第7話

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 まるで時でも止まるような感覚を弐祐は得た。

 耳に入った言葉に対して理解が全く追いついていない。

 恐らく、弐祐の聞き間違いでなければ目の前の二メートルを越す大男は、本来、日常を過ごしていれば知るはずのない単語を口にした。

“霊玉”、と。

 それはつい先日まで凡人だった弐祐が足を踏み入れてしまった非日常。生命の冒涜とも取れる死者の蘇生、それを可能にした錬金術師が生み出してしまった超遺産“霊玉”。しかも、“霊玉”の本来知られている名前は“賢者の石”であり“エリクサー”だ。それをドンピシャで“霊玉”と言ってくる人間が三甘の関係者でない筈がない。

 だが弐祐は生命の危機を感じさせる、全身真冬の池に放り捨てられたような圧倒的悪寒、種としての根絶を言い渡されても不思議じゃない殺気に動けずにいた。

 そう、目の前のスキンヘッドは、明らかに敵意を弐祐に向けていた。

「いい表情だ。沈黙以上にその顔が証拠。やった会えたぜ、Destiny? 俺の名はダウントってんだ、よろしくな」

 ダウントの表情は笑っていた。

 握手を促すように手を差し伸べられているが、男を纏う異常な空気に身体は隅から隅まで硬直している。こちらを射殺そうとする赤い瞳から目を離す事が出来ない。

 蛇に睨まれたカエルどころではない。自由がきかない水の中で巨大な鮫に囲われるような、自身が眼前の男には生物として張り合う事が出来ない弱者であると直感させた。

 何が変とかそういう話ではないのだ。何もかもがおかしいのだ。今まで感じたことのない

 生物としての恐怖が弐祐に全力の警告音アラームを鳴らせている。

 男は一見すればただ身体が大きい男というだけなのに、自分とは違う世界の住人だという事に、弐祐は全てを理解する。

「にしてもくっせぇなぁここは。折角“霊玉”の臭い辿ってきたのにこれじゃあ鼻が潰れちまうぜ」

 鉱物にも匂いはあるのだろうかと、密かに疑問に思う弐祐だが、霊界と繋ぐ鍵とまで言われる超物体に常識が通じるとも限らない。

 ア・ラ・モードで焚かれたアロマの匂いに鼻を摘みながら渋い顔を見せるダウント。

 言葉遣いは世間話でもしてるかのように気さくな感じだったが、弐祐は心中恐怖で埋め尽くされていた。

 人生初めて立たされた生命の危険。

 柱井弐祐としての危機。

 今までのほほんと日常を過ごしていた人間が耐えられる心的不可ではなかった。

 今すぐにでも胃の中をぶちまけたくなる嘔吐感。

 気持ちの悪い気分の中、ダウントは耳元で低い声で囁いた。

「今すぐに“霊玉”を出しな。ベタだが、命は助けてやるよ」

 一生涯で受ける事がまず無いだろう脅し。

 初めて受けた脅しは漏らしそうな程、効果があった。

 逃げ出したい。何もかもを捨てて、誇り《プライド》なんで物はいらない。ただ命さえあればそれでいい。

 ああなんて疫病神を引き受けてしまったのだ。弐祐は心底後悔した。あの時の選択を。多少の屈辱くらい黒劔家は我慢してくれる。事情を話せば理解してくれた筈だ。相談の一つもできた筈だ。クロウが根回ししたとはいえ、電話をかけて家に来て欲しいと頼めば、舞猫はすぐに駆けつけてくれただろう。慈尾奈の会社が知りたければ部屋を漁れば何か手がかりくらい出てきたかもしれない。なぜその努力をしなかった。今すぐ過去に戻って自分を殴りたい気分だった。自分は凡人であり、取り柄はなく、才能もない。元より守れるはずは無いのだ。今、言ってしまえば命は助けてくれるというのなら、正直に白状してしまえばそれで────。


