サン
泉宮糾一
サン
白い砂浜の波打ち際に、女の子が横たわっていた。波にのまれたらすぐに流れてしまいそうな、小柄な女の子だった。島で暮らす老体の男は、死体が流れ着いたのだと思った。満ち潮へ向けて迫り来る波に、その小さな身体をそっと流そうとして、微かな呻き声に気がついた。
「生きているのか」
男の問い掛けに、女の子は薄目を開いた。ぼんやりとした瞳がやがて男に焦点を合わせた。
女の子は砂と海藻に汚れていたが、身なりは整っていた。陸の方から流れ着いたのだろうと男は推測した。
女の子の出自や経緯を知るために、男が話しかけても、女の子は小首を傾げるだけだった。男は早々に諦めた。陸の言葉と島の言葉は違う。男もわかっていた。島の言葉は古いものだ。今となっては男以外に話せるものはいなかった。
男が歩くと女の子はその後をついてきた。男の手に提げた籠に詰まっている魚を物珍しげに眺めていた。
岩場に辿り着くと、男は火をおこし、魚をくべた。匂いが漂うと、女の子が腹を鳴らした。男は平たい岩に女の子を促した。女の子はふらつきながら岩に腰掛け、男を見つめた。男は軽く頷くと、魚に視線を戻した。
焼き色のついた魚を石の皿に載せ、以前陸から流れ着いたガラス瓶の塩を振りまいて、女の子の前に差し出した。女の子は今一度男と皿を交互にみた後、たどたどしく魚を指で突くと、肉を抓んで口に含んだ。身体が前のめりになり、魚を持つ手が両手になった。頬袋を膨らませながら、勢い込んで食べる女の子の姿に、男もまた感心していた。人が食事をする姿を、男は久しく見ていなかった。
男が自分の魚を皿に載せたときには、女の子はすでに皿を平らげていた。男の魚を見て目を輝かせていたので、男は魚の腹を千切り、野草と豆を煮詰めたものも添えた。女の子はそれらを食べ終えると、ゆったりと背を地面に預けた。呼吸に胸を上下させ、顔に微笑みを浮かべていた。
「満足か」
通じないとわかっていても、男は声を掛けた。返事がなくても仕草で伝わってきた。
女の子は寝転がりながら、周りを観察しているようだった。あたりいったいに顔を向け、やがて一際高い岩場にそびえる一本の樹に目が留まった。折り曲げた指先のように、地面が伸びていく枝。その葉の隙間からは赤い花弁が垣間見える。その花弁のうちのひとつが傍に落ちているのを発見すると、女の子はそれに手を伸ばした。半月の形をした花弁は、女の子の指に抓まれ、よく撓った。
「デイゴ」
男の声に、女の子は振り向いた。男はデイゴと、ゆっくり発音した。女の子は同じ音を繰り返して、花を見てもう一度、その花の名前を呟いた。
「デイゴの花は嵐を呼ぶ」
木を見上げ、男は呟いた。
「遅くなる前に片付けるぞ」
空が瑠璃色に昏くなる頃、男は女の子を自分の家屋へと案内した。かつて島の酋長が残した、雨でも揺れない石造りの家だ。
島のそこここに生えている、ススキの葉を三枚、組み合わせてひとつの図形を編む。ゲーンというそれは、魔除けのお守りであり、男の手癖でもあった。手頃な三つの細い葉があれば、片手で揉んでいるうちにゲーンを作り出せた。
女の子は感心した様子で男の真似をしたが、揉んでいるうちに一枚破れ、二枚目が落ち、結局は一枚だけがくるりと巻き付いた。男は呵々と笑い、呆然としている女の子の髪を撫でた。
「それはサンだ。大丈夫、それでもマジムン(魔物)を払うことはできる」
そう言うと、男は女の子の髪にサンを結わえた。細く滑らかな髪が日差しの下で輝いていた。
男はその日から、女の子をサンと呼ぶようになった。
魚を捕って、山菜を摘む。ときには沖から流れ着いたものを広い、自分の家に運んだり、岩場に持って行って必要なものを拵える。一人きりで暮らす生活が男の身体には染みついていた。
サンと出会ってから、男はまず寝床を新しく作り、大きな常緑種の葉を集めて、蔓で結び、スカートを作った。サンはそれを腰に巻くといたく気に入った様子で、男の真似をし始めた。スカートの他にも、上に羽織るものをいくつか作り、自分の身に通していった。
昼を過ぎると二人は沖で魚釣りをする。釣果はその日の夕食となる。島は全てが海に囲まれている。時には鯨さえも見えることがあったが、男が狙うのは、南からの海流に漂う脂ののった魚群だった。大したエサを括らずとも、男の垂らした竿に魚は自ら食いついてきた。
手製の舟に乗り、男は竿を垂らしていた。サンは端に座り、物珍しげに水面を眺めていた。トビウオが跳ねて飛沫にかかり、悲鳴を上げて転げていた。
男は、視線を感じた。離れた場所に舟に乗った人がいた。双眼鏡を向けている、二人の若い男だった。
「見るな、サン。無視してろ」
サンの背を引き、男は櫂を動かした。波に乗り、舟は離れていった。
陸の人間が男の生活を眺めにくることは、過去にも何度もあった。未だに古めかしい生活をしている男を、稀少な生物として捉えているらしかった。その視線を感じたら、男はいつも、無言で立ち去ることに決めていた。
