第9話

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「……これは」

 夜の闇に一つの赤い玉が忙しなく動く。燕尾服の尾が夜の冷えた風に靡き、腰に佩いた二本の短い日本刀は座り込むと地面に鞘が当たってカタリと音がなった。

 公園の木は根刮ぎ倒れ、下生えは元の丸く整えられていただろう外観は見る影もなくボロボロに、遊具達は壊れ子供には触らせられない危険物と化し、地面は抉れてボコボコに。

 そして辺りのビルや民家の壁には穴が空いており、朝になれば被害届が警察に殺到する事は間違いないだろう。

 そして、廃ビルの壁に封印されるように打ち付けられ血を吐いて気を失った部下がいる。

 ダウントにダンナと呼ばれる男の視界に映る破壊の風景は、男に少なからずの衝撃を与えていた。

「殊の外、意想外だ。ダウントがこれ程圧倒的に敗北するとは。やはり、敵は“真越者レアヴァナント”。生成に成功していたのか。と、するとあの少女、か」

 気絶するダウント付近の地面を、何か手がかりがないかとバイザーの赤い一つ目を動かして探す。

 男の脳内では研究所から飛び立った緊急離脱ジェット機ストークに乗せられ、何かの装置に浮いていた少女の姿が浮かんでいた。

 中をしっかりと確認する事は出来なかったが、態々研究所から持ち出して逃げようとする研究素体がただの死体とは考えられない。

超越者レヴァナント”だったとしても、存在自体が貴重な“超越者レヴァナント”は、自分達の研究に使える為持ち帰ろうと考えていたし、“霊玉”ならそれで目的は達される。

 例えジェット機になくてもダウントが探し出せる、と二人による作戦“霊玉”の強奪はどうやらダンナの方に正解が転がっていたらしい。

 ダウントの方になく、尚且つ男が追っていた装置がダミーだった時が一番最悪の事態だったが、存外幸運の女神は自分達に微笑んでいるようだった。

 ダウントはボロボロに負けてしまったが、まだ完全な敗北の訳ではない。

「起きろ、ダウント。仕事の時間だ」

「ウァ……くそ……」

 死んだ様に眠っていたダウントは男の言葉一つで眼を覚ます。

 健在の腕で自身の胸を貫く刃に手を添え、状況を再確認する。

「俺は……どれだけ長い間寝てたんだ?」

「君の通信機が壊れてから一時間は経っていないよ」

「そうか、そんなもんか……」

 ダウントのいつもの活気は感じられなかった。

 目は虚で蝋燭の火のようなか細い生命しか感じない。

「それで、相手はやはり“真越者レアヴァナント”なのか? どれだけの力を持っていた? 能力はなんだった?」

 男はダウントの傷など関心が無いように、次々と捕獲対象の話題を持ち出す。

 それは無機質で、配慮のかけらもない言葉だったが、ダウントは文句一つ言わずに答えた。

「あぁ。ダンナの思ってる通りだ。あいつは強ぇ……」

「強いかどうかはどうでもいい。能力の詳細を話せ」

「わからねぇ。あんまりにも一瞬でやられちまったもんだから、何の能力かは、わからねぇ」

「そうか……使えないな」

 小さな嘆息を吐くと男はダウントに背を向けて、その場を去ろうとした。

 まるで使う事の出来なくなった武器を本当に使えなくなったかを確認しに来たくらいの気軽さで、ダウントから興味を失くしていた。

 とはいえ、ジェット機ストークから爆破寸前飛び降りた男の身体は海に叩きつけられ、多少なりとも不調である。

真越者レアヴァナント”相手にどれだけ善戦出来るか、そのシミュレーションが出来ない。

 万全ならば誰にだって負ける事はないと自負していた男だったが、“真越者レアヴァナント”だけは別だった。

 彼らは人間を越えた化け物であり、世界で今頂点に立つ種なのだから。

「ま、待ってくれ……」

 ダウントの未練たらしい声に喉元を掻っ切りたい気持ちに苛まれながら振り向く。

 バイザーの赤い一つ目が燦々と輝いてダウントを睨みつける。

「確か……開発中の薬があっただろ。あれを使わせてくれよ……。頼む、このままじゃ終われない」

「貴重な数少ない未完成品の薬を貴様如きに使えと? 貴様に投与する事で、どれだけのデータが得られると思っているんだ。ダウント、貴様ではもう私の役にはたたないのだ」

「待ってくれよ! 今度は負けねぇ。命を救ってもらったアンタに俺は恩を返してぇんだ。It's a promise……あぁ、これは誓いだ。絶対、いい結果を出してみせる」

