四月の終わりになっていた。


 なんかヘンな感じだ。

 まるでボクがボクでないような……。いや違うか。違う世界に迷い込んだみたいな。

 ああ、そうか。そうだ。この時期、こんな時間にこんなとこでこうしているのがなんか不思議なんだ。

 あ、まずい……。慌てて車内から飛び出た。もうドアが閉まる時のチャイムの音が鳴っていたから、間一髪という感じだった。こんな瞬間的に降りることができるなんてまったくもってボクじゃないみたいだ。

 電車はボクをホームに取り残して行ってしまった。アホ面のボクはまだ両手に文庫本を開いたまま持って立っていて電車の後ろ姿を見ていた。なんだかマヌケな感じがする。でもそれこそボクらしいというものなのかもしれない。

 中央線に乗り込んだ時たまたま座れてしまったから、いつものように文庫本を開いて読み耽ってしまった。でも車内がいつもの雰囲気じゃないのがしばらくしてわかった。朝じゃなかったからかもしれない。本を読んでいる最中になんだかいつもとは違う雰囲気が浸食してきて、とうとう集中力が途切れた瞬間、これはヘンだと感づいた。そのときになって今日の行き先はいつもとは違うんだと気付いた。と同時にいつもの行き先にはもう一生行くことがないんだと思い出した。

 そして止まっている駅が今日降りる立川駅なのがわかった。それでこんなカッコウだ。

 どんどんと他の乗客たちに追い抜かれていく。どんどんどんどんみんなに置いていかれる。どんどんどんどんどんどん……。当たり前だ。こんなトコでぼーっと突っ立ってれば。

 でもね、慌てることなんかない。コホンとワザと咳払いなんかして、ジャケットのサイドポケットからお母さんにもらった矢をモチーフにしたしおりを開いている文庫本に挟んで閉じた。そしてその文庫本をしおりを取り出したサイドポケットに入れた。今日は鞄を持ってきていなかったからあんなに慌てて降りても忘れ物はなかった。

 いや、鞄とか持たないで出かけるのも、電車から慌てて降りて無傷なのも、今までのボクにはなかった世界だ。

 だからこそ、なんだ。せかせかすることなくゆっくり歩きだそう。そんなのあまり馴れてないけど、でもこれからはずっとそうなのだ。いつかは馴れるものだ。でもあまりにもゆっくりってのも困りものかもしれない。

 三月の終わりから今の今までの行状を思い出すと恥ずかしくなってくる。のろまだというのは、まあ自覚していたことだったけれど、これほどのものだったとは正直思わなかった。のろまののろま、キングのろまと呼ばれてもしかたがないかもしれない。

 四月になってからすぐに自動車学校に入るつもりだった。ボクの旅には自動二輪免許はどうしても必要だったからだ。車の免許は大学卒業のときにAT限定だけど取っていた。その時は確か生協のお得なパックで取ったんだけど……。一回体験しているはずなのに、二度目の時は手続きに異様に時間がかかった。大変だったのだ。

 そんなに目は悪くなっていないだろうと思っていたら、手続きのときに視力検査をしたらはじかれてしまった。眼鏡が必要な体になってしまっていた。

 初めて眼鏡屋さんに行ってちゃんと視力を計ってもらったらけっこう落ちてて、それで落ち込んで、乱視が入っているからと言われてまた落ち込んで……。初めてのものだから地味すぎるぐらい地味な黒縁のフレームを選んで試しにかけてみたらあまりの似合わなさに落ち込んで……。眼鏡だけが浮き上がっている感じだった。見かねたものなのか店員さんとして当然の行為なのか、年輩の女性の店員さんが見立てしてくれたものは割合似合う感じがしたのでホッとした。

 なんだか手続きの前から躓いたのがいけなかったのかもしれない。入校してからがノロマの本領発揮だった。

 あのクラッチという代物はなんなのだろう。そのクラッチの半分という位置もいまいち飲み込むのに苦労した。位置というか力加減というか、そういったものがとても重要だった。レバーにかける指の位置と徐々に動かす微妙な力とか。今はだいぶ把握してきて、発進も変速もぎくしゃくしなくなった。だからこそやっと先週免許をいただくことができた。本当によかった。

 思い出せば苦行の数々だった。あんなに教官からため息をつかれるとは思わなかった。自分でも何回も大きなため息をついたけど。何はともあれ、ほんとうに終わった……。

 あとは実際に路上に出た時にどれだけスムーズに走れるかが問題だけど、こればっかりは乗ってみないとわからない。もう忘れているかもしれない。そんな不安がじわじわ押し寄せてくる。だから早く乗って思い出したい。

 めでたくも免許を手に入れたボクは、今日はもう一段階先に進むことにしていた。それがここに来た理由だった。いや、ここじゃなかった。立川は通過点に過ぎなかった。

 ここからモノレールに乗って、そこからまた電車に乗り換えた先だった。けっこう面倒くさい道のりだ。でもやっぱりそんなのは大したことではないのだ。

 やっとのことで逢えるんだから。どんなに遠くだって艱難辛苦が目の前にばばんと立ち塞がったって構わない気分でいる。

 なんだか緊張してきた。どきどきする。前に一度だけ付き合ったことのある彼女とデートする時だってこんなには緊張しなかった。

 ただ単に逢いに行くだけだというのに。いやこれはやっぱりデートに違いないのだ。憧れの君に逢いに行って、もしかしたらそれ以上の関係を結ぼうっていうんだから、もしかしたらデート以上なことで、もしかしたらプロポーズくらいのことかもしれない。

 だからこそボクが持っている服の中で一番くらいおしゃれな感じだと思っているものを着てきた。

 全身が映る鏡の中の自分を見て大丈夫だと思った。たぶん少しくらいはカッコ良く見える、だろうか……?

