第4章
ストーカー宅で夕食を
「――おい、聞いているのか、デカブツ?」
ティムは、慌てて顔を上げた。夢中で頬張っていたポテトオムレツを、一気に飲み込む。
「は、はい。聞いていました、オズウェルさん」
目の前で、片眉を持ち上げるオズウェルに、大きく頷いてみせた。
その返事に、オズウェルは更に眉を顰める。
「本当か? 適当に話を合わせているんじゃないだろうな?」
「い、いえ。本当に、聞いていました。ラヴ、レスさん、との、出会いは、正に、運命だった、の、ですよね?」
上半身を丸め、上目で恐る恐るオズウェルを窺う。
するとオズウェルは、ふんと鼻を鳴らし、機嫌良く大きな眼鏡を持ち上げた。
「その通り。なんだ、ちゃんと聞いていたんだな。僕はてっきり、食事に気を取られて、半分も聞いていないのかと思ったよ」
ティムは、肩を跳ねさせた。目を泳がせ、皿ごと抱え込んでいたポテトオムレツを、フォークの先端で突く。
「す、すいません。あの、このオムレツが、とても、美味しくて、だから、つい……」
折角ご馳走になっているにも関わらず、冒頭しか聞いていませんでした、と心の中で続け、ティムは身を固くした。
しかし、ティムの予想に反して、オズウェルは怒り出さなかった。
代わりに口角を持ち上げ、ワイングラスに入った紫色の液体を揺らす。
「ふふん。まぁ、お前が僕お手製のポテトオムレツに心奪われてしまうのも、致し方ないか。なんせそれは、いつか彼女に食べて貰おうと、彼女の為に練習した料理の一つだからな。味は勿論、香り、食感、更には栄養価もばっちりだ」
ご機嫌に喉を鳴らし、オズウェルはグラスを傾ける。中の液体が唇へ吸い込まれ、ほぅ、と息が吐き出された。同時に、ほんのりと赤く染まった頬も、揺るまる。
因みにグラスの中身は、葡萄ジュースである。
何故オズウェルは、毎回葡萄ジュースを、わざわざワイングラスで飲むのだろう。何故毎回、酔っぱらったようになるのだろう。
ティムは顎を動かしつつ、内心首を傾げる。
ティムも何度か飲ませて貰ったが、何度飲んでもジュースだった。酒の類ではない。
もし酒ならば、ティムはたちまち酔っ払い、力の制御が出来なくなってしまう筈だ。けれど、オズウェルと食事を共にするようになってから、ただの一度もそのような事態には陥っていない。様々な店へ連れて行って貰っては、美味しい食べ物をご馳走になっている。
最近では、オズウェルの部屋で、手料理を振る舞われる事もあった。机の上へ所狭しと並べられた料理は、どれもこれもがティムの舌を喜ばせ、手が止まらなくなる。
結果、こうして度々オズウェルの話を聞き逃してしまうのだ。
「――だが彼女は、酒を飲まなければ、と苦しみ、追い詰められた僕へ、こう言ってくれたんだ。『では、オズウェル君。私が一つ、診断書を書こうではないか。君は体質上、酒の類は控えるべきだとね。そちらを上司へ見せたまえ。そうすれば、君は晴れて酒から解放されるのさ』、とね。
神々しささえ覚える微笑みと包容力で、傷付いた僕の心を癒してくれたんだ。
それからというもの、あんなに辛かった仕事も、遣り甲斐を感じるようになった。飲み会で酒を飲む必要もなくなったし、無理しなくなった分、職場の人間関係も円滑になった。
毎日彼女に感謝したよ。そして、毎日彼女の事を想った。恋だと自覚するのに、時間は掛からなかったね。
彼女の全てを知りたくて、彼女の全てを見たくて、僕は毎朝彼女を迎えに行った。勤務先の病院まで送り、帰りも出来るだけ会いたくて、仕事を定時で切り上げられるよう、工夫するようになった。お陰で周りからの評価も右肩上がりさ。
