美女の名はラヴ


 ごゆっくりどうぞ、とオープンカフェの店員は、笑顔で会釈をする。

 ティムは咄嗟に頭を下げ返し、自分の前に置かれたコーヒーとレモンパイを、見下ろした。


「さぁ、どうぞ。遠慮なく召し上がれ」


 机を挟んだ向かいの席には、先程出会った美女。その前には、ティムと同じくコーヒーとレモンパイが置かれていた。



 何故こうなったのだろう。ティムは、通りに面した椅子の上で、縮こまった。



 確かに自分は、女性の願いを叶えると言った。自分の出来る事なら、何でもやろうと思った。

 しかし蓋を開けてみれば、頼まれたのはただの話し相手。それも、こんなお洒落なカフェで、こんなに美味しそうなコーヒーとお菓子をご馳走になりながらの。



 これでは、償いにならないのではないか。

 ティムは、前髪の下で眉を下げ、所在なく逞しい体を揺らしていた。



「では、改めて」


 女はコーヒーを一口味わうと、洗練された動きでカップを戻す。


「この度は鞄を取り返してくれてありがとう。感謝するよ。差し当たって、恩人の名前を知りたいのだが、教えて貰えるかな?」

「あ、は、はい。俺は、ティム・リトルと、言います」

「ティム・リトル君か。いい名前だね。ティム君と呼んでも?」

「ど、どうぞ」

「ありがとう。ティム君はいくつだい?」

「えっと、今年で、二十歳に、なります」

「二十歳か。思ったよりも若いね」

「よ、よく、言われます」


 ティムは頭を下げると、おずおずと相手を窺った。


「あぁ、私かい? 私の名前は、ラヴィニア・ラヴレス。年齢は秘密。君よりも上だとだけ答えておこうか」

「は、はぁ、分かりました、ラヴレスさん」


「ラヴ」


 え? とティムは、目を瞬かせる。


「ラヴレスではなく、ラヴィニアでもなく、ラヴと呼んでくれ。こちらの呼び方の方が気に入っているんだ。

 あぁ、言っておくが、出会う者全てに頼んでいるわけではないよ。こんな事を言うのは、気に入った相手にだけさ。そこの所は間違えないでくれたまえ」


 つまり、この美しい女性は、自分の事を気に入ってくれている、という事だろうか。ティムの頬は、自ずと熱くなる。

 けれど、初対面なのに何故、という気持ちもあった。しかも自分は、彼女の鞄を壊している。気に入られる要素は思い当たらなかった。


「所で、ティム君。先程から気になっていたんだが、その大量の新聞はどうしたんだい? 君が落とす前から破れていたようだが」


 ラヴはフォークを構えつつ、ティムの足元に置かれた木箱へ、視線を流す。


「あ……こ、これは、俺が、破いてしまって、それで、買い取ったもの、です」


 ティムは、今日の出来事を思い出し、眉を下げた。


「俺、印刷所で、働いて、いたんです。今日も、朝から、働いて、いたんです、けど、刷り終わった、新聞を、別の部屋に、運んでいる、途中に、その新聞の、記事が、見えて、しまったんです。

 そこには、とても、とても、恐ろしい、事件が、書いてあって、それで、驚いて、しまって、気持ち悪くも、なって、しまって、それで、力加減を、間違えて、しまって……気が付いたら、持っていた、新聞を、また、台無しにして、しまったんです」


 広い背中が、ゆっくりと丸くなっていく。

 視界の端に映る『男性の惨殺死体が発見』『刃物で首や腹を切り裂かれ』『腸が口に詰め込まれていた』という文字に、あの時覚えた恐ろしさが蘇ってくる。


「所長は、とても、怒りました。俺は、何度も、謝りました。でも、許しては、貰えません、でした。『もう、こなくていい』、と、言われてしまい、俺は、破いてしまった、新聞を、買い取って、仕事を、また、クビに、なりました」