 ホームからエスカレーターで上がって、すぐにトイレがあったから用を足して手を洗った後、出入り口にある鏡を見てみた。

 薄いネイビーのチノパンに薄いチェックの入ったシャツ、ブラウンのテーラードジャケット。茶色の革靴。これも一ヶ月だけの彼女が選んでくれたもので、似合うと言ってくれたしカッコいいと言ってくれた。自分の身内以外の女性に誉められたのはこの服だけだから……。これでいいんだ。よしよし、自分にOKを出してみる。あんまり完璧なOKじゃない気がするけど、これが自分のできる最善だと思う。

 それに今日はただ逢うだけなんだから。逢うだけ。そう心に言い聞かせていた。そうしないとなんだか自分の心なのに色々なものが止まらない。ドキドキが主な成分だけど、期待が半分以上あって、あとの半分くらいは緊張というか、なんだか怖いって思いがある。

 なにぶん初めてのことだから。そしてボクは初めてのことがすごく苦手だったりする。良いイメージが出たかと思うと、悪いイメージに次々と襲われてしまって、あーとかうーとか叫び出したくなってしまう。本当に叫ぶことはないけど。いや落ちつこう。とにかく落ちつこう。

 まだ時間もあることだし、久しぶりの立川なんだから少し物見遊山してみるのもいいのかもしれない。

 今まで立川はほとんど通過の駅だった。この前もここから南武線に乗り換えて行ったものだし、そして帰りも乗り換えただけだった。

 前から賑やかだと思っていたけど、今はもっとそう思う。この前の乗り換えの時も駅の中から、そう感じた。改札の中にも食べ物屋さんとか本屋さんとかが並んでいて驚いた。

 平日の昼間だというのに人が多い。人が多いだけじゃなくて、明るい雰囲気がプラスされている。やっぱりもうすぐ大型連休ってヤツが来るからだろうか。仕事をしている時は世間で言う連休なんてあまり関係なかった。完全シフト制だったからシフト通りのお休みしかなかった。有給休暇もあまり取らなかった。いま思えばもったいなかった。

 まあ、休みの日は家で本を読んでいるか、図書館に行って本を読んでいるかのどっちかだったから連休なんていらなかったのかもしれないけど。こうやって街をぶらぶら歩くことさえもしてこなかった。

 Piと音と一緒にボクは改札を抜けた。

 北と南をつなぐ連絡通路も平日なのに人がいっぱいだった。こうなんというのだろう。そんなわけないのに、やっぱりみんな楽しそうに見える。こういうのを見ているとなんとなく思う。休みの日には休みを満喫するべく努力をするべきだった。そうすればこんなことにはならなかったかもしれない。

 いや違う。違う。考え方の方向が違う。ボクの場合は結果はどのみちこういう方向へ向かっていたと思う。ならば休日にはあれもやってこれもやっていれば、今になってこんな苦労することもなかったのに。いや、それも違うか。今までのろのろを一切合切含めて全部が旅というものなんじゃないだろうか。

 今までの自分とは明らかに向かう先が違ってきている。今までの自分では掠ることさえしなかったあんなこんなを体験している。これこそが旅に出ているということなんじゃないだろうか。

 独り人混みの中で興奮していた。天啓が降りてきたみたいに突っ立っていた。こんなところでぼさっとしていたら通行の邪魔になってぶつかられてもいいようなものだけど、この連絡通路の真ん中は待ち合わせ場所みたいになっていて、歩いている人より立っている人の方が多かった。

 一応、わかっていて立ち止まってはいる。本当は何も考えないでやっても自然にこんな場所で立ち止まれてしまうことが理想なのだけど、それは一生無理かもしれない。

 この場所にはさっき出てきた改札とは違って大きな改札が通路に対面になって二カ所ある。その連絡通路の真ん中で、待ち合わせの場所にはちょうどいい位置になぜかプランターが数個置いてある。

 待ち合わせている人はいないけど、時間は待ち合わせているので、いや持ち合わせているので、なんなのか見てみる。

 プランターには当たり前のことだけど花が植えてある。ピンク色というかオレンジ色というか小さな花たちが群をなしている。立て札があった。そこには近くの国営公園のことが書かれてあって、今の時期はこの花たちが盛りみたいだ。

 ポピーという花だった。

 へぇーというほかない。花なんて今までの自分には本当に関係ないものだった。何がどこで咲いていても、それはテレビのニュースでやっているだけのものであって、こうやって足を止めてじっくり見るべきものではなかった。朝とか夕方のニュースで季節を伝えるためにこの花のこともやっていたかもしれない。でも記憶にはない。そういえばこの前まで桜が咲いていたとかどうとかの記憶はある。

 偶然、こんなところで足を止めたおかげで、花の種類も立川に大きな公園があることも知ることができた。こんな些細なことでもボクが旅に出ると決めたから目の前に現れたことなのだと思っている。

 旅の効用……、というわけだ。今日の帰りにでもこの公園に行ってみようかと思った。

 さてさてどうしたものか。約束の時間まではまだまだ早い。かといって今から公園に行くほどあるわけじゃない。仕方がないというかこれしかないわけだけども、いつもの時間つぶしをするしかボクにはできることがない。最初からそうなるとわかっていたから、そのつもりでもう場所は調べてきてある。いろんなことをネットだけで調べていたのでは限界を感じていたからちょうど良かった。

 立川の駅前は割と本屋さんが多くて、北口だけでも数店舗ある。その内の一つに行ってみようと思っている。モノレールの駅に近い方で……。

 連休前のうきうきした空気の中を、それとは別のうきうきした心のボクはふわふわ歩き出した。



 エスカレーターに乗って上へと上がる。

 ここはビルのワンフロアすべてが本屋になっている。いつものクセで文庫本のコーナーに行きかけて、今日はそれどころではないのを思い出した。

 まずはライディングに関する本を見てみないと。それで中身を見て良ければ買おう。今のこのあんまりな乗り方では旅に出たら不安しかない。稚拙どころじゃない。ポンコツだ。ネットでも調べたし動画も見たし、図書館にある本も読んだ。その全部で言っていることは初心者には慣れが重要で、色々な技術は馴れてから飲み込めることが多いらしい……。

