ティムの想い


 夕暮れ時の道を、ティムは足取り重く歩いた。人一倍大きな体を丸め、ぼんやりと地面を眺める。だが、意識は全く別の場所へと向いていた。


 つと、辺りに汽笛の音が響き渡る。


 緩慢に頭を上げれば、蒸気機関車が、緩やかな弧を描きながらやってきた。ティムの立つ煉瓦造りの橋の下を潜り、反対側へ抜けていく。


 立ち上る煙が、夕暮れの空にゆっくりと滲む。

 白と橙の入り混じる美しい景色を、ティムはじっと見つめた。



 と、不意に、背中へ衝撃が走る。




「はぐぅっ」




 ほぼ同時に、何かの倒れる音が上がった。



 振り返れば、ティムよりも少し年上の男が、すぐ傍に蹲っている。右の手首を掴み、小刻みに震えていた。



「お、お前ぇっ。一度ならず、二度までも僕を痛め付けやがってぇ……っ!」


 勢い良く顔を上げ、ティムを睨み付けるひょろりと細い男。大きな眼鏡の奥では、ほんのりと目に涙が浮かんでいる。


「全くっ。何でそんなに固いんだお前はっ。鉄かっ。鉄で出来ているのかっ。だからこんなに僕の手は痛いのかっ」


 眦をつり上げて、男は立ち上がる。痛めた手首を軽く振り、反対の手で懐をまさぐった。


「ほら」


 取り出したものを、ティムへと投げる。

 いつぞやに、ここでティムが貸したハンカチだ。


「約束通り、洗濯をしてから返しにきてやったぞ。ただ洗うだけではなく、特別にアイロンも掛けてやったからな。感謝しろよ」


 ふんと鼻を鳴らし、男はひ弱そうな体を、踏ん反り返らせた。


「さぁ、では早速見返りとして、彼女の話を聞かせて貰うとしようか。

 言っておくが、お前に拒否権はないからな。嘘偽りも許さない。素直に僕の言う事を聞いて、彼女について、お前の知っている限りの事を話すんだ」

「……彼女……」

「ラヴィニアの事だよ。ラヴィニア・ラヴレスについてに決まっているだろう」

「ラヴさん……」


 ティムは、ハンカチを見つめたまま、呆然と佇む。



 かと思えば、唐突に、目頭から涙を溢れさせた。



 ぎょっと目を見開く男。思わず後ろへ下がるも、ティムは気付かない。顔を歪め、鼻をぐずぐず鳴らしながら、泣き始めてしまった。


 大の男、それも人一倍巨大な男が、橋の途中で人目も憚らす涙を流す。そんな光景に、周りから好奇の目が向けられる。



 自ずと、共にいる男にも、視線が集まった。



「え、ちょ、いや、違います。僕は、何も……お、おいっ。お前、止めろよそういうのっ。こんな所で泣くんじゃないよっ」


 けれど、ティムの涙は止まらない。寧ろ嗚咽を吐き出して、余計に目立っている。


 男は、慌ててティムの手を掴んだ。踵を返し、ティムを連れて逃げるようにこの場から立ち去った。








 空の色が群青へと代わり、月も姿を現した。淡い光が、公園のベンチに座るティムと男へ降り注ぐ。


「――つまり、何故自殺なんかしてしまったのかと、お前は悲しくて仕方がなく、だから泣いてしまったのだと、そういう事か」


 ティムは、頭を上下させた。鼻を啜り、返して貰ったばかりのハンカチで顔を拭う。


 男は腕を組んだまま、顔を歪めた。それから、盛大に溜め息を吐く。


「そんなもの、お前が考えたってしょうがないだろう。

 誰が何をどうしようが、お前に口出しする権利はないし、止めたり責めたりする権利もない。正直、悲しむ権利だってないと僕は思うが、まぁ、お前がそうしたいなら、勝手に悲しめばいいじゃないか。僕のいない所でな」

