。さっきまでとは別世界だ。鼻に臭いが侵入してくる。雨に濡れると街は初めこんな臭いで満ちてくる。もしかしたら臭いというのとは違うのかもしれない。ヘンな感じというのか。

 眉がぐぐっとよってきているのが自分でもわかる。本当にどうしよう……。どうしようもない。まだまだ家までは結構な距離がある。市を三つか四つ走り抜けないといけない。途中でガソリンも入れないとダメだ。ほとんど入ってないから途中で入れないとダメだと店の人も言っていた。こんなビチョビチョでそれをやるのか。考えるだけでナニモカモ憂鬱になってくる。

 やっと信号が青に変わった。今度こそは間違わないようにソロリソロリとクラッチレバーにかけている指を緩めていって、ゆるゆると動き出そうとした。

 しかし! しかし、だった……。

 動き出していつものようにステップに乗せるために右足をあげようと勢いをつけた瞬間、足が滑った。ズルッと。音なんかするはずもないのに、しても聞こえるわけなんかないのに、大きな音が脳内に響いた。

 バランスが崩れた。整えようと全身を突っ張らせた。力を入れたせいか両手の指を握り込んでしまった。右手のブレーキレバーのせいでバイクは急停止した。左手のクラッチレバーのせいでエンジンは止まらなかった。アクセルを戻してなかったから負荷がなくなったエンジンは猛々しい音を出したけど。でもバイクはヘンな挙動をすることがなかった。運が良かった。

 危うく転倒するところだった。どうにか堪えることができたのはキセキみたいなものだ。転倒は免れたけど、体はさっきからおかしかった。雨色に染まっていた視界は真っ青になっていたし、心臓は痛いくらい飛び跳ねている。全身は震えていたし、背中には雨以外の冷たい液体が流れている。

 怖い。怖い。とっても怖い。大きな息を吐き出した。思いっきり吐き出した。そうしないと歯がカチカチ言っている。怖くてしかたない。

 これがバイクなんだと改めて思った。よくわかってしまった。最悪だ……。


 その日は、その後からは何事もなく、でもずぶ濡れのままガソリンを入れて這々の体で家へとたどり着いた。

 ボクはそれでもバイクを降りることはなかった。そしてもう決してないだろう、たぶん。今はそう思えるようになった。馴れてきたからなのかもしれない……。

 雨の日は最悪だったけど、あの日から雨は降っていない。いや降ったことはあったか。バイクに乗っている時には出会わなかっただけ、なのか……。

 でもどうなんだろう? これはマズいかもしれない。これはいけない。馴れてきたのはいいけど、たぶんそれは晴れの日にしか乗っていないからなんじゃないのか。雨の日を、ボクは避けてしまっている。それを今の今まで棚上げにしている。

 旅は、雨の日だってあるものだ。雨の日にだって走るし、雨の日にだって旅立つものだ。

 それなのに、それなのに今のこの堕落したボクはなんなんだ。今の今までそういうこと全部忘れていた。棚上げしていたことも、そういう自分が恥ずかしいと思う気持ちも、すべてどこかに行ってしまっていて、昨日靴が壊れてしまうまで思い出さなかった。始末に負えない。

 本当に今まで何をやっていたんだろう。部屋の中を見回してみた。これがその成果なんだけど。こんなものが成果だなんて……。

 部屋の中は旅の道具で溢れていた。いや実際に溢れているのかもしれないけど、そのように見えるってこともあるのかもしれない。

 今はこの散らかっている状態でもちゃんとたたんでコンプレッションしてパッキングすれば、振り分けバック、シートバック、タンクバックに収まる。はずだ。毎日やっているんだけどどうにも上手くいかない。計算では収まるところにちゃんと収まるはずなのに。おかしいな。

 ああ、それよりも件の雑誌の記事を探さないと。確か……、やっぱり雨対策の特集だったような。

 山にして寝袋のわきに置いてある雑誌の束の中には見あたらなかった。おかしい。どこにあるんだろう。もしかしたらこっちか。

 部屋の中で設営してあるテントの中を見てみた。やっぱり、ない。あるのは練習のために使っているもやい結びにしたロープの切れ端が何本かあるだけだ。とりあえずそれらはテントの外に出しておく。

 持って行くものじゃないからバックの中には入れていないだろうし……。どうかな。ボケてるから、わからないよ……。

 本棚を見てみたけど……、ない。ない……。ない。な……、あ! あった! 一冊だけ雑誌がある。本棚じゃないけど。本棚の隣の机の上に置いてある。ノートパソコンの横。なんでこんなところに。

 見るとやっぱり目次からそのものの写真が載っている。雨対策完全攻略とか文面が踊っている。ぱらぱらページをめくってみると、記憶通りの記事が載っていた。紹介記事とともにユーザーレビューがある。まったく本当になんでこの一冊だけが他のとはぐれてぽつんと……。

 ……なんか思い出してきた。記憶がある。いろいろと怒濤の大展開だったからすっかり忘れていた。

 そういえばそうそうあの雨の日の後、やっぱり今と同じような考えに至って、そしてこの雑誌を見て、インターネットでどこで売っているのか、値段はいくらか調べてみたんだ。でもその時はなんだか少しお高いような気がして、とりあえず様子をみることにしたんだ。なんだかいつもの先送りだ。それからは晴れの日が続いたし、急展開に陥ってうっかり忘れてしまっていた。ということを思い出した。そんな記憶があった。

 まったく同じコトを飽きもせず。おなじトコをウロウロして。本当にまったくのダメダメだ。ポンコツもいいとこだ。困ったもんだ。軽く落ち込んできた。まあ、これもいつものことだから無視することにする。しばらくすると心は平常に戻るから。そうしないとやっていけない。一歩たりとも前進しなくなってしまう。なんでもいいから、思考停止でもなんでもしてとりあえずは前に進まないと……。