「ふむ、そうだったのか」


 ラヴは、青い顔で小さく震えるティムを、じっと見つめた。


「因みに、ティム君。また、という事は、過去にもクビになった事が?」

「……はい。数え切れない位、沢山」

「それは、今回のように、何かを壊してしまった事が原因で?」


 ティムの頭が上下する。

 ラヴも一つ頷き、レモンパイを頬張った。咀嚼しつつ、ティムの太い腕や足を眺めていく。


「あ……す、すいません。こんな事、話されても、困ります、よね」

「いいや、そんな事はない。とても興味深いよ」


 ふふ、と微笑み、ラヴはフォークを、レモンパイへ突き刺す。


「君は、特別何か体を鍛えているのかな? それとも、生まれつき力が強かった?」

「生まれつき、です。赤ん坊の、頃から、玩具をよく、壊していた、と、母が、言っていました」

「赤子の頃からか。それは凄いな」


 弧を描いた赤い唇を開け、切り分けたレモンパイを放り込む。


「力の制御は、難しいものなのかい?」

「お、落ち着いて、いる時や、自分で、気を付けている、時は、どうにか、大丈夫に、なりました。

 ですが、驚いたり、怖かったり、咄嗟に、動いたりすると、駄目です。普段、抑えていた、力を、そのまま、振るってしまって、それで、ものを、壊したり、周りを、怖がらせたり……誰かを、傷付けたり、してしまいます」


 お陰で、器物損壊や傷害などで、何度も警察に世話になった。その都度両親には頭を下げさせてしまい、また姉の周りからは、友達がいなくなった。自分のような人間と血が繋がっているから。

 ティムは、迷惑しか掛けない己という存在が、嫌で嫌で仕方なかった。



 けれど、こんな自分を、家族は愛してくれる。



 沢山怪我をさせてきたのに、決して見放そうとはしなかった。

 自分からは怖くて触れない分、毎日抱き締めてくれた。

 どんなに周りから責められても、守り通してくれた。

 今だって、自分を心配して、頻繁に手紙や仕送りを送ってくれる。時には、顔を見にきてくれた。



『ティムの力は、神様からの贈り物なんだよ』



 ティムがまだ幼い頃、父はそう言って、息子の頭を撫でた。


『神様は、天から私達を見守って下さっている。良い行いをしたら祝福を。悪い行いをしたら天罰を。平等に私達へ与えるんだ。


 いいか、ティム。お前の力はとても強い。これから大きくなるにつれて、もっともっと強くなっていくだろう。その時、お前は決して道を踏み外してはならない。

 お前の力は、人を傷付ける為にあるんじゃない。人を助ける為にあるんだ。今は制御が上手く出来ないかもしれないが、でも大丈夫さ。お前なら必ず出来る。神様は、乗り越えられない試練は与えないものだからね。


 ティム。お前は、人一倍敬虔でありなさい。人一倍優しくありなさい。神様はいつもお前を見守って下さっている。決して腐ってはいけないよ。

 今は、修行の時なんだ。神様から頂いた贈り物を使いこなす、大切な修行期間。それを乗り越えた先には、きっと素晴らしい未来が待っている。隣には、必ず私達家族がいる。神様も、きっとお喜びになられるだろう。