 でもそんなに待ってはいられない。すぐにでも旅立つつもりなのに。

 だから思い切って本を一冊買ってしまって、旅をしながらライディングを学ぼうと思った。馴れるなら実戦で……、というのがいいかもしれない。無謀だけどなんかカッコイイ感じがする。スマホでネットの情報を見ながらでも良かったんだけど、スマホはもう契約をやめてしまった。家にいる時はPCでのネット環境があるから情報は取れるし、旅に出たならばそれこそネットなんて必要ないものだ。

 あ、ここだ。行き過ぎてしまうとこだった。なんかあんまり数が多くない。こんなものなのかな……。ネットの情報やら図書館の本などでいろいろと頭に叩き込んだつもりなんだけど、どうもあんまりこれだと思えなかった。それぞれがそれぞれ違うことを言っているみたいで、でも到達地点は一緒な感じがして……。だからこうキモというか、ミソというか、そいうものをズバリと知りたかった。

 なんか、どれを見てもやっぱりもってシックリくるものがない。これならばこう、えいや!と目を瞑って掴み取ったものを買おうか。

 そうしよう……か……、そいや!

 そして本棚の前でバカみたいなことをして掴み取ったというか、指が当たった大判の一冊を買うことにした。

 じゃあ、次はキャンプの本だ。ネットの情報やら図書館の本などでいろいろと頭に叩き込んで……以下略。

 探し歩いてきてこの本屋の中でも隅っこの方に来てしまった。キャンプ用品の本とか地図とかがある。地図か……、これも必要かもしれない、いずれ。いや地図なんて必要ないか。自分の走った道が地図になる、とか……。

 ! なにかの気配を感じて左横を向いた。

 そこにはドアがあって、それは大きく開かれていた。ドアにはスタッフオンリーのプレートが付いていて中は倉庫みたいだった。書店員の女の人が作業をしている。三段くらい棚のある大型のワゴンの上に、足下の段ボールから本を取りだして仕分けしている。倉庫に本となると、ついつい目が行ってしまう。

 その女性店員さんは、バイクの教習程度でさんざん教官からため息をつかれたボクから見ても、トロい感じだった。

 まあ、ボク自身は仕事では仕分けが特に得意だったからそう見えるのかもしれない。倉庫で本やらなにやらを分配したり箱詰めしたりする仕事は正直自分には合っていた。だから身分的には契約社員だったけど、それなりに満足はしていた。こんなものだろうと思っていた。やりがいとか面白いとかもよくわからなかったけど、得意だと思える仕事でお金がもらえていたから、いいかと。

 自分ではまじめに働いていたと思っていたけど、この三月に仕事がなくなってしまった。契約の満了と言われてしまえば仕方ない……のかな。

 またいつものことだと思った。就職活動の時もよくわからないうちに終了してしまった。自分では頑張ってやってたんだけど。

 やっと得られた仕事だったから自分としては張り切っていたつもりだったけど……、つもりだったんだろう。

 ボクが生きてきた今までのなにかしらが悪かったというだけのことなのかもしれない。ボクは何もわからない内に間違った選択を自然としてしまう人間であるのかもしれない。ただそれだけのことなのかもしれない。だからこそこのような結果が引き起こされたわけだから。

 またイヤなことを思い出しては自分にイヤなコトを言い聞かせている。内なる自分にため息をついてやった。はあああ。

 見てるとその書店員さんはのろのろと仕事がはかどらない感じだった。たぶんボクだったら、この見ていた時間内で一台分は終わってることだろう。

 そういう自慢なんだか妄想なんだかをしていると、奥の方から同僚らしい書店員さんがやってきて手伝い始めた。なんかいい雰囲気で、話したり笑ったりして、そして仕事がみるみる片づいていく。

 ボクは静かにそこから離れた。

 ボクが間違った選択をしてしまうダメな人間なのは理解していた。今までの結果を見ればいくらグズでもわかろうというものだ。でもどう間違ってどうダメなのかはよくわからなかった。ずっと考えていたことだけど明確な答えは得られなかった。決定的な答えは手には入らない感じだった。ただヒントみたいなものは明示されているのには気が付いた。

 去年も同じような仕事をしていた契約社員が解雇されそうになった。されそうになったけど辞めさせられることはなかった。その人には、上にかけあってくれたり、なにかしらの対抗できる力の存在を教えてくれたり、励まして共に行動してくれたりする人たちがいた。最初からいたわけじゃなくて問題が起きてからそういう人たちが出てきて、その人は救われたみたいだった。詳細はよくわからなった。休憩室や廊下などで立ち聞きした程度だったから。

 でもたぶんそれこそがボクが間違っている所とかダメな所とかを、曖昧ではあるけれど表しているんじゃないかと今になって感じる。

 ボクには色々なことを知らせてくれる人がいなかった。いや違う。知らせてくれるとか、知り得るとかいう段階ではなくて、そもそもの問題として話しかけてくれる人、いやいや話をする人がいなかった。

 本当によくわからなかった。ずっとそうだったから……。特に子供時代はそうだった。だから気にしなかった。気にならなかった。いや別に気にするほどのことでもないと思っていた。これがどれほど重要なことなのかわからなかった。

 でも今になって思う。そういえば小説の中に出てくる人たちはよく話をしている。「」の中は口に出して言っている言葉で、その連続は会話なのだ。それによって物語は進み、主人公は困難を乗り越えていくものなのだ。


 モノレールのドア付近に立っていた。

 モーターの音が電車とは違っている感じで、違うものに乗っているのを実感する。

 窓から見下ろすと高さがちょうど怖いくらいで、やっぱり怖かった。真下くらいには道路が走っていて、車が走っているのがわかる。時折、ほんのたまにオートバイが走っていたりすると、気持ちがわーとなる。上から見ているからなのか、たぶん経験値が少ないからなのだろうけど、車種はわからなかった。

