制御装置を外せ
本日の報告書を書き終えたティムは、壮年の看守へ提出すると、刑務所を後にした。異様に高い壁沿いを、足早に進んでいく。
普段のティムならば、刑務所内の建物の屋上に佇む人影を気にして、恐る恐る見上げている所だろう。しかし、今のティムの頭には、人影の手に握られた望遠鏡も、何とも言えぬ物々しさも入ってこない。会釈だけして、さっさと通り過ぎていった。
露天通りで、葡萄ジュースと目に付いた食べ物を全て購入し、オズウェルのアパートへと向かう。
扉の前で、ティムは大きく深呼吸をする。
それから、右の人差し指を立て、爪の先で慎重にノックをした。
「あ、あああ、あの、オ、オズウェルさん。ティムです。あの、その……こ、こんばんは」
上擦った声に、返事をしてくれる者はいない。
「あの、俺、あの、ぶ、葡萄ジュース、持ってきました。食べ物も、色々と、買ってきて、だ、だから、あの、よ、良かったら、一緒に、た、食べませんか?」
けれど、何の反応も返ってこない。
ティムは、扉の横にある窓から、中の様子を窺ってみる。
カーテンの隙間からは、薄暗さしか感じない。誰かがいる気配も、物音もしない。
まだ帰ってきていないのか。ティムは、残念とも安堵とも取れる息を吐く。
葡萄ジュースと、大量の食べ物が入った紙袋を抱え直し、辺りを見回した。ひょろりと細い男の姿は、ない。
どうしよう。この場でオズウェルの帰りを待つか、それとも出直すか。
ティムは考えながらも、徐々に後ろへ下がっていた。ラヴの助言通りやってきてはみたものの、気まずさは未だ拭い切れていない。
結局、帰る事にした。
オズウェルがいなかった事と、あの場に留まっては不審者と間違われてしまうだろうと、自分に言い訳をして。
「はぁ……」
とぼとぼと歩きながら、ティムは意気地のない自分が情けなくなった。折角アパートまで行ったのに、オズウェルが不在なのをこれ幸いと逃げてしまうだなんて。
あの場に留まって、オズウェルの帰りを待てば良かったんだ。それが無理なら、せめて買ってきた葡萄ジュースに伝言を残して、玄関先に置いておけば良かった。そうすれば、少しはティムの気持ちが伝わったかもしれないのに。
……やはり、戻ろうか。ティムは、徐に立ち止まる。
戻って、オズウェルの家の前に、葡萄ジュースと食べ物の詰まった紙袋を置いて、伝言を添えて。
そうしている内に、もしかしたら、オズウェルが帰ってくるかもしれない。
ティムが買ってきたものを見て、一緒に食べようと、いつものように部屋へ招いてくれるかもしれない。
でも、と、ティムは、ゆっくり下を向いた。
物事は、ティムの理想通りには中々進んでくれない。
もしかしたら、また怒られるかもしれない。
無視されるかもしれない。
二度と一緒にいたくないと、はっきり言われてしまうかもしれない。
今まで、ずっとそうだった。
息苦しさを覚える胸元を、ティムはそっと撫でた。昔の記憶が蘇る度、痛みが走る。気分も悪くなってきて、顔から徐々に色が失せていく。
そんなティムの耳へ、独特の噴射音が、飛び込んできた。
欄干の外。日の暮れた景色の奥に、ランプの光に照らされたセント・リンデン駅が、小さく見える。
発車した蒸気機関車の影も、見えた。先頭車両に取り付けられた煙突から、白い煙が立ち上る。
いつの間にか、煉瓦造りの橋の上まできていたらしい。
ティムは、静かに橋の欄干へと近寄る。
線路の上を力強く走る機関車を、じっと見つめた。
「……よし」
