第2章

新しい職場


 異様に高い壁沿いを、ティムは緊張気味に歩いていた。

 辺りには誰もいない。空を飛ぶ鳥の鳴き声が、独特の雰囲気漂う一帯によく響いた。耳をすませば、セント・リンデン駅近くにある、露天通りの活気まで聞こえてくる。


 つと、風が吹いた。ティムの短く整えられた髪を、乱していく。長かった前髪も、眉の上で翻った。

 はためくスーツは真新しく、身長に比例して大きな足にも、新品の靴が嵌っている。鞄だけは今まで使っていたものだが、汚れ一つなく綺麗に洗われていた。


 ティムは服と髪を整え、深呼吸する。

 チラと見上げれば、異様に高い壁の上には、更に槍状の柵が張られていた。柵の奥には、建物の屋上で、望遠鏡片手に辺りを監視する人影も見える。

 物騒且つ厳重な様子に、情けなく身を震わせた。慌てて目を逸らし、また歩き出す。


 早鳴る心臓を宥めながら進んでいくと、前方に門が見えてきた。

 鉄扉の横には『セント・リンデン刑務所』という表札が掲げられており、詰め襟に帽子という看守の制服を着た男が二人、長い棒を手に立っている。


 物々しい姿に、ティムは思わず立ち止まりそうになった。けれど自分を奮い立たせ、ぎこちなく足を踏み出し続ける。

 俯いて、組んだ手を胸に当てた。ここへくる前にも捧げた神への祈りを、もう一度呟く。


 荒くなりそうな呼吸を堪え、ティムは門の前で立ち止まった。

 すると、看守の視線がティムに集中する。

 う、と仰け反るも、鞄の中へ手を入れ、身分証を取り出した。



「あ、あの、今日から、お世話に、なります。ティム・リトル、です。あの、こ、これ」



 身分証を差し出せば、看守の一人が受け取る。警視庁刑事部捜査一課特殊捜査班、という肩書きと、ティム・リトルという名前、その横に張られたティムの写真を確認し、頷く。


 身分証を返却され、ティムは、門の脇に構えられた待機室へと連れて行かれる。そこでしばらく待っていると、別の若い看守がやってきた。


「お待たせしました。こちらへどうぞ」


 漸くだ。ティムは、ホッと胸を撫で下ろす。

 反面、ここにくるまで二か月以上も掛かってしまった自分に、ラヴは怒ってやいないかと不安も覚えていた。




 ラヴと出会ったあの日から、ティムの生活は一変した。




 まず、警視庁へ連日赴いては、徹底的に身辺調査をされた。

 今までどのように生きてきたのか。どういう人間なのか。犯罪歴や転職歴。過去に何度も警察の世話になった経緯。己の特殊な体についてなど、思い出したくない、聞かれたくない事全てを、さらけ出さなければならなかった。


 辛かった。苦しくて、何度も涙が込み上げた。

 けれど、クリフォードは許してくれない。鋭い眼差しでじっとティムを見つめ、説明が終わるまで何時間でも待った。


 ティムの心は、何度も折れそうになる。

 だが、家族を安心させたい。警察という立派な組織で働けるとなったら、きっと喜んでくれるに違いない。こんな自分を育ててくれた恩を、少しでも返したい。心からそう願うティムは、涙を拭いながら必死で言葉を紡いだ。


 そうして苦痛な時間を耐え抜いたティムは、ラヴの為だけに設立された特殊捜査班へ、仮配属される。そこで研修として、基本的な警視庁の仕組みから、求められる姿勢、想定される危険とその対処法、犯罪者と関わる上での心構えなど、多岐に渡って講習を受ける。



 ラヴについても、説明された。



 ラヴィニア・ラヴレス。二十六歳。元精神科医。

 罪状は、殺人教唆。

 自身が受け持っていた患者達に、事故や自然死に見せる殺害方法を教え、実行させていた。その数は実に五十件以上にものぼる。

 あまりに狡猾で残虐、非人道的な手口だとして、無期懲役が言い渡された。更には、他の受刑者に悪影響を及ぼす可能性があるとして、現在は特別監房に収容されている。



『いいか、リトル』



 最後の講習を終えた際、特殊捜査班班長のクリフォードは、ティムを見上げた。


『お前はただ今をもって、正式に特殊捜査班へ配属された。つまり、警察の一員となったんだ。その自覚をきちんと持ち、恥ずかしくない行動を常に心掛けろ。


 だが、決して無理はするな。

 駄目だと思ったら迷わず逃げろ。


 お前は確かに警察の一員だが、警察官ではない。戦う義務も、守る義務もない。己の力を過信するな。いくら人より強い力を持っていると言っても、勝てない相手はいる。それは既に理解している筈だ』