「……」

 敗北した人間が放つ言葉は何の説得力もないもので、男は黙ってダウントを見つめた。

 数秒の沈黙の後、ポケットから取り出された容器を粗雑に投げ捨てる。

 注射針が取り付けられた円柱型の容器はとても頑丈でコンクリートの地面を跳ねながら転がってダウントの手元に辿り着く。

 血よりも赤い、見ただけでも空恐ろしい液体な事が理解出来る代物だったが、ダウントは重たい口の端を上げて、

「感謝だ……ダンナ」

 と、言って容器を手に取り何の躊躇なく、注射針を首元に刺した。




 弐祐が目を覚ました時、そこは見知らぬ天井だった。

 白く何もない無機質な天井。一瞬、彼の中に天国という単語が出てきたが、耳から入った咽び泣く甲高い声がそれはない事を教えてくれた。

「にずげっ、にずげっ! よがっだぁ……よがっだよぉ」

 大きく揺さぶられる振動の発生源に目を向ければ、三甘がわんわん泣きながら弐祐の眠るベッドを揺すっていた。

 どうした、何をそんなに泣いているんだ、と声を掛けようとしたが弐祐は辞めた。

 起こそうとした身体が全く動かないのだ。少しでも腕を、顔を上げようとすれば、軋んだ骨格が痛みでそれを拒絶する。

 弐祐が不可解な事態に喫驚していればそれを見た舞猫が一言。

「貴方は酔っ払いの軍団と喧嘩して大怪我を負ったらしいわね。突然ふっかけられた喧嘩に多勢に無勢。弐祐は路地裏へと連れ込まれてタコ殴りにされてたと、そう聞いたのだけれど、本当なの?」

 三甘の横で毅然と振る舞う彼女はそれでも前に組んだ手をわなわなと震わせていた。

 この突拍子も無い話を考えたのは一体誰かはわからないが、弐祐の身体が負傷しているのは確かだ。

 弐祐の態度次第でこの話を信じるかどうかを判断する腹づもりのようだった。

「あぁ……酷く痛かったな、あれは」

「その怪我見れば、まぁ痛かったでしょうね」

 言い方は軽かったが声音の怒気は隠しきれてはいなかった。

 目付きもいつも以上に鋭く尖り、目の中の黒目は殺人者のそれだ。

 弐祐が入院している間を狙って酔っ払い共に報復をしてやろうと考えていてもおかしくない。

「だ、ダメだぞ。俺も俺できっかりやり返してるから……おあいこだ」

「どこがおあいこなのよ。貴方は一人で相手は十人だったのよ。全然吊り合いが取れていないわ」

 強い口調で言い返した舞猫の言葉は、報復を心に決めていないと帰ってこない言葉だ。

 吊り合いが取れていない。だから吊り合いが取れるように出向いてやる。

 そうとも聞こえる憤懣やるかたない気持ちの先は前で組んだ手の甲を爪で抉る事で緩和していた。

 血が流れてポタポタと床に垂れているのが寝た状態の弐祐でも分かった。ベッドが少し斜めっている為だった。

「ま、待てって。やめろよ舞猫。頼むからさ」

「…………チッ」

 小さく舌打ちするそれは心を組んでくれない弐祐へのものか、心を制御出来ない自分へのものなのか。どちらにせよ、歯がゆそうに下唇を噛んだ舞猫はそれ以降口を閉じてしまった。

