現れたのは
「――動くな」
冷たく、威圧的な声が、机の近くで放たれた。辺りの空気も、明らかに変わる。
ティムは、恐る恐る、瞼を持ち上げた。
瞬間、大きな体を跳ねさせ、引き攣った声を、絞り出す。
ティムの周りを、大勢の警察官が取り囲んでいた。
手には拳銃を構え、銃口をティムへと向けている。
誰もが油断ない眼差しで、じっと睨んできた。
その中から、ゆっくりと進み出てきた、一人の男。
ティム程ではないが、平均よりも恵まれた体格をしている。
目付きも一際鋭く、実践向けに付けられた筋肉が、紺色のスーツを押し上げている。
あまりの迫力に、ティムは固まったまま、小刻みに震えた。男の構える拳銃が近付く度、顔色は青さを増していく。呼吸も荒くなっていき、全身から熱が失せていった。
それでも、動けない。動くわけにはいかない。
もし動いたら、自分は、この人に殺されてしまうかもしれない。
極度の緊張から、ティムの視界は段々白くなってきた。息も苦しく、冷や汗が吹き出す。
神様。神様お願いです。どうかお救い下さい。お願いします。
心の中で、何度も何度も祈っていると。
「おや。誰かと思えば、クリフォードじゃないか」
ティムの冷たくなった体を、温もりが優しく包み込んだ。
「どうしたんだい、そんなに怖い顔をして。しかも拳銃なんか持ち出して。早く下ろしたまえよ。ティム君が怯えるだろう。可哀そうに。こんなに震えて」
白い掌が、よしよし、と激しく動くティムの胸元を撫でていく。
「ほら、ゆっくりと息を吐いて。吸って。そう、いい子だ」
穏やかな声に合わせて、ティムはどうにか肺を動かす。
「大丈夫だよ、ティム君。クリフォードは、少々怖い顔をしているが、決して悪い奴ではない。悪と戦う正義の味方さ。善良な市民を、理由もなく撃つなんて真似、絶対にしない」
囁かれる言葉に、ティムは、ぎこちなく首を動かす。
肩に顎を乗せたラヴと、目が合う。
「それに、実はね。私と君が寄り添っている時点で、彼らは撃つ事が出来ないんだよ。何故なら、両方に当たってしまうからだ。片方を狙ったとしても、弾丸はそのまま体を貫通し、もう片方の体へ否応なしに突き刺さる。
そうと分かっているからこそ、彼らは撃たない。撃てないんだ。絶対にね。私が保証するよ。安心したまえ」
先程と変わらぬ頬笑みを浮かべ、一定の間隔でティムの胸を撫で続けた。
「まぁ、そうと言われた所で、やはり拳銃なんてものを突き付けられては、君も落ち着かないだろう。
そういうわけだ、クリフォード。その物騒なものを下ろしたまえ。警察とは、善良な市民を脅すのが仕事なのかな?」
「……少なくとも、今現在、彼が善良かどうかを判断する事は出来ない。よって最悪の状況を想定し、最良の行動をとる事こそが、我々警察の仕事だ」
「善良だよ。彼はね、ひったくられた他人の鞄を、見事取り返してみせたんだ。君達に囲まれただけで、過呼吸を引き起こす程繊細な子がだよ? 蹴られ、殴られ、さぞ怖かっただろうに、それでも果敢に立ち向かった。これを善良と言わず、何と言うんだい?」
クリフォードへ一瞥を送り、ラヴは口角を持ち上げる。
「因みにひったくり犯は、ケビン・コックス。窃盗の容疑で、過去に四度逮捕されている」
クリフォードの眉が、僅かに跳ねる。
「どうやら狩場を、露天通り周辺から、少しセント・リンデン駅寄りに移したらしい。この辺りも発展しているからか、駅周辺は大変賑わっていたよ。ひったくりだけでなく、すりも多発しているようだから、しばらくは巡回を強化した方がいいだろう。
また、ケビンは露天通り方面へと逃げていった。まだあの辺りにいるだろうから、探してみるといい。『セント・リンデン駅の近くで、女からひったくった鞄を、大男に指一本で奪い返されただろう』とでも言えば、何かしらの反応が返ってくる筈だ。
もししらばっくれるようなら、彼の掌を確認するといい。恐らく、鞄の持ち手と同じ形をした鬱血痕が、残っているだろう」
ラヴは、向かいの椅子に置かれた、片方の持ち手が千切れた鞄を、顎で指した。
クリフォードは、鋭い視線を鞄へ向けると、近くにいた警察官に目配せをした。警察官はすぐさま踵を返し、数名を連れて露天通りの方向へ駆けていく。