 どうもやっぱりなんだかやる気というか買う気がなくなってしまって本屋ではなにも買わずに出てきた。

 本屋を出て時間もいい頃合いだったから、モノレールの駅に行って北へ向かうモノレールに乗り込んだ。

 モノレールは割と混んでいて座ることができなくて本を読むことはできなかったけど、それはそれでいい感じがした。あんまり乗ったことなかったからこうやって高さを感じて怖くなるのは貴重な経験のような気がした。

 終点の数個手前の玉川上水駅で降りた。ここから西武線に乗り換える。

 本当に今まで足を踏み入れたことのない場所に来てる。とは言うもののここも乗り換えのために降りただけだから、どこを見るわけでもなくモノレールの改札を抜けて数メートルの西武線の改札をくぐった。

 本当は玉川上水駅なのだからあの玉川上水でも見ればよかった。本屋でなんか時間つぶさないで歴史の教科書に載っているものの実物でも見ればよかった。

 ホームにある電光掲示板を見ると次の電車がくるまで時間があった。一駅のことだから歩いて行ってもよかったのかもしれないけど、道順にも体力にも自信がなかったから、おとなしく電車を待っている。

 ちょうどベンチがあいていたから座って、ジャケットのサイドポケットに入れっぱなしにしていた文庫本を取り出す。しおりの挟んであるページの最初からもう一度読み始めた。もう何回読んだことだろうか。この文庫本で読んだ回数の方が多くなってしまったかもしれない。

 最初にこの本に出会ったのは図書館だった。

 仕事が早く終わった日や休みの日なんかはよく図書館や本屋に行っていた。いや通い詰めていたというか。完全なヘビーユーザーだった。昔からこの二つしか行っていないのではないかと言っても過言ではなかった。こんな言い回しは小説だけに使われると思っていたけど、この件に関しては自分にもばっちり当てはまってしまうという希有な例だ。

 他にやることがなかったと言ってしまえばそれまでのことだけど、本を読むのが好きだったから特に何も思わなかった。他の人、一ヶ月だけの彼女だった人からは色々言われてしまったけど、どうしようもなかった。今までそうだったから、これからもそうだろうとずっと思っていた。

 でも違った。違う方向に流れてしまったし、ボク自身違う方向へ流れたいと思ってしまった。

 そのキッカケは、でも本だった。

 ボクは一冊の本と出会った。

 それは仕事が終わってしまう何ヶ月か前のことだったんだけど、正確な日付は覚えていない。どうにかすれば調べられるのはわかっていたけど、今となっては日付自体には意味がないし、特別な日はいつと断定しない方がいいように思っている。

 でもこれだけは理解していた。それは普段とまったく変わらない普通の日のことだった。別にたぶん普通のことをしていたと思う。

 ヘビーユーザーのボクは本を探すのも普通のやり方ではもう飽きていた。普通の検索だけしていると自分の好きな範囲のものにしか手を出さないし、それはだいたいもう読んでしまったか手に負えない難しいものか、読んでも読まなくてもいい浅いものしかなくなってしまっていた。

 だからボクは返却棚というところから本を漁ることにしていた。

 ウチの近くの図書館では返却された本は書架に返される前にいったん返却棚という小さいワゴン数台に雑多において置かれる。どうしてこうなったのかはわからないけれど、ある時から、そうたぶんあれは玄関のところに白い大きなゲートが出来た辺りからそういう仕組みになったように思う。

 でもボクにとってはこれがなんとなくいい感じだった。

 この返却棚に置かれている本はほぼすべて、誰かが前に借りた本なのだ。ボクにとっては名も知らない縁もゆかりもない誰かが興味を持って手に取った本たちなんだ。その誰かたちが、考えたり感じたり、笑ったり泣いたり怒ったりした跡、その軌跡がこの本たちだったりする。

 ボクには思いもつかないようなタイトル、中身の本が、誰かにとっては重要だったりするのだ。そしてその名もわからない人たちは書架の中で動かずに眠っているだけの本たちを手にとって、つい先日までは読んでいたわけなんだ。

 図書館には本がすごいたくさんあって、ボクなんかその中のほんのちょっぴりしか興味がないし、読んでもいない。そして書架を眺めているとこの図書館ができてから一度もここから動いてないんじゃないかと思うような本がある。それでもときどき返却棚に動いてなさそうだった本があると、誰かにとっては必要だったんだと初めてわかる。なんか不思議な感じがしてならない。

 ボクには必要なんて感じないような本でも、誰かには必要とされている。

 その本を今度はボクが手に取ってみる。中身を読んでみる。どこに興味があったものなのか考えてみる。でもその内に書いている内容に魅了されてしまったり、感心してしまったりする。興味なんてぜんぜんなかったのに夢中になってしまうのだ。

 そんなことを飽きもしないでやっていた。端から見るとバカみたいに思えるかもしれないけど、ボクにとっては面白くて有意義な時間だった。

 そんなある日だった。

 一冊の旅の本と巡り会った。これも返却棚にあったんだから誰かが興味を持って読んだ本だった。

 『旅々オートバイ』という本だった。

 ノンフィクションだから主人公ではなくてその筆者なのだけど、筆者は旅がしたくて旅がしたくて順調な生活を捨てて日本中を巡るオートバイでの旅に出る。仕事、友人、恋人、それらを振り払ってテントやら寝袋やらキャンプ道具をオートバイに載せて放浪の旅に出たのだ。どこかに行って帰ってくる旅行ではなくて、行ったきりになる旅だった。住んでいたアパートまで引き払って。

 なんか読んでいて考え込んでしまった。

 旅、というものはなんなんだろう。こんなにもすべてのものを捨ててでも行きたくなるものなんだろうか。捨て去ってもいいと思えるくらい魅力のあるものなのだろうか。

 ボクなんかよりもなにもかも手に入れているように見える筆者なのに、それでも旅の方を掴んだ。旅の方が価値があるのだといわんばかりに。

 そんなものかな。そんなものなのかもしれない。読み終わった時、そういう感慨しか浮かばなかった。所詮はボクとは違う人種であり、どこまでいっても平行線であるという相容れなさがあった。理屈的には理解できる程度の感慨でしかなかったと思う。それは完全にヒトゴトだった。