 でも最近は落ち込むことが多いな。ばっかりだ。こんなはずじゃなかったのに。いやダメだダメだ。意地でも集中しないと。今は読んで、そして考えることに集中しないと。

 うーん……、うーん……、そうか……。やっぱりどう考えてもこれが一番良いのかも。

 防水機能が付いているブーツ。山登り用みたいなんだけど、バイクに乗っている人にも愛用されているという。それにね、なんだかどうも引っかかる。聞いたことのあるメーカー名だ。どこでだろう。記憶の底、遠くの記憶で、聞いた……、いや見たような……。なんなんだろうな……。

 まあ、思い出さない記憶を追いかけても仕方ないから、久しぶりにパソコンを立ち上げて値段の確認でもしよう。と、その前にメーカー名だけで検索をしてみた。なにか引っかかるものがあるから、なにか引っかかるものがあるかもしれない。

 ああ……、なるほど……、そうか……。ページをクリックして進めていくと、なんページめかに懐かしい名前を見つけた。

 ボクが中学生の頃、すごく憧れたヒーローの名前がそこにあった。

 そうだ。そうだ。そういえばそうだった。かもしれない。現物の本が手元にないから確認のしようがないけど、思い出してみればそうだったかもしれない。

 ダナーのブーツは乱ちゃんと三ちゃんの兄弟が履いていた。いや、もしかすると記憶違いで、履いていたのは現代の仙人と呼ばれている乱ちゃんの方だけだったかもしれない。

 あの頃、いつかはボクも身長が大きくなって鍛え上げた山のような筋肉に革ジャンに白Tにジーンズそしてダナーのブーツという出で立ちが似合う人間になるのだと思っていた。いやまったく忘れていた。急になんだか色々なことが思い出される。

 中学生の頃はもう図書館の常連になっていた。だからもう中学生が読むような本はあらかた読み終わってしまったか、人気があって借りられるまでに時間がかかるようなものくらいになっていた。と中学生の頭では思っていた。図書館の表側の本棚にある本たちがすべてだと思っていたのだ。

 でも図書館には裏があると知ったのもそのくらいの頃だった。裏の方が表よりも本がたくさんある。そして誰かが読んでくれるのを静かに眠りながら待っている。年代が古かったりマイナーな本だったりと裏にある本たちは一癖も二癖もある。試しに内容も確かめずに題名だけを見て裏から出してもらったりしたこともあった。

 それがなんだか面白かった。

 その内ちょっと古めの小説を読むようになった。描かれている舞台は古い描写なのかもしれないけど、でもなんだかそれが魅力的な作品ばかりだった。

 そんなことをしている最中にそのシリーズと出会った。なんかおどろおどろしいタイトルとか検索画面に出ている目次とかで、いけない本のように思えた。中学生とはそういったものにたまらない魅力を感じるようで、どうしても読んでみたくて仕方なかった。司書の人に止められるかと思ったけど、割とあっけなく借り出すことができた。

 乱ちゃんが大活躍するその話は、本当に大人っぽい話でドキドキしたし、背筋というかお尻の下辺りがゾクゾクする感覚を味わった。

 中学生のボクが持つ仄暗い部分を照らし出す本当のヒーローが乱ちゃんだった。悪人にも魔物にも強く、背なんか山のように高くて筋肉は隆々とした体躯。女の人には優しくて、だからなのかすごくモテモテで。肩には猫又の黒猫を乗せての拝み屋稼業。なんだかいま思い出してみても、そのときに感じたあのドキドキとかゾクゾクとかが甦ってくる。

 そうそう、本気で黒猫を飼いたいって思った。お父さんに話したら、お母さんが猫アレルギーだからダメだと言われたんだっけ。円空拳という拳法も見つけられなかったし……。

 そんなに夢中だったのに、どうして読まなくなったんだろう。思い出してみてもその理由の方は思い出せないみたいだった。他の本に目が移ったのか。乱ちゃんのシリーズも弟の三ちゃんのシリーズもあるだけ読み切ってしまったからな。次の新しい本がいつ出るのか司書さんに聞くのも、その頃のボクには恥ずかしくてできなかった。

 それが今になって、こんな風に思い出すなんて、なんか不思議だ。

 やっぱりこれは是非とも買わなければ。貯金は色々と減ってしまっているけど、まだまだ余力は十分にある。旅を支えるくらいならまだ足りてるはずだ……。まだ余力のある内に出なければ……。

 旅に出なければ……。

 こんなして足踏みばかりしていられない。

 ボクはやっぱりこの部屋の状況を見渡して、この一ヶ月くらいの惨状を思い返した。

 ボクという人間は、すぐ旅に出るにはあまりにも未熟なのだと思い知った。キャンプには一度も行ったことがなかったから当たり前だとは思っていたけど、そんなものはちょっと本でも読めば出来ると思っていた。

 それがこれほどまでに出来ないとは……。

 本当に初心者も初心者、しの字までも達していない人間なのがわかった。まずは知ることから始めなければならなかったし、それから買うことから始めなければならなかった。その段階から躓くことになるなんて……。

 ボクは『旅々オートバイ』に装備品のことも書いてあったから、それをメモしてアウトドアショップに行った。ショップで実物を見てから、触ってから買った方がいいと思ってネットショップは見なかった。どれくらいの大きさとか重さとかが知りたかった。旅に持って行くものなのだから、そういう見ただけではわからないものが知りたかった。あんまり大きくてごつかったら小さいものにしようとか。もう色々なことが頭を巡って、それでも意気揚々と気分高揚として鼻歌まじりで店に出かけていったのだ。

 でもまごまごするのに数秒とかからなかった。

 着いてそうそうまずはテントを見ることにした。そう、もうダメだった。いっぱいありすぎる。それにメモしていったメーカーのものは見当たらなくて初っ端から躓いてしまった。他のメーカーのものでもいいからと見てみたけど、本当にどれがいいのか、どれが正しいものなのかわからなかった。

