暴行刺殺事件
「彼は相変わらず、思い込みが激しいようだね」
鉄格子の奥で、ラヴは、ふふ、と喉を鳴らす。
「それに、非常に面白い考え方の持ち主だ。万年筆の先端に親近感を覚えるとはね。子供がぬいぐるみを友達として扱うのと、同じようなものだろうか? それとも、その豊か過ぎる想像力からくる一種の幻視なのか?
酔っ払いの戯言という線も捨て切れないが、彼の場合はプラシーボ効果からくる擬似的な酩酊なので、当て嵌まるかは些か疑問だな。ティムはどう思う?」
「さ、さぁ。どう、でしょうか」
ティムは、自分用の椅子へ座り、困ったように首を傾げた。
「まぁ、何にせよ、非常に興味深い事に変わりはないな。特に、ティムが蒸気機関車に勝てると納得してしまう辺りなど、どういう流れでそうなったのか、是非とも詳しく聞いてみたいものだ」
「あ、で、では、そう伝えて、おきます」
「頼むよ。ついでに、何故痛いと分かっているにも関わらず、ティムを叩き続けたのかも、聞いておいてくれたまえ」
ティムは大きな体を縮め、首を上下させた。
「それで、ティム。実際の所はどうなんだい?」
「じ、実際の、所? と、言いますと……」
「君は、本当に蒸気機関車に勝てるのかい?」
え、とティムは、目と口を丸く開いた。
そんな反応が微笑ましいとばかりに、ラヴの笑みが深まる。
「い、いいえ、いいえ、そんな、勝てません。無理です」
「何故?」
「だ、だって、人間が、あんなに大きな、乗り物に、勝てるわけが、ありません」
「勝負した事があるのかい?」
「それは、あ、ありません、けど……で、でも、しなくとも、分かります。俺よりも、ずっとずっと、大きいですし、速いですし、固いです。ぶつかったら、きっと俺が、負けます」
「そうかな。やろうと思えば、出来なくはないと思うがね」
ラヴは足を組み、机へ乗せた肘で頬杖を付く。
「蒸気機関車は金属で出来ている分、確かに固いと言えるかもしれない。大きさも、全長約二十メートル、幅約三メートル、高さ約四メートルと、人間を遥かに凌ぐ。
だが速さに関しては、ティムが思っている程ではない。最高時速こそ百キロと言われているが、あくまで構造上出せるというだけで、通常は安全を考慮して十キロ前後での走行となる。これは、人間が軽く走った時とほぼ同じ速度だ。そう考えると、左程早いとは思えないだろう?
それに、固く大きいからと言って、だから強い、というわけでもない。まぁ、それはティム自身が一番よく分かっているだろう。
君は周りの人間よりも大きく、体も頑丈だが、だからと言って、クリフォードよりも強いかと聞かれたら、どうだい?」
ティムは、即座に首を横へ振った。
「そうだね。クリフォードの方が小さく、体も脆弱だが、彼には技術と経験と覚悟がある。どうしたら自分よりも大きく、固く、身体的に優れた人間を倒せるのか。彼はその技術を学び、経験から精度を高め、必ずややり切ってみせるという覚悟を常に持っている。
この覚悟というのが大切でね。人間、気の持ちようで何かと変わるものなんだ。
いつぞやに話をした、体や心の制御装置を外す、という言葉を覚えているかな? あれもこの一つさ。強い気持ちが、己の体を限界まで高め、心の枷を取り除く。それによって、信じられない出来事が起こる場合もある。良い意味でも、悪い意味でも」
ふと、ラヴは口角を持ち上げた。
「まぁ、だからと言って、そう簡単に蒸気機関車を人間が倒せるかと言われたら、そんな事はないのだがね。
しかし、やりようによっては、可能性は無きにしも非ずだ。
先程も言ったが、固く大きいからと言って、だから強い、という事にはならない。何故なら、固く大きいからこそ、小回りが利かず、バランスを崩しやすい。
今回の場合、このバランスを崩しやすいという点に注目したい。
どんなに重いものでも、バランスさえ崩してしまえば、たやすく横転させる事が出来る。
だが同時に、このバランスを崩すというのがくせ者でね。
蒸気機関車の総重量は、およそ七十トンと言われている。そんな途方もない重さのものを、どうしたら倒せるのか?