 旅の本は今までだって何冊か読んでいた。路線バスでロンドンまで行く話や詩人がパリまで行く話とか。割と面白く読めた。それはやっぱりヒトゴトであったからだし、今回もそれと同じだと思った。読んでしまえばそれで終わりだと思っていた。

 でも違った。違ってしまった。違うことがボクの歩く道の上で起こってしまった。

 いきなり仕事がなくなってしまった。まじめに働いていて、なにも落ち度がなかったと自分では思っていたのに、ボクはひとりぼっちで仕事をなくすことに同意することしかできなかった。

 その時だった。最後の面接の後だった。次の仕事はありません。期間は終わりです。そんなことを言われた時に、なんの脈絡もなくこの本のことが頭に上った。

 今ジャケットのサイドポケットに入れてある文庫本は図書館のものではなくて、古本屋さんを探し回って手に入れたものだ。絶版になってしまっていて普通の本屋さんでは手に入らなかった。

 黄色い西武線にドコドコ一駅揺られていた。たったひと駅だったからドア付近に立って外を眺めていた。車窓から見える景色は見慣れない感じがして、これだけでも旅に出ているのだと思ってしまう。

 あの時、池の端で、旅に出ると決心しなければ、この電車に乗ることなんて一生なかったかもしれない。こうやって知らない街並みを眺めることもなかった。微々ではあるかもしれないけど、ボクに足りない何かがこうやって埋められていく感じがする。

 そんな感覚が今なら持てる。それとも今までのボクではない何者かになれるかもしれない期待感というか……。

 今までの自分だって決して悪くなかったと思っている。でもただなんとなく進んでいただけなのに、行き止まりにあたってしまった。そのなんとなくがいけなかったと思うし、行き止まりに合いやすい自分はなんとかしなければいけないと思った。もっとこう、今までとは違う自分。今までとはまったく違う人生の航路に踊り出ないと、また行き止まりにぶち当たってしまうかもしれない。いや踊りって……、踊れないから……。そう、転がってでも違うとこに出なければ……。

 旅を指向してすべてを捨てる人がいるのなら、すべてから捨てられて、だから旅を指向する人があってもいいかもしれない。

 東大和市駅についた。

 住所は小平市になっているのに、最寄り駅は東大和市駅でそこから徒歩だった。なんだかそこがこの小さな旅の一番面白いとこかもしれない。それにこの駅も面白い。アイススケート場が一体になっているようなのだ。駅前に設置してある周辺地図を見てへえーと思った。色々と勉強になるものだ。この駅からどっちに行けばいいのか確認しないと……。どうやら植物園の方に向かって道なりに行くみたいだ。なるほどね。だいたいの道順はわかったような気になった。いざとなったらプリントアウトしてきた地図を見ればいい。

 じゃあ、出発するとしますか。

 のろのろ歩き出す。これ以上早く歩くと汗がおもいっきり出そうだ。なんだか日差しが強くて季節よりも暑いのかも。あんまり汗塗れでは逢いたくないな。

 車道は交通量が割と多くて、特にトラックが通ると排気ガスと振動が襲ってくる。それも汗が出てくる原因かもしれない。ジャケットの裾をパタパタ仰いで風を体に送った。もしかしたらだけど、この服装が今の季節にはちょっと合わないのかもしれない。秋くらいのカッコだったかも。

 でもやっぱり恋い焦がれた相手にはちょっとでもいいカッコで逢いたい。特に今日が初対面であるからして。なんか緊張してきた。胸もドキドキ高鳴るし、喉も乾く。コンビニの前を通りかかったけど、お茶とかは買わなかった。これからの重大ミッションを思うと、喉を何も通らない気分だ。

 本当にどうなるのだろう。逢ってどうなってしまうのだろう。相性ってのも絶対あると思うんだけど。合わなかったらどうしよう。逢ってみて、そしてなんというか、体格差があってムリとか……。あり得る話ではある。すごくあり得るかもしれない。世の中すべてが相性で決まるみたいなことを前に本で読んだことがある。

 でもでも、あり得ない……。相性が悪いというだけでは諦めきれない。毎晩毎晩ずっと見てきて、それで考えに考え抜いて今日という日を迎えたんだ。一緒にいることを夢見てきた。逢って、それでダメだったなんて絶対にイヤだ。考えたくない。

 そう、たぶん、もう、どんどん近づいている。どんどんどんどん近づいていってる。歩いていれば当たり前のことだけど、なんかこのまま歩くだけ歩いて着いてしまいたくない気分も多少はある。どうしたもんかな。

 そう、たぶん、もう、ここからでもそれはよくわかった。遠目からでもばっちりだった。道路に沿ってそれはある。やっぱり独特である。カラフルである。そしてなんか輝いているように見える。

 ボクはやっとバイク屋にたどり着いた。

 店の前でぼーっとなってしまった。なんか頭の中に霞かなにかの白いものが充満しててこれは夢かと思ってしまった。

 人生で初めてのバイク屋さん。そしてバイクを購入するのだ。なんか、なんか緊張する。どうすればいいんだっけ。どうする?