 ため息を三回ほどついた。

 ひとまずテントと寝袋とその下に敷くマットというものは眺めるだけにして、もっと調べて後日にまた来ようと決心した。でも今日何も買えないで帰るのはイヤだった。何かは買って帰ろうと決意した。このいっぱい書いてあるメモの三分の一くらいは、いやいや一つだけでも、この手に入れたかった。

 そう心に固く誓ったんだけど……、これは一つも買えないのではないかとお店の中を見ている内に不安になった。

 キャンプ用品は、商品の箱書きや値札の横のキャプションなんかを読むと納得するほど機能的だ。だからどれもこれもが必要なもののように見えてしまう。でもたぶんそれじゃダメなんだ。これはたぶん、いや絶対に勉強不足から出てきた想いだと強く強く実感した。

 たぶん、本当にたぶんだけど……、お前みたいなヤツの来るところじゃないんだ! 帰れ! 帰れ! 顔洗って出直して来い! そんなことは言われてはいないけど、ボクの頭の中では誰かが喚き立てていた。

 キャンプ用のストーブというかコンロが置いてある辺りに来た時には、もう敗北者か敗残者の体だった。背中を丸めてこそこそ歩いていた。

 そしてまたしてもだった。数あるコンロやストーブを見て、どれが本に書いてあったものなのかわからなかった。確か……、バイクに入れてあるガソリンを燃料として使えるものだったはず。それが便利だと書いてあって、激しく同意したものだ。

 本当にわからなかった。どれもが同じように見えた。これでもくらえ! ってくらい打ちのめされてしまった。もう降参だ。お手上げだ。助けてほしい。

 だから今までだったらほとんどやらない行動に出た。ぎりぎりだった。迷いに迷ったけど勇気を出して聞いてみることにした。近くにいるなんとなく話しかけやすそうな、怒鳴られたり詰られたり鼻で笑われたりしないような店員さんを見つけた。

 話しかけてみると思った以上に店員さんは笑顔で親切だった。帰れ帰れの台詞は頭の中だけの妄想だったみたいだ。棚の端っこの方に展示してあるものを取ってくると渡してくれた。他のものとあまり変わってないように見えるけど、なにがどう違うのだ? しげしげと眺めていた。そんな不思議な行動のボクに、さすがに店員さんは気付いたみたいだ。

「初めてのかたはこちらのほうが……」

 お店では初心者様用にスペースを作っていて、やっぱりというかなんというかそこに案内されてしまった。当然といえば当然で、初心者も初心者なのだからそれでムッとしてはいけないのだけど、心の中では憤慨してしまった。悪いのはすべてボクだ。自身の不甲斐なさに八つ当たりしていた。心の中で。

 でもわかってもいる。初心者コーナーにあるものでさえ、なにが自分にとっていいのかさっぱりわからないんだから、本当は顔を洗って出直さなければいけない。その日何回目だろうか、ため息を、大きな大きなため息をついてから、親切な店員さんに深く頭を下げてその場を後にした。

 結局、その日はキャンプ道具の本を二冊も買って帰った。

 まったくもってその日から苦闘が始まった。苦悩だろうか。何から何まで一から十まで初心者であるというのが、ようやく心の底から理解した。旅人の初心者ではなく、旅に行く夢を見る初心者だった。旅にすら行けない初心者だ。バイクに乗ったこともなければ、キャンプにすら行ったことのない、旅人志願者というか、旅人への憧れ頭いっぱい妄想者でしかなかった。なんで今まで簡単に旅に出ることができると思ったのだろう。不思議だ。

 だからせめて旅人初心者になるために勉強するしかなかった。

 まずは買ってきた本を読んだ。徹夜してしまった。でもなんだかモヤモヤが止まらない。後から後から疑問がわき出てしまう。キャンプというものの基礎というか土台というものを理解していないというのを痛切に理解した。

 そもそもテントを張るとはどういうことなのか。なぜテントがあるのに寝袋が必要なのか、とかとか。いやそういうものだと言われてしまえばそうかもしれないけど、そういうところが引っかかって先に進めなかった。モヤモヤがボクの足を引っ張っていた。

 キャンプ道具の本だったからダメなのかと思って初心者用のキャンプ読本も買ってきた。それも徹夜して読んだ。まあ、それによってだいたいはなるほどなるほどとわかってきた。

 テントは簡易的なものであるのだ。住居としては最低限の代物なのだ。ナイロンとか帆布とかの布を支柱やロープを張って空間を確保しているのだ。そんな簡易的なものであるからして、寒さをしのぐことは容易ではない。だから寝袋なんだ。床面に関してもそうだ。ナイロンなんかの布一枚下は直接地面だから、マットという寝心地をよくしてくれたり寒さをしのいでくれたりするものが必要なのだ。

 おお、わかってきた感じがする。まだまだわかったことがたくさんある。ストーブやコンロなどはガス缶を燃料としたものが初心者には向いているということだ。ガソリンや灯油は難しくて相当な慣れが必要だという。低温でも火力が安定するという優れものではあるけど、ポンピングとかいうイマイチ理解できないことをしないとダメみたいだ。これがコツのいる作業だと書いてある。

 もうなんというか、初心者用の本を読んでいると、いろんなコトを諦めるしかなくなってくる。やっぱり初心者は初心者らしくいくしかないようだ。でもでも初心者用であるガス缶にも二種類あるのを見つけた。細長いのと丸いのと……。どっちがいいんだろう。

 悩みながら、それでも初心者に必要な道具のリストを改めて書き出していった。最新情報というのはネットでも見たけど、やっぱり実物を手で触ってみて買ったほうが初心者は安全だと気付いて、またお店に行くことにした。それから何日にもわたってお店に通うことになってしまった。

 その間にもバイクには毎日乗れるだけ乗ってスキルを上げることは怠らなかった。でも、でもね、どうにもバイクに乗っていても楽しいとは思えない。怖いと感じることの方が多くて……。どうしたものだろうか。これは今だけの問題なのか。それとも将来にわたって続くゆゆしき大問題なのか……。