 相変わらず三甘はベッドにしがみついて泣いていて、弐祐はこの事態を収拾する方法は、ナースが自然と来てくれるのを待つしかないと思った。

 無機質な病室は窓の一つもなかった。

 点滴に、心音を計る機械がピッピッと音を鳴らして命の鼓動がある事を弐祐に教えてくれている。

 ベッドの上にはカーテンレールが囲むようにして取り付けてあり、カーテンは今は端に纏められていた。

 病室らしい病室。だが弐祐はまるで隔離されているような感覚を得ていた。

 そして病室の引き戸が開かれた。

 弐祐の推測が正しい事を証明しに来たようなタイミングだった。

「申し訳ありません。黒劔様。事件当時の話を少し聞きたいと警察がいらしてますので、一旦ご退出お願いできますでしょうか?」

「そう、目が覚めたのだものね……。仕方ないわ」

 そう言って入ってきたナースと共に舞猫は不服そうに病室を出て行く。

 舞猫が心配そうな顔をして弐祐に振り返る度、弐祐は負傷した身体に鞭打ち、頑張って口角を上げて笑みを作った。

 舞猫の心配が伝わってきて傷の痛みよりも、弐祐はもっと胸が痛くなった。

 舞猫が出て行き、すれ違いざまに入ってくるのは黒いスーツを着た、黒に三日月と小さな丸が描かれた仮面を被った女性。白で埋め尽くされた病室には似つかわしくない格好をしたその人物は、弐祐の予想を裏切りはしなかった。

「さて、俺は一体何から説明して貰えばいいんでしょうね、クロウさん」

「さぁ、私は一体何から話してあげれば良いんでしょうね」

 思わず弐祐は先程まであった怒りを忘れて、クロウの言い振りに瞠若した。

 弐祐自身かなり挑発気味に会話のスタートを切ったが、その反応が意外だった。

 前回話した時と口調が違う事もそうだが何より、俯きながら呟くクロウの声音の中には僅かながら悲憤の感情が見えていたからだ。

 何に対してかは、弐祐には分からなかったが、少なくとも気分良くここに来た訳ではないようだった。

「ここは、私達のチームが密かに管理する一般的に公になっていない病院です。一先ず襲撃に関しては安心してほしい、です」

「そう、か」

 クロウが心配をしていてくれたことに自分のした事が妙に子供っぽく見えて、気恥ずかしくなった弐祐は目を逸らして答える。

「貴方の身体の怪我は酷かったですが、人間の身体に関しては私達もプロフェッショナルですので、細胞を活性化させて再生を早める薬を打たせて貰いました。全治半年程の怪我でしたが、数日で良くなる、と担当医は言っていました」

 しかも彼らは弐祐の身に関して最大限のバックアップをしてくれている。クロウが出てきた瞬間は、なぜ戦闘中に助けてくれなかっただとか、死ぬところだったとか色々抑えきれない感情が溢れ出し、嫌な悪態を吐くところであったが、三甘を助けることが出来た事も含めて当初の弐祐の目的は達成されているのだ。何も問題は無い。

 沈黙の時間が続き、全身猫じゃらしで擽ぐるようなむず痒い感覚に耐え切れなくなった弐祐は先に切り出した。

「じゃぁ……まずは、敵について教えてくれたら、話が進むんじゃないか」

 その弐祐の助け舟に乗るようにしてクロウは提案に賛成する。

「そう、ですね。まずはそこから説明をするのが、筋というものでしょうか」

 クロウは側にあったパイプ椅子を自分のところまで持ってくると、丁寧に自分の体重を預けた。

 動作はまるで熟年夫婦の久しぶりの喧嘩みたいな泥沼の雰囲気だったが、クロウは変わらず音一つ立てない整然とした動きだった。

「実は言うと私達の敵の正体は掴めていません」

「え、は……? な、何だよそれ! あんだけ人間離れした化け物だぞ? こーんな風に触手生やして襲って来たんだ。何も知らないって事は無いだろ」

 弐祐は記憶にある限りのダウントの真似をした。

 触手の説明などした事がないので、右手でひらひら波を描くようにしてなんとなくそれっぽいジェスチャーをするが伝わっているかは微妙だった。

 左腕が使えれば、或いはもう少し分かりやすい動きが出来たかもしれない。

 子供が初めて見た生物を、大雑把に説明するような雑な説明ではあったが、クロウは弐祐の言葉に首肯した。

「たしかに、敵側がどのような力を用いて、攻めて来ているのかは分かります。ですが勢力が分かりません。外国の機関なのか、それとも日本政府の回し者なのか、或いは別の何かか。少なくとも小さな集団でない事は確かです。その触手を生やした男が、証拠です」