「ぐず、す、すいません」

「全くだ。こんな風にお前の愚痴を聞かされるなんて、不愉快以外の何ものでもない。

 もしまた同じ事をしたら、次は怒るからな。こうして人目のない所へ連れてきてやらないし、話だって聞いてやらないからな。いいな?」


 ティムは、はい、と涙に濡れた声で、首を縦に動かした。



 静かな公園に、ティムの嗚咽が小さく響く。涙は後から後から湧き出て、ハンカチで拭う手が中々止まらない。



 男の眉間へ、徐々に力が籠っていく。足も頻りに揺らし、つま先で何度も地面を叩いた。


「……いい加減、泣き止めよ」

「う、す、すいません」

「なに謝っているんだよ馬鹿。謝るんじゃないよ。僕が苛めているみたいじゃないか」

「すい、ません。俺、苛められて、いないです」

「当たり前だ。僕がそんな真似をするわけないだろう」

「ぐず、はい」

「なにが、はい、だ。お前に僕の何が分かるんだ。適当に返事をするんじゃないよ」

「うぅ、す、すい、ぐず」

「だから、謝るなって言っているだろうが。いや、その前に泣き止めって言っただろう。何がそんなに悲しいんだよ。お前、その自殺した奴と知り合いなのか?」

「い、いえ、違います」

「なら、尚更泣いている意味が分からないな。お前、見知らぬ誰かが死ぬ度に、こうしてべそをかいているのか? そんなんでよく彼女の助手が務まるな」

「いえ。だ、誰かが死ぬ度、というわけでは、ありません」


 ティムは鼻をかみ、ハンカチを顔から離す。


「た、ただ、今回は、自殺で……残された、ご、ご家族の事を、想うと、どうしても、か、悲しくなって……っ」


 顔を歪め、ティムは声を震わせる。


「み、自らの意志で、死を選ぶ事は、神様が、禁じています。

 神様の、教えに反する、行いは、とても、罪深いです。い、いくら、家族を楽に、してあげる為、とは、言え、許される、事では、ありません。天国にも、い、行けなく、なります。


 ポーリーンさんは、きっと今、とても、辛いと、思います。

 もし、俺の父さんが、俺の為に、み、自ら、死を、選んだとしたら……っ。ぐ、うぅ……そ、そう、考えるだけで、こんなに、辛いのです。体験したら、もっと、もっと、辛いに、違いな、ふぐぅ……っ」


 ハンカチに顔を埋め、ティムは大きな体を丸めた。


「な、何故、自殺など、したのでしょうか。他の方法は、なかったの、でしょうか。

 皆さんが、少しでも、幸せになれる、そんな選択は、なかったの、でしょうか……っ」


 蹲るティムを一瞥し、男は顔を顰める。


「なかったから、自殺したんだろう。

 少なくとも、そいつらには他の方法は思い付かなかった。だから、こういう結果になっているんじゃないか。少し考えれば分かるだろう」

「っ、で、でも……っ」


「僕も、同じ立場になったら、多分同じ事をすると思うぞ」


 男はベンチの背に凭れ、眼鏡を持ち上げた。


「将来的に、彼女と、その、け、けけけ、結婚を、した、と、してだな。そうしたら僕は、きっと、毎日を幸せに過ごすだろう。彼女によく似た子供が生まれてからは、一層日々が輝かしく感じるに違いない。

 子供の将来を想像したり、思春期になったら嫌われるだろうかと悩んだり、そんな僕を彼女は慰めてくれたりして、そうして、騒がしくも温かい家庭を築いていくんだ。


 そんな幸せが、ある日突然崩れ去る。

 事故によって、僕は全身麻痺となる。

 彼女は借金を抱えながら、必死で働き、子供を育て、僕の世話をする。

 日に日にやつれていく彼女を、僕はただ見ているしか出来ない。それどころか、彼女を苦しめる足枷に成り下がるしかない。必死でリハビリをした所で、もうあの頃には戻れないんだ。


 確かに、残された家族は辛いだろうよ。でもな。残していった方だって、残していく前から辛かった筈だ。

 本当はずっと一緒にいたいし、子供の成長も見ていたい。でも自分の存在が、そんな未来を潰してしまうかもしれない。だったらもう死ぬしかないだろう」

「で、でも、自殺をしたら、天国には、行けません。死後の世界でも、愛する、ご家族とは、きっと、巡り会えない、でしょう」

「例えそうだとしても、やるんだよ。自分の事なんかどうだっていいんだ。僕は、彼女と、彼女との子供の幸せを、願うだけだ」


 照れ臭そうに、男は眼鏡を押し上げる。



「人を愛するとは、そういう事だろう」



 ティムは、何も言えなかった。


 男の言い分を、理解出来ないわけではない。

 家族の為、愛する人達の為に、自分の出来る事をしたい。未来を守ってあげたい。

 だからジェフは、家族を悲しませると分かっていても、自分の思い付く最良の選択をしたのかもしれない。

 ドナルドという、信頼出来る幼馴染に全てを託して。

 己の全てを投げ打って。

 愛する家族の幸せだけを願って。



 それでも、と、ティムは眉を下げる。




 それでも、生きて欲しかったと願う自分は、駄目な人間なのだろうか。




 ティムの目から、また涙が溢れ出す。

 ぐずぐずと鼻を啜る音が、断続的に落とされる。湿りに湿り切ったハンカチが、クタリと項垂れた。



「……はぁー」



 不意に、男が立ち上がる。

 むっと唇を突き出し、大きな眼鏡を指で持ち上げた。


「おい、デカブツ」


 しかし、ティムは動かない。


「おいっ」


 男は、項垂れるティムの頭を叩く。



 途端、呻き声を上げ、掌を押さえた。



 その場で軽く悶え、歯を食い縛る。


「頭もか……頭までも固いのかぁ……っ。くそぉっ」


 眦をつり上げ、未だ顔を上げないティムの手首を掴んだ。強引に引っ張り上げ――ようとしたが、しかし、あまりの体重差でびくともしない。


「ふぐぐぐぐぅ……っ。お、お前っ。固いだけじゃなく、重くもあるのかっ。くそっ、このデブめっ」


 飛び跳ねながら、男はティムを引く。

 顔を真っ赤にして唸る男に、ティムは、おずおずと顔を上げた。


「おいっ。なにボケーッとしているんだっ。さっさと立てっ。それで今度は僕に付き合うんだっ。今度こそ彼女の話をして貰うからなっ。ほら立てっ。立てよデカブツゥゥゥーッ」


