三月の終わりになっていた。


 水音がする。

 目を瞑っているからだろうか。それは大きな音に聞こえる。耳のすぐ側で、いや頭の中で鳴っているような。

 水音に包まれている感じ。

 ……なんだかちょっとカッコつけてしまった。恥ずかしい。

 水音は軽い金属が触れあうような音だった。鈴の音色に似ているように思えるし、もっとカチャカチャした感じにも思える。川の流れる音とはなんだか違う。もしかしたらここの水が澄んだわき水だからなのかもしれない。清水の流れる音なんて、たぶん初めて聴く。

 ユキちゃんもこの音を聴いていたのかな。こうやって目を閉じて立っていたら聴こえたのかな。音に包まれていたのかな。

 バカなことを考えていると思う。ユキちゃんはフィクションの中の登場人物だ。SF小説の中の重要なキャラクターだ。だから小説の中に書かれてあることだけが全てなのだ。書かれてあることだけがそのキャラクターのリアルのはずだ

 毎回そう自分の頭に言い聞かせているんだけど、心は毎回、ユキちゃんもここでこうしていたに違いないと感じてしまう。

 やれやれだ。誰かさんと同じようにぼやいてみる。

 ボクは大きなため息をついた。それはフィクションのユキちゃんをリアルに感じるおバカなボクに対してだけじゃなかった……。

 そう、やっぱり二度目なんかなかった。

 ボクはさっきここでキセキを体験した。今まで出会ったことのないすごい体験だった。

 ここで初めて目を瞑ってみた。静かにしていた。しばらくそうしていた。なんの前触れもなかったと思う。ただ風がそよそよとボクの体を撫でるだけだった。

 それは突然だった。突然だ!

 頭の中でバチンと風船の割れる感覚がした。自分というものすべてが弾け飛んでしまうような衝撃を受けた。

 頭の中がぐらぐらゆらゆら揺れて止まらなかった。止まらない。ぐらんぐらんゆらんゆらん。ボクというものがなくなってしまうかと思った。モヤモヤぶくぶく膨らんだものの中に囚われていたボクが爆発して残骸さえも残らない、そう思えるほどだった。

 はあはあと大きな息が頭の中でしていた。

 しばらく何も考えられなかった。いや感じることができなかった。ボクというものがなかった……、そう思える時がしばらく続いた。

 気付いたら……、目を瞑っているボクが独り立っているだけだった。

 そして急に頭の中で何かを悟った。

 今ここで特別な何かが起きた。それには意味がある。ボクだけが知っている。それはずっと悩んできたことの答えなのだ。答えは明確な形をとるわけではなく何かキセキのような瞬間で応えてくれたんだ。

 たぶん世界がボクに応えてくれた……。

 たぶんユキちゃんも同じようなことを経験したに違いない……。

 …………。

 …………。

 …………でもでも、それはあまりにも答えじゃないような気がしたから、その後にもう一度同じことが起きるかどうか試してみた。

 また目を閉じてジッとした。その時に色々と考えが巡ってしまった。もう一度同じ事が起こったらボクはどう思うだろう。キセキっぽいものが二度も起きたらそれはキセキでもなんでもなくて、だから答えでもないということに落ちつくのだろうか。それともキセキが二度も起きたんだから答えは正しく答えであって正しかったのだと確信しただろうか。

 でもそれは永遠にわからない。キセキは一度しか起きなかった。答えは一つだった。

 そう確信した時に耳から聞こえる音がやけに大きく、そして胸に押し迫ってきた。

 それが水音だった。水音に包まれているボクを発見した。

 さっきまではあまり水音なんて気にならなかった。当たり前なのかもしれない。ここでは水音がするのが必然なのだ。初めて来た時から水音のあることはわかっていた。どうしてこの水音が発生しているのかも見つけている。でもそれはただそれだけのことのように思っていた。水音はただ水が流れる時に立つ音であるにすぎないはずだし、域外の水路へと流れ落ちていく場所がこの近くだから、それがあるのは当然なのだ。この場所の付属品なのだ。

 でも今は違う。こんなにも水音が心に響く。 …………こうやって水音が大きく意識にあらわれてきたというのは、そろそろ目を開ける時間だと知らせてくれているのかもしれない。キセキの確認はもう終わったのだと知らせてくれているのかもしれない。

 その瞬間、一つ波紋のような大きな水音が広がった。それが急き立てる合図のように思えたから目を開けることにした。

 でもなんだか目を開けるのに躊躇した。少し怖い感じがする。開けた目の前がさっきとは違う場所だったらどうしよう。

 よく訳の分からないキセキが起きてしまった後なんだから、もしかしたらそれは非日常の扉が開いたということではないのか。

 非日常といったら違う世界、異世界だろう。

 もしかしたら目を瞑っている間に何処かに飛ばされたということがあるかもしれない。何処か遠くへ、いや現実ではない何処かへ。

 この現実から解き放たれて、何処かの異世界へ能力者として召還されてしまう話はいっぱい読んできた。もしかしたら今度は自分が……。キセキを受けた身ならば当然……。

 でもないか……。

 瞼を上げたその目の前には、さっきと同じ場所が広がっているだけだった。水音の連続音がやけに大きく聞こえる。

 やっぱり、そうか……。そうだよね。まあ、そうだよね……。魔獣彷徨く森の中、妖精の守る命の泉。徐福が探し求めた不老長生の滝。そんなわけがなかった。当たり前か……。

 中央線を立川で南武線に乗り換えて二つか三つめかだと思う。ずいぶんと小さな駅に降り立って車一台ぶんしか通れないような駅前からアスファルトの綻びた小道を歩いて、そして少し広い道に出てから二十号に辿り着く。