下卑た笑い声が男の耳朶を叩いた。仲間内で冗談を言い合っているらしい。男には聴き取れないダミ声は、けたたましい鴎たちの声にも、なかなか紛れてくれなかった。
突然、舟が大きく揺れ、男は体勢を崩した。サンが舳先に立ち、持っていた貝殻を若者たちに向けて投げつけた。男は慌ててサンを引き寄せた。サンは顔を赤くし、若者たちを睨み付けていた。
「サン」
貝殻は、舟に乗る前に砂浜でサンが拾ったものだった。陶器のような質感にサンは見とれていたはずだった。その貝殻は、若者たちには届かなかった。海の上に落ちて波を立たせると、若者たちは冷めた顔で去っていった。男はサンの背を擦り、しばらく彼女を宥め続けていた。
デイゴの花が嵐を呼ぶ。言い伝えのとおり、空は黒い雲に覆われ始めた。たまに差し込む日の光も、弱々しく頼りなかった。そんなある日、島に人が降り立った。陸の人たちの服装を着こなし、陸の言葉を使う青年だった。たった一人でやって来た彼は、岩場にいたサンを見つけ、嬉しげな声を張り上げた。そしてサンの隣に立つ男を見て、その顔から笑みが消えた。
沈黙を破るように、サンは声を出した。歓喜の声に、男は思えた。
走りだそうとしたサンは、足を止め、男を振り返った。
「お前を迎えに来たんだろう」
男は青年を顎でしゃくった。青年は浅黒い肌をした、精悍な男だった。先端でくるりと巻いた髪が、サンと良く似ていた。
「お前は陸の人間だ」
舟に乗っていたあの若者たちが、サンの存在に気づき、親を呼んだのだろう。言葉がわからずとも、察しはついた。
男はサンの背を強く押した。
「行け」
よろけたサンが、不満げに男に詰め寄ろうとする。
男は手にしていた竿を地面に打ち据えた。乾いた鋭い音が響いた。サンが悲鳴を上げ、青年が罵声を飛ばした。青年はサンに駆け寄ると、小さな彼女を抱え上げた。
「マジムン」
青年は男を睨んで、低い声で唸った。遠ざかっていく彼らを見て、男は呵々と笑った。笑うより他なかった。
砂浜に誰もいなくなっても、男は笑っていた。もう声は出てこなかった。何にもなれない息を吐き続けていると、喉の奥が焼けるように熱くなった。
男は口を閉じた。
食事のとき以外で、男が次に口を開くのは死の間際だった。
嵐に巻かれ、デイゴの花は落ち、赤々と岩場を染め上げた。嵐の季節が過ぎると、日差しの厳しい真夏が訪れた。
男は細々と暮らした。
皺だらけだった身体がさらに衰え、歩く力も失われていった。生気を吸い取られたかのように、男はかつての仕事さえも億劫になった。
男は何も作らなくなった。作りかけだった机と椅子も、雨ざらしになり、いつの日か崩れて落ちた。岩場に落ちた瓦礫は鳥たちに運ばれた。葉で編んだ衣服は蟹たちが解いていった。石組みの家さえも、嵐のときに降ってきた鉄屑のせいでひび割れ始めていたが、男を動かすには至らなかった。
元に戻った、と男は感じていた。
何もなかった生活に、一時期、他の人が男の傍にいた。そこに意味を見出そうとしても、男には何も思い浮かばなかった。
前日に雨に濡れたせいか、男は少し体調が悪かった。身体がだるく、思うように動くことができず、ちょっとした泥濘に嵌まって足を滑らせた。視界は反転し、空が足の先にあると思ったら、強い衝撃に世界が眩み、男は何も見えなくなった。
気がついて目を開いても、意識がはっきりしなかった。今が朝なのか、昼なのか、夜なのかさえもわからなかった。視界は赤く染まった。身体は動いていなかった。奥深いところに力を込めると、激痛によって気持ちを削がれてしまった。
これが最期だと男は思った。この島のことを憶えている者はこの世からいなくなる。知っている者が全て島を見捨てて去る一方で、一人残ってから、いつかは起きることだと覚悟していた。
景色の端にデイゴの木があった。花が散り、緑の葉を広げるその枝に、サンが結びつけられているのに気づいた。
男が結んだものではない。
サン。
彼女と会っていた時間は、人生のほんのひとときだった。人生の何割にも満たなかったはずの時間が、今になって男の頭の中に呼び起こされていた。
「もっと良い名前をつけてやれば良かったな」
デイゴの枝はなおも広がり、強い日差しから、皺だらけの老体を守り続けた。
その島の岩場には、デイゴの木々が並んでいた。人の手が行き届かないその場所で、誰に言われたわけでもなく、木々は必ず春先に赤い花を咲かせていた。。
陸の上からも、その赤ははっきりと見ることができた。
色合いの深いときは、激しい風が吹き荒れる。淡いときは、穏やかな夏が訪れる。人々は島を見守っていた。それでいて、決して近づこうとはしなかった。
海に咲く一輪の花のようだと誰かが言い、誰かが静かに祈りを捧げた。
サン 泉宮糾一 @yunomiss
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