 夜な夜なインターネットで中古車サイトを見てきた。それなりに知識を頭の中に詰め込んできたつもだ。だから中古車を買う際は現物確認を必ずするようにという決まりは守っている。下見の予約を入れた上でこうやってやってきている。手順としては間違ってないはず。ここまで来たらあとは店に入って、そして毎晩PCの画面で見つめていたのを現実で見て確認するだけなのだ。なにを確認したらいいのかイマイチわからないんだけど、まあいいや、それは入ってから考えよう。

 ボクは二度、周りを見回して、興味はあるけど縁がないようなバイクたちを眺めて心を落ちつかせた。

 バイク屋さんはバイクを売っているからバイク屋さんなのであって、お店の前に商品を並べているのはお店としては至極当然のことだ。店の前のスペースには何台もバイクが置かれている。これだけを見ていってもなんだか飽きない感じがする。色々な種類があって、一見しただけでは車種のわからないものもある。カウルのついたバイクもゴツゴツしたタイヤが着いたオフロードバイク、ケースが後ろやサイドに付いたのとか、アメリカン、大型スクーターと様々に並べてある。比率的には排気量の大きなバイクが多いように見える。大丈夫だろうか? ボクの眼中に入らないバイクばかりだ。眼福ではあるけれど、不安になってくる。

 ボクのこれからの相棒となるのは、まだPCの画面の向こうでしか見たことはないけど、あのバイクしかないんだけど、果たしてこの店に置いてあるのか。店を間違えたものなのか、どうなのか。

 恐る恐る店の敷地を奥に進んでいく。間口が広く開いている所から中に入ることにした。

 一歩踏み込むと中は薄暗かった。そして微かだけどヘンな臭いが鼻に入ってきた。ツンとする独特な臭い。そういえば教習所でよく嗅いだかもしれない。

 室内ではちょうど整備でもされているのか三台ほど等間隔でバイクが直立していた。一台なんかは二本ともタイヤを外されていた。どれもこれも大きなバイクで、やっぱり場違いなところに来てしまったみたいで戸惑ってしまう。でもいつまでもビビっていては先に進まない。旅の相棒はどうしても必要なんだ。

「すいません……」

 声をかけてみた。返事がない。少し、どころか大いに声が小さかったかもしれない。もう一度、今度は大きな声を意識して呼びかけることにした。

「すいませんっ」

 ……、まずいな。どこからも返事がない。もしかしたら留守とか。ハッとして腕時計を見てみたけど時刻はほぼ約束の時間だった。

 やっぱりというかまたかと思った。今回も声が小さかったのかもしれない。小学校時代は先生から、それでも大きくしたのか、と何回も怒られたのを思い出す。自分が思っているよりも大きな声を出さないと、大きいとは思われないのだ。大きく大きくと意識して。

「すいませんっ!」

「聞こえてるよ」

 その声は割と近くから聞こえた。ビビっているところにきてこの不意打ち。逃げる体勢になってしまったけど、後ろに一歩引いただけで留まることができた。ボ、ボクにしては上出来だ。店員さんが現れただけなんだから逃げることなんてない。

 よく見ると三台のうちの真ん中の一台に蹲るようにしてもぞもぞ動く影があった。なんだ整備をしていたのか……。こんな薄暗いところで出来るなんてさすがはプロだ。

 黒いもぞもぞの影は見続けていると輪郭がはっきりしてきて作業着を着た人らしく見えるようになった。立ち上がってこっちに歩いてきているからなおさらだ。安心した。

 小柄だった。そしてずんぐりむっくりっていう形容が似合う感じだった。先入観はいけないと思いつつ、あんまりバイクに乗っているような人には思えなかった。ただ逆に機械をいじらせたならすごいのかもしれないっていう雰囲気は出ていて、それだけでボクみたいなのは感心することしきりだった。

 元は白かった作業着は黒とかその他の色に彩られていて、でもそれだからこそ歴戦の勇者に見えた。血しぶきじゃなくてオイルしぶきを浴びて相手をやっつける……? いや、やっつけちゃダメダメ。直すほうなんだから。まあでも、そんな無骨さがあってなんだか頼もしい限りだ。

「なにかな」

 入り口近くまで、それは当然ボクの方までやってきた。店員さん--いやこの貫禄はこの店の店主だろう--は、やっぱり怖かった。眼光は鋭い。日本人には珍しい豊富な顎周りの髭は頭髪と同じ白髪交じりで重厚さを醸し出していた。腰のベルトループにひっかけていた布切れ、もう黒すぎてタオルには見えないもので手を拭いている。その手が分厚くて堅そうで節くれ立っていてそこが一番に職人らしさを感じた。

「あの、あのですね……、今日予約した……」

 しどろもどろになりながら名前と来意を告げた。しどろもどろなのはボクの生来のものかもしれないけど、よけいひどくなったかもしれない。

 店主はニヤリと、洋画の俳優さんがするような味のある笑いをした。凄みのあるか。

「用意してあるよ」

 こっちだというように首をくいっと回した。ついてこいということなのはボクでもわかった。ついていくと、隣はさっきの工場よりは小さい部屋だった。事務所かな。事務机が置いてある。

「ほれ、こいつだ」

 どうだ見ろといわんばかりの声だった。自信というのが音声化したらこんなのだろう。

 のろのろ後をついていっただけのボクには、それが何なのか初めはわからなかった。ぼーっとしていた。ぼけていた。ようやく「バイクがあるな」「カッコいいな」とかが浮かんできた。

「なにをぼさっとしてる。これだよ」

 ぽんと軽く背中を叩かれた。

 ようやくなんか我に返った。いや言葉の意味が飲み込めた。

 え? これ? これが? ええええ!

 後ろを見ると店主はがに股でのっしのっしと事務机のほうに向かっていって奥の椅子にどかっと腰を下ろした。そしてボクを見てる。何もしないでいるボクを。いや何もできないでいるボクを。どうしよう。どうしたらいいんだ。どうするんだっけ。

 店主は明らかに値踏みしている。ボクという人間がこのバイクを買うに値するのかどうか。その品定め。

 いや、なんかどうしよう。でもいつまでもビビってはいられない。こんなところで躓いていては、何も得ることなんてできない。

 バイクのほうに向き直った。正面から……。いやそれは気持ちの問題であって、実際は真横からバイクをちゃんと見てみた。

 これがあのバイク。憧れの君。これから旅を共にする相棒。

 なんか、なんか、カッコいい……。正直言ってカッコ良すぎる。なんだかデカい。こんな大きいバイクをチョイスしたのだろうか。

 確か250ccの単気筒だったような気がするけど。でもタンクに付いているエンブレムのアルファベットを読むと、ボクが見学を予約したバイクの車名だ。

 スズキのマローダー250。

 これだよ。これなんだよ。これなんだけど。これなのか……。何かの間違いではなかろうか……。こんなカッコ良すぎる。ボクの相棒になるにしてはカッコ良すぎる。それにデカい。大きさが大型バイクに見える。何かの間違いじゃないのか。これはやっぱりカッコ良すぎだよ。それに正直デカい……。

