5.周辺環境は行間にビール

 年が変わり、マギーが初雨乞いをしたとき、私は彼に提案した。


「雨乞いをする日の朝に水をやるから、雨乞いをしたくなったら教えてくれる?」


「分かった」


 それから二週間後、帰ったらマギーは雨乞いの儀式をしていた。


「何で今朝教えてくれなかったの?」


「今朝?」


 何度か詰め寄ったが、話は通じなかった。どうやら、マギーには今朝という概念がないらしい。対策に自動水やり器を導入しようにも、不定期に雨乞いをするせいで時間設定がまるでできない。マギーに何日後の何時頃に水やりをやればいいかアポをとろうにも、「分からんな。今は水で満たされてる」と返すばかり。


 先回りで対応しようにも、当のマギーが非協力的では手の打ちようがない。姿かたちは確かにキュートで、そのくせドスの効いた声というギャップはなかなかカワイイものなのだが、見た目だけで成立する程同居生活は甘くない! と未経験者は語る。


 水分や日光やら湿度やら風やら気温やらにはうるさいくせに、時間にはあまりにルーズすぎて、いつの間にか、マギーは癒しどころか悩みの種になりつつあった。〈植物2.0〉は本当に植物自身の声を聞かせてくれるのだ。人間に分かるように翻訳こそしてくれているものの、根本的に違うものが確かにある。それは〈セーブ・ザ・バリュー〉で追える文化の問題でも、〈ユア・トレジャー〉で発掘できる価値観の問題でもない。認知し、モデルを作る世界がまるで違う。


 私には、この子を理解することはできないと思った。確かに見た目はカワイイし、重低音の声というギャップも気に入っている。でも、これは男と女とか、日本人と外国人とか、そんなレベルを超えている。種を超え属を超え、界をも超えた異種コミュニケーション。そんなもの、最初から成り立つはずはなかったのだ。


 ビールを! 我にビールのあらんことを! 


 空き缶は日に日に増えていくばかり。健康情報を毎週欠かさず登録しないと保険料が上がってしまうので体重計に乗らざるを得ないのが憂鬱だった。五キロ増えていた。ギリ想定内。



 🌳 🌳 🌳


 久しぶりに茜を女子会でもと誘うも、夜の居酒屋は断られた。代わりに日本橋でのランチになった。


「え、妊娠? おめでとう!」


 お酒を断られた時点で想定内の報告だった。先にどんどん行かれることに焦りを覚える気持ちもどこかに少なからずあったが、それよりも中学からの親友が幸せそうにピザを頬張っているのを見ると、私の心の中にもじんわりと温かいものが広がった。ビールが進む。


「ところで、〈植物2.0〉の方はどうなの?」


 一連の報告を終えた後、茜は突然鋭い目つきで突っ込んできた。私は正直にすべてを話した。マギーの注文が多いこと。それには慣れたが時間にルーズ過ぎて先回りに対応するのが難しいこと。途中からは使えない上司や愚図の彼氏の愚痴を言っているような口ぶりで、わがままなマギーのことをこき下ろしていた。


 茜は口を挟むことなく最後まで聞いてくれた。私は茜のこういうところが一番好きだった。きっと、茜の旦那さんもそこに懐の広さを見出したのだろ――。


「ばっかじゃないの、瞳子」


 と見せかけてばっさりいく。茜の本当に一番好きなとこはこういう思い切りの良さだ。ただ、マギーの愚痴をこぼしている間ずっとそう言うつもりだったのかと思うと自分が恥ずかしかった。


「多肉植物はあんたの部下か? アポって何、笑っちゃう」


「でも、先に教えておいてもらわないとずっと喚くことになるし、近所迷惑だし……」


「瞳子、ペット飼ったことないでしょ?」


「え?」


 図星だった。元々あまり外遊びが好きなタイプではないから動物は苦手だし、植物も虫がいっぱいつくから間近で観察したのは小学生の時の朝顔が最後だった。


「やっぱり。瞳子がマギーとうまくいかない理由、分かった気がする」


 茜の低い声に私は思わずビールを飲んだ。


「植物の認知する世界を理解しようだなんて、無茶をしようとするからだよ。理解しようとしたらダメ。理解できないことを、理解しなきゃ」


 息が詰まって、行き場所を失ったビールが口内で滞留する。


「でもあえてアドバイスをするとしたら、グラプトベリアにはね、過去とか未来とかの時制がないんだと思うよ。だって、植物は目の前の問題に対処できなきゃ死ぬだけ。動物みたいに逃げることはできない。だから根本的に、植物は人間よりも格段に、現在に生きてると思うの」