 なんだか悩みがつきない毎日だった。

 やっとなんとか物が買えるようになってキャンプ用品が揃ってきた。それでも圧倒的に経験値が足りないから家にいる間に何回も使ってみた。部屋の中でテントを張って(自立式だしペグは打たないけど)、中にマットと寝袋を敷いて何日もその中で寝泊まりした。台所ではガス缶のコンロを使って料理やらをしてみた。ロープの結びを覚えた。最近になってやっとバイクに積み込むための防水機能の付いた振り分けバックやらシートバックに用品をパッキングする段階までこぎつけた。

 こんな風にキャンプ道具の防水は考えついていたのに自分自身の防水については、特に足の防御に関しては考えが及んでいなかった。まったくどういった頭をしているのだろう。

 それでさっき思いついたことを改めて思い出した。また失念していたようだ。カッパも買わなければならないんだった。

 またも自分の部屋を見回して大きなため息をついた。これで何回目だ。こんなにやったというのに。大事なことが抜けている。抜けていることがあまりにも多すぎて旅に出ることもままならない。

 両膝をついて頭を抱えた。しばらくそうやってジッと耐えた。息が少し静かになるまで。せり上がってくる何かがなくなるまで。

 お父さんとお母さんに約束させられるのも当然だ、これでは。でもその約束のせいで遅くなってしまったことでもある。

 ……旅に出たいと二人に言った数日後のことだった。仕事から帰ってきたお父さんに呼ばれて一冊の本を渡された。

 『アルケミスト』という少年が旅をするお話だった。そしてこの本は死んでしまったママが大好きな本だと言った。

 お父さんという人はあまりしゃべらない人だった。家の中でボクと二人でいてもお互い別々の本を読んで過ごすということが度々ある。これはお父さんが聴覚障害者だということだけではないだろう。一人で本を読んでいるのが好きな性格なんだ。

 ボクにもそれが色濃く受け継がれているようだ……。いやそれだけしか受け継がれなかったのかもしれない。お父さんは仕事もきっちりこなし、もうボクの歳くらいにはママやお母さんと結婚して、ボクを育ててきたんだから。偉い違いだ。本を読むこと以外ボクができそうなことはないように見える。

 そしてお父さんがこれほど本について話すのは珍しかった。ボクよりも本を多く読んでいるように見えるお父さんだけど今まで一回も本を薦められたことはなかった。そしてママの思い出もそんなには話してくれなかった。この本を薦める理由やその理由にまつわるママとの思い出を含めて話してくれるなんて初めてのことだろう。

 ママはボクが小さい時に死んでしまったから記憶というものがほとんどない。ママの妹であるお母さんの方が、どの記憶にも母親として登場してきて馴染み深い。

 たぶん想像するに、ママとお母さんは姉妹だから容姿だけじゃなくて色々なところがとても似ていたからなのかもしれない。ママの記憶がほとんどなくてお母さんとの記憶だけがあるのは、もしかしたらボクの中でごっちゃになってしまったのかもしれない。ママとお母さんがボクにごっちゃにしてほしいと望んだからなのかもしれない。でもどうなのかな。ママはお母さんと違って聴覚が不自由でなかったから、ごっちゃになったというのは、ただ単にボクが薄情にもママのことを忘れていたというだけなのかもしれない。

 なんだか色々なものが頭を巡っていたら、けっこう衝撃的な一言がリビングに響いた。一瞬で静まりかえった。いやいや違う。ボクの耳が音を拾わなくなった。今なんて言ったんだろう。よく聞き取れなかった。いや聞き取れたからこその動揺じゃないのか。

 内容が、あまりにもなんというか今のボクにとっては……。いつものリビングが異空間化してしまってどこにいるのか一瞬わからなくなってしまった。視界はいっさい変わってはいないというのに。

「それは本当ですか……?」

 思わず敬語になってしまう。

 お父さんは大きく頷いて、そしてもう一度同じことを繰り返した。

 ママは、ボクを産んでくれたママは、旅人だった。大きなリュックを背負って若い時から日本中を、大学生の頃には世界をいろいろと旅していた。それは旅行ではなく、旅という言葉が似合うものだったらしい。無茶なこともずいぶんしたということだった。

 なんだか今まで漠然と感じていたママのイメージが崩れていく。ママはお母さんと同じ、おっとりしていて優しくて、詩集を読んだり刺繍をしたりお料理したりするのが好きなんだと思っていた。勝手に思っていた。

 ママは違っていた。ウチの家系に連なる誰とも違っていた。

 聞いている内にため息が出てきた。ボクのように旅にも出られない初心者から見れば、もうプロ級といってもいい旅人だ。ショックだ。あまりにも。ボクの周りの世界っていうヤツはどうなってしまっているのだ。ボクの中に旅人の血が流れているというのに、今の今までそんなことを一つも考えないで過ごしてきた。縁もゆかりもない旅が今になってボクの目の前に立ち現れてきたのかと思っていたのに。もうずっと前から、ボクの生まれるずっと前からボクと旅は手を取り合っていた、のかもしれない。

 まったく……、ママがそんな人ならもっと以前にもそんな話が出てもよかったはずなのに。そんな雰囲気すら感じられなかった。お父さんにそのことを抗議したけどたった一言返されただけだった。聞かれなかったから、と。そんなこと聞くわけない! というかどうして聞くことができるんだ。どういう了見だというのだ。

 もっと抗議しようと思ったけど、ちょうどその時に台所仕事の終わったお母さんがリビングに来てお父さんの隣に座った。それでやっとわかった。バカだな、ボクは。もっと早くわかればいいのに。ボクにはお母さんがいるじゃないか。小さいボクがママのことを知ってどうなるというのだ。悲しむだけじゃないか。二人とも。いやお父さんもいれてあげてもいいか。いやたぶん、ママとお母さんの母親である大好きだったおばあちゃんもそう思ったから何も言わなかったんだ……。

