そして、犯罪者は微笑んだ。
沢丸 和希
第1章
気弱な怪力男 美女と出会う
汽笛の音が鳴り響く。蒸気機関車が、煙を吐き出しながら発車した。
この街の中心にあるセント・リンデン駅には、本日も多くの人間が集まっていた。通勤中の紳士。旅行へ向かう淑女。飲み物や軽食を売り歩く少年。他にも機関車の整備士や、燃料を運ぶ石炭業者、改札から出てきた乗客へ声を掛ける御者とその馬車など、活気に満ち溢れている。
そんな中を、とぼとぼと歩く、一人の男。
「はぁ……」
ティムは、周りよりも頭一つ高く、逞しい体を丸めた。垂れ下がる長い前髪が、情けなく歪む顔を隠す。太い両腕には、大量の破れた新聞が入った木箱を抱えている。
また仕事をクビになってしまった。眉を下げ、ティムは俯く。
故郷から出てきて二年が経つが、その間に数々の職場を渡り歩いては、半年もしない内に辞めさせられている。今回の印刷所も、三か月程で、もうこなくていい、と言われてしまった。何度も機材を壊し、印刷物を破く作業員は、必要がないそうだ。
今度こそは、と思っていたのに。
ティムの口からは、自ずと溜め息が零れ落ちる。
「これから、どうしよう……」
生きていく為には、金を稼がなければならない。けれど、何をすればいいのだろう。
何をやっても駄目。最初は笑って許してくれた人達の眼差しが、徐々に冷たくなっていく様を、何度も見てきた。
辛くて苦しくて、これ以上失敗してはならないと焦り、結果、同じ過ちを繰り返してしまう。
こんな自分に、一体何が出来るのだろう。
いや。そもそも、雇ってくれる所なんかあるのだろうか。
不安が押し寄せ、新聞入りの木箱を抱える腕に、力が籠る。
途端、木箱の軋む音が、上がった。
ティムは慌てて腕の力を抜き、木箱を確かめる。どうやら壊れた様子はない。
ホッと胸を撫で下ろし、優しく木箱を持ち直す。
すると、破れた新聞が、フワリと揺れた。
『男性の惨殺死体が発見』『刃物で首や腹を切り裂かれ』『腸が口に詰め込まれていた』という文字が、ティムの目に飛び込んでくる。
「う……っ」
込み上げた吐き気に、ティムは人一倍大きな体を一層丸める。
文字から浮かび上がった光景が、頭の中で強烈に展開される。あまりの生々しさに、血の臭いが鼻の奥から湧き上がってくるような錯覚を覚えた。
唾ごと吐き気を飲み込み、ティムは覚束ない足取りで、通りと線路を隔てる金網へと寄る。空を見上げ、静かに深呼吸を繰り返した。しばしその場に立ち尽くす。
「ふぅー……」
漸く気分が楽になってきた。ティムは強張っていた肩の力を抜き、上げていた目線を落とす。
すると、通り掛かりの人達が、何やらティムへ視線を向けていた。遠巻きに一瞥したり、指を差す子供もいる。
ティムの眉が、情けなく下がる。きっとこんな図体のデカい男が、こんな所で何をするでもなく突っ立っているから、不審に思われたのだろう。
落ち着いた筈の気持ちが、またさざめき始める。それをどうにか堪え、ティムは顔を俯かせた。体も出来るだけ縮め、自分の住処へ向かって、先程よりも早く足を進めていく。
「きゃあっ」
前方から、突如悲鳴が上がった。
ティムは逞しい体を跳ねさせ、恐る恐る顔を上げる。
若い女が、倒れていた。走り去ろうとする男へ、手を伸ばしている。
男の手には、女ものの鞄が握られていた。
ひったくりだ。ティムは息を飲み、驚きに立ち竦む。
「退けぇっ!」
男は険しい形相でティムを睨み、駆けてくる。どんどん近付いてくるひったくりに、ティムの顔もどんどん引き攣っていく。恐怖で腰は引け、心臓は今にも止まってしまいそうだった。
けれど、と、ティムは唇を噛み締める。
もしここで自分が退いてしまったら、女性の鞄は、きっと戻ってはこないだろう。
そうしたら、女性はきっと悲しむに違いない。自分だったら、辛くて、家族に申し訳なくて、泣いてしまうかもしれない。
だから。
