終章

終章

翌日。

母に一日だけ時間をもらって、咲は製鉄所に直行した。もう、この人と会うのは最後になるだろう、最後にしようと決めていた。

今日は確実に用事を伝えるため、連絡もしないで抜き打ちで行ってみることにした。そのほうが行くのに警戒もされにくいはずだ。それに、こちらが何か動きを示したら、由紀子さんが何かしてくるかもしれない。衝突だけはしたくなかった。そこだけはどうしても避けたかったのだ。あの一途で一本気な女性は苦手だ。

玄関の戸を開けると、いつも通り、恵子さんが出てきた。

「あの、水穂さん、いますか?」

「ええ。」

恵子さんは、当然の事のようにそういう。

「いますけど、一体どうしたの?」

「お会いしたいのですけれども。お願いできませんか。」

咲は、なるべくなら、ことが起きないように静かに言った。

「いいわ。眠ってはいるけど、起こせば起きるから。」

まあ、いずれにしても決まり文句だが、恵子さんはそういった。たぶん、これはいつものことだと思って、咲は、製鉄所の敷地内に入らせてもらった。

すぐに、さびれた鴬張りの廊下を歩いて、彼のいる、四畳半へ向かった。もうあの廊下も、鹿威しも、うるさいとは思わなかった。それよりもっと重大な用事を伝えるからだ。

「水穂さん。」

そっと、ふすまを開けると、水穂は布団の中で静かに眠っていた。

もう何回も訪問しているから、こうなることもわかりきっていたので、そっと枕元に座ってもう一度、

「水穂さん。」

と、声をかけ、そっと彼の肩をゆすった。んん、と声がして、水穂の目が開く。そっと首を動かして、座っているのが咲だと確認がとれたようだ。もう目の力も弱弱しかったが、やっぱり綺麗な人であるのは疑いない。やっぱり水穂さんは、誰が見てもすぐわかる美男子と言えた。

「ど、どうしたんですか?」

水穂はそう聞いてきた。聞かれて咲は、言いづらいけれど言わなければならないなと決断して、こう答える。

「今まで、あたしが本を書くのを手伝ってくれて、ありがとう。ずいぶん体に負担をかけたと思うけど、もうそうすることはないから、安心してよく休んで、元気になって頂戴。」

暫く間が開いて、水穂はやっと、

「そうなんですか。」

と答えて、ほっと溜息をついた。その顔はうれしいというよりか、がっかりしたような雰囲気があった。もうこれ以上本を出さないほうが喜ぶと思っていた咲は、意外な反応だと思った。

「どうしたの。そんな寂しそうな顔。だってもう、体の負担からは、解放されるのに。それではうれしくないの?だって、校正してもらっている時だって、あれだけ体が辛そうで、あたしは嫌なんだろうなと思ってたから。」

咲は、水穂のこの反応が意外で、急に表情を変えた。

「うれしくないというか、悲しかったです。」

一言、水穂は返答した。

「え、どうして?」

水穂は、がっくりとした顔で、顔を反対のほうへ向けた。

「水穂さん。」

答えなくないのか、水穂は黙っている。

「どうした、、、の?私、何か悪いことを、、、?」

一瞬言葉を止めてしまう咲だが、答えは次の瞬間、飛び出してきた言葉ではっきりわかった。

「おーい、持ってきたぞ。久しぶりに作ったからよ。もう疲れちゃった。でもさ、久しぶりに蕎麦掻食べたいって言い出したから、気合入れて作ったぜ。」

お盆を車いすのトレーに乗せて、杉三がやってきたのだ。

「よし、どっさりこと作ったからよ。温かいうちに、思いっきり食べてくれや。もし、足りなかったらまた作るからな。飽きるまで、なんぼでも食べてくれ。これでちっとは体力もつくだろうよ。」

と言って、皿を枕元に置く杉三だったが、、、。

「杉ちゃん、ありがとう。でも、もう必要なくなったよ。」

水穂は静かに言った。

「へ、なんで?」

と、一瞬とぼける杉三だが、彼には不思議な能力のような物が備わっているらしい。しばらくぼんやりていたが、ははあ、なるほど。と声を上げた。

「つまり、このプロジェクトも、ここで終了か。そうかあ、それは何とも悲しいな。まあなあ、いろいろ事情もあるんだろうけどよ。咲さん、もう少し、この水穂さんの気持ちも考えてやってくれるか?」

「杉ちゃん、、、。」

咲が思わず黙ってしまうと、杉三は少し説教するように言う。

「こいつはな、やっぱり、咲さんと一緒に原稿を作るんだったら、せめてもうちょっと体力がないといかんなと言い出して、それで今日は僕に蕎麦掻作ってって、頼んだんだぞ。咲さんの事情はいろいろあるんだろうが、なんだかここで、変わろうとするきっかけを、盗られちゃうのは悲しいな。新たにきっかけを得るって、簡単そうで実は難しい問題だぜ。特にな、水穂さんみたいな、長年不利な立場にいるやつはな!」

咲は呆然としてしまった。そんなこと、水穂さんが、考えていただろうか?

