第九章

第九章

製鉄所で、由紀子とガチンコバトルを繰り広げた後、そのあとどうやって自宅マンションに帰ってきたのだろう?自分は今自宅にいることは確かだが、車をつかったのか、歩いてきたのか、何もわからなかった。

とりあえず、原稿は訂正してもらったから、それを清書して、喜恵さんのところに送らなけばならなかった。

もう泣きたくなった。それではいけないと思って、苦手なパソコンの前に座り、ワードを立ち上げて、とにかく集中してキーを打つ。キーを打っているときは、それに集中しなければならないから、少なくとも、その時は何も考えずに済むことができた。タッチタイピングなんてとてもできなかったから、ずっとキーボードを凝視しながら、亀くらいのスピードで打つ、いわゆる五月雨打ちしかできなかった。その作業を何時間も繰り返して、どうにか原稿を仕上げることができたけど、終わった後にはものすごい喪失感でいっぱいになった。

とにかく、由紀子さんの、あの目は印象的というか、自分には到底できないだろうなと、確信する。由紀子さんは、きっと水穂さんのことを心から好きなんだろう。きっと私には、追いつかないだろう。

そういうことを如実に表している態度だった。

で、でも、あたしのこの絶望感はどこから来るんだろうな。もし、由紀子さんのほうが、水穂さんには向いているとはっきりわかって、そうなんだねと受け入れることができていたら、こんなに絶望することはなかったのではないか。それなのになんでだろう?大事な人を盗られてしまった、という気持ちがどうしてもわいてくる。

取りあえず、五月雨うちで清書した原稿は、喜恵おじさんのメールアドレスに、添え付けファイルとして、提出した。で、でも、これ以上新しい原稿を書くという気にはなれなかった。ただ、パソコンの前に座って、呆然としているしかなかった。

パソコンの前で、これまでの人生を振り返ってみた。自分の人生って何だったんだろう。思えば奥多摩の田舎で暮らすのが嫌で、偶然入った吹奏楽にひかれ、フルートを習い、同時に都会へ出たくて音楽学校に進学した。でも、入学してすぐに体調を崩してしまって、定期的に母をはじめとした家族や、近隣の親族などに助けてもらい、時には宿題を代筆してもらったりしながら、無事に音楽学校は卒業できた。できたにはできたけど、在学中に就職活動をすることができず、どこにも就職試験などを受ける余裕がなかったから、結局、どこの会社にも就職できなかった。家族は、奥多摩に帰ってきて、暫く療養し、できるようになったら、うちの弁当屋を手伝ってくれればいいよ、と言ってくれたけれど、そうなったら独立なんてできるはずもないから、都心でアルバイトなどで生計を立てて暮らした。

大学卒なんて、就職活動を在学中にしていなければ、まったく役に立たない称号だ。ただ、自分たちの暮らしが豊かにならないと嘆き続ける人たちからねたまれて、いじめられるだけだった。

そんな中で、コンビニでアルバイトしていた時、客としてやってきたのが、太田義春だった。ちょっと話しただけなのに意気投合してすぐに一緒に住むようになった。都心で生活していながら、それになじめないと訴える義春は、咲にとって大変魅力的な人物だった。と、いうのは、これまでの人と違って、はやくなじまなければだめだとか、いつまでも親に甘えるなとか、そういうおかしな倫理観を変な風にかっこつけて押し付ける人ではないからだった。咲が、どうしても奥多摩を離れて、別のところで暮らしたい、そのために頑張っているというと、よくわかってくれて、一緒に実現しようと言っていたのも彼だったのである。

そういうところが合致して、義春と結婚することにした。結婚するにあたっては、式典も何もしないで、紙を一枚出したのと、苗字を浜島から太田に変更しただけであった。彼はこれを、結婚に当たって最大のプレゼントは苗字であると言っていた。咲も、それだけで十分だった。ペアリングも何もなかった。

そして、二人は、東京を離れて相模湖の湖畔にある小さな家を借りて住むことにした。何もつてもなく、親族がいるわけでもなく、知人がいるわけでもなかったが、相模原の田舎に住んでいる人たちはみんな親切で、すぐに仲良くしてくれたため、不便とは思わなかった。

