第8話

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「あら。誰もいないじゃない。どこ言ったのよ愛しの運び屋は」

 舞猫達は弐祐がダウントの注意を引いて走り路地裏へと行った五分過ぎくらいに買い物を済ませて出てきていた。

 あの後結局、店長の勧めと三甘の即決により着せ替えショーは案外すぐに終わってしまったのだ。

 冬物と家用の私服、計五着を購入し舞猫と三甘はそれぞれ大きめの紙袋を持っている。

 服装は三甘がこのままでいいというので本人の意思を尊重し、そのままの服装だった。

 冷え込む風にブルリと舞猫が震えると店長が店からマントのような物を後ろから二人に羽織らせた。

「店長……これは?」

「ケープポンチョよん。店の売れ残りだから、気にせず使って」

「ありがとうございます、店長。とても、あったかいです」

「凄い、かっこいい!」

 丁寧にお辞儀をする舞猫の横では、三甘が腕を広げて飛行機のようにして走り回っている。風邪で浮かんだケープポンチョがマントのようにはためくさまが、話に聞くヒーローのようで三甘のお気に召したようだった。

「にしてもあのぼうや、どこに行ったのかしらねぇ。ここら辺じゃもう開いてる店もないし……」

「そうですよね……トイレ、は店の中だし」

 舞猫は真剣に考える。

 舞猫の知る限り弐祐は何の連絡もせず帰ってしまうような薄情な男ではない。

 何か用事があったとしても必ず連絡をし、自分がいなくなることを伝える人間である。

 そうでなければ恋情を抱く事は無かっただろう。

 不真面目な人間を愛すほど舞猫は男に困っていないのだから。

「ま、考えられるならお金をおろしに行ったとか、あ、そういえばコンビニもあったわね。きっと立ち読みでもしてるのよん」

「コンビニ……。でも遠いですよ。歩いて五分くらいかかります」

 歩けば数分でコンビニが見つかる時代に、霜崎商店街ではコンビニは一軒しかない。

 しかも商店街を出ると住宅街に入り、店は急激になりを潜め、個人店のみ地元の隠れた人気店として商売をしている。

 これだけ寂れた町では娯楽もなく、唯一ある古本屋も弐祐は活字が苦手なので本も読まない。

 立ち読みという線も、その事から考えて無かった。

「何かあったんじゃ……」

 と、舞猫が不安を口にしたところで、ふと違和感に気付く。先程までうるさく騒いでいた三甘が立ち止まって、一方向をジッと見つめているのだ。

 その表情は真剣そのものであり、学校から今までの脳内はピンクのわたあめで出来たような幼い雰囲気がまるでない。

 整然とした立ち姿は、危険を察知した獣のようで、なぜか舞猫は恐ろしく感じた。

「どうしたの? そっちに何かあるの?」

 ア・ラ・モードに顔を向けるようにしてア・ラ・モード奥の何かを見るようにして立つ三甘は、どうにも話が耳に入っていないようだった。

 呆然と、信じられないものでも見るみたいに顔を蒼白させていた。

 青い瞳が急激に絞られ微かに濁る。

 心配した舞猫がゆっくり、恐る恐る眠る狼にでも触れるように手を伸ばした。

 だが、その手が届くことは無い。

「にすけ……?」

 と、その一言を残し、三甘はア・ラ・モードの脇の路地裏へと消えていく。

 訳もわからず虚空を掴んだ行き場のない右腕をしまい込みながら舞猫と、店長はただ三甘の後ろ姿を目で追った。

「って! なぜ貴方までいなくなるの! 問題が増えるばかりじゃない!」

 と、らしくもなく力任せに舞猫が怒鳴ると、

「先帰ってて!」

 と路地裏から返答がなされた。

 舞猫と店長で路地裏を覗いてみれば、そこはあらゆる物というものが破壊し尽くされた跡。鉢植えは割れ土を零し、壁となるコンクリートはボロボロに砕け落ち、室外機は煙を吹いていた。