 その二十号沿いに割と大きな神社がある。そこの鳥居から本殿に向かって歩いていって、コの字形に配された階段を降りていく。

 その本殿の脇から裏に向かって行くと、池があってその池の中央に島があってそこに末社が祀ってある。池にはその末社に向かうための朱色の太鼓橋が架かっている。

 その橋の上に立っている。

 見回すとこの末社というか池自体は崖の下にある。こういう崖の下から湧き水が出ている場所のことをハケというらしい。さっき解説が書いてある立て札を見てわかったことだ。この末社の裏側にあたる崖の上には二十号が走っていて車の走る音が小さく聞こえる。いつも帰りにはこの池の脇の小さな坂道を上がって二十号に出る。本当にさっきと何一つ変わらない現実世界だ。

 彼女も目を開けた時にそう思ったのかな。自分の変わらない現実やこれから起こる運命なんかを思ったのかな。

 橋の上からこうやって池の水面を眺めていると彼女とシンクロしているように感じるから不思議だ。彼女もこうしてこの橋の上に立って池の水面を見つめて目を瞑りそして悟ったのかもしれない。

 たぶん、そうに違いない。そうとしか思えない。

 そんな事はあの小説のどこにも書いてなかった。ここの本殿で催されていた縁日に来ていたことは書いてあったけど、この末社については何一つ触れられていなかった。

 それでも……、ユキちゃんはここに来たに違いないのだ。ここでこうやって池を見つめ、そして目を瞑っていたらボクのようにキセキが起きたに違いなかった。書かれていなくとも、そうであったと信じたい。

 水音がただ一つに連なって流れていく。

 何をそんなにコーフンしているのかね、キミは! 冷静なボクがバカみたいなボクを糾弾する。ただのキャラクターを現実にいるかのように思うなんてイカれているって。

 でもボクは見つけてしまった。ある図書館の人の書いたブログだった。そこにはこの神社の末社のことが書いてあった。この池にかかっている橋の上のことが書いてあった。

『彼女なら、彼女がこの神社に来たのならば、きっとこの池にかかる橋の上で佇んでいたはずだ。そして池を見つめていたはずだ。作者がどう思おうが、彼女が存在していたならば、必ずそうしていただろう。』

 そう書いてあった。その時、そうだと思った。そうだと確信した。

 ボクは図書館に通い込んでいる人だったから古いその小説は読んでいた。一読でファンになっていた。だからこそ、そのブログを読んだ時には心の底から納得してしまった。

 どうしてもこの場所に来てみたいと強く強く思ってしまった。いつもここに来ることだけを考えてしまった。休憩時間とか帰宅時間とか……、ホッとした瞬間にはいつもここのことを考えていた。

 でも実際に来ることができたのは仕事が完全になくなるのが決まってからだった。

 最初の一回目はただただ感動するだけだった。二回目もより感動するだけだった。でも三回目の今日、それは違った。

 悩んでいたボクにキセキが起きた。

 また一つ、水音の波紋が広がった。今度はちゃんと確認することができた。鯉が水面近くで体をくねらせて最後の尾鰭が水面を叩いた音だった。

 この末社の社を中心にしてドーナツ状に池が取り囲んでいる。こうとも言える。池の中央に島があって、その島の上に社が建てられていると見るべきか。池が小さいわりに島が大きいからなんだろう。

 厳島神社。女神様が祭神として祀られているんだけど、この女神様が祀られている場所の多くはこんな感じで池の真ん中にお社があるみたい。ついついネットで調べてしまった。

 そしてだいたい池には鯉がいる。ここも透明度の高い水の中を赤白黄色青黒の混ざった鯉たちがぐるぐる回遊していた。一定方向に集団で泳いだり、てんでバラバラに泳いだり、急な動きで水面を跳ねたり、様々だ。

 そして亀もいた。亀たちは時々泳いでいる。プカーと浮いているだけのヤツもいる。まるで浮き輪をつけた子どもみたいで微笑ましい。ほとんどの亀は甲良干ししていて石みたいだ。

 三月の終わり。風は冷たいのが吹いてくる時もあるけど、日差しは暖かいのが落ちていた。ちょうど池にも日差しが差し込んでいて、きらきらしている。

 なんだかずっと見ていても飽きなかった。

 いつもここにたどり着くのはお昼をしばらく過ぎてからの時間になってしまう。二時をまわったくらいだろうか。

 今日は最初から前に来た時とは違うことをしようと思っていた。ユキちゃんがしたであろうことをしようと決めていた。なんだか今日は普段のボクだったらやらないようなことをやってみたい気分だった。