しかし、義春は三年もたたないうちに急逝してしまった。これは大きな痛手だった。この時点で義春は、数冊本を出版していたし、多少なりともほかの文学者と交流もあったから、亡くなったことを公表すれば、自身の居場所もばれるかもしれない、早く逃げようと思って、相模原の家を売却して、この富士にやってきた。富士では、何とかして焼き肉屋という仕事にもありついたが、それも体調不良のため盗られてしまうし、水穂さんと二人で小説の執筆という居場所も作ってもらったが、それも由紀子さんに盗られてしまった。私の人生、何だろう。何かをしても、というか、何かしようと行動を起こしても、体調や事情や、はたまたほかの人物に盗られてしまう。そういう人生って、なんて不幸なんだろうか。結局、私がつかみかけた居場所は、みんな何かに盗られるのか。咲は、大きくため息を着いた。

気が付くと、朝になっていた。

不思議と眠いとは感じていなかった。重大な悲しみに暮れると、眠気というものはどこかへ行ってしまうらしい。朝食を食べる気にもならず、ただ、ぼんやりとパソコンの前に座っていた。みんな、きっと会社へ働きに行ったりとか、学校へ行ったりとか、そういうことをしなくていい人の場合は、誰か相手のために食事を提供したりとか、そういうことをしているんだろう。そういうことを人は幸せといい、それができない人はすべて「不幸」というカテゴリーに入れてしまうのである。きっと、私は、生き方がまずかったんだな、と思いながら、つけっぱなしのパソコンに向かって、何もしないでぼんやりとしていた。


朝から、どこかの部屋を案内している、このマンションの管理人のおじさんの声が聞こえる。おじさんの相手は女性で、かなり逼迫しているようだ。誰かの部屋で、身内に不幸でもあったのだろうか?

インターフォンが鳴った。

思わず、ギクッとする。まさか自分の部屋に用があったなんて誰だろう?もしかしたら、本当に出版の話は詐欺まがいだったのだろうか?思わず身構える。

インターフォンはもう一度なった。今度は声まで聞こえてくる。

「咲!いるんでしょう?部屋の電気がついているんだから、いるってことはお見通しよ。それでは隠したことにならないわよ。開けなさい!」

ああ、なんてことだろう。お母さんではないか。それがどうしてこんなところに来たのか。

「開けなさい!隠したって無駄よ!開けなさい!」

母は、さらにそう言っている。これでは隣近所に聞こえてしまうような気がして、咲は玄関を開け、

「お母さん、うるさいわよ。ご近所に迷惑になるから、やたら声を出さないでよ!」

と、母の浜島千花子を中に招き入れた。こういう大声を出して平気なところも、田舎の人が良くやることで、咲はしてほしくなかった。

千花子は当然のように中に入って、勝手にテーブルに座った。

「お母さん、人の家に来て、そうやって勝手に座らないでよ。」

「何を言うんです。家族なんだから、他人じゃありません。変な考慮は必要ないのよ。」

「そういって家族だ、他人じゃないっていう言い訳はやめてもらいたいわね。」

田舎では、いつまでたっても子供は親の所有物なのだ。母もそういう考えでいる。咲はそれが本当に嫌だった。

「お茶なんか出さなくていいわ。それよりも、大事な話があるから、そこへ座りなさい。」

「人のうちへ来たのに、そんな言い方はないでしょ。このマンションだって、私の名義で契約しているのよ。」

本当に、人は人、自分は自分という考えはまるでないんだなと思いながら、咲は椅子に座った。

「で、話って何なのよ。早く済ませて頂戴ね、お母さん。」

咲は、いら立ちながら母の方を見た。こういう時にお茶があれば、ほんの少しだけでも目をそらす時間ができるのになと思った。

「決まってるでしょ。どうしてこんなところに引っ越したの?知っている人は誰もいないし、親戚も誰もいないじゃないの。それじゃあ不便なことが多くなるでしょう?」

「不便なんて、何もないわ。普通に暮らしていけるし、誰かの助けなんてなくてもやっていける。それに、知っている人なんていないほうが、私たちの事情なんて知らないんだし、親切心から大きなお世話をする人もいないじゃない。かえって楽よ。それでいいじゃないの。親は期限付きなんだから、いい加減に早く独立しなさい、なんて不必要な励ましをする人は誰もいないのよ。それがどんなに楽なことか、お母さんにはわからないでしょ。」

