第283話 アイダ李子 ブライト診療する

 アイダ李子にとって、往診に出向くというのは、そうそうある経験ではなかった。元来、精神科医というのは、みずからのフィールドに患者を迎え入れることで、優位性を発揮する医療だ。患者の懐に入り込むのは、相応の危険が伴うのは間違いなかった。

 25世紀のこの時代においても、精神を病んだ人間へのアプローチはAIと人間型ドロイドがどんなに発達しても困難を極めていた。内科、外科のほとんどがAIによる医療医師に取って代わられている中、精神科医は生身の人間が必要とされる数少ない医師と言ってもよかった。

 豪華すぎず、それでいて荘麗な雰囲気の中庭を通り抜けると、名家の家にふさわしい立派な造りの両開きのドアが現われた。おもわずノックを躊躇するほど由緒あふれるドアにすこし気圧されて、李子はあたりを見渡した。人工林とはいえ、英国式庭園をモチーフに、現代的アレンジが加えられており、最近のトレンドであるアフリカンテイストが全体の優雅さにスパイシーなアクセントをきかせているように感じられた。

「ブライト司令の趣味?」

 その思わず漏らした途端、正面玄関の扉がゆっくりと内側に開いた。

「アイダ先生、お待ちしてました」

 インターフォン越しにブライトの声が聞こえた。李子が中に足を踏みいれると、待ち構えていた執事ロボットに先導されて、ブライトの部屋にむかった。

 応接室は基地での司令官室同様、センスのよい調度を過不足なく備え、清潔な印象を与えてくれる心地良い環境だった。李子が執事ロボットに促されて、ソファに腰をおろすと、ドアが開いてブライトが入ってきた。

 約三週間ぶりに会うブライトは不精ひげがうっすらと伸びていて、目のまわりの肉が少し落ち窪んだ印象を与えた。

「おひさしぶりです。ブライト司令、いえ、ブライトさん」

「アイダ先生こちらこそ。今回はわざわざお越しいただきありがとう」

 李子はブライトの顔を正面から見つめて言った。

「AI健康管理システムがずいぶん、アラートを鳴らしたんじゃありませんか?。ずいぶんやつれたように見えますよ」

「あぁ、実はいまも網膜にはいくもの『警告』がずっと瞬いている。カロリーが不足してるぞ、デリバリーしてきた薬を飲め、ヒーリング・カプセルを使えってね。まったくAI管理システムがこんなにしつこいのを初めて知ったよ」

「ブライトさん、なぜAIの言うことを無視されるんです?」

「アイダ先生、リンから聞いていると思うが、わたしはリョウマの幻影を通じて、『四解文書』の一節を知ってしまった。それは、わたしにとって、これまでの生き様と、これからの生き方を否定させるのに。余りある残酷な事実だった……。もしかしたら、絶望や狂気をもたらす第三か、第四節だったのかもしれん」

「いえ、タケルくんは、それほど重要な節ではないと言ってました」

「ヤマトが?。どうしてそんなことを?」

 そう問われて、李子はあのときの一件を打ち明けるべきか、一瞬迷った。いくら『元』がついていたとしても、部外者には口外することは禁じられていたし、そのいきさつを知ってブライトの精神状態を悪化させるようなことになれば、目もあてられない。

 李子はどうするか決めかねた。

 隠し事をしている医師に、こころを開く患者などいやしない——。

 だが、同時にあけすけになんでも話すような医師に、自分の秘め事を打ち明ける患者もいない——。

「あ、いえ。タケルくんが、ウルスラ大将に詰め寄られたとき言ったんです」

「ウルスラ大将が?。まさかミサト……、カツライ・ミサト中将も一緒に?」

 李子はわずかばかり嫌悪感を含ませて、吐き出すように言った。

「えぇ。残念ながら……。カツライ司令、ウルスラ総司令という形で着任してきました」

「アイダ先生は、ふたりにあまりいい印象をもたれてないようだね」

「そうですね。まぁ、好意は感じられませんでした」

「そうか……。それでミサトはなんと?」

「カツライ……、ミサトさんは『四解文書』の中身って『人類滅亡』とか『宇宙消滅』じゃないよね、と冗談めかしながら訊いたんです。そしたらタケルくんは大笑いしながら『そんな生やさしいものじゃない』って……」