「……ラヴレス」
クリフォードは、徐に眉間の皺を深めた。
「この鞄は、どこで手に入れた」
「露天通りさ」
「買ったのか」
「いいや、落し物だよ。とある老夫婦のね」
「……奪ったのか」
「落し物だと、私は言った筈だが?」
「ならば、落とさせたのか」
「落とさせただなんて人聞きの悪い。私はただ、散歩をしていたら拾っただけだ。そうしたら、ケビン・コックスにその鞄をひったくられてしまった。私はなす術もなく倒れ、ティム君に助けられたと、そういうわけだ」
「つまり、相手に気付かれないよう入手した鞄を、本物のひったくりに奪わせようとしたという事だな。しかし失敗したので、次の作戦へと移った」
「クリフォード。君は少々耳が悪いようだな。一度病院へ行く事をお勧めするよ」
「お前の狙いは、一体なんだ」
一層眼差しを鋭くし、クリフォードはラヴを見据える。拳銃を握る手に、力を込めた。周りの警察官も、警戒を強める。
辺りの空気が重くなる中、ラヴだけは、変わらず微笑んでいる。
「その鞄を、一週間後に、持ち主へ返してきて欲しいんだ」
「一週間後?」
「あぁ。私の予想では、その鞄の持ち主は、警察へ盗難届を提出しないだろうからね。その辺りを確認する為にも、一週間という期間を設けたい」
「何故そんな事をする必要がある」
「犯人逮捕の為さ」
ラヴの微笑みが、深まった。
「先日、ヒース・ヘイグという、腹をかっ捌かれた男の変死体が発見されただろう? あれをやったのは、鞄の持ち主である老夫婦だよ」
ザワリ、と周囲へ動揺が走る。
「まぁ、正確に言えば、実行犯は夫のチャールズ・ボウヤーで、妻のシエナ・ボウヤーは、チャールズに容疑が掛からぬよう、証拠隠滅をした、だがね」
ティムに寄り添ったまま、ふふ、と喉を鳴らす。
「被害者であるヒース・ヘイグは、強盗や傷害の罪で何度も逮捕されている。その被害者の一人が、ボウヤー夫妻だ。彼らは一年程前の深夜、押し入ってきたヒースに手足を縛られ、金を出せとナイフで脅された。
そんな夫妻を守ろうと、悪漢に立ち向かった者がいた。
それは、夫妻が我が子同然に可愛がっていた犬だ。
名前はペティ。小さな茶毛の女の子だそうだ。
ペティはヒースに噛み付き、体当たりし、どうにか追い払おうとした。しかし、人間と犬では、あまりに体格が違う。あっという間に床に叩き付けられ、ナイフで腹を刺されたらしい。
それでもペティは諦めない。出て行けとばかりに唸り、吠え続けた。
そのけたたましさが、ヒースにはとても気に障ったのだろう。刺したナイフを乱暴に引き抜き、首を深く切り裂いた。それから飛び出た腸をペティの口へ押し込み、完全に音を消した。
こうしてペティは、夫妻の目の前で惨殺された。
けれど彼女の決死の叫びは、巡回中の警察官に届いた。
警察官はすぐさま夫妻の家に駆け付け、ヒースを現行犯逮捕。ボウヤー夫妻も無事救出された。
しかし、この一件が原因で、夫のチャールズは認知症を発症。ぼんやりと日々を過ごし、かと思えば、ペティを探して徘徊を繰り返す。
夫妻には子供がいない為、介護は妻のシエナが行った。だが一人では中々難しく、度々徘徊を許しては、慌てて探しに出掛けたり、近所の者や警察官に保護されたチャールズを、引き取りに向かったそうだ。
所が、ここ最近になって、チャールズの徘徊がピタリと止まった。どうやらシエナが、チャールズを付きっきりで見張っているらしいのだが……何故最近になって、そのような事を始めたのだろうか? 何か原因があった筈だ。
ではその原因とは、一体何か?」
ラヴは、クリフォード達へ視線を流し、口角を持ち上げる。
「それは、チャールズを守る為なのだと、私は考える」
ラヴが奏でる喉の音が、小さく響く。
「チャールズは、恐らく深夜の徘徊中、犯行に及んだ。ヒースからナイフを奪い、ペティと同じように殺した。
そしてシエナは、夫を探しに向かった先で、血塗れのチャールズを発見した。もしかしたら、ヒースの死体も見てしまったのかもしれない。
シエナは、チャールズの犯行だとすぐに悟っただろう。急いで家へ連れ戻し、チャールズの体を洗い、血の付いた服を処分した。それから片時も夫から離れず、彼が犯人だと気付かれぬよう、また、彼が二度とこんな恐ろしい真似をしないよう、目を光らせた。