「うっそ。あの子マッハとか出せちゃう超人なのかしらん。それとも意外とガサツ?」

「いや、さすがにそんなことは無いと思いますけど……」

 そう、そんなはずはないのだ。小柄な少女が路地裏を通っただけでこんな風に荒れるはずはない。

 そして三甘が走り出す前に口にした“にすけ”。長年付き添ってきた舞猫ですらわからない連絡なしの弐祐の動向を、昨日やってきたぽっと出の美少女にだけ理解出来るというのは何とも歯がゆい話だったが、この路地裏の惨状を見て、自分の感情よりも弐祐に何かあったのではという嫌な予感がしていた。

「私も、行くべきね。これは」

 舞猫は決意しスカートをたくし上げ、足場という足場がない路地裏に足を踏みいれようとしたその時、ゴツゴツとした手が強く肩を抑えた。

 相手は勿論店長、顔は考え事をしているのか微妙な顔をしている。

「止めないでください! 私も行かないと、もし弐祐に危険があるのなら、私は……」

「女の子が二人で行ったところでどうするのよ。どうせ喧嘩か何か、もしくは酔っ払いに絡まれたってとこでしょう。ならあんたのやるべき事はなに!」

 ビシッと指を突きつけられた舞猫はその勢いに怯み、尻餅をつく。

 答えが分からず、頭にはてなを浮かべていれば店長が指をメトロノームのように振って、答える。

「確かに困っている男を助けにいくのも良い女かもしれないけどね。男の帰って来る場所を十全に整えておくのも、女の仕事よ?」

「それって……ことは」

「そう! ズバリ、家で温かい食事を作り、寒空で冷えた身体を温めるお風呂を用意して、そして傷ついた心と身体を癒す貴方の身体の準備よ!!」

 ハッと、雷が落ちたような衝撃を受ける舞猫。

 舞猫は今まで弐祐にアタックをし続けていた。本来ならば一つ屋根の下、良い年頃の異性一組が揃っているのに何も起きないというのは非常におかしい話。

 弐祐が義の家族とはいえ、女性二人と生活を送るにはさすがに心の抵抗があるというのは察しの良い舞猫は気付いていた。

 だからこそ、舞猫は身体と身体が触れるくらいスキンシップを多くして、心を許してもらおうと努力していたが、その試みが功を奏すことはなかった。

 しかしながらそれは今まで攻めしかしていなかっただけの話、転じて守りに徹すれば新しい道が拓けるかもしれないと舞猫は悟った。

 熱く固い握手を店長と交わし、舞猫は二つの大きな紙袋を引っさげて家へと帰る。

 その頃弐祐は、公園にいた。


「はぁ……はぁ……はぁ……」

 弐祐の身体はボロボロだった。ブレザーは片袖が吹き飛んで下のワイシャツが姿を見せ、今朝までは真っ白だったワイシャツも今では泥だらけだ。黒のスラックスも穴だらけでもう学校に着ていくことは難しいだろう。

 片腕を抑え、次々と呼吸を命令する肺の言う通りに酸素を取り込むが余りにも足りない。

 未だ致命傷は無いものの、触手の生物を逸脱した不規則な動きは着実に弐祐の体力を奪っていた。

「よく避けるなクソ餓鬼。先祖はゴキブリか?」

「そういうお前はきっと、蛸だな」

「ほざけっ!!」

 覆い被さる漆黒の影に反応して、弐祐は横へと跳躍する。触手が地面をその肉厚で弾き飛ばし、破片が無防備な腹に突き刺さった。

 痛がっている暇はない。体力は限界だが、痛覚は麻痺し始め、集中に集中を重ねた弐祐は全能力が一時的に向上していた。

 直感で反応するのが精一杯だった触手攻撃も今ではなぜかゆっくり見え始めている。

 今なら飛んでいるハエを箸で掴む事さえ出来そうだった。

 だが、どんなに弐祐の回避スキルが上昇したとしても、ダウントはその場に立ったまま触手を動かして攻撃するだけなので、体力はまだまだ余っている。

 触手の動きは戦いが始まってからその動きを全く衰えさせていない。

 だがその圧倒的優位に立つ中で触手達は突然の攻撃中止。それぞれがダウントの元へと戻り、そして今まで個々に攻撃していた触手が互いに巻き付いて一本の太い束へと姿を変えていく。

 触手の攻撃の真価は次の攻撃を読むことが出来ない不規則攻撃である。それにプラス手数の多さというアドバンテージを捨ててまで、触手を一本に束ねる理由が弐祐には分からなかった。