 そうして約束の話が始まった。

 いろいろとごちゃごちゃ話をしたんだけど、究極的には「死なずに必ず帰ってこい」という一点につきた。ママは旅に出ても必ず元気に帰ってきたという。だからボクにもそれをちゃんと守れということだった。そんな当たり前の話……、ボクは旅に出るのであって、死にに行くわけではないのである。

 お父さんはその約束をした後、ママの形見の本をくれた。旅先に持っていくようにということだった。お守りみたいなものだろう。お母さんからは、これから旅に出るまでのあいだ料理を一緒に作って覚えるということを約束させられた。その件についてはお父さんも激しく同意した。まったくもって二人ともボクが何もできないと思っているのだ。

 『旅々オートバイ』にも書いてあった。マカロニを茹でてバターとあえてレトルトのハンバーグと混ぜるだけでも立派な食事になるんだ。いかにも美味しそうだ。だからそんなに心配はいらないんだけど……。

 それと……、半年前に亡くなったおばあちゃんからも言伝があった。貯金通帳を渡された。遺産というか形見分けというのか、開いてみるとなんだかゼロが多くて、恐れ多くてよくよく見ないで通帳をお父さんに戻した。

 ボクは旅に出るのであって、旅行ではないから大金は必要ないと思っている。小さい頃から使わなかったお小遣いやお年玉、学生時代のバイト代とかこの前までの給料とかボーナスとかまだまだ残っている。今まで何に使っていいのかわからなかったお金なのだから、ここで使わなくてどうするという話だ。

 おばあちゃんの心配はありがたかった。本当なら生きている内にボクは旅に出るんだと話し、今までの自分じゃない姿を見せられたらよかったんだけど。上手くいかないよね。

 おばあちゃんはいつもボクのことを心配していた。ママのように早く死なないだろうかとか、お母さんのように何かの障害があらわれないだろうかとか。いつもいつもウチに来るたびに心配していた。

 だからあの時、癌で病院に入院している時、目を瞑ってベットで寝ている手を握った時、もっと違うボクだったら良かったのに……。おばあちゃんに安心してもらえるボクだったら良かったのに……。

 …………頭を抱えたまましばらく息を調えるようにした。このまえ読んだ本に心を落ち着かせるための呼吸法というのが載っていたから、落ち着くまでそのリズムのある呼吸法を繰り返した。頭に血が上ってしまったような感じだ。汗が吹き出てくる。こめかみ辺りから頬に向かって幾筋も落ちていった。

 こんな半袖が似合う季節になってしまったのに、まだ家でこんなことをしている。あまりの無能っぷりにまた頭に血が上りそうになった。いや目の前が真っ暗になってくる。

 しばらくそうしていた。しばらくそうしていると落ち着いてきた、というのか、あまり何も感じなくなってきた。

 そして落ち着いてきたからなのか……、心の中に固いものがあるのを発見した。これはたぶんあの日に、あの池の前で誓いをたてた時にできたものじゃないだろうか。

 いつもそうだ。いつもいつも頭の中では旅に対する想いやこれから出会う困難や失敗や恐れや涙や悲しみや悔しさや恥ずかしさが映像付きでメリーゴーラウンドのように回っている。いつものことだ。

 でも決まって、終わりになるとなんだか大丈夫なような気になってくる。なんだか上手く行くような気がしてきてしまう。それはここ最近とくに顕著に出てくる現象になった。

 お父さんからもらったママの形見の『アルケミスト』はその日に読了してしまった。それからことあるごとに何度も読み込んでいる。またもやバイブルができたってことだろう。

 『アルケミスト』によると特別な旅というものは障害が目の前に立ちふさがってしまうのは当たり前のことらしい。騙されて無一文になってしまったり、砂嵐にあったり、軍隊に捕まったり盗賊に殴られたり……。踏んだり蹴ったりの状況になる。でも、それでもと言い続けて旅を続けていくと、信じて旅をしていくと……、そこには……。

 ボクの旅もそうであると思う。特別であるがゆえに一歩歩く度に障害が立ち上がってくるのは当たり前のことなのだ。だからこそ準備は万端にしなければダメなんだ。念には念を入れて用意して挑まなければ、その障害に叩き潰されてしまうんだ。そう思うと、楽になるのが早くなったような気がする。

 またボクはいつもの日課であるキャンプ道具をパッキングする作業を始めた。それは一つ一つ確認することでもあった。

 まずは……、ソロキャンプ用のテントは、ある。

 防水透湿素材の3シーズン用のシェラフは、ある。

 そのシェラフの下に敷く空気を入れると膨らむインフレータブルマットは、ある。ついでに銀マットも。

 バイクとテントの間に張るタープも、ある。ロープも何本か、ある。

 お湯だけなら短時間で沸かせると評判のガスバーナーとカートリッジが、ある。

 同じ種類のガスカートリッジを使うレギュレーターは、ある。

 同じ種類のガスカートリッジを使うランタンは、ある。

 そのガスカートリッジの予備が5つほど、ある。

 一人用の小さく折り畳めるテーブルは、ある。

 また小さく折り畳めるアウトドア用のチェアが、ある。

 重ねると一つになってしまう鍋兼食器は、ある。

 箸とかフォークとかスプーンとかが一つに組み合わさって仕舞えるカトラリーセットは、ある。

 スイス製の十徳ナイフは、ある。

 フランス製の木の柄の折りたたみナイフは、ある。

 LEDのヘッドランプは、ある。

 小さいラジオは、ある。

 予備の乾電池はたくさん、ある。

 水筒として使うアルミ製のボトルは、ある。

 えーと、えーと、それとそれと、えーと、それと……。

 順序よく、理にかなうように振り分けバックや大きなシートバックに詰めていった。あれだけ勉強したんだから完璧だろう。

 こんなものだろうか。食材とか衣類とかは本番の旅が始まる時に入れるとして、そのスペースも確保してある。

 後は後は、財布なんかの貴重品はウエストバックに入れて……。よし。これでたぶん一応準備は整ったと思う……。なんとなくだけど、何かが大きく足りないような気がするんだけど……。よくわからない。