 雄叫びを上げ、男は尚もティムを引っ張る。腕を小脇に抱えたり、肩に担いだりする男を、ティムはぼんやりと眺めた。

 鼻を一つ啜り、緩慢に立ち上がる。


「っぷはぁっ。よ、よーし。漸く立ったな。では、早速ついてこい。散々お前の愚痴に付き合ってやったんだ。泣き言も聞かされたし、迷惑もたっぷり掛けられた。これはもう、僕の気が済むまで償って貰うしかあるまい」


 ふんと鼻を鳴らし、男は歩き出した。


「いいか、絶対に嘘は吐くなよ。騙そうとも思うな。すぐに分かるからな。

 お前のやるべき事は、知っている彼女の情報を、包み隠さず僕に話す。それだけだ。どうだ、簡単だろう。これなら馬鹿なお前にだって出来る筈だ」


 男は公園を出て、どこかへと向かう。そのひょろりと細い背中を、ティムは腫れぼったい目で見下ろした。


「……ずず、あの」

「うん? 何だよ」


「あなたは、オズウェル・エアハートさん、ですか?」



 すると男は、唐突に立ち止まる。

 肩越しに振り返り、ティムを睨み上げた。



「……何で僕の名前を知っているんだ」



 あぁ、やはりそうなのか。ティムは鼻を啜って、内心頷いた。


「あなたの話を、ラヴさんにしたら、恐らく、オズウェル・エアハートさん、だろう、と、おっしゃって、いたので」


 ついでに、いつもの微笑みを浮かべたまま、自分のストーカーだとも。



「そ……そそそ、そうかっ。か、彼女が、僕の事を……っ」



 男――オズウェルの顔が、一気に赤くなる。眼鏡の奥で、盛大に目が泳いだ。


「ごほんっ。そ、その通りだ。僕の名前は、オズウェル・エアハート。呼ぶ際は、エアハートではなく、オズウェルと呼べ。彼女が褒めてくれた大切な名前だからな。

 通常は彼女にのみ呼ぶ事を許しているが、今回は特別に、お前にも許可してやる。喜ぶんだな」


 口をにやけさせながら、オズウェルは何度も眼鏡を持ち上げる。


「あっ、だがなっ。彼女をラヴさんなどと愛称で呼ぶのは許さないぞ。僕の前では、ラヴレスと呼べ。前回もそう言った筈だ」

「ぐず、すいません」


 素直に頭を下げるティム。

 オズウェルは、むっと唇をひん曲げた。


「……まぁ、今の僕は機嫌がいいからな。特別に許してやろう。だが、次はないぞ。分かったな?」

「あい」

「よし、聞きわけのいい奴は嫌いじゃないぞ。ふふ、僕は今、本当に気分がいい。よってお前に褒美として、食事の一つでも奢ってやろう。行くぞ」


 オズウェルは、止めていた足を踏み出す。


「え、いや、そんな、悪いです」

「いいんだよ。丁度行きたい店があったんだ。でも僕は小食だから、色んな種類を食べられない。だからお前に残飯処理をさせるだけさ」

「で、でも、俺、とても沢山、食べるので」

「煩いな。つべこべ言っていないで、ほら、さっさとついてこい」


 オズウェルは、掴んだティムの腕を引っ張った。決して強い力ではない。だからこそ、ティムには抵抗出来なかった。下手に腕を動かして、オズウェルを吹き飛ばしたり、怪我をさせたりするのが怖かったのだ。


 これは、もう諦めるべきなのだろうか。ティムは、静かに眉を下げた。



『まぁ、いいじゃないか。一度位ご馳走になっておいで。彼も悪い人間ではない。話せば案外気が合うかもしれないよ』



 不意に、ラヴの言葉を思い出す。言われた時は、正直複雑な気分だった。


 だが、まぁ、オズウェルも、もしかしたら悪い人ではないのかもしれない。何だかんだ言いつつも、自分の話に付き合ってくれた。ラヴ曰く、紳士的なストーカーなようだし、大丈夫、な、気が、しなくも、ない、ような……。



 ティムは、さり気なく握った拳を、自分の胸へ押し付ける。

 無事に帰れるよう、神に祈りを捧げながら、薄暗い道を進んでいった。


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