 ダウントは快活に笑い、邪悪な犬歯を見せつけながら言う。

「ハハハッ! これは避けれねぇだろうなぁ……避けさせねぇよ!」

 まるで巨人の腕の様に変化した触手達がその巨体を畝らせて、弐祐を仕留めるべく勢い良く突き進む。

 ご本が寄り集まった巨体でありながら速度は落ちておらず、砲弾にも似た触手はゴォッという音を率いて、進行を邪魔する物を蹴散らし風を食う。

 距離はある。どんなに巨大化したとはいえ、五本の同じ速度の触手を躱していたのだ。

 一本に纏まったならば、避けやすい事この上ない。

 弐祐は触手の腕が迫る中、ギリギリを狙って真横へと跳躍。真横を触手が通過した風圧が身体を更に横へと飛ばすが想定範囲内のはずだった。

「らぁっっ!!」

 骨が砕けた、状況に反して軽い音が鼓膜を震わす。

 まるで像に轢かれたと錯覚する程の衝撃が左半身を襲っていた。

 筋肉の塊となっている触手の攻撃は一撃一撃が重く、先端は槍の様に尖っている為打撃も斬撃も優れた攻撃力を誇っていた。

 それが一本に束ねられたならばどうか。

 肉か鉄かの違いで車に撥ねられたのと相違ない威力を誇る、肉槌の完成だ。

「ぅっ、ぁぁぁっっ!!」

 横から思い切り受け身も取れずに触手で殴られた弐祐は跳ねる身体に抗う事が出来ずに、地面を舐めていた。

 皮膚を針で突き刺す様な擦過傷に加えて、身体を支える骨格の損失。痛みがほとんどないのに、立てないその矛盾が弐祐の恐怖を増していた。

 一本に集まって避けるのが一見容易く思える触手の腕ではあるが、巨大になった所為で攻撃有効範囲が大幅に広がっている。生半可に避けようとすれば、紙一重で避けていた差を埋められて直撃は免れない。

 上空にも況してや左右に避けようとすればすぐにそのまま腕を横に払うだけで充分な威力を誇る武器と化すのだ。

 そこの配慮がなかった弐祐の負けであった。

「やっとだな。待ち遠しかったぜ。なぁ、Brother?」

 触手の束を自身の元まで戻し、肩の目玉と会話を交わすダウント。

 目玉も瞬きをして返事を返していた。

 身体は動かない。燃える様な熱さを内包していた弐祐の身体を冷たい地面が熱を吸う。

 そうして気付く。何も判断ミスなどではない。ただの慢心だった。

 弐祐は今まで活躍という活躍をした事がない。スポーツでバスケットゴールにボールを決めれたことはないし、サッカーのボールがゴールに入る事もない。それは彼が授業の際もアタッカーではなく積極的にボールを貰う事がないディフェンダーにいたのが主な原因ではあるのだが、生きていて初めて積極的に動いた。

