第92話 今まで生きてきた中でかけねなしに一番耳触りな音が聞こえてきた
いつのまにか、ベルトをつまみあげた手が震えて、カチャカチャとベルトが音をたてていた。
背後の影が動いた。
なにか金属のようなものにかすかな灯りが反射して、光がひらめいてみえた。
何か鋭利なものがそこにかざされようとしているような……。
その瞬間、アスカは腰に手を回され、自分の体が上へ持ちあげられるのを感じた。それと同時にアスカの体はものすごい力で、前へはじきだされていた。タケルが左腕でアスカの体を抱えて、リニアリフトを動作させていた。
二人は宙に浮いたまま、あっという間に十メートルも前に移動していた。すでにかなたに離れた、先ほどまで居た場所から「ガツン」という鈍い音が聞こえてきた。
「アスカ、ボクの体にしがみついて」
ヤマトが苦しげな表情で言った。リニアベルトをして宙に浮いているが、片手だけでひとりの人間を抱えつづけるのには無理があるのだろう。アスカはすこしだけためらってから、タケルの首に手を回して抱きついた。
「へんなとこ触らないでよ!」
アスカは左手だけでお姫さま抱っこされているのが、すこし恥ずかしかったので、タケルから顔をそむけながら言った。タケルはアスカの体をぐっと力をこめて自分のほうに引き寄せながら、「残念。そんな余裕はないみたい」と言った。
先ほどうしろで聞こえた鈍い音は命の音だと、アスカはわかっていた。
あたしの命が助かった音。
もしタケルが一瞬でも自分を引きあげるのが遅れていたら。
リニアリフトのスピードは先ほどより加速していた。時速まではわからなかったが、人間ではとうてい追いつけないスピードなのは間違いなかった。
そう、人間では……。
アスカは間近で見るタケルの表情が、安堵や余裕とは程遠い切迫感で歪んでいるのを見てとった。これほどの猛スピードで疾走していても、まだ気を緩めてはならない、ということなのだ。
ふいに、うしろのほうでカサカサという音が聞こえた。今まで生きてきた中でかけねなしに一番の耳触りな音。ゾワッと総毛立つ。
「アスカ、うしろに向けて銃を撃てるか?」
ヤマトが右肩にひっかけていた銃を目で指し示しながら訊いた。ヤマトの顔には余裕があるようには見えなかった。
「撃てばいいの?」
「あぁ、頼む、一発でいい」
ヤマトの左腕で支えられているアスカが、彼の右肩に下がっている銃を撃つためには、かなり無理な姿勢をとらねばならないことが、すぐにわかった。
アスカはヤマトの左側から正面へからだをずらすと、ヤマトのからだに両足を絡ませ、ぎゅっと挟み込んで位置を固定した。ヤマトの首にまわしていた手を、片手から両手に変え、真っ正面からべったりと抱きついて、からだを密着させた。
まるでヤマトを正面から抱っこしているようなポーズ。アスカの豊満な胸がちょうどヤマトの顔を埋めるような位置になる。ヤマトは苦しそうにすこし顔を反らした。ヤマトは左腕をアスカのお尻の下にまわすと、アスカのからだをぎゅっとひきあげた。アスカはちょっと恥ずかしかったが、ヤマトの目がすぐに行動に移すよう促しているのに気づいて、ヤマトのからだにむしゃぶりついたまま、彼の背中のうしろに手をまわして、銃をもちあげた。
「あたし、見えない。どこにむけて撃てばいい?」
「どこでもいい。一発撃てばわかる」
言われるまま、アスカは引き鉄をひいた。
パンと乾いた音がして、火花が散った。
数メートル先に四本足の生き物が天井を這いながら、迫っている姿が一瞬、見えた。
「もう一発。狙って!」
アスカはすぐさま、先ほどその生き物が這っていた天井にむかって、もう一発放った。弾丸が命中したのか、散った火花に照らされて、その生き物が床に落ちていくのが見えた。
「あたった。あたったわ、タケル」
「とりあえずは、上出来だ」
「もういい?」
アスカは訊いた。ヤマトに正面から抱きついたままなのが、さすがに恥ずかしくなってきた。ヤマトがこくりとうなずいたので、アスカは先ほどまでのお姫さま抱っこの状態に戻ることにした。
そのまま、ふたりは数十メートルのあいだ、なにもことばを交わさなかった。が、長い一本道が終わり、直角に曲がる通路の角が見えてくると、タケルがいきなり叫んだ。
「草薙大佐。今どこ!」
「なによ。タケル、耳元で大声あげないで」
あまりに唐突な叫び声に驚いたアスカは、つい反射的にタケルに文句を言った。
「今、祭壇を降下中よ」
草薙の返答は事実を伝えるだけの淡白なものだったが、アスカには妙に心強く感じられた。
「大佐、急いで!」
「了解」
アスカは今の会話が、安心して良い話なのか、それとも正念場をむかえようとしているのかさえわからず不安が募った。
「ねぇ、いまの……」
アスカがタケルに尋ねかけたが、それをタケルが遮った。
「アスカ、今から縦穴を昇るルートに入る。絶対にボクの体から手をはなさないで!」
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