 お母さんから見ると足りないものばかりらしい。料理を教わっている時によく言われる。ボクには旅に出るためのものがまったく足りていない。足りないものばかりなんだそうだ。さすがにちょっとはムッとするけど、その通りかもしれないと思うから何も言い返さない。旅に出る何かを持っていないのは自分でもわかっている。

 特にご飯の炊き方が間違ってお焦げを大量に作ったり、野菜炒めの塩を入れ忘れたりすると何も言えなくなってしまう。ただ馴れればなんとかなるような気もする。お焦げだっておいしいし、野菜炒めは作らなくったって困らない。

 そう思うけど、何も言えない。本当はわかっている。お母さんがこういうふうに言うのは心配してのことなんだって。

 お母さんはいつだってボクのことを心配している。お母さんはお父さんと違ってとてもボクと話すのが好きみたいで、だからよく話をする。それでいつも感じることは、お母さんはすごく心配性で、色々なことを前もって予想しながら物事を進めるタイプなのだ。いや違った。進めることやめてしまう人だった。

 ボクも若干、いや大いにそういうところがあるけれど、ボクの場合はまず初めから進まないタイプだからお母さんとは別段衝突もしなかった。ちなみにお父さんは関心のあることに対してはボクがびっくりするくらい積極的だけど、関心の薄いことに関しての興味は薄い感じだ。

 今回はでも、衝突も辞さない覚悟で臨んでいる。

 お母さんはワカメとスライスしたキュウリとぶつ切りにした茹でタコを甘酢であえながら言う。

 お母さんが本当のお母さんじゃないからボクが旅に出るんだろう、と。

 ボクはすぐさま否定する。そんなことはない。旅に出るのはボクがボクのために、これからのボクのために考えた、すごく個人的なことだ、と。

 豆腐と味噌とホワイトソース使ったグラタンを耐熱皿に敷き詰めて、それを220度オーブンで焼いている時にお母さんは言う。

 お母さんがお母さんとして不甲斐ないから旅に出てしまうんだ、と。

 ボクは即座に否定する。不甲斐ないのはボクの方であって、旅に出るのはそんな自分を変えるためなんだ、と。

 お母さんはナスを半分に切ったものを油で揚げた後だし醤油で作ったたれに浸けながら言う。

 お母さんがママとは違うから、ボクが自分の人生が上手く行かないと思うようになってしまった、と。

 ボクは声を大にして否定した。ボクの人生の中に旅に出ることが初めから組み込まれていたから、こういう軌跡を描いたのだ、と。

 そうなのだ。ボクの歩む人生の中に最初から旅に出るというイベントが組み込まれていたから、仕事もなくなってしまったし旅の本にも出会ったんだ。そしてあの池の女神様の前でキセキが起きて、あの人と出会い、旅を共にする相棒を手に入れることになった。ボクの身の上に起こるすべての出来事がボクの人生の歩みのために起こることであって、誰がどうとかいうことではないんだ。

 それでもお母さんは言う。ボクには大きく足りないものがある、と。

 ママという人はナニも考えないで旅に出た。旅に出てから考える人だった。

 ボクは……、たぶんお母さんの方に似ている。何かをする前に考えてしまう……。

 …………ボクは大きく頭を振った。このくらいで想いが巡り巡るのが止められたらもうけものだな。しょうがない。いつもの日課に出ることにする。どんな気持ちでいようとも日課であるからには行うのが当然だと、よく考えて出した結論だった。

 大きなバック二つと小さなバック一つを抱えて部屋を出た。駐車場に出てバイクのシートを外した。もう予め相棒にはヘッドライトの下に付けるバックと背もたれに付けるバックが取り付けられていて、その中には工具や補修部品なんかが入れてある。だいぶ時間は短縮されてきたけど、まだまだ振り分けバックやシートバックを取り付けるには手間がかかってしまう。

 ようやくすべての用意が整って、あとはヘルメットにグローブを付けるだけだ。よし。

 ボクは「旅に出る前」に出た。



 大きく息を吐き出した。長く長く吸って、それを一回で吐き出す。ブレーキレバーを握っている手が震えている。完全に車体が止まっているから、ギアをニュートラルに入れて、クラッチレバーをリリースした。

 まだ、だ。まだまだ、だ。

 こんなにもバイクに乗るのが怖いなんて思はなかった。このバイクが相棒となってから一ヶ月以上たつのにまだ馴れない。いや、馴れなくても怖くないくらいにはなりたいのに。それで楽しくなったらなお良いんだけど……。

 荷物を満載して市内を一時間ほど流してきただけなのに……。なんだかいつもドカッと疲れが肩の上にのしかかってくる。

 本当にもうどうなっているんだか……。

 汗がヘルメットの中で溢れていた。額から眉毛に流れて目に侵入してくる。グローブ付けたままだから拭けもしない。そういえばまだエンジンもかけっぱなしでバタバタいっている。慌ててキーを捻ると静かになった。車体の振動は収まっているのに、自分自身の揺れはまだ続いている。小刻みに視界までぶれている感じ。

 今日はいい天気なんだけど、でもまだ季節は夏ではない。それなのに背中からわきの下から、胸の辺り、下半身は腰回りから全体的に汗でグシャグシャだ。

 本当にさっきは危なかった。急に自動車が横合いから飛び出てきた。いや違うか。飛び出てきそうだった。車は普通に止まったんだけど、ボクにはそう見えなくて急ブレーキをかけてしまった。後ろに車がいなくて良かったけど、急ブレーキのせいでバイクの車体ががくがく大きく揺れてそれを押さえるのに必死になった。転がるかと思った。