 あ? もう何度目かになるループに気付いた。いかんいかん。さっきから取り乱してばかりだ。延々こんなことやっている。ヘンな奴だ。ボクでさえこんな自分を見かけたらそう思う。ヘンなのが来たと思うことだろう。

 チラッと後ろを見ると、まだこっちを見ていた。不審そうな感じ。落ちつこう。落ちついて落ちついて、とりあえず落ちつこう。

 実車確認をすればいいんだから。でも確認っていったい何を確認すればいいんだっけ。ネットで調べてきたんだけど、肝心な時にはぜんぜん思い出せない。なんかメーター廻りとか、車体の下とか、ハンドルのどこかを見るような気がするけど……。

 ……でも……、でも、だよ。でも、なんだよ。なんだかそんなことよりも、ちょっと違うことがしてみたい。少し落ちついてきたのか、バイクがすごくよく見える。頭の中にその姿が入ってくる。だから、なんだ。もっと見ていたいと思う。眺めていたい。いくら見ていても飽きない。

 PCの画面で見ていた時とはぜんぜん違う。画面の時はもっとこうちんまりとしているというか、不格好というか……。一般的なカッコ良さとはかけ離れた感じがしていた。単純にいったらカッコ悪かった。でもそこが良かった。いやカッコ悪いのが良かったわけじゃなくて、他人はカッコ悪いと見るかもしれないけど、ボクにはカッコ良かった。そこが良かった。

 他のクルーザータイプとかアメリカンとかのバイクなんかに比べるとヘンに見えるかもしれないけど、ボクにとってはそれ以上の魅力があるように思えた。不格好なスタイルは個性だし、カッコ良く見えないところはヘンにカッコつけてない素朴さがあるように画面では見えて、そう思った。

 ボクは長い旅に出るつもりだ。そしてその旅を共にしてくれる相棒は虚飾のない質実さを身にまとっているほうがいいと感じていた。

 結果、毎晩夜通しで探して探し抜いて考えに考えて出した結論がこの目の前のバイクだった……のに。

 それなのに、ああ、それなのに。これはいったいなんなんだろうか。この有様はなんだというのか。

 ただただフツーにカッコいい。一般的にもカッコいいと言われる範囲に入るんじゃないか、このバイクは。

 そしてこのボクだ……。そう、ボクの方だ。あんなにもキレイゴトだけのカッコ良さは旅にはいらない。つまりはフツーにカッコいいバイクには乗らないと堅く心に決めていたのに。この様はなんだというのか。さっきから、さっきから、どうしても見るのはやめられない。見て見て見つめて見つめ続けて、フツーにカッコいいと思い続けた。そして単純にこのバイクを欲しいと思ってしまった。絶対に手に入れたいと思ってしまった。

 このバイクに乗って旅に出たい。どうしてもそうしたい。無二の相棒にしたい。

 ボクがこのバイクに乗っている、そして草原の一本道を青い空の下走り抜けている映像が頭に浮かんでしまった。バイクにまたがるボクは風と同化している。颯爽と走っている。旅している。

「にいちゃん、跨いでもいいんだぜ」

 はっとなった。夢から醒めたとはこういうことか。背中から聞き覚えのある声がかかってきて、それはついさっき知った声なのだ。

 振り返ると小柄な店主が椅子の背もたれにふんぞり返ってニヤニヤしていた。店主のこの態度が、自分が何をしていたのか想像できてしまう。

「跨がって確認してもいいぜ。みんなそうしてる」

 そうなのか……。本当に?

「いえ、それは……」

 買ってからのお楽しみにします、というのは早い感じがしたので口ごもってしまった。

 もう本当に、これがいい、これがいい、これはいい、これしかない。

 でもな……、ちょっと躊躇してしまう。こんなに早く決めてしまっていいものなのか。ネットで見た時も一目惚れみたいなものだったし、逢ったら逢ったで瞬殺だなんて……。

「あの……、あのですね……、正直言って何を見たらいいかわからなくて」

「……ああ、そうかそうか。なら安心しろ。ウチは半端なものは売らないから」

「そうですか」

 なら安心だ、とはいかない。

 確かに、この店主の尋常ならざる眼光の鋭さや無骨そのものの雰囲気は職人魂みたいなものを感じる。ものを通して安心という気持ちを与えてくれる。そう、冒険者が信頼のおける店で装備を調える、みたいな。この店主のドワーフさんが鍛えたツーハンデッドソードなら大丈夫的な感じ。これは良いものだ、ということに関して疑ってはいない。店主の言う通りだと信じている。

 でもボクにはある重要な目的がある。その目的にとって一つの不安要素がある。

 果たしてそれは、ここで聞いていいものなのだろうか。聞くのは場違いなのかもしれない。聞いたら笑われるかもしれない。

 うーん、どうしようか……。でもまあいいか。たぶんもう十分ヘンな奴だと思われているだろうし、ヘンな奴がヘンなことを聞いただけのことになるだろうし……。

 それに……、そうだ! そういえばボクは変わろうと決めたんだった。そして変わったんだった。それならば、これくらい。

「あ、あの、そのですね、あのですね……」

 決めたのだけどなかなか次の言葉が出てこなかった。でも店主はギロリと眼光鋭く一瞥をくれただけでボクの次の言葉を辛抱強く待ってくれるみたいだ。だったらボクだって言わなきゃいけない。尋ねなきゃいけない。