 必死に、命をかけて身体を動かした。脳の血管が千切れるのではないかと思うほどに脳を回した。相手は人間ではなく、化け物。

 極度の緊張感の中、次々と垣間見る自身の才能に、多少ながらも弐祐は喜んだ。

 自分に知らない才能があることに喜んだ。

 自分がただの凡人でないことに喜んだ。

 なのに、その事に甘んじて生死を賭けた戦いを、妹を守るはずだった戦いを、心のどこかで楽しんでいた。

 もっともっと見たい。自分の新たな一面を見たい。

 それが弐祐の一番の敗因だった。

「さぁ、遺す言葉があるなら聞いといてやるぜ」

 ダウントは地面に伏す弐祐の前に到着する。足で蹴り飛ばせるくらいの、束ねた触手で殺せる最短の距離に。

 弐祐に遺す言葉などありはしなかった。守る戦いをいつのまにか自身の才覚を楽しむ戦いにすり替えていたクソ野郎の自分には。

 折角、時間を稼げていたのに、化け物相手にただの人間が善戦していたのに、心の油断が敗北を促してしまった。

 地べたに爪を立てて土を抉って力一杯握り締める。悔しさに奥歯が噛み砕けそうだった。

 身体の痛みが消えていき、活性化していた能力の全てが加速度的に消失する。

 自分の生命の灯火が消える様なイメージが脳内で再生されて、涙が止めどなく溢れ出す。

 念願の本物の家族に逢えたのに、神はどれだけ残酷なのか。

 何の恨みがあるのか。七歳の時に家族は全員交通事故で亡くし、仮の家族には心を許せず、最後の家族であった犬のこまちも一昨日自分を置いて旅立ってしまった。

 当たり前の幸せを願う事の何が悪いのか。皆が教室で自慢する親との買い物や家族のピクニックを期待する何がいけないのか。

 舞猫はとてもいい娘だった。

 慈尾奈は人間とは思えない天使の様な人だった。

 それでも彼女達は、他人・・だ。

 血の繋がりを気にするなとよく耳にするけれど、それでも一度血の繋がりを知ってしまった人間に、それはあまりに残酷な悟りの境地だった。

 心のどこかに存在する血の繋がりという安心の道を、持たない黒劔と柱井家。

 ただ心の傷を舐め合う様に寄り添った他人。

 その考えが拭えないわけが、ないのだ。

 そこに現れた、本物の妹。本物の家族。死者蘇生などという禁忌にも思える奇跡を用いて復活した妹。

 それを置いて自分が死ぬ事が悔しくない筈はない。

「折角、会えたのに……」

「チッ。 Puppy voice。しっかり腹から声出せよ」

 命を懸けても守ると誓った。

 それで本望だと弐祐は思っていた。

 しかしそれは間違いだった。

 失くすと感じた瞬間心の奥底から湧き水の様に湧き上がる生への執着。

 それは一途に妹、家族に会いたいという気持ち。

 ただそれだけの願いを見ず知らずの化け物に蹂躙される事実が、恐ろしく理不尽に見えて憎悪に心が満たされる。

「家族に会いたい……だけなんだ!! なんでテメェが、テメェみたいな、バケモンが俺の日常に入ってくるんだよ!! ……帰れよ! 俺の日常を返してくれよ……ただ、一緒に……居たいだけなんだよ……」

 最後の余力を振り絞って寝ている身体を起こし、何度も何度も地面に沈みながら感情を撒き散らす。

 掠れた声は止まらない感情が嗚咽させ、不明瞭な言葉となって紡がれる。

「ショッピングして……、ご飯食べて、学校に行って、くだらない話で盛り上がって……偶に喧嘩して、仲直りする。そんな毎日を俺は送りたいんだよ……。そんな心許せる、どこか演じたような不快感のない毎日を!」

 誰もが当たり前に過ごす毎日を夢見る人間はきっといない。

 それが当たり前だからだ。当たり前の幸せを大切に出来る人間は少ない。知っていた当たり前を失った人間は、その当たり前に恋い焦がれる。

 なまじその記憶が無いだけに、思い出そうと記憶の海でもがく。

「思えば不思議なほどに突っかかりがなかった……。いつもは舞猫と喋る時どこかにある、喉のつっかえみたいな何かはあいつにはなかった。聞かされるまで気付かなかった。俺は……馬鹿なんだ」

