魔王の嫁は思い出に決別を。


 ……今回は絶対にセスティの手を離さないと決めていたのに。


 今儂の横には誰もいない。


 そもそも儂は……何をしていたんじゃったか。


 確かに誰かと戦おうとしていた所だった筈じゃが……。


 セスティ……?


 酷く胸に響く名前で、その言葉を思い出すだけで胸の奥が熱くなるというのに……それが一体誰の名前だったのかが思い出せぬ。


「ヒルダ様、こんな所でどうされたのであるか?」


 背後から声をかけられ、そちらに振り返ると……。


「なんじゃライオン丸か」


「なんじゃとは酷い言い草なのである。今頃本来なら魔法の修行をしている時間だったと記憶しているのであるが?」


「うるさいのう……儂はもう一通り習得済みじゃ。魔王軍内に儂より魔法に長けた奴はおるまいよ」


 父上の具合が悪くなってからというもの毎日のように修行修行……儂は元々魔法に関しては生まれながらの才があったらしく、どのような魔法でもすぐに習得出来た。


 足りない物があるとするならば実戦くらいの物よ。


「しかし、どれだけヒルダ様が魔法に優れていようとそれを魔王軍内に知らしめる為には日々の努力を見せるのが一番なのである」


 それが面倒じゃというのに……。

 そもそも何故儂がもう魔王を引き継ぐ事が決定しているような発言をするのじゃ……。


 まだ父上がいるじゃろうが。


「ライゴスの言う通りだぞヒルダよ」


「ち、父上!? こんな所にどうされたのじゃ! 休んでいなければダメじゃろう!?」


「ふむ……それがなぁ、実は以前より人間との和平を進めていたのだが、今日人間達との会合があったので無理を押して王都まで出かけて来たところよ」


 なんと……? あの父上が、人間と和平?

 人間を目の敵にして、見かけた人間は全て殺せと皆に言っていたあの父上が?


「ヒルダ様は知らなかったのであるか? もう何回か魔王様と人間の王とは話し合いの場を設けていたのである」


「し、しかし……和平はいいとしてそんな身体で無理をしては……!」


 平和な世界を作るための犠牲、など到底許容できぬ。


「それがなぁ……儂が病気だと知った人間共が特別な力を持った人間を用意してくれてな」



「な、なんと! それではもしや……」


 ライオン丸がうっすら目に涙を溜めて喜ぶ。

 いや、そんな都合のいい話が……。


「確かに儂も半信半疑であったのだが……おそろしい人間も居るものよ。少し診てもらっただけで驚くほど簡単に病巣その物を消し去ってくれたわ」


 ……えっ? それは、もしかして……。


「父上は、病気が治ったという事じゃろうか……?」


「はっはっは! その通りだ。これは人間に感謝せねばならんな。これからは平和な世界の為に尽力しようぞ。その為にもヒルダよ、お前にも協力してほしい」


 願ったり叶ったりとはこの事であろう。

 儂は常々人間と争う事自体虚しく感じておった。

 出来る事なら争わずにすむ世界になってほしいと……。

 きっと儂が魔王になったら、積極的に争う事はしなくなるじゃろう。急な方針転換に儂を疎ましく思う者も多く出て来るはずじゃ。

 儂はとにかくそれが憂鬱で仕方なかった。


 しかし、父上ならば。

 父上の決めた事ならば反対するような輩はおるまい。


「父上、人間との和平……儂は嬉しいのじゃ。こんな儂にも出来る事があるのであればなんでもするのじゃ。少しでも力になりたいのじゃ!」


「ふふっ、そうかそうか! まったくこいつは……可愛い奴め!」


 そう言って父上は儂の両脇を持って顔の位置まで持ち上げ、頬ずりをしてきた。


 口の周りに生えているもさもさした髭がほっぺたをくすぐる。


 まさかこんな日が来ようとは……。


 人間との和平、それと父上の快復……今日は、なんと素晴らしい日か。


「なんだ、ヒルダよ泣いているのか?」


「泣きたくもなるのじゃ……平和な世界に父上と共にこれからも生きていける以上の幸せがある訳なかろう」


「はっはっは! 嬉しい事を言ってくれる。我が娘ながら純粋に育ってくれて嬉しいぞ! ゆくゆくは人間の夫をとり、両軍の橋渡しとなってくれれば更にこの世の平和は盤石になるだろう!」


 ……人間の夫……?

 儂が、結婚……?


 何故じゃろう。とても胸が苦しい。


「どうしたヒルダよ」


「魔王様が結婚の話などするから怖がってしまったのである」


「ライゴスの言う事も一理ある。いやいやヒルダよ、そんなのはもっとずっと先の話だから今から怖がる必要などないぞ? それに、勿論ヒルダの目に適うような相手でなければ儂が認めぬよ」


「う、うむ……」


 違う。そうではないのじゃ。

 そうでは……。


「どうした……? まさか、ヒルダよ、まさか既に想い人でも居るのか?」


 想い人。


 あぁ、そうじゃ。想い人……。


「父上……すまないのじゃ……」


「どうして泣くのだ!? 何か悲しい事でもあったか?」


「そんな、そんな事はないのじゃ。儂は人間との和平も、父上の快復も心から嬉しいのじゃ。人間との結婚だって……」


「ではなぜ泣くのだ……?」


 あぁ、こんなにも、こんなにも幸せじゃというのに……儂はここには居られぬ。


「父上、儂は……とても、とても大切な人の事を思い出してしまったのじゃ」


「ほ、ほう……やはり、既に想い人がいたのだな? いったいそいつは何処の誰だ?」


「……人間じゃよ」


「なんだと!?」


 父上はいつ人間と接触したのかと慌て出した。



「ふふっ、あははっ」


「わ、笑いごとではないぞ!」


「大丈夫じゃよ。そいつはちょっと変わっておるが、とてもいい人間じゃ。しかも儂をとても大事にしてくれるのじゃ。それに……魔物との和平も……」


「ほう、なかなか見どころのある奴みたいだな。是非会ってみたいものだ」


 ……泣いてはいけない。そう思っても、儂は我慢できずに涙を流し続けた。


「あ奴はここにはおらん。しかし、儂はあ奴と……セスティとの未来が何よりも大事なのじゃ。だから……だから……ここには、居られぬ」


 儂はとうとう我慢できなくなりその場に崩れ落ちてしまった。

 地面には大粒の涙がぼたぼたと落ち、ライオン丸はどうしていいか分からずにうろたえる。



 しかし、父上は……。


「ヒルダよ、お前が何を悩んでいるのか分からぬ。ここに居られないという言葉の意味も分からぬ。だがな……本当に、それが何よりも自分にとって大事な事だと胸を張って言えるのであれば、儂は止めないよ」


 そう言って大きな手で儂の頭を撫でてくれた。



「ありがとう……なのじゃ。儂は、父上の娘として生まれてきて本当によかった。大好きじゃよ」


 儂の言葉にを聞いた父上は、生前一度も見せた事がないような、とても優しい微笑みをくれた。


 儂は、儂は行かねばならぬ。セスティの待つ儂の居場所へ。


「父上、最後のお願いがあるのじゃ……強く、抱きしめてくれんかのう……」


「ああ、いいとも」


 父上がその巨体で、優しく儂の身体を包み込むように抱きしめてくれた。


 しかしその感覚は儂に伝わる事なく、すぅっと父上の姿は消えていく。


 明るくなっていく視界に、最後の最後……うっすらとじゃが、再び父上の優しい笑顔が映った。


「さらばじゃ、父上。願わくば……儂らを見守っていておくれ」

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