ティムを待っていたのは
次の日。
ティムは言われた通り、二時間遅くアパートを出た。
いつもと違う時間帯なせいか、人や馬車の通行量が多い気がした。ティムは道の端に寄り、行き交う者達とぶつからないよう、気を付けながら歩を進める。
ラヴは、無事推理を終えたのだろうか。昨日、刑務所を出てから、ティムはずっと気になっていた。
ティムが助手として働くようになってから、このように日を跨ぐ事など、ただの一度もなかった。毎回すぐさま犯人を特定するか、ある程度目星を付けた状態で推理を語り、クリフォードにいくつかの指示を出していた。
なのに今回は、少し時間を貰いたい、とはっきり告げたのだ。
あの聡明で、記憶力の優れたラヴが言うのだから、恐らく相当難解な事件なのだろう。
自分が心配した所でどうにもならないとは、分かっている。それでも、ティムの胸には不安が募った。クリフォードの様子も可笑しかったし、もしラヴが、二日で犯人を特定出来なかったら、そう考えると、眉が勝手に下がってくる。
かと言って、一体自分に何が出来るというのか。
頭は悪いし要領も悪い。体を使う内容ならば、どうにかなるかもしれないが、それにも制限がある。第一、この事件が難解かどうかも分かっていない人間に、手伝える事などあるのだろうか。
助手とは名ばかりだ。ティムは常々思っていた。
迷惑ばかり掛けている割に、役に立てた覚えはない。話し相手という仕事さえも、満足にこなせていない。
こんな自分が助手で、果たしていいのだろうか。
情けなさや申し訳なさに苛まれ、ティムは大きな背中を丸め、徐々に俯いていく。
と、不意に、足元が小さく揺れ始めた。
次いで、汽笛の音が鳴り響く。
ティムは顔を上げる。いつの間にか、煉瓦造りの橋の上までやってきていた。
セント・リンデン駅の方から、緩やかな弧を描いて伸びる線路の上を、蒸気機関車が駆けていく。
煙を上げながら近付いてくる機関車に、ティムの視線と足は惹き寄せられた。橋の途中で立ち止まり、足元へ吸い込まれていく大きな車体を、じっと眺める。
反対側へ通り抜けていった蒸気機関車は、徐々に速度を上げて遠ざかっていく。比例して、橋の揺れも納まってきた。
空へ煙で描かれた線を、ティムはぼんやりと眺める。
「――今日は、いい天気だね」
突然、すぐ横から声が聞こえてきた。
ティムは驚いて、人一倍大きな体を跳ねさせる。
そして、目をこれでもかと、見開いた。
いつの間にか、ティムの隣に、美しい女が立っていた。橋の欄干へ寄り掛かり、白い線が引かれた空を見上げている。
長く艶やかな髪と、簡素なワンピースの裾が、そよ風に靡いた。軽く目を伏せ、それから、ふと、微笑みを浮かべる。
そんな馬鹿な。ティムは唇を戦慄かせた。
彼女は、この場にいる筈がない。外に出られる筈がない。
けれど、ティムの口からは、あり得ない筈の名前が、零れ落ちた。
「…………ラ……ラヴ、さん……?」
ささやかな呟きは、すぐさま周りの賑わいにかき消された。
しかし、目の前の女には、届いたらしい。
頬が緩み、口角が、緩やかに持ち上がる。
「やぁ、こんにちは、ティム。きちんと二時間後にきてくれたんだね。嬉しいよ」
ふふ、と喉を鳴らし、女――ラヴは、揺れる髪を耳へと掛けた。
途端、ティムが仰け反る。
目を白黒させては、辺りを見回す。
「え、な、え? な、何故、ラヴさんが、ここに……っ?」
もしかして、クリフォードが連れてきたのだろうか、とも考えたが、それらしい人物はどこにも見当たらない。
「なに。少々散歩へ行きたくなってね」
「さ、散歩?」