「それに、被害者は、こいつだけじゃない。僕も正直、久しぶりに食べ物を口にしたいと自分から言い出した時は、どんなにうれしかっただろうな。蘭のような言い方は、あまりしたくないが、もし歩けたら、間違って天井に頭をぶつけちまうくらい、喜ぶな。だって、今まで、何を食っても吐き出しちまう奴が、蕎麦掻作ってくれと言ったんだぜ!この喜びをさ、ぶっ壊したのをどうしてくれる?」

「杉ちゃん、もういいよ。こういうことには慣れてるよ。本当に、何回もあった。人に何かしてやりたいなと思っても、何か新しいものに挑戦してみたいなと思っても、困っている時に、何かしてやろうかという人が現れてくれた時でさえも、出身階級のせいで、全部持って行かれたよ。つまり、没になるんだ。もうすぐ実現できるかなというときに、実現できなかったことは、今まで何度もあった。経験しすぎているくらいい、経験してるから、初めから実現できないと思っていたほうがいいくらい。だから、もういいよ。咲さんは、責めないでやって。」

水穂さんが、静かにそう言っているのが聞こえる。その言い方は、残念そうな言い回しは全くなく、むしろこういうことがあって、当然という感じの言い方だった。杉ちゃんのほうが逆に悔しそうだった。

「水穂さん、お前さんだけが損害を受けたわけではないんだからな。悪いけど、そこをわかってもらえないか?もう一回言うが、今回、損害を受けたのはお前さんだけではないんだよ。僕も結局ぬか喜びで終わってしまうことになる。その顔から判断すると、もう、蕎麦掻を食べる気はないよな。僕はそこが悲しいな。イケメンすぎると、かえって損をすることもあるよ。顔の表情がはっきりわかってしまうんだからな。」

杉三は、がっかりとした顔でそう言い放った。

「でも事情があるんですから、仕方ないですよね。せめてもしよかったら、理由だけ聞かせてもらえないでしょうか。僕も足りない点があったかもしれませんので。」

水穂にそういわれて、咲は、正直に話さなければならないなと思った。

「ええ、昨日母がうちに来て、もう、夫と結婚していたことは忘れて、普通の生活に戻ってくるようにといったんです。母は、私を心配して、さんざん捜し歩いていたそうです。ずいぶん負担をかけてしまったし、もうここで暮らすことはやめて、母と東京へ戻ります。もう、この町には、初めから縁もゆかりもないわけだし、主人ももう手の届かない人になり、私は、私の必要なものは、自分で何とかしなければならないなと考え直して。それがいつもあったほうが、平和で安全な生活が保てるって、母が言ってましたし、私も、そのほうがこれから先の人生、安全路線でいけるかなと思ったので、そうすることにしました。」

咲はここまでを一気に語った。もしかしたら、何か言われてしまうかと思って、杉三の顔は見れなかった。

「全く、今時の子は、なんでそう、すぐに言いなりになっちゃうのかなあ。そりゃ、安全路線は安全路線だわな。だって、持ってるもの全部捨てて、ひたすら金の製造マシーンになっていくんだからな。金があれば、確かに安全だよ。物はあるけど、何もない人生を送れるよ。ほしいもんは買えるし、着るものと食べるものと住むところには困らんな。でもな、お前さんがその結論に行く道中で出会ってきた人たちは、どうなるんだ?」

杉三は、そう、なぞなぞのような話を始めた。

「そりゃ、確かに安全かもしれないね。文字通り物はあるが何もないんだからよ。確かに、今は金さえあれば、何でもできるってのは理解できるよ。逆を言えば、それがなければ、助けてもらえない分野だってたくさんあるだろうよ。だけどよ、人間は、金っていう餌をもらって、芸をしていれば生きていけるかっていうと、そうではないんだ。餌をもらって、のらりくらりと生きている、水族館のカワウソちゃんとは違うからな。少なくとも、お前さんとかかわって来た人たちは、本当に金と物を得るためにくっついてきたのか?違うだろ!」