狙うとするならば、先頭の車両。
更に言えば、その先端にある、煙突や煙室ドアの部分だ。
この部分へ、右もしくは左斜め上から強い衝撃を与える。そうすると、その衝撃により片方の車輪が浮き、車体が反対側へ傾く。後はそのまま倒れてくれれば有難いし、仮に倒れなくとも、脱線する可能性が高い。
蒸気機関車は線路から外れ、どこか別の方向へ走っていくか、近くの壁や金網などにぶつかって止まるか、それは分からないが、まぁ兎に角、この方法ならば、蒸気機関車に勝つ事は可能なのかもしれない」
と、徐にラヴは肩を竦ませる。
「だが、しかし。この強い衝撃というのも、中々のくせ者でねぇ。七十トンもの代物が、強い衝撃と感じるものとは、一体なんなのかという話なんだよ。
まぁ、理想としては、落石が一番なのではないかと思うのだがね。しかし今回は、人間が蒸気機関車に勝つ、という前提で話を進めているだろう? だから、道具を使うのは如何なものかと思うのだよ。なので、この身一つでどうにかしなければならない。
一体どうすれば。そう考えた時、私はもう、蒸気機関車の右もしくは左斜め上方向から、勢い良く落下してくる、という方法しか浮かばなかったよ。いや、落下というより、飛び掛かると言った方がいいかな。そうして自身の体を落石代わりにして、蒸気機関車へ突っ込んでいく。
落ちる速度が速ければ速い程、接触した際の威力が増す。
体重も、出来るだけ重い方がより衝撃が強くなるから、何かしら抱えていた方がいいだろうね。
後は、大声を上げて、体の制御装置も緩めておこうか。脳を興奮状態にすれば、制御装置の作用も鈍くなる。そうすれば、普段使っていない筋肉を使う事が出来、結果、より勢い良く蒸気機関車に飛び掛かれるのではないだろうか。
ついでに心の制御装置も外れれば、恐怖が一時的に麻痺し、迷いや躊躇が少なく行動出来るかもしれない。
ここまですれば、まぁ、蒸気機関車に勝てる可能性は、ゼロではないんじゃないかな」
ふふ、と喉を鳴らし、ラヴはティムを振り返った。
ティムは、ポカンと間の抜けた顔で、座っている。
「あぁ、すまない。少し難しかったね。
要は、蒸気機関車の先頭車両目掛け、叫び声を上げつつ重しを抱え、右斜め上か左斜め上から全力で飛び掛かれば、バランスを崩して倒す事が出来るかもしれないよ、という事さ」
簡単に纏められ、漸く理解出来たティムは、大きく首を動かした。
「但し、命の保障はないけれどね」
最後に付け加えられた一言に、顔を引き攣らせる。
「どう考えても、やっている事はただの自殺行為だろう。命の保障はないどころか、助かる見込みの方が少ない」
と、ラヴは、意味ありげな視線をティムへ流す。
「まぁ、馬に蹴られて打ち身で済むような人間なら、話は別かもしれないがね」
ティムは身を仰け反らせ、必死で首を横へ振った。
その真っ青な顔と乱れた髪に、ラヴの微笑みは楽しげに深まる。
「失礼する」
すると、特別監房の入口から、クリフォードが現れた。立ち上がって頭を下げるティムへ、頷いてみせる。
「やぁ、こんにちは、クリフォード。なんだか久しぶりな気がするよ。調子はどうだい?」
その問いを、クリフォードはいつものように無視した。抱えていた分厚い封筒から、事件資料を取り出す。
それを見て、ティムはクリフォードの元へ向かった。資料を受け取り、『会社員暴行刺殺事件』と書かれた表紙を見下ろす。
「リトル」
つと、クリフォードが鋭い視線を向けた。
「不調を感じたら、すぐに申し出るように」
「え、あ、はい。分かりました」
何故そのような事を言うのだろう、とティムは内心首を傾げる。
だが、すぐに気付いた。
つまりこの資料の中には、ティムが不調を感じるような内容が入っていると、そういう事なのだ。
凄惨な事件なのだろうか。それとも、残忍な事件なのだろうか。
ティムは喉を大きく動かし、唾を飲み込んだ。恐る恐る、表紙を捲る。
「じ、事件は、二か月前。バージンの、住宅街に、ある、チャイルズ一家の、自宅で、起こりました。