 もう何回目だろう。なんだか自分ばかりが焦ってしまって、ロクなもんじゃねえ……。もう何から反省していいのか、どこまで反省すればいいのか……。

 こんなんで旅なんていつ出れるのだろう。今度は大きなため息をついてしまった。ノロノロとグローブを外して、ぐずぐずとヘルメットのあご紐を緩める。

 急になんというか寒気みたいなものが体を震わせる。これはバイクの振動が残っているわけでは決してないだろう。微妙な思いが心を掠めたせいなのだ。

 そうなのだ。このバイクだ。この相棒のせいかもしれない。超カッコイイとミーハーに言ってしまうほどのバイクだけど、もしかしたらそれだからこそボクには分不相応なのかもと、チラッと思ってしまった。

 どうしたってこの重さにへこたれてしまう。足つきは教習車よりもいいけど、やっぱり大きさというか重さがネックというか。この前はこの大きさと重さのせいでこの駐車場でUターンしきれずに倒してしまった。買ったばかりだというのに。悲しいことに背もたれのクッションの部分が破れてしまった。まだ旅にも出ていないのに……。もうキズモノにしてしまった。ボクが不甲斐ないばっかりに。

 そうだ。そうだよ。その旅だよ。そもそも、なんだよ。そもそも旅をすること自体ボクには分不相応だったんじゃないだろうか。ボクに旅なんてぜんぜん似合わない。それなのにこんなにムリしてここまできてしまって……、それでどうするんだろう。なんだかずぶずぶ落ち込んでいってしまう。どこまでも沈んでいってしまいそうになる。このバイクにしがみついているから落ちていくのをくい止めているのかもしれない。なのにこのバイクは大きくて重くて……。

 いつまでもそうやって少し乾いてきたカサブタをいじくっているようにして痛いんだか気持ちいいんだかに浸っていたかったけど、そうはいかないって気持ちも心の片隅にはある。もうここまで来てしまったんだから、やるしかない。後戻りなんてできない。いや、したくない。心に立ち上がったあの日の誓いが、引き潮に持って行かれそうになるボクを引き留めている。

 もう一度、大きく息を吐いた。もうそれはため息ではなくなった、と思える。

 そしてグローブを外して、眼鏡を取って、やっとヘルメットを脱いだ。脱いだというよりはべりべり引きはがす感じに。いやまあ、それで少しは気分がいい感じにはなった。イヤなこと全部から脱皮したような……。

 風が吹いて、心地よかった。この季節にしては涼しい風がさわさわ吹いている。

 空を仰ぐと黒い三角がひらひらしている。なにかの鳥だ。ヘンな飛び方をしている。だけど、なんか心が安まる感じがしてきた。鳥だって一生懸命羽を動かしている。ボクだったらなおさら全力で……。

 今度こそ混じりっけなしに思いっきり深呼吸をした。なんだかさっきよりも自分の中の何かを信じられるような気がしてきた。安いものだ。

 ん? これは……? あんまり嗅いだことのない匂いが風に乗って漂ってきていた。嗅いだことはあまりなくても正体くらいはわかる。たぶんタバコだろう。ということは……、気づいてハッと周りを見回した。この今までのぐにゃりぐにゃぐにゃを見られていたのかと思うと恥ずかしくなってきた。

 隣家との境を見るとその辺りに人が座っている。この距離でよく今までわからなかった。ボクは本当にマヌケだ。

「よぉ」

 タバコを挟んでいる手を挙げて挨拶をしている。たぶん視線が合ったのでボクが気づいたのがわかったのだろう。短くなったタバコを近くに置いてある缶コーヒー押しつけた。

 ボクはぺこりと頭を下げた。顔見知りだったから声を出して挨拶するべきなんだけど、声がなかなか出てこなかった。顔見知りだけど、この場合はただ顔を見知っているだけの人で名前さえも知らなかったから余計だった。

 たぶんこの人は毎年この季節になるとこの近所で仕事をとっている植木屋さんだった。真っ黒な仕事着は植木屋さんって印象だ。いやいや、ちょっと待って。植木屋さんの服装はそもそもこんな真っ黒だっけ。ま、いいか。

 お母さんの話によると、なんでもこの植木屋さんは元々は違う職業に就いていてそこを定年退職した後に趣味で植木職人になったのだそうだ。だからなのか格安で仕事を請け負っているみたいでウチもたまに仕事を頼んだりしている。ただ回ってきた時に頼む感じなので電話番号とかも知らないみたい、そういう話を聞いたことがある。

 今は隣の家の広い庭をやっている。それは知っていた。お母さんが数日後には一日だけお願いするみたいなことを言っていた。そういえばそれを聞いたのは今日の朝食の時だ。

 頭も白黒で無精ひげも白黒のおじさんはニカッと歯を見せて笑った。

「それえ、でけえなあ、いくつだ?」

 初めなんのなにを聞かれているのかピンとこなかったんだけど、やっとわかった。なんだかボクはボケている。

「こ、これでも250ccなんです」

「ほう、なんかゆったりしてカッコイイなあ」

「え、ええ、そうですかね、やっぱり」

「ああ、なかなかなあ」

 そうだよね。やっぱりそうだよね。カッコイイよね。やっぱりカッコイイんだよね。見る人が見たらわかるもんなんだ。なんだかボクはうきうきしながらバイクのサイドスタンドを立てて自立させてからバイクを下りた。