だんだんに杉三は激して言い始めた。

「よく考えてみろ。お前さんが今しようとしていることは、その人たちが、してきたことを全部間違っていると否定して、自分だけ安全路線に逃げちまおうとすることだ。それでは、何人の人が大損すると思っているんだ!勘定してみろ!少なくとも一人か二人だけではないはずだぞ!」

咲は、そういわれて、酷く面食らってしまう。

「意外に人間は、自分とかかわりのある人の人数を、自分で勘定することは難しいと青柳教授が言っていたことがある。僕もバカなので、計算はまるでできないが、少なくともお前さんがここを出ていくことで、大損をする奴らの名前はあげられるよ。まず、ここにいる水穂さんはもちろんそうだよな。そして、お前さんが出ていけば、焼き肉屋の経営者である、ジョチさん、チャガタイさんも従業員が一人減るわけだから、また店の効率が悪くなって損をする。それだけじゃない。あの喜恵おじさんだって、せっかくの文書を書いてくれる人が突然いなくなったら、困るよな。焼き肉屋の従業員さんだって、お前さんと関わってよかったと感じている人もいるかもしれないよ。あとは、なくなった旦那様の、俳句教室のお弟子さんたちだって、お前さんの本が出てくれるのを心より待っていることだろうよ。ほらあ、もう勘定できなくなっちゃった。こんなにたくさんの人が、お前さんが普通の暮らしをするせいで大損をするわけ。わかるか?何人の人間が大損をするのか!」

本当は、こうして損をした人たちの名を挙げている杉ちゃんこそ、一番がっかりしているのかもしれなかった。彼の表情がそれを示していた。

「でも私、もうこの分野では、もうだめなのかと。だって、音楽学校でも、パッとしなかったし。結婚生活も、長く続かなかった。だから、もう芸術なんかやってないで、安全路線に帰るべきじゃないかと。もう、何かしようとすると、相手を盗られたり、体調を崩したりして、すぐにだめになるのよ。」

「へええ、そうですかあ。じゃあ、少なくともきっかけはつかめているのに、すぐだめになるというわけですかあ。それじゃあ、そのきっかけすら盗られてしまって、もうあの世に行くしか希望の持てない、こいつはどうなるんだ?」

杉三は水穂を顎で示した。咲は水穂をじっと見つめる。

「こいつはな、きっかけなんてはじめっからなくて、それだって当たり前だったから、ほんのわずかな伝手に、何十倍もの努力をしなきゃならなかったんだ。そして、その結果得たものは、ほら、これだ!見ろ!」

そういったのと同時に、水穂がせき込んだ。これまで見た以上に立て続けにせき込んだ。

「水穂さん大丈夫か?薬飲むか?」

そう声をかけても止まらなかった。杉三がバカ、またやる、といったのと同時に赤い液体が噴出した。

「あーあ。ようやるなあ。本当にだめだよな。これじゃあ、どうしようもないよ。まあ、今回、無事に出してくれたからよかったようなもので。」

そういいながら杉三は体を横に向けて背中をなでてやった。

「ほれほれ、落ち着くまでしっかりしてくれよ。もう、今回は、正直者がバカを見るといえばそれでいいが、やっぱり悔しいよな。まあ、最近は、安全路線を行く方が正しい生き方しか思われなくなっているので、多少無責任な事されても、仕方ないんじゃないかな。」

「杉ちゃんごめん。訂正しておきたいけど、僕は損をした人数には入れないでね。」

咳き込みながら、水穂はそんなことを言った。その顔は、いかにもそうしてくれるように、懇願している様子だった。

「僕のことは、損をしたと思ってくれなくていいんだよ。そうなるのが当たり前なんだから。お願い。」

「うるさい!今はしゃべらないほうがいいよ。出すもん出すことに専念しろ!」

弱弱しく頷いて、水穂は咳き込み続けた。咲は、もう同じところにはいられないなと思った。もう、この人達の前に立つのは、恥ずかしいというか、申し訳なさすぎる気がした。

でも、そこから立ち去ることもできなくて、しくしく泣くしかなかった。

杉三が作った蕎麦掻の皿は、水穂の枕元に置いてあったが、それがまだ暖かくて、ホカホカと湯気を出しているところが、なんとも悲しい光景であった。きっと蕎麦掻は何も知らないで、食べてもらうのを待っているだけに違いない。