千花子の話に、咲はとりあえず反論した。でも、田舎生まれで田舎育ちの千花子は、まるでそれを理解しなかった。

「それはね、周りの人たちが、あんたのことを心配してくれて言っているのよ。事実、働かなかったら、暮らしていけないじゃないの。三年間一緒に暮らしていた、あの虚弱な男を見てみなさいよ。あの男はね、それをしなかったばかりに、生活ができなくて、それで早く逝ったのよ。ああして、安定しない生活なんて、肉体的にも精神的にも、健康をもたらしてはくれないの。」

この発言には癪に障った。確かに、お金はなかった。でも、なければないなりに楽しめる工夫はした。

レジャーに行かないで湖畔を一周するだけで十分だったのは、太田義春が周りの植物などを解説してくれて、季節の変化などを知らせてくれたからだ。相模湖の湖畔は山岳地帯で、自然がたくさん残っており、ちょっとだけでも少しずつ変化しているものがたくさんあった。時には、自宅の近辺に狸が現れて、内緒でリンゴなどを食べさせたりしたこともある。そういう要素がたくさん詰まっていて、わざわざレジャーに行く必要もなかったのだ。

「確かに義春さんは弱い人だったわよ。でも、あたしはおかげで、周りのちょっとした変化で十分楽しめるようになった。だから、それだけで十分。ほかには何もしたくなかったわ。」

「可哀相ね!あんたは。貧しい生活を強いられるだけじゃなくて、普通に暮らしている人たちが楽しめることを、何も与えられなかったのね!」

千花子は、この発言を聞いて、憐れむように言った。咲にしてみたらいい迷惑だ。自然を観察して、これほど楽しいことを、なんで可哀相と言われなければならないのか!

「じゃあ、お母さんは、何をすればよかったっていうの!あたしは、ちっとも不幸なんかじゃなかったわよ!」

「バカ!私は、そんなちっぽけなことで楽しかったなんて豪語する子を持った覚えないわよ!そんな湖畔を歩くだけなんて何になるの?そうじゃなくて、もっとやりがいのある仕事を見つけて、ほかの人とかかわって、その成果としてお金をもらって、そのお金でほしいものかって、おいしいもの食べて、もっと面白いことを習ったりして、そういうことが幸せというもんなのよ。子供のころから、それはしっかり教えてきたつもりなんだけど、なんで何もわかっていなかったのよ!」

「わかってなんかないわよ!わかる必要もないわ。そんなこと、やってみようと思っても、あたしは適齢期をすぎちゃったから、できそうにもなかったのよ。それだから別のことで楽しもうと決めたのよ!その楽しみが、具体的に言ったら湖畔を散歩するとか、そういうことなのよ!」

千花子は、顔中悔し涙を流して、わっと泣き出した。

「どういうことかしら。日本にいながら、そうじゃなくなったみたい。あたしたちは、さんざん奥多摩は田舎で、俺たちが持っているのが何一つないだろうとか、そうやってさんざんからかわれてきたから、奥多摩でもちゃんと生きていけるんだと思って、弁当屋を続けてきただけなのに。娘を音楽学校へやって、音楽関係の仕事しているっていえれば、奥多摩のこんな田舎でも子供一人育てられるって、自信が持てるようになるのに、なんでこんなことに、、、。」

確かに奥多摩は東京でも有数の過疎地域である。若い人はすぐに都会へ出て行ってしまって、二度と帰ってこず、年寄りばかりが残って、中には住んでいる人が誰もいないで、家だけが残ってしまっている、いわゆる消滅集落と化してしまった地域も珍しくない。そんな中だから、田舎者と言ってバカにされてしまうことが、よくあったのだろう。そういうときに、一人前にやっていると躍起になって

生活したくなってしまうのも、わからないわけではなかった。

「そうなのね。でも、悪いけど、あたしにとっては、それはいい迷惑なの。お母さんが私を通して、馬鹿にされたくないって思うのは、あたしにとっては、ただ、いい生活をしてほしいと押し付けているだけなの。あたしは、いい生活なんてどうでもよかったのよ。その証拠にいい生活しようとしても、それを得られるチャンスを逃しちゃったでしょ。それならもう、別の生活をしようとしてもいいじゃないの。」

咲は、そう言ったが、千花子はわからないようだった。

「いいえ、ダメなのよ、咲。それは、不幸な生活というものなの。そして、それをしていると、どうしても親は心配するのよ。これは親だから。当然の事。」

なんだ、親であれば、子どもの人生を作り上げるというか、構築してしまえる権利を有しているということだろうか?