 そして数歩下がって改めて見てみる。やっぱりだ。ボクのバイクはすごくカッコイイ。思わず頷いてしまう。やっぱりボクの相棒はこれでなくちゃ。間違ってなんかない。

「おれもよお、むかし、カワサキのバイクに乗ってたんだあ」

 え? おじさんもバイク乗りか。

「そ、そうなんですか?」

「そうだよお。そんなキレイなバイクじゃなかったけどよお。中古を買ってなあ」

 これも中古なんだけど、でも新車と間違えるくらいキレイではある。大きな傷なんてぜんぜん見当たらない幅広のタンクに近寄ると顔が映る。

「今のバイクはそんなカッコイイんだなあ。おれももう一度乗るかなあ」

「はあ、そ、そうですね。いいと思いますよ」

 いやあ、なんだか楽しくなってきてしまったよお。

「ところでよお、あんちゃん、大きな荷物積んでっけどお、旅行にでもいくんかあ」

 その一言でボクは緊張してしまった。これは試されているのかもしれない。今の不甲斐ないボクは、ここで言えるのかどうか。試金石であるのかもしれない。

 ボクは胸が苦しくなりながらも、絞り出すようにして答えた。

「旅行ではなくて……、旅に出ようかと思っています」

「旅、か……」

「はい……、旅です」

 しばらく時間が置かれた。居たたまれなくなったボクは足下の自分の影だけを見ていた。そんな訳ないのに、先生からの答えを待つみたい……。

「旅は、いいねえ」

「はい……」

「旅かあ……、いいねえ」

「あのう、旅を、したんですか?」

 その質問は予想していたのか、それとも今気づいたものなのか、微妙な間をおいて植木屋さんは答えた。

「そりゃあ、したよお。それこそ、いっぱい」

「いっぱいですか?」

「ああ、そうだよお」

 またしても旅の経験者に出会った。これはひょっとしてひょっとするとあの前兆というやつなのかもしれない。

「そうだなあ、やっぱし思い出深いといえば最初のだろうなあ」

 なんと、やっぱり、この人には最初の旅もあって、真ん中のもあって、そしてそして最後の旅もあるのだろう。旅のプロだ。

「学生の頃になあ、買ったばかりのバイクだったからさあ、近所にタバコ買いに行くのにも乗ってたんだよ。そんとき夏でさあ、空見て大きな白い雲見てたらなあ、そのまま旅に出てたんだあ」

 え?

「気づいたら北関東の北の山ん中でよお、困っちまってよお。ウチの親んとこの実家が茨城だったから、そこに寄ったんだあ。そうしてじいさまとか親戚連中に金借りたり道具借りたりしてよお。そっから三ヶ月くらい東北やら北海道やら回って、日本海沿いを西に行って最後は京都まで行ったんだあ。あれはいま思い出しても楽しかったなあ」

 ちょ、ちょっと待ってください。ちょっと待って!

 植木屋のおじさんは遠い目をしてバイクを見ながら、胸ポケットから若葉色のタバコのパッケージを取り出した。その中から一本抜き出して火を点けた。

 植木屋さんにとってはのんびりとした若き日の思い出話であるのはわかる。でもボクにとっては……。これはこの話は、どうなんだろう。なんだかさっきから心臓の鼓動が早くなって止まらない。当たり前か!

 ただの汗なのか冷や汗なのか油のほうなのかさっきから背中を滝みたいに水玉が滴り落ちていく。額に浮いた汗の玉がこめかみから頬に、そして顎先から大事な相棒の上に落ちていく。

 これは大事なことだ。とっても大事なことだ。命のかかった大事なことだ。だから聞きたい。とっても聞きたい。現役ではなくても、生きているプロから聞くことができるんだ。こんなチャンスはない。

 ママが生きていたらたぶんもっと早くなんでもなく聞けたことだ。いやいやいや、ダメだ、ダメだ。仮定の話は誰もが傷つく。この植木屋さんに、この段階で話を聞けただけでもよかった……。軽く尋ねたら軽く返ってくる、たぶんそんな話だ。だから聞く。早く聞かなきゃ。口よ、動け! 頭よ、いい文章をひねり出してくれ。

 そして、そして、ボクは……。その後に、どうするんだ?

「あ、あのう、ひとつ聞いてもいいですか?」

「なんだあ、そんなしゃちほこばってえ」

「あ、あのですね、どうして、どうして急に旅に出たんですか。なにも持っていないのに」

 初めは戸惑っているようだった。そのトンチンカンな質問の意味を考えてるように無言が続いた。待ってる身としては長いように思えたけど、数秒のことだったかもしれない。

 たぶん予想できる。この質問は旅のプロにとっては考えるのもばかばかしくて、改めて聞かれると逆に禅問答のように難しくなってしまうものだと思う。だからボクは予め答えを知っている。それはボクが旅に対して求めている理想の形なのだから。

「どうしてって、どうしてかなあ。ただなんとなく、ぶらりとなあ」

「(やっぱり……)なんとなくですか?」

「そう、ただなんとなくでよお、急にそう思うんだあ」

 やっぱり……、そうだったのか。そうだったんだ。そうであるのか。

 旅に出る。そこに理由はないし、覚悟なんていらないんだ。

 旅とは自然に、するっと出てしまうものなんだ。

 そこが……、そこんとこが……、ボクには足りない。それは決定的に……。

 あんまりだ。まったくもってあんまりだ。

 目の前が暗くなる。真っ暗だ。

 このままではボクは旅に出ることなんてできない。

 このままじゃ……。




    ☆



 足りないものはまだあったな。

 色々と足りないものはあったけれどもこれを忘れちゃいけなかった。とってもとっても重要なものだ。

 それは〝火〟を点ける道具だ。

 完全に忘れている。失念している。

 タバコなんて吸わないもんだから、火を扱う道具なんて生まれてから一度も持ち歩いたことがなかった。持ち歩いているのは常に親などの大人だった。そういままでは。

 マッチがいいだろうか。防水マッチ。それともライターだろうか。防風ライター。

 そういえばライターといえば逸品と呼ばれるものが多いな。その一つがいいだろうか。

 ジッポー……とか。こういうのを持ってみるのもいいのかもしれない。ネットで調べるとなんか道具って感じがするし、なんというか男の人の持ち物って感じがする。自分とはまったく違う世界のものに思える。自分とはかけ離れたものなのに軽く扱えるってすごいんじゃないだろうか。なんかいい感じ。

 ジッポーか……。

 カチンと音がして蓋を閉めたりするみたいだ。それこそたき火の前でそれをするんだろうな。そういう時にはお酒を飲んだりするんだろう。ウイスキーかなんかをスキットルに入れてあって……。

 それでそれで本を読むんだ。そうだ! 『アルケミスト』なんかいいかも。

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