失態からの急展開
「う……っ、ごふ、お、えぇ……っ」
便器へ縋り付き、ティムは込み上げるままに嘔吐した。胃が痙攣して、喉の奥に酸っぱいものが纏わり付く。忙しなく呼吸を繰り返し、苦しくて涙が止まらない。
「大丈夫ですか?」
見張りをしていた若い看守が、ティムの広い背中を擦る。
ティムは、すいません、と言おうとしたが、吐瀉物に邪魔をされてしまった。歪めた顔を、また便器に突っ込む。
「はぁ、はぁ、ふぅー……」
大分気分が楽になった。口元を拭い、ゆっくりと立ち上がる。
すかさず看守がティムの体を支え、水場まで誘導した。
「よろしければ、お使い下さい」
口や顔を濯ぎ終えたティムへ、若い看守は持ってきたタオルを差し出した。ティムは会釈だけ返し、ありがたく受け取る。
「この後は、どうされますか? ジャッジ警部からは、休憩室で待機していても良いと言付かっておりますが」
ティムは、タオルで顔を覆い、黙り込む。
本音を言えば、お言葉に甘えたかった。けれど、そんな弱気な自分を、心の中で奮い立たせる。
「い、いえ……大丈夫、です。戻ります。ラヴさんと、ジャッジ班長の、所へ」
静かに深呼吸をし、タオルを顔から離す。若い看守へ礼を言い、共に特別監房へ向かい歩き出した。
前を行く看守は、頻りにティムを窺った。本当に大丈夫なのか。やっぱり止めた方がいいのではないか。そんな眼差しをしている。
けれど、ティムには気付く余裕などなかった。只管廊下を見つめ、進むごとに重くなっていく足を、引き摺るように動かしていく。
タオルごと手を組み、胸へと当てた。
「あぁ。おかえり、ティム」
特別監房へ戻ると、いち早く気付いたラヴが、鉄格子越しに微笑んだ。クリフォードも振り返り、眉を顰める。
「休憩室で待機していて構わないと、伝えた筈だが」
「あ、は、はい。聞きました、けど、だ、大丈夫です。もう、吐きません」
クリフォードの眉間の皺が強まる。目付きも鋭くなり、ティムは大きな体を竦ませた。
それでも、視線は逸らさない。
数拍沈黙が流れ、やがて、溜め息が落とされる。
「……次は休憩室で待機させるぞ。いいな」
「は、はいっ。ありがとう、ございます」
ティムは人一倍高い位置にある頭を、深く下げた。
すると、床に転がっているものが、視界の端に映る。
机が、大破していた。
ティムがトイレへ駆け込む際、押し退けた拍子に壊してしまったらしい。
「す、すすす、すいませんっ。机を、こ、壊して、しまって、すいませんでした……っ」
元々悪かった顔色を更に悪くさせ、全身を小刻みに震わせる。
「大丈夫だよ、ティム。この程度では、クリフォードも怒らないさ。そうだろう?」
「……故意でない場合ならば、研修で説明した、警察の保障制度の対象内だ。よって弁償の責任は問われない」
「ほ、本当、ですか……?」
「但し、故意や短期間で繰り返された場合は、その範疇ではない。一部、もしくは全額を負担する事となるので、十分注意するように」
ティムは、返事と共に大きく頷く。それからもう一度頭を下げ、机を部屋の隅へ移動させた。落ちたスーツの上着を拾い、椅子の背凭れに掛けてから、腰を下ろす。
「では、ティムも無事戻ってきた事だし、話の続きをしようか」
ラヴは、徐に足を組んだ。
「被害者の恋人であったウィルフレッドは、容疑を否認しているという事だったが、具体的には何と言って否認したんだ?」
「『アリッサを殺すなんてあり得ない。確かに浮気され、喧嘩もしたが、それでもアリッサを愛している。あの日、自分は結婚を申し込むつもりだった。指輪も用意してある。殺すわけがない』と言っている。
指輪は数か月前から予約しており、受け取りは事件前。結婚しようとしていたのは、本当のようだ。同僚のユリエルからも、証言を得ている」
「同僚は、何と?」
「『結婚を考えているという話は、ここ最近特に聞くようになった。指輪や求婚についても、度々相談を受けていた。アリッサをどれだけ愛しているのかも、聞いてきた。殺す筈がない』、と。
またユリエルは、アリッサについても話をしている。どうやら、アリッサとウィルフレッドを引き合わせたのは、ユリエルだったらしい。