「そう。人間、行き詰った時は、気分転換に出歩いたりするだろう? あれだよ」
という事は、もしや昨日の事件が、まだ解決していないという事なのか。ティムの胸に、つと不安が過ぎった。
けれど、すぐに思い直す。
それよりも、重要な事があるだろう、と。
「あ、あの、ラ、ラヴさん」
「ん? 何だい?」
「ラヴさんは、そ、その……ど、どうやって、あの場から、抜け出して、きたんです、か……?」
特別監房は、厳重に施錠されている。例え扉を開けたとしても、その先では、複数の看守が常時監視している。刑務所の周りには高い壁があり、その上には槍状の柵が張り巡らされていた。脱獄なんて、どだい無理な話だ。
けれど、現にラヴはここにいる。
一体どんな手を使ったのだろうか。
「それは秘密さ」
ラヴは、微笑み一つで受け流す。
「言ったが最後、もう二度と同じ手が使えなくなってしまうからね。それは私も困るんだ。だから、秘密さ」
ふふ、と喉を鳴らし、弧を描く赤い唇へ、指を立ててみせた。
「まぁ、何でもいいじゃないか。それよりも、ほら、行くぞ」
「え? い、行くって、どこへ」
「決まっているだろう」
ラヴが、肩越しに振り返る。
「事件が起きた、バージンにだよ」
「ラ、ラヴさん。やっぱり、か、帰りましょう? 帰った方が、いいです」
もう何度目ともなる言葉を、ティムはラヴの背中へ投げ掛ける。
ラヴも、何度となく、同じ言葉を繰り返した。
「そう急ぐ事はない。折角の天気だ。もう少し散歩を楽しもうじゃないか」
足取り軽く住宅街を進むラヴに、ティムは眉を下げた。どうにか歩みを止めさせたいが、直接触るのは、怪我をさせてしまいそうで怖くて出来ない。ならばとラヴの前に立ち塞がってみるも、流れる水の如く簡単にかわされてしまった。
「で、ですが、こんな事を、しては、とても、不味いです。ジャッジ班長に、きっと、怒られます」
「怒られるだろうね。もしかしたら、既に私の不在に気付き、凄まじい形相で包囲網を張り巡らせているかもしれない」
「わ、分かって、いるのなら」
「まぁ、だからと言って、私が散歩を止める理由にはならないね」
ふふ、と喉を鳴らし、ラヴは左へ曲がる。翻った長い髪を、ティムは慌てて追い掛けた。
「あぁ、ここだ」
唐突に、淀みない足取りが止まった。
ラヴの視線の先には、小さな公園がある。低い柵で囲まれた空間には、色褪せた遊具がささやかに設置されていた。脇には、ベンチが二つ並べられている。
公園の入口で、ラヴは辺りを見回す。
すると、ベンチで視線を止めた。
口角を持ち上げ、ゆっくりと近付いていく。
「やぁ、こんにちは」
ベンチへ座り、裏を覗き込んだ。
そこには、小さな男の子がしゃがんでいた。
「そんな所で、何をしているんだい?」
男の子は、大きな目を瞬かせる。それから、地面を指差した。
「あぁ、蟻を見ていたのか。沢山いるね」
ベンチの下にある巣穴から、蟻が忙しなく出入りしている。ベンチや男の子の周りを歩いては、小さな触覚や顎を動かした。
「この蟻は、クロオオアリだね。この地域ではよく見られる種類だ。
知っているかい? 蟻は原則として、産卵行動を行う少数の女王蟻と、育児や食料の調達などを行う多数の働き蟻が、大きな群れを作る社会性昆虫なんだ。その種類は一万以上と言われており、ものによっては食用となる蟻もいる。
反対に、針や毒を持つ種類もある。そういった特徴がなくとも、蟻の顎は強靭だ。噛み付かれたら間違いなく痛い思いをするので、安易に触らない方がいいだろう」
ラヴの言葉に、男の子はまた目を瞬かせる。