咲は、咳き込み続ける水穂と、介抱している杉三を尻目に、いつまでもいつまでも泣き出してしまうのだった。


数日後。

蘭は落ち込んでいた。

まさしく、やけ酒でもあおりたい気分だった。喜恵おじさんから、咲がお母さんのもとへ帰ったと知らされて、お前がそそのかしたのではないかと、疑いをかけられてしまったのだ。聞けば、咲の原稿を校正した人物は水穂で、それを促したのはジョチであるという。それなのに、地位の高い波布は、単に命令を下しただけのことだとしらを切り、おじさんは、最も保守的なのは蘭であるから、咲の母親がこちらへ来たときに、彼女の考えに同意したのはお前しかないと言いはなった。

「全くもう、なんで僕はいつも貧乏くじを引く羽目になるんだろう、、、。」

蘭は、テーブルにあった、サキイカをむさぼるように食べた。

それでもこの作戦はやめるわけにはいかない。今回だって、もし、文書の校正をするために、水穂と咲のコンビが続いていてくれれば、そのまま恋愛関係になることだって十分予測できた。咲が、太田義春の妻であると知ってからは、義春は虚弱で、悲観的な考えをもつ作家であると知っていたし、そういうところは水穂も似たようなところがあると、分析していたので、咲は、水穂に確実に好意を持つようになるだろう、とまで予測できていたのである。ところが彼女の母親である、浜島千花子がこっちにやってきてしまったのが、運の尽きだった。浜島千花子が現れて、咲を東京へ連れ戻したりしなければ、、、。まさしく蘭こそ、何かをつかみかけて、誰かに盗られてしまったような人物だったかもしれない。

そんなことを考えながら、蘭は、次の刺客となるべき女性を探しにかかった。今度こそ、失敗は許されない。できるだけ現政権に不満を多く持ち、恋愛とかそういう劇的な運命の変化に弱いと思われる、美しい女性、これを探し出して、水穂のもとへ送る。奴はそうでもしないと、立ち直ることはない。杉ちゃんの話によると、咲と別れるときは、咳き込むのに忙しく、返答すらできなかったというのだから、情けないにもほどがあった。


一方の今西由紀子は、相変わらず答えが得られなくて、じれったい思いをしながら吉原駅で働いていた。ちょうど、電車の来ていない岳南鉄道のホームから、東海道線のホームを眺めていると、一台の上り電車がホームに止まった。まだ、通勤ラッシュの時間ではなかったから、電車はほぼがら空きに近かった。その一番後ろの車両には、女性が二人乗っていた。一人は、かなり高齢の女性で、もう一人は、自分より十年ほど離れた女性だった。高齢の女性のほうが、若い方の女性に何か語り掛けているのが見える。二人とも大きなキャリーバッグを持っているので、遠くへ出かけるんだなということが分かった。

その時、由紀子は直感が働いて、咲のお母さんが、彼女を、迎えに来たのではないかとおもった。由紀子は、浜島千花子をちゃんと見たわけではないけれど、水穂さんが、咲さんのお母さんがどうのと、

杉三と話していたのを、立ち聞きしていたことがあった。あの時の、青柳教授と、曾我さんが話していたことを聞いてしまってから、由紀子はいろんなことに聴覚が過敏になっていて、誰かがしゃべっていることとか、注意深く聞いてしまう癖がついたのである。

ああ、そうか、それでは東京へ帰るのか。

由紀子は、なぜかうれしいという感情を持ってしまった。

あのお母さんが迎えに来てくれたことが、なぜか、大きな邪魔者を取り除いてくれた気がした。

そうなれば、水穂さんの答えもまた聞けるかもしれない。

よし、また暫く待ってみよう。

由紀子はそう思って時計を見ると、ちょうど岳南鉄道も、電車がやってくる時刻になっていたため、急いで、紅白の旗を高く上げ、

「まもなく、岳南江尾行きが、二両編成で到着いたします。危ないですから、黄色い点字ブロックの内側まで下がってお待ちください。」

と、声高らかに宣誓した。それを見て、周りのお客さんが、駅員さん、なんでそんなに大きな声を張り上げているの?そんな大きな声で言わなくても聞こえるよ?なんて言っている声がするが、そんなものはどうでもよく、ただ高らかに宣言したいだけだった。

暫くして、二両編成の赤い岳南電車がやってきた。電車は指定位置に停車して、ドアを開けて、吉原駅まで乗ってきた乗客を全部吐き出すと、餌を吸い込むクジラのように、待っていた乗客を吸い取って、再びドアを閉めて、岳南江尾駅に向けて走り出していった。

由紀子は、岳南江尾行きの電車が発車してしまうのを見送った後、もう一度東海道本線のホームを見た。もう、電車は行ってしまった後で、咲と母親の姿も当然の事ながら、見当たらなかった。

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恋愛編3、蛙 増田朋美 @masubuchi4996

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