 最近ボクは悩んでいた。今までこれといって悩んだ記憶がないボクだったけれど、今回ばかりは答えが簡単に出ないんで頭を抱えていた。今日まで生きてきた人生とはまるっきり違うことをこれからの人生でやろうかどうしようか、というようなことを悩んでいた。

 だからなのかもしれない。違う自分に向かおうとするのであれば、ここでも違う自分をしなければいけない。そう思った。

 だからまず来たら初めに末社の女神様にお祈りをしてから、橋の真ん中に立って深呼吸して目を瞑った。

 この時間がそうなのか、それともこの場所がそうなのか、ほとんど人の来ることがなかったからヘンに思われることはなかったけど、それは少し思っただけで、もうヘンに思われても別にかまわないとその時には腹が決まった感じになっていた。

 目を瞑って水の音だけを聞いていると本当にどこにいるのかわからなくなった。ぐらぐらする。地面の上なのに(橋の上ではあるけれど)そうじゃない感じがする。地球の上なのに、上下もわからない。

 かつてユキちゃんが無重力の宇宙空間で一人静かに浮かんでいた場面、まさにそんな気分を味わってる感じだ。

 本当にそんな時だった。

 あのキセキが起きたのだ。

 頭の中が破裂したのだ。

 ……でも……、目を開けた時……、いつもと変わらない現実があるだけだった。スッキリと目が覚めたような気分だったけど、さっきと何も変わらない元の場所に立っているだけだった。

 何が起きたんだろう? それはわからない。わからないけれども、何かは起きた。そしてそれは重要な何かだった。

 違う自分になりたくて、だから今までとは違うことをやろうとして、やった結果がこれだった。

 だからこれにはきっと重要な意味がある。

 ひょっとするとひょっとしてだけど、今のボクが置かれている状況、悩んでいる想いに対しての答えかもしれない。ボクのアンテナの感度が低かったから意味として読みとれなかったけど、これが答えなのかもしれない。

 答えはGOということだ。いくら無茶なことだろうと、そう周りから言われたとしても、自分でもそうかもしれないと諦め気分だったとしても、これはやるべきことなのだ。

 これが今日ここへ来て最初に起きたことだった。そして最後に起きたことだったのかもしれない。

 あまりに起きたことが何がなんだかわからないことだったから……、答えのようでいて明確なものではないし、それでいて特殊なものだったから……。もう一度、橋の上で目を瞑ってみた。

 答えだったら同じことがもう一度起こるかもしれない。答えは一つなのであり不変なのだから何回ここに立ったとしても同じ答えが得られる、かもしれない。

 でもキセキは一回きりだからキセキなのじゃないかとも思った。一回こっきりだからこその不変であり普遍なのだともいえるかもしれない。

 そしてその答えも得られた。後者だった。キセキは一回きりだと確認した。だから不変なもので普遍なものであるのも理解した。

 ついさっき目を瞑っても何も起きなかったけれど、ボクの心の中にできた決心というものはなくならなかった。

 何かがウチ側で弾け飛んだ時、それが何かしらの答えだと理解した時、心の中に一本立ったものがあった。それは時間がたってもなくらなかったし、キセキをもう一度確認しようとしてダメだったけれど消えはしなかった。

 この決心というか、サトリみたいなもの、それこそがここでユキちゃんが手に入れたものなのかもしれない。普通の人間じゃないユキちゃんが手に入れたもの。短い壮絶な人生だった彼女がここで唯一得たものなのかもしれない。それをただの人間であるボクが手に入れることができた。すごい幸運に恵まれたんだと思う。この幸先の良さはこれからの行く末を暗示しているのではないか。

 橋の下を覗き込むようにして池の水面を見つめた。水面下では混ざり合わない赤白黄色黒の絵の具がぐるぐる廻っていた。やっぱり時折水面を弾くヤツがいて、覗き込んでいるアホ面のボクの顔を歪ませる。

 それでも動じなかった。歪んでいるのは単なる水面に映っている像であって、それ以上のものなんかじゃない。

 決めたボクは動くだけだ。答えを得た今、先へと進むだけだ。

「そうなのだ……」

 ぼそっと呟いてみる。水音に負けそうな声だけど頭の中では大きく響いているからいいんだ。本当はもっと大きな声で叫んでみて今の自分の心を表出させるべきなのかもしれないけど、そこまでは変わろうとしている今のボクでもできなかった。本当はそれじゃダメなのかもしれないけど、いきなりハードルを上げても転ぶのがオチのような気がしている。小心者かもしれないけど。