唾を飲み込み、逃げたがる足を必死でその場に縫い止める。破れた新聞入りの木箱を左腕に乗せ、空いた右手の人差し指を、そっと立てた。
そしてすれ違い様に、ひったくりが抱える鞄の持ち手へ、指を引っ掛ける。
途端。
「ぐえっ!」
ひったくりの体が、急停止した。
両足が地面から離れ、空中で体を折り曲げると、尻から勢い良く落ちた。
痛々しい音が辺りに響き、ティムは身を竦ませる。
「あ、す、すいません。大丈夫、ですか? 怪我は、あ、ありませんか?」
身を屈め、呻くひったくりの顔を覗き込む。
ひったくりは、勢い良く振り返った。
けれど、罵声を浴びせようとした口からは、何も出てこない。自分より遥かに大きく、筋骨隆々な男に見下ろされ、怯む。
「え、あ、ど、どうしましたか? ま、まさか、どこか、痛いですか?」
何も言わないひったくりに、ティムの焦りは募っていく。これでもかと眉を下げ、視線を彷徨わせ、迷子の子供のような空気を醸し出した。
そんなティムに、ひったくりは気を取り直す。それから、鞄の持ち手に掛かったままのティムの指を見て、眦をつり上げた。
「う、煩ぇっ! 邪魔するんじゃねぇよっ!」
突然の怒鳴り声に、ティムは逞しい体を震わせる。
けれど、鞄の持ち手に引っ掛けた指は、決して外さない。
「あ、あの、盗みは、駄目ですよ」
「あぁっ!?」
「っ、で、ですから、盗みは、いけないです。こんな事をしては、神様が、悲しみます」
「黙れこの野郎っ! いいからとっとと離せってんだっ! ぶっ飛ばすぞコラァッ!」
しかし、いくらひったくりが鞄を引っ張ろうとも、ティムの指はビクともしなかった。
第二関節で持ち手を挟んだまま、鞄を奪おうとするひったくりへ、一生懸命語り掛ける。
「神様は、あなたの、行いを、天から、見ています。このままでは、きっと、天罰が、下って、しまいます、から、なので、この鞄を、すぐに、返しましょう。きちんと謝り、反省し、もう二度と、わ、し、しないと、誓うのです。そうすれば、きっと、う、許して、くれます。あぅ、鞄の、持ち主さんも、神様も、ひぇ」
ひったくりは、ティムへ拳や蹴りを叩き込む。それでもティムは、怯むばかりでその場から動かない。痛がる素振りも見せない。
寧ろ、振るっていたひったくりの拳や足の方が、痛くなってきた。まるで、たっぷりと砂の詰まった巨大な袋を、殴り付けているかのようだ。
得体の知れない相手に、苛立つひったくりの心へ、恐怖が滲み始める。辺りにも人が集まってきた。
分が悪いと判断したひったくりは、鞄を手離すや踵を返した。呼び止めるティムに背を向け、逃げていく。
あっという間に姿が見えなくなったひったくりを見送り、ティムは安堵の息を吐いた。
怖かった。沢山怒鳴られたし、沢山睨まれた。攻撃も沢山食らった。痛くはなかったものの、己の肉体に当たる度、鈍い音と衝撃が伝わって、背筋に冷たいものが駆ける。今思い出しても手足が震え、歯の根が合わずにカチカチと音を立てた。
でも、と、ティムは右手を見下ろす。
人差し指にぶら下がる女ものの鞄に、ほんのりと唇を緩ませた。
「なぁ、君」
唐突に、背後から声を掛けられる。
ティムは巨体を跳ねさせ、ゆっくりと振り返った。
美しい女が、すぐ傍に立っていた。
長く艶やかな髪と簡素なワンピースの裾を靡かせ、背の高いティムを見上げている。
その肌は異様に白く、太陽の光を反射する程きめ細かい。
整った顔には笑みが浮かび、妙に目を引く赤い唇は、緩やかな弧を描いている。
滅多にお目に掛かれない美人の登場に、ティムは硬直した。目と口をポカンと開け、長い前髪越しに、目の前の美女に見惚れる。
「うん? どうしたんだい?」
「っ、す、すいません……っ」
ティムは慌てて視線を逸らす。初対面の女性を凝視するだなんて。どう考えても不躾だろう。しかも自分は、こんなに図体のデカい男だ。もしかしたら、怖がらせてしまったかもしれない。