やはり、戻ろう。ティムは、唇を噛み締めた。
こうして悩んでいる位なら、やってしまおう。そしてティムの気持ちを、少しでもオズウェルに知って貰おう。
怖いけれど、でも。
ティムは、両手を胸の前で組んだ。空を見上げ、神へ祈りを捧げる。
どうか自分に、勇気をお与え下さい。どうか自分に、幸運をお与え下さい。
唇の先で呟き、ティムは一つ深呼吸をした。やってくる蒸気機関車を見据えてから、オズウェルのアパートがある方角へ、足を踏み出す。
瞬間。
靴の裏から、ベチャリ、と粘着質な音が上がる。
欄干のすぐ下に、誰かの嘔吐物が撒き散らされている。
消化途中の黄色い物体に、ティムの顔が引き攣る。欄干に張り付くようにして、二・三歩下がった。汚れてしまった靴を見下ろし、眉を下げる。
その時。
「……ん?」
視界の端を、何かが掠めた。
ティムは、何の気なしに欄干の隙間から、橋の下を覗く。
途端、目を見開いた。
線路の上に、男が仰向けに倒れている。
男の傍には、鞄が転がっていた。
ズレた眼鏡の奥では、瞼が固く閉ざされている。
「オ……オオオ、オズ、オズウェルさん……っ!?」
会いたかった姿目掛け、ティムは叫ぶ。
しかし、オズウェルは反応しない。ひょろりと細い体を、線路に横たえるだけ。
つと、汽笛の音が鳴った。
蒸気機関車が、音を立てて、迫る。
「ッ、オ、オズウェルさんっ。オズウェルさんっ、起きて下さいっ。機関車が、きますっ。危ないですよっ。オズウェルさんっ! そこから、の、退いて下さいっ!」
けれど、オズウェルは動いてくれない。
人一倍大きなティムの体が、震える。
同時に、ティムの立つ橋も、蒸気機関車の接近により、徐々に揺れ始めた。
「お、おーいっ! おぉーいっ! 止まって下さいっ! 人がいますっ! 今すぐ、止まって下さいっ! お願いですっ! 止まって、下さぁーいっ!」
ティムは腕を大きく振り回した。その拍子に、葡萄ジュースと食べ物入り紙袋を放り投げてしまったが、気にする余裕などない。
必死で声を張り上げ、飛び跳ね、先頭車両にいる筈の車掌へ呼び掛ける。
そんなティムの声を、汽笛は打ち消していく。
速度の緩む気配のない蒸気機関車に、ティムの焦りは募る。
辺りを見回すも、助けてくれそうな人間はいない。
橋の上からオズウェルを移動させられるだけの長い棒もない。
ならばと線路内へ下りられそうな場所を探すも、見つからない。
そうこうしている間にも、橋の揺れは大きくなっていく。
「っ、お、お願いですっ! お願い、ですから、止まって、下さいっ! お願いですっ! 人が、倒れて、いるんですっ! このままではっ、ぶ、ぶつかって、しまいます……っ!」
線路に横たわるオズウェルの体も、振動で小刻みに揺れている。
ティムも、全身を震わせた。
「お、お願いですっ、止まって……っ、止まって下さい……っ。お願い、でずがらぁ……っ!」
欄干にしがみ付き、限界まで体をのめらせ、言葉になっていない声で、叫ぶ。
「オズウェルざんが、じんでじまいまず、がらぁ……っ!」
それでも、機関車は止まってくれない。
ティムが愛し、焦がれてきた姿で、堂々と進んでいく。
「オ、オズウェルざん、オズウェルざぁん……っ」
涙を滴らせ、ティムは縋るようにオズウェルを呼ぶ。頼むから起きてくれと何度も願う。
しかし、応えてくれる者はいない。
目の前の光景は、何も変わってくれない。
緊張と恐怖で、ティムの呼吸は乱れる。体の震えも激しくなり、それでも欄干に齧り付いて、懸命にオズウェルの名を紡ぐ。