そんな彼女が、鞄を盗まれたからと言って、果たして警察を頼るだろうか? 私はそうは思わない。チャールズは、口が利けないわけでないからね。余計な事を言われたらと思うと、怖くて近寄れないだろう。
ならば誰かにチャールズを預け、その間に警察へ、とも考えられるが、それはそれで、チャールズが預けた人物に犯行を喋ってしまうかもしれない。つまりシエナは、鞄を諦めるしか選択肢がないんだ。
そんなある日、自宅へ突然警察官がやってきたら? シエナはきっと驚くだろうね。そして焦る筈だ。もしや、チャールズの犯行が知られてしまったのか、とね。
けれど話を聞いてみれば、失くした鞄を届けてくれただけではないか。シエナは胸を撫で下ろすだろう。それから礼を言い、不自然ではない程度に、警官を早く帰そうとするだろう。この時点で、老夫婦の犯行はほぼ確定したようなものだ。
後はクリフォード、君の腕の見せ所だ。ありとあらゆる手段を駆使し、見事相手を落としてくれたまえよ」
クリフォードへ微笑み掛け、ラヴは小首を傾げた。
クリフォードは、険しい顔でラヴを睨む。そのまま、唇だけを動かした。
「何故、ボウヤー夫婦を怪しいと思った」
「受け取った事件資料の中に、遺体の写真が入っていただろう? まるで玩具のように扱われている事から、最初は愉快犯の犯行かと思ったんだ。
けれど、傷の深さや刺し方から、どうにも恨みや憎悪のようなものを感じてね。それで、以前ヒースに襲われた人間、またはその関係者が、復讐でも果たそうとしているのではないか。そう考えたんだ。
だが、ヒースが起こした事件を調べても、被害者の怪我はどれもこれもが軽傷。前後関係も確認したが、復讐に走る程とは思えなかった。
ならば何故、と思っていた時、ふと目に留まったんだ。名誉の死を遂げた忠犬の名前がね。それがどうにも気になって仕方なかった。だから、調べてみる事にしたのさ。
すると周辺住民から、ペティが殺された時の状況や、最近のボウヤー夫妻の様子を知る事が出来た。更にはボウヤー夫妻との接触も成功。そうして話をした結果、私は自分の推理に確信を得た。
だから、拾ったのさ。落ちたシエナの鞄をね」
落ちた、という表現に、クリフォードの眉がピクリと跳ねる。
だが特に触れる事なく、別の質問を投げ掛けた。
「実行犯とされる夫は、認知症を患っている事から、ある程度歳のいった人間だと考えられる。しかも強盗に入られた際は、被害者のヒースに手足を縛られている。つまり、力では勝てなかったという事だ。そのような老人が、何故ヒースを殺害出来たんだ」
「逆に問いたいね。何故クリフォードは、チャールズがヒースを殺せないと思うんだい?」
「老人が、健康な成人男性に勝てるわけがない。怪我をさせるだけならまだしも、殺すなんてどだい無理だろう」
「そこが、そもそも間違いなんだ。
いいかい? 人間は普段、最大筋力値のおよそ二十から三十パーセントしか使えていないんだ。何故なら、潜在能力を百パーセント発揮すると、筋細胞や骨に大きな損傷を与える事になる。自分で自分の体を破壊してしまうのさ。
だから人間の体には、生まれつき制御装置が付いている。脳がこちらの意志とは関係なく制御しているから、我々は筋骨を傷める事なく、日常生活を送れているんだ。
では次に、認知症の説明をしよう。
認知症とは、簡単に言えば、脳神経細胞が何かしらの理由で死滅し、減少していく事で起こる病気だ。主な症状は、物忘れや、認知機能の低下による日常生活の支障。細胞の死滅が進行するにつれ、病状の悪化だけでなく、性格まで変わってしまう場合がある。
ここで注目して欲しいのは、認知症は、脳の神経細胞の減少により起こる、という点だ。
そして人間に備わっている制御装置は、脳が自動的に作動させている、という点。
さて、ではここで問題だ。この二つの条件が重なった時、人体に一体どんな影響を及ぼす可能性があるのだろうか? ティム君、考えてごらん」
突然名前を呼ばれ、ティムの鎮まり掛けていた心臓は、また跳ね上がった。呻き声を上げ、目を泳がせる。
そうして顔を深く俯かせ、おずおずと口を動かした。