『私は、にすけの妹だよっ』


 天使のような笑みであった。

 弐祐の為だけに作られた最高の笑顔。

 それは、十年もの間生命維持装置の中で眠らされて、久し振りにあった兄への選別。嬉しさの象徴。

 覚醒したばかりで脳もよく働いていないはずなのに、妹は、弐祐の妹三甘は一発で弐祐を弐祐と判断し、精一杯の甘えを見せた。

 愛情を感じさせた。抱き締めて、顔を舐めて、キスをして。それが愛でなくなんと呼べばいいのか。今だから分かる。三甘は変態などではなく、ただ久し振りに会えた兄に対して愛を振りまいていたのだ。

 誰の意思かは分からない。妹との記憶もほとんどない。それでも、妹を放って逃げ出す兄が果たしているのだろうか。

 ──いや、いない。

少女こいつに何があっても責任が取れない、だと? 嘘を付け、君は何があってもその娘を守るさ。必ず』

 どこかで聞いた見透かしたような言葉。

 だが実際にその通りであった。

 他人ならば助ける理由なんてない。弐祐は正義のヒーローではないのだから。

 関係なんてなるべく関わりたくなかった。弐祐は強くなんてないのだから。

 可愛いから、ファーストキスを奪われたからなんて理由で救いたくはなかった。弐祐は正しくありたかったから。

 でも、理由はあった。凡人で、何の力もないけれど、今の弐祐には命を懸けてでも少女を守る理由がある!

「分かった……渡すよ」

「物分かりのいいやつは嫌いじゃないぜ?」

 俯いて震えながら弐祐は答える。ダウントはへへっと笑いながら、手のひらを差し出した。

 弐祐は徐に震える手をポケットに入れ、そして、

「ま、嘘だけどな!」

 LEDライトを点灯させた携帯をダウント眼前に突き出した。

 五十ルーメンしかないスマホの光量はかなり近付けても一瞬眩しいとなるくらいしか効果はない。だが夜に目が慣れた今の時間帯、その一瞬が少しでも長くなる今ならば、時間が一秒でも稼げれば何の問題は無く、尚且つ敵が油断している今しか、チャンスはなかった。

「んぁっ。テメェ……!」

 突然の光に思わず腕でガードするダウント。

 その一瞬を使って弐祐はア・ラ・モード横の脇からすぐに路地裏へと入る。

 本当に一瞬だけの目眩しで終わったダウントは後ろ姿を確認し、赤い目をギラギラ光らせて鋭い牙を剥き出しにして笑った。

「追いかけっこか? ハハハ。これでも昔は野山を駆け回ったもんだぜ。退屈しのぎにはなるか」

 ダウントも地を蹴り弐祐を追いかける。

 その様は獲物を追いかける狩人の如き動きと覇気であり、背後から伝わる地面の振動に弐祐は身震いするが、勿論、捕まるつもりは一切無かった。

 背後を振り返る事なく弐祐は全力で路地裏を走る。

 夜の八時を過ぎ、街灯のない道はほとんど足先くらいの距離しか見えない。店内の光で目が慣れてしまったこともあり、闇に目が慣れてくれるのを待つしかない。

 賑わう商店街では無い霜崎商店街の路地裏はすっかり管理がガサツになったゴミだらけの狭い道を縫うようにして走り、道の選択肢が生まれれば迷いなく道を曲がりなるべく背を視界に入れないようにして走った。

 音は少しずつ近付いてくる。決して離れる事はない。きっと自慢の鼻で臭いを辿っているのだろう。

 ア・ラ・モードのアロマで三甘の臭いが消されているのか、三甘に対しては何のアクションも起こさなかった。

 幸か不幸か、今ダウントは弐祐を“霊玉”保持者と勘違いして追っている。三甘に抱きつかれる事が多かった所為か臭いが染み付いてしまったのか、何にせよ弐祐にとっては好都合。