 それにもうそろそろここに人が来ることもわかっているから。

 前二回来たときも同じ時間に現れた。それもまったく同じカッコウで、同じ登場の仕方だった。思わず同じ時間を無限ループしているのかと思ってしまった。

 でもでも、今日は違う。今日は違う時間軸になった。ループでない今を創るつもりだ。

 そう……、たぶん、あれだ。あれがそうなのだ。待ち人とはちょっと違うけど、来た。

 効きの悪いブレーキの音が響いてきた。見ると自転車がスピードに乗って坂道を降りてくる。池の左側が坂のある小道で頂上は二十号に続いている。いつもそこからやってくる。

 ごくごく普通のママチャリだった。そしてそれはボロかった。前回は帰る時にサッとその自転車を間近で見てみた。錆だらけでどこに置いていたのか埃が積もっている所もあった。前カゴなんかも少し変形していた。

 それがけっこうなスピードで降りてくる。ブレーキをかけながらなのか音がうるさいくらいにする。それなのにスピードはぜんぜん落ちていない感じだ。

 そのままだと神社の入り口を越えてしまう感じなのだけど、そうじゃないことはもう知っている。

 ひときわ派手なタイヤが擦る音が鳴ると、後輪タイヤを滑らせてほぼ直角に近い感じで神社の境内に滑り込んできた。制動も兼ねているのか半回転ほど廻って止まった。自転車に乗っている人は片足をついた。

 毎度のことながら見事だ。いつ見てもなんだかカッコイイ。

 だけどカッコウは、なんだかヘンだった。いやチグハグというのだろうか。スーツの下のスラックスをはいているのに、上は軍服というかそれっぽいジャンパーを羽織っていた。でも中はやっぱりYシャツみたいで、そして頭にはカーキ色のキャップをかぶっていた。きちっとしているのかくだけているのか、両方がそのまま存在している感じだ。こんなカッコウも前二回と同じでやっぱりループ感が半端なくすごい。

 その人はいつものように自転車を出入り口付近に止めてスタンドを立ててからこっちの末社に向かってきた。いつもの通りのムスッとした顔でなんだかちょっとおっかない。それでも太鼓橋の上でボクとすれ違う時には少し頭を下げて会釈してから通り過ぎた。

 末社に向かい合うと、その人は帽子を取って脇に挟み、薄茶色の軍服のようなジャンパーのサイドポケットから小銭入れを取り出してごそごそ小銭を取り出した。そしておもむろにお賽銭を投げ入れる。複数の小銭が落ちる音がする。いったいいくら入れているんだろう。この人のを見てから神社ではお賽銭は複数枚入れるもんなんだと学んだ。でもいくらだろう。

 そして二回お辞儀をして二回パンパン手を叩いてにゃむにゃむ拝んでから、また一回お辞儀をした。これは調べてわかった。二礼二拍手一礼というのがわかった。でもこの人の柏手というヤツは周りに響くすごい音を立てていて、どうやったらこう気持ちよく音を立てることができるのか研究中である。

 その人の祈りは短かった。

 ボクは何だかんだとお願いすることがたくさんあっていつまでも目が開けられないのに。

 祈りの時間は短いけれど、その間の水の流れる音はよく響いた。小鳥の囀りなんかも周りの林から聞こえたりなんかしている。していなかったのか、気づかなかっただけなのか。

 なんかボクがボクだけでいるよりも、この人が来たというだけでこの場所の雰囲気みたいなものが厳かというか自然が自然に感じられるようにボクには思えた。

 そこに浸りきっていたのがマズかった。祈りの終わったその人は振り返っていた。それはこっちを見たということだ。その人とボクとの間にはほんの短い距離しかなかった。

 やっぱり怒っているみたいにムスッとしていた。いつもならジロッと見られただけでこそこそ帰っていた。悪いことなんて何一つしてるわけではないんだけど……。

 でもそうはいかない。さっきボクは変わった。今までの自分とは違う人生を歩むと決めたんだ。決めたんだ。何がなんとしたって、決めたんだ。緊張はするけど、やっぱり……。

 この短い距離がとてつもなく長く感じる。時間だって長くなっている、というよりも止まっているかのように思える。

 その人は前二回と同じように普通に歩き出した。この歩きだしを見ていてもそうだし、自転車に乗ってるところもそうだけど、あと服装とかでも歳が若いんじゃないかと思っていた。でもよく見ると帽子を取った頭は薄い感じがする。汗でぺたっとしているからなおさらだ。だいぶ年上なのかもしれない。

 その人は脇に抱えていたキャップを歩くと同時に被った。もうすぐにでも自転車に乗り込んで去っていってしまってもおかしくない。

 この、ここのタイミングだ。ここで言わないとたぶんこの人とは一生話ができないと思う。それはイヤだ。結局はうざいと思われて話にならないかもしれないし無視されちゃうかもしれない。でも、それでも後になって話しかけられなかった自分がいたことを思い出してぐちゅぐちゅするのはもう止めにしたい。ここは、この場所はいい場所のままであってほしい。ボクが変わった記念の場所のままで。

