phobia philia
迷歩
1 成就
「ね、綺麗だよ」
長く続いていた沈黙は、彼のその言葉でふっと消えた。
きぃ、きぃ、と意味もなく揺らしたブランコ。ぱたぱたと溢れる涙のように途切れ途切れに紡がれた彼の声。
その声に一体どれだけの勇気が必要で。
その声で彼は何を綺麗だというのだろう。
彼の視線の先を追う。一点に留まらずに揺れ続ける彼の視点は、それでも、空の方を向いているということがわかる。
わかる、だけ。わたしには、それだけ。
「本当に空が好きね」
わたしがそういうと、彼の視線はゆるりと下がってくる。そうして、下降しながら、わたしの目が自分の方を向いていることに気づいて、わたしの顔のあたりをくらりと避ける。
それでいて、わたしの方を見る。
「……ごめん」
ぱたり。また、雨粒の落ちるような、言の葉。
「謝らないで、ただ、羨ましいだけ。きっと、綺麗なのは本当。ただ、わたしが悪いだけ」
そうしてまた、沈黙がわたしたちの間を満たしていく。
午前五時半。いつもの、丘の上の公園。その丘のてっぺんに作られた、南北の直線を切り取ったブランコ。二つだけのその席に、わたしは西を、彼は東を向いて座る。毎朝。晴れの日も、雨の日も。
わたしが見るのは月の残る夜の空。彼が見るのは明けの明星眩い朝の空。
夜が明けてしまうと、わたしと彼はそれぞれの方向に帰っていく。
それだけ。それだけの、関係。
それだけの、わたしと彼。
「わたしに、嫌いなものが、どうしても忌み避けるものがあるように、あなたにだって嫌いなものがあるでしょう」
沈黙が朝に届いてしまわないように、わたしはもう一度言葉を紡いだ。彼の方を向いて。
彼はきっとまだ、気づいていない。わたしの変化に。見ないことが当たり前になりすぎて、気づけない。
それがわたしに、質の悪い罠を仕掛けた時のように、小さな高揚感をもたらしている、ということにも。
わたしは悪い子だろうか。
「そう、だね」
だってほら、やっぱり。
相変わらずあなたの視線は、わたしを避けるのでしょう?
ゆるりと向くと、同じタイミングでゆるりと逃げる。
磁石の同じ極のように、決して対することのないーー
朝凪が、わたしにとってそれの合図だった。
束の間の完全な世界の沈黙。それを、
消し飛ばせ。
「でも、もういいの。気にしなくて」
不意にわたしが立ち上がったことに、彼は驚いたようだった。視線が顔のぎりぎり下、首元まで上がってきたのがわかる。なかなかやるじゃないか。
「もう、帰るの?」
ぱたり。あぁ、わたしはこの雨粒の声を、あと何度聞くことができるのだろう。
不安を孕んだ声は、心地が良い。また明日も来なければならないと思える。毎日同じことを同じ時間にするのが彼の安定剤なのだ。きっと。早すぎる終わりに彼は焦燥している。
ただわたしが立ち上がったというだけで。
もう一度、彼の隣に腰掛ける。ただ、さっきとは真逆の方向を向いて。つまり、彼と同じ方を向いて。
彼が、息を飲んだのが、ありありとわかった。
「君、嘘、ついてたの? それとも、無理、してるの?」
あぁ、この人は、どこまでもーー
微笑んで、用意してきた言葉をそのまま放つ。緊張は表に出さずに。できるだろうか。
「嘘なんてついていないし、無理もしてない。
単に、見えてないだけ」
あ
彼が、初めて、
わたしを見た。
あぁ。なんてーー
きっと彼の視線の先では、右目に収まったガラスの眼が、朝焼けの色を反射していることだろう。
わたしには見ることのできない、その色。
あぁ、なんて君の視線は、無垢で、まっすぐで、残酷なのだろう。
その視線の向けられたものが美しいものだ。その視線の先にあるものが、見るべき価値のあるものだ。その視線は、他の視線を受け入れず、ただ、美しいものを見るためだけにある。美しくないものは、彼の視線に穿たれることはない。
だから。
わたしはその、君の目が、欲しかった。美しいものを見る、君の目が、見たかった。
美しいものが羨ましくて、視線があることに絶望して、毎朝リスクの伴う出会いをしても手に入れることのできない、君の目。欲しかった、欲しくてたまらなかった。
どうしても。
それが、ようやく、今。
わたしは、前髪で隠した左目で、そっと笑った。
phobia philia 迷歩 @meiho_623
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