 だが問題は、弐祐が凡人という事だ。

 五十メートル七秒と何とも感想しにくい記録。

 逃げ切る事は不可能と言える。何かしらの小細工でも使わなければいけない。

 そして敵の持つ武器だ。ナイフなのか、格闘戦なのか、それとも銃か。

 銃であれば最悪だ。こう言った仕事をするのであればサプレッサーなどの準備はしているだろうし、音で近隣住民や警察に知らせる事は出来ない。

 そもそも大通りを走ればすぐに追いつかれてしまうので、狭い道を走らなければならない以上、警察に駆け込む事も容易ではない。

 弐祐の使命はただ一つ、命を懸けて三甘からダウントを遠ざける事、それのみだった。

 背後からどんどん迫ってくる破壊音に爆発音。ゴミ箱をなぎ倒し、木の箱を踏み潰し、道を塞ぐ室外機はぶっ壊し、邪魔するもの全てを破壊し突き進む。

 猪突猛進とはこのことか。直感で感じた得体の知れない恐怖は間違いでは無かったと、弐祐は走りながらに安堵した。

 決して安心出来る状態では無かったが、それでも弐祐はこの極限の緊迫状態に慣れ始めていた。

 異常な世界に順応し始めて、いた。


「邪魔だ! 邪魔くせぇ! ハハハ、良いねぇ! 一方的な狩りはただただ気持ちいいなぁ、おい!」

 阻む障害物を根こそぎぶっ壊し快走するダウント。

 彼の前では何もかもが紙に等しく、身体を傷つけようものならその場で回復していく為、機械でもなんでも臆せず突っ走る事が可能だ。

 そしてこれは狩り。ダウントはハンターであり、目の前を走る弐祐はただの獲物である。獅子は兎を狩るのにも全力を尽くすというがダウントは違う。

 ダウントは弐祐に追いつくか追いつかないからくらいの速度で走っていた。

 単純に、全力で走ればすぐに追いついてしまい楽しい鬼ごっこが終わってしまうからだった。

 そもそも全力を出せばそこらの人間の二倍以上の速度を持つダウントは、本気を出す必要はないのだ。

 どうせ、いつか追いつくのだから。

 見えてくる小さな少年の背中。暗闇でもよく見える。簡単に握り潰せそうな小さな背中。

 自然と涎が口内を満たしていく。

 心臓が狂ったように脈打って、殺人衝動を膨らませていく。

 殺す。潰して、へしゃげて血袋から大量に血を撒き散らし、鮮血を啜るのだ。

 ダウントは太い丸太のような腕を伸ばし、弐祐へと伸ばす。

 弐祐はT時の路地を右へと走った。

 もう大股三歩程の距離、曲がって跳躍すれば一瞬で捕獲できる。

 鬼ごっこは終わり────と、ダウントが同じ右に曲がった瞬間、視界が黒に塞がれた。

 手で庇う暇もなく、ダウントは黒によって顔面を強打する。

「ぐぁっ!? なんだ……これは? っ、ぐ、臭ぇっ!?」

 嗅覚を殺しにかかる腐敗した泥の臭いにダウントは堪らず鼻を抑えた。

 なまじ嗅覚の良いダウントには必殺の一撃。


「ここ通ったのは二回めだぜ。気付かなかったのか?」


 ダウントは角に隠れた死角からの弐祐の投擲された壺を食らったのだ。

 商店街の路地裏で長年蓄えられた汚水が溜まった壺。それを見た弐祐はすぐに投げ付けたのだ。壺の淵まで満タンに溜まった汚水は、多少は零さないと投げる事は出来なかったが、火事場の馬鹿力か顔面まで持ち上がるとは思っていなかった弐祐。