 研修中、ティムの巨体を軽々投げ飛ばしてみせたクリフォードは、眉間へ力を込める。


『だから、いいか。繰り返すが、決して無理はするな。身を危険に晒す位なら、全力で逃げろ。誰もお前を責めない。私が責めさせない。だから迷うな。お前には、常に選ぶ権利がある。その事を忘れるな。分かったな』


 そう言って、クリフォードは送り出してくれた。


 常に選ぶ権利がある。

 つまりは、辞めたくなったらいつでも辞めて構わない、という事だ。研修中、クリフォードは何度も繰り返していた。

 本音としては、今すぐ辞めて欲しいのだろう。けれど、ラヴとの約束があるから、公正な立場で、出来る限りの配慮をティムにしてくれた。


 優しい人だ。厳しい所もあるけれど、今まで出会った上司の中で、一番ティムを案じ、大切に扱ってくれる。それが嬉しく、少しくすぐったくもあった。


 ティムの事情を全て知ってくれているというのも、心強かった。話す時はとても辛かったが、今はよかったと思っている。

 相手が知っているからこそ、隠そうとしたり、怯えたりしなくて済んだ。しかも相手は刑事。ティムよりも強いのだ。護身術を習った際は手も足も出ず、これならば誤って怪我をさせる心配はない、と思わず納得してしまった。


 そうして軽くなった心は、ティムにかつてない安らぎを与えた。


 今度こそ、クビにされないといいな。そんな事を願いつつ、ティムは若い看守の後を付いていった。一旦別室で施設の説明を受け、次に身体検査と荷物検査を受ける。


「お預かりした鞄などは、お帰りの際に返却します。それと、刑務所内のものを外へ持ち出す事は出来ませんので、ご注意下さい」


 ティムは身分証を首から下げて、看守と共に別室を出る。静かな廊下を進み、特別監房へと向かった。途中、トイレや食事をする休憩室など、ティムが使うであろう場所を通り、看守は丁寧に教えていく。



 そうして歩く事、数分。

 廊下の突き当たりに、分厚い鉄の扉が現れた。



「こちらです。私は外で待機していますので、何かあればすぐに声を掛けて下さい」


 よろしいですか、と看守はティムを振り返る。

 ティムは唾を飲み込み、小さく頷いた。


 分厚い鉄の扉へ、看守は鍵を二つ差し込む。それから大きなハンドルを、二回、三回と回した。中で仕掛けの動く音がし、かと思えば、唐突に、カチ、と何かが外れるような音が響く。最後にノブを捻れば、扉は重々しく開かれた。


「どうぞ。扉は開けたままにしておきますので」


 横へずれた若い看守へ、ティムは会釈をする。深呼吸をし、手を組む代わりに、握った右の拳を胸へ押し付けた。

 神様。俺は今日も頑張ります。どうぞ見守っていて下さい。

 本日三度目の祈りを捧げ、ティムは特別監房の中へ、踏み込む。


 そこは、思いの外広い空間だった。


 手前の壁際には、ティム用であろう椅子と机が置かれている。鉄格子の奥にも椅子と机が置かれ、脇にはベッドと小さな棚、洗面台、トイレなども備え付けられていた。

 そして、膨大な数の本。

 一見すると壁にも見える量の本が、所狭しと並べられていた。



 その真ん中に座る、一人の女。



 明かり取りの窓から差し込む光が、本を読む美しい横顔を照らしている。ここが刑務所でなければ、教会かと勘違いしてしまいそうな程、幻想的な光景だった。


 思わず魅入ってしまったティムは、入口の前で立ち尽くす。


「……ん?」


 つと、本を読んでいたラヴが、顔を上げた。

 二か月ぶりの美しさに射抜かれ、ティムは大きな体を跳ねさせる。


「やぁ。誰かと思えばティムじゃないか。いらっしゃい。よくきてくれたね」


 本を閉じ、ラヴは立ち上がる。以前会った時と同じ簡素なワンピースの裾を揺らし、近付いてきた。

 ティムも、おずおずと歩み寄り、鉄格子の隙間から差し出された手を、限りなく優しく触った。


「元気だったかい?」

「あ、は、はい、元気です。ラヴさんも、お元気そうで」

「あぁ、元気だとも。いつ君がきてもいいようにと、私にしては珍しく、早寝早起きを心掛けたものさ。

 クリフォードにも、ティムはまだこないのかと何度もせっついてね。逐一経過を聞いては、指折り数えていたよ。気分はまるで、誕生日を待つ子供のようだったさ」


 ふふ、と喉を鳴らすと、ラヴはティムを、上から下まで眺める。


「しかし、ティム。君、随分と男前になったね。髪を切ってさっぱりしたせいか、表情も明るくなったように思えるよ。それに、素敵なスーツだ。よく似合っている」

「あ、ありがとう、ございます。家族が、贈って、くれまして。はい」


 ティムは頬を赤らめ、真新しいスーツを指で撫でた。




 ティムは、特殊捜査班へ仮配属されてから、家族へ手紙を出した。『印刷所はクビになったが、代わりに警察で働く事になった』と。

 すると、投函して一週間もしない内に、故郷から母と姉がやってきたのだ。どうやら手紙を見て驚いたようで、仕事でこれない父の代わりに、どういう事なのか話を聞きにしたらしい。


