172・それでも欲しかったもの
「メイセル――母さんは本当に愛してくれていた。俺はあまり感情を表に出さない子供……というか赤ん坊だったけどな。
危険なところに行ったら叱ってくれたし、初めて言葉を喋った時は本当に喜んでくれていた。
それが……それが俺にはとても心地よくて、とても辛かった」
どこか遠くを見ながら、彼は語っていた。
赤ん坊の頃の記憶を。お母様の子供で、いっぱいの愛情を注いでもらっていた時の記憶を。
思い出を語る彼のその姿は、どことなく嬉しそうであり、どことなく寂しそうだった。
だからこそなおさらわからない。彼がそんな記憶を封じてまで私じゃなくなった理由が。
「そこまで大切そうに語るなら、なんで……」
「それは……」
一瞬顔を伏せてうつむいた彼は……今自分が見せられるであろう精一杯の笑顔を見せてくれた。
「それはお前にもすぐわかる事だ。お前は俺なんだからな」
「私もその時の記憶を思い出す……そういうこと?」
私の問いに正しく頷く彼の姿が薄らいで……私は記憶を取り戻す。
お父様、お母様のお名前。私が初めて行った漁港。
初めて会った魔人。猫人。人狼。
その全てが還ってくる。まるで一つになる時が来たとでも言うかのように。
――ああ、記憶が入ってくる。昔の私。
一緒に遊んだ、エルフ族によく似た女の子。でも彼女は違うと言っていた。
別れの間際、今度会えたらずっと一緒にいると約束した。遠い日の幼い指切り。
お母様が私の目の前で傷ついていく記憶。
決して声を上げてはならないというお母様の教えを忠実に守っていた幼い私。
そして……彼――ローランの記憶も。
思い出した。【
父も母もいない。育てられたのはお金と同情欲しさに引き受けた誰とも知らぬ他人。
まやかしのぬくもりは与えられても、本当の情愛を与えてもらってことはただの一度もありはしなかった。
悲しき勇者。虚ろの
世界を壊す神でさえ、違う神の力を借りて討滅した最強の男。そして……最後にはゴミを捨てるかのように捨てられ、人に裏切られて死んだ。
「流れてくる。貴方の記憶が」
「違う。お前の記憶だ」
彼は……ローランの残り滓はゆっくりとそれを否定した。もはやそれは彼の記憶ではないと。
私こそがティファリスであり、ローランであり……他ならぬ私自身なのであると。
彼の声音はそう言っているように聞こえた。
その間にも流れてくる。彼の絶望。彼の諦観……。そして、それでも切望したたった一つのこと。
ローランはそれだけの為に転生することを受け入れた。
――愛を知りたい。
本当の愛に触れたい。掛け値のない情愛を。
何かと引き換えではない優しさを。
無償に注がれる感情の在り処を。
生まれいでて終ぞ触れることのなかったそれを、ローランはその身が朽ち果てるその瞬間まで灼かれ、焦がれ、渇望していた。
だからこそ転生した。ほんの一瞬でもいい。たった一欠片でもいい。
そうしてローランは生まれた。ティファリスとして。
だけど……。
「そう、貴方が言っていた意味。感じた辛さ。今ならわかるわ。
貴方……嘘か本当かわからなくなったのね……」
「……」
そう、なぜ記憶を封じ込めたのか。
その答えは唯一つ。両親の愛情を心の奥底から感じていた彼は、同時に恐ろしくなってきたのだ。
そして気付いた。どうしようもない……救われない真実に。
彼が愛されたかったのはあくまで彼のまま……ありのままのローランの姿だったのだ。
だけど今のその姿は……ティファリスの姿ではまず叶わない。だって、本当のローランを知っているものはこの世にいないのだから。
その事に気付いたから……彼らが目を向けていたのはあくまでティファリスであって、ローランではなかったと理解してしまったから……ローランは自らの力と記憶を封じて、新しい人格に全てを譲ったのだ。
ほんのひととき胸に宿した、確かなぬくもりをその胸に宿して。
「悲しい人ね」
「ふっ、人のことが言えるのか?」
体が雫となってこぼれ落ちていく……そんな表現がしっくり来るほど、薄くなったその体は少しずつその身を削っていき、私の記憶はそれに応じて戻ってくる。
空いた隙間を少しずつ埋めていくかのように。
これ以上、私と
彼から聞きたいこと、知りたいことは全て、私の方に流れ込んでくるのだから。
だから、私が口にしたのは……感謝の言葉だった。
「ありがとう。今まで居てくれて。
貴方のおかげで今の私があるわ」
「ティファリス……」
彼が私を守る為に記憶を預かってくれたから、そのまま少しずつ壊れないように思い出を戻してくれたから……こうして今の私はある。
だから、最大限の感謝を。
「やっぱり、貴方は私ね」
「……いいや」
ゆっくりと
そこには、彼の今までが詰まっているような……そんな気がした。
「
――彼は、それだけを残して去っていった。
もう私の中には誰もいない。私だけ。
だけど、ローランも、ティファリスも……
だから、今はもう全てが思い出せる。
私の大切な思い出達。苦しいことも、悲しいことも……私は多分、ずっとこれを背負って生きていくのだろう。
誰よりも愛されたいと願って、ようやく得た
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