彼は、アリッサの直属の先輩だった。そしてウィルフレッドとは同期で、課は違えど仲が良かった。
ウィルフレッドは、ユリエルを見つければ声を掛け、その中でアリッサとも知り合ったらしい。二人はすぐさま意気投合し、交際を開始。ウィルフレッドはアリッサに惚れ抜き、彼女の望みは何でも叶えた。アリッサもウィルフレッドに甘え、頼り切っていたようだ。
二人は、喧嘩する事もなく交際を続けてきた。だからこそ、今回の口論を聞いて、ユリエルはとても驚いた。
アリッサの元へ話を聞きにいくと、アリッサは泣きながら誤解だと訴えたそうだ。どれだけウィルフレッドを愛しているか語り、それから『ウィルフレッドとの仲を取りなして欲しい』と頼んだ。
ユリエルはすぐさま承諾。『どうにか話が出来るよう、それとなくウィルフレッドを促してみる』と伝えた。
けれど結果として、仲を取りなす前にアリッサは殺され、また複数の恋人は本当にいた。その中の一人であるウィルフレッドには、殺害の容疑が掛かっている。
『せめて仲直りをさせてあげたかった』。事情聴取で、ユリエルはそう嘆いていた」
「ふぅん。ユリエルという同僚は、随分といい男なんだな。その心意気には感心するよ」
ラヴは頬杖を付いて、美しく微笑んだ。
「そんな同僚は、事情聴取ではどのような様子だったんだい?」
「終始、ウィルフレッドは犯人ではないと。そんな事をする人間ではないと、繰り返し強調していた」
「それでも、警察はウィルフレッドが容疑者だと?」
「やはりあの晩、犯行現場付近で目撃されている事が大きい。また本人は、被害者のアパートを訪れたが、不在だったのですぐに帰った、と言っているが、本当かどうかは分からない。
実際は在宅していて、結婚を申し込んだものの、受け入れられなかった。絶望したウィルフレッドは、感情のままアリッサに襲い掛かり、殺害した。そういう可能性も十分考えられる」
「確かに、考えられるね。よくあると言ってもいい位だ」
ラヴは大きく頷き、口角を持ち上げる。
その時。
特別監房の入口から、壮年の看守がクリフォードを呼んだ。
クリフォードは踵を返し、看守の元へ向かう。
そして、耳打ちされた内容に、鋭い目を僅かに開いた。
「……そうか、分かった。すぐに向かうと伝えてくれ」
壮年の看守は敬礼をし、素早くこの場を去っていった。
「どうかしたかい、クリフォード。呼び出しでも食らったのかな?」
ラヴとティムの視線を受け、クリフォードは肩越しに振り返る。
「警視庁より連絡があった。
先程、ジェーンゴウン女性変死事件の犯人が、自主をしてきたらしい」
ティムは、丸くした目を、クリフォードが抱える分厚い封筒へと向けた。
ラヴも、ほぅ、と目を見開き、次いで、緩やかな弧を描く。
「それで、その自主してきた犯人というのは、一体誰なんだい?」
楽しげな問い掛けに、クリフォードは眉間に皺を寄せて、答えた。
「ウィルフレッドの同僚、ユリエル・リリーだ」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「供述によると、ユリエルは後輩のアリッサに、密かな恋心を抱いていたらしい」
三日後。特別監房を訪れたクリフォードは、調書に纏めたユリエルの自供を、淡々と読み上げていく。
「けれど、彼女は同僚の恋人。入り込む隙間はない、仕方ないと言い聞かせ、懸命に自分の恋心を押し殺す。そして、頼れる先輩の立場に甘んじようと、相談には出来る限り乗り、少しでもアリッサの望みが叶うよう、立ち回った。
だが、ウィルフレッドから結婚を申し込みに行くと聞いた瞬間、堪えていたものが爆発する。負の感情に飲まれ、愛情が憎しみに変わり、誰かのものになってしまう位ならばと、殺害を決意。
アパート近くでアリッサの帰りを待ち、部屋の鍵を開けた所で襲い掛かった。そして、抵抗するアリッサを押さえ付けて、予め用意しておいた金槌で、殴り殺す。
殺害後。全身の皮膚を剥ぎ、アリッサの部屋にあった旅行用鞄へ入れた。ついでにアリッサのネグリジェと血塗れになった自分の服も入れ、部屋に置いてあった男もの服に着替える。誰もいない事を確認し、現場から立ち去った」