仕事も順風満帆で、私生活も充実している。あぁ、なんて素晴らしい日々なんだ。人生をこれ程楽しいと思った事はないよ」
自身のひょろりと細い体を抱き締め、オズウェルは恍惚とした表情を浮かべた。
ティムは何度も頷き、ついでに頬へ詰め込んだポテトオムレツを咀嚼する。
「あぁ、そうだ。ちょっと待っていろ」
オズウェルは徐に立ち上がると、千鳥足で隣の部屋へ向かった。扉を開け、中に入る。
扉の隙間から覗く部屋の壁には、ラヴの写真が、大量に張り付けられていた。
どれもラヴの視線は、別方向を向いている。
他にも、女性ものの白衣や、走り書きされたメモ、壊れた髪留めなども、丁寧に飾られていた。棚には大量の本が並べられており、ほぼ同じ量の日記も詰め込まれている。
日記の背表紙には『彼女との思い出日記』と書かれており、ティムが確認した限りでは、全百三十四巻で構成された壮大な物語で、現在も更新されているようであった。他にもよく分からない機材や道具など、様々なものが見える。
こういう所を見る度、オズウェルはラヴのストーカーなのだなと、ティムは改めて認識した。
普段も食事をご馳走になる度、代償としてラヴの話を提供してはいるのだが、ティムの感覚としては、仕事中にあった出来事をただ語っているだけ。オズウェルも、恋する乙女の如き顔で聞いているだけなので、特に危ないと感じた事もない。
だが、こうしてストーカー行為の片鱗を間の当たりにしてしまうと、自分がしている事は、果たして大丈夫なのだろうか。もしかして、取り返しのつかない事をしているのではないだろうか、と心配になった。
『別に構わないよ。オズウェル君に知られて困るような事は、何もないからね。寧ろ、私の話題でティムに友達が出来るのなら、これ程嬉しい事はないさ』
ふふ、と喉を鳴らし、ラヴは打ち明けたティムへ、いつもと変わらぬ微笑みを向けた。
本人がそう言うなら、という気持ちと、それでもやって良い事と悪い事はあるのではないか、という気持ちが、ティムの中で膨らんでいく。
『なに、難しく考える必要はないさ。君は出されたものを美味しく食べ、警察の守秘義務に反しない程度に会話を楽しめばいい。それだけの話だよ』
そう、なのだろうか。ティムは、フォークを咥えたまま、唸り声を上げる。
すると、喉だけでなく、腹も唸りを上げた。
机には、オズウェルお手製の料理が、まだまだ残っている。
……取り敢えず、頂こう。
込み上げた涎を飲み、ティムは熱々のラザニアを引き寄せた。はふはふと口を動かしながら、夢中で舌鼓を打つ。
「おい、これを見てみろ」
オズウェルが戻ってきた。白い手袋を嵌めた掌の上へ、銀色の小さな五角形の物体を乗せている。
「んぐ。な、何ですか、これは?」
「万年筆の先端だよ」
万年筆の先端? とティムは首を傾げ、口に付いたミートソースを舐め取った。
「万年筆の先端は、実は消耗品なんだ。使っている内に先が潰れ、書き心地や文字の美しさに影響が出てくる。ほら、この先の部分が削れているだろう? だから何年か使ったら、交換する必要があるんだ。
そしてこれは、彼女がカルテを書く際愛用していた万年筆に嵌め込まれていたもの。僕が彼女と出会う前から、彼女の為に日々己の体を削り、せっせと働いていたんだ。そう考えると、とても他人とは思えないだろう? 最早同志、いや、兄弟のようなものさ」
どこかうっとりとした眼差しで、オズウェルは万年筆の先端を優しく撫でる。
ティムは相槌を打ち、内心また首を傾げた。
何故オズウェルは、ラヴの持ち物だったものを、毎回肉親のように扱うのだろう。何故毎回手袋を付けて触るのだろう、と。