「せ、制御装置、が、外れてしまう、とか、ですか……?」
「その通り。正解だ」
ラヴは、満足気にティムの頭を撫でる。
「そう。チャールズは、脳神経細胞の死滅により、体を守る為に備わっている制御装置が、非常に外れやすくなっていたと考えられる。外れやすくなっていたという事は、それだけ強い力を発揮出来たという事だ」
「それでも、相手は老人だ。例え制御装置が外れていようが――」
「因みに、クリフォード。
人間は、潜在能力を百パーセント発揮した場合、素手で金属を貫通する事が出来るらしいよ。まるでゴリラだね。君、年老いたゴリラと戦って、勝てる自信はあるかい?」
クリフォードからの返事はない。ただ唇を曲げ、目に苛立ちの色を滲ませた。
「さて。他に質問はあるかな?」
「……犯行の動機は」
「可愛いペティを殺されたからさ」
「それを裏付ける証拠はあるのか」
「証拠も何も、我が子同然に可愛がっていた娘を、目の前で無残に殺されたんだぞ? 仇を討ちたいと思うのは当然だろう。
まぁ、たかだ犬の為に人殺しなんてする筈がない、という意見もあるとは思うが、しかし実行犯であるチャールズは、認知症の影響で判断力や思考力が低下していた。性格も、もしかしたら変わっていたのかもしれない。
可愛いペティの仇を見つけた瞬間、頭に血が上り、体の制御装置だけでなく、心の制御装置まで外れてしまったとしても、別段可笑しくないとは思わないかい?」
視線を流し、ラヴは微笑む。
クリフォードからは、是とも非とも返ってこない。
ただ眉間に皺を寄せるだけ。
「……何故、事前に何も言わなかった。事件の調査は、お前の仕事ではないだろう」
「調査はついでだよ。本来の目的は気分転換さ。代わり映えのない場所に籠っていると、体が腐っていくような感覚を覚えるんだ。だから散歩がてら、色々と調べてみようかと思ってね。この辺りへやってきたのさ。
そうしたら、とても素晴らしい出会いがあったんだよ。私の人生において三本の指に入る、素晴らしい出会いだ。なぁ、ティム君?」
ラヴは、縮こまるティムへ頬を寄せ、愛おしそうに抱き締めた。
身を固くするティム。顔の熱がぶり返し、握り込んだ掌には、汗がじっとりと滲んでいく。
まるで小動物のように震える大きな青年に、クリフォードは片眉を持ち上げた。
「……おい、ラヴレス。彼は一体何者なんだ。お前の仲間か」
「先程から言っているだろう。ティム君は善良な市民さ。そして私が拾った鞄を、ひったくりから取り返してくれた恩人。だからお礼に、こうしてコーヒーをご馳走しているんだ」
「そのコーヒー代は、どこから出てきたんだ」
「そこから」
ラヴは、向かいの椅子に置かれた、持ち手が片方千切れた鞄を指す。
「つまり、他人の金を勝手に使った、という事だな」
「いいや。それは私の金だよ。なんせ私は、落し物としてその鞄を拾ったのだからね。持ち主が現れなければ私のものになるし、例え持ち主が現れたとしても、謝礼としておよそ一割を受け取る事になっている。私はその支払われるであろう一割を使い、ティム君へコーヒーをご馳走した。よって窃盗ではない」
「そんな屁理屈が通用すると思っているのか」
「いいや。君の事だ。『今はまだお前のものではないのだから、窃盗罪が適応される』などと言って、現行犯逮捕するつもりなんだろう?」
「分かっているのなら、大人しくする事だな」
クリフォードは、音もなく足を踏み出す。ゆっくりと近付きながら、片手で拳銃を構え、反対の手で懐から手錠を抜き取った。
机を取り囲む警察官達も、少しずつ輪を狭めていく。
緊張感が高まる中、ラヴは、徐に口角を持ち上げた。
「その言葉、そっくりそのままお返しするよ」
ふふ、と喉を鳴らし、ティムの体に添えていた手を、上へ滑らせる。
「大人しくする事だな、クリフォード」
途端、クリフォードの歩みが、止まった。
ラヴは、クリフォードを見つめたまま、楽しげに微笑んだ。
その細い手には、いつの間にかフォークが握られていた。
三つの先端が、ティムの喉を正確に捉えている。
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