 だから、どうか自分を、周りを、大切にするんだよ』


 父は、涙の跡が残るティムの頬を、そっと両手で包み込み、優しく笑い掛けた。母も姉も、笑顔でティムを抱き締める。そうして家族揃って教会へ赴き、神に祈りを捧げた。


 早く力の制御が出来ますように。

 普通の生活を送れますように。


 大好きな家族を、いつか抱き締められますように。



「素敵なご家族だね。愛情に満ち溢れていて、実に美しい」


 ティムの話に耳を傾けていたラヴは、ゆったりと微笑んだ。


「それで、君はご家族を抱き締められたのかい?」

「あ、はい。三年前に、漸く」

「ほぉ、それはおめでとう。ご家族は、喜んだのでは?」

「は、はい。泣いて、喜んで、くれました」


 自分も泣いたという事は、流石に恥ずかしかったから言わなかった。


「君のご家族も、君と同じような力を持っているのかい?」

「い、いいえ。そんな、とんでもない」

「では、先祖や親戚には?」

「い、いません。こんなのは、俺だけです」


 そうか、とラヴは、しばし考えるように黙り込む。

 コーヒーを飲み、徐に視線を流した。



「触っても?」



 何を、とティムが問う前に、ラヴは口を開く。


「君を。君の体を。触っても?」

「え、あ……えっ?」


 思わず仰け反るティム。その拍子に、椅子が勢い良く軋んだ。

 赤く染まっていく顔に、ラヴは喉を鳴らす。


「なに。別に厭らしい意味で、というわけではないさ。ただ、興味があるんだ。君の体に。その力の原因に。だから触ってみたい。駄目かい?」


 駄目かい、と聞かれても。

 ティムは、早鳴る心臓を押さえ、目を泳がせた。込み上げた唾を、ゆっくりと飲み込む。


「ち、因みに……どの、辺りを……?」

「まずは腕。続いて肩、背中、腹、足。出来れば胸や尻も触りたい所だが」


 ティムは、激しく首を横へ振った。


「だと思った。では、腕、肩、背中、腹、足の五か所は、触っても問題ないかな?」


 小首を傾げ、ティムを見つめるラヴ。


 ティムは熱い顔をラヴから逸らし、ぎこちなく頷いた。



 途端、美しい顔が、華やいだ。



「ありがとう。嬉しいよ」


 そう言うや、ラヴは立ち上がり、ティムの傍へとやってくる。


「では、まずは腕だ。いいかい?」


 至近距離で囁かれ、ティムの体に一層熱が帯びる。唇を噛み締めて気恥ずかしさを堪えつつ、おずおずと、腕を差し出した。


「ありがとう。では、失礼して」


 ラヴの手が、ティムの二の腕に伸ばされる。両手でも回し切れない程に太い。角度を変えては掴み直し、筋肉の付き方を確かめる。


「ふむ、見た目以上に筋肉質だな。それに重い。本当に体を鍛えてはいないのかい?」

「は、はい。鍛えて、いません」

「運動もしていない? 仕事で、重いものを持つ機会は?」

「仕事は、ありました、けど、そ、そこまで、重い、という、わけでは……」

「そうか。因みにティム君。身長と体重は?」

「え、えっと、確か、百九十八センチ、の、百二十一キロ、だったと、思います」

「一日の食事量は?」

「え? しょ、食事、ですか? 食事は、た、沢山です。五・六食、食べます。食べないと、め、眩暈を、起こして、倒れて、しまうので」

「成程。では、私が触診している間、そのレモンパイでも食べていてくれたまえ。なんなら、追加で何か頼んでくれても構わないよ」

「え、あ、いえ、それは、流石に」

「なに、気にするな。これも私の為さ。君に倒れられては困るからね」


 ラヴは口角を持ち上げる。徐々に手の位置をずらし、ティムの手首まで辿り着いた。


「ふむ、大きいな。掌の筋肉も肥大傾向にあるのか。成程」


 ティムの手を掴み、まじまじと眺める。裏返してみたり、揉んでみたり、一本一本指を動かしては、ささやかに撫でたりしている。


 家族以外の女性、それも特別美人の指が、己の手に絡み付く。そのこそばゆさと恥ずかしさに、ティムは落ち着きなく目を彷徨わせる。

 本当は身じろぎもしたかったが、こういう時程、変に力が籠ってしまうと自分でよく分かっていた。

 ラヴを怪我させるわけにはいかない。よってティムは、掌を伝う温もりから、必死で意識を逸らした。コーヒーに砂糖とミルクをこれでもかと入れ、一心不乱に混ぜたかと思えば、レモンパイと交互に口へ含み、味や香りに集中する。


 そうしている内に、掌の温もりは、肩、背中と移動していった。



「……恐らく、だが」



 不意に、ラヴはティムの背後で口を開く。


「君は、ミオスタチン関連筋肉肥大を患っているのではないだろうか」

「え、ミ、ミオ……?」

「ミオスタチン関連筋肉肥大。筋肉から出る伝達物質の一つが、何らかの原因で極端に少ないか、筋肉が上手く受容出来ない事で起こる疾患だ」


 背中の筋肉を触りながら、ラヴは楽しげに続ける。


「そもそも、筋肉が必要以上に増え過ぎると、体のエネルギーを浪費してしまうんだ。そこで筋肉には、周囲の細胞へ向けてミオスタチンを放出し、成長を阻もうとする仕組みが備わっている。

 しかしごく稀に、このミオスタチンの分泌量または受容量が少なく、筋肉が異常発達してしまう者がいる。主な特徴としては、全身の筋肉量が通常の一・五から二倍ある事。体重が身長の割に多い事。食事量が多い事。この三つだ。


 筋肉量の多さは、単純にミオスタチン不足により肥大化してしまうから。肥大化した分、筋肉は重くなり、結果体重も増える。筋肉が増えれば、その分エネルギーを消費する。よって食事を多く取らなければ、栄養失調で倒れてしまう。