 言い切ったクロウの言葉に弐祐は首を傾げて訊いた。

「どういうことだ? あの筋肉触手の……ダウントって言ったか。あいつがいるとどうなんだよ」

「彼のように肉体を変化させる人間を貴方は見た事がありますか?」

 クロウの問いかけに弐祐は言葉を詰まらせた。

 ダウントは確かに常軌を逸した力を有していた。それはまるで映画に出て来る宇宙から攻めて来た地球外生命体プレデターやウイルスで身体を悍ましい姿へと変えた怪物クリーチャーと同義だ。

 そんな人間をおいそれと見かけているなら日本は既にパニックとなっているだろう。

 だがニュースでも放送規制がかかっているのか、そう言った人間の変異体の話は全く聞かない。

 聞くはずもない。これは闇に葬りさられている人間の裏の一面なのだから。

「つまり、こういう技術に関しては意外と研究者の間では珍しくもない話、なのか?」

「厳密に言うと、不老不死の研究ですけれど、つまりはそう言うことです」

 クロウは再び首肯し、黒の革手袋を付けた手のひらで指を一本立てて言った。

「彼らの様に身体をいじくりまわして超人的な力を発揮する人間は二種類確認されています。そのどちらもが、“霊玉”による力です」

「え、てことは敵も“霊玉”を持って……」

「話は最後まで聞きなさい」

「あ、はい」

 クロウに叱咤を受け、弐祐は口を閉じる。

 確認したクロウが話を続けた。

「一つ、“霊玉”による霊的エネルギーの注入によって瀕死の状態から回復した人間達を“超越者レヴァナント”と呼び。

 二つ、“霊玉”の力によって死んだ状態から復活した人間を“真越者レアヴァナント”と呼んでいます。彼らは各々普通の人間に比べて異常な身体能力の高さと身体の再生速度。それに個々が有する特殊な力を持っています」

「特殊な力って言うのは……あれか。触手のことか?」

「はい。貴方が戦った相手はきっとそれが能力なのでしょう。とても、強い能力とは言えませんが、普通の人間相手なら充分脅威ですね」

 確かに、弐祐は火事場の馬鹿力と妹を思った精神エネルギーでなんとかあの場を乗り切ったが、正直なところ触手が目で追えない速度で襲って来ていたあの場面は死んでもおかしくはなかった。