 付け足すなら、まさかこれほどの効果が期待出来るとはさすがに予想していなかった為、嬉しい誤算だった。

 顔にへばりついた泥に苦しそうに踠くダウント。だが弐祐は、苦しめるだけで終わるつもりは毛頭無かった。

 路地裏に立てかかっていた鉄パイプを拝借し、大きく振りかぶって脳天に向かって叩きつける。

「ぐっ……ぉっ……」

「くそっ、石頭か」

 スイカを割るくらいの気持ちで振り下ろしたのに、ダウントの禿頭には小さな傷が生まれた程度だった。

 脳天を鉄パイプで殴られたにも関わらず膝をつく程度で済んでいる姿は、人間とは思えない頑丈さだった。

 しかし、このまま殴り続けても効果が期待出来ないのは確かでありすぐにダウントが動く可能性を考え、踵を返し猛ダッシュでその場を離脱。

 嗅覚を封じ、同時に視覚も奪った。更に加えて脳への強力な衝撃は多少の目眩くらいは起こして時間を稼げるだろう。

 大丈夫、相手は人間だ。少し頑丈で力のある人間だ。同じ種である弐祐が必ず負ける道理は無い。

 力無くても頭を使えば何とでもなる。

 妹を救う事が可能なのだと、分かった弐祐はどんどん口角が上がっていく。

 自分に自信がついていく。

 異常な世界に浸透していく。


「Impossible……! ふざけるなよ……俺がっこの俺が……!」

 地面を蹴る音はどんどん遠ざかっていく。だがその姿を捉える事は出来ない。顔に纏わりつく泥が、嗅覚を視覚を封じてしまったからだ。

 何度手で拭えど粘着質な泥はそう簡単には落ちない。

 やっとこさ目の泥から解放されたダウントは路地裏を見渡すが、弐祐の姿は勿論無い。

 足音も大分遠くまで離されていた。

「このダウントが、“超越者レヴァナント”であるこの俺が! 負けるわけねぇだろ、なぁ、そうだよなぁダウント!!」

 身体から弾けて飛び出しそうな憤怒を全面に押し出しながら、赤い目をギラつかせて叫び散らす。声の波は建物を揺らし、辺りの野良猫や鼠を逃走させた。

 コンクリートで舗装された地面を踏み砕いて、跳躍しビルの上へと乗り出す。

 持ち前の身体能力の高さは決して嗅覚だけでは無い。聴覚を研ぎ澄まし、地面を蹴る音付近に向けて赤い目を極限まで絞り弐祐の捜索を開始。

 なんて事はない。弐祐はすぐに見つかった。

 頼りない小さな背を向けて、未だに迷路のような路地裏を走り回っている。

 滑稽だ。少年も同様に“超越者レヴァナント”である筈なのに、なぜこうも逃げに徹しているのか。しかもダンナの話を信じるならば霊玉と適応した“真越者レアヴァナント”という話であり、ならば肉体としてのレベルも能力も数段上の筈なのに、立ち向かってこないのは何故か。肉体の調整がうまく行っていないのか。納得が行く理由など、頭の回転が苦手なダウントには想像する事も出来なかったが、相手が肉弾戦を挑まないならばそれまでだ。楽に“霊玉”を回収させて貰うだけ。

