第3章
驚愕の事実
セント・リンデン刑務所内の一室で、ティムは本日の業務報告書を書いていた。
と言っても、内容は左程大層なものではない。特別監房を訪れてから、ラヴとどういうやり取りをしたのかを、箇条書きしていくだけだ。
自分の身体能力を調べた事と、家族の話をした事を綴り、ティムは徐に手を止めた。報告書を上から読み直し、誤字脱字がないか確認する。
「あの、出来ました」
待機していた若い看守へ、報告書を持っていく。
看守は内容へ目を通してから、頷いた。
「はい、結構です。お疲れ様でした」
若い看守は微笑み、ティムを玄関まで連れていく。門の前で頭を下げると、人一倍大きな背中を見送った。
鞄を肩へ掛け直し、ティムは異様に高い壁沿いを歩いていく。ふと見上げれば、夕暮れ時の空が広がっている。
橙色の中に佇む人影も、見えた。
刑務所内の建物の屋上では、本日も看守の誰かが、望遠鏡片手に辺りを監視している。
大事な仕事だと理解はしているが、この物々しさがどうにもティムは慣れなかった。眉を下げ、会釈のついでにさり気なく顔を逸らす。
刑務所の周りは閑散としているが、セント・リンデン駅へ近付くごとに、活気や賑わいが辺りに漂った。
特に露天通りは、昼と様変わりしている。仕事終わりの男達の為に、酒やつまみが売り出されていた。ランプの明かりが、上機嫌に笑う酔っ払いを照らしている。
露天通りを抜け、駅の改札も通り過ぎる。線路に沿って進みながら、ティムは走る蒸気機関車を眺めた。
金網越しに見える真っ黒い車体は、何度見てもティムの心を躍らせる。夕日を浴びて力強く動く姿は、恰好いいとしか表現出来なかった。
と、ティムの腕に、軽い衝撃が走る。
「あ、す、すいません」
いつの間にか、歩みを止めていたらしい。後ろからきた男とぶつかってしまった。
ティムは頭を下げ、一歩足を踏み出す。けれど視線は、また蒸気機関車へと向けられた。
そう言えば、以前石炭積みの仕事をしていた時も、よく蒸気機関車に見惚れては、ボーっとするな、と怒られたな。
煙突から立ち上る煙と臭いに、そんな事を思い出した。あの頃から成長しない自分に、情けなさが込み上げてくる。
見るならせめて、誰かの邪魔にならない所でしよう。
ティムは顔を前へ戻し、足早に線路沿いを進んでいった。緩やかな坂を登り、十字路を右へ曲がる。
そのまましばし歩いていくと、煉瓦造りの橋が見えてきた。橋の中程で止まり、欄干越しに外へ顔を出す。
橋の下は、トンネルになっていた。その中へ線路が伸びている。
丁度やってきた蒸気機関車が、緩やかな弧を描きながら近付いてきた。ガタンゴトン、という音に合わせて、橋全体が揺れ始める。
段々と振動は大きくなり、機関車の稼働音も大きくなった。そうして迫る機関車は煙を上げて、ティムの足元へ吸い込まれる。
ティムは、すぐに反対側の欄干へと向かう。覗き込めば、十メートル程下から蒸気機関車の煙突が出てきた。汽笛を鳴らし、次の駅へ向かっていく。
夕日に向かって走る機関車を橋の上から見るのが、ティムは好きだった。暇な時は、何時間でも眺めていられた。
子供の頃、ティムは車掌になりたかった。
蒸気機関車を運転して、世界中を回るんだ。そんな未来を夢見ていた。
けれど、夢は夢であった。
強過ぎる力を持つ身では、車掌どころか普通の仕事さえままならない。
ティムは、欄干へ手を乗せたまま、俯いた。眉を下げ、背中を丸め、重く苦しい感情に胸を潰されていく。
でも、と、唐突に顔を上げた。
夢は叶わなかったが、今は警察の一員として、立派に働けている。上司のクリフォードは厳しいが良い人だし、看守達も親切で、自分を怖がらず普通に接してくれる。
ラヴも、少々独特な人物だが、いつも笑顔で、ティムという人間を受け入れてくれた。博識で、沢山の事を教えてくれる。間違いなく、今までで一番過ごしやすく、仕事のしやすい職場だ。
……まぁ、仕事と言える程、何かしているわけでもないのだけれど。
ティムの眉が、また下がった。しかしすぐさま首を横へ振り、鼻から息を吸い込む。