 この全てに、君は当て嵌まっている。ミオスタチン関連筋肉肥大である可能性は、十分あるだろう」


 ふふ、と喉を鳴らし、ラヴは後ろからティムの顔を覗き込む。


 しかし、ティムからの反応はない。



 目と口をだらしなく開きながら、固まっていた。



「あぁ、すまない。あまりに興味深かったもので、つい興奮してしまったよ」


 ラヴは肩を竦め、微笑む。


「まぁ、簡単に言えば、君は人一倍筋肉が付きやすい体質なのだろう、という事だ。君の怪力も、恐らくはその体質が原因だ。まぁ、私もそちらの専門ではないので、確実にそうだ、とも言えないのだが。しかし、調べてみる価値があるのは確かだな」

「あ、そ、そう、なんですか」


 漸く話を理解し、ティムは溜め息のような相槌を打つ。


「あ、あの、俺の体質は、その、びょ、病気、なのでしょうか……?」

「病気かと言われれば、そうだね。だが命に関わるものではない。安心したまえ」

「ち、因みに、病院にいけば、治り、ますか?」

「さぁ、どうだろう。私の記憶では、治療方法はまだ確立されていなかった筈だが。けれど、医療は日々進化している。遺伝子を専門に研究している機関であれば、あるいは可能性はあるかもしれない」

「そ、そうですかっ」


「まぁ、そのまま実験用モルモットにされる確率の方が、格段に高いとは思うがね」


 希望を見出したティムの顔が、一気に青ざめる。


 巨体を震わせて黙り込むティムに、ラヴは、冗談だよ、と微笑んだ。


「だが、そういう可能性もあり得るという事は、心に留めておいた方がいいだろう。君はどうも素直過ぎるからな。悪い人間に騙されぬよう、ゆめゆめ気を付けるんだよ」


 ポン、と、ラヴはティムの頭へ手を乗せた。まるで子供を慰めるかのように、二度三度と撫でていく。

 青かったティムの頬へ、あっという間に赤が差した。広い背中を丸め、恥ずかしさに両手を握り込む。


 ラヴは、またティムの体を触っていく。背中を伝い、後ろからティムを抱き締める恰好で、腹へと手を回した。


 背中一杯に、人の体温を感じる。

 妙に柔らかな二つの物体も、遠慮なく押し付けられた。

 その物体が何なのか分かってしまい、ティムは今にも飛び退きたかった。けれど今動いたら、確実にラヴを弾き飛ばしてしまう。よってティムには、耐えるしか選択がなかった。


「そ、そそそ、そういえばっ」


 気を紛らわせようと、咄嗟に口を開く。


「ラ、ラヴさんは、お、お医者さんか、何か、ですか?」

「ん? 何故そう思うんだい?」

「さ、先程の、ミオ、何とか、というものの、話を、知っていました、し、お、俺の、体の事に、興味を持って、いるよう、なので。人体の事を、よく、知っているのは、お医者さん、なのかな、と」

「いい観察眼だ。確かに私は、以前医師をしていた。と言っても、精神科医だがね」

「あ、せ、精神科の、お医者さん、だったんですね。だから、あんなに、難しい事も、スラスラと、話せるんです、ね」

「昔から、記憶力だけは異様に良かったからね。君と同じさ。生まれつきだよ。お陰で専門分野だけでなく、関係ない分野も、本を読めば大体覚えられた。反面、記憶力が良過ぎて、諍いになる事もあったよ。『そんな事は言っていない』と言い張られたりしてな。

 相手は嘘を言っているつもりはない。ただ忘れているだけなんだ。そうと分かってはいても、理不尽を覚えずにはいられなかったよ。


 まぁそれでも、総合的に見れば、役に立つ事の方が多かったかな。勉強面では勿論、精神科医として働いていた時も、何気ない会話を覚えていたお陰で、患者や看護師に好かれたり、感謝されたりしていたよ」


 楽しげな頬笑みを浮かべ、ラヴはティムの肩へ顎を乗せた。零れる吐息が、ティムの耳や首に当たる。寒気とは違う感覚が走り、毛が逆立った。

 ティムは小さく身を震わせ、瞼を固く瞑る。そうして喉を鳴らすラヴから、必死で目を逸らした。



 と、つと、ラヴの手が、止まる。



 カチャリ、と金属のぶつかるような音も、複数聞こえた。




「動くな」



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