まぁ、何にせよ。オズウェルが楽しそうだから、いいか。そう結論付け、ティムは生き生きと喋るオズウェルを眺めながら、ラザニアを頬張った。
「――けれど、こいつとの出会いは、同時に悲しみの始まりでもあったんだ」
と、オズウェルの顔へ、突如影が落ちる。
「なんせ、こいつが彼女の元を離れた翌日、彼女は警察に連行されてしまったんだからな」
痛ましげに顔を歪め、眼鏡を持ち上げた
「彼女が行った事は、確かに犯罪かもしれない。だがな、それによって救われた人間は大勢いるんだ。僕はこの数年、彼女をずっと見守ってきた。
彼女は、己の為に罪を犯した事は一度もない。全ては患者の為だ。苦しむ患者を助ける為に、彼女は己の頭脳を駆使し、事故や自然死に見せ掛ける策を授けた。それを警察が、殺人教唆と名付けた。
だが、果たして彼女がした事は、本当に殺人教唆だったのだろうか。僕はそうは思わない。繰り返すが、彼女はただ、自分の患者を助けようとしただけなんだ。
彼女は素晴らしい人間だ。彼女程患者の事を考え、親身になって寄り添ってくれる医者は他にいない。彼女の帰りを待っている患者は大勢いるし、彼女の逮捕に納得していない人間も大勢いる。
だから僕は、いつの日か、必ずや彼女を助け出してみせる。今まで助けて貰った恩を返してみせるっ。
彼女を、青空の下へ解き放つんだっ。この手でなっ」
拳を握り締め、オズウェルは高々と宣言する。その頬は、一層赤みを増していた。
あまりの勢いに、ティムの口から食べ掛けのラザニアが落ちる。慌てて受け止め、フォークごと押し込んだ。
これは、不味いかもしれない。ティムは眉を下げた。
オズウェルは、時折こうしてラヴについて熱く語り、彼女の逮捕を嘆き、そして、警察の、特にクリフォードの悪口を、これでもかと言うのだ。
オズウェルにとっては、ラヴを捕まえた憎き相手なのかもしれない。けれどティムにとっては、尊敬すべき上司だ。悪く言われるのは気分のいいものではない。
だが、ティムがクリフォードを庇うと、途端にオズウェルの機嫌は悪くなる。葡萄ジュース片手に、酔っ払いの如き顔で怒るのだ。そんな事態は、出来れば避けたい。
「あ、あの、オズウェルさん」
だからティムは、突き上げられたオズウェルの拳とは反対の手を、おずおずと指差した。
「その……そ、その、万年筆の、先端は、と、とても、素敵です、ね」
オズウェルの動きが、止まった。
「普通のものより、ピカピカと、輝いている、ような、気が、します。形も、とても、綺麗です。何と言うか、こう……と、とても、素敵です。とても、とても」
拙い語彙で、どうにか万年筆の先端を褒める。
徐に、オズウェルが動き出した。
ゆっくりとティムを振り返り、そして。
「――そうだろうっ! そうだろうともっ!」
満面の笑みを、浮かべた。
「輝いて見えるのも当然さっ。なんせ彼女が選んだものだからねっ。形が綺麗なのも当然っ。彼女は、一つのものを長く大切に使うんだっ。手入れも定期的にしていてねっ。職人顔負けの手付きでこなしてしまうのさっ。
彼女に出来ない事はないんだよっ。素敵なんてものじゃないっ。素晴らしいっ。いやっ、こんな言葉で彼女を表現なんて出来ないっ。言葉で表せない程素晴らしいっ。そんな彼女の姿がっ、この万年筆の先端に現れているのさっ」
そう言って、白い手袋の上へ乗せた万年筆の先端を、天へと掲げた。輝かんばかりの眼差しに、ティムはホッと胸を撫で下ろす。
そして、止まらないラヴへの賛辞に頷きつつ、ビーフシチューを頬張った。
「――つまりっ、彼女はもう、存在自体が素晴らしいという事だっ。その尊さは、最早神と言っても過言ではないだろうっ」
「んぐ、という事は、ラヴ、レスさん、は、女神様、という事、ですか?」