 変わったんだ、ボクは。答えを得たことで変わったんだ。

 だから……、声が出た。

「あのぅ……」

「はい?」

 ツバの向こうから細長い目で見つめられて、いや睨みつけられて足が竦んだ。やばい、どうしよう。次になにをすれば……、なにか言わないと、次に……。

「なんでしょう?」

 次の言葉はその人からだった。意外と優しい雰囲気が込められていた。優しい……、というか柔らかいのか……。丁寧で柔らかいけど、そこにはあまり感情がこもってないというか……。何かが引っかかっていて言葉が出ないボクを辛抱強く待ってくれているこの感じも……、なんとなく覚えがある。イライラするわけでもなく丁寧に待ってくれる。でもそこからはなんの感情もないような感じ。

 急に頭のスミでなにかがひらめいた感じがした。そうだ。こういうことをしてくれる人に心当たりがあった。人というより人たちか……。本当によく行く場所で働いている人たちはこんな感じの人が多い。

 そうだ。図書館の人はこんな感じだった。

 そう感じると次の言葉が自然と出てきた。なんだかホッとしたのかもしれない。

「あ、あのう……、よく会いますよね」

「はあ……」

 少し警戒感がこもっている声だった。表情は相変わらずだったけど。

「この前も会ったし、その前も同じ時間に会ったと思うんですけど」

 その人は考えるそぶりなのか少し宙を睨んだ。まるでそこに過去の光景でも浮かんでいるかのように。

「はあ……、そうですね」

「あの、えと、そのですね……、それで、なんだか不思議だなって思っちゃって」

「不思議?」

「はい……」

「不思議ですか……」

「はい……」

 なんだかそこだけ強調されると、どこがどう不思議で、どうして声をかけたのか自分でもわからなくなってしまう。

「いや、あの、その、だからそのですね……」

 またまた口ごもりが激しくなってしまう。

 でもその人はそんなボクのことを辛抱強く待っていてくれるだけじゃなくて、そんな少ないボクからの情報で答えをわかろうとしてくれている。

 今まで仏頂面の一歩手前ぐらいだった顔が急ににっこりとした。それは急になにかが破れる感じみたいだった。

「ああ、なるほど、わかりました」

「え……?」

 えっと何がわかったんですか? 何を?

「そうですか……、不思議ですか……」

 勝手に得心して何回も頷いている。今度わからないのはボクのほうになってしまった。

「つまりは……」

 最初の印象からはあまり外れてはいないんだけど、その人から多少親しみみたいなものが感じられた。

「あなたがいつも来る度に、いつもの時間にいつもの格好でいつもの自転車に乗った人間が現れて不思議であると」

 つまりはバッチリ当たっているんだけど……、なんか変な感じがする。ボクがどこかの図書館でレファレンスの回答を受けているお客さんになってしまったみたいに思える。

「いやー、実に面白いですね」

 何がどう面白いというのだろう。その人の話にさっきから相づちが挟めないでいた。

 確かにその人が言うとおり、整理してみるとそんな理由で話しかけたことに違いない。言われればそういえなくもなくないのか……。でもなんだかやっぱりしっくりする部分とそうじゃない部分があるような気がする。

「実に面白いですね。これは日頃のパフォーマンスがいかんなく発揮された結果ですね」

 もはや何がなんだかわからない。?マークを顔いっぱいにしているボクを見て、その人は今度はニヤリと笑った。これはさっきまでと違って、はっきり違っているのにその人にしっくりと合っていた。

「いやいや申し訳ない。ちゃんと初めから話をしないとわからないですよね」

 その人の持っていた雰囲気というか空気というものが少しだけくだけた感じになった。

「まさかそんなことに注目されていたとはね」

「注目……してたわけじゃないですけど」

「実は自分は自転車で各地区の掲示板にポスターを貼っていたんですよ」

「ポスター?」

「そうです」

 その人は自転車を指さした。前カゴには荷物があった。それは紙袋で上から紙の筒とかが飛び出ている。

「見てみますか?」

 やっぱりわからない顔をしているだろうボクを促すようにして自転車まで誘導された。なんだか慣れている感じだ。日頃から人を案内する仕事をしているのかもしれない。そんな感じだ。ふらふらと引き寄せられるようについていってしまった。

 橋を渡って小さい鳥居をくぐって池の端に止めてある自転車のそばへ向かう。近くで見ると自転車はやっぱりボロで埃もかぶっている。そして少し変形している前カゴにはどこかのデパートの大きな紙袋が入っていた。

 その人は紙袋から飛び出ている細長く丸められた筒を出して広げて見せてくれた。映画のポスターみたいだ。いや映画のポスターだ、これは。でもこんなに古い感じのポスターはテレビの中でしか見たことがなかった。

 白黒の画で外国の男の人が自転車に乗って、その人の子どもだろう人物もいる。

 タイトルは「自転車泥棒」。

 なんだか聞いたことのあるようなタイトルだった。古い映画だ。白黒のようだし、役者さんの格好なんかも時代を感じさせる。でもこれが一体……。

「これを市内の掲示板に貼って廻っているんですよ」

「はあ……」

 話によるとその人は週に二度ほど決まった曜日にこうやって自転車で映画のポスターを市内の掲示板とやらに貼ったり剥がしたりしているということだった。

「映画関係のお仕事なんですか?」

「……いや、違うんだけど……、公共の……」

 なぜだかその人は少し恥ずかしそうに下を向いてしまった。これだけが仕事じゃないようなことをごにょごにょ言っていて、これも重要な仕事であることもごにょごにょ言っていて、なんだか自分に言い聞かせている感じみたいに見える。