 李子はばかばかしい冗談に聞こえるように、肩をすくめてみせた。が、たちまちのうちに、李子の胸のうちに後悔の念がせき上げてきた。

 ブライトの顔はゾッとするほど強ばっていた。息を吸い込もうと、パクパクと口を動かしていて、必死で喘いでいる。だがその口の動きの中で、声が漏れ聞こえているのがわかって、はじめてブライトがしゃべっているというのがわかった。

「し・ん・じ・たのか……」


「え?」

 あまりに消え入りそうなことばだったので、李子は思わず聞き返した。その瞬間、李子はふたたび精神科医としてあるまじき行為をしたことに気づいた。専門家なら、ブライトのからだにやさしく手をあてて、諭すように「もうすこし大きな声で言ってください」と言うべきだった。

 喉元に何かイガイガしたものが突きあげてくる。あわてて声色を緩めてごまかす。

「まさか。信じたりしませんよ」

 それが奏功したのかブライトの体がふいに脱力した。

「そうか……」

 それだけ言うと肩を落として、黙り込んでしまった。

 李子はぎゅっと目をつぶって深呼吸をした。


 落ち着きなさい、李子。しくじったわけじゃない——。

 でもなぜこんなにもブライト元司令へのアプローチがうまくいかない——。

 なぜ、ちょっとした反応に、翻弄されている?——。


 もう一度ブライトを見た。生気の弱まった目、表面がひびわれた唇、手入れの行き届かずぼさぼさになった髪——。

 あぁ、そうなのか

 李子は自分がブライトから、核心を打ち明けられることを恐れていることに気づいた。

 昇りつめたつめた地位や、積み重ねた実績や信頼を、一瞬にして放り出してしまえるほどのショックを受けるかもしれないことを……。

 ばかな。

 ここを訪れると決めた時点で腹は括れているはずだ。

「ブライトさん、あなたが知った四解文書の一節、それを私に打ち明けてください。誰かに話すことで心は少し楽になる」

「ありがとう、アイダ先生。だけど、話すことはできないんだ。それを伝えようとしただけで思考にロックがかかるのだ」

「まさか、AIのプライバシー・管理システムの「メモリーロック」の対象になってるって言うんですか?」

「いや、それとはちがう。だが、なにかしらの力がはたらいて、それをほかの人に伝えられないよう制約をかけられているんだ」

 ブライトが突然、ソファの袖木を叩いた。

「だが、私の頭の中からこの一節がはなれようとしない。何度も何度も繰り返し、私をさいなむんだ。いっそ、狂ってくれとさえ願う」

「そんな。タケルくんはたいした重要な一節ではないって……」

「それでもだよ。その程度であっても、私はこんなに悩み苦しんでいる」

「それはあなたが、タケルくんのようなモンスターではなく、普通の人間という証拠ですわ。自分を責めないで下さい」

 ブライトはその慰めのことばに笑みを浮べた。一瞬、李子はほっと胸をなで下ろしそうになったが、それが嘲笑だと気づいて、あわてて表情を引き締めた。


「タケルがモンスターか……。あぁ、そうだな。五年以上もヤツを指揮してきた私が、それを一番よく知っている。今、こうなって、あらためてヤツの化物ぶりがよくわかった」

 そう言うと、ブライトが強ばった顔で、こちらを睨みつけてきた。その表情に李子は総毛立つのを感じた。

 統合失調症シゾフレニア——。

 25世紀になっても、根治することがきわめて難しい精神の病。


 顔の不自然な歪み、強ばりが、ブライトのいびつな精神を表面に映し出しているような気がした。


 緊張型……、それとも妄想型……?。

 いや、それ以外のカテゴライズ不能なものかもしれない……。


 李子は自分のなかに芽生えた恐怖を悟られないよう、笑顔を作ってみせた。

 が、ブライトは狂気をまとわせたまま続けた。



「だが、あの日本支部には、もう一人モンスターがいる……


 そいつはわたしとおなじ一節を熟知していながら、顔色ひとつ変えずにふつうに生きている」

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