「その通りっ。ふふっ。お前、デカブツの癖に中々分かっているじゃないかっ」
オズウェルは、上機嫌にティムの背中を叩いた。
直後、悲鳴を上げて、その場に崩れ落ちる。
けれど、万年筆の先端だけは頭上に掲げ、断固死守した。
「ぐぅっ、お、お前っ。痛いじゃないかっ。危うく万年筆の先端を落とす所だったぞっ」
「あ、す、すいません」
「謝るなよっ。僕がいつ謝れなんて言ったっ。これしきの事で怒るような、器の小さい男じゃないぞ僕はっ」
「あ、は、はい。すいません」
「だからっ、謝るなって言っているだろうがっ」
オズウェルは、またしてもティムの背中を叩く。
「ふぐあぁぁぁっ。く、くそっ。何でこんなに固いんだこの鋼鉄野郎っ。いくら筋骨隆々だからと言っても、普通はもう少し弾力のあるものじゃないのかっ。このっ」
あがぁぁぁっ、とオズウェルの悲鳴がまた上がる。
けれど、何故かまた腕を振り上げる。
「あ、あの、オズウェルさん。止めて下さい」
「何でだっ。痛いのかっ」
「い、いえ、そういうわけでは、ありませんが、その、と、とても、痛そうです」
「あぁそうかよっ。僕も痛いよっ」
ならば、早々に止めて貰いたい。
ティムは、痛くも痒くもない衝撃と、聞いているだけで胸が痛くなってくるオズウェルの声に、情けなく眉を下げた。
「本当っ、何なんだこの体はっ。こんなに叩いているのにっ、全然っ、効いていないっ。一体何でっ、出来ているんだっ。このっ。固過ぎなんだよっ。どうしたら痛がるんだっ。そもそもお前っ、痛いと思った事あるのかっ」
「え、えっと、あります。ずっと昔に、馬車馬に、蹴り飛ばされた、時に」
「はぁっ!? 馬車馬に蹴り飛ばされたっ!? そんな事があったのかっ!」
「は、はい。走っている、馬車の前へ、誤って、飛び出してしまい、そのまま、パコーン、と」
「け、怪我はっ?」
「しました。生まれて初めて、打ち身、というものを」
「打ち身ぃっ!? え、お前、馬に蹴られて、打ち身なのか? ほ、他には?」
「他には、えっと、特には」
「特にはぁっ!?」
オズウェルは、盛大に仰け反る。
「お前、それは、やり過ぎだろう。馬に蹴られてほぼ無傷とか、お前、それは、やり過ぎだ」
「はぁ……」
やり過ぎだ、と言われても、実際にそうだったのだから、ティムもこれ以上言う事はない。
「そうか……なら、お前に怪我を負わせるには、蒸気機関車でぶつかる位やらないと駄目なのかもしれないな。いや、機関車でさえ、通用するかどうか怪しい。逆に跳ね返してしまうかもしれない」
オズウェルは、叩いていたティムの背中をまじまじと眺め、それから、痛みの広がる己の手を見下ろした。
「成程。蒸気機関車に勝つ程固いのならば、僕の攻撃が利かないのも致し方ない」
「え? い、いえ、流石に、蒸気機関車は」
「そうか……機関車に勝ってしまうのか……どうりで手が痛いわけだ。物凄く、こう、はは、痛いなこれ。本当に。はははっ」
突然笑い出したオズウェルは、またティムの背中を叩き始める。今度は手首だけを揺らし、全く力を込めていない。
反対の手では、万年筆の先端とワイングラスを持ち変える。葡萄ジュースを煽り、また声を上げて笑った。
その様子は、どう見ても酔っ払いだ。
これがラヴの言っていた、雰囲気に酔う、という奴だろうか。
ティムは、多少の誤解はあるようだが、取り敢えずオズウェルの攻撃が止んでよかった、と胸を撫で下ろした。
そして、オズウェルの話に相槌を打ちながら、バナナブレッドへ手を伸ばした。
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