車掌へ停止を求める。
両手を組み、心から祈った。
誰でもいい。
誰でもいいから。
どうか、助けて。
思い付く限りの人間の名前を呼ぶ。
ティムの頭の中に、故郷にいる家族の優しい笑顔が浮かんだ。
クリフォードの厳しい顔が浮かんだ。
看守達の真面目な顔が浮かんだ。
ラヴの美しい微笑みが、浮んだ。
瞬間。ティムは、思い出す。
いつか、ラヴの言っていた言葉を。
「……っ、ぐうぅ……っ」
ティムは、倒れてしまいそうな体を橋に凭れさせながら、左へ移動した。
荒い息を飲み込んで、足を上げる。ふらりとよろめく体をどうにか支え、欄干によじ登った。
呼吸がどんどん速くなる。手足も冷たくなっていき、歯と歯が何度もぶつかり合う。
すぐそこまで迫った蒸気機関車を、見下ろした。ひ、と喉が引き攣り、恐怖が一気に押し寄せてきた。
怖い。逃げ出したい。
でも。
ティムは歯を食い縛り、立ち上がった。震える膝を手で支え、走る鉄の塊を睨む。
心臓が、かつてない動きをしている。呼吸も早くなっていく。
涙と鼻水と涎を垂らしたまま、ティムは、蒸気機関車から目を逸らさない。
蒸気機関車とオズウェルの距離は、後十数メートルの所まで近付いている。
まだだ。
立ち上る煙の臭いが、ティムの鼻を掠めた。
まだ。
橋の振動はいよいよ強くなり、機関車の稼働音も入り乱れる。
後、もう少し。
線路に横たわるオズウェルを飲み込まんと、蒸気機関車は走った。
咆哮をあげるように、汽笛の音が、鳴り響く。
今だ。
ティムは、痙攣する肺を、無理矢理膨らませた。
限界まで息を吸い込み、そして。
「っ、だあぁぁぁぁぁぁぁぁーっ!」
勢い良く、欄干を蹴る。
ティムの体が、宙を舞った。
蒸気機関車の先頭車両へ向かって、斜め左上から、落ちていく。
自分は落石だと言い聞かせ、ティムは頑丈な身を固くして、顔を両腕で庇った。
そして、一層雄叫びを上げる。
体の制御装置を外す為に。
心の制御装置も、外す為に。
接触は、一瞬だった。
凄まじい衝突音が、辺りに轟き渡る。
ティムの巨体は弾き飛ばされ、トンネルの壁へと叩き付けられた。
地面へ落ち、それでも勢いは殺せず、転がっていく。
線路や壁にぶつかりながら、漸く止まった頃には、ティムは指一本も動かせなくなっていた。
「……っ、が、あ、ぁ……っ!」
全身を、体感した事のない苦痛と熱が駆け廻る。身を固くしただけで痛みが走り、息をするだけで涙が溢れ出す。
それでも、ティムは、必死で目をこじ開けた。
蒸気機関車は、橋の手前で止まっていた。先頭車両の一部がへこんでおり、線路から脱線している。右の車輪を浮かせて、左側の壁へ凭れ掛かるように傾いていた。
その浮いた車輪の下から覗く、人の顔。
オズウェルの顔は、真っ青だった。
薄っすらと赤黒く腫れた口元は嘔吐物で汚れ、眼鏡は完全に線路へズリ落ちていた。
瞼は、未だ固く閉じられている。
あれだけの轟音を間近で聞いたにも関わらず、目覚めていない。
「オ、ウェウ、ぁ、ん……オズ、ェル、ざ……っ」
苦痛と熱に、恐怖が入り混じる。
ティムは、地面に顔を擦り付けたまま、願う。
「だぇ、かぁ……たひゅ、けて……オズ、ェウさ、を……っ」
右手を痙攣させ、何度も、何度も。
「か、神、さ、ぁ……っ」
ティムの嗚咽が、辺りに小さく響いた。
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