 魂が消えていくのを実感する。腕に力が入らない。視界は霞んでダウントの姿も消えたり見えたり分身したりと機能不全を起こしている。

 命の炎はもうすぐ消える。

「だから……助けてくれ。最後に最後だけでいいんだ。会いたいんだ、あいつに……」

 最後の家族に、とその言葉は出なかった。

 声を出そうとした瞬間、力が抜け地面にパタリと弐祐は倒れた。

 もう喋る力すら残ってはいなかった。

 ダウントは終始冷たい目で見下ろしているが邪魔する事はなかった。が、

「聞き届けたぜ、餓鬼。残念だがな、獲物の事情を考慮してたら殺しなんて出来ねぇんだぜ。ま、The endってこたぁな」

 束ねた触手を一本の太い槍の様にしてその首をもたげさせる。後は少し落とすだけで弐祐の命は塵の様に吹き飛ぶことだろう。

「お……おれ……は……」

「じゃあな。結局、本気を出してくれなかった事は残念だが、これもまたダンナの為だ」

 槍が落ちる。夜の闇に紛れて鮮血の花が大きく咲き乱れ、一つの命がまた現世を去っていく。


「……おまえ、何してる」


 怒気を孕んだその言葉が聞こえなければ、未来は変わらなかった。

 触手は弐祐の腹に穴を開ける寸前で止まり、ダウントは驚きに目を見開いた。

 背後から浴びせられる百本の剣を突きつけられた様な殺気に、無理矢理身体の動きを止められたのだ。

「……誰だ」

 振り向くとそこにいたのは、一人の少女だった。茶色の髪を後ろで纏め、赤の三白眼をギラつかせる牙を剥いた少女。

 たかだか女に一瞬でも恐れを抱いてしまった己を心の中で罵倒して、向き合い触手を畝らせる。

 それは威嚇、人間に対して恐怖を抱かせる未知と言う名の威嚇だった。

 そして、

「見ちまったなら仕方がねぇ。ここで城ちゃんには死んでもら────」

 風が通り過ぎる様な感覚の後に、ダウントの五つの触手が虚空に舞っていた。

 ドス黒い血を旋回し撒き散らしながら、地面を跳ねて生き物の様にのたうちまわる。

 その理解しがたい現実を前に、思わずダウントは己が右腕を見る。

 綺麗な切断面、栓が壊れた蛇口の如くぼたぼた血を流し、イソギンチャクの様に残った触手が失くした身体の一部を捜してくねくね動いている。

 今まであった腕の感覚が消えてしまった喪失感に、ダウントは、

「な、なんだこれはァァァッッッ!!?」

 痛みより先に強烈な恐怖が襲っていた。

 身体を震わせる恐怖にバランスを崩し、右腕を抑えながら膝をつく。

 身体の操作で傷はすぐに塞がって血は止まるが、腕を再生するだけの力をダウントは要していない。

 時間差でやってくる痛みに神経が悲鳴をあげて、ダウントの顔を歪める。

 嫌な脂汗が噴き出して、実行犯有力候補である少女へと視線を向けた。

 背後には悠然と立つ少女。小さな背中はぶつかっただけで折れてしまうそうな程儚いのに、なぜか絶壁の崖に錯覚させる。

 その左腕、前腕部の尺骨と橈骨の間から白い刃が突き出しており、刃からは血がポタポタと滴っている。

 刃は鉤爪の様に湾曲しており、命を刈り取るのに適した形だった。

「なにを……したんだ。オマエは、私、の、兄に、なにをしたんダァッ!!」

 振り向いた少女の顔は、憤怒に歪んで人間のそれではなかった。

 獣。復讐を誓った獣の如く殺気を振りまいて、生々しく肉を突き破る音を立てながら、遅れて左の刃は三つへと増える。

 剥き出しになった歯茎は肥大化し飛び出してみるみる顔を覆っていき、まるでドミノマスクの様に顔の上半分を白い歯で隠した。

 それは野生を隠すマスクでありながら、殺気を振りまく狂気の仮面。

 ダウントは直感で察した。

 鼻がいかれてしまって断定は出来ずとも分かる事。

 目の前の少女は同類で、しかも上位の存在だということに。

「グラァァァァァァッッッッ!!」

 地面を踏み砕き、衝撃波で背後の木は吹き飛んで道路に倒れ込む。

 生物を超越した速度は、人間を超えた能力を持つダウントの目をもってしても捉える事は出来ず、気付いた時には胸部に少女の小さな足がめり込んでいた。

 遅れた理解に肋骨がメキメキとへし折られていく嫌な音を聞きながら、ダウントは背後へとぶっ飛んだ。

 公園を囲む外壁を物ともせず砕き壊し、廃ビルへと背中を強打する。肺の空気が全て口から吐き出され、そのままダウントは背を壁に預けた。

 見切れない速度、恐ろしい程のパワー。そして何より身の毛よだつ圧倒的な殺気。弐祐が感じていた生物としての劣等感を、今度はダウントが少女に対して抱いていた。