「あのですね、ボクは、た、旅に出るんです」

「旅に、だと?」

「はい……」

 店主は瞼を閉じて目を瞑ると逞しい腕を組んだ。重厚に思いを巡らせているようだ。

「た、旅のですね、その相棒というのがどうしても必要なんです」

「そうか……。それで、これを」

「はい……」

 ここからだ。ここからが本題なんだ。この話次第ではボクの旅がどういったものになるのかが決まる、のかもしれない。重要ではある。でも些細なことなのかもしれない。

「それでですね。ちょっとお尋ねしたいんですけど」

「なんだ?」

「はい。あのですね。旅に出てしまったらなんですけど、その相棒がですね、そのなんというか、壊れてしまったらですね、その、なんというか、どうすればいいんですか?」

 とうとう、とうとう言ってしまった。とうとう聞いてしまった。そうなのだ。どうしても不安がとれなかった。心の中にべったり張り付いてしまってボクの旅をジャマしていた。

 旅はここから遠い場所へと向かうものだ。ここまでおいそれと修理を頼みにくることなんてできない。もし旅の途中で相棒が動かなくなってしまったら……、そこでボクの旅は終わってしまうのだろうか。それとも……。

「壊れたのなら、直せばよかろう」

 重い口を開けて、重い声を出して、重い一言を放った。店主は顔の表情をなにひとつ動かさなかった。さもそれが当然のように。

 当然……? なのか……?

「……直す、ですか……?」

「壊れたのなら直せばいいのだ。モノは壊れるものだ。この世に壊れないモノはない。それこそ自然の摂理だ。だが壊れたのなら直せばいいだけのことだ。自分の手で。それは自明の理ではないのか。旅をする者ならば当然のことであると思うが」

 そして片目を細く開けると、口の端をニヤリとさせた。

 そう……、なのかな……。いや、そう、なのか。そうなんだ。たぶん、そうなんだ。旅する人間ならそうなのだ。心の中で店主の言葉を転がしている内に、なんだかそれが永遠の真理のように思えてくる。

 不安が消えていく。雪が溶けて地面に吸い取られ消えていくように。疑問は確信に変わって、それは自信のようなものに成長した。

 今までの人生の中であんまり先生の教えみたいなものに出会ったことなんてなかった。でもこれがそうなのかもしれない。そうだ。そうだよね。そうに違いない。

 旅する者なら当然だ。壊れてしまった相棒を直すことなんて出来て当たり前なのだ。それは相棒にしてあげる当然の義務であるのだ。そういうことなのだ。目からウロコがボロボロ剥がれ落ちていく。こんな簡単なことをボクは知らなかったし、うじうじ考えないといけなかったなんて情けないの極致だ。簡単だけど、とても大事なことなのに。

 まったく……、勉強になるな。

 その後、ボクは店主にこの相棒を買いたい旨を伝えた。そこからは早かった。目まぐるしくことは進んで、なにがなんだかなにもわからないうちに色々と書類に記入して、来週には相棒を引き取れることになった。

 なんだかあっけに取られてしまって……。本当にボクは相棒を手に入れてしまったんだろうか。

 いや、これでボクは相棒を手に入れたんだ。コトが簡単に流れるように進んでしまったからイマイチ実感がないけど……。

 いや、これでボクは相棒を手に入れたんだ。コトが簡単に流れるように進んで……。

 後ろから店主の「まいどあり」の声を背中で受けて、事務所の方の引き戸のドアをがらがら開けて外へと出た。

 まだ日差しが強い。一瞬、クラッとした。周りがグニャグニャ揺れる。足下の地面が柔らかい感じ。よろめいてしまった。二、三歩、たたらを踏んだ。

 あれ、駅はどっちだ。右だっけ、左だっけ。どこにいるのか、どこに向かっているのかわからない。

「ふうーーー」

 声に出して息を吐き出した。これで落ちついてくれればいいけど。

 まあ、今はしょうがない。こんなんでも仕方ない。

 でも次は道に迷わない。なんといっても相棒と一緒にいるから。たとえ道に迷ったようにみえたとしても相棒と一緒ならそれがボクの道になるだろうから。

「おい、大丈夫か、駅は右だぞ」

 なんだか慌てたような声が後ろからした。ゆっくり振り返ると、さっき自分が出てきた事務所の方の横開きのドアから店主が……、いや違う、見知らぬ人が……、大柄で背が高く禿頭で、愛想のいい笑顔で出てきた。

「ああ、それとさっき言い忘れてたけど、そんなに心配ならJAFに入るといいよ。今はバイクの故障にも対応しているからツーリング先でも安心だぞ。それに系列店でも修理には対応しているから……」

 そうだ、そうだ。この人はこのバイク屋さんの人だった。この場合、店長とは言わないか。経営者、とか。適切な表現が浮かばない。一人であれだけのバイクの修理をしているなんてすごいよな。そうだった。そうだった。なんで違う人だと思ったんだろう。

「まあ、今のバイクは壊れづらいけど、初めてじゃ心配するのもわかるよ。でもそういうサービスも今じゃしっかりしてるから安心してツーリングを楽しんできなよ」

 にっかりと愛想のいい笑いで送り出してくれた。

 駅までの道をとぼとぼ歩きながら、でもなんとなく釈然としなかった。

 ツーリングなんかじゃない。

 旅なのだ。

 旅であるのだ。




    ☆



 どうして伝説と共にしなかったのか?

 あれだけ考えたんだから視野に入れてもよさそうなものなのにな。

 CB750やZⅡやFやカタナ。CB1100RやH2だってよかったものなのに。

 でもよくよく考えてみると伝説的なバイクはどれもこれも古く、そしてデカいバイクが多い。

 旅を念頭に置いてバイクを選んでいたから目には入ってきてもふるい落としてしまったんだな。

 ならばなぜあの本と同じGB400TTにしなかったのかな。他にだって伝説的バイク予備軍ともいえるバイクだってある。たとえて言えばSR400とか。

 答えは、でもわかっている。

 伝説は自らが作っていくものだから。自分の選んだ相棒が伝説のバイクとなっていくのだから。

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