 そしてポスターを貼ったり剥がしたりに出かけるのは曜日と同じく時間も決まっていて、貼ったり剥がしたりが終わるのも決まった時間になるようにしているらしかった。道順と自転車のスピードと作業効率を考えて全力を傾けているということだった。だからいつもの通りのいつもの時間になるように体調や筋力を整えているとも言っていた。この時間にここに到着するということは、つまりはそんな努力の結果らしい。

 なんだかすごい話だ。話だけ聞いてると限りない情熱ってものを感じるんだけど、雰囲気は飄々としたものだけしか感じられない。

 だからなのか。そう言われれば「なんだ」って感じもしなくもない。思い出してみればボク自身、この場所に来るのにいつも同じ曜日になってしまっていた。仕事の引き継ぎや有給休暇の許可がなかなか降りなかったりしていたからだ。契約上だからということで有給休暇が曜日指定だったりでなかなかうまく休めなかった。もっとたくさんここに来たかったんだけど。それにそういえば家からここに来るのにも、だらだら用意していたからいつもの時間になっていたような気がする。

 ボクのグダグダな予定とこの人のきっちりした予定が偶然合わさった結果なだけで不思議でもなんでもないと思えてくる……、かな。そこそこ不思議でもあるような気がするけど。偶然とか必然とかが混ざり合ってなんというか不可思議な力になって、こうやって話をしているのではないのだろうか。

「ということはこの神社にも掲示板とやらがあるんですか?」

「ああ、すぐそこだよ」

 指さした先には、この神社の出入り口に立つ鳥居の向こう側、柵沿いにそれらしいものが見える。

 なんだかちょっと楽しくなってきた。今までは知らない人と話をするのは怖い感じがした。それが自分がなにかを買いに向かった先の従業員さんでさえそう思っていた。それなのになんなんだろうか、これは。

 この人が見た目とは違って話してみるととてもフレンドリーな雰囲気だからなのかもしれない。よくよく知らない人と話すのもなんだか悪くないなと思えてしまう。

「じゃあ、この神社には休憩でよっているんですか?」

 目の前の自転車の前カゴにはまだ数本の丸まったポスターがある。ここが最後とは思えなかった。

「まあ、休憩というかお参りというか……」

 そして池の真ん中にある小さい社に顔を向けた。

「この池というか、神社というか、たぶんこの場所が好きだからかな」

「ボクもです!」

 間髪入れずに思いっきり同意してしまった。力が入りすぎて大きな声になってしまった。あまりにも同じだったんで嬉しくなってしまった。同志を見つけたって感じだ。

「ここは前々からすごく気になっていて、いつか来ようとずっと思っていたんです。それでやっとというか、時間ができたんで何回か来ることができたんです」

 なんか一気に吐き出すみたいになってしまった。いや、なんかこんなこと言うつもりなんてぜんぜんなかった。ちょっと頭に血が上って興奮しているみたいだ。みたいじゃない。そのまんまだ。自分でもこんな自分にだいぶひいてしまった。ましてや言われた方なんてもっと……。

「へえ、そうなんだ」

 いや意外と穏やかに笑ってるだけだった。出来た人なのかもしれない。ボクのほうが恥ずかしくなって目を伏せてしまった。

「いや、嬉しいよ。ここをそんなふうに思ってくれている人がいるなんてね」

 なんだかすごく慰められている。ボクが恥ずかしがっているのを、なんでもないような雰囲気にしてくれようとしている。こんな状況、本当ならもっと気まずい雰囲気になってもいいはずなのに。やっぱりこんな気の使い方は割と年上なのかもしれない。顔だけ見るとちょっと上くらいにしか見えないけど。

「あの……、どうしてこの場所が好きなんですか?」

「うーん、その質問はこっちがしたいくらいなんだけど。若い人がどうして……」

 その人は腕を組み直して困ったように眉尻を下げて頭を横に数回振った。急に表情が表れてきて、だから注視してしまった。

「いや、まあ、なんというかね、聖地巡礼というやつで、ここは作品の舞台みたいになっててね、ある女の子が……」

 それだけでボクにはピンときた。

「ユキちゃんですね!」

「ユキ……ちゃん? ああ、そうだね」

 ああ、かああ、そうかああ、急に頭が熱くなってきた。そうか、そうなんだ。もうなんだか嬉しくて嬉しくて仕方なかった。本当に同志の人だったんだ!

