最終話
年が明けても、私は相変わらず男たちに身体を売り続けた。たまに無理やり本番に持ち込まれることも普通にあった。生臭い精液の臭いが、この狭い片隅の空間にしがみついて離れない錯覚を覚える。先の不安をそのまま、男性器を咥える唇に乗せて舌の動きに合わせる。搾り取った精液が、私の見えない復讐のように思えた。
そんな中、あの芙美から連絡が来たのだ。
明日、1月17日午前10:00より、A館大講義室てま修論発表会があります。
お時間があれば是非お越しください。
文面から一斉メールだということが分かった。それでもなぜか、その他大勢に自分が入っていたことに私は何年か振りに自分が「意識されている」ことを実感した。
だから私は恥も何もなく、見知らぬ在来線を乗り継いで大学院の門をくぐってしまった。
修士論文を発表する芙美は華やいで見えた。どうしてこんなに若くて輝いている子が、「女性の貧困」なんてのを学生時代最後の課題にしたのか分からない。私の汚いセックスの話しも随分したし、それよりもっと酷い話しも聞いているかもしれない。それでも、それに晒された彼女は少しも曇っていなかった。
芙美の口調はあくまで滑らかで、堂々としていた。研究者の片鱗を、そこに見たような思いがする。
私は羨ましいと思うのと同じように、嫉妬を感じた。私の汚いセックスや、挫折の人生はそのまま学術用語や論理的な言葉によってばらばらにされていく。人体模型の内臓をばらばらに外して床に捨てるように、芙美は大勢の前で「女性Aの事例」として私を解体していく。みんな滑稽なほど聞き入って、私は段々と白けた気持ちになった。
未来がちゃんと広がっていくと信じて疑わない大学生たちの横顔は、私を恐くさせた。
誰にも、本当は分からない。私だって、信じていた。真面目にやって報われないことがあるなんて、誰も教えてくれなかったから。
芙美の発表はまだ終わらない。
半分は聞き流しながら、私は切り替わっていくスライドを眺める。よく作られたそれは、彼女の取材ノートを思い出させた。向かい合っていて、真面目に見たことはない。それでも、このスライドのように、元になったノートも整然としていたに違いない。
芙美がひと際力を入れて言う。
「……貧困に陥っている女性を、自己責任だと切り捨てることは簡単です。彼女たちを批判することも簡単です。……ですが、そんな彼女たちが存在をしているこの社会というのは不問にされていいのでしょうか。社会的な視点に立って、女性の貧困は考えられるべきではないでしょうか」
私は手元の資料をぱらぱらとめくる。いくら考えたって分からなかった。本当に間違ったのは誰なのか、悪かったのは誰なのか。
それに、芙美のいう社会なんてものは本当に存在するのだろうか。もしかすると、何も存在なんてしないのかもしれない。信じたい人々が女や男や社会というものを産んでいるのかもしれない。私はゾッとして、自分の手を握り締めた。急に目の前が暗くなって、気分が悪くなってきた。
人は食えなきゃ生きていけない。社会も男女関係も、セックスも幸せも不幸も結局その向こう側にあるものなのだ。だから結局この世界には何も存在しないのと、同じではないか。
「問題は貧困を理由に売春をする女性たちではなくて、そのような人達が存在している社会の構造的な問題である」
芙美はそう言いたいようだった。
貧しくても私たちは自由だった。嫌なら体を売らなければいいだけのことだった。他に売れるものは多分あるはずだ。私は嫌になって、身体を売った。私は病んでいるのだろうか。そして、その病みは社会が親玉なのだろうか。
芙美はまだ話し続けている。相変わらず解剖は終わらないようだった。何人かの大学生か、院生かは頷きながら資料にメモを取っている。影絵のように動かない教授たちの表情は分からない。それは未だ見えてこない学問を人型にしたようで不気味だった。
社会学やジェンダーが私を食わせてくれたことはない。
だからそれは遠い所の話で、それで私に向かってくる芙美も同じように遠い存在になっていく。
私は飽きて講義室を出て行った。芙美はこの後私に連絡をくれるだろうか。あえて前の方に座ったから、気のせいか芙美と目が何度かあった気がした。何か期待しなかったのではない。それでも、もうあのネカフェには戻らず、別のネカフェを見つけようと思った。
私は芙美の発表が続く中で、遠慮することもなく立ち上がってそのまま横切って出口まで歩いて行った。誰も咎めるような視線は寄越さない。大講義室は満員だった。それでも、誰も私を遮らず怒らなかった。
私は自分が本当の亡霊になってしまったような気がした。暗い大講義室から出ると、昼間の明るさに当てられた。私は目を細めて歩く。昼と夜がちゃんとあることにそこで何年か振りに気がついた。
社会の構造がどうとか、私には永遠に分からないだろうと思った。私の中には何もない。だから、他人の中にも私はいないままなのだ。それをこの社会の中にある「なにか」が掘り起こしたことは多分、ただの一度もないままだった。
これからも多分、何もないまま私は歳を取っていくだろう。
ポケットの中で、iPhoneが震えている。不思議とその振動に気分が昂ぶる。幸せを自覚する一歩手前、無意識が意識の淵に登って来る5秒前。私はiPhoneに触れる。最新型のそれを持った女が、家を持ってないなんて誰が思うだろう。
梢の間をすり抜ける日光が私にときおり当たる。眩しくて目を細める。足取りはとても軽い。
それはユーフォリア……根拠のない熱狂と、陶酔だ。あの片隅の、ユーフォリア。
iPhoneはまだ震えている。心当たりのある人間の名前がいくつか浮かぶ。
家族ではない、友達ではない。もちろん恋人でもない。
見なくたって分かる。私にはそれしかない。
それはいつだって、今晩の相手だ。
片隅のユーフォリア 三津凛 @mitsurin12
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