あぁ、なんて気が利かないんだ。不甲斐なさにまた眉を垂れさせる。視線も落とし、溜め息を吐いた。
と、不意に、女の纏う服が、目に留まる。
何故か、汚れている。手や足にも土が付き、まるで先程まで地面にうつ伏せていたかのようだ。
そこで、漸く気付く。
「あ、あの、もしかして、ひ、ひったくりに、あった方、ですか?」
「あぁ、そうだ。鞄を取り返してくれてありがとう。お陰で助かったよ」
ふふ、と喉を鳴らし、女は頭を下げる。
美しい微笑みを向けられ、ティムの心臓は強く跳ね上がった。巨体を揺らし、目も彷徨わせる。
「い、いえ。そんな、お礼を、言われる程の、事では……」
「だが、君がひったくりと戦ってくれなければ、きっとあのまま盗まれていただろう」
「た、戦った、だなんて……俺は、ただ、鞄の持ち手を、掴んでいた、だけ、ですから」
「それでも、私は助かったんだよ。だから、どうか感謝させてくれ。本当に、ありがとう」
真っ直ぐ自分に向けられた言葉。
久しぶりの『ありがとう』に、ティムの顔はほんのりと色付く。緩みそうになる唇を噛み締め、俯くついでに会釈をした。
重く淀んでいた心が、少しだけ軽くなる。こんな自分でも、人の役に立てた。そんな達成感に、嬉しさが後から後から込み上げる。
きっと神様が、ご褒美を下さったんだ。ティムは心の中で、毎日捧げている祈りと、神への感謝を呟く。手を組む代わりに右手を握り、自分の胸へそっと当てた。
すると、右手の人差し指に、何かが揺れる感覚を覚える。
「あ、そ、そうだ。あの、こ、これ」
人差し指で持っていた鞄を、そっと差し出した。
途端、ティムと女の目の前で、鞄が地面へと落ちる。
見れば、持ち手が片方、根元から千切れていた。
ティムの顔色が、一気に変わる。
青さを増す度、逞しい巨体も震えていく。
「あ、す、すい、すいません。壊してしまって、すいません。本当に、すいません。あの、う、べ、弁償、弁償しま、あっ」
財布を取り出そうと身を捩るや、左腕から木箱が滑り落ちる。足元に、破れた大量の新聞が広がった。
ティムは慌てて拾い集める。女もその場にしゃがみ、新聞へ手を伸ばした。
「す、すいません。鞄も、すいません」
「いいんだよ。気にしないでくれたまえ」
「で、でも」
「二度と帰ってこなかったかもしれないんだ。感謝こそすれ、責めるなんてしないさ」
穏やかに微笑み、女は破れた新聞を拾っては、木箱へと入れていった。
ティムは、長い前髪の奥で眉を下げる。人の優しさが身に染みた。同時に、成長のない自分に失望する。これでは仕事をクビになっても仕方ない。
込み上げた溜め息を飲み込み、代わりに、大きく息を吸った。
「あの、お、俺に、出来る事は、ありますか?」
「ん? 出来る事?」
「鞄、壊して、しまったから、お、お詫びを」
「あぁ。本当に大丈夫だよ。気持ちだけで十分だ」
「で、ですが、ですが、これでは、俺は、は、犯罪者です」
女は、目を丸くする。
「た、他人のものを、壊すのは、器物損壊、の、罪に、当たります。俺は、罪を、犯しました。で、ですから、償いを、したいです。させて、下さい」
新聞を両手に握り締め、ティムは必死で女を見つめた。
女は、しばし目を瞬かせる。それから一度空を見上げ、つと、微笑んだ。
「なら、一つお願いしてもいいかな?」
「っ、お、俺に、出来る事なら、何でも」
「ありがとう。でも、その前に」
と、女は、細い指で、ティムの手元を差す。
「それ、いいのかい?」
それ? とティムは、女の示す先を見やる。
握り込んだ新聞が、めちゃくちゃに引き千切れていた。
掌を開けば、細切れとなった紙が、花弁の如く地面へと落ちていく。
またやってしまった。ティムの顔は、一層情けなく歪んだ。
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