「Shit……Holy shit! どうなっていやがる……この俺が、“超越者レヴァナント”であるこの俺がぁ……こんな女にぃ……がふ」

 胸には小さな足跡がついて数センチ程凹んでいる。その事実を思い知らせるかのように、やって来た吐血は内臓を何個か破壊された証拠だった。

 なんとしても反撃をしなければならない。ダウントが命じられたのは“霊玉”の回収であって、少女に手も足も出ずに滅多打ちに合うことではないのだから。

 背を預けた廃ビルの壁を使って徐々に立ち、なんとか触手を一本伸ばし戦闘態勢を取るが少女は容赦なく追撃をかける。

 突進して来た少女の三本の刃が胸へと突き刺さり廃ビルの壁に打ち付けた。

「がァッ!?」

 反撃する間も与えられず一方的に、攻撃を許したダウントだったが、壁に打ち付けられただけであり、少女との間は近距離。

 触手を伸ばしてその首を刎ね飛ばせばダウントの勝利だ。

 千載一遇のチャンスにダウントは痛みをこらえて、触手を伸ばすが、少女の方が一手早かった。

「グルァッ!!」

 突き刺した刃を自らの肘鉄で根元から折って、離脱。ダウントの触手は虚空を切り裂いて行き場を失っていた。

「ま、待ちやが……っ、な、なに……!」

 後を追いかけようと地面を蹴ろうとすれば、肉に食い込んで外れない様いつのまにか取り付けられた刃の“返し”がダウントの動きを封じている。

 楔の如く胸に刺さった三本の刃によって、廃ビルの壁に打ち付けられたダウントはなんとか拘束を解こうと、踠いたり刃を折ろうと殴り付けるが、どれほどの硬度なのか折れる気配はなく壁から抜ける気配もない。

 元々血を大量に消費して、奪われてしまった体力だ。本来の力も出なかった。

「くそ……くそ、くそくそくそくそがぁぁぁぁぁぁっっっ!!」

 ダウントは叫ぶ。だが刃の封印は解けることはない。

 もう公園に、人は誰もいなかった。



 弐祐は気付いた時、白い霧の中にいた。

 辺りを見回しても霧だらけ、どちらが前でどちらが後ろか何もわからない空間で、弐祐は足を前に出す。

 足元に出来た白い道が弐祐の行き先を示していた。

 その事を全く疑問に思わず弐祐は着実に進んでいく。

 暫くすると空のみが晴れた。吸い込まれるような闇の中に散りばめられた星達、そして誰かの泣いていた。

 それが誰かは分からなかったがなぜか悲しい気持ちになった。

 止まったはずの胸の鼓動がずきんずきんと痛むのを感じた。

 すると空は再び霧に覆われ白い道のみが弐祐を誘う。

 代わり映えしない景色を見ながら、辿り着いた先はとても大きな川だった。上流と下流も対岸も何も見えない大きく広い川。

 白い道は消えて、足元は闇に染まっていた。

 気付けば横には橋があり、長蛇の列が出来ていた。

 果てしなく長い列。この最後尾に並ばなければいけないと思うと少し億劫だった。

 だが幸運にも一人の男性が笑顔で列を譲ってくれた。

 弐祐は深いお辞儀をして列への参加を図る。

 周りの人は皆笑顔で誰一人嫌がっている様子は無く、とても心地良い気持ちだった。

 不意に風が吹いた。今まで無風だった空間にそよ風程度の風が。

 その風に乗って小さく声が聞こえた気がした。

『➖➖➖➖➖』

 不明瞭。余りにも聞き取りづらい声は、ただの不快な雑音だった。

 思わず足を止めてしまった弐祐は罪悪感に、列の人達に再び精一杯のお辞儀をした。

 すると皆笑顔で返してくれる。

 優しい世界だった。

 一歩踏み出すと、今度は女性が道を阻んだ。

 ほんのり緑に光る女性。

 厄介だと思い避けようとするが、右に行けば右に、左に行けば左に身体を出して女性は弐祐への列の参加を拒んでいた。

 だんだん腹が立ってきた弐祐は強く女性を睨み付ける。

 だが瞬時に丸く見開かれた。

 白い靄によって女性の顔は隠され見る事が出来なかったからだ。

 女性は恐る恐る手を伸ばした。

 悪意と敵意を持って睨みつけた弐祐は殴られると思って目をぎゅっと瞑った。

 しかし、殴るはずの手のひらは弐祐の頭の上へと乗せられる。

 頭を撫でられた弐祐はまたも不思議と思い、唖然とした。

 すると女性の光は強まって、耳元へと顔が近づき、聞こえないはずの声が微かに囁かれた。

『貴方はまだ─────』

 その言葉を最後に、弐祐は足元の闇へと沈んでいった。

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