被害者は、この家に住む、ロデリック・チャイルズ、五十二歳。職業は、バージンにある、大手、建設会社、グッディ社の、社員です。
ロデリックは、事件当日の、昼過ぎに、自宅へ、侵入した、何者かに、よって、拘束され、殺されたものと、思われます。
第一発見者は、ロデリックの妻、エルマ・チャイルズ、二十八歳。
エルマは、夕方頃、夫の、同僚の、妻達との、集まりから、帰ってくると、手足を縛られ、口を塞がれた、状態で、蹲っている、ロデリックを、発見しました。
首には、犬用の、首輪と、散歩紐が、付けられており、紐の先は、壁のフックに、引っ掛けられて、いました。ズボンと、下着は、下ろされ、お尻が、剥き出しでした。
現場に、残されていた、物差しで、殴られた痕が、全身にあり、と、特に、背中と、お尻に、沢山、残っています。
同じく、現場に、残されていた、ナイフで、切られた痕も、全身に、あります……こ、こちらは、二の腕、腹、太もも、など、に……しゅ、集中、していた、そ、です……」
ティムの顔が、みるみる内に青くなっていく。唇も色が変わり、震えて動きがぎこちなくなっていった。
「大丈夫かい、ティム? 無理はしない事だ。クリフォードも言っていたが、不調を感じたのなら、早めに主張した方がいい」
「は、はい……あの、でも、へ、平気です。俺、出来ます。大丈夫です」
ラヴに言い、それから、クリフォードを振り返る。どうかこのまま続けさせて欲しい、という気持ちを込めて、じっと見つめる。
クリフォードは、音もなく目を細めた。鋭い眼差しを一層鋭くさせ、ティムを見据える。
数拍見つめ合った後、徐にクリフォードは腕を組んだ。
何も言わず、顎をしゃくる。
ティムはホッと胸を撫で下ろし、クリフォードへ頭を下げた。
未だ不快感の残る胸元へ握った拳を当て、大きく深呼吸をした。
「し、死因は、首を、ナイフで、切られた事に、よる、出血死。恐らく、犯人は、ロデリックを、拘束した後、嬲るように、痛め付けてから、最後に、首を、かき切ったものと、思われます。
また、ロデリックは、当時、酒に、酔っていました。よって、抵抗らしい、抵抗も、出来ず、犯人に、弄ばれた、ものと、みられます」
クリフォードが、徐に封筒から数枚の写真を取り出す。鉄格子の隙間から、ラヴの傍に置かれた机の上へと投げ込む。
ラヴは写真を一瞥し、笑みを深めた。
「白昼、堂々と、行われた、この事件は、犯人と、思われる、人間の、目撃情報が、一切、出てきません、でした。
と、いうのも、チャイルズ家では、怒鳴り声や、何かが、倒れる音、などが、度々、上がっていた、そうです。
『子供の躾で、少し、声を、荒げてしまった、だけだ』、と、ロデリックは、説明していた、ようです、が、近隣の、住民は、ロデリックが、妻子に、暴力を、振るっている、と、思っていた、そうです。
ですが、これと言った、証拠もなく、また、以前、一度だけ、警察が、介入、した事が、あるようです、が、妻の、エルマと、息子の、ピーター・チャイルズ、五歳は、一か月程、保護施設で、過ごした後は、問題ない、として、家へ、戻された、そうです。
そういう事も、あり、例え、不審な音が、したとしても、住民達は、左程、気に止めなかった、そうです。
事件の、手掛かりとなる、情報はなく、また、現場に、犯人特定に、繋がる証拠も、見つかりません、でした。
このままでは、犯人逮捕に、至らないかも、しれない、という、危機感を、感じた為、ラヴさんへ、捜査依頼を、する事と、なりました。以上、です」
ほぅ、と息を吐き、ティムは顔を上げた。
ラヴは目が合うと、ゆったり微笑み掛ける。
「ありがとう、ティム。では、いつものように質問をしていきたいのだが、いいかな?」
「は、はい。どうぞ」
「ありがとう。ではまず、この事件の容疑者は、いるのかな?」
「容疑者、とまでは、いきませんが、怪しいと、思われる、人物は、います。被害者の、妻の、エルマです。
彼女に、事情聴取を、した所、やはり、ロデリックから、日常的に、暴力を、振るわれていた、そうです。動機は、十分、あります。