 多少苛つかせる様な妨害はあるが、冷静に行動する。ダウントがダンナによく言われる言葉第一位の言葉であった。

 重量に任せて少し落ちたところでビルの壁を蹴って移動を開始。

 ちまちま地面を走るより上空から攻めた方が弐祐に対して斜めにアプローチをかけれる為、効率的だ。

 夜の街の上空を跳んだ。火照る身体が秋の冷たい空気を触れた側から暖めている。

 最早、怒りに身を任せたダウントを止めれる物は何もない。

 跳んだ先は狙い通りの弐祐の後ろ。

 こういう些細ではあるが、ダウントは身体を扱った微調整はお手の物だった。

 地面へと降りた。振動を足に感じながら、一瞬振り返った少年の絶望の顔を吟味する。

 ──あの豚が冗談を言ったようなアホ面に俺が劣る? 実に

 兎を狩るのに全力は出さないダウントだが、周りを飛び交う羽虫は全力で殺す。

 特に、特殊部隊でも銃を使わなければ傷を与えられなかった身体に傷を与えた事実はダウントにとって重い事実だった。

 相手が自身より強い“真越者レアヴァナント”だとしても、許し難い事実だった。

 だからもう遠慮はない。ダウントは走って逃げる小さい背中に向けて指を指す。

 人差し指は黒く腫れ、ボコボコと血管が浮き上がり爪は槍のように変形し、長さを伸ばしていく。

 研究所で訓練された部隊のリーダーを一撃で仕留め、おまけに盾に変えてしまった触手攻撃。

 その照準を心臓に定め、ダウントは何の遠慮もなく、触手を飛ばした。


 ──おかしい……、身体が燃えるように熱い。

 弐祐は走りながらに身体の違和感に強い不快感を抱いていた。

 彼は部活には所属しておらず、日々の運動は学校の体育の授業だけ。そんな運動不足の身体が走っている間に悲鳴を上げたのだと、最初はそう思っていた。

 だが違う。身体に感じる違和感は今まで感じた事のあるような喉に粘ついた血が溜まった感触や顔が熱くなるような普通のものじゃない。

 身体の隅から隅をマグマで出来た幼虫が這いずり回っているような、不快感。

 喉を掻き毟りたい気持ちを抑えて、足をただ前に出す。

 この感覚の意味は分からない。ただ確かに分かるのは、気分とは裏腹に身体の調子は最高潮だという事だ。

 夜の闇もよく見える。遠くで泣く赤ん坊の声が聞こえる。後ろから迫る泥の臭いがする。そうして今、まるで水の流れに逆らわず流れるような自然さで、弐祐は右に避けた。

 その横を黒い触手が走った。黒い触手は地面を穿ち、直径五センチ程の穴を開けた。コンクリートで出来た硬い地面を。

「な、にぃ!?」

 背後からダウントの驚く声がした。

 当たり前だ。弐祐自身、驚いている。

 まるで意識が身体に誘われるように右に避けた瞬間、死角から猛スピードで触手が飛んできたのだ。

 見えていないのに、まるで見えているような。

 身体ではなく、意識的に存在を感知しているような、不思議な感覚。

 この感覚を、弐祐は一度味わっている。

 ──いや、二度目?

「って、ちょっと待て! 触手ってマジモンの化け物じゃねぇか! まだ銃を持ったヒットマンの方が良心的だぞ!」

 不可避の攻撃を避けた喜びによる気分の高揚か、言わなくてもいいことまで言って相手を挑発する始末。弐祐は好調な身体でまたダウントとの距離を離していた。

 一方で、ダウントは触手攻撃を躱された事に少なからずのショックを覚えていた。

 ダウントの怒りに呼応して触手に変化した人差し指がくねくねと狂乱する。

 血走った目はもう、弐祐以外には視線は行かない。

「That's not funny」

 ダウントは一言、呟くと壁に触手を突き刺し勢いつけて、跳躍していく。

 眠れる化け物クリーチャーは今目覚めた。


 触手を解放したダウントの動きは機敏だった。大した建物数もない路地裏も何度も同じ場所を行き来したりすれば立派な迷路と化していたが、路地を曲がる瞬間落ちるはずの速度も触手が支え遠心力を加え逆に加速していく。

 弐祐もすぐにその事実に気づいた。このまま路地裏を走り続ければ加速していくダウントの動きに捕らえられて命を落とす。先程の触手を避けられたのが相当頭に来ているのか、建物を破壊する音も三割増しにして鼓膜を揺らしている気がした。