大丈夫。これからだ。これから助手として、少しずつ仕事をこなしていくんだ。
初日こそ吐き気を催したものの、以降はどうにかその場に留まる事が出来ている。先日など、資料を読む役目も果たせた。確実に成長している筈だ。ラヴにだって褒められたではないか。
大丈夫。大丈夫だ。ティムは自ずと手を組み、胸元へ押し付けた。空を見上げ、心の中で神への祈りと、これからも頑張ると誓った。
と、ティムの背中へ、衝撃が走る。
「ふぐぅっ」
何かの倒れた音も、聞こえた。
慌てて振り返ると、ティムよりも少し年上の男が一人、真後ろに倒れていた。顔面を打ち付けたのか、手で覆って震えている。
すぐ傍には、眼鏡が落ちていた。
「あ、だ、大丈夫、ですか?」
ティムは身を屈め、そっと相手を窺う。
すると、呻き声を上げていた男が、勢い良く顔を上げた。
「い、痛いじゃないかっ! お前っ、どれだけ体が固いんだっ!」
眉をつり上げ、涙目でティムを睨み付ける。
ティムは、人一倍逞しい体を跳ね上げて、肩を竦めた。
「え、す、すいません。もしかして、ぶ、ぶつかって、しまいましたか?」
「あぁそうだよっ。ぶつかってしまいましたよっ。そうしたら跳ね飛ばされてっ、僕はこの通り無様な姿を晒す羽目になったんだよっ」
「それは、す、すいません。お、お怪我は、ありませんか? 大丈夫、ですか?」
頭を深く下げ、恐る恐る相手を見やる。
ティムの素直な態度と本気で心配している眼差しに、相手の男は一旦口を閉じ、ひん曲げた。
「……ないよ。これしきの事で怪我をする程、僕は弱くないからね」
ふんと鼻を鳴らし、男は眼鏡を拾って立ち上がる。ひょろりと細い体のせいか、ひ弱で不健康そうな印象を受けた。
「む……」
眼鏡のレンズに、ヒビが入っている。落とした拍子に割れたようだ。
ティムの顔色が、一気に青くなる。
「す、すい、すいません。眼鏡を壊して、すいません。あの、べ、弁償、弁償を」
「いいよ、別に。これ位問題ない。家に代えの眼鏡もあるし、もし気になるようなら、交換すればいいだけの話だ」
男はまた鼻を鳴らし、眼鏡を掛けた。大きいのか、それとも重いのか、眼鏡はすぐにズレ落ちてしまう。それが一層、男の弱々しさを引き立てていた。
「でも、でも、壊したのは、俺ですから」
「壊したのは誰でもない。強いて言うなら、お前に弾き飛ばされた僕だ。お前はただボケーッと突っ立っていただけだろう。なのに、何でお前が壊した事になるんだ。自惚れるなよ」
「そ、それは、すいません。でも」
「大体」
と、男はティムの顔へ、指を突き付ける。
「僕は、お前なんかの施しを受けるつもりはサラサラない。
例え本当にお前が僕の眼鏡を壊したとしても、絶っっっ対に弁償させない。
そんな事で許してやるものか。裁判に持ち込んで、徹底的に追い詰めてやる。
そうして二度と彼女の傍にいられないよう、完膚無きに叩き潰してやるんだからな」
先程とは違う意味で、ティムは顔を青くした。思わず後ずさるも、その分男が詰め寄ってくる。
「そもそも、何でお前なんかが彼女の傍にいるんだ。問題ばかり起こしてはクビになっている分際で生意気な。
こんな力が強いばかりのデカブツより、僕の方が余程役に立つ。彼女には劣るものの頭はそれなりだし、手先の器用さには自信がある。少なくとも、お前よりは間違いなく優れている筈なんだ。なのに、何で……っ」
「う、す、すいません」
「謝るんじゃないよっ。何で謝るんだよっ。お前に謝られたら余計惨めになるだろうがっ。なんだお前っ。実は密かに僕の事を馬鹿にしているのかっ? えぇっ!」
「そ、そんな事は、ありません。ただ、あなたが、俺に、とても、怒っている、ようだったので、だから」
「だからってなぁっ、理由も分からず謝るんじゃないよっ。だからお前は何度も何度もクビにされてきたんだっ。
悪くもないのに謝ってばかりいるとなぁっ、いつか理不尽な目に合うぞっ。もう合っているけどなっ。もっとだっ。もっと理不尽な目に合うんだからなっ!」