「ボク、ブログを読んだんです」

「あ、ああ、あのブログか……」

 その人はなんだかさっきのボクみたいにしどろもどろになって視線をあらぬ方にそらしてしまった。変な感じだと思ったけど、まあ、そんなことはどうでもよかった。ボクだって見知らぬ人から自分が大事にしているものの話が急に出たら動揺するかもしれない。

 それよりもなによりもボクは深い深いとても深い感銘を受けてしまった。同じあのブログを読んで感銘を受けてこの場所に来ている人がボク以外に存在するという事実に。

 そこからは本当に話が止まらなかった。このことについて人と話ができる日が来るなんて思いもしなかった。頭の中だけで、自分にだけ話して終わるものだと思っていた。

 ブログを偶然見つけたことから始まって、その小説を図書館で何度も読んだことや、この池の真ん中に建つ末社は小説にはいっさい書かれていなかったけどユキちゃんの運命を思うとここに佇んでいたとしか思えないということやら、もろもろ全部、話してしまった。

 一気にまくし立てた後、ハッとしてその人を見てしまった。さすがに引いたかもしれない。でも笑顔でにっこりとしただけだった。見慣れないけど似合ってる笑顔だった。

「嬉しいね。その小説のファンなんだ。こんな若い人がファンなんてホント嬉しいよ。じゃあ、同志ってヤツだね」

「ハイ!」

 万感という言葉は知っていたけどどういうものなのかいまいちピンときていなかった。これがそうなのかもしれない。お腹の底、心の底から嬉しいうれしいって波動が出てくる。その波に乗っかってどこまでも高くどこまでも遠くにいけそうな気がしてくる。

 またキセキが降りてきたのだと思った。あの、さっきのキセキによってもたらされた答え。それを一番に話す相手は、もしかしたらこの人なんじゃないのか。ここまで他の人と話をしたこと自体キセキなら、あれを話すことは筋道として当然なのではないだろうか。

 誰にも話すつもりはなかった。両親にだって、こうしたいってことは言うつもりだけど、その根幹に関わる話はするつもりはなかった。たとえ話をしてもわかってくれるかどうかわからなかったし、わかってもらいたいわけでもなかった。

 でももしかしたらこの人なら、わかってもらえるのかもしれない。

 わかってもらえることが重要ではないと思っているけど、でも言葉に出してそれを聞いてもらえる対象がいるってことは、誓いになるのかもしれない。そう思えた。

 そうだ、そうだ。ここで言葉を出すことで、それを聞く人がいることで、この場にはいないけど、絶対にいない存在ではあるけれど、ボクの背中を押してくれたユキちゃんに対する誓文になるんじゃないだろうか。ユキちゃんのおかげで答えが手に入って、そして運命の采配で同じユキちゃんを知る同志と巡り会ったのだから。

「あの……」

 やっぱり最初は躊躇してしまっておずおずとしか言葉がでてこなかった。

 でも……、ボクは首を振った。今日ボクはここで天啓を得た。生まれ変わったと言ってもいい。違う人間になれたのだ。だからこそ今までなら口に出せそうもないことだって言える。そのはずなんだ。

 澄んだ水の音の連なりが耳に入ってくるまで黙ってしまった。いや水の音が聞こえるくらいまで落ちついてきた感じだ。

 水音に包まれた。

「これからヘンなコト言っちゃうかもしれませんけど笑わないで聞いてほしいです」

 その人の返事は若干遅れたけど、雰囲気そのものは変わらないように見えた。それがなんだか後押ししてくれたようになった。

「ボク、決めたコトがあるんです」

「うん、ええと、……唐突だね」

「はい、唐突なんです」

「そうですか……、で、何を決めたんです?」

「はい、旅に出ることを決めました」

「たび? 旅行とかですか?」

「いえ、ちょっと違って、いえ、だいぶ違って、旅行ではなくて、旅なんです」

「旅行、じゃなくて、旅……?」

「はい、旅です」

 これが一番重要なことだった。一番悩んでいたことでもあった。

 旅に出るかどうか……。

 旅とはなんで、どうしたら旅になり、ボクにとって旅とはなんなのか……、必要なものであるのか……。

 少し沈黙が降りてしまった。でも相変わらず水の音はするし、近くを走る二十号からは車の走る音がする。

 その人の無表情だった顔が崩れた。それは苦笑いだった。その笑いのまま、でもマイナスな方向の声ではなかった。

「君は……、なんというか、その、なんだ、ヘンなんだ」

「ヘンですか?」

「いやヘンというとネガティブに聞こえるかもしれないけど、そうじゃなくてね、変わってるの良い方の意味で自分ではカタカナでヘンと言ったんだけど」

「変わってますか?」

「まあ、そうだろうね、今日会ったばかりの自分にそんな話できるんだから」

 そしてその人は小さい社に顔を向けた。ボクも釣られて同じことをする。社は古いようで新しいようで、木製で木は経年劣化でくすんでいるけど、屋根はトタン葺になって新しい感じ……、いや朱色はくすんでいた。それが微妙に融合していて、雰囲気は良かった。