部屋の隅では、顔色の悪いティムが、身を縮めながら椅子に座っていた。強張った表情で、唇と拳を固く結んでいる。
ラヴは、鉄格子の奥で微笑んでいる。時折組んだ足の先を揺らし、クリフォードの声に耳を傾けた。
「本当は、全身を持って帰りたかったらしい。例え遺体だとしても、愛した女性を自分のものにしたかったようだ。だが遺体を抱えて出歩くのは流石に目立つと思い、アリッサの表面、つまり、皮膚だけを切り取った。
そうして帰宅後、縫い合わせたアリッサの皮膚へネグリジェを着せ、部屋に飾った。
これが、実際にユリエルのアパートで発見された、アリッサの写真だ」
クリフォードは、封筒から取り出した写真を、鉄格子の隙間から滑り込ませた。
写真には、ネグリジェを纏う女性の抜け殻が写っている。ネグリジェを外した状態の写真もあった。腕の内側と、背中、足の後ろ側に、縫い合わされた切り口がある。
全体的に黒ずんでおり、皺が多い。また乾燥からか、縦に裂けてしまっている部分も複数あった。
「それと、何故今になって自主をしてきたのか、質問した所、『ウィルフレッドに容疑が掛かってしまったから』と言っていた。警察の事情聴取を何度も受け、疑いの目で見られ続ける同僚の姿に、耐えられなくなったそうだ。
ユリエルの供述には整合性があり、また犯行現場の状況を明確に説明出来た事から、警察はユリエルをアリッサ殺害の犯人と判断した。現在は更に詳しく話を聞くと共に、その身柄を拘束している。以上だ」
クリフォードは、視線を調書からラヴへと移す。ティムも、つられてラヴを窺った。
「何か質問は」
「勿論あるとも」
ラヴは、ゆっくりと口角を持ち上げた。
「ユリエルは、ウィルフレッドがアリッサに求婚しに行くと聞く前から、求婚の相談を受けていたのだろう? つまり、いつかはその時がやってくると知っていた筈だ。なのに、何故堪えていたものが爆発してしまったんだ?」
「心構えがあった所で、実際に目の前へ突き付けられると脆くも崩れ去る、という事はよくある話だ。
しかもユリエルの場合、想定していた時期よりもかなり早まってしまった。動揺で心が乱れ、結果凶行に及んだのだろう」
「何故ウィルフレッドの姿は目撃されたのに、ユリエルの姿は目撃されなかったんだ?」
「単純に、姿を現していた時間帯が違う。また、ユリエルは物影に隠れていた。ウィルフレッドは堂々と歩いていた。よって、ユリエルは誰にも目撃されなかった」
「旅行用鞄は、どの程度の大きさなんだ? アリッサの全身を詰め込む事は不可能だったのか?」
「不可能だった。子供でなければ、人間が入る事は出来ない大きさだ」
「部屋に飾ったアリッサの皮膚について、ユリエルはどういう印象を持っていたんだ?」
「幸せだが、同時に悲しくもあったと」
「何故?」
「『自分の恋心のせいで命を奪われ、自分の恋心のせいで皮膚を剥がされ、自分の恋心のせいで、おぞましい姿にされてしまった。彼女の皮膚を見る度、自分の罪深さを突き付けられる。
全ては、浅ましい想いを抱いた自分がいけないのだ。申し訳ない』。そう言っていた」
「ウィルフレッドについては?」
「こちらも、申し訳ないと。『自分の勝手な想いのせいで、恋人を奪われ、更には容疑者にもなってしまった。謝っても謝り切れない』。そう言って、涙を零していた」
「ほぉ、成程。
因みにだが、君、人間の皮膚は、体から剥がされると一体どういう過程で劣化していくのか、説明出来るかい?」
「……私には出来ない。必要ならば、大学教授や医師に問い合わせるが」
「では、頼むよ」
組んだ足の先を揺らし、ラヴはつと虚空を眺める。
何かを考えるかのように黙り込み、かと思えば、徐に、微笑んだ。
「クリフォード。一つお願いがあるんだ」
途端、クリフォードの眉間に、深い皺が刻み込まれる。
そんな姿に、ラヴは、ふふ、と喉を鳴らし、至極楽しそうに口を開いた。
「ユリエルと話がしたい。場を設けてくれたまえ」
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