「まぁ、つまりは、この蟻は仕事中なので、邪魔せず見守ってやってくれ、という事だ。
ほら、見てごらん。蛾の死骸を、仲間と協力して運んでいるだろう? 自分よりも遥かに大きなものを運ぶとは、とても力持ちだな」
「……もっとすごいの」
「ん? もっと凄いのかい?」
「うん。まえにね、もっともっとおっきいむしを、みんなでやっつけてたの」
「おや。蛾よりもっともっと大きな虫を、蟻達はやっつけていたのかい?」
「うん。ピータね、みたの」
「へぇ、そうなのかい。凄い力持ちだねぇ」
男の子は、うん、と頭を上下させると、小首を傾げた。
「おねーさん、だぁれ?」
「私かい? 私は、魔法使いさ」
男の子の口が、ポカンと開く。
「信じられないかい? でも本当さ。その証拠に、今から君の名前を言い当ててみせよう」
ラヴは、男の子へ手をかざす。目を細め、しばし口を閉ざした。
「……ピーター・チャイルズ君、だね。パパはロデリックで、ママはエルマだ」
「……すごい。あってる」
目を真ん丸に見開く男の子――ピーターに、ラヴは微笑んだ。
「もう一つ、私が魔法使いだという証拠をお見せしよう。
ほら、見てごらん。あそこにいるのが、私の使い魔だ」
ラヴは、徐にティムへ手を差し向けた。
ティムは驚きに肩を跳ねさせる。
「名前はティムと言ってね。一見人間のように見えるが、実はゴーレムという泥人形なんだ。私が作り、命を吹き込んだんだよ。
ティム、こちらへおいで」
手招きされ、ティムはおずおずとやってきた。ピーターから送られてくる視線が、どうにも居た堪れない。
「ほら、とても大きいだろう? それにとても固い。触ってごらん」
ラヴに促され、ピーターはそっとティムへ近付いた。体を後ろへ仰け反らせ、人一倍大きなティムを見上げる。それから、太く逞しい足へ手を伸ばした。
「……ほんとだ。かたい」
ピーターの目に、驚きと輝きが帯びる。ティムを一周し、更にはベンチへ登って、筋肉の詰まった体を触っていく。
ティムは、困ったようにラヴを見た。しかし、ラヴは微笑むばかりで何も言わない。
「ねぇ、ゴーレム」
「え、あ、は、はい。何、でしょう?」
「ゴーレムは、つよいの?」
「ゴ、ゴーレムは……強く、ありません」
「……つよくないの?」
「は、はい。ゴーレムは、体が、大きいだけで、強くは、ありません。臆病者、なのです。誰かを、傷付ける事も、何かを、壊す事も、怖くて、出来ません」
その答えに、ラヴは、ふふ、と喉を鳴らす。
「ティムは、優しいんだよ。自分の強過ぎる力で他人を傷付けないか、いつも怯えている。自分から触る事もしないんだ。だから、君から沢山触ってあげてくれたまえ。ティムはもう少し、人との接触を増やした方がいい」
そう言って、ピーターを抱え上げた。
「というわけで、ティム。しゃがんでくれ」
身を屈めたティムの肩へ、首を跨ぐようにしてピーターの体を乗せる。
「落ちないよう、しっかりと頭を掴んでいるんだよ。ティム。立ってくれ」
「は、はぁ……」
ティムは、慎重に体を起こした。
どんどん高くなる視界に、ピーターは感激の声を上げる。
「どうだい、高いだろう?」
「うんっ。すごいたかいっ」
「そうだろう。なんせ彼は、私の使い魔だからねぇ。少し歩かせてみようか」
ティムへ視線を流す。
ティムは、ピーターを落とさないよう、ゆっくりと足を踏み出した。
ピーターの顔は一層華やぎ、前のめりで辺りを見渡す。
そんなピーターを見上げ、ラヴは微笑みを浮かべた。
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