 母と姉の質問責めに、ティムはしどろもどろと説明していく。けれど仕事の特性上、話せる事は多くない。その為半分以上の答えが、言えない、になってしまった。これには母も姉も困惑し、不安を募らせた。

 そこで上司であるクリフォードに相談した所、その日の内に家族へ説明をしてくれたのだ。


 仕事内容は、話せる範囲で出来る限り話し、警察の保障制度や労災保険への加入義務、どの位の労働時間で、給金がどの程度出て、危険はなく、万一の事があってもすぐさま対処出来る旨を、懇切丁寧に伝えた。母と姉の疑問には徹底的に答え、ティムの力を一切使わせるつもりはないと、何度も繰り返した。


 クリフォードの真摯な態度に、母と姉は漸く安心したらしい。最後は笑顔で帰っていき、後日就職祝として、新品のスーツとシャツと靴を送ってくれた。

 あまりに嬉しくて、ティムは今日まで袖を通す事が出来ず、部屋に飾っては何度も眺めて顔を緩めていた。




「さてと。挨拶も無事済んだ事だし、早速確認をしてもいいかい?」



 徐に、ラヴは微笑んだ。


「君がここにいるという事は、つまり、これから私の助手を勤めてくれるのだと、そう解釈していいのかな?」

「あ、は、はい。そうです。今日から、ラヴさんの助手を、させて、頂きます。その、よ、よろしく、お願いします」


 ティムは姿勢を正し、人一倍大きな体を折り曲げる。

 ラヴも胸に手を当て、ゆっくりと会釈した。


「ありがとう、ティム。こちらこそ、よろしく頼むよ」


 ラヴの長い髪が肩を流れ、目を伏せた拍子に睫毛が頬を撫でる。優雅さしか感じない仕草に、ティムは思わず溜め息を零す。


「では、念の為、君の仕事内容について確認しておこうか。クリフォードから説明はあったかい?」

「あ、はい。えっと、ラヴさんに、俺の体を、調べて貰う事、と、ラヴさんの、話し相手、と、後、荷物を、持ってきたり、ラヴさんが、ジャッジ班長から、依頼された、お仕事を、解決する、お手伝い、ですか?」

「そうだね。基本はそのような感じだ。荷物は随時届くので、看守室へ取りに向かうか、特別監房を訪れる際、一緒に持ってきてくれれば構わない。

 仕事の手伝いも、別段大したものではない。細々とした雑務、例えば、事件資料を読み上げたり、時折私の質問に答えたりと、その程度さ。


 君の主な仕事は、その興味深い体を私に提供する事だ。勿論、人徳的な範囲でね」


 ふふ、と喉を鳴らし、ラヴはティムの顔を覗き込む。


「嫌だと感じた場合は、遠慮なく断ってくれたまえ。だが、許せる限りは、私の好奇心に付き合って貰いたい。いいかい?」

「は、はい。大丈夫です」

「ありがとう。感謝するよ」


 ラヴはもう一度会釈をすると、微笑みを深めた。


「では、始めようか。スーツの上着を脱いで、シャツの袖を肘まで捲ってくれ。それから鉄格子の前へ立ち、私の指示通りに体を動かすんだ。さぁ、早くしたまえ」


 目を輝かせるラヴに手を叩かれ、ティムは慌てて、けれど絶対に破かないよう、細心の注意を払って上着を脱ぐ。

 スーツをティム用に用意された机の上へ置き、シャツの袖を摘まんだ。僅かでも傷める事なく、捲っていく。


 鉄格子の奥では、ラヴが机を前へ移動させている。メモ帳と鉛筆も置き、いつでもこい、とばかりに椅子へ座った。



 漸く準備を終え、ティムが振り返る。


 途端、ラヴの目の輝きが増した。近付いてくるティムに、美しい顔を華やかせる。




「失礼する」




 そんな二人の間に、割って入ってきた男が一人。


 鍛え上げられた体を紺色のスーツで包み、鋭い眼差しで前を見据えた。


 手には、分厚い封筒が抱えられている。

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