 そうして背後に気を取られ、走っている間に弐祐の進む道は一方通行へと切り替わり、行き先には開けた空間が見える。

 弐祐はダウントによって誘導されていた。

「くそっ。これだけやっても数分しか稼げてねぇ」

 先程までは高揚していた気分も今では痛いくらい鼓動を早める心臓に、胸の上から抑えるように手を乗せる。

 相手は触手を出す化け物だ。まだまだ手の内を隠している可能性が高い。弐祐が知り得る兵器に加え、知る事の無い強力な武器。もしくはそれ以外の何か。

 兎も角、一分でも長く一メートルでも遠くダウントを三甘から離さなければならない。

 決意を胸に、弐祐は路地裏から飛び出して辺りを見回す。

 真っ正面に公園。背後の路地裏エリアはもう使うわけには行かない。逃げるとするならば公園を過ぎた先にある住宅街へと入って撹乱するしかないが、それでは一般人に迷惑がかかる可能性がある。

 幸か不幸か今現在、人影は見当たらなかった。

 もし何も知らないサラリーマンが運悪くふらついてやってきて、ダウントがストレス解消に殺してしまわない保証はない。

 こんな状況判断を委ねられる事は一生涯に一度だって無いはずだ。経験のない事は思考しようにも焦りが先んじて脳内を埋める。

 どうする。どうすればいいのか。無い頭を回せ。それしか弐祐には出来ないのだから。

 だが敵は弐祐が妙案を思いつくのを待ってはくれない。

 公園で立ち往生する弐祐の背後からは、殺気という名の剣山が突き刺してくる。

 堪らず弐祐は振り返って身構える。

 ダウントはもう弐祐の目の前まで歩いてきている。

 醜悪な姿は、化け物と呼ぶに相応しい邪悪さを見せていた。弐祐の記憶では人差し指が大蛇の如く膨張し、どこまでも伸長し襲ってくるそれはそれで恐ろしい触手だったが、今ではそれが五本に増えている。右上腕二頭筋の辺りまで避けた肉はそれぞれが自立した生き物の様に蠢いて、狂乱する触手と化している。

 そして二倍程に膨れ上がった右肩には目玉が出現している。ギョロリギョロリと、辺りを見回して、最後に弐祐を見た。

 その目はとても恨めしそうな目であった。

「なぜだ……。答えろ、餓鬼」

「……な、なに?」

 弐祐は驚いた。先程まで感情に任せ怒り狂い追い掛けてきていた男が、まず話し合いを切り出したのだ。

 時間稼ぎを念頭に置いている弐祐にとってこれほど嬉しい展開はなかった。

「この姿を見て、どう思う……? この俺の姿を」

「どうって……そんなの」

「あぁ。言えよ。Don't Refrain。お前の言葉が俺は聞きたいのさ」

 路地裏を木霊させていたダウントの尖り声も今ではただの掠れ声となっていた。変化の影響なのか、膨れ上がった右腕に苦しそうに顔も右半分がピクピク痙攣している。

 見繕っても仕方ないと、弐祐は心を決めた。

「そりゃ、化け物に見えるさ」

「化け物……? 化け物……だと? う、う……頭……頭が」

 ダウントはまだ人の形を残している空いた片手で頭を抑えて、呻吟に身体を揺らし始めた。

 呼応するように目玉も苦しみ始め、視点を一つに定めず忙しなく動いていた。

「You're confusing me.So That's the reason, very well……」

 染み入るように呟くダウント。痛みも引いて来たのか、触手の動きも落ち着きを取り戻しつつあった。

「な、なんて言ってんだよ。全然わからん」

 学校の英語の単位が三の弐祐では、流暢に話される英語を聞き取る事は難しかった。そんな弐祐に構わずダウントは、静かに笑った。

「化け物か。この力を、お前は化け物と呼ぶのだな、餓鬼」

「あぁ、どう見たって普通じゃねぇだろ。そんな姿。それとも何か? お前にはそれ以外の呼び方でもあるのか」

 弐祐の言葉を鼻で笑うダウント。

「話にならねぇ。力に救われ、この力を授かりながらも未だ人間の頃の感覚が消えねぇのか? クハハハッ! 怪物クリーチャー結構! 何が悪い。俺たちはもう既に人を超えたんだ。足掻くなよ、お前も既に人の世界では生きていけねぇ身体になっちまってんだからよ!」