けれど、事件当日、彼女は、ロデリックの、同僚の、妻達と、会食をし、その後も、会話を、楽しんで、いました。犯行は、不可能です」
「けれど、別の人物に殺人の依頼をする事は、出来るのではないか?」
「その線で、警察も、捜査しました。ですが、そもそも、犯行当時、チャイルズ家、周辺で、怪しい人物、を、目撃した、という証言が、ないので、何とも、言えません。
エルマが、誰かに、殺人を、依頼したような、痕跡も、今の所、見つかっては、いません」
「では、ロデリックに恨みを持つ人物は?」
「そちらも、見つかって、いません。
ロデリックは、会社では、人格者として、非常に、尊敬されて、いました。なので、今回の、事件を聞いて、同僚達は、とても、驚いています」
「会社以外では?」
「近隣の、住民、以外からは、概ね、好印象の、ようです。悪い噂も、特に、ありません」
「では、ロデリックには、こういったプレイを楽しむ趣味が、密かにあったのかな?」
ラヴは、拘束されたまま四つん這いで蹲るロデリックの写真を、指で突いた。
しかし、ティムは不思議そうに目を瞬かせる。
こういった? と、手元の資料を捲った。
「……被害者に、そういった趣味があったとは、確認されていない」
クリフォードは、眉間に皺を寄せて口を開く。
「ほぅ、そうかい。だが、こういった性癖は、普通隠すものだろう。実は、密かに嗜んでいた、などという事はないのかい?」
「例えあったとしても、それと事件と何の関係がある。そういった嗜好が行き過ぎた結果だとでも言いたいのか」
「全くないとは言い切れないと思うがね。
なんせ被害者の写真を見る限り、相当嬲られているだろう? しかも手足の縛り方も、簡単には抜けないようなやり方をされている。そして、ロデリックが死なない程度に加減しつつ、長時間甚振り、最後には頸動脈を的確に切り裂いて、あっさりと止めを刺した。恨みというよりは、遊んでいる印象が強いんだ。こういった事に手慣れているようにも見受けられる。
だから、ああいった遊戯のなれの果て、という可能性も、無きにしも非ずかなと、私は考えたわけだよ」
肩を竦め、ラヴは微笑む。
「あぁ。因みに彼の尻は、未使用だったのかな?」
クリフォードの眉が、僅かに反応する。
「……何故そのような事を聞く」
「クリフォードは、ロデリックの尻が何故丸出しになっていたのか、疑問に思わなかったのかい? あの状況で尻を出す必要がある事と言ったら、そういった行為が行われたかもしれないと思い付いても、可笑しくはないじゃないか」
平然と微笑むラヴに、クリフォードは顔を顰めた。鋭い眼光で睨み付け、それから、顔を逸らす。
「……そういった痕跡は、残されていなかった。だが、全くなかったと断言出来るわけではない」
「つまり、そういった液体や拡張された後は残されていなかったが、そういったものがなくとも、そういった行為がされた可能性はあるので、何とも言えない、という事かな?」
クリフォードは、溜め息に乗せて肯定する。
「成程ねぇ」
ふふ、と喉を鳴らし、ラヴは至極楽しげにクリフォードを眺めた。
クリフォードは、決してラヴを見ようとしない。眉間に皺を寄せ、険しい顔で腕を組んでいる。
そんな二人を、ティムは一人状況の掴めていない顔で、見比べている。
「あぁ、すまないねティム。放っておいてしまって」
「あ、いえ、それは、大丈夫です、けど……」
しかし、こういったというのは、結局どういった事だったのだろうか。
二人の話を聞いていても、ティムにはよく分からなかった。かと言って、どういう意味なのか、聞ける雰囲気ではない。ラヴからの解説も、特にないようだ。
どうしよう。何とも言えぬ空気の中、ティムの眉は徐々に下がっていった。
「さてと。では、質問を再開しようか」
しかし、ラヴは気にせず手を叩き、口角を持ち上げる。
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