そう言って、男はティムの胸を、勢い良く指で突き刺した。
途端、指から鈍い音が上がり、男は盛大に呻いた。
指を押さえ、その場にしゃがみ込む。
「うぅ……お、お前の体は鉄板か。この、デカブツ野郎ぉ……っ」
「だ、大丈夫、ですか? 痛いですか?」
「この状況を見て、痛くないとでも、思っているのか……っ」
「あ、す、すいません」
「だからぁ……っ。謝るなって言っているだろうがぁ……っ!」
ヒビ割れた眼鏡越しに、ティムは睨まれる。けれど目の縁には涙が溜まっており、怖さよりも申し訳なさや心配が上回った。
「あの、もし、物凄く、痛いのならば、病院に、連れて、い、いきましょうか?」
「……いい。そこまでではない」
「そ、そう、ですか。じゃあ、あの、えっと」
ティムは、鞄からハンカチと水筒を取り出した。ハンカチを水筒の水で濡らし、男の隣へしゃがみ込む。
「よ、良かったら、これ、使って下さい。冷やした方が、いいと、思います」
男は、ティムと濡れハンカチを一瞥すると、無言で受け取った。
「……ビショビショじゃないか」
「す、すいません。俺、絞るのは、苦手で」
ふんと鼻を鳴らし、男は片手でハンカチを握り締める。水分を軽く切ってから、痛めた指で巻き付けた。
「あの……質問をしても、いいですか?」
「……何だよ」
「俺と、あなたは、その……以前、どこかで、お会いした事が、ありますか?」
「あるわけないだろう」
「そ、そうですか。えっと、では、何故、あなたは、俺の事を、知っているんです、か? 力が強い、とか、その、クビになった、とか」
「そんなの、お前が彼女の傍にいるからに決まっているだろう」
彼女? と、ティムは首を傾げる。
男は舌打ちをして、ズレた眼鏡を押し上げた。
「ラヴィニアだよ。ラヴィニア・ラヴレス」
「ラヴさん、ですか?」
すると、男は勢い良く振り返り、ティムを睨み付ける。
「気安くラヴさんなんて呼ぶんじゃない。ラヴレスさんと呼べ、ラヴレスさんと」
「え、あ、す、すいません」
「いいよ謝らなくて。どうせ彼女がそう呼ぶよう言ったんだろう。その位分かっているよ」
「は、はい。そうです」
「くそ、忌々しい。だが彼女がそう望むのなら、僕が勝手に止めさせるわけにもいかない。仕方ないが、彼女を愛称で呼ぶ事を特別に許してやる。だから僕の前では止めろ。それ以外ならラヴでいいが、僕の前ではラヴレスさんだ。いいな?」
ティムは、小刻みに首を上下させる。
男は口をひん曲げ、そっぽを向いた。
「……あのぉ」
「……何だよ」
「もう一つ、質問を、いいですか?」
「だから、何だよ」
「あ、はい。あの、あなたは、ラヴさ、あ、いえ、ラヴレスさん、と、面識が、あるんですよ、ね?」
「……まぁな」
「どういった、ご関係、なんですか?」
すると、男の目が、明らかに泳ぎ始めた。身じろいでは、落ち着きなく眼鏡を持ち上げる。
頬も、じわりと色付いていった。
「それは、その、あれだよ。男の僕が、女の彼女の名前を、他の男に呼ばれるのを嫌がるんだ。そういう関係だよ。名前を付けるのはとても難しいから、あえて言葉にはしないけれど、一般的には、こ、こい、こい……ほ、ほらっ、分かるだろうっ?」
男のはっきりしない物言いに、ティムはしばし目を瞬かせる。
そして、ハッと息を飲んだ。
「も、もしかして、あなたは、ラヴさんの……こ、恋人さん、ですか?」
瞬間。男の肌という肌が、一気に赤く染まる。
「そっ、そういう事はっ、簡単に口に出すんじゃないよっ。恥ずかしいだろうっ」
「あ、す、すいませんっ」
「謝るなよっ。それとラヴさんじゃなくて、ラヴレスさんだろうがっ」
「は、はいっ。すいませんっ」
ティムは、慌てて頭を下げた。
知らなかった。まさかラヴに恋人がいるなんて。
だがよく考えてみれば、ラヴはとても美しい。頭もいいし、性格だって大らかだ。恋人の一人や二人、いたって可笑しくはないだろう。
「あ、あの、ご挨拶が、遅れました、が、は、初めまして。ティム・リトル、です」
「……知っているよ」