 どうにも話が見えない。霊玉の詳しい説明と三甘の話をしたくらいで、まだまだ精通しているとは言い難い弐祐。彼の言葉もその意味も理解出来る段階には至っていなかった。

 血走った目、唸る触手。ダウントは弐祐が時間を稼ぐのと並行して不調を改善しつつあった。

「わからねぇか? この力の奔流が。体内を流れる力を求める声が。俺には聞こえる。殺せ、殺して奪え。そうやって、俺には聞こえるぜ。お前を、“霊玉”を奪取する為なら俺は喜んで怪物クリーチャーになろうじゃねぇか」

 触手の束と化した右腕を振り上げ、遂にダウントは動き始める。

 覇気を取り戻したダウントは口を大きく開けて、叫ぶ。

「テメェみてぇなの、なんて言うか知ってるか──Pearls on pigってんだぜ、クソ餓鬼ッッッ!!」

 振り上げられた触手が今、振り下ろされた。

 先行して飛び出す一本の触手、追従する四本の触手。

 まっすぐ一直線に胸を穿たんとする触手に対し、弐祐は皮膚すれすれの紙一重で避ける。避けた位置に上空から第二第三の触手が迫り、背後にはツーステップで回避。回避を前提で繰り出される攻撃は第四第五の触手も同様で左右からの挟撃という形で弐祐へと迫るが、弐祐は触手を一瞥し、背後に大きく背面跳び。その背中すれすれ、ブレザーに切れ込みが入る程の紙一重で弐祐は躱す。

 攻撃は全て空振りに終わった。弐祐の超人めいた反射神経がそれを可能にしたのだ。

 動悸が酷い。真っ赤に顔を上気させ、呼吸は犬のように早い。

 呼吸よりも早く脈打つ心臓の鼓動は鼓膜を叩いてうるさかった。

 弐祐自身、自分に何がおきているのか訳が分からなかった。今までスポーツをやっていた経験もなく、今も毎朝数キロのジョギングをするわけでもなく、柔軟をしているわけでもない。

 背面跳びなど授業でもしたことが無いのに、驚くほどスムーズに決まった。

 不可解で頭の中が絡まった毛糸の球のようにこんがらがっていく。

 だが敵はそれを待ってはくれない。触手は追撃を続ける。獲物へと飛びつく蛇のように獰猛に触手は不規則な動きで機敏に弐祐を襲う。

 避けた拍子に勢い余って触手は公園のジャングルジムを、滑り台を、パンダの置物を壊していく。

 地面は抉れ、生えている木は倒れ、綺麗に管理された下生えが頭から削られていく。

 破壊の爪跡は残されていき、まるで巨大熊が暴れたような跡はそこがまさか人間と化け物が戦った後だとは誰も思うまい。

「ハハハッ!! 化け物同士の対決だっ!! 本気出せよ、つまらないだろクソ餓鬼が!!」

 夜の町にダウントの哄笑が響く。

 速度は速く鳩が飛ぶ速度よりも早く、人間がついていくにはギリギリ限界のものだった

 そして特に運動をしておらず筋肉が発達していない弐祐は、確かに何らかの異常で身体能力が底上げされ反射神経も超人レベルとなっていたがそれでも────限界は来る。

 体力の限界が。

「あ」

 思わず弐祐は声を漏らした。

 力の入らなくなった脚は砂利によって滑らせてしまったのだ。

 四方から迫る触手は勢いを止める事はなく、そのまま弐祐へと突き進む。

 命を貫く絶対の矛を弐祐へと向けて。

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