「それはどういうこと?お母さんが、バカにされないように、あたしは道具になれっていうの?」

「そういうことじゃありません。」

千花子ははっきりといった。

「誰でも親であれば、子どもに普通の生活をしてほしい、幸せになってもらいたい。苦労しないでもらいたいってのが一番の望みなのよ。」

「めちゃくちゃじゃないの!悪いけど、私は、お母さんが思うほど、苦労したとは思ってないわ。そんなこと言ってバカにしないで!」

「そんなこと、いうもんじゃないわ!」

咲の発言に、千花子ははっきりと怒鳴った。

「世間の人の評価ってものを考えなさいよ!あんたね、いくら自分で苦労してないと思っていても、周りの人たちからは、すごくダメな旦那さんと結婚して、可哀相な女性としかみなされないのよ!それをどう思う!」

「そんなことはどうでもいいわ!あたしは、可哀相でもなんでもない!」

千花子は、何を言っても無駄だとはっきり知って、涙を流して、テーブルをたたいた。

「全く、この子はどうしてこんな風に、ダメな人になってしまったんでしょう。あの男が、どうしてもたぶらかしたとしか思えない。」

なんで、お母さんは、そんなに彼のことを悪く言ったんだろう。少なくとも、彼との生活は、私をたぶらかしたりすることはなかった。たぶらかすなんて、そんなこと、ひとつもなかった。確かに、映画を見たり、ディズニーランドへ行くことは一切なかったけど、湖畔を観察して、やれ花が咲いた、実がなった、狸に餌をあげた、そういうことをやるのは本当に面白かった。その生活はみじめ?可哀相?そして不幸なの?目の前が一気に暗くなる。

「とにかくね、咲。もうその人も亡くなったんだし、わざわざこんな街に来て住むこともないでしょう。そんな惨めな生活に別れを告げて、ちゃんと働いて、普通の生活に戻りなさい。そのほうが、よほど楽しく毎日を過ごせるわよ。友達だってできて、休みの日には食事に行ったり、観光施設に行くことだってできて、何よりも、都会の人たちと比べっこして、惨めな思いをしなくても済む。そうならないためには、しっかり仕事について、働くことが必要なの。こんなところに居たって仕方ない。はやく東京に帰ってらっしゃい。日本の中ではね、東京が一番進んでいるんだから。そこで暮らしなさい。」

母は、もう力が抜けてしまったかのように、ゆっくりとしゃべった。

ああ、これさえも、母に盗られてしまうのではないか。それでは、今までやってきたことはすべて、外部の人に盗られてしまうことになるんだ。もうおしまいだ。私は、何をやっても誰かに盗られてしまって、それに従うしか、もうないんだ。

「そうするしかないんだったら、そうするしかないわ。きっとあたしの人生は、そういうことばっかりだったのは、そういうことだったのね。ここで働いても、続かないし、結婚生活も楽しかったけど続かなかった。今だって、すきになった人を別の女性に盗られてしまったの。もう、そういうことばっかり。それはきっと、そうね。」

咲がそういうと、千花子はそうでしょ、という顔をした。

「人間、あまりにも非現実的なことに打ち込みすぎると、碌な人生を送れないのよ。そういうのに打ち込みすぎて、非業の死を迎えるよりも、安全な人生を送って、みんなに尊敬されて逝った方が、よほどいいのよ。それに気が付いたんだから、永久にあきらめなさい。」

もう、母に従うしかないのだろうが、咲はあと一回だけ、実行したいことがあった。

「ごめんなさい。東京にはすぐに帰るから、その前にやりたいことがあるの。それだけやらせてもらえないかしら。もちろん、お母さんのいうことは必ず守るわ。」

また、そんなことを言って、と、千花子は再び落胆の表情を見せた。

「そういうことじゃないわ。今までやってきたことに、決着をつけてお別れすることなの。ほら、やっぱり何もしないでお別れしてしまうのは、忍びないでしょう。無責任でもあるわけだし。ちゃんと、決着をつけてからにしたいのよ。それは悪いことではないでしょう?」

「ええ、そうしなさい。あんたが、そこらへんはやりなさい。そして、しっかりと正常な人生に戻れるように、処理しなさい。」

とりあえず、激励の言葉として、千花子はいった。もう、勝利したとか、偉かったとか、そういう誉め言葉は一切なく、ただ、、、当たり前のことを言っただけだと、思い込んでいた。

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