 そう思うと弐祐は自身の不可解な点を思い出す。

 魂が踊りだす様な戦いへの悦楽、憂苦を打ち払う決断力と行動力、そして化け物と渡り合ったあの反応速度。とてもいつもの弐祐自身とは思えなかった。

 あの時の自分は自分自身でいて他の誰かの様で、思い出すだけで弐祐の震えが止まらなかった。

 ──一体あの時の感覚は。

「どうしました? 顔色が悪いですが……?」

 突然、過去の自分の有り様に戦慄した弐祐を、現実に戻したのはクロウの声だった。

 似つかわしくなく身を乗り出して心配するクロウに、手のひらを向けて大丈夫と合図を出した。

 しかし、沸騰する様な焦慮は弐祐の額からとめどなく汗を流し、息を荒くさせていた。

 クロウも勿論、弐祐の異常に気付いてはいたが、配慮をする前に弐祐が口を開く。

「そういえば……“霊玉”を使って復活した奴も、能力を得るって言ってたな……」

 ベッドで泣き疲れて寝てしまった三甘を見ながら、弐祐は言った。

 途切れ途切れの苦しそうな息を吐きながら問い掛ける弐祐に対し、溜飲が下がらずにいたが構わず弐祐は続けた。

「三甘も……化け物みたいな力を持ってるの、か?」

「それは……」

 弐祐の尋問めいた問いかけに、口を噤み顔を背けるクロウ。

 弐祐は怪我の痛みと心の痛みに両ばさみされながらも、真剣な目つきで再度問い質す。

「持ってるんだな? あの、触手男に似た力を……」

 尚クロウは答えない。顔を背けたまま黙ったままだった。

 自分に蘇生した妹を預けておきながら、秘密を隠し通そうとする姿勢に弐祐は憤懣やるかたない気持ちに苛まれ、そして爆発する。

「化け物なのかと聞いてんだよ!!」

 狭い病室で響き渡る怒号。ここが一般の病院であれば即叱咤を食らうだろう大声での叫び。そしてそれは隣で呑気に寝ていた三甘を起こす結果になってしまった。

「……どうしたの……にすけ」

「あんたが答えてくれないなら、直接聞くぜ。俺は」

「な。ちょ、ちょっと待って下さ」

 寝惚け眼を擦る三甘は話の流れを理解はしていなかった。それでも弐祐がいつもと違う雰囲気だということくらいは彼女でも察することが出来た。

「お前は身体のどっかを変化させられるのか?」

「うん! 出来るよ!」

 否定を懇願するような弐祐の問い掛けは真っ向から、それも笑顔で否定される事となった。

 子供の無邪気な笑顔は、なぜかダウントの邪悪な笑みと重なって見え、弐祐は酷く陰鬱な気分になった。

 三甘は欣然と立ち上がり、指を折りながら弐祐に説明する。

「私、の力はほねと歯を色んな形にできるんだよ! 武器とかにもできるし、なにか足りない小物とかあったらちょっと痛いけど身体のなかでつくって出す事だって────」

 弐祐が目が覚めた事が満面の笑みになるほどの喜びだったのだろう、快活と動いていた三甘の口が止まった。

 視線の先、視線を落とし暗鬱とした表情を浮かべている弐祐。一瞬、ほんの一瞬だったが、弐祐が流した化け物でも見るかのような忌避の視線を察知出来ない三甘では無かった。

「あ……あ、わ、わた……わたし」

「ま、マズイ! 落ち着いて、三甘!」

 心が急速に乾いていくのを感じた。

 日常を逸脱した化け物に襲われて、態々蘇生までした自分の妹までもが化け物になっていて、それをどうやって歓迎すべきなのか。

 弐祐にはあまりに荷が重すぎた。

 一歩二歩と後退り狼狽する三甘はそのまま踵を返して病院から飛び出して行ってしまった。

 それを呆然と見つめ、引き止める事もせずに小さな背中を見送る。そんな弐祐に追い掛けて扉に手を掛けたクロウが振り向いていった。

「彼女はまだ幼い子供、十年間も眠っていた三歳児なんです。眠っている間に詰め込み教育で日常を送る面で不便がないような知識しかない赤ん坊同然です! 拒絶されれば戸惑うし、泣く。君は最後の家族なんです。理解しろとは言いませんが、もう少し考えて話してください」

 それはあまりにも身勝手な話に聞こえた。

 弐祐は確かに家族を望んだ。本来誰もが持つ当たり前の幸せを。ぼんやりと朧げにしか覚えていないあの家族の暖かさを求めた。

 だが、妹は突然化け物となって目の前に現れて、弐祐の命が危ぶまれた化け物と同じ力を持つと聞けば、身体の震えが止まらないのも、納得してもらえるはずだ。

 誰かに共感して貰いたい。でもこの感覚を今、この世で味わっているのは弐祐ただ一人だ。

 不可思議な素人が作ったお伽話のような、この筋書きに何の意味があるのか。

 心では妹を抱き締めたくても、見つめたくても、喋りたくても網膜に焼き付いてしまったあの邪悪な化け物は剥がれてくれることはない。

 半身を失いかけた衝撃が忘れるなと囁くようにズキズキ痛む。

 この痛みが引いてもきっと、もう三甘とは向かい合って心から談笑する事は出来ないのだろう。

 彼女が家にやってきた時の、あの数時間の面白おかしいやり取りは再演されることはない。

 ふと涙が頬を伝った。弐祐は驚いて涙の跡を指でなぞった。自分の行動に対する良心の呵責か? いや、違う。直感がある。直接見たわけでもない。聞いたわけでもない。それなのに身体が覚えている事がある。例え妹が化け物になってしまったとしても、自分には兄として助ける義務があるはずだ。

 弐祐は頭の中で既にでていた結論をより強固なものにする為に、外に出て行こうとしていたクロウに問いかけた。

「俺を助けてくれたのは……クロウなのか?」

 既に背を向け外へと出てしまったクロウは振り返る事はない。

 だが、それでも呆れたような閑雅な声音で答えた。

「……言うまでもないでしょう」

 クロウはそのまま廊下を駆けていく。走り去った三甘を追いかける為に。

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試し書き 武藤 笹尾 @mutosasao

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