「なにかの口頭試問かと思った……」

 ぽつりとその人は呟いた。

「まあ、でも本当みたいなんだね」

 今度はボクのほうに向き直って頭の上からつま先まで値踏みするかのように見ていた。

 なんだか急に恥ずかしくなってきた。

「ほんとうなんです。ここでさっき本当に決めたことなんです。それもこれもユキちゃんのおかげなんです」

 とうとう笑われてしまった。でもそれは爆笑でもなく冷笑でもなく、なんというかよくお父さんやお母さんやおばあちゃんがボクにしてくる笑いというか……。でも違うところもあって、なんだか少し寂しそうに見えた。

「いいね、それ……」

「本当にいいと思いますか。ボクにとっては割と大事なことなんです。ユキちゃんに背中を押されたことだって……。でもユキちゃんは単なる小説のキャラで……。そんな存在に背中を押されるってどうなんでしょうか」

 その人はまた困ったような顔をした。恥ずかしいというか。でもさっきみたいに視線が曖昧になることはなかった。

「いいと思うけど。たとえ架空の人だったとしても背中を押してもらえたんだから。後ろに誰がいようと押してもらえた事実は残るんだから関係ないよ」

「そうでしょうか?」

「そうだよ」

 もっとも、とその人は続けたあと、今度はやっぱり視線をあらぬ方に向けてしまった。

「十代から君くらいの頃まで、自分も尊敬する人は提督ですと堂々と言い放っていたよ。今でも人生の指針として提督の言葉があるような気がする」

 その提督がなにを意味するのかわからなかったけど、ボクと同じような意味で使ったのだということはわかった。

 そして急にその人はニヤリと笑った。今までのような親しみのある笑みなんだけどそれだけじゃない、もっとなんというかすべてを全部取っ払ったときに出る笑みというか、ボクにはあんまり経験がなかったけど友達にするような笑みであるのかもしれない。でも一番この笑みがその人に似合っていた。

「無責任な立場だから言ってあげるよ」

 そうこれがあの悪戯っぽい笑みとかいうヤツなのかもしれない。

「押してあげるよ、背中。ユキちゃんとの因縁を作ってしまった自分が」

「え?」

 気付いたときには夕方になっていた。

 もう辺りは暗くなりはじめていた。

 変わらないのは水音だけだった。

 あれから色々なことを話したような気がする。最後には自転車の乗って仕事に戻っていくのを見送ったような気がする。

 なんか曖昧だ。そんな記憶はあるのに何を話したのか、別れの言葉はなんだったのか、何も思い出せない。ついさっきのことだったのに頭の中の映像はずいぶん昔の出来事のように白いベールがかかったようになっている。

 なんだかさっきから風が強めに吹いている。少し冷たい風だった。池の周りの林の木々はざわざわ音をたてている。

 それと水の音だけしかしない。

 そんな世界だった。

「旅に出るんだよ」

 あのときあの人が言った言葉が頭に響いた。

「旅行じゃなくて、旅というものに出るんだ。邪魔が入るかもしれないし、躊躇する瞬間もあるかもしれないけど……」

 風の音と木々の音と水の音と同時に頭の中で声が響いていた。

「旅の成功を祈るよ」

 明瞭に残っていた。余韻が尾を引いている。

 それなのに、それであるのに、こんなにも残っているのに、いまいち定かではない。本当にあの人がこんなことを言ったのだろうか。あまりにも、あまりにもここ最近自分が自分の心の中でさんざん言い聞かせていた台詞にソックリだった。

 本当に、あれは本当にあった出来事だったのだろうか。

 ボクは考え込んでしまう。

 橋の上に立っている。水音に囲まれて、風の音が混じる中、立っている。

 その内、その音たちとは別の音が耳に入ってきた。なぜだか珍しいことにホーホーとフクロウが鳴いているような音だった。いくら田舎といってもここは東京なのに……。でも耳を澄まして聞いてみてもそれはフクロウの声でしかなかった。

 暗さが増している中、ボクはどこにいるのかわからなくなった。暗くなった中でナニモカモが滲んだように輪郭を曖昧にさせていく。

 ただ水音だけがさっきと同じようにボクの周りにあった。その音だけがボクの現実のように思える。

 だから、たぶん、この水音が意識できるかぎり、ここで起こったナニモカモがボクの現実であると思ってもいいのだろう。

 ユキちゃんのことも、あのキセキも、あの人との会話もフクロウの声だって、この水音がしている限り、それをボクが意識できる限り現実だったんだ。

 それに関して、フクロウは賛成してくれているようにホウホウ鳴いていた。

 だからボクは帰ることにした。




    ☆



 ユキちゃんとは和紗少尉じゃなくてもいいのかもしれない。サイコクラッシャーではなく、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェースのほう。ゲーマーのほうでもなくただの内気な普通の女の子でもなく、読書好きのほう……。

 あそこで池をのぞきこんで、そしてなにかしらの覚悟を得たのはユキちゃんのほうが似合いそう。

 いや、そうでもないのか。ユキちゃんなら誰でも似合いそう。

 小泉くんならそんなボクを見て、こう言ったと思う。

「あなたの想うユキはどちらでしょうね」と。

 本当に、この池を見つめていたと思う。

 どちらでしょうね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る