玉響(たまゆら)

第1話














 いつものバス停に向かうと、もう彼女の姿があった。ベンチに腰かけ本を読みながら、時折指さきに白い息を吹きかける様子が遠くからでも見えた。

 コートは羽織っているようだが――手袋もすればいいのに。

 まだ十二月の頭だし、暖冬を迎えるでしょう、とニュースでは言われているものの、今でも理人りひとは手袋を手放せない。あと、ホッカイロも。彼の同級生たちもそうだ。これからどんどん寒くなっていくのに、それでも彼女は手袋をつけない。去年も一昨年もそうだった。

 冬の寒さを体感させる風が吹く。

「うう、さむっ」

朝日が雲に隠れているのでなおのこと冷たい。理人は制服の上に羽織ったコートの中で身を縮めて、バス停へ急いだ。簡易ながら屋根と横の壁があるだけでずいぶんと違うのだ。

「おはよう。弥生やよいさん」

 彼女の隣に腰かけてほっと息をついた。冬の空気が少しだが遮断された。

「……、おはようございます」と弥生は言葉少なに会釈を返すとまた本を読み始める。そっけない。凛とした横顔はどこか近寄りがたい。弥生とは行きも帰りもバスの路線が同じだし、三年間クラスは同じ。

学校一の秀才――弥生ほのかは謎の女性と言われている。教室や図書室のカウンターで彼女をよく見かけるものの、誰かと談笑している姿を誰も見たことがない。勉強や本を読んでいる姿ばかり。

「弥生さん……何読んでるの?」

 だけど。ふたりでバスを待つほんの少しの間だけ、理人だけは別だった。

「? ああ――この本ですか?」 一拍遅れて弥生は顔をあげた。彼女の瞳が理人を映す。色素の薄い栗色の瞳に自分が映っていることが、未だに不思議だ。

「そう。どんなの読んでるのかなって」

 言われたことを噛み砕くように、ゆっくりと頷く時間が理人には妙に長く感じた。

「そう、ですね。十二月……クリスマスに起こる奇跡の話、というところです――まだ、半分しか読めていないのであらすじくらいしか説明はできませんが」

 すみません、と彼女は少し笑う。冷たい雪がゆるんだ笑みだった。理人は目をそらす。スカートの上で開かれた本を見ると、なるほど半分だ。

「クリスマスかー。そう言えばそろそろだね」

 ええ、とほのかに笑みながら彼女は本に視線を落した。「ちょうど人肌が恋しくなる時期なので、選んでみました」 

 彼女は図書委員でもある。本の貸し出しのさい理人は彼女の世話になるが、そのときも会話は事務手続きのようなものだった。

「今度の図書新聞で読書感想文とともにその本を紹介するんです」

 にこにこと笑う姿は、学校での彼女からは想像できないものだ。

「本のことになると、弥生さんはよく喋るね」

 彼の隣で――そうですかね、と言いながら弥生は冷えた指先に息をかける。吐かれた息は白く、指はかすかに赤かった。バスはまだ来ない。

「はい、これ使って」

「え? あ――ありがとうございます」

 見かねた理人が、顔をあげた弥生の手に握らせたのはカイロだった。彼女は両手でそれを包み込んだ。あたたかい、と頬に押しあてる。

「俺さ、弥生さんの態度の豹変ぐあいをだいぶ尊敬してる」

 渋面のまま、理人が言う。

「あなた、褒めてないでしょう」

「うん。――学校では話しかけてもそっけないから」

 カイロをぎゅっと握りしめながら弥生は何とも言いえない表情をした。

「説明したでしょう。学校では勉強に集中したいんです」

「そうやって、恋人を三年も放置する? 俺以外だったら絶対、愛想つかされると思うよ?」

 理人がにやりと笑う。

「そんな言って愛想つかしてないじゃないですか。それに。その、こ、恋人と一緒にいたら、その……勉強が手に付かなくなるでしょう。あ、いや、……違う。いや、違くなくて」

 弥生は負けじと言い返してかあっと耳まで赤くした。えらく恥ずかしいことを言っていることに今さら気付いたらしい。

「うーん、確かにいつものポーカーフェイスが崩れちゃったら困るね」

 と理人はくすくすと笑った。崩れたら困るよ、弥生さん。

 学校と外でのギャップや初心(うぶ)ですぐ顔を赤くするところが面白い。こんなかわいいところは自分だけが知っていればいい。愛想をつかすなんてことができるはずないじゃないか。

「俺の勉強も見てもらわないといけないんだから、頑張ってね弥生さん」

「そうですよ、わたしあなたの勉強も見なくてはいけないんですから」

 カイロを握りしめる小さな両手を理人は自分のそれで包み込んだ。

「あの、そんな懇願されてもですね……あなたは勉強を自分でやるってことをいい加減、覚えてもいい頃ですよ」

 別に、懇願してるわけじゃないよ、と理人は顔を曇らせた。さらに赤くなる彼女の顔とは裏腹に、その手は凍えたように冷たかった。

 「いい加減……手袋、つけたら?」と理人は言ったが、今年も彼女は首をふる。

「手袋をはめたら、本が読みづらいので」

 頑固だな、と思う。去年も一昨年も同じ理由で手袋をはめていないのだ。だからこの時期はホッカイロが手放せない。――初めて、彼女と出会ったときを思い出した。

「弥生さんの意見は尊重したいけど、凍傷なりかけです、とかほんとやめてね」

 あの日も、彼女は手袋をはめずに本を読んでいて、彼女の指は赤を通り越して紫色に変色していた。見かねた理人が手袋を嫌がるのでホッカイロを半ば強引にあげたのだ。

「変わらないねえ」 理人は肩をすくめた。本に対する執念たるや、自分には真似できそうにない。

「あなたの強情ぐあいも、はじめから変わりませんね」

 刺々しく言いながら弥生はゆるんだ理人の手から自分の手を抜く。そっけないが、学校のそっけなさとはまた違った。嫌いじゃない。

 彼女越しに見えた曲がり角からバスが顔を出す。弥生が本を鞄にしまって立ちあがる。

「……この本さ、図書室にある?」

 理人も立ちあがって、訊ねた。

「ええ、あります、けど――?」

 と、彼女は顔だけを向ける。その栗色の瞳に映る、理人は少し寂しそうにしていた。

「今日借りに行く。それで、一緒に帰ろう」

 語りかける合間に、同級生たちの乗るバスが、近づいていた。理人は息をついて隣をうかがう。

「ええ、構いませんよ」

 淡々と言う弥生の横顔はいつもの近寄りがたいものに戻っていた。――恋人になれるのは、ほんの少しの間だけ。


              【了】


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玉響(たまゆら) @fuzimiya

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