 その視点は想定外だった。



 🌳 🌳 🌳


 家に帰ると、静かに夕日を受けるマギーはたそがれているようにも見えた。


「お、二酸化炭素濃度が上昇したぞ。生憎だが、周辺環境さん、今は完全に快適だ。何も頼むことはない」


「ねえ、マギー」


 フローリングに寝そべり、私はちょっとだけ大きくなったマギーに顔を近づけて話す。


「なんだ、めっちゃ二酸化炭素濃度と湿度が上がったぞ」


「あんたはさ、初めてうちに来た日を覚えてる?」


「うち? うちって何だ? 害虫か?」


 私は事細かくマギーがやってきてからの出来事を話した。ベランダで夏日の日差しに死にそうに呻くマギー。鉢を運ぶ途中に大地がぐらぐらすると騒ぐマギー。加湿器の湿度設定に根が腐ると喚くマギー。雨乞いを繰り返すくせに、直前までに雨乞いのタイミングが分からないとしらを切るマギー。


 そのすべてを、彼は覚えていなかった。


「なんであんたには、記憶というものがないの?」


「記憶? 記憶って何だ? 光合成に必要なのか?」


 記憶という概念の説明には苦労した。既に、同じ刺激を与え続けるとその刺激に慣れていくことは分かっていたから、そのことが記憶だと説明した。大地を揺らし続けていると、次第にマギーが騒ぐことはなくなる――そのことから、少なくとも、人間で言う短期記憶に相当するものは持っていると推測できた。


「分かんねえな」


 ぶっきらぼうな返事。過去なんて関係ない。関係ないことに悩みすらしない清々しさ。私はマギーを始めて羨ましいと思った。


「じゃあさ、未来のことって考えたことってある?」


「未来? 未来って何だ? リンは含まれているのか?」


「例えばさ、これからとても暑くなるとしたら、どうするよ、マギー?」


「何だ、とても暑いのか? でも感じないぞ。俺の温覚はぶっ壊れたのか? 助けてくれ、周辺環境さん」


「違うって。例えばの話。仮定の話」


「仮定? 仮定って何だ? 生き残るために必要なのか?」


 私は返す言葉を持たなかった。


 ――


 それ程までに、原始的で、鮮烈なそのフレーズは私の中でうごめく曖昧で微弱な言葉たちを一掃した。


 グラプトベリアの世界を完全に理解する日は来ないのだろうと思っていた。でも、彼らの世界はあまりにもシンプルだった。理解できない程に。すべては生きるために必要か、否か。不要なものはすべてばっさり。それで、確かに現在を生きていける。現在を生き延びた先に、未来があるのだから、それでいいのだろう。


 それが、逃げることをしない植物が辿り着いた適応の終着点の一つだった。


 一方動物は自分の足で大地を駆け、時を翔けて未来へ向かって行く。危険から逃げていける。逃げていけるから、生きていける。だから未来のことを考えるようになった。未来を考えるためには過去から学ぶ必要があるから、そうやって未来と過去とを思い描き、逃げて逃げて逃げ延びた者たちの末裔――それが私。それをこじらせて、ありもしない未来の想定に縛られて、まぼろしと戦っていた愚か者――それも私。


 年末、実家に帰るのが憂鬱だった。結婚するもしないも瞳子の自由だよ――母の優しさに胸を締め付けられるのかな、と思うと。ワイン好きの彼とデートに行く前も不安だった。彼が教えてくれる美味しいワインの味を、的確に表現できないかも、と思うと。プレゼン前も不安だった。すべてをAIに任せ、そのまとめを話すだけの代弁者たる私に、本当にいい広告が作れているだろうか、と思うと。


「ありがとう、マギー」


 それは、私自身の心の奥底から出た、私自身の言葉だった。


「ありがとう? ありがとうって何だ? 生き残るために必要なのか?」


「必要なの。面倒くさい社会で生きる『周辺環境さん』が生き残るためにはね」


「そうか! 必要か! ならばいくらでも言ってやる。ありがとう、周辺環境さん!」


「どういたしまして」


 今日のビールは格別だった。ビールが生き残るために必要か?


 もちろん。

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