「その、ラ、ラヴ、レスさん、には、いつも、お世話に、なっています」
「こちらこそ、とでも言っておこうか。お前は彼女の助手らしいからな。少なからず、仕事の手伝いをしているんだろう。くそ、羨ましい」
舌打ちを零し、男は眼鏡を持ち上げる。
「お、俺の事は、ラヴレスさんから、聞いたんですか?」
「それもあるが、個人的に調べた部分の方が大きい。なんせ彼女の傍にいるんだ。危険はないか、知っておく必要があるだろう」
成程、とティムは頷く。事実、クリフォードにも徹底的に追及されたものだ。きっとこの男性は、面会の際にでもラヴから自分の話を聞いて、心配になったのだろう。
「……まぁ、蓋を開けてみれば、警戒するのも馬鹿らしい程の人間だったがな」
一瞥され、ティムは身を竦めた。
男はふんと鼻を鳴らし、顔を近付ける。
「いいか。分かっているとは思うが、彼女に決して惚れるなよ。
確かに彼女はとても魅力的な女性だ。年齢性別関係なく、多種多様な人間から好かれている。お前が惹かれてしまったとしても、まぁ、致し方ない部分があるのも理解している。
だが、勘違いはするな。彼女はお前のようなデカブツ、何とも思っていないんだ。興味がないからこそ、邪険に扱われていないだけ。それを優しさと思い込んで、付き纏ったりするんじゃないぞ。
彼女は高嶺の華なんだ。お前とは釣り合わないのは勿論、似合わないし傍にいるのもおこがましい。己の立場をきちんと理解し、適切な距離を保って接しろ。
正直言って、僕は何でお前が彼女に選ばれたのか、理解出来ない。だが、彼女はお前を選んだ。僕ではなく。非常に腹立たしい事だが、きっと僕には分からない何かがあるんだろう。
だから、彼女の助手を勤める事は許してやる。それ以上は許さない。いいな」
「あ、は、はい。分かりました。あの、ありがとう、ございます」
頭を下げるティムに、男は顔を顰めた。眼鏡を持ち上げ、そっぽを向く。
「……まぁ、あの刑事よりは、幾分かマシのようだな」
ふんと鼻を鳴らし、立ち上がった。
「じゃあな。このハンカチは洗ってから返す」
「え、あ、いえ。そんな、いいですよ」
「別にお前の為じゃない。このハンカチを返すという口実があれば、お前に彼女の話を聞きに行く事が出来る。だからわざわざ洗ってやるだけだ。勘違いするな」
そう言うや、男はティムに背を向け、さっさと行ってしまう。
「……あっ。あ、あのっ」
慌てて立ち上がり、遠ざかるひょろりと細い背中を呼び止めた。しかし男は止まる事なく、あっという間にいなくなる。
名前を聞きそびれてしまった。ティムは眉と肩を下げ、溜め息を吐く。これでは明日、ラヴに恋人と遭遇したと伝える際、何と呼べばいいのか分からない。
もっと早く気付くべきだった。ティムは大きな背中を丸め、とぼとぼと歩き出す。
仕方ない。ここは正直に話して、ラヴから恋人の名前を聞こう。怒られたら心を込めて謝り、許して貰おう。
そうして、たまには自分の事を話すのではなく、ラヴ自身の話を聞いてみたい。
考えてみれば、今までラヴという女性について、研修時に教わった資料上の内容しか知らない。
本人の口から語られた事はなく、今までどのように過ごしてきたのか、恋人の有無や家族構成、食べ物の好き嫌いさえ、実の所よく分かっていない。誰かと面会していたという事さえ知らなかった。
秘密主義なのだろうか。それとも、まだそこまで信用されていないのだろうか。理由は分からないが、これを機に少しでも知れたらいいなと、ティムは思った。
「……あれ?」
そこで、つと目を瞬かせる。
そもそもラヴは、面会を許可されていただろうか。
鉄格子の外へ出る事自体制限されているのだから、面会室へ向かうのは難しいような、と首を傾げた。
ならば、ラヴの恋人は、どうやって自分の存在を知ったのだろう。
そんな疑問を覚えながら、ティムは借りているアパートへと帰っていった。
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